第4話 お食事中のかたはご注意を!

 朝日がエジプトを照らします。


 ミイラ工房があるのは、ナイル川をはさんで西側。

 ピラミッドがあるのも西側。

 ナイル川の東には、一般の住宅街が広がっています。


「やはりエジプトは、いつの時代も美しいのう」

 ミイラ工房から出てきたクフ王は、朝日に輝く町並みを眺めて、両手をかかげてお祈りをしました。


 町がきれいなのは、町の人たちの暮らしが豊かだから。

 エジプトが豊かなのは、ナイル川の水が豊かだから。

 ナイル川が豊かなのはナイル川の神さまが豊かだからで、神さまが豊かなのはエジプトの人々がお祈りやお供え物をしているからです。

 だから神さまにお祈りをささげるのは、ファラオの重要な勤めです。



「おや?」


 クフ王がふと足もとを見ると、一匹のフンコロガシが“例の玉”を転がしながら横切っていくところでした。


「ほほう、これはこれは……」


 クフ王は、ひじを曲げた形で両手を挙げて、まるで神さまをたたえるみたいにフンコロガシをたたえました。

 丸い玉を運ぶフンコロガシは、丸い太陽を運ぶケプリ神の聖獣なのです。



 空に太陽は一つ。

 ですが太陽神は大勢居ます。


 ラー神、アトゥム神、プタハ神、ハトホル女神、アメン神、アテン神。

 ぜーんぶ太陽神の名前ですし、まだまだいっぱい居ます。


 というより、よっぽどのこだわりでもない限り、ほとんどのエジプトの神さまは、何かしらで太陽神的な属性を持っているのです。

 月の神のトート神ですら、頭に太陽の冠を乗っけています。

 みんな太陽が大好きなのです。


 そんな太陽神の中でもフンコロガシのケプリ神は、“例の玉”を運ぶように太陽を運び、夜に沈んだ太陽を次の朝にまた昇らせる、復活の力を司る朝日の神さまです。






「おはようございまーす、クフせんぱーい!」

 ツタンカーメンの、のほほんとした声が、朝もやの空に響き渡りました。


 小鳥に化けて飛んできて、くるりんぱっと人間に戻ります。


「先輩、何を見てるんですか? ……うげっ」

 ツタンカーメンはフンコロガシと“例の玉”を見て、慌てて飛び下がって、自分のサンダルが汚れなかったか確かめました。


「こりゃ! 太陽神さまの聖なる虫に向かって何ちゅー態度じゃ!」

 クフ王が顔をしかめました。


「だってこの玉ってウン……」

「お前さんだってケプリ神の護符ぐらい持っとるじゃろ」


 復活の力を司るケプリ神の護符は、ミイラの埋葬には欠かせません。

 普通はケプリ神の護符は、棺の中に寝かされたミイラの、心臓の上に置かれます。


「あるけど宝石でできてるやつですゥ! さすがに本物のウン……」

「言うでない」

「だってェ! ……でも……ん……うん……確かに……」


 ツタンカーメンだってエジプト人です。

 エジプトの神さまに守られている身です。

 神さまの玉を汚がるのは、正しい態度ではありません。


「そうだよな。これは神聖なモノなんだ。うん、そうだ」

 ぶつぶつと自分に言い聞かせます。

 でも“例の玉”は臭いです。


 フンコロガシは逆立ちをした格好で、後ろ足で“例の玉”を押して、上り坂を越えていきます。

 転がすうちに“例の玉”に砂がついてコーティングされて、そこまで汚い感じではなくなっていきます。


“例の玉”はフンコロガシの体よりも何倍も大きくて、何倍も重いです。

 あとちょっとで坂を上りきれるというところで、フンコロガシは“例の玉”ごと後ろに転げ落ちてしまいました。





 ツタンカーメンは、クフ王がひどく神妙な雰囲気をしているのに気がつきました。

 包帯で覆われたミイラの表情が、見えているわけではないのですが、ツタンカーメンも幽霊で、二人とも死んでいる同士なので、なんとなくですがわかるのです。

 そう。どんなにとぼけていても、彼らは二人とも死者なのです。



 ツタンカーメンもクフ王も、死んで、ミイラになって、お墓に入って、そこから長い旅をしました。

 死者の世界、冥界の旅です。


 その旅は、冥界の王様であるオシリス神に会うための、試練のための旅でした。

 いくつもの試練を乗り越えて、オシリス神に特別に認められたからこそ、二人の死者は、こうしてミイラのまま歩き回ったり、幽霊になって飛び回ったりできているのです。


 フンコロガシの姿をしたケプリ神の護符は、冥界の旅の間、ツタンカーメンを守ってくれていました。

 でも本物のフンコロガシの“例の玉”は臭いです。





「これ、ツタンカーメンよ。何をキョロキョロしておる?」

「この辺に牧場でもあるのかなぁって」

「何故じゃ?」


 ミイラ工房は、ゴツゴツの岩だらけの人気ひとけのない場所に建っています。

 だからこの辺りには、牧草もないし家畜も居ません。


「この玉の材料は、どんな動物が出したものなのかなぁと」

「動物?」

「牛とか豚とか羊とか」


 ツタンカーメンはフンコロガシの“例の玉”が、そういう動物のフンでできていると予想しているようです。

 だけど違います。


「ワシじゃ」

「?」

「ワシのじゃ」

「???」

「みなまで言わすな。ワシが出したのじゃ」

