第2話「、幸多かれなどと願う夜」
何年も連絡を取ってなかった兄貴の名前が着信画面に表示されているのを見たとき、なんとなく、そーゆー話なんだろーなー、という予感があった。
予感というか、連想というか、なんというかまぁ、そういう類いのもの。
そしてその手のものは大抵、良い意味を含まない。僕の兄貴が関わっているのなら尚更だ。あの人から吉報が届いたことなんかほとんど無いし、吉報は吉報で兄貴から知らされると良いニュースに聞こえないのである。
今日も着信から三時間後に折り返したら待たせるなと怒られた。そっちこそ仕事中に電話してくんな、とか言うと長くなるので平たく謝る。
職場から上がるのと同時に始めた兄貴との事務的な会話は十分くらいで済んだ。
僕の職場は家から歩いて十五分くらいの所にあるので、残りの五分でいろいろなことを考えたり考えないようにしたりと、まぁ忙しかった。もやもやもいざこざも、なるべくなら家に持ち帰りたくはない。
兄貴は電話の最後に「大丈夫か」と訊ねてきた。そっちこそ大丈夫なの、とか言うと長くなるから「そうだね」と返して電話を切った。切ってから日本語を間違えたのではと気が付いたけど、まぁ、兄貴だし別にいいだろう。
実を言えば兄弟仲は悪くない。ただ昔から常々、お互いにタイミングが悪い。
自宅アパートの錆び付いた階段をカンカン登って、奥から二番目の部屋のインターホンを鳴らす。我が家には合鍵が無いので、僕は出かけるとき基本的に鍵を持ち歩かない。
椅子を引く音をドア越しに聞きつつ、じっと待つ。今は春先だからまだいいけど、これが冬になるとこの間が地味につらい。同居人がなかなか炬燵から出られない人なので、寒い日には五分くらい待たされることもあるのだ。寒い日なのに。
今日は三十秒と待たずにドアが開いた。
「おかおかー」
「……」
にへら、と緩みきった笑顔で迎えられて、ときめきと不安が半分ずつ胸に広がっていく。
同棲相手のサチは今日も今日とてゆるゆるだ。
長袖のシャツは下着の肩紐を晒すくらい襟がでろんでろんだし、真緑の短パンは高校の時の体育着だし。髪の毛は最近伸びてきたのが邪魔らしく、風呂のとき以外はずっと後頭部に結んでまとめている。アップスタイルと言えば聞こえはいいが、量が在り過ぎてヤシの木みたいだ。
今年でお互い二十七歳。サチは目が悪くなってたまに眼鏡をかけるようになり、僕はちょっぴり白髪が増えた。付き合い的にはちょうど十年。恋人とはいえ、それだけ一緒に居れば気も抜ける。
「サチ、玄関出る時はちゃんと相手を確認してね」
「おかおかー!」
「はいはい、ただいま」
サチは割と出会った時からこんな感じだったかも知れない。
玄関からサチの肩を押しながら我が家へと侵入。2LDKの広くない部屋だけど、あんまり物が無いので実家より広々と使っている。
僕もサチも物欲が薄いのか、備え付けの押し入れには二人分の布団と掃除機とアイロンしか入っていないし、衣替えするほど数の無い衣類は部屋の隅のファンシーケース一つに納まっている。肌着なんかは洗面所のタオル棚に一緒に並べているので、サチの持ってる下着の柄は全て覚えてしまった。世界一無駄な知識だ。
荷物を置いて、所定の位置に腰を下ろす。すると、サチもいつもの場所にぺたんと座った。隣合わせではなく、対面に。二人とも部屋の壁に背中を預けて、離れられるだけ離れて。
手を伸ばしても触れあわないけれど、相手の全てが視界に収まるように。つまり、いつもの距離だ。
「お仕事お疲れぃ」
「ありがとう。そっちはどう?」
「今日はお客さん来たよ、五人くらい」
サチは右手の指で三、左手で二を示してニッコリと笑う。世の平均を知らないけど、それは閑古鳥の出番なんじゃないのか。
