第5話 医局見学

「楊佳は心配性だよねー」

『ねー』

 昼になり、星彩はようやく侍女の隙を見て後宮を抜け出し、天祥と一緒に城内を歩いていた。もちろん、格好はいつものみすぼらしいと評判の着物だ。今日も必死にごねて、なんとか着替えさせられずに済んだのだ。

 また後宮から出てきたのは、散歩が目的ではない。まず向かったのは、医局である。

「こんにちは~」

『ちは!』

 ひょっこりと戸口から顔を出すと、数人の典医やその見習いたちが立ち働いているのが見えた。朝に雨鳥が荒らした所だが、飛び散った薬はすでに片付けられ、棚も元通りになっている。

「おや、星彩さまですかな?」

 中へ入ると、鼻の下に髭をたくわえた中年の典医が気付いて、にこやかに迎えてくれた。

「こんにちは、瑪岱。あの、もう片付け終わっちゃった?」

「は、片付け、ですか?」

「うん。今朝、わたしたちがここで暴れ回ってぐちゃぐちゃにしちゃったでしょ? だからお詫びに掃除をしようと思って来たんだけど・・・」

 瑪岱は、ああ、と笑った。

「いきなり鳥と子供らが飛び込んできたと聞いておりましたが、星彩さまのことでしたか。ご心配なさらずとも、片付けは終わり申した」

「そうなの? ごめんね、すぐに手伝いに来なくて」

「なに、大した労力でもありませんでしたので、お気になさらないでくださいませ。それよりせっかくいらっしゃったのです、診察いたしましょう」

「え? ここで?」

「脈を取ります。どうぞお掛けください」

 瑪岱は椅子に星彩を座らせ、右手首の脈打つところに指を添えて、目を閉じた。

 彼は宗麟や星彩を担当する典医で、毎日ではないにせよ定期的に後宮にもやって来て検診をする。病気でもないのに医者に診られるのは妙な感じで、星彩は未だにあまり慣れていない。

 脈の他に顎の下辺りを押したり、口の中を見たりして、それから瑪岱は満足そうに頷いた。

「はい、よろしゅうございますよ」

「ありがとっ」

 お礼を言ったとき、目の前にすっと茶碗が差し出された。

 椀を持つ長い腕は、青年のものである。二十の半ばか、そのくらいだろう。前髪が少し目を隠してしまっているが、顔立ちは美しく整っている。格好から推測して、どうも典医の見習いのようである。

「どうぞ」

「あ、ありがと」

 微笑みを浮かべる青年から碗を受け取る。中には花の香りのする茶が入っていた。

「これ、母さまが好きだった花茶だっ。恭にもあったんだあ」

「お気に召されましたか?」

「うん!」

「それはようございました」

 青年は星彩の傍にしゃがみ、うやうやしく礼を取った。

「お初にお目にかかります、星彩さま。私は典医見習いの志季と申します。どうぞお見知りおきくださいませ」

「シキ? きれいな名前だね!」

「お褒めにあずかり光栄にございます」

 胸に右手を当てて、志季は嬉しげに目を細めた。するとその様子を見た瑪岱が、からかうように言う。

「さっそく名を覚えて頂こうとは、抜け目ない男よなあ」

「高貴なお方がいらしたのです。ご挨拶せねば失礼にあたりましょう」

「焦らずとも、そなたのことは遅かれ早かれご紹介しようと思っていたところだ」

 そうして瑪岱は星彩に向き直る。

「この男は、ついひと月ほど前に入って来たばかりの見習いとは申せども、すでに医薬の知識は私を凌ぎまする。ゆえにそのうち、後宮への診察にも付いて来させようと思っておったのです」

「そーなの?」

「ええ。優秀な者にございますゆえ、いずれは星彩さまの診察もこの者に任せてしまおうと考えております」

 瑪岱はさらっと言ってしまったが、それは並々ならぬ出世だ。

 ひと月ばかりでそこまでの信頼を得ているということは、志季は相当に突出した人物であるのだろう。

「志季ってすごい人なんだねー」

「滅相もございません。高貴な星彩さまに比ぶれば、私などそこらの凡夫とさして変わりはございません」

 何気なく言ったことにうやうやしい態度で返されて、星彩はちょっと戸惑った。

「高貴だなんて、初めて言われたよ? みすぼらしいとはよく言われるけど」

「そのようなことを申す輩は目が節穴なのです。たとえどんな地にあり、どのようなお姿に身を窶しておられようとも、その無垢なる御魂から放たれる高潔さ、清廉さには、なんの遜色もございません」

