第二話 夜を走る

 1

 暗い暗い夜でした。

 私は一人ライトバンの車内で、噂の幽霊がやって来るのを待っていました。

 その噂によると、幽霊と言うのは『弘前・白神アップルマラソン』の途中に心臓発作で倒れて死んだ、Tさんだと言うことなのです。

 Tさんが倒れた場所に真夜中、ヒタヒタと走る幽霊が出ると言うのでした。

 私は末端と言え、そのマラソンの組織委員会の一人です。その噂を確かめる必要がありました。

 だってそうでしょう? そんな噂がこれ以上広まってしまったら、マラソンの運営に悪影響があります。

 御祓い? しましたよ、もちろん。

 でも、Tさんの幽霊を見たという噂は瞬く間に広まり、東奥日報(ご存知でしょうが、青森県の地方新聞です)やらテレビやらで取り上げられ、県内を越えて東京のマスコミまで取材に来るようになってしまったのです。

 まったく最近のマスコミときたら、普段は記事にもしてくれない地方のマラソン大会を面白おかしく書き立てて……

 失礼しました。話を戻しますね。

 私は緊張しながら待っていたはずなのですが、昼間の疲れが出たのでしょうか、いつの間にやら、うとうとと眠ってしまいました。

 その私が、はっと気が付いたのは、間違いありません、こちらに向かって駆けてくる足音のためでした。

 タッタッタッタッ。

 その足音は、どこか遠く遠くから聞こえて来ます。

 徐々に、私の方に近づいて来ます。

 これこそTさんの幽霊に違いあるまいと私は思いました。

 だが、確認は出来ません。あまりの恐ろしさに私は、目を瞑ってしまっていたのです。

 タッタッタッタッ。

 足音はますます大きくなって来ます。

 そして。

 そして、です。

 恐ろしいことに、その足音は私の車の横で、ぴたりと止まってしまったのでした!

 がくがくと、私は震え出しました。

 もう恐くて恐くて仕方がありません。

 私はただ一心に目を瞑ったまま、今まではまともに唱えたこともない念仏を、繰り返し口にしていました。

 はっきりと、車内を誰かが覗く気配がします。目を開けたなら、車内を覗き込むTさんの姿があるに違いないのです。

 そうして、どれくらい時間が経ったのでしょうか。

 タッタッタッタッ。

 再び走り始めた足音は、徐々に小さくなって行きました。

 今しかない。

 今なら。

 私は覚悟を決めて、目を開けました。

 見えました。

 ええ、はっきりと見えたのです。

 それは暗い暗い闇に消えていく、Tさんの後ろ姿であったのです。

 なぜTさんだとわかったのかって?

