第3話 怖くないホラ怖くない

「せんぱーい!」

 せまい路地では冷たい夜風が、ツタンカーメンの声を吹き散らします。


「クフせんぱーい!」

 大通りではお祭りの賑わいが、ツタンカーメンの声を飲み込んでしまいます。


(もしかしたら、先にピラミッドに帰ったのかもしれない)

 だけどピラミッドの周りは人が多すぎて近づけません。



 どうしたものかとツタンカーメンは、町じゅうをあっちへこっちへ飛び回りました。

 そうするうちに倉庫の陰で、キジトラ模様の猫さんに出逢いました。


 先ほどの猫さんと同じ模様ですが、別の猫さんです。


 古代の猫はだいたいみんな、ワイルドなトラ模様です。

 模様のない猫が現れるのは、もっとずっとあとの時代からだとされています。



 ツタンカーメンは猫さんに、クフ王を見かけなかったか訊いてみました。


「あー、あの、猫のありがたみがわかっていない感じのジイサンね。

 生きてる人間には、倉庫の麦や豆をねずみから守る猫は宝だけれど、死者にはお墓の番犬のアヌビス神みたいなののほうがいいんでしょうね」

 猫さんはおひげの手入れをしながらぼやきました。

「なんかもう、今夜はピラミッドに戻るのはあきらめて、どこか一晩、泊まれる場所を探しにいったみたいだわよ」



 この時代には専門の旅館業というものはありません。

 それでもお祭りの時期は、旅行客が大勢やってきます。

 だから大きなお家を持っていて、部屋が余っている人は、お祭りの時期だけお家を宿屋にします。


 大きな広場ではたくさんの臨時の宿屋さんが、声を張り上げてお客さんを集めています。

 旅行客を泊める代わりに、旅行客が遠くの町から持ってきた珍しい品物をもらうのです。


 だけどみなさん素人なので、良い品物を渡したからって、良いサービスが受けられるとは限りません。

 おいしい料理を出してもらえる宿屋もあれば、とんでもないぼったくりの宿屋もあります。


 一方でお客さんのほうも、お客さんのふりをしたドロボウが紛れ込んでいたりもします。


 だから泊めるほうも泊まるほうもしっかりと話し合って、相手が信頼できるか確認して、ちょっとでもあやしいと思ったらお断りします。

 すんなり決まらなかったからって、時間を無駄にしたなんて思ってはいけません。

 だってもしも事件に巻き込まれたら、お祭りどころではなくなってしまうのですから。



 ツタンカーメンが首をかしげます。

「クフ先輩のあの格好で、泊めてくれる人なんて居るのかな?」

「泊まれる場所が見つかっていなければ、まだ広場に居るんじゃないかしら?」

 ネコさんに言われてツタンカーメンは、とりあえず広場に行ってみることにしました。






 広場へ向かう途中の道に、包帯が一筋、ビロ~ンと落ちていました。

 包帯は、とても古くて、ボロボロでした。

 クフ王のものに間違いありません。


 長く横たわる包帯は、まるで道しるべのように、広場とは別の方向へ続いていました。

 包帯をたどって進んでいくうちに、ツタンカーメンは町の外に出てしまいました。



 町の明かりや喧騒から抜け出して、辺りが急に寂しくなります。


 月の光がナイル川の川面を照らしています。



 包帯の先は、そのままナイル川の水の中へ入っていっていました。

「大変だあ!!」

 ツタンカーメンは思わず悲鳴を上げました。


 ミイラとは、カラカラに乾いていてこそのもの。

 濡れてしまうとは一大事です。


 ツタンカーメンは慌てて川べりに駆け寄りました。


 すると、なんと……水の中から、大きなワニの頭が出てきました!



