第11話 伝える

 姿を探して、駆けて、やがて廊下の途中で見つけた。

「宗麟っ!」

 側にはいつもの通り韓当と徐朱、珍しく伯符もいて、ついでに李舜の姿もあって、宗麟は彼の胸倉を掴み上げているよくわからない状況だったが、星彩は構わず飛び付いた。

「お、っと?」

 宗麟は李舜を放し、いきなり飛びこんできた小さな妃を受け止めた。

「星彩? どうした?」

 困惑した顔。

 今の宗麟には、確かに星彩が見えている。声が聞こえている。

「~~~宗麟宗麟宗麟宗麟ソーリンっ!」

 何度も何度もその名を呼んで、力一杯抱きしめる。触れているところはじんわりと温かく、胸に耳を押し当てれば規則正しい心音も聞こえてくる。

「一体どうしたんだ?」

 困惑しながらも、宗麟は星彩の頭をなでてくれる。大きな手は優しくて心地良い。

(生きてる・・・)

 当たり前のことに、こんなにも安堵できる。

 また涙が浮かんできたが、雫は零れるそばから宗麟の着物に吸われて消えた。

「怖いものでも見たのか?」

「・・・うん」

 力を緩めて、星彩は宗麟を見上げた。

「怖いものも、優しいものも、たくさん見たよ。宗麟、一緒に来てっ。本当のこと、ぜんぶ教えてあげるっ」

「・・・星彩?」

「芙蓉も連珠も、どっちも宗麟たちの母さまだったってこと、証明するよ!」

 宗麟の手を掴み、駆け出した。

 向かったのは、後宮の裏庭だ。

 人目につきにくい、一番奥の木。月日はすでに五年経過している。

 それなのに、釘の痕はくっきりと残っていた。どころか穴は黒ずみ、それが周囲に広がって、木全体を枯れさせていた。

 その傷痕に、星彩はそっと手を触れた。

「ここは―――」

 付いて来たのは宗麟と獣たちだけ。不思議そうに辺りを見回している。

 星彩は左手を木に、右手を宗麟に繋いだまま、

「あのね」

 真実を、彼に語った。

「ここで宗麟に呪いをかけようとしたのは、確かに連珠だったの。でもそれは、宗麒を王さまにしたかったからじゃない。連珠の想いは、もっともっと哀しくて、優しいものだったの」

