第8話 恭の過去④ 濡れ衣

 今度もまた、夜のこと。

 月の無い晩であったが、不思議と星彩には昼間と同じように辺りが良く見渡せた。あるいはこれが、慧㕮の目から見た夜なのかもしれない。

 外である。歩く者はなく、皆が寝静まっているはずの刻、灯篭を一つ掲げた男が腰を屈め、うろうろしていた。

 中年より一歩手前くらいの男だ。たくわえた口髭がいまいち似合っておらず、眉を八の字にひそめて「ない、ない」としきりに地面を見回している。

「ああ、まったく、よりにもよって簪を失くしてしまうとは・・・この辺りだと思うんだがなあ」

「・・・かん、ざし?」

 星彩は袖で涙を拭って、男の傍に寄った。

 男は草の根を掻きわけながら、ぶつぶつと呟いている。

「ようやく似合いそうなものを見つけたというに、なんと間抜けなことか・・・まさか失くしたなどとは言えぬよなあ。ずいぶんと楽しみにしておったしなあ」

「・・・探し物、してるの?」

 相手には聞こえないのだということがわかっていても、星彩は話しかけていた。

(簪、誰かにあげるものかな?)

 自分も地面に目をやって、それらしき物を探した。すると塀のすぐ傍の草むらで、輝く光を見つけた。

 珍しい、青の宝石が五輪の美しい花を象っている華奢なかんざしだった。おそらくはこれが男の探しているものだろう。

「ねえ、あったよ!」

 大声で呼びかけても、やはり男には聞こえない。見当違いの場所に必死に目を凝らしている。

「・・・近くまで持っていってあげよっかな。と、あれ?」

 簪を掴もうとしたのだが、どういうわけか、地面に縫い付けられているかのように持ち上げられない。この細い簪が、まさかそんなに重いわけもない。

『無駄だ。言ったであろう? ここでそなたは幽鬼と同じ。何にも干渉できぬ』

 宙を浮いて側にやって来た慧㕮が言った。

 触れている感覚は確かにあるのに、実際にどうにかすることができない。なんとも不思議なことである。

「じゃあ、この人が自分で見つけないといけないの? わたしは、何もしてあげられないの?」

『・・・星彩よ。この男はな、ついぞ見つけることができなかったのだ』

「え?」

 その時、視界の端に黒い影が走った。

 男の持つ灯篭の火を避けるように、五人ほどの人間が足音を忍ばせてどこかへ駆けてゆく。

「あれは!?」

『刺客だ。宗麟を狙っている』

「っ!?」

 それを聞いた瞬間、星彩は走り出していた。刺客の足は速く、見失ってしまいそうだ。この頃の宗麟がどこに部屋を持っているかわからないから、先回りすることもできない。

『掴まれ』

 慧㕮が背後からふわりと星彩を抱え、飛んで行く。

 宗麟の部屋に着いた頃には、すでに乱闘が起きていた。星彩にはその動きが良く見えるが、彼らは腕の先も見えない暗闇の中、斬り結んでいる。

 部屋にいたのは宗麟ばかりではない。騒ぎを聞きつけたのだろう、韓当や、他の従者の姿もあった。

 宗麒と同じく、少年の時よりずっと背の高くなった宗麟は、闇に同化している相手をまるで見えているかのように斬りつける。

 星彩の時代には紫微城で一、二を争う剣豪と謳われる韓当も、素早い動きで刺客たちを次々倒していった。

 刺客は二人ほど逃げたが、後を従者たちが追った。

 宗麟は剣を収め、息を吐く。

「・・・考えることは、皆して同じか」

 苦々しい口調だった。

 宗麟が無事であったことは何よりだが、これでまた処刑される人が出てくるのかと思うと、先程の光景を思い出して、星彩はつい慧㕮の袖を強く握りしめていた。

『この夜の刺客は捕まった。首謀者は、しかし夏家からは出なかった』

「?」

『星彩、もう一度、この場面だ』

 景色が移り、再び午門前の広場に降り立った。

 さっきと同じように、縄で縛られた男たちが石畳の上に跪いている。周囲を兵が囲み、見物の官吏がおり、男らの背後には斧を持った兵士がある。

『わかるか? 星彩。あの男だ』

「え?」

 指し示された先、横一列に並ぶ罪人の、真ん中に在る人物。すっかりやつれ、体のあちこちに鞭の跡がある、似合わない口髭をたくわえた男。

「あ!」

 様相はかなり変わってしまっているが、間違いなく、男はあの夜に簪を探していた者だ。

「ど、どうして?」

『あの夜、あんなところにいたばかりに暗殺に関わったと見なされ、捕まった。そこへ、夏家が細工をして全ての罪をなすりつけたのだ』

「―――」

 言葉も、出なかった。

 その男は何もしていない。ただ探し物をしていただけなのだ。物騒な計画には一切、関わっているはずがないのに。

 兵士が斧を振りかぶり、端から順に首を切り落としていく。

「―――待って!」

 星彩は転がる首や、血溜まりへの恐怖も忘れ、処刑場の真っ只中に飛び込んでいった。

「その人はちがう! 宗麟の暗殺なんか企んでない! ちゃんと調べてよ!」

 兵士の腕に取りつくが、相手は全く意に介さない。星彩などまるで雲か霞みのように、兵士は触れられているということにも気付かず、なんの妨げにもならなかった。

「やめてやめてやめてっ! もう殺さないで! ちゃんと調べてないんでしょう!? だめだよ、こんな簡単に人を殺しちゃだめなんだよっ!」

