2章

第1話 相変わらずの日々

 恭国首都豊邑、紫微城、後宮。


 東の空に現れたまばゆい朝日が、眠っていた星彩を照らす。

「―――っ!」

 星彩は光を感じると急いで寝所から飛び起き、わたわたと着がえ始めた。いつもの格好になって靴も履いてしまって、次に長い髪を三つ編みにしようとしたところで、時間が切れた。

「妃殿下っ!」

 激しい足音と共に部屋にやって来たのは、二十歳ごろの若い女で、星彩の姿を認めるや目尻を釣り上げもの凄い剣幕となった。

「またそのようなみすぼらしい格好をっ! なぜお一人でお支度なさってしまうのですか!?」

「お、おはよう、楊佳。今日もいい天気でよかったよね」

「誤魔化さないでください!」

「わあごめんなさいっ!」

 星彩は叫び、侍女の楊佳の脇をすり抜け外に出た。

「あ、こら、お待ちくださいっ!」

 楊佳も裳裾を持ち上げ星彩を追う。より身軽な格好の星彩の方が足は速いから追い付かれはしないのだが、楊佳は決して諦めないので星彩も恐々として必死に逃げた。

「お待ちください! 宮中を走り回るなど妃のなさることではありませんよ!」

「だって楊佳が追ってくるんだもん!」

「妃殿下がお逃げになるからです!」

 ぎゃあぎゃあと二人は言い合いながら後宮の庭を、廊下を駆け回る。まだ朝も早い時間、出仕し始めた侍女や宦官も何事かと表に出てきた。

(あっ!)

 星彩はふとある部屋が目に入って、反射的に飛び込んだ。

「お邪魔します!」

 部屋の主はちょうど支度をしていたところで、いきなり転がり込んできた星彩を見て少し驚いたように目を見開いた。

 星彩が寝台の影に隠れると、鬼の形相の楊佳も部屋に飛び込んだが、目の前にいた人物が誰であるのか気付き、慌てて裾を直して礼を取った。

「こ、これは陛下、し、失礼いたしましたっ」

「朝から元気だな」

 愉快そうに笑うのは、近頃この恭国の王に即位したばかりの若者。短い髪を後ろに流し、左耳につけた赤い耳飾りが目を惹く。

 若者の名は鄧宗麟。何を隠そう、星彩の夫である人だ。

「鬼ごっこか?」

「断じて違います!」

 楊佳はきっ、と寝台に隠れる星彩をねめつけた。

「妃殿下はいつもお一人で支度をされ、粗末な着物をお召しになられます! 今日こそはきちんとした装束をお召しいただこうと私も早起きいたしましたのに、お逃げになられたのです!」

「だって楊佳は動きにくい着物ばっかり着せるんだもん!」

 星彩が頭だけ出して言い分を主張すれば、楊佳も負けじと怒鳴り返す。

「妃は立って座って優雅に歩ければよいのです! 走ったり木に登ったり地べたに寝転がったりするための装束などご用意いたしません!」

「それじゃ遊べないよ!」

「妃殿下のお遊びは琴を奏で詩をお詠みになることです!」

「できないもん!」

「お勉強して頂きます! さあ、こちらにいらしてください! お召し物をお換えして、御髪も結って差し上げます!」

「このままでいいよ!」

「よくありません!」

「勘弁してやれ、楊佳」

 見かねて、宗麟が二人の間に割って入った。

「特別な時はともかく、普段は星彩の好きなようにさせてやれ」

「陛下!」

 楊佳の怒りはそのまま宗麟にも向いた。

「そのように陛下が何でもお許しになるから、妃殿下も言うことを聞いて下さらないのです! いいですか!? 星彩さまは恭国王妃! なおかつ淸の公女であらせられたお方なのですよ!? いい加減な格好などすれば両国の恥となります!」

「言うなあ」

 まったく臆せぬ楊佳の発言に宗麟は感心したような声を上げた。本人を前にして恥とまで言い切ることができるのは、楊佳の胆が据わっているせいか、星彩がそれだけ気安いせいか。

