第9話 恭の過去⑤ 忠臣

「―――宗麒っ」

 そこは連珠の部屋で、ちょうど彼女と宗麒が言い合っている現場であった。

「一人で出歩いてはなりませんっ。この前も刺客に襲われたばかりでしょう?」

「母上のところに来るくらいで護衛はいりませんよ。俺は強いんだから、平気です」

 とん、と自分の胸を叩いて宗麒は自信満々に言うが、連珠は激しくかぶりを振る。

「いいえいいえっ、気を抜いては駄目っ。私は貴方の身に何かあったらと思うと夜も眠れないのですよ? どうか心配になるようなことはしないでちょうだいっ」

 連珠は息子の着物に取り付いて、どうかどうかと縋るが、宗麒は鬱陶しそうに眉をひそめるだけだった。

「そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。せっかくご機嫌伺いに来たっていうのに、その方がかえって母上の気を乱すようだ。もう俺は来ない方がいいですか?」

「そうではないのですっ。母は、ただ、心配なのです」

「心配心配、俺の周りはそれしか言いませんよ。ちょっと出掛ける度いちいち大騒ぎされるんだから、うかうか遊びにも行けない。最近は宗麟の奴も籠りきりだし、つまらないったらない」

「っ、麟の公子に会ってはだめっ!」

 唐突に連珠は声を張り上げた。その途端、宗麒は一層不機嫌そうに顔をしかめた。

「母上までそんなことを言うんですか? 宗麟は俺の命を狙ってる奴らとは違う。母上だって知ってるでしょう? あいつはそんな奴じゃない」

「・・・いいえ、もう、あの頃とは事情が違うんですもの。お願いだから、麟の公子に近づくのはやめて。あちらだってお前を警戒していますよ。何をされるかわかったものではないわ」

 その言葉が、少年公子たちのじゃれあう様を、穏やかに眺めていた人のものだと星彩は思えなかった。

 あの時の彼女は、二人に分け隔てなく愛情を注いでいたはずなのに。

「―――もういいっ!」

「宗麒!?」

 母の手を振り切り、宗麒は部屋を飛び出していった。

「連珠は、どうしちゃったの?」

 あまりの様相の変化に、星彩は呆気に取られてしまった。

『何度も何度も息子が刺客に襲われて、家の者が次々と処刑されていったのだ。あの頃のように暢気にしてはおれぬ』

 あの頃、と聞いて、星彩は慧㕮を見上げた。

「ねえ、慧㕮」

『うむ?』

「今は・・・ううん、これは、いつの出来事なの?」

『そなたの知る時から五年ほど前。王位争いの終結した年だ』

 誰もいなくなった部屋の中、連珠を見遣ると、彼女は机の上の文箱に手を伸ばしていた。

 中から取り出したのは、薄い木片。手に収まるくらいの大きさで、人の上半身を真似た形をしている。

「・・・なんとか、しなければ」

 連珠は、それを静かに握り締めた。

「慧㕮、あれ、あれって」

『星彩よ、そなたにわざわざ惨たらしい過去を見せたのは、この母たちの想いをわかって欲しかったからなのだ。彼女らは決して、野心に目を眩ませていたのではない。人が容易く死ぬ、おそろしい状況で大切なものを守るため、女は女なりにできることを探したのだ』

