第4話「、今日もあなたを見つける刹那」
片時も忘れた事はない、なんて台詞はいくらなんでも大袈裟で。
思い出すだけで涙が出る、なんて話は笑ってしまうほど嘘臭くて。
一日でも思わなかった日はない、なんて言葉はいっそ宗教じみて。
月の終わりに捲ったカレンダーに命日を見つけた時、そういえば、妻が亡くなってから何年経ったかすら数えていないことに気付くのだった。
商店街のアーケードで長いこと商いを営んでいるものの、他の店の人間との交流はほとんどなかった。
商店街の仲間、と言われても正直ピンと来ない。地域ぐるみの絆や結び付きは、いわゆる過去の遺物というやつなのかも知れない。
かく言う私も、ついさっき用事の帰りになんとなく立ち寄った精肉店でオマケしてもらうまでは、他人との交流なんて気にも留めていなかった。
「奥さんにはヒイキにしてもらってましたから。これ、いつものです」
肉屋の旦那はそう言って、買い物袋に頼んでいないコロッケを入れてくれた。
妻がその店を利用していたことなど知らなかったので少々面食らったが、それはどうも、と笑って誤魔化しておいた。愛想笑いなんて何年もしていなかったものだから、頬が少しぎこちなくなる。
店を離れた後も何度か振り返って、やたらとジロジロ観察してしまう。看板も三回ほど読み返してみたものの、妻から店の名前を聞いた覚えはなかった。ついでに、夕飯に肉屋のコロッケが出た記憶も無いのだが。
釈然としないまま商店街をほとんど反対側まで歩いて自分の店まで帰ってくる。
ひだり書店。緑の日差しに白い文字でそう書かれた、町の小さな本屋さんである。私一代の看板ではあるが三十路で開業したので、もうすぐ四十周年だ。店を始める前は妻の名前を借りて「まさき書店」にしようと思っていたのだが、本人の強い反対意見が出たので渋々ながら自分の名字を割り当てた。今思えば、これで正解だったのかも知れない。一応、せっかく妻が貰ってくれた名前でもあるわけだし。
そんな我がひだり書店の二代目看板娘ことバイト店員の鹿島さんが店先を箒で掃いていた。頼んだ覚えはないので、おそらくは恐ろしいほど暇だったのだろう。
初出勤日にレジ台で居眠りしていた前歴を持つ鹿島さんだ。仮にも仕事熱心とは言い難い。しかし言えば大抵のことはやってくれるので悪い子ではないし、そもそも熱心にこなすような仕事はうちにはない。
バイトを雇ったのは力仕事が体に堪えるのと、たまにこうして出かける時に店番が居た方が楽だと思ったからだ。
「あ、おかえりなさーい」
こっちに気付いて、鹿島さんが手を振ってくる。こちらも空いてる手を控えめに上げて応えつつ、はて、と心の中で首を傾げた。少々、元気が無いように伺える。いつもの鹿島さんなら手ではなく箒を振る。
「ただいま。店は変わりありませんか」
「ありません! お客さんも来てません!」
ぴしっ、と敬礼しているところ悪いが、満面の笑みで店の経営難を報告されても困る。
実際のところうちの主な収入源は取り寄せ注文の受付なので閉店の危機というほどではないのだが、鹿島さんがそこまで分かっているとは思えない。
「ふむ」
「はい?」
店内と鹿島さんを見比べる。確かに、変わった様子は無い。
ふむ。
「……休憩にしましょうか。コロッケをオマケしてもらったので」
「わーい!」
箒をぶん投げそうな勢いで喜ばれた。貰い物でこうもはしゃがれると、無駄に申し訳なくなってくる。
お茶出しますね、と奥に引っ込もうとした鹿島さんだったが、はた、と不思議そうな顔でこちらへと振り返った。
「店長さん。用事って、コロッケもらいに行ってたんですか?」
「……えー、と、まぁ、はい」
否定するのは簡単だったが、さて、違うなら何をしに行ったのかと訊かれると返事に困る。
鹿島さんは「ふーん」と不思議そうにして、けれどすぐに、興味を失った顔で奥へと入っていった。関心の移り変わる早さが幼児を連想させるが、確か彼女は三十路手前だった筈だ。
前に一度だけ同棲しているという彼氏が挨拶に来た。挨拶というか開口一番に「ご迷惑おかけしてます」と頭を下げられた時になんとなく二人の関係性を察してしまった。私も私で「この子は他の店で雇ってもらえそうにないなぁ」などと要らん世話焼き半分に雇用したので、放っておけない気持ちは分かる。
掃除ばかりが行き届いた店内を通り過ぎて、レジ台の横に腰を下ろす。そこから上がって障子を開ければ居間にそのまま繋がっているが、まぁ、一応まだ営業時間内だ。
「いただきまーす!」
「はい、いただきます」
二人並んでコロッケ片手に、鹿島さんに淹れてもらったお茶で一息吐く。
