8話:モザイクアート(③)

 ◇


 月曜日。予鈴を聞きながら教室に入ると、どことなく険悪な雰囲気だった。

 教壇の近く、教室の前の方に人だかりがしていて、その中心にいる女子が男子に向かって文句を言っているようだ。

「何でそんな無駄遣いしてんの?」

 周りの声がうるさいせいで断片的にしか聞き取れないが、どうやら女子と男子が言い争いをしていると言うよりかは女子の方が男子に対して怒っているようだ。

 自分の席に座ってさりげなく耳を傾けていると、僕の様子に気づいたんだろうか、隣の男子がそっと耳打ちをしてきた。出席番号1番の浅野あさの。同じモザイクアート班の男子で、こいつは何かと気の利くやつだったりする。

「お前、佐伯と買い出しに行った後、直帰しただろ」

「そうだけど。何かあったの」

 男は頷いた。そして、椅子に座ったままさらに僕に近づくと、小さい声で言った。

「佐伯が帰ってきた後、『一つ目と同時進行でやろうぜ』って二つ目の制作を始めてたんだよ。そしたら今朝、それが看板の女子に見つかったみたいでさ」

 浅野の言っていることはわかるが、いまいち繫がりが掴めない。

「何。それで何で文句を言われてるの」

 浅野は「そうだよなあ」と言って大きなため息を吐くと、本当にこっそりと、小さな声でこう言った。

「女子が言うにはさ、『余計なことはするな』……だってさ」




 放課後、僕たちモザイクアート班は二つ目の制作をいったん中止にして、看板班の様子を見に行くことになった。塾に行く人は抜けてもらって、小集団となった僕たちは案内役の女子の後ろについていく。

「これ、何だよ……」

 呟いたのは、浅野だった。たぶん言葉にしないまでも、その場にいたモザイクアート班の男子たちは全員同じことを思っただろう。

 ついていった先、渡り廊下横のスペースに敷いたブルーシートの上には、E組のクラスカラーの紫色を取り入れた完成間近の応援看板が広がっていた――はずだったのだが。看板用の木製の板は、ほとんど最初に配られたのと同じような状態で、ブルーシートの上に転がっていた。

 そもそも応援看板は、大きさとしてはだいたい教室の前方の黒板を真ん中で分割し、縦に重ねたくらいになるらしい。それを最初から一枚の板に描くわけではなく、まずは小さめの板にそれぞれ分割した絵を描き、それを最後に繫ぎ合わせる……といった感じで制作を進めるそうなのだが、その半分以上がまだ鉛筆で下書きをしただけの状態で、多少色を塗ってあるものでも線が整っていなかったり、塗り方にムラがあったりととても完成している状態とは言えない。

 道中で目に入った他のクラスの看板は、少なくともうちのクラスよりかは進んでいた。他のクラスとは比べものにならないほど制作が遅れているという状況に、モザイクアート班の男子は皆啞然としてしまった。

「ちょっと、なんでここにブルーシート広げてんの」

 突っ立っている僕たちの後ろから、畳んだブルーシートと看板を抱えた他のクラスの女子たちが不満げな声をかけてくる。E組の女子たちは怯えたように地面に置いた板を集め始めた。そして「移動します」と小声で言う。

「え、ここで作業するんじゃねーの?」

「G組は先週からここで作業してたの。勝手に場所を取らないでくれる」

 不満げにしている女子の一声で、後ろに控えていた女子たちがわっと押し寄せた。そして僕たちが退いた場所に素早くブルーシートを敷く。ちゃっちゃと板、ペンキ、ブラシを並べると、何事もなかったかのような様子で早速作業に入っていく。目の前に並べられた看板のほとんどにムラなくペンキが塗られていて、このクラスの看板はあと少しで完成してしまうのだろうとわかった。