 時は、昼から夜へと流れた。

 連珠は昼間と全く同じように、木片を握り締めている。

 寝間着のまま、こっそりと部屋を出て、後宮の裏手へ向かう。

 ここは、後宮の裏庭。鬱蒼とした木々の奥、星彩でも滅多に訪れない場所だ。

 ある大木の前で、連珠は立ち止まった。

 じっと幹を見つめる彼女の瞳からは、涙が一筋、零れていた。

 やがて、意を決したように木片を幹に当てると、釘を打ち始める。

「う・・・」

 拳ほどの石を使って、木の人形の頭部に、ゆっくりと、だが確実に深く、釘が埋め込まれていく。

「うう・・・」

 呻き、泣きながら、連珠は何度も振りかぶる。

「ごめんなさい・・・」

 木片に向かって、釘を打つ手は止めないまま、連珠は謝った。

「ごめんなさい・・・でも、でも、このままでは、宗麒が殺されしまうかもしれない・・」

 たくさんの人間が、簡単に殺されてしまったから。いつか、本当に息子が殺されてしまうかもしれないから。そうなるくらいなら、

「麟の公子、貴方が死んでくださいっ・・・!」

 とめどなく涙を流しながら、連珠は宗麟の死を願っていた。

 ぎゅう、と星彩は着物の端を握る。

 強い、強い連珠の想いが、胸の中に直接流れ込んできたのだ。

 どちらかがいなくならなければ、この争いはもう止まらない。宗麟も、宗麒も、可愛がっていたこの人だけれど、どうしても選ばなければならないのだったら、やはり連珠が取るのは、お腹を痛めて生んだ我が子なのだ。

「・・・連珠」

 そっと彼女に近づき、その背に耳を当てた。

 星彩は宗麟の味方だ。だけれども、一人の母として、子を守ろうとした人を、責めることなどできなかった。

 触れている部分から言葉にできない彼女の心がより深いところまで伝わってきて、星彩もいつの間にか泣いていた。

(・・・・連珠は、こんな想いでいたんだね)