 涙はぼろぼろ零れて、悲痛な叫びは天にも届きそうなほどなのに、ここにいる者には伝わらない。星彩の存在は、誰にも見えない。

「やめて、やめてよっ! お願いだからっ!」

 もうどうすればいいのか、わからなかった。

 斧はいよいよ、男の首を狙う。


「―――お待ちくださいっ!」


 そこへ、星彩とは別の、女の声が響いた。

 兵士の手は止まり、皆がそちらを振り向く。

 長い髪の女が、それを振り乱しながら駆けて来る。最低限、身綺麗にはしているものの、やつれた顔は罪人たちとさして変わらない。

 星彩には、見覚えのある顔だった。

「・・・朧、月?」

 国一番と評される、星彩の琴の先生だ。光を失ってしまった彼女の目は、この時はまだ外の世界を映しており、肩口で切りそろえられた短い髪は、まだ貴人の娘らしい長さがあった。

 朧月は男を庇うように抱きつき、泣きながら周囲に向かって訴えた。

「この人は、公子さまの暗殺など企んではおりませんっ! 真面目で勤勉な男で、私にとっても優しい夫です! そんなおそろしいことを考えられるような人ではありませんっ!」

「どけ、女」

 しかしそんな訴えを冷たく突き放したのは、咎人たちの正面に椅子を据えている法務官。朧月に向ける厳しい眼差しには、少しの慈悲もない。

「処刑の邪魔である。さがれ」

「さがりませぬっ! どうか、もう一度お調べくださいませっ! 楽進は、わが夫は、このような仕打ちを受ける謂われはありませぬっ!」

 朧月はなお一層、男を強く抱きしめて、少しもその場を離れようとはしない。

「さがれっ! さもなくば汝も刑に処すぞっ!」

 業を煮やした法務官が脅し、兵士たちが朧月を引き剥がそうとするが、朧月は必死に夫に取り付いた。

「きちんとお調べくださいませっ! かように安易に人を殺していたのであれば、国は滅びますっ!」

「貴様、陛下のご判断に不平を申すのかっ!」

「なんとおっしゃられようとも楽進は無実にございますっ! 無実の者を殺す王など――」

 朧月の叫びが、途切れた。

 後ろ手を縛られた彼女の夫が、首を伸ばして妻の唇に己の唇を重ねたためである。

 彼女から王への侮辱の言葉が飛び出してしまう前に、口を塞いだのだ。

「朧月、もう良い。このままではそなたまでが死ぬ。私は、それを望んではおらぬよ・・・」

 楽進は妻に寂しく笑いかけ、呆然とする彼女からそっと身を引いた。

「すまぬ、朧月。そなたに簪を贈ってやれなかった」

 直後、斧が楽進の首に落ちた。

「―――」

 鮮血が、朧月の顔に、髪に、手足に、着物に、振りかかった。

 ごとりと楽進の首が転がり、朧月の膝に当たって止まった。

「・・・あ、あ・・」

 朧月は屍となった夫の姿を見つめ、


「ああああああああああああああああああああああああああっ・・・・・」


 身を引き裂かれる叫びが、辺りの空気を震わせた。

 深い、深い、朧月の悲しみが、星彩の胸を締めつける。それが痛くて、たまらなく痛くて、涙が溢れて止まらない。

「ああっ・・・」

 星彩もまた、地に膝をつき叫んでいた。泣いても泣いても痛みが取れなくて、叫ぶしかなくなったのだ。

 斧はまだ人の首を落としていく。

 止まらない。

 止められない。

 目の前で命が消されてゆくのに、何もできない。

「・・・ああっ!」

 泣いても叫んでも、誰にも何も聞こえない。誰にも何もしてあげられない。

 ここは過去で、もう起きてしまったことだから。

 星彩は、ここに存在してはいないから。

『・・・まだ、これで終わりではない』

 慧㕮の呟きと共に、時が移る。

 しかし、光景は変わらない。

 同じように並べられた人々が、次々と首を落とされる。

 最期まで、身の潔白を訴える人もあった。観念して、黙す人もあった。呪われろ、と毒づく人もあった。王を嘲り、嗤う人もあった。ただただ、涙を流す人もあった。そのすべてが、殺された。

 何度も場面が入れ換わり、並ぶ人が変わり、しかし行われることはまったく同じであった。

「・・・」

 悲惨な光景を、もう幾度繰り返したのだろうか。

 涙などはとっくに枯れて、星彩は叫ぶ力も失せていた。

「・・・どうして、王さまは、止めないの?」

 慧㕮に尋ねようとしたら、消え入りそうなかすかな声しか出なかった。

「こんなの、ただの殺し合い、だよ。いつになったら、終わるの・・・?」

 想像以上、いや、想像などできるはずもない。

 こんなにも簡単に人が死んでいく。どうして死ななければならないのか、わからない人々ばかりだというのに。

「もう、やだ・・・やだよ・・・誰か、止めて」

 なくなったと思った涙が、また湧いてくる。擦りすぎて、目の下は真っ赤に腫れ上がり、涙が伝うと痛い。

 もう、止めてほしい。

 この痛みを。悲しみの連鎖を。

『・・・じき、止まる。最後に大きな悲しみを迎えて、な』

 慧㕮の手が頭に触れたと思ったとき、場面が後宮に移った。

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