第16話 もたらされたもの

 気持ちの良い風が通り、葉の隙間から程良く陽光の差す木陰で、右に瑞其、左に蘭蘭、膝の上には天祥を乗せて一休みした。

「穏やかですね」

 背中に当たる木に身を預け、呟くような声音で瑞其が言った。

「こんなふうに、草の上に座って休むなど初めていたしました」

「そうなんですか?」

「普通は家臣に咎められますから」

 瑞其は苦笑し、星彩に首だけ向けた。

「申し遅れましたが、今日もまたお誘いいただき、感謝いたします。有意義な時を過ごせました」

「そんな、お礼なんていらないですっ。瑞其さまに楽しんでもらえたなら、わたしも嬉しいですからっ」

 にこりと笑いかければ、瑞其もまた、つられて笑みを見せた。

「星彩どのは、お優しい方ですね。――――昨日、私を連れ出してくださったのも、私に乗馬の練習をさせたり、剣の稽古をつけさせるためですか?」

「え・・・あ、っと」

 すぐには、答えを返せなかった。

 馬にも乗れない、剣も使えないと、酔った勢いで自分の欠点を教えてくれた瑞其が、馬に乗れるようになればいいと、剣も使えるようになればいいと、思ったことは確かだ。しかし。

「はい・・あの、剣の稽古までするとは思わなかったですけど、馬に乗ってもらうくらいはできるかなあって。・・・余計なお世話だったかも、しれないですけど」

 瑞其の気持ちを確かめたわけではなく、星彩が一人で考えたことであったから、その不安は当然あった。

「もし、私が本当に馬に乗ることもできなかったら、どうなさるおつもりだったのです? さぞや気まずいでしょうに」

「あ、それは考えてなかったです」

 しかし次の問いにはあっさり首を振って答えられた。

 心なし、瑞其が肩をこけさせたようである。

「か、考えておられなかったんですか?」

「はい。だって、瑞其さまは自分だってお兄さまみたいにできるって、言ってましたから」

 その直後に倒れてしまったが、星彩はちゃんと覚えている。

 兄と比べ、どれほど自分が劣るのか散々に述べた後のこと。それでも、できると言っていた。

「だから、やってみればきっとできるんだろうなって。そしたらやっぱり、できましたっ」

「・・・」

「・・・あ、あの、やっぱり余計なこと、でしたか?」

「いえっ」

 星彩が思わずしゅんとなりかけると、沈黙していた瑞其は慌てて否定した。

「先程も申し上げました通り、私は感謝しておりますっ。星彩どののお陰で、今までわからなかったことが、わかった気がするのです」

「え、そう、ですか?」

「はい。部屋に籠っていては、わからなかったことです」

 そうして、瑞其は苦笑まじりに聞かせてくれた。

「兄上はとてもとても優秀で、本当になんでもおできになる。その点、弟の私は何をさせても兄上のように上手くはいかない。父上も母上も、家臣たちも私を諌めるときは決まって兄上の名を出します。兄君を見習え、どうして兄弟で同じようにできぬのか、と。それが、私には苦痛で・・・すぐにできぬことで周囲に蔑まれるのなら、はじめから手を付けなければ良いと思うようになりました。やらねばできぬのは当たり前で、やってもできぬのかと言われるよりは言い訳が立つ気がしたのです。それで自分は本当はやればできるのだと思い込んでおいて、何とか自尊心を保っていたのです」

 そんなときに、亜王に使者として恭へ行って来いと言われたのだという。恭との同盟を軽視している亜王は、まだ外交に慣れぬ息子にはぴったりの仕事であると考えたのだ。

「申し付けられた当初は、戸惑いました。ですがここで立派に任を果たせば、見直してもらえるかもしれないと思いました。蛮国との悪評高い恭へと赴き、かの王に目に物見せて帰って来られれば、《出来の悪い弟》の肩書も返上できるのではないか、と。丁度、その虎が王宮へと献上されて、これを使えば恭王をおどかせると考えたのです。・・・結果はご存知の通り。しかし、かえって良かったのかもしれません」