「・・・ええと」

 何を言っているんだろう。

 と訊き返すのも悪い気がして、とりあえず茶を啜って誤魔化した。

「とにかく、志季がわたしを診てくれるようになるんだよね? よろしくね!」

「はい。大切な御身が日々健康に保たれますよう、刻苦精励尽くす所存にございます」

「おいおい、まだしばらくは私が診るからな?」

 すっかり上司を差し置き役目を承るかのような部下に、さすがに瑪岱は口を出したが、志季は涼しい顔を変えなかった。

「あ、ねえ、雨鳥がけっこー薬をひっくり返しちゃってたけど、ダメになったものとかなかった?」

 話を変えて、星彩は気にかかることを尋ねた。

「ええ。大したことはありませんでしたよ。もともと棚は補充前で、あまり量は入っておりませんでしたから」

「そう? なら、よかったぁ」

 ほっと胸をなでおろす。もし、貴重な薬などを台無しにしてしまっていたらどうしようかと思っていたのだ。

「薬の入荷が、少し遅れているのです。近頃、採取所の燕州で胡族の動きが活発になっておりますゆえ」

 瑪岱が少し、深刻な顔になって言った。

「胡族・・・って、確か、異民族、だっけ?」

「ええ。北の少数部族です。恭と魯の国境の山に住んでいるのですが、どちらにも属さず、自治を貫いています。それが時々、燕州の村々を襲うのです。討伐しようにも、関係の微妙な魯国との境界ですから、下手に兵を動かせません。よって砦を築き、やって来たら追い払うを繰り返しております。奴らの動きが活発になる時期は、山に入って薬草を採取するのが難しいので、どうしても数種の薬は入荷が遅れるのです」

「・・・そっか。そんな理由があったんだ」

 星彩も真剣な顔で何度も頷いた。

「胡族に、燕州の人たちは困ってるんだね?」

「ええ。ですが、陛下ができ得る限りの対策をなさってくださいますので、被害は最小限に食い止められているのですよ」

「ふうん。やっぱり宗麟はすごいなあ」

 面倒そうにしてはいても、隅々まで目を行き届かせてきちんと仕事をこなしているのだ。立派に王である。

「わたしも、がんばらなきゃ」

 ぐいっとお茶を飲み干して、椀を志季に返し椅子を立った。

「ごちそうさまでしたっ。わたし、厨房も見て来なきゃだからもう行くねっ」

「お気をつけて。走ってお転びなさいませぬよう」

「また、いつでもいらしてくださいませ」

「うん! いろいろありがとう!」

 瑪岱と志季に手を振って、今度は散々に荒らしまわった厨房へと向かう。

 飯時ではないせいで、人はいない。片付けは、見た感じもう終わってしまっている。

「やっぱり来るの遅かったなー」

『仕方、ない。楊佳、ずっと見張ってる、悪い』

「うん。でもちょっと申し訳なかったね」

 そうして出て行こうとしたとき、ぱたぱたと女官が一人駆けて来た。

「お前、丁度いいわっ」

 星彩を見つけると、なにやら慌てた様子の女官は口早に言った。

「陛下にお茶をお持ちしてっ。今、手が離せないのよっ」

「え?」

 女官見習いと間違われ、用を言い付けられることは多々あるが、これは初めてだ。普通は下っ端に茶を持って行かせなどしないだろうに、この女官はよほど慌てているらしい。

「陛下は政務室におられるわっ。茶器は棚にあるから適当にっ。口うるさい方ではないから茶葉もなんだっていいわっ。頼んだわよ!」

「うん、それはいいけど、そんなに急いで何かあるの?」

「亜国の使者さまを迎える準備をしてるんでしょーが! いい!? 頼んだわよ!」

 二度も頼んだと言って、女官は足早に去っていった。

「・・・亜国から、誰か来るの? 天祥知ってた?」

『知らない』

「あんなに急いでる感じだと、もうすぐなのかもしれないね」

『ね。誰も、教えてくれなかった』

「・・・わたしには関係無いことだからかな? なんだか淸にいたときと一緒だ」

『なの?』

「うん。聞かなかったら、誰も教えてくれないの」

 星彩はほんの少しだけうつむいた。

『星彩、大丈夫? 悲しい?』

「・・・ううん、平気。宗麟にお茶、持っていってあげなきゃね」

 落ち込んでも天祥が心配するばかりだから、笑ってみせた。

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