第1話 ちょっと前なら覚えちゃいるが三三〇〇年前じゃ

 ほんの一年ほど前に死んだばっかりのツタンカーメンは、死後の楽園の王様であるオシリス神に頼みごとをされて、やっと一人前になれた気がしてちょっと得意になっていました。

 クフ王のミイラが勝手にピラミッドを抜け出して迷子になってしまったので、探して連れ戻してほしいと言われたのです。


 クフ王は、ツタンカーメンの時代から見ても千年以上も前に、ピラミッドを造った王さまです。

 そんな有名人に逢えるだなんて、わくわくして足もとがフワフワしてしまいます。


 実際にツタンカーメンはフワフワと浮いています。

 ツタンカーメンはミイラではなく幽霊なのです。

 ミイラだと目立ってしまうので、バーだけ抜け出してきたのです。



 晴れた夜空に、月と星。

 地上ではたくさんのかがり火がきらめいています。

 エジプトにはとても大勢の神さまが居られるので、お祭りの数も多くって、今宵が何のお祭りなのかは、ツタンカーメンも知りません。

 ピラミッドのふもとの神殿では、神官たちが何かの儀式をしているみたいだけれども、それ以外の人にとっては単純に、みんなであつまって、歌って踊って楽しむ日です。





 通りには出店がいっぱい並んで、にぎやかです。

 ツタンカーメンは近くに居たおじさんに声をかけて、クフ王の外見を伝えて、どこかで見かけなかったか尋ねました。

 そのおじさんは、エジプトの気候に合わせた坊主頭で、特別に豪華なわけではないけれども、きちんと洗濯をした、亜麻の腰布を巻いていました。


「ちょっと前なら覚えちゃいるが、月が昇る前じゃ、ちとわからねーな。

 ミイラの格好をした爺さんだって? 共同墓地に行きゃー、わんさか転がってんじゃねェのかい?

 アンタも難儀だな、こんな祭りの日の夜に」

「いえ、ありがとうございます」


 ツタンカーメンの息からは、高価なお香の匂いがしました。

 この辺りに住んでる人たちには、嗅いだことのない香りです。

 おじさんが驚いてまばたきをしている間に、ツタンカーメンの姿は煙のように掻き消えました。





「変な人なら、さっき見たわよ」


 筒のような形の細身のワンピースを着たご婦人が、ケラケラと笑います。

 大粒の色ガラスのネックレスがキラキラと揺れました。


「町が変わってしまっただとか、大げさに嘆いちゃってさァ。ずっと住んでるこっちとしちゃァ、もっと変化がほしいくらいだよ。

 遠くから観光か巡礼で来たのかって訊いたら、ピラミッドにこもってたなんて言うんだよ。

 かなりのお年みたいだったけど、それにしたってひどいボケっぷりさね。

 あんた、あの人の何なのさ? お孫さんかい? 職場の後輩? 大変だねエ」





 生成りのチュニックを着込んだ青年が、声を張り上げて客引きをしています。

 エジプトの男の人の服装といえば、上半身は裸で、下は腰布一枚巻いただけ!のイメージが強いですが、実は袖のついたシャツを着ている人だって居るのです。



「あんちゃん、ビール飲んでいきなよ! うちのビールはとなりの店のビールよりもウマイよ!


 ハッハッハ。ワインなんかこんなとこで売ってるわけねェや。こいつは木の実で色をつけてるんだよ。

 セクメトさまってぇライオンの女神さまにささげる、血の色の酒さァ。こいつで健康を祈るのサ。


 にしてもあんちゃん、いい服、着てんねー。見ただけで高級な亜麻を使ってるってわかるよ。同じ亜麻でも俺のとはえらい違いだね。

 触っていい? ダメ? あっそう。


 そう言や“王家の亜麻”って種類の布は、透けるほど薄くて軽くて柔らかいって聞くが、まさかそれじゃあないだろうね。

 いやいやまさか、王族がこんなところに居るわきゃねーな。


 何? 迷子の爺さんを捜してる?

