第9話 情報収集
心配するなと言われ、その通りにできる人間はどれほどいるのだろう。少なくとも星彩にはできなかった。
翌日になっても落ち着つかず、朝から庵の中をうろうろと歩き回った。様子を見に行こうにも、宗麟は姉たちと茶会をしていてそれもできない。羽衣を探しに行く気にもなれず、かといってじっとしてもいられなくて、悩んだ星彩は、
『結局、いつも通り厩に行くのだった』
「い、一応、白龍にも報せておこうと思ったのっ。遊びに行くわけじゃないよ!」
周迂に言い訳しながら、忙しい呂遜呂郭への挨拶もそこそこに放牧場へ向かった。
今日も馬たちはのんびりと草を食んでいる。中には白い馬の姿もあったのだが、その脇にもっと珍しいものがあって、思わず足が止まった。
「・・・羅鑑兄さま?」
大きな声を出したつもりはなかったのだが、相手はものすごい素早さで馬の側から飛び退いた。
「せ、星彩?」
見上げるほどに大きい三番目の兄は、なぜだかひどくうろたえて、ぎこちない動きで柵の外へ出てきた。寄っていっても目をそらし、口を真一文字に引き結んでいる。
「こんにちは、兄さま。白龍を見てたの?」
「は、白龍?」
「あの白い馬だよ」
「っ! い、いや、断じて違う!」
羅鑑は取れてしまうのではないかと思うほどの勢いで首を振る。日に焼けた額に汗が一筋垂れていた。
「昼間に羅鑑兄さまがここにいるなんて珍しいね。何してたの?」
「じ、自分の馬の様子を見に来ただけだ」
「兄さまの馬ってブチだっけ」
「無礼な、ブチではない。
『我らの間ではブチで通ってる』
「ねー」
「?? 何が、ねー、なんだ」
「な、なんでもない。でも羅鑑兄さま、猪甘は中じゃないかな? ここにはいないよ?」
「・・・・・・・・猪甘は、もう見たのだ」
「あ、だから白龍を見てたんだね?」
「っ! 違う!」
「白龍ってすごくきれいだもん。つい目がいっちゃうよね」
「・・・ま、まあ、それは・・・否定は、しない。やはり、太子の馬ともなれば立派なものだ。身が引き締まっているし、肉付きもなかなか」
「羅鑑兄さまは馬が好きだもんね。あ、じゃあ白龍を呼んであげるっ」
「なに?」
「おーい、はーくりゅー!」
大声で呼ばわれば、奥にいた白龍も草を食むのをやめて来てくれた。
『こんにちは星彩』
「こんにちは。今日も元気?」
『はい、元気ですよ。皆さんがよくしてくれますから』
「よかった!」
鼻をなでてあげると白龍の方から星彩にすり寄ってきた。
「・・・随分と、懐いているのだな」
そう呟く羅鑑がどこか羨ましそうに見えたのは、星彩だけであろうか。
「友達になったのっ。兄さまもなでてあげたら?」
「む、うむ」
羅鑑はしかし触れかけて、はっと何かに気付いたように手を引っ込めた。
「いや、太子どのの愛馬だ。軽々しく触れるわけにはいかん」
「触るくらい大丈夫だと思うよ? 宗麟は優しいし、許してくれるよっ」
「こら、またお前はっ。太子さまとお呼びしろっ」
途端に羅鑑の眼差しが厳しいものになる。
「そういえば星彩、お前は瑛勝兄上に外出禁止を言い渡されたはずだろう。なぜこんなところまで出歩いている」
「え? えっと・・・」
「兄上の言いつけを破ったな!? 来い! 帰るんだ!」
言い訳を考える間もなく、すぐに羅鑑の長い腕に捕まえられてしまう。
「あー、さよならー白龍ー」
『えー? もう帰っちゃうんですかー?』
残念そうな白龍と、星彩だってもう少し話したかったが、羅鑑の力には逆らえない。ずるずると引きずられていく。
「みっともないぞ、自分で歩けっ」
「はーい。でも羅鑑兄さま、白龍に触らなくてよかったの?」
「べ、別に、触りたいなどとは言ってないっ」
「仲良くなったら乗せてくれるかもしれないよ?」
「乗りたいとも言っとらん! 確かに良い馬だが、太子どのの馬なのだ。の、乗せてもらうなどそんな図々しいことは・・・」
「宗り・・・えっと、太子さまに頼んでみたら?」
「くだらんことを申すな! お前にはわからんのだろうが、今は非常に難しい時期なのだ。公子たる俺が軽率な行動を取るわけにはいかん」
「あ・・・」
わからないことは、ない。むしろ、今は星彩の方が羅鑑よりも《難しい》の度合いを知っている。とても恐ろしい計画を聞いてしまったのだから。
