第三話 夜に来たる

 1

 恵理は、私たち夫婦にとって、遅くにやっと出来た子です。

 そりゃあもう、可愛くて可愛くて仕方がありません。目に入れても痛くない、とはこのことでしょう。

 恵理はすくすくと、大病もなく育ちました。

 成績は、私たち夫婦の子ですから、ずば抜けて良いわけでもありませんでしたが、性格はいたって真面目で、先生方からも信頼されており、内申書はとても良く書かれておりました。

 本当に親の言うことを素直に良く聞く、とても出来た子だったのです。

 そう、中学を、卒業するまでは。

 そんな恵理が変わってしまったのは、高校に入ってからでした。

 高校受験に失敗し、不本意な学校に通うことになってしまったのが、よほどショックだったのでしょうか。

 恵理は勉強も真面目に取り組まないようになり、部活にも顔を出さず、いわゆる不良グループと付き合うようになってしまいました。

 朝帰りこそしませんでしたが、遅く帰って来る日が多くなっていきました。

 そこでどうやら、その男と知り合ったようなのです。

 その男の名前は知りません。

 ですが、どうやら恵理に出来た初めての恋人のようなのでした。

 親としては、高校生らしい、健全な交際を望むものです。

 しかし、恵理はまったく聞く耳を持たず、ついには初めての朝帰りをしてしまうのでした。

 誰といたのかを問いただすと、恋人と一緒だった、と悪びれずに言ってのけました。

 妻はショックのあまり、もう気を失って倒れんばかりです。

 私は今まで可愛いあまりに優しく育てすぎたのだと反省し、初めてきつく恵理を叱りました。

 そして、夕方6時以降の外出を禁止したのです。

 恵理は、こう言ってはまた親馬鹿だと思われるでしょうが、やはり根は素直な良い子なのです。

 最初は首を縦に振らなかったものの、しぶしぶとそれに承諾しました。

 でも、私には、はっきりとこう言ったのです。

「いいわ。彼の方から、遊びに来て貰うから」と。

 恐らく恵理の方から携帯で呼び出し、男が遊びにやって来るという意味なのだな、と私は思いました。

 私はその男が来たら、追い返すつもりでした。

 だってその男がどんな奴なのかはまったくわかりませんが、娘には、もっときちんとした男性と付き合って欲しいじゃありませんか。

 私は、いつその男がやって来るのかと気が気ではありませんでした。だが結局、遅くなっても、その男は現れませんでした。

 夜の十二時を越えた頃でしょうか。私は安心して、眠ろうと寝室に向かいました。

 すると。

 恵理の部屋から、楽しげな話し声が聞こえてきます。

 携帯で友だちと話しているのだな、と最初は思いました。

 こんな夜更けに困ったものだな、とも思いました。

 あの年頃の子から、携帯を取り上げるのはなかなか難しいことなのです。

 だが電話にしては、おかしな所がありました。

 はっきりと、話している相手の声も聞こえてくるのです。

 それは明らかに男の声でした。

 二人の会話は、それもその……親しげな恋人同士の会話は、ドア越しにはっきりと聞こえてきます。

 もちろん、玄関から入って来たわけがありません。

 え? 窓から?

 いいえ、それもありえません。

 だって我が家は、マンションの5階なんですよ!

