エレインの休日 2/4

 エレインは、湖底になど居なかった。暗い水中で、自分にまとわりつく者と戦っていた。

 発光する苔に照らされて暗く光る眼を向け、われ先にエレインを水底に引き込もうと手をのばして来るのは、本来ここに棲むはずのない北国の水魔ヴォジャノーイだ。彼らがなぜこの湖にいるのかわからないが、蛙のような顔で群れを成して近づくさまは、吐き気がしそうだった。


 満月に力が満ち、新月に魔力が消えるのはエレインもヴォジャノーイも同じこと。おとなしく湖底で月が満ちてくるまで待っていれば良いものを、新たなにえを得ることで魔力を手に入れようとしているに違いない。

(馬鹿にされたものね!)

 エレインは胴着の肩に隠した短いナイフを取り出し、確実に水魔の急所を狙って反撃した。

 魔力が消えていようがいまいが、竜人として生まれたからには守るべき誇りがある。簡単に餌食になるわけにはいかない。

 だがとうに息は続かなくなっている。

 もうじき力は尽き、肺の中に水が浸入してくるのだろう。


 覚悟を決めかけた時、ふいに大きな水玉が近づいて、エレインの頭をすっぽりと包んだ。思わず息を吐いて呼吸を取り戻す。水玉の中は十分に空気があるようだ。何が起こったかと辺りを見回すエレインを再び水魔の群れが囲み、今度は群れごと大きな流れとなって湖底に向かい始めた。

「ちょっ、あんたたち!」

 抗う暇もあるものか、水魔たちはエレインを担ぐと、祭りのフロートでも運ぶように、なにやらはしゃいで歌い始めた。

 

 ……来たれ来たれ 竜の娘よ

   我が水底の城にいざなおうぞ 

   今宵は新月 今宵は祭り 

   ホイアホイア 今宵は宴 


「下手くそー!」

 歌声をけなすエレインの声が聞こえたかどうか、ヴォジャノーイの群れは湖の底まで到着したところで四方に散った。

 薄ら白い動物の骨が無数に沈んでいる。この湖に落ちて自然死したか水魔に引き込まれたのかは知らないが、それらの骨の穴にに水魔どもは巣食っているようだ。エレインの正面には巨大な頭蓋骨のような屋根が見える。水底の城と彼らが歌っていたのはこれか。


『ややややこれはまた可愛らしのをををを』

 城の中から妙に反響する声が伝わってきた。

 見ると、今までの水魔よりひときわ大きな蛙顔のやつが屋根の下から顔を覗かせている。

「あんた誰、水魔こいつらの親玉かなにか?」

 水玉の中では声が篭ってしまい、相手に聞こえているのかわからない。エレインは腕組みをして蛙顔を見上げた。


『なるほど紅き髪ぢぁ。善き嫁御ぢゃのをををを』

 大きな水魔は蛙に似た口元をにへらと緩めて言う。

 の意味がわからず眉をしかめるエレインの周りで、水魔の群れが騒ぎ始めた。嫁ぢゃ嫁ぢゃ!とはしゃぐ奴らと、さっさと肉喰わせろ肉!とわめく奴らとが入り乱れている。

「はーん、なんだか知らないけど。あたしって歓迎されてるみたいね」

 エレインは目だけ動かして相手との距離を測った。編み上げサンダルの底でさりげなく足元を探ってみる。やはりこの「城」は大型の動物の骨をそのまま使っているようだ。ならば足元のこれは。


『今宵は新月ぢゃによってえええお前をわれの嫁に選ぶと言うておるのぢぁ』

 蛙顔の平たい口がくわっと開いた。

 やなこった、と呟くと、エレインはいきなり水底の泥を深く蹴り、姿を現した骨を掴んでそのまま力任せに引っこ抜いた。水中に泥や堆積物が舞い上がり、巨大な鎖のように連なった骨格が姿を現す。思った通り、これは動物の尾の骨だ。