 代わりにたくさんのことを得ました、と瑞其は言った。

「乗馬の上手な兄上も、もしかしたら私の知らないところで、たくさん落馬していたのかもしれません。兄上の剣技は、もしかしたら実際に役に立つものではないのかもしれません。・・・私は、本当に、やればできるのかもしれません。たとえ兄上のようにすぐにとはいかなくても、たくさん落ちながら、転びながら、少しずつでも習得できるものが、あるのかもしれません」

「・・・」

「それから、何かができぬと悩む者は、私の他にもあるのだと、知りました。あの舞妓の娘も、皆のように舞えぬと嘆き、己を卑下して、しかし星彩どのに励まされた後は追い出されてもめげず、練習を続けておりました。きっと、明日の宴にはあの娘の舞姿が見れましょう。―――また、星彩どのも何もできないご自身を情けないと思っておられたという話を聞き、失礼ながら、少し気が楽になりました。王家の恥とは、私も言われたことがございます。愚かで浅はかな私は、何かをしようとしても、今回のように空回ってばかりで上手くゆきません。いじけて、己の陰口を耳にせぬよう、部屋に籠ることが多くなりました。しかし、星彩どのは外に出て行こうとされたのですよね。叱られても、きっと何かができると信じ、自分なりに考えて、行動なさったのですよね。私は、それを尊い勇気だと思いました」

「そ、そんな、ほめられることじゃないですっ」

 真面目な口調で言われ、星彩は焦ってしまう。ところが瑞其は首を振った。

「いいえ、褒めさせてください。星彩どのは、勇敢なお方です。あの舞妓も、私よりずっとずっと勇気がある。・・・私は蔑みを恐れ、自らできることを狭めていって、本当に無能な人間になろうとしていたのかもしれません」

 宙の一点をまっすぐに見つめて、瑞其は何か重大なことを告げる前のように、ごくりと唾を飲み込んだ。

「私は、兄上ではありません。兄上と比べられる筋合いはありません。私は―――僕は、僕です!」

 言い切った後は、その場にはしばらく沈黙が流れた。

 星彩と獣たちはじいっと瑞其の横顔を見つめて、瑞其はただまっすぐに視線を前に向けて拳を固め―――ややあって、頭を抱えた。

「・・・すいません」

「? どうしたんですか?」

 瑞其は耳まで真っ赤になって、膝の間に顔を埋めてしまった。

「いや、なんか、勝手に盛り上がってしまって・・・恥ずかしいことを申しました」

「そんなことないです! かっこよかったです!」

「そ、そうですか?」

 おずおずと、瑞其はまだ少し朱の差した顔を上げた。

「・・・星彩どのに、ぜひ、聞いていただきたかったんです。その、兄上にできることは僕にもできると、言ってくださったことが、とても・・・嬉しかったので」

 そうして、はにかむように笑う。

「きっとできると、信じてくださったことが、とても嬉しかったんです」

「―――」

 信じてもらえて嬉しかった。

 それは以前、星彩が宗麟に言った言葉と同じだ。

「――そんなの、いくらだって信じます!」

 ぎゅうっと瑞其の手を握って、星彩は叫んでいた。

「瑞其さまは馬に乗れます! 剣も使えます! 物知りになるし、使者の務めだって立派に果たせます! もう、何だってできちゃいます!」

「そそそこまで言っていただかなくても結構です! とというか、手、手がっ」

『星彩、楽しそう!』

『うんうん、子供は元気が一番よね』

 はしゃぐ星彩につられて、そのうち獣たちも騒ぎ出し、結局、昼寝などはできず、瑞其は休む暇のないまま、またしても駆けまわる羽目になった。





 わーわーとうるさい子供の声がする。

「・・・」

 目を向けるまでもなく、何がいるのかはわかっている。

 ようやく仕事が一段落し、王への報告のために政務室に向かおうとしたところであったのに、まさか出くわすとは思わなかった。

(いや、見つけるのはいい。見つからなきゃいいんだ)

