第一四話 祭りのあとの淋しさは
1
金魚すくいをしていた時。
突然、その綺麗な子が僕の横にしゃがみ込み、話しかけてきた。
「ねえ。あたしに、赤い金魚取ってよ」
浴衣の似合う、僕と同じくらいの歳の子だった。
髪には、ピンク色のカンザシを刺している。
「いいよ」
僕は頑張って、金魚を取ってあげた。
その子は大喜びだった。
「金魚のお返しに、何か奢ってあげる」
僕は、チョコバナナを買って貰った。
「一緒に回ろうよ。いいでしょ?」
僕は、うん、と言う。
学校のみんなに見つかったら、ますますいじめられると思うけど。
「名前は何て言うの? 小学校はどこ?」
僕が聞くと、
「まどか。学校は行ってない」
行ってないなんて変だなあ、と僕は思った。
その後、二人で射的をしたり、スマートボールをしたりした。
もう帰る時間になったので、僕は言った。
「また会えるかな?」
まどかちゃんは、首を振った。
「どうして?」
「今日の晩、家出するの」
「ええっ?」
「登くんも行かない? 二人で、遠くまで行こうよ」
「でも……」
「二人で、毎日遊んで暮らそう? 学校なんて、行かなくていいんだよ。だから、いじめられることもないよ」
それって素敵だなあ、と僕は思った。
「行こうよ。あたし、登くんのことが好き。お嫁さんになってあげる」
まどかちゃんみたいな可愛い子がお嫁さんだったら、とってもいいなあ、と僕は思った。
「うん、わかった。僕も行くよ」
まどかちゃんは、僕の両手を握った。
「じゃあ、夜の12時、弁天様に来てね」
2
弘前では、夏祭りのことを夜宮(よみや)、または宵宮(よいみや)と言う。
その中でも、品川町の胸肩(むなかた)神社、通称、弁天様の夜宮はかなり大きい方として有名だ。
私は家に妻を置いて、一人で夜宮をぶらぶらしていた。
狭い道の両側には、延々と出店が並んでいる。
小学生ぐらいの男女(女の子は綺麗な浴衣を着ていた)が、金魚すくいをしていた。
ああ、私たち夫婦にもあんな子供がいれば、こんな喧嘩なんかしなくて済んだかもしれないのに。
私は出店でビールを買った。
飲みながら歩くのも何なので、ベンチに腰をかける。
そうして一人飲んでいると、綺麗な女性がやって来た。
浴衣が良く似合う、美人だった。
歳は、私より少し下だろうか?
髪には、桜色のカンザシを刺していた。
彼女は、私を見て言う。
「お隣に座っても、いいですか?」
どうぞどうぞ、と私は言う。
彼女は、私の横に座った。
手には、私と同じで、缶ビールを持っている。
「こんな賑やかな夜は、一人で飲むのは特に寂しいんです。ご一緒してもいいですか?」
「ええ、いいですよ」
彼女は缶ビールを、そっと口に運んだ。
私たちは他愛もない話をした。
彼女の肌は、カンザシと同じ桜色に染まっていた。
「今さらですが、名前を教えて貰ってもいいですか? 私は透と言います」
「まどか、です」
彼女は、ふう、と息を吐いた。
「何か、おつまみを買ってくるべきだったかな?」
「そうかもしれません。酔っぱらっちゃった。少し涼みに行きません?」
私たちは、夜宮を少しぶらぶらした。
それでも彼女が辛そうなので、弁天様の境内に入る。
そこには天然の湧き水があるので、彼女に柄杓で飲ませた。
水が、彼女の赤い唇から漏れ、ほのかに桜色の喉を伝わった。
「大丈夫ですか?」
「優しいんですね。奥様はいらっしゃるんでしょう?」
「ええ。仲は良くないのですが」
「まあ。透さんの良さがわからないなんて、酷い奥様ね」
そうだ。私の妻は、酷い女なのだ。
まどかさんは、私の腕の中に飛び込んできた。
「酔ってるせいか、あたし、大胆だわ。でも、誰にでもこんなことをするような女ではないんですよ?」
私は、抱き締めた。
「また会えますか?」
まどかさんは、首を振った。
「今晩、この都市(まち)を離れるんです」
「そうですか……」
「すべてを捨てて、もう一度やり直すんです。辛いのは、もうこりごり」
私も、同様だった。
「気持ちはわかります。私も、すべてを投げ捨てたくなる時があります」
「ならば」
まどかさんは言った。
「一緒に行きませんか?」
「ええっ!?」
「透さんとなら、どこまでも行ける、幸せになれる気がするの。まだ会って数時間なのに、おかしいでしょう?」
すべてを捨てる。
