第一五話 フォークとスプーン
1
この(弘前)大学(医学部附属)病院には、こんな噂があるんだ。
夜に寝ないで、いつまでもぐずぐずしていると、女性看護師の幽霊がやって来るんだって。
そして、「赤い注射がいい? 青い注射がいい?」って聞くんだ。
赤い注射を選ぶと、身体中を刺されて、血を流して死ぬんだって。
青い注射を選ぶと、身体から血液を抜かれて、真っ青になって死ぬんだって。
え? いつまでも寝ない子を怖がらせるために、看護師さんが作ったお話だろうって?
でも看護師さんも言うんだよ。
時々、見たことのない看護師にすれ違う、って。
2
「非科学的ねえ」
あたしは、伊吹冷泉君の傷口を消毒しながら言った。
「でも、この病院に入院している子から聞いたんです。先生も、見たことのない看護師さんにすれ違ったことはありませんか?」
「うん、ないわ」
それよりも、気になることがある。
「どうやったら、こんな熊とでも戦ったような大きな引っ掻き傷ができるわけ? まあ、そんなに深くないのが幸いだけど」
「それはですねえ」
伊吹君は、もったいつけて言う。
「僕は、鬼退治の専門家だからです。僕は、鬼と戦っているのですよ」
「ああ、そう」
まったく、顔はいいのに変わった青年だ。
伊吹君は、カルテによると21歳。
黒髪を腰に届くまで伸ばした、驚くほどの美青年である。
傍らには、日本刀が立て掛けられていた。
「その日本刀で戦うの? 銃刀法違反じゃない?」
「僕は、特別な許可を得ているのです。警察署に尋ねてみて下さい」
「はいはい。で、その鬼はきちんと狂犬病の予防接種は受けているんでしょうね?」
「うーん。受けてないと思います」
日本に、狂犬病を持っている動物はいない。
それでも一応、尋ねてみるのが医者というものなのだ。
「傷口が膿む可能性があります。2、3日は入院しましょう。その間、感染症のありとあらゆる検査をします。動物に引っ掛かれたり、噛まれたりして、命を落とす場合だってあるのですよ?」
「はあ」
「抗生剤を出します。毎日、きちんと飲むように」
「はい。あのう」
「なにかしら?」
伊吹君は、恥ずかしそうに言った。
「注射は、しませんよね?」
3
伊吹君は、個室に入院している。
回診すると、ちょうど、お見舞いに来ている方がいた。
その女性は、お見舞いにしてはちょっと派手めな、赤いスーツを着ている。
でも、とても良く似合う。
髪はバッサリと肩で切り揃えられていた。
恐らく、入院誓約書に保証人として署名していた、伊吹烈花(れっか)さんだろう。
彼女は尋ねる。
「先生、冷泉の傷は残りますでしょうか」
そんな、女の子じゃないんだから!
「傷なんて、残ってもいいじゃないですか。女の子でもあるまいし」
そうそう。
「冷泉、あなた、傷が勲章だとか思っているんではないでしょうね?」
「う」
「伊吹の者にとって、傷は恥です。無傷で『それ』を倒してこそ、一人前なのですよ?」
「はい、面目ありません」
何だか、この二人の関係は普通とは違う気がした。年齢の差も、親子という感じではない。烈花さんは、驚くほど若いのだ。
それに気が付いたのか、伊吹君は紹介してくれる。
「この方、烈花叔母(おば)様は、僕のお師匠様なのです」
「お師匠様?」
「はい。両親を早くに亡くした僕を育て、剣まで教えて下さいました」
「剣術を年長者が教えるのは当然です」
烈花さんは続ける。
「伊吹の者にとって剣術を習うのは、息の吸い方を習うようなものです。それを習わねば、生きて行くこともかないません」
「はあ」
伊吹家とは、一体何なんだろう?
剣道の道場を、代々開いているとか?