すべてを話したくなるのをぐっと堪えて、星彩は羅鑑の着物の端を引っ張った。
「・・・ねえ、羅鑑兄さま」
「? なんだ」
「こう、丸いお腹でね、口のまわりに髭のある偉い官吏の名前、知らない?」
「ん? そんな官吏はたくさんいるぞ。大体、偉いじゃわからん。役職を言え」
「ええと・・・じゃあ、張畳って人は知ってる?」
「それなら重臣の一人だ」
「じゃあその人もきっと重臣。あんまり恭が好きじゃない人なんだけど」
「同盟反対派か? ・・・とすると、
「コウコク?」
「丸い腹だし、髭も生えてる。まだ父上に同盟について意見しているようだが、これ以上掻き乱すのはいかがなものかと思うが・・・って、待て星彩。お前がなぜ黄鵠のことを訊いてくるんだ」
「え!? えーっと・・・こ、この前、迷子になって、助けてもらったの! お礼言いたかったんだけど、名前聞いとくの忘れちゃって」
「張畳のことはどこで知った」
「そのとき一緒にいたんだよ!」
「片方の名だけ聞いたのか?」
「えええーっと、聞いたってゆーか、き、聞こえた? みたいな!」
「・・・お前の話はよくわからんな。また何か悪さをしたんじゃないんだろうな?」
「してない! してないよ!」
全力で否定するものの、羅鑑は変わらず疑わしそうに妹を見下ろす。
「くれぐれも瑛勝兄上にご迷惑がかかるようなことはするなよ。ただでさえお前はいつも兄上の手を焼かせているんだからな」
「大丈夫、まかせて!」
「全く信用できん」
早く部屋に押し込めば騒ぎを起こさないとでも思ったのか、羅鑑は星彩の腕を再び掴むと大股に歩いて引っ張っていった。
「大人しくしてろ」
庵に着くや、上の兄二人と同じ事を言って、長い足いっぱいの歩幅であっという間に去ってしまう。
星彩はしかし庵に入らず、周迂と顔を見合せた。
「宗麟の暗殺を企んでる人は、黄鵠って人みたいだね」
『うむ。だが知ってどうする?』
「ど・・・しよ? やめてって言いに行くわけにもいかないよね」
『シラを切られるか、そもそも下女だと思われて会えぬやも』
「あ、ありえるね。でもなんとかしてやめさせないと!」
『しかし宗麟には何もするなと言われたのだろう?』
「・・・うん。でもこのままじゃわたし、心配しすぎて胸が裂けちゃうかもしれないよ」
『それは一大事』
「宗麟は証拠がないといけないって言ってた。証拠ってなんだろう?」
『その刺客を捕らえれば何よりの証拠ではないか?』
「確かに! ・・・でも、できるかなあ? わたし武術なんか習ったことないよ。それに、いつ刺客が宗麟を襲うかもわからないし」
『ずっと宗麟の側にいればわかる』
「そうだけど、いきなり襲われたらびっくりして何もできないかもしれないよ。せめて襲われる日がわかったら、わたしもそれまでにちょっとくらい武術習えるかもだけど」
『日は言わなかったのか?』
「うん。後で連絡する、みたいな感じだったの」
『ではまた盗み聞きすればいい』
「物置に隠れてたら来てくれるかなあ?」
『我が奴らをつけて聞いてこようか』
「でも周迂は大きくて目立つよ。そうだ! だったら親分たちに頼めないかな!?」
鼠はどこだって入れるし、どこにだっている。鷲に後をつけられれば奇妙に思うかもしれないが、ありふれた小さな存在にまで気を配るはずがないのだ。
「希忠親分のとこに行って来るね!」
『また我は置いてけぼりか』
頼られず落ち込んでいる周迂を残し、星彩は急いで食料庫に向かう。
「親分っ!」
『おう、どうした』
駆けこんで声を張り上げれば、すぐにただならぬ様子を察した希忠が鼠穴から出てきた。
星彩は昨日の出来事をかいつまんで説明し、やってほしいことと、張畳と黄鵠の特徴を伝えた。
『降りだしてきやがったなあ、こりゃ』
全ての事情を聞いた希忠が唸る。
『星彩、一つ聞いときてえ』
「? なに?」
『こいつぁ結構な大事だぜ。関わっちまっていいのかい? 下手すりゃ危ねえ目にも遭うかもしれねえぞ』
「危ないのは宗麟だよっ」
『星彩も、とばっちり喰うかもしれねえってンだ。命張る覚悟はあんのかい』
「ある! 宗麟は大切な友達だもん!」
淀みも躊躇も迷いもない。
希忠はやれやれと、諦めたように肩をすくめた。
『・・・もう嵐ン中に首突っ込ンじまったってことか。―――よぉし、わかった! 兄弟の危機だ、手ぇ貸してやろうじゃねえかっ』
