5章
第1話 寝坊助
―――長い長い時を、ずっと待っている気がする。
彼には、はっきりと時を理解する感覚はなかったが、退屈があまりに過ぎて、無性に寂しくなってきた頃、おそらくもう随分と待ち続けているのだろうと思った。
彼は、ここを離れられない。
その昔、優しい願いを叶えるためこの地に身を埋める決心をして以来、天地が壊れる日までこのままだ。
後悔はしていない。
けれど心残りがあるとすれば、あの子が苦しんでいるとき、何もしてあげられなかったこと。
いつかまた会えたら、そのことを謝ろうと思っている。
だから彼は、今日も寂しく待っていた。
「―――暇なのか?」
ふと気が付くと、彼だけの空間の中に、黒いモノが浮いていた。なんだろうと、意識を向けた瞬間には、もう遅い。
「俺が遊んでやろう」
影に絡め取られ、目の前が真っ暗になった。
*
恭国首都豊邑、紫微城、後宮。
「―――おっはよう!」
叫ぶと同時に、星彩は寝台へ飛び込んだ。日の光を避けるように布団の中で丸まっていた人は、突然の襲撃を受けてもそもそと頭を出す。星彩は上に乗ったまま、まだ眠そうなその顔へ笑いかけた。
「宗麟、そろそろ起きてっ」
恭国の若き王であり、星彩の夫、
「む・・・う・・・」
星彩の元気な挨拶にも、宗麟の返事はかんばしくない。一度は目が開いたものの、枕から頭は離れず起き上がろうともしない。星彩は宗麟の肩に触れ、軽く揺すった。
「今起きないと、また夜になっちゃうよ?」
「んー・・・」
「昨日はいつまで呑んでたの?」
「・・・明け方」
「それ今日だよ!」
思わず悲鳴じみた声を上げてしまう。
昨夜、宗麟は側近の韓当や徐朱、ついでに城に残っていた伯符も無理やり引っ張ってささやかな酒盛りをしていたのだ。
星彩も途中までは輪にまざっていたのだが、夜が更ける前には寝所に戻った。
宗麟たちはその後もずっと呑んで騒いでいたことは、寝入る寸前まで声が聞こえていたから知っているが、まさか朝までとは思っていなかった。
「二日酔い?」
「いや・・・眠いだけ・・・」
「そう? だったら、そろそろ起きないと
星彩がわざわざこうして宗麟を起こしに来たのは、そのせいでもある。
韓当や徐朱、伯符はさすがに休むことなく出仕していて、事情は彼らから全て伝わっているのだ。
ただ、宗麟たちが飲み明かすのは定期的にあることなので、縻達の怒りもそれほど凄まじいものではなかった。
だが恭の頑固宰相の名前は有効だったらしく、宗麟はやっと薄く目を開けた。
「・・・怒られるのは、嫌だな」
「でしょ? だから起きてっ」
「うー・・・む」
宗麟は悩むように唸ったあと、気付けばすぐ近くにある星彩の輪郭を捉え、すう、と口元に笑みを灯した。
「・・・じゃあ、目の覚めるようなことをしてくれ」
「いいよっ。なにすればいい?」
「ここで、ここに、触れてくれるだけでいい」
長い指が、そっと星彩の唇をなで、次に宗麟のものを示した。
「え?」
「星彩からしてもらえたら、きっと目が覚めると思う」
「!」
瞬時に頬が熱くなる。
宗麟と夫婦になり、口付けたことが一度もないわけではない。
だが星彩はなぜだかどうにも気恥ずかしかった。
「嫌か?」
「い、嫌じゃないよっ! だ、だけど、ちょっと、は、恥ずかしいっていうか・・・」
「大丈夫。誰も見てない」
いつの間にか、宗麟の腕が背に回り体がぴたりと密着している。それ程強い力ではないのだが、抗い難い何かがあった。
そうして真っ赤になっている星彩を下からおもしろそうに見つめ、待っている。決して宗麟からは触れようとしないのが、かえって困ってしまった。
「あ、あの、他のとこじゃ、だめ? ほっぺとか」
「だめ」
「あう・・・で、でも」
「でも?」
問い詰める宗麟の視線から、星彩は目を逸らす。
「でも、だって・・・くち、は、なんか、変な感じがするから・・・」
「へえ?」
宗麟が興味深げに声を上げた。
「どんな感じなんだ?」
「わ、わかんない、けど・・・前、その、した時、なんかふわってして、ぼーっとしちゃったっていうか」
「・・・ほう」
「と、とにかく、変な感じがして、すごく・・・恥ずかしくなる、から・・・」
だから許してほしい。
そう言おうとすると、背にあった宗麟の手が首の後ろに回って、逸らしていた目線を戻された。星彩の丸い瞳には、くつくつとおかしそうに笑っている宗麟が映る。