「せえの!」

 渾身の力でぶん回すと、骨はそのまま蛙顔の首領が座る城まで届いた。見る間に白い屋根が崩壊していく。

「嫁ってなに?こうやって勝手にさらう相手のこと?あたし竜人だからわっかんなーい!」

 水魔がどういう術で造り出したものか、水玉の割れる心配はないようだ。呼吸ができるのをいいことに、エレインは存分に暴れまくった。


 水魔たちの城は今やもうもうと舞い上がった泥と砕けた骨でぐしゃぐしゃだ。

 濁った泥水の中を逃げ惑うヴォジャノーイどもからなにやら非難がましい声も聞こえたが、知ったこっちゃない。エレインは近づく者を片っ端から蹴り、水の抵抗をものともせず大きな蛙顔(おそらく彼らの首領だ)に近づくと、喉元にナイフ突きつけた。

「竜人をさらうとはいい度胸だわ。ヴォジャノーイ、あんたらの肉は不味そうね!」

『この恩知らずがっがっがっ呼吸いきができるよう水玉をくれてやったのにおにおごもも』

 蛙顔の首領が意味不明の言葉を発していたが、エレインは最後まで言わせなかった。

 容赦なく掻っ捌かれた蛙顔の上半分が水藻の姿になるのと、水玉が弾けてエレインの呼吸ができなくなるのがほぼ同時だった。が、それはそれで竜人の闘争心に火をつけるに充分だ。


 散り散りだったヴォジャノーイどもが再び襲いかかってくる。

(はいはい上等!)

 エレインは犬歯を口元に覗かせて笑ってさえみせた。


 ――水の中で呼吸ができないからといって、竜人が絶望するなどと思うな。

 肺が、潰れそうだ。けれどまだ手足が動く。諦めはしない。

 もう何匹の水魔を水藻にしたかしれないのに、際限なく沸く泡のようなこいつら! けれど絶望はしない。

 もうすぐ最期の苦しみが襲ってくるだろう、それも良し。次に目覚めるのが地獄なら、それも良し。闘いこそが竜人フィスス族の本領!――

 エレインは小さなナイフひとつで、舞うように水魔を切り裂いていった。


 遠のく意識の中で、オーリの声を聞いた気がする。

 エレインは緑の両眼をかっと見開いた。

 突然、水魔ヴォジャノーイの群れが何かに驚いたように散り始めた。眩しい光の帯が、エレインに向かって伸びてくる。

(ばぁか、遅いよ……)

 光の帯の中を近づく人影に笑みを向けて、エレインは両腕を伸ばした。



 水上に上がるまでの時間は、長かったのか。短かったのか。


 さっきからオーリの声が呼んでいる気がする。うるさいなあ、と思いながらも意識がはっきりしてくると、笛のような音を立ててエレインは呼吸を取り戻した。

「エレイン、良かった!」

 目を開けるなり抱きすくめられて、舟が不安定に揺れる中、エレインは混乱した頭で考えた。

 ――ええと、ここはどこだ。なんでオーリまで全身濡れネズミなんだろ。

 たしか、誰かが口を塞いで潰れかけた肺に空気を送ってくれた気がするんだけど。

 顔もぺちぺち叩かれた気がするんだけど。


「……水の中じゃスパークの魔法は使えないんじゃなかった?」

「スパークどころか、僕じたい水の中は得意じゃないんだ、実を言えば。でも間に合ってよかった」

 オーリは笑っているが、震えが伝わってくる。それでも助けに来てくれたのか、と思うとおかしいような安心したような思いが湧いてきて、エレインは大きな濡れ鼠の背中に腕を回し、ポンポンと叩いた。