「・・・星彩? どうして」

「見て」

 宗麟を遮り、星彩は祈った。

「―――お願い。あなたが見たものを、宗麟にも見せてあげて。わたしの力が要るならいくらでも使っていいからっ、あなたの受け止めた想いを、伝えてあげてっ」

 瞬間、辺りが暗くなった。

 夜だ。

 一人の母が木の前に立って、泣きながら釘を打っている。

「夏妃・・・?」

 宗麟から動揺の混じった呟きが漏れた。今は燕尾宮に先王と共にいるはずの者、しかもその五年前の姿が突如現れたのである。

「星彩、これは?」

「よく聞いて。五年前、宗麟に呪詛をかけた時の、連珠の想いを」

 驚く宗麟の目の前で、連珠は泣きながら苦しい胸の内を木にぶつけていた。

『ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・貴方がいなくなれば、あの子は助かるの・・・』

 憎しみではない。あるのはただ我が子を助けたい、純粋な母の想い。

『貴方がいなくなれば・・・』

 だがそれは、彼女の一番の願いではなかった。

『どちらも、生きていられればいいのに・・・』

 宗麒は、お腹を痛めて産んだ欠けがえの無い我が子。

 宗麟は、血の繋がらない、だが息子の良き遊び相手であり、連珠の元へも綺麗な花をわざわざ届けてくれる、優しい子。髪を梳かれてはにかんでいた、もう一人の可愛い息子。

『どうして、こんなことになってしまうの・・・あの子たちは、何も悪くないのに・・・あの日々には、もう、戻れないの・・・?』

 連珠の脳裏にあったのは、王位も血の繋がりなども関係無く、公子と侍女と妃が、皆で笑い合っていた光景だ。

 連珠の一番の願いは、昔日に帰ることであった。

 でもそれは、叶うべくもないことだから。少なくとも、彼女にはその願いを遂げる術が思いつかなかったから。

 明日にでも殺されてしまうかもしれない我が子を救うために、もう一人の息子を呪った。

 彼女を突き動かしたのは、そんな絶望であったのだ。

 やがて時は元に戻り、周囲は明るい光を取り戻す。

「―――呪詛が、宗麟まで届かなかったのはね、このコが代わりに呪いを受けてくれたからだよ」

 痛ましく、いとおしい傷痕を、星彩は指でなぞる。

「ほんとは宗麟にも死んでほしくないっていう、連珠の本当の想いが伝わったから、願いを叶えてくれたの」

 人の哀しい心に、精霊が呼応したのだ。

 星彩は静かに涙を流し、枯れかけの幹に頬を寄せた。

「宗麟を守ってくれて、ありがとう」

 透明な雫が傷痕に触れたとき、穿たれた穴から広がる黒い染みが、みるみるうちに消えていった。萎びた枝がぴんと起き上がり、新しい芽が伸びる。

 身に溜めていた呪いを浄化され、木はすっかり元気な姿に戻った。

「―――」

 宗麟は瑞々しい幹を上から下になで、唖然としていた。

 矢継ぎ早に見せられた不思議な光景を、彼がどういう思いで受け止めたのか、星彩にはわからない。

 だがそんなことより、もうひとつ、示さねばならない真実がある。

「宗麟、こっち」

 導く先は、今は使われていない後宮の一室。

 そこは芙蓉の部屋なのだと、星彩は以前、楊佳から聞いて知っていた。

 主が亡くなってから荷物は片付けられ、がらんとしている。

 だがあの時の机は、今もここに在った。

 星彩は引き出しを開けて、底板を外した。すると、まだ、そこにある。

 少し朽ちていたが、薄い人型の木片がそのまま残っていた。

「これ」

 宗麟の前に、彼が見なかった面を上にして差し出した。

 掠れた文字は、彼の母のもの。書かれている名は、彼の弟のもの。

 木片を受け取って、宗麟はそれを凝視していた。

 あの時、宗麟はこれによって芙蓉を疑った。だが宗麒の名が書かれた木片は、まぎれもなく芙蓉自身が使おうとしていたことを物語る。

 連珠を陥れるための細工ではなかったのだと、証明している。

「芙蓉は、どうしてもできなかったんだよ」

 宗麟の袖を引いて、星彩は語りかけた。

「あの朝、芙蓉が呪詛の跡を見つけたのは、自分も呪詛をかける場所を探していたからなの。慧㕮が言ってたよ。芙蓉は何度も何度も、誰もいない朝に一人であの場所を下見してたんだって。だけど結局、できなかったの。名前まで書いたけど、ずっとここにしまってたんだよ」

 その行動が示す心意は、とても単純。

「芙蓉も、ほんとは宗麒を死なせたくなかったんだよ。でも、そのままじゃ宗麟が殺されてしまうかもしれないから、どうにかしようとしたの。連珠と同じだよ。それを、宗麟には言えなかったの」

 どちらにせよ、殺そうとしたことは事実だったから。もう一人の息子を犠牲にしようとしたことを芙蓉は悔い、己を責め、真実を告げられずに宗麟の憎悪を黙って受けていた。

「宗麟に王になれって言ったのも、宗麒と仲良くしちゃだめって言ったのも、ぜんぶ、争いが起きてほしくなかったからだよ。芙蓉は十年前からちゃんとわかってたの。どっちも王位を望まないことが、争いを呼ぶんだってことを。芙蓉は、ただ、宗麟と宗麒に生きていてほしかったんだと思う」

 あの穏やかな日々の中でさえ、彼女は一人、恐々していた。たとえ宗麟が嫌がることを言ってでも、注意を促していた。だがそれは、届かなかった。

「芙蓉も、連珠も、宗麟と宗麒をちゃんと愛してたよ。――王さまもね、宗麟の父さまも、争いを止めなかったこと、後悔してた。自分は人としても父親としても最低だって、落ち込んでたよ。でも、王さまのしたことは国のためで、仕方ない、ことだった、て」