「ですから陛下! 妃殿下をこちらへお引き渡しください!」

「そ、宗麟っ」

 宗麟は苦笑して、不安げに見上げる星彩を抱き上げた。引き渡されるのかと思ったが、宗麟はそのまま降ろさない。

「星彩の支度は、後は俺がやる」

「は!?」

「一人でやらなければいいんだろう? 妃には俺が見立てた衣装を着せる」

「そっ・・・」

「夫が妻に、己の好むものを着せてはまずいか?」

「・・・・」

 楊佳は疑わしそうに宗麟をじっと見つめていたが、やがて大きく溜息を吐いた。

「・・・わかりました。陛下がそこまでおっしゃるのであれば、仕方がありません。ですが、明日は私がきっっちりと、お支度をいたしますからねっ」

 最後にそれだけは宣言して、楊佳は退出した。

 宗麟は星彩を寝台の上に降ろし、自分も同じところに座った。

「宗麟、支度って? 着がえなきゃダメ?」

「いや、三つ編みだけ」

 そうして星彩に後ろを向かせ、腰より長い黒髪を丁寧に編み始めた。

「ありがと、宗麟っ。助かったよっ」

「いつもこんな調子か?」

「うん、楊佳はとってもまじめだから、毎朝逃げるの大変なの」

 宗麟の妃として、恭に嫁いではや数週間。

 婚姻の儀を終えると宗麟はすぐ王に即位し、星彩はあっという間に王妃という立場になってしまった。第四公女として見向きもされず育った淸での頃とは違い、侍女が付いて身の回りを世話してくれるし、作法なども勉強させられ、どこかに遊びに行こうものなら咎められ、適当な格好をしようものなら今朝のように楊佳に烈火の如く怒られる。

 綺麗な装束を着るのが嫌なわけではないのだが、星彩にも事情というものがある。

「今日は白龍と遊ぶ約束だからさ、あんまり立派な物は着れないなーと思って。汚しちゃうもん」

「楊佳には星彩の力のことは話してないのか?」

「うん。隠してたいわけじゃないんだけど、楊佳はわたしが鼠や鳥たちといると、追い払っちゃうんだよね。もしかして嫌いなのかなあって思うと言いにくくて」

 星彩は人外のモノの声が聞こえる。獣や草木や風など、自然が何を言ってるのか、なぜかわかるのだ。しかしこの力を信じてくれる人はあまりなく、淸にいる兄や姉たちも皆、星彩の空想だろうと思っている。信じてくれたのは宗麟と、彼の側近の韓当と徐朱の三人だ。

 獣たちと遊び回るのが楽しみの星彩は、汚してはいけない動きにくい衣装をあまり着たくない。側で世話をしてくれる侍女の楊佳にもぜひわかってほしいのだが、なかなか切り出せないでいた。

「星彩に、妃の身分は窮屈そうだな」

 宗麟がぽつりと呟く。

「本当はもっと自由にさせてやりたいんだが・・・うるさい奴らばかりで悪い」

「そんなことないよ!」

 星彩は慌てて首を横に振った。

「わたし、今の生活も嫌じゃないよ! 勉強するのも、きれいな格好するのも、楊佳に怒られるのだって、わたしのことを考えてくれてるってわかるから、嬉しいっ。それに宗麟が許してくれるから、けっこー自由にやってるよっ。今日だって白龍と遊ぶものっ」

 普通の妃であれば、走り回って侍女と言い争って王の寝所に飛び込んでなどということはできないというかそもそもしないし、それを許す者もない。

 自分はずいぶん大目に見てもらっているのだと、ちゃんと自覚している。

「不満なんか全然ないから、宗麟は心配しなくて大丈夫だよっ」

「そうか? まあ、何かあったら遠慮なく言え。できることは全部してやる。なんたって可愛い妃だからな」

 言って、宗麟の手が頬をなでる。

 くすぐったさが嬉しいような恥ずかしような気がして、星彩は鼓動が少しだけ早くなるのを感じた。

 思えば近頃の宗麟は忙しく、あまりゆっくり話せていなかった。王に即位したばかりで政務が山積しているのだという。遊びに誘いたくなることは多々あったのだが、まさか仕事を邪魔するわけにもいかない。恭での星彩の毎日は、楊佳に怒られ白龍と遊ぶの繰り返しだった。

 本当はもう少し、宗麟と過ごしたい。

 でもそれはやはり、わがままが過ぎるから。

 こうして三つ編みを編んでもらったことで、今日は満足しようと思った。

「白龍はいいなあ」

「? なにが?」

「俺も星彩と遊びたい」

「!」

 今まさに考えていたことを言われて、びっくりしてしまう。宗麟は胡坐の上に肘をつき、眉間に皺を寄せた。

「周りは俺を働かせ過ぎなんだ。前王は絶対こんなに忙しくはなかったはずなのに・・・嫌がらせとしか思えん」

「そんなに? 大変なんだ」

 正直、宗麟が日々どんなことをしているかなど、星彩にはわからない。通常の状態の国において妃が政務に関わることなどないのだから、それも仕方の無いことではあるが、宗麟の役に立てないことは歯痒かった。