 ゼッケンですよ。

 その幽霊は、マラソンのゼッケンを付けていたのです。



 2

 コーヒーを飲みながら、伊吹冷泉さんは私の話を聞いていた。

 場所は、東北地方で一番古い喫茶店とされている『土手の珈琲屋 万茶ン』である。

 余談だが、この喫茶店はあの太宰治も足繁く通った店だそうだ。

 スペシャルブレンドをふーふー言いながら飲んだ(どうやら猫舌であるらしい)伊吹さんは、聞き終わると、「それは運が良かったですねえ」としみじみ呟いた。

「運が良かったとは?」

 私の問いに、伊吹さんは平然と答える。

「ずっと目を瞑っていたことですよ。もし姿を見て、相手と目が合っていたなら」

 彼は、肩をすくめて、

「ここには今頃、いられなかったことでしょう」

 ぞっとした。

 うふふふ、と彼は笑って、

「この仕事、確かに引き受けましたよ。今晩にでも、その鬼には成仏していただきましょう」

「やはり鬼なのですね。皆が、この件はあなたにしか解決できないだろうと、口を揃えて言っていました」

「へーえ。みんなとは?」

 小首をかしげる仕草が、たまらなく愛くるしい。

「僧侶や、神職の方々ですよ。それに幽霊を退治できると普段言っている祈祷師たちもです。でも幽霊ではなく鬼とは、一体どういうことなのですか?」

 彼は、うーん、と可愛らしく唸ってから、

「ただの幽霊なら、車内を覗き込み、あの世への道連れを探したりはしませんよ。だから僕の呼び方では、鬼なのです」

「はあ」

「元々は確かに幽霊だったのですが、何のせいか、厄介な鬼に変化(へんげ)してしまったということです。そして鬼が相手なら、僕の出番という訳ですよ」

 伊吹冷泉さんは、この弘前市でただ一人、鬼退治を専門としている人物なのだった。

 その容姿には、正直言って驚かざるを得ない。近頃の女性アイドルでさえも顔負けの、とんでもない美貌なのである。それに艶やかな美しい黒髪は、腰までも長い。

 そんな趣味のないはずの男の私でも、思わず魅入ってしまうほどの美青年なのであった。

 中年の私よりも遥かに年下だと言うが、正直、年齢不詳なところもある。

 白いスーツを着て、青いネクタイを締めた彼は、同じく白いソフト帽を持ち上げてから言った。

「では今晩十二時に、そのTさんが亡くなった場所に集合と言うことでお願いします」

「え? 私も行かねばならないのですか?」

「うん。実は、その」

 彼はちょっと躊躇してから言った。

「一人では、持てないものがあるのです」



 3

 伊吹さんは、時間通りにやって来た。

「お待たせ致しました。これが、今回の退治の道具です」

 そう言って彼はポケットから、くるくる巻かれた白い紙テープを取り出した。

「それを何に使うのですか?」

 彼は、そのテープを少し、伸ばして見せる。

 何か文字みたいなものが書かれてあった。

「ありがたいお経が書かれています。ただのテープでは、ひょっとしたら、鬼には効果がないかもしれないので」

 私は素直に尋ねた。

「話がさっぱり見えません。私に何をさせようと言うのです?」

「あなたには、このテープの端を持って、道路の脇に立っていて貰います。それで反対側を僕が持って、二人でピンと張る訳です」

「それはつまり……」

「ええ」

 彼はニッコリと笑って言った。

「これは、マラソンのゴールテープなのですよ」



 4

 タッタッタッタッ。

 足音が闇の中を近づいて来る。

 私は伊吹さんから言われた通り、固く目を瞑っていた。

 決して見てはいけませんよ。

 彼は真剣な表情で、私に命じていたのだった。

 タッタッタッタッ。

 足音は、だんだんと大きくなって来る。

 私の中で、恐怖がむくむくと大きくなって来た。

 今日はなぜだろう。ハアハアと言う、息遣いまで聞こえていた。

 その息遣いは、とうてい人間のものとは思えないほどの荒々しさなのだった。

 タッタッタッタッ。

 ハアハアハアハア。

 闇の中を、何かが近づいて来る。

 私はもう、恐怖のあまりに泣きそうだった。

 それでも私は必死に耐えていた。

 逃げ出したいのを、必死に堪えていた。

 伊吹さんが言うのには、今宵は、鬼には私は見えていないそうである。

 こちらが大声をあげたりしなければ、鬼は私に気が付かないと言うのだ。

 だが、それは本当なのだろうか?

 この前の夜のように、鬼は私の目の前で立ち止まるのではあるまいか?

 そう思うと、恐くて恐くてたまらなくなるのだった。

 そして。

 タッタッタッタッ。

 ハアハアハアハア。

 私の目の前を、その気配は、立ち止まらずに通過したのである。

 そして足音は、不意に消えてしまったのだった。

 後には、ただ静けさだけが残るばかりである。

 それを破ったのは、伊吹さんの可愛らしい声だった。

「良いですよ。目を開けて下さい。鬼は成仏いたしました」

 私は目を開けた。

「恐ろしい鬼でしたよ。さすがの僕も、まともには戦いたくない相手でした」

「本当に成仏したのですか? もう現れないと?」

 彼は言った。

「鬼はマラソンをゴールして、あの世へと旅立って行きました。もう現れることはありません。証拠に、ほら」

 あっ。

 私は気が付いた。

 見ると、ピンと張られていたはずのゴールテープは断ち切られ、私の手元から、だらりと地面に垂れ下がっていたのである。

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