幻想中華記

キリキ

1章

第1話 淸の公女、恭の太子

 淸国首都大安、長城、後宮。

 

 伝統ある淸国の古き都、大安に佇む、統べる者の宮、長城の奥、王の妻とその娘らの住まう、後宮の東端。

「ふわぁ・・・あ」

 十四歳の第四公女、星彩の住処は小さな庵にあった。

 朝日のよく差す窓からの白い光に起こされて、星彩はまだかすかに眠い眼をこすって、寝所から這い出た。

 この庵には、侍女がいない。星彩は自分で寝間着を脱いで、いつもの格好に着替える。その格好というのも、およそ公女らしからぬ、町人の着るような粗末なものであるのだが、この場でそれに難色を示す者はいない。

 また、腰より先に更に伸びた長い黒髪を三つ編みにまとめる。星彩にとって、この作業が一番厄介なものだった。長すぎる髪は自分で編むにはやりにくく、案の定、今日もガタガタになってしまった。

(あ、そろそろ咲くかな?)

 机の上に、花瓶がある。小さな陶器の中に土をいれ、そこに植物が一本だけ生えているものだ。針のように華奢な茎の先には白い花の蕾。もうすぐ開いても良い頃だ。

 星彩は清潔な布を取り、庵のすぐ前にある井戸へ向かう。水を汲んで、顔を洗う。すると羽ばたきの音とともに、鷲が井戸端にとまった。

『おはよう、星彩』

 その嘴から不意に言葉を発しても、星彩は驚くことなくにっこりと笑った。

「おはよ、周迂しゅうう。今日は厩に遊びに行くの。一緒に来る?」

『もちろん』

「じゃ、朝ごはん食べたら行こっか」

 星彩は昨日のうちに、厨房から自分で取って来た干し芋で、簡単に朝食を済ませ、庵を飛び出した。周迂も上空から後をついてくる。。

「――あら、星彩?」

 途中で、ふと声を掛けられた。侍女を二人ひきつれて、廊下に綺羅やかな衣装を纏った少女がいた。少女は猫のように吊った大きな瞳で星彩の姿を捉え、まさしく獲物を発見したときのように実に嬉しそうな表情をする。

「卑女の娘が、なぜこんなところをうろついているのかしら?」

「あ、おはよう春麗姉さまっ」

 星彩にそう呼ばれた第三公女、春麗はあからさまに顔をしかめた。

「気安く姉さまだなんて呼ばないでちょうだい。まるでお前と私がただの姉妹のようじゃないの」

「だって姉妹だよ?」

「馬鹿ね。私とお前とじゃ、姉妹と呼ぶにはあまりにも身分に差があるのよっ」

 人差し指を突きつけて、星彩がこれまでに何度も聞いた台詞を春麗は繰り返す。

「私の母さまは名門柳家の出。代々続く名家の由緒正しい姫なのよ。ところがお前の母親ときたら、街でいかがわしい商売をしていた卑賤の娘じゃない。たとえその血の半分が気高き淸国王のものだとしても、残り半分の汚れた血に侵されているわ。だから、私を軽々しく姉などと呼んではいけないのよ。わかった?」

「ええと、でも父さまは同じ人なんだし、やっぱり春麗姉さまはわたしの姉さまだと思うんだけど。あとわたしの母さまは占い師だったんだよ」

「うるさいわね! 口答えするの?」

「そうじゃないけど・・・」

「だいたいねっ」

 春麗が声を荒げて言い募る。

「私は反対だったのよ。ただの町人を後宮に召し上げるなんて、しかもきちんとした身分のある私たちと同じ場所に住まわせるなんて、耐え難いことよ」

「でも母さまが嫁いだときって、まだ春麗姉さまは生まれてなかったよね?」

「お黙りなさい! その薄汚い格好、下品な振る舞い、見てるだけで胸がムカムカするわ。父さまはとても立派な王であるけれど、唯一汚点があるとすれば、お前の母親をここへ連れてきたことよ。まったくお前たち親子ときたりゃあっ!?」