「星彩、逃げたかったら上手な言い訳を考えろ。そんなこと言われたら、もっとしてほしくなるだろうが」
「え、ええ?」
身じろぎ、退こうとしてももう遅い。引き寄せられて、あと少しで触れそうなところまで近くに迫って、それでも相手からは触れてこない。いっそ無理やりにでもされてしまえば、気付いた頃には終わってしまっているようなものであるのに。
「星彩がどんなふうになるのか、ぜひ見たいな」
「・・・っ」
囁くように言われ、息を呑む。
もはや宗麟に星彩を放す気はなく、このまま躊躇っていても埒が明かない。
星彩は、意を決してぎゅっと目を瞑った。
『――そんなに欲しいなら、アタシがしてあげるわよん♪』
べろ、と横から現れた猛獣が宗麟の横顔を舐めた。
「うわっ」
星彩が乗っていたのを物ともせず、小さな体を抱き締めたまま宗麟は反射的に起き上がった。
『どう? 目は、覚めたでしょ?』
鋭い牙を見せ、にやりと蘭蘭は笑いかける。そこへ天祥が跳ねながら側へやって来た。
『星彩、遊び、行こっ!』
「・・・こいつらがいたかー」
舐められた頬を袖で拭いつつ、宗麟は残念そうに溜め息を吐いた。
『アタシらを無視して二人の世界に入らないでよ』
「ご、ごめんね? 蘭蘭」
よくわからないが不機嫌な彼に一応謝っておいた。ちなみに蘭蘭は女言葉であるがこれでも立派なオス虎である。
『星彩、困る、するのよくないっ!』
ぺしぺしと短い足で宗麟の膝を叩く天祥。兎のような長い耳に犬のような顔、猫のような体に狐のような尻尾、額にあるかなしかの小さな角を持った青い獣は、こんなナリでも正体は恭の地を守る神の使い、稲妻を自在に操る雷獣である。
「・・・えーっと」
とはいえ、爪もろくに生えていない天祥の足で叩かれても、痛くもなければ痒くもない。宗麟は困ったように視線をさまよわせ、天祥の頭をなでてやった。
「怒ってる、のか? わかったわかった、悪かったよ。だが、お前らももう少し気を使ってくれてもいいと思うんだが」
『いい大人が朝まで飲んで寝過ごしといて、優しくしてもらえると思うんじゃないわよ』
『宗麟、起きた! 早く遊び、行こっ!』
「う、うん」
朝からずっと星彩と遊んでいる獣たちは、大好きな友人をこのまま宗麟に渡す気は毛頭ない。天祥が衣の端をしきりに引くので、星彩は宗麟の腕の中を出た。
宗麟はすんなりと放してくれたが、表情を振り見たとき、どことなくつまらなそうではあった。
「・・・」
なんとなく後ろ髪を引かれるようで、行きにくい。
星彩は少し逡巡したあと、早く早くと急かす天祥を抱きあげ、一度は降りた寝台に膝をついた。
「? せいさ――」
名を呼びかけた唇にそっと口で触れて、すぐに離れた。驚いている相手の顔をそのまま見返すのが恥ずかしくて、ごまかすように星彩は笑った。
「――おはよ、宗麟。今日もがんばってねっ」
「・・・ずるいな」
しばしの沈黙のあと、宗麟はやわらかく笑んだ。
「これじゃあ、もう寝てられないな。――仕事するかあ」
宗麟は一つ伸びをしてから、着替えるために寝台を降りる。
星彩もこれ以上は邪魔にならぬよう、獣たちと共に部屋を出た。
『なかなかスジがいいじゃない?』
さあどこへ遊びに行こうかと、城内をぶらぶら歩いている途中、蘭蘭が怪しげな含みを持たせた声で言った。
「なにが?」
『旦那の御し方よ。あの男は怠け癖があるみたいだもの。星彩がやる気を出させてあげなきゃね』
「? 宗麟はもともとがんばり屋さんだよっ。っていうか、わたしは宗麟の邪魔ばっかりして、やる気出してもらうようなことはしたことないと思うけど・・」
『そんなことないわ。いつだって男の活力は女で、女の活力は男なんだもの』
「? えーっと?」
『つまり、愛し君の声援は何にも勝るってことよ。星彩だって、宗麟のためなら頑張れるでしょ?』
「もちろん!」
『宗麟も星彩のためなら頑張れるのよ。だからあの男が今日みたいにごねたら、励ましてあげるといいわ』
「う、うーん、わたしにできるなら、もちろん、いくらでも励ますけど・・・」
『? 星彩?』
ぎゅ、と腕に力を込めると、大人しく抱かれている天祥がすいと鼻を上げた。
「・・・ほんとは、たまにはお仕事休んで、また一緒に遊んでくれないかなあって、思っちゃう」
ふわふわした天祥の毛にほんの少し顔を埋めて、星彩は小さく溜息を吐いた。