「……今までどこでやってたんだ?」

 男子の一人がおそるおそる訊くと、案内役の女子が、なぜか毅然とした態度で言う。

「決めてなかったの。適当に。全員が集まることも少ないから、日によって作業場を変えてたんだよね」

「は……?」

 モザイクアート班の別の男子が呆れたような声を出した。どうやら看板班は、予想以上にちゃらんぽらんな作業をしていたらしい。って言うか作業に来ている人数自体が少なすぎないか。モザイクアート班はフルメンバーで十五人だから、看板班には二十五人いるはずなんだけど。たまたま塾とか用事とかで今日はいないだけだとしても、ざっと見た感じ、今この場にいる看板班は半分もいないんじゃないだろうか。

 僕と同じことを思っていたのか、別の男子が口を出す。

「人少なくね? 他のやつらは?」

「塾とか用事で帰った。女子は文化部の練習があるからって、抜ける子も多いの。そういう子は引き留めないっていう約束でしょ」

「それにしても、ヤバくね……? 土曜は作業したんだろ?」

「人が集まらなさそうだから、休みにした。みんな疲れてるだろうし」

「それ、マジで言ってんのか……?」

「それよりさ、あれは何? あの布」

 他の男子が、さっき僕たちに突っかかってきたクラス、G組の作業場を見ながら言う。皆でそちらの方を見ると、ブルーシートの上には看板用の板とは別に、同じようなイラストの描かれた布が広がっていた。だいたい板二枚くらいの大きさの布に女子二人が這いつくばって、熱心な様子でペンキを塗っている。

「応援旗だよ」

 今度は佐伯が落ち着いた声で言う。男子たちが一斉に佐伯の方を振り向いたので、佐伯は淡々とした口調で説明した。

「開会式の行進の時に、先頭の人が持つ旗だよ。応援看板の制作と同時進行で進めなきゃいけない物で、それも看板班に制作をお願いしていたんだ」

「――で、まさかとは思うんだけどさ……」

 今度は、案内役の女子に視線が集まる。その女子は鬱陶しそうに首を振ると、苛立ったような口調で言う。

「忘れてたの。今日まで」

「はあ~?」

 モザイクアート班の男子たちは、さすがにキレていた。その中心にいる女子も、視線を彷徨わせたり、腕をガリガリと掻きながら苛立っている。こいつの言いたいことはわかる。「なんで私だけが怒られなきゃいけないんだ」、だ。

「ありえなくね? どうして今日まで言わなかった?」

「そっちも同じくらい進んでないと思ってたの。っていうか、間に合うと思ってたし」

「これで? 言っとくけど金曜までには完成だぞ」

「終わるのか?」

「終わるかどうかわかんなくなったからそっちに相談したんじゃん!」

 女は声を荒げてそう言った。僕は思わず顔を背ける。

 うーん、さすがにそれは逆ギレになってしまう。相手にペースを奪われたやつってその時点で負けだと思うけど、それが理解できないやつはここからが本番だと思って不毛な口争いを始めようとする。だから馬鹿どもの言い合いって嫌いなんだ。意味がないったらありゃしない、互いに不要なストレスが蓄積するだけの最悪の時間が始まってしまう。僕はさっさとその場を立ち去ってもよかったが、変に場を刺激してもいけないので、少し離れた後方から事の顛末を見守ることにした。

「私たちが相談しに行ったら、そっちだって一枚目も終わってないのに二枚目を作るとか言ってるし。そういうの先に相談しないの⁉ 予算とかあるでしょ⁉」

「ただ紙買うだけだろ! ていうかそっちが追加のブラシとかペンキとかいらないって言ってたから、残った分は自由に使えばいいって思うじゃん。それよりお前ら今まで何やってたんだよ! 本気で終わらせる気あるんか⁉」

「だから終わらないって思ったから手伝ってって言いに来たんじゃん。馬鹿なの⁉」

「は⁉ それ、人にものを頼む態度かよ⁉」

「『人に』って何? なんでそんな偉そうなの⁉ 一回もこっちの様子を見に来なかったくせに、何でそっちがキレてるわけ⁉」

 黙って聞いていた僕は、ギャンギャンと喚き立てるその態度はともかくとして、案内係の女子の言い分も理解できなくはないと思う。何故なら僕も、モザイクアート班の男子たちが盛り上がっている時彼女と同じようなことを思ったから。ただまあ、その冷静さを欠いている話し方じゃ、伝えたいことは全然伝わらないと思うけど。