 最後が悲鳴に変わってしまったのは、塀にとまって狙いを澄ませていた周迂が、ちょうど春麗に襲いかかったためである。

「きゃあきゃあきゃあきゃあ! 鳥よ鳥よ怪鳥よっ! 誰かぁ誰かあ!」

「ダ、ダメだよ周迂!」

 周迂は春麗の絹の着物に何度も爪や嘴を突っ込んで、袖をズタズタに引き裂いた。

 周迂は慌てた星彩に捕まえられても、ぎゃあぎゃあと激しく春麗を威嚇して、蹴爪と嘴を繰り出そうとしている。

「きゃあ! ねね鼠!?」

 一難去ったかと思いきや、再び姉の悲鳴が上がる。今度は春麗の足元をこぶし大ほどの鼠が数匹駆け回り、春麗の赤い可愛らしい靴に、あるいは裾に齧りつき、または着物の隙間に入り込んでくすぐった。

「あひゃひゃっ、ちょ、もう、きゃはやあっ!」

「しゅ、春麗さまっ」

 春麗は笑ったり泣いたり叫んだり、もうわけのわからない状態でもんどりうって、彼女の侍女たちもどうしたらよいかわからず、辺りを右往左往していた。

「こ、こら、姉さまにイタズラしちゃダメー! あ、こら、ダメだったら! 大人しく縁の下に帰んなさい! ほら!」

 星彩が必死に叱って、ようやく鼠たちはするりと消えた。

 後には、ズタボロになって、ひくひくと痙攣し倒れ込んでいる春麗だけが残されていた。

「ご、ごめんなさい!」

 虫の息ながら、たっぷりと恨みのこもった視線を投げかけてくる姉に急いで頭を下げて、逃げるように後宮の門を出た。

ある程度まで行ってから、ようやく歩を緩め、汗を拭う。

「びっくりしたあ」

『うむ、なかなか愉快だった』

「ダメだよ周迂、姉さまにイタズラしちゃ」

『あの娘が星彩を侮辱するからだ。星彩も、星彩の母も、ちっとも卑しくなどない』

「うん、そう言ってくれるのはありがとだけど、姉さまは怖がりだから脅かしちゃ可哀想だよ。わたしならあんまり気にしてないから、周迂も気にしなくていいよ」

『星彩がそう言うなら、そうする』

「うん、ありがと」

 放してやると、周迂は地面に降りて助走をつけてから飛び立ち、そしてまた星彩の上を旋回しながら付いて来た。

「こんにちはっ」

 厩に着き、元気よく挨拶すれば、ちょうど作業をしていた老人が、曲がった腰に手を添え振り返る。

「おお、よう来なすった」

「驢的の様子を見に来たの。何か手伝うことあったらやるよっ」

「だーいじょぶだで。郭のヤツもおるし、星彩さまが心配なさるこたぁありませんよ」

「そう? わたしにできることがあったら遠慮なく言ってね。どうせいつも遊んでるだけで暇だから」

「星彩さまは、それでよろしいのですじゃ」

「遜じいー」

 ひょい、と奥の飼料庫から小さな頭が現れた。星彩より少し下の年頃だろう、日に焼けた男の子が「あっ!」と叫んだ。

「星彩だ! 遊びに来たんか?」

「これ!」

「痛っ!」

 ぴょこぴょことやってきた少年の頭を、老人がげんこつで殴った。

「公女さまじゃ。呼び捨てなどにすな」

「うう、公女さまにおかれましては本日もようこそおいでくださいまして?」

「あはっ、なにそれ」

 星彩がくすくす笑い出すと、少年もつられて白い歯をこぼした。

 この少年が郭。姓は呂で、遜じいと呼ばれる老人の孫である。二人で長城の馬の世話をしている。この厩にいる馬は王と公子が狩りや遠乗りの時に乗るもので、そう数はないから、二人でも事足りている。流行病で亡くなってしまった父親にかわり、呂郭はまだ幼いながらも祖父の手伝いを立派に務めているのだ。

