第3話「、それは砂の流れのように」


 放課後に立ち寄った本屋で偶然見かけた本を漫画と一緒にレジに置いたら、店員さんがしばらく表紙をじーっと見つめたまま固まった。

 「……あのー」

 体感で三十秒くらい待ってみても微動だにしなかったから声をかけてみたら、店員さんは無言でびくっと肩を跳ね上げて私を見た。

 そこで初めてまともに顔を見て、うわぁすげぇ美人だ、と同性ながらに衝撃を受けてこっちも固まる。

 「あー、ごめんなさい。気になってた本だったんで」

 「……いや別に、大丈夫です」

 会計を済ませて店を出る。

 手に入れた本を通学鞄にしまいながら、頭の中で今のやりとりに不備が無かったかを考える。会話の反省会が常習化し始めたのは、世間の感覚との明確なズレを感じ始めてからだった。

 でもまぁ、とりあえず。

 「古風なナンパ……か、変な人かな」

 今回は明らかに向こうがおかしかったので、気にしない方向で。

 「……ん?」

 一人頷く店先で、ふと、聞き覚えのある声に導かれて視線を上げる。

 向かいの文房具屋に同じ高校の連中が群がっていた。

 「あ……ねぇ、ちょっと」

 ……その中の一人がこっちを見るなり仲間にひそひそと話しかけ始めたので、足早にその場を離脱する。楽しい時間を邪魔することもない。

 私は、ここらじゃちょっとした有名人だ。しかもだいぶ悪い方向に名が知れている。

 「あー、あー……あーぁー」

 いつものノイズが頭の中にざらついてきたので、両手で耳を塞ぐ。

 どれだけ距離を取っても、噂が、文句が、好奇が、嫌悪が、聞こえてくる。囁く声が頭の後ろの方にこびりついているみたいに、いつまでも消えて無くならない。

 なら、消えるべきなのは私の方か。

 「……とはいえ」

 自殺は兄貴に先を越されてしまったから、いささか気が引ける。オチのネタ被りほど無粋な振る舞いもあるまい。

 一週間前。うちの学校の三年生だった兄貴は校舎四階の窓から飛び降りて、頭から着地した。真っ白なシクラメンの花壇の縁石に一輪、真っ赤な花を添えたそうだ。男なのに紅一点とは我が兄ながらなかなかに洒落が利いている。

 商店街のアーケードを抜けて駅前に出てしまってから買い物の途中だったことを思い出したけど、戻る気にはなれなかった。

 久々にバイトの無い放課後なのにわざわざ商店街の方まで出張ってきて、買えたのが本一冊。自然と溜め息が漏れる。

 兄貴の自殺に文句は無い。

 ただしそれが引き起こした現状には、少々以上の息苦しさを感じていた。




 両親が居なくなった時、住んでいた一軒家には伯母の一家が移り住んだ。

 なので今は、他の親戚が経営しているアパートの一室を安値で借りている。庭付き一戸建ても3LDKも、住み心地に大した差は無い。強いて不満を言うならバスタブが狭いことくらいか。

 家賃は取らない、という申し出をやんわりとお断りし続けた結果、三割引にしてもらうということで決着がついた。

 遠慮したわけではない。ただ、気兼ねは軽い方が楽だと思っただけで。

 「お兄ちゃん?」

 冷蔵庫で冷やした水道水をペットボトルからラッパ飲みしていたら、台所にひょっこりと女子中学生が顔を出した。

 妹だ、と思うより先に、女子中学生だ、と思ってしまったのは彼女のセーラー服姿を久々に見たからだろうか。

 去年まで私が着ていたものと同じ、白地のセーラー服。個人の趣味で言えば紺の方が好ましいが、見目にやや幼い妹には白の方が似合っている。

 そんな妹は、童顔を不満でいっぱいにして口を尖らせていた。

 「ただいま、くらい言いなよ。びっくりするでしょ」

 「ごめんごめん」

 こっちもびっくりしたのであいこにしてもらえないだろうか。

 「あ、もう一つついでにごめん。夕飯の買い出し忘れてきた」

 「はぁ!? 今日はお兄ちゃんの当番でしょ!?」

 今度は分かりやすく憤慨する。妹の怒りは大して恐ろしくもないが、かと言って快くもない。

 「や、ほんとにごめん」

 微妙に虚偽の申告を含んでいることもまとめて謝るつもりで、両手を合わせて頭を下げた。

 妹は眉を吊り上げてしばらく唸っていたが、しばらくすると、怒らせていた肩をすとんと落として溜め息を吐いた。ような気がする。顔上げてないから見えない。

 「もーいいよ。今日はどっか食べ行こ」

 「うん」

 「お兄ちゃんのおごりね」

 「……まぁ、うん」

 本に加えて順調にお小遣いが削られていく。

 とはいえ妹の機嫌を損ねるのも厄介なので、今日はこれで良しとしよう。

 「じゃあ今すぐ出発ね」

 「……制服で?」

 「いいでしょ別に。制服デートだよ」

 「使い方あってんのかな、それ」

 「いいじゃん、私達に合ってれば」

 「……」

 そうかなぁ、とごねる必要も特にはない。

 いつの間にか鼻唄を奏でるまでに至った妹の上機嫌の理由は見当も付かないが、結果があれば理由なんてどうでもいい筈だ。

 妹と一緒に出掛けると、その特殊なアプローチというか愛称の扱い方でやや人目を引くのだけれど。

 妹は、兄貴が死んだ日から私を兄として扱うようになった。妹の中では、誰も死んでなどいないのだ。その代わり、姉だった筈の私のことは頭の中からすっぽり抜け落ちたみたいに話題に上がらなくなっていた。

 きっとそこにはたくさんの問題があって、理由があって、何一つ解決は無くて。

 じゃあどうすると言われたら、どうもしない、というのが私の答えだった。

 妹に、私はお前のお兄ちゃんなんかじゃない、と訂正して何になる。

 周囲の人間みたいに、兄貴がどうして自殺したのかと首を突っ込んで、答えを探したとして、それに何の意味がある。

 私は望まない。肯定を諦めて、否定を拒絶して、正解を求めず、不正解を認めない。

 誤魔化しも先伸ばしも時間稼ぎも、死ぬまで続ければ一つの解決だと信じて。

 ……だけど。

 「お兄ちゃん、早く行こ? 私、もうおなか空いた」

 「……そうだね」

 妹に袖を引っ張られながら、台所に放ったままの通学鞄に目をやる。

 さっきの冠婚葬祭のマナー入門みたいな本。兄貴の葬式のために買ったけど、妹には見られない方がいいかもなぁ、なんて。

 そんなことを考えれば、また、頭の中にノイズが走る。

 私の何かがざりざりと、音を立てて削れていく。

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