あたしは、伊吹君の言ったことを思い出した。
「その剣術で、鬼と戦うわけなの?」
「まあ、鬼だなんて」
烈花さんは笑う。
「先生も、非科学的なことを仰いますわねえ」
「そうですよね!」
「あ、ずるい」
伊吹君は、その可愛らしい頬を、ぷうと膨らませる。
「まるで僕だけ、変なことを言ってるみたいじゃないですか」
「あなたは変わり者ですよ」
そう言って、伊吹君の長い髪を指で解く。
「男なのに、こんなに長く髪を伸ばしたりしてねえ」
「僕にだって、いろいろとあるのです。それよりも、お願いした物を持って来て頂けましたか?」
「当然です。そのために来たのですから」
烈花さんはブランド物のバッグの中から、コップ、スプーン、フォーク、お箸を取り出した。入院患者には必ず揃えて貰う食器一揃いだ。
「ぷふっ」
思わず笑ってしまう。
それは明らかに子供用、しかもどう見ても小学校低学年用の物だったからだ。
「お師匠様、これは幼い子供用ですよう」
「あら、そうなの?」
烈花さんは、びっくりしたようだ。
「うちの子供が入院したと言ったら、お店の人が揃えてくれたのよ。そう言えば、少し可愛らしいわねえ」
伊吹君は、がっくりと肩を落とす。
「いいです。たった3日ほどの入院なのですから、ありがたく使わせて頂きます」
「そうしなさい」
「それにしてもお師匠様は、相変わらず世の中のことに疎いですねえ。一人暮らし、きちんと出来ていますか? また騙されて、読みもしない新聞を契約したりしていませんでしょうね?」
「あら」
烈花さんは機嫌を損ねたようだ。
「生意気なことを。この口でお言いですか」
「痛い痛い。頬をつねらないで下さい」
「このフォークとかスプーンとか、可愛いあなたにはお似合いですよ。あたしから見たらあなたは、まだほんの小さい子供なのですから」
「あ、そうやって、いつまでも子供扱いしますか」
「しますとも。大人というものは、注射など怖がらないものです」
伊吹君が裏返った声を出す。
「注射が好きな人はいないでしょう!?」
「それでも怖くないふりをして見せるのが、大人というものなのです。ねえ、先生」
あたしはもう、笑うしかない。
4
少し長居をし過ぎてしまったようだ。
あたしは、他の患者さんを診るために、 リノリウムの床の上を、小走りで歩く。
「あら?」
女性看護師とすれ違った。
見たことのない顔だった。
どこの科に配属された新人なのだろう?
大きな病院では、人の出入りも激しいよなあ、とあたしは思った。
医者も看護師も、結局は体力勝負なのだ。
あたしだって、いつまで最前線でお仕事が出来るのだろう?
早く結婚して仕事を辞めたい気持ちと、いつまでもこの仕事を頑張りたい気持ちが入り交じる。
恋人は、ちっとも煮え切らない。
大事な話になると、ああ、とか、うう、とか言って逃げるのだ。
本当にどうしたらいいのだろう。
この関係を、ずるずると続けるべきなのだろうか?