 馬番は王族との接触があるため、宮中のほとんどの人間が認識していない星彩が第四公女であることも、ちゃんと知っている。

 ちょくちょく遊びに来る星彩に、呂遜はきちんと礼をもって接しているが、呂郭は星彩と年が近く、また二人ともが幼いせいもあり、気安く話すことが多い。

「今日はね、驢的に会いに来たんだ」

「あいつならおもてに放牧してあるよ。あっち」

 そうして星彩の手を引いていこうとした呂郭を、呂遜が再びげんこつで殴った。

「これ、お前は仕事じゃ」

「・・ちぇっ」

 渋々と呂郭は作業に戻る。

 一旦、呂郭と別れ、星彩は裏手の放牧場へ回った。胸ほどまでの高さの柵に囲われ、朝の調教を終えた馬たちが思い思いの場所で草を食んでいる。

「おはよー!」

 馬たちは星彩の声に反応し、とことこと集まってきた。

『星彩だー』

『はよー』

『元気―?』

「うん、元気だよ。皆も元気そうだね」

 もふもふと口を動かしている彼らの鼻をなでてやると、なでられた者はくすぐったそうに上唇を反らせた。柵の上に降り立った周迂は早速馬たちとにらめっこをして遊んでいる。

『よぉ、星彩』

「あ、驢的ろてき

 他の馬の隙間から鼻づらを突っ込んで出てきたのは、少し細身の鹿毛だった。

「様子見に来たよ。最近はどう? お腹痛くなったりしてない?」

『平気さ。まあ、毎日毎日あの堅いもん背中に付けられるのは嫌だけどな』

「それって鞍のこと? 鞍つけないと乗れないからしょうがないよ」

『乗られるってのが嫌なんだよ。知ってるか? 人間どもは俺たちに乗ると腹蹴ったり紐引っ張ったり乱暴な扱いするんだ。俺は自由に走り回りたいってのに』

「そうなの? それは、確かにちょっと嫌かも」

『違うよぅ星彩』

 異議を唱えたのは茶に白い斑点の馬だ。

『驢的はゆーこと聞かないから怒られるんだよぅ。あの人たちは優しいよぅ』

『うっせえブチ! 俺たちゃ野山を駆ける孤高の狼! 野生を捨ててどうする!』

『狼じゃないよぅ、馬だよぅ。それに俺っちたちは群れを作るから孤高じゃないし、野生だったのは爺ちゃんたちの時代じゃないかぁ』

『ばか、こういうのはノリだ。とにかく、俺はもっと自由に走りてぇんだよぉ』

「そういえば、驢的が走ってるとこって見たことないよ。やっぱり速いの?」

『当ったり前ぇよ!』

『俺っちたちの中じゃあ遅いほうだよぅ。驢的はやせっぽっちだから』

『余計なこと言うな!』

 驢的に鼻づらで首を押され、ブチがわあっと逃げ出した。体格はブチのほうが大きいのだが、もともと性格が温和なのだ。

『なんなら星彩、俺に乗ってみるか? 最高の走りを体感させてやるぜ』

「ええ? でもわたし、馬には乗ったことないよ?」

『平気だって。たてがみをしっかり掴んでりゃ落ちねえよ』

「でも驢的は乗られるの嫌なんじゃないの?」

『星彩は特別だ。あ、でも鞍は付けんなよ』

「え、鞍無し? 手綱も?」

『だから、たてがみ掴めって』

「・・大丈夫かなあ?」

 心配しつつ、柵をくぐる。驢的には一旦地面に座ってもらって、それから跨った。

『ほら、立つぞ』

「うん―――わ、とと」

 首にしがみついてなんとか堪えると、いつもより数段高い視界が広がっていた。

「うわー、高い! すごいね驢的!」

『ふふん、そうだろう、良いだろう。じゃあ行くぜ星彩! しっかり掴まってろよ!』

 言うなり驢的は走り出し、囲いの中をぐるぐる回る。速度はどんどん上がっていって、星彩には景色を楽しむ余裕もなくなった。

「ろろ驢的! はや、速すぎるよぉ!」

『ひゃっほーい! どけどけどけぇ! 俺は風になるぅ!』

 すっかり舞い上がった驢的は、星彩の悲鳴も耳に入らないようだ。上で周迂がぎゃあぎゃあ騒いでいるが、暴れ回る驢的相手に鳥では為す術がない。

『行っくぜぇっ!』

「ひゃーーっ!」

 我を忘れた驢的は柵を飛び越え、門外へと突っ走っていった。

城の中を駆け抜け、正門で「止まれ! 止まれったらうぎゃあ!」と門番が悲鳴を上げたが、驢的は止まらないし、星彩は目を瞑っていて気付かない。

「落ちる、落ちる、落ちる、落ちるっ!」

 半泣きでしがみつくも、そろそろ腕の力は限界で、反動に足も耐えられなくなってきている。

「驢的止まってー! 誰か、誰か助けて!」

 願うように叫んだ。そのとき。

「――手を放せ!」

 すぐ近くで聞こえたかと思うと、ぐいと襟首を引っ張られた。ほとんど力の残っていなかった腕はすんなりと驢的の首を外れ、星彩の小さな体は別の誰かに抱えられた。

 目を開けば、白い馬の頭がまず目に入った。それから周りを囲む兵士と、屈強なその馬たち。背に当たるのは誰かの体で、大きな手が星彩をしっかり抱えて鞍の前の方に座らせていた。