 私はドアをノックしました。

「誰かいるのか?」

「いないわよ」

 恵理は答えます。

「じゃあ開けて、父さんにちょっと中を見せてくれないか」

「プライバシーの侵害だわ。イヤよ」

「お願いだから、見せてくれ」

 私はできるだけきつい声で言いました。

「……わかったわ。少し待って」

 いらいらと私は待ちました。

 そして、鍵が外されました。

 ドアの隙間から中を覗くと、部屋は真っ暗です。

 窓が大きく開いていました。

 その窓から吹いてくる風に乗って、異様な匂いが私の鼻に届きました。

 この部屋には、やはり、誰かがいたに違いないのです。

 部屋に入った私は電気を付け、男がいた証拠を探しました。

 そして私は、何か嫌な予感がして、ベッドの掛け布団を剥がしたのです。

「やめてよ!」

 すると白いシーツの上には。

 無数に散らばっていたのです。

 それは、太くて見るからに堅そうな、獣の毛なのでした。



 2

 伊吹冷泉さんとは、桶屋町にある若葉ビルの2階、『アメリカンパブ 1951』というお店で待ち合わせをした。

 店の片隅で、彼はワイルドターキーをロックで飲みながら、私の話を最後まで聞いてくれた。

「これがその毛です」

 ティッシュに包んだ獣の毛を見せると、彼はそれを摘まみ上げて、言った。

「これは間違いなく、鬼の毛ですね」

「鬼? 獣ではなくて?」

「獣の毛ではありますよ。何の獣かはわかりませんが。ですが獣が何らかの理由によって、鬼になることがあるのです」

 鬼。

 恵理の恋人は鬼なのだ。

 そして恵理は、鬼に……抱かれている。

「相談した住職も、相手は鬼だろうと言っていました。そして鬼なら、伊吹さん、あなたにしか退治できないだろうとも言っていたのです」

 目の前に座っている人物は、驚くほどの美青年だった。そのくっきりとした目鼻立ち、魅惑的な唇。

 そして美しく黒い髪は、腰に届くまで長いのだった。

 彼の衣服は、上下とも白の高級そうなスーツである。それに青いネクタイを締めている。

 傍らには、白いソフト帽。

 彼は言った。

「分かりました。この件、お引き受け致しましょう。さっそく今晩、お宅にお邪魔したいと思います」

 ほっ、と私は胸を撫で下ろす。

 伊吹さんにかかれば、退治できない鬼はいないという噂なのだ。彼は弘前で唯一の、鬼退治の専門家なのである。

 私は尋ねた。

「恵理は以前のような良い子に戻りますか?」

「最悪の状態からは、戻るでしょう。でも不良グループとの付き合いをやめるかは、あなた方夫婦の説得次第ですね」

 私は心に誓った。

 恵理が元に戻ったら、はっきりと伝えよう。どれほど私たち夫婦が心配し、心を痛めていたのかを。

 そして、どれほど私たち夫婦が、恵理を愛しているのかを……。



 3

 家にやって来るなり、伊吹さんは麻のロープ等を取り出して言った。

「まず、お願いしたいことがありあます。それは恵理さんの両手両足を縛り、口には猿ぐつわをして欲しいのです」

 私たちは嫌がり暴れる恵理を押さえつけ、三人ががかりでそれを行った。

 大変だった。

 その最中、恵理は私たち夫婦に乱暴な口をきくだけでなく、伊吹さんをも口汚く罵った。

 ああ、恵理は、こんな言葉を口にするような子じゃなかったはずなのに。

「申し訳ありません」

 私が謝ると、伊吹さんはいやいやと手を振って、

「いいんですよ。鬼に魅入られた人間の言うことなんて、僕は気にしませんから」

 でも、と言って、彼は可愛らしい頬をぷうと膨らませた。

「でも、でもっ、『オカマ野郎』なんて、ちょっとひどすぎるとは思いませんかっ!?」

「はあ」

 正直、何と言って慰めたら良いのかわからない。

 それから、縛り上げた恵理をリビングに寝かすと、私と伊吹さんは、恵理の寝室に入った。

 伊吹さんは、ベッドの上にきちんと畳まれた、恵理のピンク色のパジャマを指差して言った。

「これは恵理さんのパジャマですね?」

「そうです」

 彼はそれを手に持つと、胸の前で広げてみた。

「うん。これなら何とか着られそうだ」

「え?」

「僕は、理恵さんのフリをして、鬼を迎え撃つつもりです。それには、恵理さんの匂いがする物を身につけていた方がいいのです」

「そういうものですか」

「これを着てもいいですか?」

「ええ、構いません」

 彼は、すぐには着替えなかった。

 恵理のパジャマを胸の前で抱えたまま、彼は呟く。

「あのう。着替えるので……向こうを向いてて貰えませんか?」

「す、すみません!」

 私は慌てて背を向けた。

 さらさらと着替える音を聞きながら、私は思った。どうして男の着替えを、見てはいけないのだろう? そして私はなぜこんなに、どぎまぎしているのだろう?