 一応頭の中でここまでの流れを整理しておくと、今回の問題は看板班とモザイクアート班の連係ミスから生じているのだろう。

 最初、看板班とモザイクアート班は制作する作品の規模と数の違いから、看板班が多めに、モザイクアート班が少なめになるように人数を振り分けた。しかし実際は、看板班になった人間には部活や塾等(仮病のやつも当然いるだろう)で早く帰宅するやつが多かった。きっと看板班で作業に参加することのできる人数はモザイクアート班と同じくらいか、集まってもそれより少し多いくらいだったのだろう。そして作業をつまらないと思えば思うほど、彼らの中の優先度が低くなっていくに違いない。そうすれば作業に参加する人数は自然と減ってくる。

 看板班は屋外、モザイクアート班は屋内と作業場所が違った。そして二つの班は口頭などでも連携を取っていなかった。互いの作業進捗を把握していなかったために、モザイクアート班の人間は自分たちと同じように看板も順調に進んでいると仮定して二作目の制作に取りかかろうとしていたし、看板班の人間はモザイクアート班の方も自分たちと同じように進んでいないと考えてギリギリまで救援を呼ばなかった。そして看板班がやっとのことで救援を呼ぼうとなり、初めてそこでモザイクアートの方が順調に進んでいたこと、さらに自分たちに相談もせず二作目に取りかかろうとしていたことを知った。だから、怒っていると言う。わからないでもないし、言い分に筋が通っているとは思う。

 ただあの尋常じゃないキレ方は、それだけじゃないだろう。あれは不安だろうか? こんな誰にでも見られる場所で複数人に責められる羞恥と理不尽さから来ているのかもしれないと思うと、僕は彼女を可哀そうに思う。僕が同じ立場だったら相当嫌だろうな。別に自分だけの責任じゃないのに、ただ目の前にいるからってだけで批判の的にされるなんて。

 同情はするが、僕には何もできない。僕はクラスの隅にいる雑魚で、何の発言権もないから。ていうかこんなに意味のない、ただ互いの苛立ちをぶつけ合うだけのしょうもない言い争いなんて、本人たちのほとぼりが冷めるまで待つことしかできない。


「わ、私が悪いんです」


 揉めている二人の間に、急に、背の高い女子が飛び込んでくる。

 それが、チカ――僕の中学からのクラスメートで、超がつくほど内気なチカであることに、心臓が一気に縮み上がった。

 言い争っていた二人も、その場にいる他のクラスメートも思わず息を吞んだ。普段、あまり喋ることのないチカが突然割って入ってきたことに、誰もが驚いているようだった。チカもチカでいつものように、いやいつも以上に顔を真っ赤にしている。チカはその腫れ上がったように真っ赤な頬を手の甲でゴシゴシゴシと乱暴に擦った。頬が熱くなりすぎて痒いのかもしれない。チカは不揃いな長い前髪の下で、ぎゅっと目を瞑った。クラスメートから向けられる視線に耐えるように。


 この場で一番驚いているのは、きっと僕だ。心臓が音を立てて暴れ出す。誰も、何も言わない。その沈黙に、僕まで息が上がってくる。


 チカが看板班なことはわかるよ。でも、なんで「チカが悪い」? そう言えばチカは、夏休みの宿題で提出した絵が美術の先生にめちゃくちゃ褒められて、それを見た女子が、看板に描く絵のデザインをチカに頼んだとか言っていた気がする。もしかして看板班の責任者がチカなのか? いや違う、チカに頼んだその女子が責任者のはずだ。そうだとしたら。


「……どうして」


 僕は驚きで口がきけなくなっていた他のやつらの代わりに、チカに向かって言っていた。

 彼らの視線が一斉に僕に集まる。彼らは、僕がこの場で発言したことにも驚いたようだった。正直僕も驚いていて、やばい、と思う。チカほどではないが、顔に血が上って頭が真っ白になりそうだ。

 他のやつらの視線をまともに受けないようにしながら、チカの様子だけを見る。チカは僕のことを見つめていた。言い争いをしていた男女に挟まれて、顔を真っ赤にして、泣きそうな目で僕を見ている。助けてほしい、という目だ。