「槍の柄で脅かせ! 他は縄を張れ!」

 頭上から降る声は男のものだ。男は後ろの兵士たちに命じて、暴走する驢的をあっという間に取り押さえてしまった。驢的は首に縄をかけられて、剣を振りかざした強面の兵士たちによってすぐに大人しくさせられた。

「怪我はないか?」

 ぽんぽんと頭を叩かれ、見上げると、笑みを浮かべた青年の顔がある。

 後ろに流した短い髪に、何かおもしろいものを見つけたように見開かれた切れ長の瞳。左だけにある赤い耳飾りが目を惹いた。青が基調の彼の装束は、この国ではあまり見ない模様が刺繍されている。

「あ、ありがとう!」

 見知らぬ相手であったが、まずは助けてもらったことに星彩は感謝を述べた。抱えられたままでは難しかったが、頭もできる限り深く下げる。

「礼には及ばない。―――あれは、長城の馬か?」

「うん。驢的って言うんだよ。あ、驢的は無事?」

 星彩が心配そうに後ろを見れば、男は兵士に言って驢的を引いて来させた。

「驢的、怪我してない?」

『お、おう。悪かったな、星彩』

 さっきの威勢はどこへ行ったのか、すっかりしおらしくなってしまっている。

「わたしは平気。でももう暴走しちゃダメだよ? あんなに走って転んだら怪我しちゃうかもだし、何かにぶつかったら危ないよ。わかった?」

『わかったよ。俺ももうこんな怖い奴らに囲まれたくない』

 すっかり怯えた様子で、こくこくと驢的は頷いた。

「うん、いい子いい子」

 星彩がなでるために手を伸ばすと、驢的の方から鼻をすり寄せてきた。

「・・・お前は馬番なのか?」

 様子を眺めていた男が、不思議そうに尋ねる。

 みすぼらしい格好をして、馬に乗って城門から飛び出して来た娘なのだ、そう思われても無理はない。いや、むしろこの格好で公女と知られる方がまずい。

「う、うん。わたしは星彩っていうの。あなたは?」

 ひとまず身分は隠し、相手に尋ねた。多くの兵を従え、見慣れぬ衣裳を纏うこの人は一体何者だろうかと思った。が、男が答えようと口を開いた瞬間「無礼者っ!」の罵声と共に、星彩は強い力で下に引き摺り降ろされた。

『星彩!』

 落ちる途中で腕を放されたために、支えを失い星彩は地面にしたたか体を打ちつけた。驢的がばたばたと足踏みする横で、痛みにじんわり涙がにじむ。

 そんな娘を見下ろすのは、立派な礼服を纏った恰幅の良い中年の男。こちらは城中でいつも見かける淸の官吏の服装だ。

「こちらにおわすは恭国の太子殿下ぞ! それを知っての狼藉か!?」

「・・・キョウの、タイシ?」

 涙を拭い、星彩は馬上の人と官吏とを見比べた。改めてよく周りを見てみれば、男の側には獣らしき紋章が刺繍された大きな蒼い旗が立ち、淸の兵士たちが先導にあって城の正門に続く道から人払いをしている。