あたしだって、もう若くはないのになあ。
5
僕がもうクリアした携帯ゲームを退屈だからやっていると、知らないおばさんがやって来た。
「こんにちは」
そのおばさんは言う。
ゲームを止めて、僕は尋ねた。
「こんにちは。おばさんは誰?」
「まあ」
おばさんは言う。
「おばさんだなんて、この口が言いますか。お姉さんに訂正なさい」
「痛い痛い。頬をつねらないで」
「あたしは、伊吹烈花と申します」
烈花お姉さんは、僕に尋ねた。
「あなた、うちの冷泉に『女性看護師の幽霊』のお話をしたでしょう」
冷泉さんとは、あの髪が長い、凄く綺麗な人だ。そう言えば、烈花お姉さんとは、ちょっと似ている気がする。
「うん、したよ。『赤い注射器と、青い注射器』の話でしょ?」
「そうそう。あたしにも、そのお話を聞かせて下さいな」
そこで僕は、もう一度話した。
「なるほどねえ」
烈花お姉さんは頷く。
「あなたも気を付けてね。特に、今夜辺り」
烈花お姉さんは僕に、お守りを差し出した。
「これを持っていなさい。身を守ってくれるから」
僕は受け取って言う。
「でも、あれは作り話でしょ?」
「さあ、どうかしら」
烈花お姉さんは、笑う。
「うちの冷泉なんて、怖くて夜、トイレにも行けないって言ってたわよ」
「ええ? もう大人なのに?」
「子供ですよ」
優しい声で言う。
「あの子はいつまでも、あたしの可愛い子供なのです」
6
仕事が一段落し、宿直室に、あたしはいた。
本当は少しでも休んでおくべきなのに、ベッドに横になり、携帯でユーチューブを見ていた。
目が冴えて、どうにも眠れない。
「!?」
寝返りを打つと、いつの間にか、横に見知らぬ女性看護師が立っていた。
薄暗い部屋で、腕時計を見る。深夜3時。
「なあに? 急患? 誰か急変した?」
ううん、とその看護師は首を振る。
「赤い注射がいい? 青い注射がいい?」
「え?」
その看護師は、手に注射器を持っていた。
「何言ってるの? あたし、注射なんていらないわよ」
その看護師は繰り返す。
「赤い注射がいい? 青い注射がいい?」
その眼は、血のように真っ赤だった。
その眼を見ていると、どちらかを選ばなきゃいけない気持ちになってきた。
「そうねえ」
赤かしら? それとも青かしら?
うーん、悩むなあ。
「選んではいけません」
声がした。
戸口に伊吹君が立っている。
その手には、日本刀を持っていた。
「選んだら、死にますよ?」
え? 死ぬ?
日本刀が暗闇の中で煌めいた。
その光を見てしばらくしてから、やっと日本刀が抜かれたのだいうことに気が付いた。
「嘘!」
その看護師は跳んで日本刀を避け、天井にぺたりと張り付いていた。
驚くほど犬歯が伸び、額からは白く長い角(つの)が伸びている。
お、鬼だ!
この眼の前にいるのは、鬼なのだ!
その鬼は、注射器を投げる。
「ひゃあ!」
何だか情けない声を出して、伊吹君は日本刀で注射器を叩き落とした。
その隙に、鬼は伊吹君を飛び越えて、宿直室から逃げ出した。
「しまった!」
伊吹君は後を追う。
あたしも駆け出していた。
7
あたしと伊吹君は、看護師を追った。
だが両手を地面に突いて4つ足で逃げる鬼は、驚くほど早く、追い付くことが出来ない。
看護師は消えてしまった。
そこへ暗闇から、烈花さんが現れる。
「あらあら。嫌な予感で来てみれば」
こんな時間に、どうやって病院に入って来たのだろう? 面会時間は、とっくに過ぎているのに。
「お師匠様。予想通り鬼が出ました。僕に任せて下さい」
「いいえ、怪我人は黙って見学していなさい。あたしが切ります」
「では、津軽正宗をお貸しします」
伊吹君は、日本刀を差し出した。
「いいえ。それはもう、あなたの物です。借りるわけにはいきません」
「じゃあ、どうやって切るんです?」
「そうですねえ」
烈花さんは、首を傾げた。
「あなたに持ってきた、フォークとスプーンなんてどうかしら?」
8
伊吹君の部屋に寄り(すぐ近くだった)、烈花さんは本当にフォークとスプーンを手に取った。
それは子供用で、先端だってまともに尖ってはいないのだ!
それから、三人で病院を走る。
「冷泉、あなたは津軽正宗に頼り過ぎです。宝刀などなくても、鬼は切れるのです。良く見ておきなさい」
「はい。勉強させて頂きます」
あたしは尋ねる。
「で、どこへ向かっているのですか?」
烈花さんが教えてくれた。
「子供が入院しておりますでしょう。『女性看護師の幽霊』の話をしてくれた子供です」
「はい」
「次に狙われるのは、あの子供です。あたしにはわかっておりました」
「はあ」
「最初から、その子を見張っていれば良かったのではありませんか?」
伊吹君の問いに、烈花さんが答える。
「いいえ。先生を最初に襲うのも、わかっておりました。冷泉に任せておけば、その時点で切れると思っていたのですが」
烈花さんは残念そうだ。
「まさか逃がすとはねえ」
「面目ありません」
「まあ、いいでしょう。怪我人なのですからら。まさか注射器が怖くて、油断したのではないでしょうし」
「う」
烈花さんには、すべてお見通しなのかもしれない。
9
眠れないから、こっそり音を消して携帯ゲームをしていると、看護師さんがやって来た。
やばい。
叱られる。
僕はとっさに毛布を被った。
看護師さんは、僕の周りのカーテンを閉めたみたい。
え?
