第5話「、あなたのために雨は降る」
大仰な建物を出て、入り口の横にあったベンチに座る。
近くに灰皿を見つけたから多分、喫煙所だ。こういうときに煙草が吸えれば少しは格好が付くのかも知れないけど、あいにく今の今まで縁が無かった。
そういえば。人に言うと意外に思うかも知れないが、サチには煙草を吸っていた時期がある。彼女はそもそも、初対面の時から体育館の裏で煙草を咥えていたし。付き合い始めてからも何度か、童顔の彼女の代わりにタバコ屋さんへ買いに行ったこともあった。不良少女にしては態度にトゲが足りない気がするけれど。
愛煙家に片足を突っ込んでいるくらいの消費量だったサチの煙草の本数は、一緒に暮らし始めてからぱたりとゼロになった。部屋に匂いが付くのが嫌だから、と本人は笑っていたけれど。
煙草を吸わない僕に気を使ったのかな、などと詮索するのは野暮か、そうじゃなければ自意識過剰かな。どちらにせよ、世間が言うには煙草をやめるのは大変なことらしいので、サチにとっては大事なことだったに違いない。
灰皿を眺めるにも飽きて、外の様子に目を向ける。
天気予報を無視して降った雨に濡れて、真夜中のアスファルトが照明をきらきらと反射している。
久々に帰ってきた故郷ではあるけど、この辺りには来たことがないので大して懐かしさはなかった。高校を卒業してすぐに出た町だし、この辺りにあるものと言えばこの葬儀場くらいだ。学生には用事が無い。
雨で温くなった空気で肺を満たす。僕達の住んでる町に比べて、濡れた草木の匂いが薄い。その代わりか、土の地面が少ないせいで雨の音が大きく感じた。
そこに、入り口の扉が開く音が混じる。
見なくても兄貴だと分かったのは、いつもの咳払いが聞こえたからだ。
「彼女の傍に居なくてもいいのか」
「……サチは、泣いてるとこを見られるの嫌いなんだ。特に僕には」
「そうか」
兄貴は視界に入ってくることもないまま、音からして煙草に火を点けたらしい。どっか行けよ、と素直に言うのも嫌だが、ここですぐに立ち去るのも露骨に避けるみたいでなんとなく嫌だ。
結果として兄貴を視界に入れないままその場に留まるということで自分の中の決着とした。つまり動かないだけなのだが、過程が違えば同じ結果でも見え方が違う。
「来てくれて助かった」
「……別に何もしてないよ」
「紗智さんが睦月達の面倒を見ていてくれて助かった、と恵美が言っていたんだ」
やたらと早口で継いだ言葉は、暗にお前への感謝じゃないぞと言っているらしい。そして恐らくだが、奥さんに「お礼を言っておいてね」とか言われて仕方なく来たのだろう。
「なら本人に言ってくれば」
「もう言った」
じゃあもうそれでいいじゃないか、と僕が言う前に。
「施設で暮らしてたんで、小さい子のお世話は慣れてます。と、言われた」
兄貴はそう言って、大きく息を吐き出す。視界の端を白い煙が漂った。
「面食らったからな。もし変な顔をしてしまっていたら失礼だ。怒っていたら申し訳なかったと伝えてくれ」
「……それこそ慣れてると思うけどね。反応とか、偏見とか」
「だとしてもだ。お前は、もう少しそういうものの機微に気を配れ」
「いや分かってるよ。今のは兄貴へのフォローだから」
「……そうか。ならいい」
一瞬息を巻きそうになった兄貴が、気を静めていくのが分かる。
昔から、喧嘩になると先に激昂するのは兄貴の方だった。原因がどっちにあっても必ず兄貴が怒鳴り始めて、僕がだんまりを決め込む。兄貴は言い過ぎるし、僕は言うべきことを言わないから、二人だけではいつまで経っても終わらないのが僕達の喧嘩だった。つまり、過去形だ。
……大人になったのかな、お互いに。こんな日だから、なんて意味も含めて。
「でも、そうだな。慣れると言えば、慣れるか。俺達もそうだったかも知れない」
もう一度大きな煙の塊を吐いて、兄貴が何かを思い出したように言う。
「無駄に戸籍を騒がせる人だったからな、母さんは。名字が変わる度に野次馬根性で騒がれれば慣れもする」
「兄貴は言われた先からキレてたよ」
「……昔の話だ」
気まずそうな兄貴を笑いながら、昔のことを少し、思い出した。
サチと出会った時の僕は村上だった。その前は霧島で、今は相良。どの名前も十年と経たずに付き合いが終わったので馴染みも愛着も無いけれど、どの名前もそれなりに呼んでくれる人が居たのは、良いことだったな、なんてたまに思う。