煩わしい両親も、うるさいだけの妻も、つまらない仕事も。
ぞくり、とした。
それは、たまらなく魅力的だった。
まどかさんは囁いた。
「今晩12時、この弁天様で会いましょう」
3
俺は受験勉強に一息入れようと、弁天様の夜宮に来ていた。
家から歩いて、すぐの距離だったからだ。
まだ小学生のくせにカップルがいたり(女の子は可愛らしい浴衣を着ていた)、ベンチではビールを仲良く飲んでいる夫婦がいたり(奥さんは、これもまた綺麗な浴衣を着ていた)した。
一浪の受験生とは言え、一人は淋しいものだなあ。
そう思って歩いていると、道の真ん中でしゃがんでいる可愛い子がいた。
彼女もまた、素敵な浴衣姿だった。
髪には、桃色のカンザシを刺している。
何をしているんだろう?と思って通り過ぎようとした時、彼女から声をかけて来た。
「あのう」
彼女は、泣きそうな声で言う。
「下駄の鼻緒が切れてしまったんです。助けてくれませんか」
「はあ」
鼻緒が何かは辛うじて知っていたが、直せるはずもない。時代劇なら、ちゃっちゃっと直しているのを観た気もするが。
しばらく格闘して、
「うーん。俺には直せそうにないです」
そう言うと、彼女は恥ずかしそうに言った。
「肩を貸してくれませんか」
「ええ?」
「もうちょっと戻った出店で、ビーチサンダルを売っていました。とりあえず、それがあれば歩けます」
俺は、「代わりに買って来てあげようか」と言ったが、彼女は「ここから移動したいのです。さっきから、見世物みたいになってるので」と立ち上がる。
彼女はひどく軽く、柔らかく、石鹸の良い香りがした。
俺たちは、ビーチサンダルを売っている出店にやって来た。
どれもハワイアンな感じで、彼女の浴衣姿には、あまり似合いそうもない。
「やあ、素敵なカップルさん」
店のおやじが言う。
「買ってってよ。どれも綺麗でしょう?」
彼女は耳まで赤くして、「カップルさん?」と呟いた。
俺も何だかドギマギした。
彼女みたいな美人が恋人だったら、毎日がとても楽しいに違いない。
「あのう、どれが可愛いと思います?」
「そうだねえ」
俺は、赤いハイビスカス柄のビーチサンダルを選んであげた。
「素敵な色ですね。ありがとうございます」
彼女は頭を下げた。
「奢ってあげようか?」
「い、いえ!」
彼女は片手を素早く、胸の前で振る。
「お礼をしなければいけないのは、こっちの方ですから。とても助かりました」
「うん、いいよいいよ」
彼女は、あ、あの、と言う。
「良かったら、ご一緒しませんか? あたし何かで良ければですけど」
「ぜ、ぜひ!」
俺は、そう答えた。
「名前は、何て言うの? 俺は賢一」
「あたしは、まどかです」
可愛らしい名前だなあ、と俺は思った。
二人で、夜宮を回る。
下駄はビニール袋に入れて、俺が持って歩いた(まどかさんは「そんな、悪いです」と遠慮したが)。
「賢一さんは、何をしている方ですか?」
「浪人生です。弘大を受験しようと思って」
「まあ。頭がいいんですね」
「良くないですよ。良かったら、浪人なんてしてません。まどかさんは?」
「あたしは中途半端。高校は出たものの、夢があるのに、それに挑戦する度胸もなくて」
「夢?」
「ナイショです。恥ずかしいから」
そう言って、まどかさんは笑った。
二人で歩いていたら、いつの間にか出店の端まで来ていた。
「戻ろうか」
「そうですね。あのう、弁天様に寄りたいんです。いいですか?」
「もちろんだよ」
俺たちは、弁天様の鳥居をくぐり、境内に入った。
端の天然の湧き水のところで、大人のカップルが抱き合っている。
何だか、俺は気まずくなった。
なのに、まどかさんは、そっと俺の手を握ってくる。
「だめですか?」
「そ、そんなことないよ」
俺の声は震えている。手も汗がびっしょりだ。
何か話さなきゃ、と思って尋ねる。
「何をお願いするの?」
「お願いじゃないです。お礼です」
「お礼?」
「はい。ちょうど一年前に、素敵な人に巡り会えますように、ってお願いしたんです」
「それで?」
「やっと叶いました。一年かかりましたけど」
そう言って笑う。
「お、俺は、素敵でも何でもないよ」
「そんなことないです。あの人混みの中で、賢一さんだけが、あたしを助けてくれました」
まどかさんは、そっと眼を瞑る。
えええ?