「…………ッ!!」


 ワシが出した。

 クフ王の言葉の意味を理解するのと同時に、ツタンカーメンのバーは、ズギューーーンと、空の彼方へすっ飛んでいってしまいました。






 歴史あるギザの町の南には、メンフィスという華やかな都があります。

 メンフィスには、プタハ神を奉る、とても大きな神殿があります。

 神殿にはこれまた大きな池があって、広々した水面いっぱいに、鮮やかな青色のスイレンの花がたゆたっていました。


「いい香りだ……」

 ツタンカーメンはそっと目を閉じて、王様らしく優雅にほほえみました。






 こうしてツタンカーメンは気持ちを切り替えて、クフ王のところに戻ってきました。

 すると……

「困ったことになったわい」

 開口一番、クフ王がぼやきました。


 なんと、どこからともなく現れた二匹目のフンコロガシが“例の玉”を奪い取ろうとして、最初のフンコロガシに襲いかかったというのです。


「横取りを見過ごしたくはないんじゃがなぁ。もとがワシのものなだけになぁ」

「だったら助けたらいいじゃないですか」

「わかっておらぬな、小僧」


 クフ王は悲しげに首を横に振りました。


「やつらにはやつらのおきてがあるのじゃよ。やつらはその掟のもとに闘っておる。

 虫には虫、鳥には鳥、獣には獣の定めがある。人間同士ですら、掟の異なる者同士で争いになるのに、ワシらの正義を虫に押しつけても、より大きなゆがみを生むだけじゃ」


 クフ王は大きなため息をつきました。


「……とはいえツタンカーメンよ、お前さんがどうしても手出ししたいと言うのならばワシは止めぬがな」

「手は出したくないです。やっぱ汚いし」

「だからワシも嫌なんじゃい」


 だから二人は手は出さないで、二匹の闘いを黙って見守ることにしました。




 六本の足で、キック、キック、キック!

 硬い甲羅で体当たり!


 フンコロガシのバトルは、なかなか決着がつきません。

 ツタンカーメンはだんだん退屈になってきてしまいました。


「クフ先輩、いつまで見てるんですかー? もう帰りましょーよー」

「ツタンカーメンよ、この二匹のうち、勝つのはどちらだと思う?」

「あとから来たフンコロガシのほうが大きいし強いみたいですよ」

「ワシは先に居たほうに賭ける」

「賭ける?」

「お前さんが勝ったらおとなしくピラミッドに戻ってやる」

「待ってくださいっ。それじゃおれが負けたらクフ先輩は徘徊はいかいを続けるつもりなんですか?」

「徘徊と言うでない。おさんぽじゃわい」


 そこから二人は声を上げて応援をし始めました。


 しばらくして、先に居たほうのフンコロガシが逃げ出しました。

 あとから来たほうのフンコロガシの勝利です。


 それを見てクフ王が目頭を押さえました。


「そんな大げさな。たかがフンコロガシの勝負で」

 ツタンカーメンは呆れ顔です。


「ちと思い出してしまってな。若僧よ、お前も王ならばわかるであろう。奪うことも奪われることも」

「…………」




 似たような争いは、人間同士でも頻繁に起きています。

 王さまのお仕事は、自分の国の国民同士が争わないように収めることと、ほかの国との争いから自分の国の国民を守ることです。


 それをわかっていない人は、ただただ欲張りな気持ちで王さまの地位をほしがって、王さまに争いを仕かけます。

 ですが、ただの欲張りが王さまになっても、国民を守ることはできないのです。




“例の玉”は、人間から見ればただの……


 ですがフンコロガシにとっては生きるのに欠かせない食べ物です。

 自分でも食べるし、卵を産みつけて子どもに食べさせもします。


 自身の生活のかてであり、子孫に受け継がせる財産でもあります。

 人間にとっては大切じゃなくても、フンコロガシにとっては大切なものなのです。




「すまぬな、ツタンカーメンよ。しばし一人にしてくれ」

 クフ王は眉間にしわを寄せ、苦しげな息を吐きました。

「……クフ先輩、大丈夫ですか?」

「案ずるな。すでに出かかっておる」

「?」

「負けたフンコロガシのために、ワシがもう一発いたす」

 ツタンカーメンは慌てて逃げ出しました。






 ナイル川の水で潤された、広大な麦畑。

 その片隅の小さな畑に、濃い紫色の、小さな花が咲き乱れています。

 ナスとはちょっと違いますが、ナスの親戚にあたる、エジプトに昔からある野菜の花です。


「かわいい花だ」

 ツタンカーメンは、畑の隅に腰をかけて、ほおづえをついて景色を楽しみました。






 ツタンカーメンは気を取り直して、さっきの場所に戻ってきました。

 するとクフ王がまた居なくなっていました。


 ただ、クフ王の痕跡だけが、まざまざと残っています。

 先ほど負けたフンコロガシが、クフ王の痕跡を一所懸命にこね回して、新たな玉を作り出そうとしていました。


「ああ……生命の神秘だ……」


 ツタンカーメンは遠い目をしてつぶやきました。

 太陽はすでに、ずいぶん高くまで昇っていました。

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