「もう、ばっかだねえ。この魔法使いは」


 突然、湖の対岸から金属を引きずるような笑い声が響いた。

 オーリの魔法によって湖岸の岩に縛められている、最初のヴォジャノーイだ。

「やれやれ、にえにさえならぬとは役立たずな娘。人に非ず竜に非ず、まっこと滅びの一族に相応しい」

 日暮れの湖に冷たい風が吹き、水面が細かく波立った。ヴォジャノーイの耳障りな声は続く。

「そもそもお前のどこに竜の名残がある。人と変わらぬその醜い姿で竜人を名乗るとは。おこがましやの、フィスス族」


 エレインの赤い髪が逆立った。緑色の瞳に炎を宿し、岩の上でまだ青い炎に縛り付けられている水魔を睨む。

「許さない……あんたは許さない!」

 水の上を走ってでも飛び掛っていきそうなエレインの剣幕に、オーリは危険を感じ、急いで水魔を縛り付けた岩とは反対側の岸に舟を着けた。

「よせエレイン、構うな。それより君の回復が先だ」

 けれど岩の上からあざけり笑う声を聞くと、エレインはオーリの腕を振り払った。

「ヴォジャノーイ……恥を知れ!」

 エレインの口元が動く。オーリは凍りついた。

 禁じられているはずの、竜人呪詛の言葉だ。

「やめろ、それだけは」

 慌ててエレインの口を押さえたが、遅かった。


 瞬間、空気が震える。耳を圧迫するような音の波を感じ、オーリは咄嗟にエレインを胸に庇った。対岸に、木が裂ける音と金属音のような悲鳴が響く。

 オーリが振り向いた時、水魔ヴォジャノーイは岩と共に砕け、そこかしこに焼けた藻類のような無残な残骸が飛び散っていた。

(やっちまった……)

 オーリは愕然とした。 


 *ヴォジャノーイは変幻自在に姿を変えるものだ。蛙顔の人型、長い髭の老人、あるいは老婆。切り裂かれると一度水藻に戻り、時間を置くと再び自在な姿で復活する。どこまでが生でどこまでが死なのか、境界があいまいな水魔だ。 

 それゆえ、オーリは彼を懲らしめはしたが殺すつもりはなかった。エレインを助け出したら、元居た沼地へ追い返すつもりだったのだ。

 だが、竜人の呪詛を受けたとなると話は違う。あの焼けた藻のような残骸からは、もう二度と水魔の姿は復活しないだろう。

 ヴォジャノーイは、エレインを見くびりすぎた。一度竜人の闘争本能に火が着いてしまったら、新月だろうが魔力を失おうが関係ない。自らの誇りを護るためには禁忌を犯してでも闘う、竜人フィスス族とはそういうものだ。


「エレイン?」

 突然、力尽きたように膝をついたのを見て、オーリはハッとした。腕や脚の紋様が消えかかっている。

「なんてこった、呪詛の反動だ!」

 フィスス族の古老から聞いた話が、オーリの頭をかすめる。己の力のみで戦うことを良しとする竜人にとって、異界の力を頼む“呪詛”など、最も忌むべき行為のはずだ。禁忌を犯す者は、必ず大きな代償を払わねばならない。それは人間も竜人も同じだ。

「エレイン! エレイン!」

 肩を揺すっても、エレインは半眼のままだ。身体が軽くなり始めている。得体の知れない何かに、魂を吸い取られようとしているのだ。

 これでは何のために命を繋いだのか。もはや回復の魔法など何の役にも立たない。


 ふいにあたりが暗くなってきた。

 オーリは空を見上げた。鈍色の雷雲が、天を這う生き物のように広がり始めている。ついさっきまで、あんなに夕陽が照り輝いていたのに。

「竜……雷を司る竜の母」

 腕にエレインを庇いながらオーリは叫んだ。

「罪はわかっている、まだ連れて行くな!」

 稲光が、脅すように空を走る。

 オーリはローブにしっかりとエレインを包んで閃光と共に飛び立った。




(作者注 *ロシアや東欧のモンスター「ヴォジャノーイ」については諸説ありますが、切り裂かれたら水藻にうんぬんというのは作者の勝手な創作設定です)



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