 僕の心は逆に、すうっと落ち着く。そしてチカに向き直った。誰にも言っていないが、緊張したり、焦ったりする度に真っ赤になるチカの顔が、僕はけっこう好きだった。他の人がどうかは知らないけれど。

「どうして、自分が悪いって思った?」

 僕はできるだけゆっくり、落ち着いた口調でチカに問いかける。そうじゃないと、ただでさえ内気で恥ずかしがり屋で、緊張しやすいチカはテンパってしまうだろう。僕は、チカを焦らせたいときと逆のことをすることによって、チカのペースに誘導する。前に出てしまったのはしょうがないから、自分のペースでゆっくり話せ。

 チカが僕の些細な気遣いに気づいたかはわからないが、チカは少し目を伏せ、両手を自分の胸の前で組む。そして少し呼吸を整えて、ぽつりぽつりと話し始めた。

「……看板の、原案担当なのに、下書きを描くのも色を決めるのも遅くて。私の作業が、これって決めるのが遅いから、みんなを待たせる時間が長かったの……」

 チカの声は震え、かすれている。誰もチカの言葉を遮ることはなく、黙って耳を傾けている。

「みんなを待たせた分、作業をして返さなきゃいけないのに、全然進められなくて……。私の、図案もよくなかったの。筆が遅いのもいけないの……。本当に、ごめんなさい」

 チカは頭を下げる。

「……比奈ちゃんは悪くないよー」

 案内係の女子が、チカの背中を優しく叩いた。「比奈」というのはチカの名字だ。

「……黒住くろずみさん」

「比奈ちゃんの他に、こんなに絵が描ける人いないもん。それに、比奈ちゃんは毎日来てくれてるでしょ。比奈ちゃんのせいなんかじゃ全然ない」

 黒住と呼ばれた案内係の女子は、自分よりずっと背の高いチカのことをあやすように優しく背中をさすっている。おかげでチカの思い詰めたような顔が和らいだような気がした。

 僕は、自分の果たすべき役割が終わったことを察する。男子も女子も、チカが悪いわけではないことがわかっただろう。それに、この言い争いが不毛だということもわかったに違いない。チカもチカで責任を感じ過ぎというか内罰的なところがあるけれど、チカがああやって前に出てくれたからこそ、今の空気がある。チカの勇気が報われたということだろう。


 しかし、この鎮まりかけていた場に、見慣れない女子生徒たちが割り込んできた。


「は? マジありえないんだけど」

 どうやら女子三人組のようだ。彼女たちはお揃いのTシャツを着ていて、紫色の生地にでかでかと書かれた「3E」の文字から同じ縦割りの三年生の先輩だとわかる。女たちはジロジロと僕たちの様子や手に持っている看板を見ると、吐き捨てるように言った。

「ねえ、この時期にこれって、遅すぎでしょ」

 黒髪ストレートの女が、僕たち一年生をぐるっと見渡す。その鋭い視線とはっきりした物言いに、気の弱そうな女子たちが数名、怯えたように縮こまる。

「今まで何してたの?」

 三人組の中で一番ぽっちゃりした、お団子頭の女子がモザイクアート班の男子に詰め寄った。一番近くにいた男子がたじろぐ。

「それは……」

「あのさあ、後輩たちの様子を見に来たら『これ』って。やる気あんの? 本当に優勝する気ある? それとも『第一祭なんてどうでもいい』って思ってるわけ? ねえ‼」

 お団子女は、そのまとめた団子髪をゆさゆさと揺らしながら声を荒げる。その少し後ろで、長髪をポニーテールにした女が携帯を取り出して、何やら文字を打ち込んでいるようだった。リーダーの女、気性の荒い女、何を考えているかわからない女。とにかく、まずいことになったとわかる。人数で言えばこちらの方が有利なのに、看板班もモザイクアート班も蛇に睨まれた蛙のごとく動けない。せっかく穏便に、なあなあで済むところだったのに。