 星彩にはわからなかったが、これは他国からやって来る使者の列そのものだった。

「痴れ者めがっ! 者ども捕らえよっ! 牢に放り込んで鞭を打て!」

 まさかこんなみすぼらしい者が公女だと思わぬ官吏は、迷わず兵士に命じた。星彩がうろたえている間にも怖い大人の手が迫る。

『星彩に触れるなっ!』

 直後に鳥の鋭い鳴き声が響いた。

 星彩を追って飛んで来た周迂が、迫る兵士の手を蹴散らす。いかに兵士といえど、突如現れた鷲には怯んだ。

『星彩を苛めんなゴラァっ!』

 驢的も首に縄を掛けられたまま、拘束を振り切って星彩の前に躍り出た。たまらず、淸の兵士たちは一斉に後退する。

「しゅ、周迂! 驢的も! もう大丈夫だから! お願い落ちついて!」

 制止の声も届かず暴れ回る二匹を、星彩だって止めようがない。

 そのとき不意に、くつくつと笑う声が聞こえた。

 馬上にある恭国の太子が、あわてふためく淸兵を見てとてもおかしそうに笑っていた。

「お前らも手伝ってやれ。ただし、獣どもを傷つけるな」

 太子は己の兵士に命じ、暴れる馬と鷲を囲わせた。驢的は首の縄を掴まれて大人しくさせられ、周迂は捕まるより先に星彩の側へと逃げた。

「この娘のことは、咎めないでやってくれ」

 乱れた衣服を正す官吏に向かい、太子が言った。

「こんな小さな子供に鞭を受けさせてはこちらの寝覚めが悪くなる。俺に免じて赦してやってくれないか」

「なっ・・・よ、よろしいのですか?」

「そう言っている」

「は・・・ははっ。畏まりました」

 官吏は渋々といった体ではあったが、両の手を目の前でそっと重ねて礼を取った。

「星彩、といったか」

 話をつけると、太子は娘の方を向く。

「俺の名は宗麟。紹介された通り恭国の太子だ。数日淸には厄介になるから、よろしく頼む」

「ソーリン? すてきな名前だね!」

「それはどうも」

「ねえ、恭ってどこにある国?」

 相手の身分がわかっても、ろくに王族としての教育を受けていない星彩は目上の者への礼儀を知らず、つい無邪気に尋ねてしまう。が、相手も子供の言うことと思い、笑みを含んだままで答えた。

「淸の隣。東の隣国だ」

「淸にはどーして? 遊びに来たの?」

「まあ、そんなところだ」

「そっか。じゃあ、いっぱいいっぱい楽しんでいってね!」

「娘っ! いい加減に下がらぬか!」

と、調子に乗って話していると、星彩はまたしても官吏にどやされた。もう消えねばならないということだろう。

「宗麟、驢的の縄を取ってもらえない?」

「っ! これっ、太子さまを呼び捨てになどとっ・・」

「わかった」

 官吏が咎めるのを遮り、太子は兵に命じて縄を取らせた。

「驢的、周迂、急ごっ。兄さまに見つかったら怒られちゃうっ」

 周迂は助走をつけて飛び立ち、軽い早足で驢的が先を走る。星彩はもう一度だけ恭の太子に向き直り、

「助けてくれて本当にありがとう! それから、淸へようこそ! この地であなたにすてきなことがありますように!」

お礼と祈りを捧げてから、獣たちの後を追った。

『星彩、他国の使者に会って良かったのか?』

 厩に戻る途中、横を飛びながら周迂が尋ねた。

『瑛勝に知れたらまた怒鳴られるな』

『あのおっかねー星彩の兄ちゃん? なんで怒られんの?』

「わたしみたいなみっともない公女がいるのが知られたら、国の恥になっちゃうから、他国の人の前には顔出しちゃいけないの。バレたらきっと怒られる・・・うう、瑛勝兄さまのげんこつってすごく痛いんだよね」

 思い出すと頭のてっぺんが痛くなる気がする。瑛勝とは淸国太子のことであり、星彩とは年の離れた異母兄である。

『でも星彩は立派に公女じゃねえか。それを言っちゃいけねえって、変なの』

「立派じゃないよ。公女らしいことなんか一つもできないもん」

『公女らしいことって?』

「うーんと、楽器とか詩とかを皆の前で発表したり、難しい書物を読んだり、とか?」

『ふーん。星彩はなんもしたことねーの?』

「うん。偉い女の人は琴が弾けなきゃダメなんだけど、そもそも持ってないの。詩は作れないし、難しい書は読めないし、ぜんぜんだよ。あーあ、バレないといいなあ」

重い足取りで厩に戻ると、慌てた様子で呂遜と呂郭が星彩らに駆け寄った。

「星彩! いきなり走ってくからびっくりしたよ。なんで乗ったん?」

「え? えーと、試しに乗ってみよーかなって。そしたら止まんなくなっちゃって」

「鞍もつけずに乗るなぞ無茶な。頼むから危ないことはせんでください」

「はーい。ごめんなさい」

 素直に謝ると、呂遜も胸をなでおろした。

「ともかく、怪我ものうてようございました」

「ごめんね、心配させちゃって。・・・それで悪いんだけど、わたし今日はもう部屋に戻るね」

「え、なんで!? 遊ばないん?」

 呂郭が袖に取り付くように、星彩もとても残念であったが、あの騒ぎが瑛勝の耳に入った場合―――というかおそらくは確実に入るだろうが―――暢気に遊び回っていたらげんこつどころでは済まなくなるかもしれない。

「ごめんね、また遊びに来るからっ」

「あ、星彩~っ」

『またなー』

 驢的や呂郭たちと別れ、星彩は周迂を連れて急ぎ住処へと走った。

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