「うわあああ!?」

 まずはワニそのものに驚いて……


「ぎゃああああ!!」

 ワニの口から包帯の切れ端が覗いているのに気がついて、さらに大きな悲鳴を上げます。



「クフ先輩がワニに!! 食べ、食べちゃられ、食べれれちゃっ……」

「落ち着くわに。私だわに」


 水音を響かせて、ワニが二本足で立ち上がりました。


「え? あ。セベク神?」

「こんばんはわに」



 セベク神は、ワニの頭に人間の体の神さまです。

 頭は緑のうろこで覆われていますが、体は人間の皮膚がむき出しで、人間と同じような服を着ています。

 人間がワニの被り物をしているだけのようにも見えます。

 ナイル川の豊かな水を司り、畑をうるおす豊穣神です。



 ツタンカーメンは心配そうに眉を寄せました。

「ダメですよセベク神! お腹を壊したらどうするんですか!? ミイラなんて煮ても焼いても食べられないですよ!! ああ、胃薬、胃薬……」


 ミイラ作りにはいろいろな薬品が防腐剤として使われています。

 薬の材料は、植物だったり、鉱物だったり。

 どれも自然のものですが、食べると毒になるものもあるのです。


「食べてないわに。この包帯は、川を流れてきたのが引っかかっただけだわに。ミイラ男ならあっちへ行ったわに」

 セベク神が示した先には、ミイラを作るための、ミイラ職人の工房がありました。




 ミイラ工房は、一般の民家や商店からは大きく離れた場所にあります。

 誰も居ないのは今が夜中だから当然です。

 けれどついついお祭りの賑やかさと比べてしまって、余計に気味悪く思えてきます。


 工房の中央には、ベッドのような作業台。

 この台の上に、亡くなった人の体を寝かせて、防腐剤を塗って、包帯を巻いて、ミイラを作り上げるのです。

 今は作業台の上にはミイラは居なくて空っぽで、作業台はきれいに洗ってあります。


 工房の壁際には、ナトロンという、塩に似た白い粉の塊が入った袋が積まれています。

 ナトロンには、ミイラの水分を吸い取る効果があります。

 ナトロンを使うと、お日さまに干すのよりもきれいにミイラが乾燥します。

 塩も水分を吸いますが、塩を使うとミイラの皮膚が痛んでしまいます。


 ミイラが腐らないように。

 亡くなった人の生きていたころの姿に、できる限り近い姿のミイラを作るために。

 ミイラ職人は技術を磨き、さまざまな器具や薬品を開発しているのです。

 ミイラは古代エジプト人にとって、とても大切なものなのですから。



 とはいえ当時の人だって、ミイラを不気味に思っていなかったわけではありませんけれど……



 工房の奥に、棺が一つ、ぽつんと横たえられていました。

 ふたに人の姿が描かれた、人形棺と呼ばれるものです。

 ツタンカーメンもこれに似た、これよりももっと豪華なものを持っています。

 ふたの絵は、うつろな目で工房の天井を見つめていました。



 ツタンカーメンの頭に不意に、深夜に考えるには良くないことが浮かんできました。


(この工房でやってる作業は、今、どの段階なんだ?)


 作業台は空っぽです。

 まだ準備中で、ミイラにされるご遺体は、これから工房に運び込まれるところなのでしょうか?


 それとも……


(もう処置を終えて……)


 すでに棺の中に……?




 木材がきしむ音が、ツタンカーメンの耳に飛び込んできました。

 ギギギ、と、棺のふたが開いていきます。


 棺とふたの間から……ゆっくりと……

 包帯に包まれた、枯れ枝のような指が覗き出ました。




「ぎゃーッ!!」

 ツタンカーメンが悲鳴を上げました。


「こらこら、騒ぐな。ワシじゃワシじゃ」

 棺から出てきたのはクフ王でした。

 あきれたようにパタパタと手を振ってツタンカーメンをなだめます。


「なぁんだ。てっきり……」

「てっきり何じゃ?」

「何でもないです。それより先輩、勝手に居なくならないでください」

 ツタンカーメンはぷくっとほほをふくらませました。


「お前さんがあんまりにも下品な変身をするから、恥ずかしくて見てられんくなったんじゃい」

「下品って……」

「おっぱいバイーン。言わすでないわい」

「そんなぁ……」

 ツタンカーメンとしては、誰も傷つけない魔法を選んだつもりだったのですが。


「まあ良い、ワシゃもうちょい寝るぞい」

「ちょっと待って! その包帯! 新しくなってませんか!?」

「新調したぞい。お前さん、いい時代に生まれよったな。ワシの時代にはこんな良質な亜麻なんてなかったのにズルイぞい」

「どこで手に入れたんですか!? まさかその辺にあったのを勝手に使ってるんじゃないでしょうね!?」


 ここはミイラ工房なのだから、包帯はたくさんあります。

 だけどここの包帯は、誰が使うかすでに決まっています。

 何より、人のものを勝手に持っていったら、ドロボウになってしまいます。


「失敬な。さっき警備兵から逃げとる時に、ちょうど布屋を見つけたんじゃい」

「支払いはどうしたんです?」

「古いほうの包帯に護符がはさまっとったんで、それを渡したぞい」


 ツタンカーメンはハァっとため息をつきました。


「せ、ん、ぱ、い!」

「うん?」

「そーゆーのがあるんだったら、もっと全身を隠せるような服を買ってください! ミイラ丸出しで町なかをウロウロされたら目立っちゃって……」

「うんうん。あとでな」


 クフ王はうっとうしそうに手を振って、棺のふたをパタンと閉じました。

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