「最近、朝と夜しか宗麟といられないもの。・・・朝も、宗麟が寝てるときは会えないし、遅くまでお仕事してたりお酒飲んでたりすると夜も一緒に寝てくれないし・・・よく考えてみたら、宗麟と一日ずっと一緒だったことって、すごく少ないんだよね。それって、なんだかちょっと寂しい」
『あらまあ』
「宗麟はわたしとちがって忙しいし、大人だから、仕方ないけどね・・・」
『まあまあ聞きわけの良いったら』
蘭蘭は呆れたように言う。
『そんなに落ち込むくらいなら、今から戻って遊びましょって誘えばいいじゃない。きっと喜んで遊んでくれるわよ』
『宗麟、も、遊ぶ?』
「ダメ。お仕事の邪魔するなんて、妃失格だもの」
ぶんぶんと星彩は大きく首を横に振った。
「わたしがもっと大人にならなきゃ。大人なら遊んでくれなくて寂しいなんて言わないし、一緒に寝てくれなきゃ嫌だなんて言わないよねっ」
『そーとも限らないけどねえ。まあ、それが大人だと思ううちは子供だったりするんだけど』
『蘭蘭、詳しい?』
「いいのっ。っていうか前は一人で寝るのも平気だったもん。母さまが死んでからは、ずっと夜は一人だったんだから」
まだ故郷の淸にいた頃、母と二人、他の妃や公女たちとは分けられ、後宮の片隅に特別設えられた粗末な庵に住んでいた。小さな庵には寝台が一つしかなく、星彩は必然的に母と身を寄せ合って寝ていた。あのときは、これから星彩が大きくなったら一緒に寝るには狭いかなあなどとと二人で他愛無いことを悩んでいたのに、結局そうなる前に母は亡くなってしまった。
それから星彩は庵に一人。周迂という鷲の友達がいつも一緒にいてくれたが、夜は山に帰ってしまうから、本当に一人だったのだ。はじめこそ心細く寂しかったが、月日が経ち、星彩も少しは物がわかるようになって、自分なりに母の死を割り切ることができてからは、寂しさは薄れていった。
なのに恭に来て、宗麟が一緒に寝てくれるようになってから、また寂しさがぶり返したようなのだ。もっと小さかった頃のように、まだ母が生きていた時のように、際限なく甘えてしまいたくなる。今でも十分にわがままを聞いてもらっているのだから、これ以上世話を焼かせては駄目だと、そう、思うのに。
優しくしてもらうたび、どんどん欲が出てくるようでいけない。
「天祥も蘭蘭もいてくれるんだから、寂しくないよっ」
『天祥、星彩一人にしないっ!』
『・・って言ってもねえ。星彩、アタシたちといるのと、宗麟といるのとでは意味が違うのよ? アタシたちでは、アナタの寂しさは埋められないわ』
「そんなことないよっ」
『うーん、それがわからないうちは、やっぱり子供なのよねえ・・・自分でよく考えてみなさいな、星彩』
「? なにを?」
『星彩にとって、宗麟はどういう存在なの?』
「どうって・・・旦那さま?」
『ええそうね。宗麟は星彩の友ではないのよね。ということは、感じ方は当然違うはずなの』
「・・・」
『愛情と友情を、星彩はまだ混同してしまっているのよ』
「・・愛情と、友情?」
『きっと心ではわかっているはずよ。――――宗麟と一緒にいたいと思うのは、自然なこと。わがままでもなんでもないの。寂しいなら、寂しいって言っていいのよ』
「・・でも、宗麟、きっと困るよ」
『困らせればいいのよ。可愛い娘に一緒にいて、なーんておねだりされるのは、男として喜び以外の何物でもないわ』
「そう、なの?」
『オスのアタシが言うんだから間違いないわよ。そしたら宗麟だって、もっと星彩と一緒にいられるように仕事片付けようと張り切るんじゃない? 周りも大助かりよ』
「そ、そんなにうまくいくかな?」
『さあ、どうする? 今から言いに行く?』
「・・・今日は、いいよ。ちょっと考えさせて」
『じれったいわねえ。まあ、そこが面白いけど』
『話、終わり?』
じっと黙っていた天祥は小首を傾げた。早く遊びたいだけの獣は、話の内容もあまり深いところまで聞いていない。
「うんっ、もう遊ぼっか! 今日は小蓮や皓大や、鳥や鼠たちも呼んで大勢で!」
『わーい!』
『ふふん、あのおバカな兵士をまたからかってやろうかしら?』
とりあえず悩みは悩みとして置いといて、今日のところは思い切り遊ぶことにした星彩であった。
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