 言葉尻は震えた。さっきも流したばかりの涙が、湧いてくる。

「―――ほんとは、ほんとはね? 人が殺されるのに、仕方ないなんて、ないって思う。でも、もう、これは終わってしまったことだから。涼杏も、楽進も、他の無実の人たちも、宗麟を殺そうとした人たちも、宗麒を殺そうとした人たちも、みんな、死んでしまったから・・・どうにも、できない、から・・・だから・・・」

 星彩が言えることは、ただひとつ、

「宗麟は、誰も憎まなくていいよ」

 濡れた瞳で願うように見上げた。

「誰が悪かったのかとか、何がまちがってたのかとか、わたしには、わからない。みんな、それぞれに大切にするものがあったの。悪意は誰かを想う心から生まれたの。―――宗麟を愛する人は、確かにいたよ。宗麒を愛する人も、確かにいたの。それだけを、どうか覚えていて」

 きゅ、と宗麟の衣を握る。

 大勢の人が死に、宗麟は家族すらも失った。なのに憎むなと言うのは酷なのかもしれない。だが、憎む相手は数えきれない。

 あの時は誰もが必死だった。必死に自分たちの大切なものを守ろうとしていた。その結果として、誰かの大切なものを奪ってしまった。

 奪い奪われ、憎しみが殺し合いを激化させた。だから、たとえどれだけ理不尽であっても、恨む気持ちは断ち切らなければならないのだ。

「―――星彩は、すべて、知ったのか」

 木片を机の上に置いて、宗麟が尋ねた。

「慧㕮が記憶を見せてくれたの。人が処刑されていくところも、まだ争いが始まってなかった楽しい頃のことも、宗麒のことも涼杏のことも、ぜんぶ、見せてくれた。――とても、とても、つらかったよ。たくさんの人が殺されていくのもそうだけど、自分は見てるだけで、何もできないのが、いちばん、すごく・・・つらくて・・・」

「・・・俺も、そうだった」

 宗麟は星彩を抱き寄せた。

 いつもしてくれる包み込むような抱擁ではなく、むしろ縋り付くように、星彩の首元に顔を埋めた。

 肩にかかる宗麟の重みが、それまで内に押し込めていたものの重さを表しているようで、星彩は宗麟を支えるためにその背に手を回した。

「・・・あの頃の俺は、処刑されるのが無実の人間だとわかっていても、どうやって助ければいいのか考えつかなかった。せめて周りの奴らが死なないことだけを祈って、争いを止める術も持っていなかった。――どうしよもうない、無力なガキだったよ」

 溜め息と共に、漏れる声には自嘲が含まれている。

「こんなにも自分が何もできないとは思いもしなかった。それまで身につけてきた武芸も学問も、争いを止めるためにはなんの役にも立たない。結局、何もできないまま人は死んで、いつの間にか争いは終わった。・・・太子の座を厭々受け取って、俺のせいで死んだ奴らに義理を果たすために、王族の義務のために、政務をこなしていった。その中で、父が争いを止めなかった理由も、母の行動も、理解できるようにはなった」

 なったが、嫌悪感は消えなかった。

「父や母を見ると心底気分が悪かった。二人ともあまりにも王族らしくて吐き気がした。汚職を一掃するのに無実の者まで見捨てたり、兄弟を敵と見なせと言ったり、まるで人が人じゃないようで―――だが、それは必要なことなんだと知った」

 遊び回っていただけの少年公子から、政務を担う太子となって、見える景色は変わっていったのだという。

「王は、人であって人でない。そういうモノなんだ。王族というのも、そういうモノだ。俺や宗麒の考えの方が異質だったんだ。それがわかった時、正直、逃げようかと思った。辛うじて留まれたのは、俺がいなくなったら、また争いが起こるってことが、今度はちゃんとわかったからだ」