揚げ物なんて久々に口にしたが、たまにはいいものだ。五十代の頃はアレが食えないコレも食えないと衰えを感じたものだが、最近は少量であれば割となんでも平気に食べられる。その代わり、何を食べても昔ほど食べ物の美味さに感動することはなくなった。
ふと鹿島さんを見ると、衣を口の端にくっつけたまま呆けたように店の天井を眺めていた。
犬か猫のようだ。飼ったことはないが、何もないところを真顔で見つめる様は似ている気がする。
そして普段から割とぬぼーっとした子ではあるのだが、さて。
「鹿島さん」
「はい?」
「どうでしょう、私でよければ話くらいは聞けますが」
んぐ、と鹿島さんが喉を鳴らす。大きな目を更に丸く広げて、信じられないようなものを見るように私を見つめる。
驚かせてしまっただろうか。少し、話がいきなり過ぎたかも知れない。
「だんでねすか?」
「はい?」
「あ、や、なんでですか?」
「あぁ……いえ、何やら考え込んでいるようなので」
あり得ない噛み方をする程度には図星だったらしい。今更だが、セクハラだと言われたらどうしよう。
鹿島さんはコロッケをもう一口、二口と小さな口に詰め込んで、咀嚼して、お茶で流し込んでから、盛大に溜め息を吐いた。
「聞いて、くれやすかぃ」
「え? ……あぁ、はい、どうぞ」
今度は噛んだ訳ではないらしい。何故に江戸っ子、と思いこそすれ、訊ねて返ってきた説明を理解出来る気がしないので黙っておいた。
「シューチのお母さんが死んじゃったらしいんです」
「シューチ?」
「あ、修一です。相良修一」
フルネームで言われても、と困りかけたが、鹿島さんの彼氏がそんな名前だった気がする。挨拶の時に一度名乗られたきりなので朧気だ。
「それで落ち込んでいたんですか」
「あー、いえ、会ったことないし」
サッパリした回答が返ってきた。
……まぁ、恋人の肉親とはいえ顔を知らなければ他人と変わりないか。
「金曜日に地元でお葬式があるんです。シューチは、まだお嫁さんってわけでもないし、出ても出なくてもいいよーって言ってるんですよねぇ」
「……それは確かに微妙な立ち位置ですねぇ」
親戚付き合いの形はそれぞれなので、なんとも口の出しにくい問題だ。
「それもあるんですけど」
ひときわ困った顔をして、鹿島さんがお茶を啜る。
どうやら、話の根っこはそこではないらしい。
「私、親が居ないんです」
言って、鹿島さんは残りのコロッケを口に放り込んだ。
「……居ない、と言いますと?」
「生まれてすぐ、病院に置いてかれたらしくて。物心付いた時には施設に居ました」
少々、面食らう。彼女がもぐもぐと咀嚼している間、私はただ、その頬の動きを観察することしか出来なかった。
不思議な子だとは思っていたが、生い立ちからして特殊だったとは。
「だから家族がどうとか、親の死に目? とか、よく分からなくて。血縁とか、親子とか、意味は分かるんだけど……いや、でもほんとは、分かってないんだろうなって、たぶん」
眉間に皺を寄せ、口を尖らせて、目を細めながら。
「こんな人がお葬式に来たら、シューチのお母さんも良い気分じゃないだろうなーって思うんです。お互い知らない人だし、死んじゃったって聞いた今も、私は別に悲しくもなんともないし」
辿々しく語るのは、きっと、感じたそのままの言葉なのだろう。
「でもシューチのお母さんは……シューチの、お母さんだから」
そこまで言うと、鹿島さんは膝を抱え込む形で座り直した。視線はゆらゆらと右へ左へ、行ったり来たり。
感情が動くのは正しいことなのか。
何も感じないことは間違っているのか。
……正直、ぼーっとした子だとばかり思っていたが。
最近の若者とやらも、なかなかどうして、いろいろ考えているじゃあないか。
「知らない人だと思うなら、まずは知るところから始めてみませんか」
そして、余計だと思いながらもついつい若者の貴重な時間に口を挟んでしまうのが、年寄りの性というものだ。
「……」
なに言ってんだこのジジイ、と鹿島さんが目で語る。
「お母様がどんな人だったのか、修一くんに訊ねてみてはいかがですか。人伝であれ人柄を知って、君が何かを思ったなら、他人ではあっても知らない人ではないでしょう」
「……?」
首をかしげられてしまった。
言いたいことを言葉にして、口から放ち、相手に伝える。このなんともどかしいことか。紙に書き出して読んでもらった方がよほど楽に違いない。なにせ後は相手の解釈次第、つまり人任せだ。
「……ふむ」
どう伝えたものか考えているうちに、ふと、身の回りで一番おしゃべりだった人の話を思い出した。
「向かいの文房具屋」
「はい?」
頬が笑んだように歪むのを感じながら、私は店先を指差した。
「元の店主が腰をやらかして代替わりしてから、女子高生向けに流行りのキャラクターの品物を置くようになって繁盛しています。ちなみに今の店主は四十代の長男で長いこと引きこもりをやっていましたが、インターネット生活のおかげで市場を見る目が養われたようですね」