「いいですよ」

 振り返って見ると、私は言葉を失ってしまった。

 あまりにも、可愛らしかったからである。フリルの付いた可愛らしいパジャマ。胸のところに小さなリボンが付いたパジャマ。

 それが、あまりにも似合っている。

「そんなにおかしいですか?」

 彼は言った。

「い、いいえ!」

 とても良くお似合いですよ、という言葉を、私はとっさに飲み込んだ。それが彼に対する褒め言葉なのか、良くわからなかったからである。

 彼は日本刀を持って、しずしずとベッドに入った。

「電気を消して下さい」

「はい」

 私は言う通りにした。

「では、部屋の外で待っていてください。決して、僕が良いと言うまで入らないで下さいね」

 私は部屋を出て、廊下に座り、ドアに片耳を当てた。

 鬼がやって来るまで、そうして待っているつもりだった。



 窓を開ける音がした。

「恵理、今日も来たぞ」

 男の声だった。

 男はやはり、窓から入って来ている!

「待ってたわ。早く入って来てちょうだい」

 そう答えたのは、間違いなく恵理の声だった!

 父親の私が言うのだから、間違いない。

 恵理はリビングで、猿ぐつわを噛まされて、横になっているのではなかったのか?

「おい、何だか匂いが違うぞ。お前は本当に恵理なのか?」

「当たり前のこと聞かないでよ。私は恵理に決まってるじゃない」

 恵理じゃないとすると、この喋っているのは、伊吹さんに違いないのだ。

「どうしてベッドから出て来て、俺に顔を見せてくれないんだ?」

「それはね、顔にニキビが出来ていて、恥ずかしいからよ」

「どうしてベッドから出て来て、俺にキスしてくれないんだ?」

「それはね、唇がカサカサに荒れていて、みっともないからよ」

「どうしてベッドから出て来て、俺を抱きしめてくれないんだ?」

「それはね、ベッドの上で早くあなたに抱かれたいからよ」

 男は下卑た笑い声を漏らした。

「じゃあ、今夜も楽しむとしようか」

「ええ早く抱いてちょうだい」

 その時だ。

 リビングの方から、恵理の叫び声がしたのだ。

「逃げてえ! はやく逃げてえ!」

 どうして?

 妻が、猿ぐつわを外してしまったのだろうか?

「き、貴様は誰だ!」

 男の声。

 どたばたどたばた、という音。

 そして。

「ぐおおおおお!」

 雷のような叫び声がとどろいた。

 ばたん、と何かが倒れる音。

 しばらくしてから、ドアが開けられた。

 伊吹さんが、左腕からぼたぼたと血を流しながら立っていた。

「すみません。ちと怪我をしてしまいました。お手数ですが、救急車を呼んで貰えますか?」

「は、はい!」

 私はリビングに行き、妻に電話をかけさせた。床では、恵理がぐったりと横たわっていた。

 戻ると、伊吹さんは青い顔をして、廊下にしゃがみ込んでいる。

「大丈夫ですか?」

「なあに。これくらいの傷、良くあることですよ」

 私は伊吹さんのことも心配だったが、正直、もっと心配なことがあった。

 なので率直に尋ねる。

「鬼は退治できたのですか?」

「ええ、もちろんですよ。見てご覧なさい」

 私は恵理の部屋を覗き込み、電気を点けた。

 あっ。

 カーペットの真ん中に、転がっているもの。

 それは血まみれの、巨大な猿の亡骸だったのである。

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