何をするのかな?
僕はそっと、布団をどけて見てみた。
女性看護師さんが、注射器を持って立っていた。
「赤い注射がいい? 青い注射がいい?」
そう僕に聞く。
目の色は赤く、まるで血の色だった。
何だか、頭がぼうっとしてくる。
うん?
何だかやばいぞ。
僕は、首から下げていたお守りを握った。
「ぎゃあ!」
看護師さんは、変な声を出した。
看護師さんは逃げて行く。
助かったんだなあ、と僕は思った。
10
廊下を走る、鬼の後ろ姿が見えた。
烈花さんは急に立ち止まり、あたしと伊吹君もそれにならう。
烈花さんは、スプーンを頭の高さで構えた。
「良く見ておきなさい。これが、あなたに伝えられなかった『技』のひとつ」
烈花さんは、スプーンを投げた!
真っ直ぐに飛んで行く、子供用のスプーン。
スプーンはリノリウムの床に深々と突き刺さる!
「これが『影縫い』です」
鬼は、足を止めた。
足が動かなくなったようだ。
そう、まるで影を床に縫い付けられたかのように。
烈花さんは、続いてフォークを構えた。
「さあて」
烈花さんは、びっくりするくらい凄みのある声で言う。
「仕留めて見せますよ」
11
「どうですか。勉強になりましたか」
「はい。必ずや、ものにしてみせます」
「ごめんなさいねえ。あたしがこんな病(やまい)でなければ、もう少し、あなたに『技』を伝えられたのに」
え? 病?
「いいえ。僕の覚えが悪いのです。お師匠様は、最善を尽くして下さいました。不肖の弟子をお許し下さい」
「まあ、そんなに卑下するのはおよしなさいな。男の子はもっと、『自分が一番偉い』という顔を常にしているものです」
「はい」
あたしは尋ねる。
それは医者としてよりも、人間としての興味だった。
「あのう。どこかお身体が悪いのですか?」
「いえいえ。病と言っても、恋の病なのです」
「はあ」
「『お医者様でも草津の湯でも、惚れた病は治りゃせぬ』 と申しますでしょう? お医者様でも治せない病なのですよ」
この人は嘘を言っている。
そう思った。
「まあ、恋と申しましても、ずっと『片想い』なわけですが。別な方と恋をしようとも思ったのですが、冷泉を引き取ったために、機会を逃してしまいました。そればかりが心残りですわねえ」
「申し訳ありません」
うふふふ、と烈花さんは笑う。
「ほんの冗談ですよ。恋よりも、あなたを育てる方が何倍も楽しかった。でも、先生、冷泉?」
「はい」
「何でしょう?」
「あなたたち若い者は、本物の恋をしなさい。もちろん仕事も大事ですが。そうして、お似合いの相手と夫婦になりなさい。そうねえ。まるでお揃いの、フォークとスプーンのように。お互いに助け合う、素敵な関係でしょう?」
「はい。覚えておきます。でもお師匠様?」
「何かしら?」
「お互いに助け合うのは、どちらかと言えば、フォークとナイフではないでしょうか」
「あら。そんな揚げ足取りを、この口で言いますか」
「痛い痛い。頬をつねらないで下さい」
あたしは、また笑った。
12
烈花さんは、頭を下げて帰って行った。
お礼を言いたいのは、こちらの方だった。
「素敵な人でしょう?」
「ええ、本当に」
何だか、恋も仕事も、もっと頑張れる気がした。
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