 五年前、宗麟に呪詛をかけようとしたのは紛れもなく彼女であった。

 芙蓉が仕組んだのでは、なかったのだ。

 連珠が去った後も星彩はしばらく釘の刺さった木に寄り添っていた。

 呪いを打ちこまれた箇所はとても痛そうで、すぐにでも抜いてあげたかったが、今の星彩にはどうすることもできない。ただただ、この木の発する声に耳を傾けていた。

『呪詛が見つかったのは、翌朝だ』

 慧㕮の呟きと共に、辺りは白む。

 人目を気にするように、向こうから誰かがやって来た。

「・・・芙蓉?」

 滅多に誰も訪れない場所へ、早朝から彼女は一人で現れ、呪詛の打たれた木を見つけると、息を呑んだ。

「どうして、芙蓉がこんなところに?」

 星彩の疑問に慧㕮は答えなかった。

 芙蓉はその後、兵を呼び、呪詛の跡は官吏たちによって検分された。

 王族を呪うのは重罪である。その効果の有無は別として、行為が発見された時点で漏れなく処刑される。

 宗麟の名が記された木片は、占星官によって呪詛を消す儀式を行ってから処分され、犯人探しが始まった。

『夜の後宮に入れるのは、王、妃、侍女、宦官。当然のことながら、連珠の周りが疑われた』

 王妃の失脚は、公子に大きな影響を与える。

 李家は躍起になって証拠を探し、夏家は必死に隠ぺいした。

 だが呪詛の形跡が確かに存在している以上、誰かを下手人として出さなければ事は収まらない。

『だから、悲劇が起きた』

 目の前の光景は、連珠の部屋へ再び戻る。

 椅子に座って、部屋の主は泣いている。

 涼杏がその前に跪いて、彼女の手を握っていた。

「私、は・・・私はっ」

「落ち着いてくださいませ、連珠さま」

 動揺しきりの連珠を励ますように、涼杏は声を張った。

「ご心配には及びません。連珠さまが捕まることも、それで宗麒さまが失脚なさることもございません。どうか、心安らかに」

「どうしてそんなことが言えるというの? だって私は、私は確かに」

「いけませんっ。それ以上、何もおっしゃってはなりません」

 きつく咎められ、連珠はびくりと震えて口を噤んだ。主を落ち着かせようと、涼杏はすぐに表情を柔らかいものにする。

「夏家の方々がすでに一計を案じておられます。私も、他の侍女も、連珠さまのお味方の宦官たちも、皆、計画を聞いております」

「私は何も知らないわ」

「連珠さまには私からお伝えするように仰せつかっておりました」

「どんな計画なの?」

 涼杏は、にこりと笑う。

 こんな状況で、怖いくらいに、明るい笑顔だった。

「私どもが罪人として処刑されるのでございます」

 聞いた瞬間、顔を真っ青にして、連珠は言葉を失った。

「明日、私どもは獄に入ります。少々静かになりましょうが、すぐに代わりの者がお世話に参りますゆえ、ご案じなさいませぬよう」

 涼杏の口調はどこまでも普通だ。なんでもない明日の予定を話すかのようだ。

「どういう、こと・・・?」

 連珠は信じられないものを見るように涼杏を見つめている。

「なぜ、なぜ、お前たちが処刑されねばならないの?」

「もはや我らの内から誰かが出ねば、李家も他の家臣の方々も納得いたしません。ですから、私どもが」

「っ、なぜです!? お前たちは残らず関係ありません! すべては私がっ」

「連珠さま! ご理解くださいましっ!」

 涼杏は椅子を立とうとした主を押さえるが、連珠はいやいやと身をよじる。

「私ですっ、私が一人でしたことですっ。見つかった時点で早く名乗り出ていればよかったのに、私の、私の責任だわっ!」

「連珠さまっ! このようなこと、他に聞かれれば宗麒さまのお立場が危うくなるのですよっ!?」

 はっと連珠は己の口を押さえた。

 幸い、周囲には誰もいない。物陰で聞いているような者もなかった。

「連珠さまは、名乗り出られてはいけないのです」

 涼杏はじっくりと、妃に言い含めた。

「連珠さまが失脚なされば、宗麒さまをも巻き込みかねません。此度のことは、私どもが主を想うばかりに勝手にしでかした事件、です。連珠さまも、そう思い込んでくださいまし」

 宗麒のためと言えば、連珠が何も言い返せないであろうことを見越した発言だ。

 しかし、その決定は、涼杏自身の死を意味する。

「涼杏、でも、お前は宗麒の・・・」

「・・・はい」

 涼杏の笑みは、崩れなかった。

「だから、です。宗麒さまを慕う侍女が、敵である兄君を呪う―――ありそうな話でございましょう? 私の存在は説得力を増します」

「涼杏・・・」

「そもそも一家臣の娘にすぎない身で宗麒さまとお付き合いするなんて、おかしなことだったのです。わかっておりました。いつか、道を別つ日が来るであろうと」

 涼杏は深々と、頭を下げた。

「今まで、大変お世話になりました。連珠さまのお優しい御心に、何度救われたかわかりません。たくさん、たくさん、可愛がっていただきました。真に感謝いたしております。貴女さまのため、そして、宗麒さまのため、この卑しい命を役立てられることに心からの喜びを」

 彼女はうやうやしく礼を取り、連珠は言葉もなく、ただただ悲愴な面持ちで娘を見つめていた。

「涼杏は・・・涼杏は、自分で決めたの?」

 星彩の声は、震えていた。

「自分で、死ぬことを選んだの・・・?」

 あらぬ嫌疑を掛けられ、無理やり殺されたのではない。連珠を、宗麒を守るために、自らで行動を決めたのだ。

『他の者も同様だ。それだけ親子に対する敬意と感謝が大きかったのであろう。特に、この娘は』

 慧㕮もまた、憐れむような目を涼杏に注いでいた。

「宗麒はこのこと、知ってるの?」

『知らぬよ。奴に伝える者などあろうはずがない。あったとしたら、あの男はきっと娘を攫って城を出たことであろう』

「・・・」

 いっそ、その方が良い。

 たとえ追われることになったとしても、その方がきっと幸せだ。

 涼杏は、わからないのだろうか。宗麒が王位よりも何よりも望んでいるのは、彼女であるということを。

「宗麒に、知らせてあげたい・・っ」

『無理だ。星彩、これは過去。そなたはここに存在しないのだ』

 うつむく星彩の小さな頭を慧㕮がそっとなでた。

『宗麒がこのことを知ったのは、処刑が終わった後だった』

「え・・・」

『首切りではなく、服毒であった。獄に繋がれてわずか二日後、衆人の目の触れぬところで静かに処されたのだ』

 場面は、暗い牢へと移った。

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