「わたしも手伝えたらいいんだけどなあ。やっぱり無理?」

「いや、星彩にしかできないことがある」

「なに!?」

「気晴らし」

「あ、あれ?」

 言われた答えに、肩をコケさせた。

「星彩はまだ城下に行ったことがないだろ? 案内する」

「え? でも、お仕事は?」

「遊びも仕事の内。たまには休まないと効率が落ちるんだ」

「そうなの? それだったらわたし、すごく役に立てる自信ある!」

 輝かんばかりの笑顔を浮かべれば、宗麟も楽しそうに笑って、星彩の手を取った。

「よし、こっそり出るぞ。いい抜け道があるんだ」

「それはそれは。ぜひ私めにもお教え願いたいものですね」

 割って入ってきた声の方を見遣れば、にこにこしながら戸口に立つ若者がいた。女性的な美しい顔立ちの男で、年の頃ならちょうど宗麟と同じくらいである。

「徐朱・・・」

 宗麟は半眼で己の側近の名を呟いた。

 主に睨まれた徐朱は苦笑を返す。

「ご夫婦仲睦まじいのは大変結構なのですが、主が朝議をすっぽかすのをさすがに見逃すわけには参りませんので。どうかお恨みなさらないでください」

「・・・もっと早く出るべきだったな」

「宗麟、やっぱりお仕事忙しいんだね」

 一瞬浮かび上がった心がまた沈む。

「申し訳ございません、星彩さま」

 徐朱が深々と頭を下げた。

「今しばらくは陛下をお借りいたします。新王のもと、体制が変わりまだ落ち着いてはおらぬのです。忙しさがひと段落いたしましたらお返ししますので、それまでどうかご辛抱ください。―――陛下も」

 最後は主に釘をさすのも忘れない。宗麟はつまらなそうに、小さく息を吐いた。

「悪いな、星彩」

「ううんっ」

 首を横に振る。この二人が謝る必要など欠片もないのだ。

「徐朱も宗麟も、わたしのことは気にしないでっ。遊んでくれるのはいつだっていいよっ」

 宗麟の気遣いは嬉しくて、しかし甘えるわけにはいかないから、とてもとても残念な想いを押し込めて星彩は精一杯笑ってみせた。

「わたしは白龍と遊んでくるからっ。宗麟はお仕事がんばって!」

「頑張って、陛下」

「徐朱黙れ」

 宗麟はぽん、と星彩の頭に手を乗せた。

「厄介事が片付いたら二人で城下に行くぞ」

「うん、楽しみにしてる!」

 星彩は宗麟と途中までは一緒に行き、その後別れて白龍のもとへ向かった。

 恭の政治の中枢である紫微城にも、淸と同様、厩があった。ただ、王族が乗るための馬しかいない淸と違うのは、城に詰める兵士たちが乗る馬もいるというところだ。だから厩は大きく、働く者も多い。