 全身包帯って……いや、見てねェな。

 そんな怪我で祭りに来るなんて……あン? 怪我じゃない? ミイラなだけ?


 ウヒャヒャヒャ、あんちゃん、しらふに見えて、もう出来上がっちまってんのかい?」



 客引きの青年は、ツタンカーメンの肩を乱暴にたたこうとしました。

 これはツタンカーメンにとってはあんまり気分の良いことではありません。


 だけど青年は、ツタンカーメンの体には触れられませんでした。

 青年の手は、ツタンカーメンの体をスッとすり抜けました。

 だってツタンカーメンは幽霊なのですから。


「なっ!?」

 たたらを踏んだ青年が、転びそうになって踏みとどまって、顔を上げた時にはツタンカーメンはすでに居なくなっていました。





「ミイラならさっき見たわよん」


 少しは静かな路地裏で、ツタンカーメンに答えたのは、一匹のキジトラ模様の猫さんでした。


「なァんかヘンな格好してるから芸人さんかと思ったけど、まさかかつてのファラオだとはネ。

 しかもクフ王って、そこのピラミッドを作った人でしょ?

 三つ並んでるのの中の一番デカイの。あれがクフ王のピラミッドなのよね?


 何よ。猫が歴史にくわしくちゃおかしい? アタシ、こう見てもバステト女神に仕えてるのよ?


 それにしても今夜は騒がしくていけないわ。おかげでねずみ一匹、出てきやしない。これって朝まで続くわけ?


 ああ、ミイラ? あっちへ行ったわよ」





 ツタンカーメンが通りを抜けて広場に出ると、そこには人だかりができていました。

 見物人の輪の内側に、楽団と、踊り子達の輪。

 だけど音楽は聞こえません。

 その輪の中心で、一人のミイラが腰を押さえてもだえていました。



「何があったんですか!?」


 ツタンカーメンが駆け寄ります。


 周りの人の話によると、ミイラの格好をしたおかしなおじいさんが、踊り子のおねえさんの真似をして一緒に踊っていたところ、楽器の音色に混じって、グキッと嫌な音が響いたそうです。


「ったく!」


 ツタンカーメンが手をかかげると、何もない空中から、まるで手品のようにインクの壷が現れました。

 あしという植物のくきを筆にして、ミイラのかたわらにしゃがんで、腰の包帯に、古代エジプトにおける癒しのシンボルである“ホルスの目”を描きます。




 むかーしむかし。

 古代の人であるツタンカーメンや、ツタンカーメンよりももっと昔のクフ王よりも、さらにずっと昔。

 ホルスという神さまが、セトという悪い神さまに怪我をさせられた際に、知恵の神のトートと愛の女神のハトホルに助けてもらったことがありました。

“ホルスの目”はこの神話にちなんだ、怪我が早く治るためのおまじないです。


 普通の人が使ってもただのおまじないでしかありませんが、ツタンカーメンもクフ王も、死後の楽園“アアルの野”の住人なので、おまじないは効果てきめんの“魔法”になります。


 ツタンカーメンの祈りに答えて“ホルスの目”がピカッと光を放ちました。



「うおおおお! 復活ーっ!」


 ミイラが両腕を振り上げて立ち上がりました。

 勢いあまって、ミイラの包帯が解けてしまいました。



 あらわになったその顔に、野次馬が悲鳴を上げて逃げ出します。

 それはそうです。

 ここに居るのは本物のミイラ。

 その肌は干からびて、変色して、縮んでひび割れているのですから。



「何じゃ何じゃ、寂しいのう。近ごろの若いモンはこの程度で驚きよるんか。しかしいくらなんでもファラオに向かってその態度とは不敬極まりないぞい」

 ファラオとは、古代エジプトの王さまのことです。

 クフ王のそばに一人だけ残ったツタンカーメンは、気まずそうにほほを掻きました。

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