俺は、神社で不謹慎かも知れないなあ、と一瞬思ったが、自分の気持ちを抑えることができない。
俺は、初めてのキスをした。
まどかさんも、震えていた。
二人で、境内の脇に座る。
「夢って何なの? 笑わないから教えてよ」
「はい。あたし、声優になりたいんです」
「声優かあ」
なかなか狭き門だと聞いている。
「自分が成功するとも思えないんです。でも、挑戦しないでいたら、ますます後悔する気がして」
「そうだね。やらないよりは、やって後悔した方がいい、って誰かが言ってた」
まどかさんは、立ち上がる。
「はい。あたし、決めました」
「何を?」
「今晩、この都市(まち)を離れます。夢を叶えるために」
そうか。これで、俺たちは終わりなのか。
「じゃあ、もう会えないんだね」
「いいえ。そんなことはありません」
まどかさんは、無邪気に笑った。
「賢一さんも、一緒に行きませんか?」
ええっ?
「二人でアルバイトをしましょう。二人でアパートを借りましょう。そして……」
まどかさんは、頬を染めて言った。
「二人で、仲良く暮らすんです」
俺は、その可愛らしい顔を見ていると、くらくらとして来た。
灰色の受験生活。
世間体だけを気にしている両親。
すべてを投げ捨てて、俺は都市を離れるのだ。
まどかさんとなら、幸せになれる。
こんな可愛らしい彼女が側にいてくれるなら、こんな生活、投げ捨ててもいいのではないか?
そうして、俺も夢を追おう。
俺は本当は、漫画家になりたかったのだ。
「行くよ」
俺は言った。
「どうすればいい?」
まどかさんは囁いた。
「今夜12時、弁天様に来て下さい」
4
こっそりベッドを抜け出して弁天様に来ると、おじさんと、お兄さんがいた。
「こんな夜遅くに何をしているの?」
おじさんが聞く。
僕は答える。
「内緒だよ」
「そうか、内緒か」
そう言って、おじさんは笑った。
しばらく待っていると、白いスーツを着た、綺麗な人がやって着た。
髪は、腰に届くほど長かった。
頭には同じく白い帽子を被り、青いネクタイをしている。
手には、日本刀を持っていた。
その人が言う。
「こんばんは」
びっくりした。
その綺麗な人は、男だったんだ。
「僕はレイゼイ。伊吹冷泉と申します」
その人は、帽子を脱いで、鳥居をくぐった。
5
「僕はレイゼイ。伊吹冷泉と申します」
その人は言った。
「あのですね」
言葉を続ける。
「待ち人なら、来ませんよ?」
「ええっ!」
私も驚いたが、子供も、青年も驚いたようだった。
私は尋ねる。
「まどかさんが来ないって何だね? 急な用事でもできたのか?」
「いいえ」
伊吹君は日本刀を、軽く持ち上げる。
「僕が切りました」
「はあ?」
意味がわからない。
「待ち人は、鬼だったのです。それも、人拐い(ひとさらい)の鬼だったのです。僕は、弘前に足を踏み入れた『それ』は、誰であろうと切らねばなりません」
「鬼? 人拐い? 冗談だろう?」
伊吹君は、桜色のカンザシを取り出して見せた。
それは確かに、まどかさんのカンザシだった。
「信じられなくても当然です。しかし、これだけは理解して下さい。あなたたちの、待ち人は来ません。もう、遠くへ行ってしまったのです」
6
「みんな家に帰りましょう」
伊吹さんは言う。
「辛い毎日でも、逃げてはいけません。いいえ、時には辛いことから逃げるのも大事なのですが」
伊吹さんは、頭を傾げる。
「まあ、こういう逃げ方は良くありません。少なくとも、僕はそう思います」
中年が言う。
「まどかさんは、私のまどかさんは、一緒にこの都市から逃げようと言ったんだ!」
俺のまどかさんだって、一緒にこの都市を離れようと言ったんだ! 二人で、一緒に暮らそうって!
少年は、しくしくと泣き始めた。
伊吹さんは続ける。
「祭りは終わりです。終わるから、祭りなのです。さあ、家に帰りましょう」
7
僕は泣いていた。
まどかちゃんが、約束を破るなんて!
明日から、またいじめられる毎日が始まるんだ。
ああ。
明日なんて、来なければいいのに。
いつまでも、お祭りが続けばいいのに。
8
私は、自嘲気味に笑った。
私は今の生活から、逃げることも出来ない。
まどかさんは、私の生活に現れた、救いの光だったんだ。
明日から、またつまらない、辛い日々が始まるのだろう。
祭りは終わった。
家に帰り、また日常に戻ろう。
まどかさんが来ない以上、それしかないじゃないか。
9
俺は、何とも言いようがなかった。
鬼?
まどかさんが鬼?
俺に震えながらキスしたまどかさんが、声優になるのが夢だと語ったまどかさんが?
涙が、俺の頬を伝わった。
まどかさんは行ってしまった。
俺を置いて、遠くへ行ってしまった。
俺は追いかけたかった。
だが、それも叶わないことも、何故だかわかっていた。
楽しい祭りだった。
素敵な祭りだった。
終わってしまうと、淋しさだけが残るばかりだった。
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