僕は近所のパン屋さんで、サチは商店街の本屋さんで働いている。勤務先同士の距離は徒歩十五分。いわゆる地域密着型カップルだ。そんなカテゴリ聞いたことないけど。
「シューチは? 今日はパン売れなかった? お米に負けそう?」
「売れた売れた」
そして別にお米とは張り合ってない、と思う。いやあの店長じゃ分かんないな。
「じゃあ変なお客さんでも来た? 宇宙人とか」
「来ない来ない」
「ふむ……じゃーあー……なんだろうなぁ」
僕の顔を覗き込んで、自分の頬を撫でたり鼻を掻いたり耳たぶを引っ張ったりしながら、サチが首を傾げる。
「あ、彼女にフラれたとか?」
「サチの身に覚えがあるなら可能性はあるけど」
「つまり、逆算するとシューチには私しか彼女が居ないわけですな」
「鹿島さん、自分で自分がなに言ってるか分かって喋ってる?」
「村上くんは昔から私にしかモテないもんねー」
「……ねー」
鹿島紗智さんは人気者でしたもんね、と心で呟く。
だいたいの男は顔で引かれて中身で引いていくので、サチにその自覚があったかどうかは不明だけど。
僕の彼女は美人だ。見目に愛らしいというより、整った顔立ちが嗜好品の類いを思わせる。普段は無口なので余計にそう感じるのかも知れない。
サチがおしゃべりになるのは、風邪で熱に浮かされている時と人に気を使っている時だけだ。
だからきっと。
いつもと違う顔してるんだろうなぁ、今の僕。
「サチ」
「ん?」
「今日の夕飯はカレーにしよう」
「お、食べ行く?」
「僕が作るよ」
「え、マジすか」
「マジマジ。買い物行こう」
「行く、行こう行こう。シューチのカレーは世界一よ」
いそいそと着替え始めるサチを眺めながら、さて、どのタイミングで伝えたものかなと思案する。
言わなくてもいいんじゃないかなー、とは思うけど、後でどうしても言わなきゃいけなかった時になんで黙ってたのって訊かれても困るし、結局は伝えるしかないのだ。
今日、僕の母さんが死んだんだよ、って。
先週の頭に入院したとは聞いていたけど、それきり連絡も無くて、いきなり今日の電話だ。今でも全く実感が湧いてこない。
検査で病気が見つかった時には既に病状が最悪にまで至っていたこと。
病気について、僕や他の親類への口止めを母さん自身が願っていたこと。
どれもこれも初めて聞くことばかりで。
……兄貴からの電話はその報告と、サチを葬儀に連れてくるかどうかの確認だった。喪主は父さんになるけど、取り仕切るのは兄貴の役目になるのだろう。面倒くさいくらい細かい人だから、きっと向いている。
サチとは結婚してないし、地元を離れてるから母さんと会わせたこともない。本人が出たいかどうかに任せた方が良い気もするし、自分で決めさせるのは酷な気もする。その辺は、話し合いかな。
「……まぁ、ご飯食べてからにしよう」
「うんうん。美味しいもの食べれば、いくらシューチでも元気になるよねー」
「うんうん。よそでそういう言い方しないように気を付けてねー」
下着姿で鼻歌混じりに部屋を歩き回るサチを見て、うちのお堅い親類縁者連中との相性の悪さを予感しながら。
胸の中に流れる暗くて想い何かが勢いを増して、喉と鼻の奥が狭くきつく絞られていくのを感じる。それが寂しさなのか、悲しみなのか、虚しさなのか、怒りなのか、どれを当てはめても違うような気がして、感情はぼやけたままだ。このままじゃ涙も出そうにない。
とりあえず今はカレーを食べたい。それだけははっきりしていた。
母さんに教えてもらった味を、サチと一緒に食べたい。
無性にそう思うのだ。
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