呼ばれない名前に意味は無いけれど、呼ばれる名前を持っているのは間違いなく幸せなことだ。
「サチは今でもたまに村上くんって言うよ。本人が気付いてるかは分かんないけど」
「恵美には、村上恵美の方が語呂が良いのにとクレームを入れられたな。韻を踏んでいるとかなんとか」
あっはっは、とお互いの惚気話のような何かを乾いた声で笑う。
一緒に遊んだような思い出も無いけど、兄弟の仲は悪くない。ただ、距離を置いた方が上手くいくことを理解していただけなのだ。
例えば、昔から女性の好みが似通っていたりするものだから。
「ここに来る前に、サチに母さんのことを訊かれたんだ。どんな人だったの、って」
サチがどういう意味と意図でそれを訊ねたのかは判らないけれど。
「なんか、上手く答えられなかった。どんな人だったんだろうね、母さんって」
「……そうだな」
ぎし、とベンチが歪む。兄貴が腰かけたらしい。
そしてもう一度、煙草に火を点ける音がした。
「母さんは最期までお前に病気の事を黙るようにと言っていた。お前が、俺達の父親に似ているからだそうだ。弱っていくところを見られたくなかったんだろう」
「……」
それだけか。
うむ。
まぁ、それだけだよな。
「虚勢ばかりのくせに一人で立てず、男と男の間をふらふらと渡り歩いていた人だ。俺達にだって素顔を晒した事はないのかも知れないな」
「一応だけど、亡くなった人を悪く言うのは良くないらしいよ」
「構わん。生きてた頃から思っていた事だ」
理屈っぽい兄貴から出てきた謎の理論につい頬が緩む。
「……構わず俺が連絡していれば、お前もせめて看取るかどうかを選ぶくらいは出来ただろうな。今でも少し、後悔している」
「僕もだよ」
兄貴の珍しい姿を見たせいか、それがなんだか面白かったからか。
つい、白状してしまいたいことが出来た。
「母さんが死んだって聞いた十日くらい前に、義父さんから電話が来たんだ。母さんが入院したって、まぁ、それだけだけど」
血の繋がりも無ければ一緒に暮らしたこともない人からの、初めての電話だった。そんなことすら今更に気付いたのだから、僕もなかなかに冷血だ。
「命に関わるなんて話は一言も無かったけど、あそこでもう少し気にしておけばよかったかな、とは、思ってる」
それを聞かされていたところで会いに来ていたかどうかは判らないけれど。なんて、言わなくても兄貴には伝わっていた。
「……そうか」
その証拠に、次いで吐き出した煙にはいくらかの安堵が混じっていたから。
「修一」
ぎし、とベンチが鳴る。兄貴が立ち上がったようだ。
「今度、家に遊びに来い」
「……え、何しに?」
「睦月は判らないが、楓も桜も紗智さんに懐いていた。恵美も喜ぶだろう」
「あぁ、そういう……まぁ、うん。バイトの休みが合えば、考えとく」
「ははっ……来る気が無いならそう言え」
珍しく愉快そうに笑ったので、ついつい、そこで兄貴の方を向いてしまった。
僕の兄貴は赤みの残る鼻と目を隠すこともごまかすこともなく、真っ直ぐにこっちを見ていた。
「まぁ、お前とも、たまにはな」
酷い顔だ。多分きっと、お互いに。
「お茶くらいなら付き合うよ。酒が入るとこじれそうだから」
「……そうだな」
体を冷やすなよ、と言いながら煙草を灰皿で揉み消して、兄貴は中へと戻っていった。
……静かになった喫煙所にかすかに残る煙たさを、ようやく平手で振り払う。昔から煙は苦手だ。それでも傍に居る人達が大抵喫煙者なものだから、平気なフリをするのも慣れてしまった。
白んでいた空気が晴れて、騒がしい言葉の交差が途絶えて、再び夜と雨が場を満たしていく。
春の雨で洗われた空気は確かに冷えている。
通夜はまだまだ長いのだから、僕ももう少ししたら中に入ろう。
だからもう少しだけ、ここに居よう。
「寒いなぁ」
こんなときなのに。
こういうときこそ、なのに。
僕は煙草が吸えないから。
気を紛らわす術も無いまま、泣くこともなく、悲しむことしか出来ない。
母との仲は悪くなかった。
ただ、昔から常々、お互いに。
「……本当、タイミングが悪いんだよな」
挨拶もせずにいってしまうなんて、何処まで行っても間が悪い。
あなたの義理の娘になる人は、あなたのために涙を流せる人なのに。
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