希忠は子分を呼び集め、黄鵠と張畳、それから宗麟の宮を見張る三つの班に分けて持ち場につかせた。
『星彩は庵にいな。日がわかり次第、子分どもが知らせに走る。それを兄弟にも教えてやりゃあいい』
「わかった! 食べ物とか用意して待ってるよ!」
最後の一言に鼠たちは俄然やる気を出して散っていった。
鼠たちが庵に来るときは、いつもなら周迂に山へ帰ってもらうのだが、星彩が不安がるので今日は物置の方に待機となった。
報告は、すぐには来ない。星彩は厨房から貰ってきた果物やお菓子を机の上に用意して、ひたすら待った。立ったり座ったり、寝転がったり起きたり、井戸で水を汲んでは戻したり、書物を開いたり閉じたり、空を見上げたりしているうちに日が暮れる。
鼠たちは、休憩に立ち寄った者以外は一匹も報告に現れない。よく考えれば暗殺だって急に行われるわけではないのだ。こうして気を急かして待ったって、仕様がないことかもしれない。
夜が来ても、報告はない。
『もう寝たらいい』
休憩の鼠たちすら来なくなり、物置から寝所の柱に移動した周迂が言う。
「うーん・・・でも・・・」
目をこすりこすり、星彩は寝台に横になりながらも書を開いて、懸命に起きていようとする。
『人であればとっくに寝ている時間だ』
「でもぉ・・・そーりんがぁ・・・」
『我が起きていよう。心配せずともここに来る鼠は取らぬ』
「うう・・・」
意識は半ば沈みかけている。周迂の言うとおり、もう寝てもいいのかもしれない。きっと今夜は何もないのだ。机の上の蝋燭の火だけ、消さなければ火事になってしまうかもしれないから、重たい体を持ち上げて、机に向かった。
『星彩!』
まさにその瞬間、甲高い声が部屋に飛び込んできた。
『龍の兄貴のねぐらの周りがおかしいンだ! 兵士が一人も見当たらねえ!』
「え・・・?」
眠気は一気に吹き飛んだ。黄鵠が張畳に暗殺の際は人払いを頼んでいたことが、すぐに思い当たる。そしてそれを裏付けるように、もう一匹、転がり込んできた。
『遅くなっちまってすまねえ! 暗殺は今夜だ! 昼間のうちに張畳の野郎に連絡があったンだ!』
「―――っ!」
次の瞬間には、星彩は庵を飛び出していた。
夜の城は要所々々に篝火が焚かれるも、明りの届かないところは真闇に近い。それでも宗麟の泊まっている宮がある奥殿は、星彩にとって庭のようなもの。まっすぐに駆けてゆける。
今夜は新月。刺客にとって、どれほど都合の良い夜であろうか。
(間に合え、間に合え、間に合えっ!)
願いながら走る。
冷気をもった夜風は汗をさらい、星彩の背を押すように吹く。
そのおかげか、いつもよりずっと速く走れた気がした。間もなく宮の篝火が見えてくる。
もう少し。
そう思ったとき、不意に風が耳元を凪いだ。
――――気をつけて――――
さやかな声がする。
――――そこにいる――――
星彩は速度を緩め、宮の入口に目を凝らす。
篝火の下、倒れた兵士。今まさに扉に手を掛ける、黒衣を纏った影。
「ダメっ!」
叫び、影に飛びついた。いきなり背後から襲われた相手は、即座に背中にくっついたものを投げ飛ばす。
「あぅ・・・っ!」
星彩は地面を二度、跳ね、背中をしたたか打った。そこに影が追撃しようとしたところ、上空から狙いを定めた周迂が突っ込んだ。
周迂はぎゃあぎゃあと鳴きながら羽をまきちらし、布で隠された刺客の顔面を蹴爪で襲う。刺客が短剣を振るい周迂を追い払う間、星彩は起き上がってもう一度飛びかかった。
しかし今度は視界の中に捉えられていたらしい。相手の方から逆に当て身を喰らわせてきて、星彩の体は壁に叩きつけられた。
「っ! ・・・けほっ、こほっ・・・」
ずるずると壁に寄りかかったまま、地面に尻餅をついてしまう。
衝撃で息ができない。頭がくらくらする。刺客を前に、全身から力が抜けていく。星彩はもう、動くこともできなくなっていた。
感覚が鈍っていくなか、背に振動を感じた。それから怒声、剣戟、足音が続く。
「―――星彩っ!」
揺さぶられ、墜ちていく意識をわずかに呼び起されて見たものは、宗麟の顔だった。
生きている。無事だったのだ。
最後の緊張の糸が切られ、意識は夜より深い闇に沈んだ。
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