 厩には粗末な格好でしか現れない星彩は、例の如く女官か何かだと思われ、遊びに来ても誰も気にしない。というより、皆忙しく、星彩に気付いている者がそもそも少ない。

 放牧場で草を食む白馬を見つけ、手を振った。

『おはようございます、星彩。今日はちょっと早いんですね』

 挨拶代わりに鼻を星彩の顔に押し付けて、白龍は愛想よく言う。

「おはよ、白龍っ。ねえ聞いて! 今朝はね、宗麟が髪を結ってくれたの!」

『それは良かったですねえ。ご主人さまが忙しくて、星彩、寂しそうにしてましたもんね』

「そ、そうだった?」

『ええ。星彩はわかりやすいですから』

「う、なんだか恥ずかしい」

 もしかするとそれは宗麟にもばれてしまっていたのかもしれない。だから、仕事をさぼってまで遊びに行こうと誘ってくれたのだろうか。

 気を遣わせてしまったなあと、少し落ち込む。

『最近のご主人さまは輪をかけて忙しそうですよねえ。僕のところにもあまり来てくれなくなりました。寂しいです』

 白龍は人間で言えば眉根を寄せるような仕草をして、うつむいた。

「元気出して、白龍。宗麟のかわりにはならないけど、わたしが毎日遊びに来るよ」

『ありがとうございます。いつか、星彩とご主人さまを乗せてどこかに出かけたいものですね』

「うん。あ、そうだ。宗麟がね、仕事が終わったら城下に連れてってくれるって。そのとき白龍も一緒に行こうよっ」

『本当ですか? わあ、楽しみにします!』

「ねー。わたしもすごく楽しみだよっ」

『星彩はまだ街には行ったことがないんですか?』

「うん。―――淸にいた頃はね、内緒でこっそり出たりしてたんだよ? 街って人や物がたくさんあって、すごくおもしろいんだものっ。母さまと一緒にお祭りを見に行ったこともあるよっ」

『恭でも正月には祭りがありますよ。ご主人さまと一緒にぜひ見に行くといいですよ』

「それ楽しそう! えへへ、何だか急に楽しみが増えたみたいっ」

『これからどんどん楽しいことがありますよ。恭には行事がいっぱいですから』

「わたし、今までずっとお祝い事とか催し物は出してもらえなかったらなあ。色んな物が、見れたらいいなあ」

 宗麟の妃になるまで、ほとんど公の場に出られなかった星彩は、白龍の言う行事を想像することもできない。ただ、きっと綺麗で、おもしろいものなのだろうと思って胸がわくわくした。

「お正月のお祭りってどんなことするの?」

『僕もあまり見たことないんですが、確か紅白の餅を―――』

「こらぁっ!」

 白龍の説明を遮る怒声が響き、ほぼ同時に星彩は襟首を掴まれ宙吊りになった。

「子供がこんなところに入って来るんじゃない!」

 星彩をつまみ上げているのは、棘のように先がつんつんした短髪の青年だった。武闘服を着ているところを見ると、どうやら修練中の兵士であるようだ。比較的細身ではあるが、星彩のことを片手で軽々と持ち上げられる腕力はかなりものだろう。

「お前、街の子供か? ったく、どっから忍び込んだ」

 はあ、と青年は大仰に溜息をついた。

「城の警備も見直した方がいいぜ。子供に易々と侵入されるようじゃあ、しょうがねえ」

「・・・あの?」

「お前もな、ここはガキが遊びに来ていいところじゃねえ。牢にぶち込まれちまうぜ」

「ええと、でも、わたしは」

「今日のところは見逃してやっから、母ちゃんとこに帰れ。な?」

 青年は星彩を小脇に抱え、ずんずんと歩いていってしまう。

『星彩! 大変です、星彩が攫われます!』

 白龍が嘶くも、誰もそれに気付く者はない。追おうにも柵があってはそれも叶わず、右往左往するばかりである。

「ねえ、わたし街の子供じゃないよ?」

「あ? じゃあ何だってんだ」

「王妃だよ」

「ぶはっ」

 正直に言ったのに、青年は吹き出した。

「あっはは! そーきたか! いやいや大した嘘をつくもんだっ」

「嘘じゃないよっ。宗麟に確認してもらえばわかるよっ」

「はいはいお妃さま。わかったからお家に帰りましょうねー」

「わたしの家はこっちじゃないって!」

 逃げようともがいてみるが、たくましい腕ががっちりと腰を捕まえていて、びくともしない。

「大人しくしろ。俺以外の奴に見つかったら、お前は牢にぶちこまれて鞭を百篇も打たれるんだぞ」

「そ、それはイヤっ」

「だろ? 優しい皓大兄さんに感謝しろよ」

「でもわたし、ほんとに街の子じゃないんだけど・・・」

 どれだけ言っても青年は聞く耳持たず、とうとう大門の前まで連れて来られて、ぽい、と外へ放られた。

「じゃあな、もう入ってくんなよ」

「待って!」

 慌てて門に駆け寄るが、槍を持った兵士に阻まれ、無情にも扉は星彩の目の前で閉まった。

「ああ~・・・」

 伸ばした手は届かず、その後、門番にも邪険に追い払われて、星彩はとぼとぼと紫微城とは反対方向へ歩いていった。

「こんなことなら楊佳の言うとおり、ちゃんとした格好してればよかったなあ」

 後悔はしても、先には立たない。

「・・・きっとそのうち、宗麟が気付いて入れてくれるよね」

 仕方がないと割り切って、目の前の光景に気持ちを切り替えることにした。

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