「あ、伯符!」

 柱の陰に隠れる間もなく、欄干の向こうから声を掛けられた。

「こんにちは!」

「・・・どうも」

 仕方なく、青い獣を肩に乗せた、町娘としか思えぬ妃のために足を止めた。

「元気? 今日も朝からお仕事してるの?」

「ええ、まあ」

 正確には、昨日からぶっ続けでやっている。

「休憩しないの? あ、今、追いかけっこしてるんだけど、よかったら伯符も」

「それは決して休憩にはなりませんので結構です」

 間髪いれず拒否。

「蘭蘭に乗せてもらったらあんまり疲れないよっ」

 ところがなぜか相手は喰い下がり、公子を追い掛け回している虎を指す。

「生憎と、僕は猛獣を手懐ける術を持っていませんので」

「大丈夫だよ、蘭蘭は人を食べたりしないから。ちゃんと約束したもん」

「口の利けない獣と約束ですか?」

「口利けるよっ」

「は?」

 妃は、にこりと笑った。

「わたし、人以外のモノの言葉もわかるの。獣も、草木も、風も、月も、日も、みんなと話せる。だから、蘭蘭と約束したのはほんとだよっ。安心して乗って!」

「わかりました。乗りません」

「あれ!?」

「御用がなければ失礼します。これでも忙しいので」

 これ以上戯言に付き合う気はなく、さっさと歩を進めた。

「待って! 待ってよ伯符!」

 制止の声がかかったが、足は止めない。振り向きもしない。

「なんですか。三十過ぎの男に追いかけっこはきつ過ぎます」

「え、伯符ってそんな年なの? じゃあ、追いかけっこはもういいから、これ見て!」

 ぱたぱたと軽快な足音を響かせ追い付いて来た娘は、懐から何かを取り出した。

「? これは」

 どうやらそれが書簡であるらしいことがわかり、足を止める。妃はもう一つ取り出して、二つまとめて差し出した。

「さっき官吏っぽい人にぶつかっちゃって、これ、落としてったの。すごい勢いで逃げて行っちゃったから名前も顔もわかんなくて。悪いけど、伯符、届けてもらえない?」

「えー・・・」

「ダメ?」

「駄目っていうか・・・」

 面倒くさい、という言葉を溜め息に変え、書簡を受け取る。とりあえず、どういった種類のものであるのか確認しようと思った。重要なものならさすがにこの妃には預けておけない。

「ん・・・ああ、これは普請の」

 一つは豊邑の寺院の修復に関する見積もりのまとめだ。木材、瓦、漆喰など、いくら費用がかかるのか、項目ごとに箇条書きにされ、最後に、会計を担当した工夫の名前とそれを承認した官吏の印が押されている。どうでもいいもの、というわけでもないが、極めて重要というほどでもない。

 続いてもう一つ開く。

「・・・んん?」

「どうしたの?」

「ちょっとこっち持っててください」

「え? うん」

 一つ押し付けると妃は素直に広げた書簡を持った。

 それと手元の書簡とを見比べる。

「・・・」

 どちらの書簡も、同じ寺院の修繕費用の見積もりだった。必要な資材、担当者の工夫の名前も、官吏の印もまったく同じ。

 ただ、

「一両ずつ、多い・・・せこっ」

 例えば木材は片方が五十両となっているが、もう片方には五十一両と表記されている。他も全部一両ずつ嵩増しされており、筆跡も違う。明らかに、片方は後から書き直された書簡であることがわかる。

 こんなものが存在するということは、改ざんを行ったのは見積もりを確認する官吏ということだ。すなわち、この印を押した者。

 更にこの印に、伯符は見覚えがあった。

 昨日の夕方、仕事の合間に確認した過去の会計で、おかしいと思った書簡に押してあったものと、同じなのである。

 この二つの書簡は十分に横領の証拠となる。これを足掛かりに捕まえて、他のおかしな会計についても絞ればはっきりするだろう。

「伯符、まだ?」

 声を掛けられ、つい妃の存在を忘れて考え込んでしまっていたことに気付く。

「もう、結構です。ありがとうございました」

「どういたしましてっ」

 書簡を返し、子供は意気揚々と追いかけっこへ戻って行く。

「・・・こんな偶然ってあるか?」

 娘の背を見つめ、独り言ちた。

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