 周りが見えなかった子供の頃のように、我を通すことはできなくなったのだ。

「・・・宗麟は、今も逃げたい?」

 静かに、星彩は尋ねた。

 王宮で育ちつつも、街に出て色んな人々と触れ合っていた宗麟は、王として生きるにはあまりに人間らしい心を持ち過ぎた。よって、人を人として見る、そんな当たり前のことができない王族を宗麟は嫌ったのだ。

 逃げられるならば逃げたいと、今も思っていたとしても、星彩にはそれを咎める気など起きない。

 しかし宗麟は星彩から離れ、ゆるく首を横に振った。

「あのな、星彩。淸に妃をもらいに出向いた時、俺は軽くヤケになってたんだ」

 笑みすら浮かべ、宗麟は穏やかな口調で語った。

「人であることをやめて、虚ろな王になってやろうとしていた。情を殺し、相手の心など顧みず国の利のみを追求する者になろうと思った。そのつもりで淸に行って、星彩に会った時は、ちょっとたまらなかったな」

「え?」

「俺が失くしたことを、たくさん思い出さされた」

「失くした、こと・・・?」

「最初から、星彩は政略結婚を仕方がないと理解しながらも、姉の幸せを心から願っていた。俺のことも、蛮国の太子としてじゃない、一人の人として見てくれた。王族としての役目を知りつつ、それでも人はただの人だと言ってくれた。・・・国を治めるのに心は必要ないと思っていた。だが、星彩が心を持って動いたからこそ、あの時、淸は救われた。それで、わかった。やはり心は必要なんだ」

 噛みしめるように言う。

「人は心に従って動く。心がわからないものには国を治めることはおろか、人を一人動かすことだってできやしない。星彩のために皆が動くのは、そういうことだ。星彩がそれに気付かせてくれた。だから、星彩に会えてよかった」

 宗麟は再び星彩を抱きしめた。

「星彩のおかげで、俺は救われた。いや、今も救われてる。星彩のくれる言葉の一つ一つが、俺にはとても嬉しくて救われるんだ」

「・・・」

 初めて聞かされる想いだった。

 淸で共に事件を解決した時から、宗麟はそんなふうに感じていてくれたのだ。

「もう十分過ぎるほどだっていうのに、今度は過去にまで行って、あの泥沼の中から真実を見つけてきてくれるなんてな。つくづく、星彩には敵わないよ」

 苦笑を漏らし、ぽんぽん、と優しく頭を叩く。

「星彩がそうしていつも俺を幸せにしてくれるから、この国の連中にもそれを分けてやりたくなったんだ。今はただの義務でも義理でもなく、本当に、皆が幸せに暮らせるようになんとかしてやりたいと思ってる。――もう、逃げようなんて考えもつかない。誰の血がこびり付いていようが、意地でもあの椅子に座り続けてやるさ」

 だから、誰かを恨むのはもうやめる。

 耳元で、そう囁いた。

「宗麟っ」

 ぎゅう、と星彩も彼を抱きしめ返した。

 軽い口調であっても、大きな決意を感じさせる言葉だった。

 まだ世を、人を、知らなかった少年が大人になって、その善しも悪しもすべて呑みこみまとめて治めてゆこうとしている。

 おそらく、宗麟は真に王となったのだ。

 そして星彩は、そんな彼の傍らに在る者だ。

「わたしも、力になるよ! わたしは、大好きな宗麟の側にずっとずっといたくて、恭に来たんだもの!」

「俺も、星彩が大好きだ。ずっとずっと、側にいてほしい」

 もう一度、互いの存在を確かめ合うように二人はしっかりと相手を抱きしめた。

「――宗麟っ、お墓参りちゃんと行こうね。じゃないと芙蓉が泣いたままだよ」

「わかってる。母上には詫びを入れるよ。赦してくれるかは、わからないが」

「わたしも一緒に謝るよっ。宗麟の父さまや連珠にも会って話そう? 仲直り、しよう?」

 上目遣いに見れば、宗麟は笑みを返した。

「星彩には、敵わないな」

 そうしてその唇に軽く口付けた。


『―――ところで完っっ全に忘れられてるわね、アタシたち』

『しかたなし?』

 蘭蘭と天祥はそろって欠伸をしつつ、幸せそうな人間たちを離れたところで見守っていた。

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