「……そういえば、たまに女の子たちがたむろってますね」
怪訝そうな顔のまま鹿島さんが相槌を打つ。
「五軒先のクリーニング屋の店長は婿養子で、彼女の父親に認めてもらうために他のクリーニング屋で働きながら七年も洗濯の勉強をしたそうです。婿入りしてからは凝り性が一致して義父とすっかり仲良くなり、週末には二人で習い事に通っているとか」
「……修行の意味はあったんでしょうか」
「アーケードの入り口にある美容室の女店長さん。自分の娘が反抗期に入った際に他所で髪を染めて帰ってきたら、仕上がりが気にくわなかったので自分の店で同じ色に染め直させたそうです。綺麗な金髪になったものの、反抗期はそれきりで治まってしまいましたとさ」
「……落語みたいなオチだなぁ」
「七軒先の中華料理屋の店主はもともとシェフを目指してホテルのレストランで修行をしていたので、あの店はラーメンや天津丼よりもナポリタンやオムライスの方が美味しいそうです。なぜ中華料理屋を始めてしまったんでしょうかねぇ」
「……それはほんとに不思議ですね」
ふむ。
何の話ですか、と言われるのを待っていたら思いの外しっかり聞き入られてしまったので、ここらで止めておくか。
「と、まぁ、私はこのアーケードの中での事ならちょっとした事情通です」
「はぁ」
ここまでで一番ぼやっとした反応が返ってくる。ここまでだとただの自慢話なのでまず当たり前だ。
「でも実は、ここの商店街の人達とはほとんど話したことがありません」
私の前振りに、鹿島さんが小さく顔を上げる。
「……今の話は全て、私が、私の奥さんから聞いた話です」
そうだ。
昔から人との交流に関心の薄い私の代わりに、商店街の人達とこの店を繋いでくれたのは妻だった。
単に人と喋るのが好きなだけだったのかも知れないが、それならそれで、その方がいい。きっと良い。
「文房具屋も、中華料理屋も、クリーニング屋も入ったことがない。美容室には入れもしない。だけど私は、この商店街の人達が好きなのでしょうね。だから、まだこんな店を開き続けている」
妻が楽しそうに話してくれた物語の一つ一つが、今もこの場所で生きている。
この場所が、人が、私に根付いている。
「好きも嫌いも、良いも悪いも、知らないことには始まらない。ここは一つ、親だの家族だのという込み入ったことは忘れて……彼女がどういう人だったのか聞いてみてはいかがですか?」
人が何かに悩むのは、知らないから、分からないから。
知った後にはきっと迷う。
そして迷いというものには必ず、いずれ答えが出るのだ。
「……ほぇー」
鹿島さんの口からアホみたいな音が漏れた。いや、アホっぽい声で鳴いた、が正しいか。正しいか?
目も口もまんまるに開けて、これ以上無いくらい間の抜けた表情で私を見つめる。こいつなに語っちゃってんの、みたいな顔をされたらどうしようかと思っていたが、この反応はこの反応で困る。
「店長さんって、ぼーっとしてるだけの人じゃなかったんですね」
「……それはどうも」
ぼーっとしてる子にぼーっとしてる奴だと思われていたらしい。
学生の頃は無口が高じて優等生だと思われていたものだが、ジジイにもなると黙っているのと呆けているのでは大差ないのかも知れない。
それきり鹿島さんは「ふーむ」とか「んむー」などと唸っていたが、目の色がいつも通りなのでもう平気だろう。これ以上の口出しを避けるべく、残りのコロッケで自分の口を塞いだ。
若かろうが老いていようが、今を生きる人間に他人の用意した答えなど必要無い。あとコロッケ美味しい。
しかし気になるのはこの味、食べてみてもやはり、覚えがないことだ。
肉屋の店主と私、両方に記憶の違いが無いとするなら、このコロッケは肉屋から我が家までの間に消えたことになる。
どうでもいいことかも知れないが、どうでもいいことでも年がら年中おしゃべりのネタにしていた妻からあの肉屋とこのコロッケの話題が出なかったことが引っ掛かっていた。
最も傍に居た人にさえ、まだまだ知らない部分がある。その事実に、年甲斐もなく心が踊る。
これだから時々、君が死んでしまっていることを忘れそうになるんだ。新しい君を、何度も見かけて、追ってしまうから。
しかしコロッケの行方を訊くために妻の元へ旅立つというのも馬鹿な話なので、とりあえずは地に足を着けて答えを探すとしよう。
妻のことを、もっともっと知りたい。
私は彼女の旦那なのだから。
奥さんのことならなんでも知っているのだと、胸を張って言いたいじゃないか。
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