 女子三人組の気迫はものすごかった。そりゃそうだと思う。相手は僕たちと違って「三年生」だから、一年生の僕らとは気合いの入れ方が違うに決まっている。

「あんたが看板の責任者?」

 たまたま場の中心にいたチカが、リーダー格の女子の目に留まってしまう。まずいと思う間もなく、背の高いチカにそいつがぐっと顔を近づけ、怒鳴った。

「こっちはね、本気で優勝したいの! わかってる⁉ あんたらがしっかりしてくれないと、縦割り優勝できないでしょ⁉」

 女の怒声が小広場に、何なら校舎や渡り廊下の方まで響いてまったく関係のない生徒たちまでこちらを向く気配がする。僕は申し訳ないとか怖いとか思う前に、みっともなくて恥ずかしいと思った。この女たち、僕たちを使って青春ドラマでもしたいんだろうか? あまりにも荒唐無稽なのに、そのくせ熱の入った怒りのパフォーマンスに、僕は心底寒くなる。こちらを見ている無関係のやつらの目線がどうせ白けていると思うと羞恥で全身が痛痒い。

 この状況に呆れ返ってしまっているのは僕だけではないと思うが、少なくとも、その怒りをぶつけるターゲットになってしまったチカは今度こそ泣きそうだった。呼吸の仕方を忘れ、顔を真っ赤にして固まってしまっている。

 ふざけるなよ、と言いたい。チカはあんたらが思ってるよりずっと素直で、いいやつで、自己肯定感が低い。常に自分に自信がないから、自分を否定する言葉だけおそろしく吞み込みがいい。何にも知らないくせに。チカが怒りを向けられる筋合いなんてちっともないのに、自分がドラマの主人公になりたいからって状況把握もせずに怒鳴り散らして恥ずかしくないのかよ。

 僕は、この馬鹿女たちの怒りの矛先をどうにかして他の人間に向けさせることを考える。せめて他のやつに。チカは絶対に悪くない。悪いのは誰だ? 看板班か、モザイクアート班か? それともこの場にいない、サボってるやつら全員か――?


「――先輩方、ごめんなさい‼」


  その場の雰囲気をぶった切るように、叫んだのは佐伯だった。

 思わぬ方向から飛んだ大声に、女たちの動きが一瞬止まる。その隙を突き、佐伯はチカとストレート女の間に割り込んだ。そして勢いよく頭を下げる。

「僕が実行委員です! すべて、全体の状況を把握できていなかった僕の責任です。本当にごめんなさい!」

 佐伯が必死に言う。僕たちは何もできなかった。全員その場に固まって、上級生に頭を下げる佐伯のことを見下ろしている。

「……『責任』って、じゃあ、どうやってとってくれるの?」

 ポニーテール女がパキンと音を立てて携帯を閉じる。佐伯が顔を上げると、そいつはわざとらしくため息を吐いた。

「あのね、期限までに完成しなかったら、君が私たちに頭を下げたところで意味はないよね。そういうのはわかってる?」

「はい。絶対に期限に間に合わせます。先輩たちが優勝できるように、一年も精いっぱい頑張りますから」

 会話になってるんだかなってないんだかわからない会話に、ポニーテール女が再びため息を吐く。ため息を吐きたいのはこっちの方だ。ていうか、その台詞が吐けるのであればそこのストレート女とお団子女の暴走だって止められたんじゃないか?

 怒りの収まらない様子のストレート女を引っ張るようにして、ポニーテール女が去ろうとする。モザイクアート班の男子にガンを飛ばしていたお団子女もそれに続いた。

「折角下級生と交流でも深めようと思ったのに、これじゃ萎えるわ」

 ……捨て台詞を言えて、すっきりしただろうなあ。僕たちはその後ろ姿を見ながら、しばらくその場に立ち尽くした。

 女子も、男子も何も言わない。道端に不法投棄された家具ってこんな気持ちだろうか。誰も何も言わないし、身動きすら取ろうとしない。ただただ、今目の前で行われた儀式のすべてが気色悪くて、胸糞悪かった。

「……ごめん!」

 その、少し幼い声に僕たちの意識は引き戻される。僕たちは佐伯に視線を集めた。

「実行委員として、全体を上手くまとめることができなくてごめん。看板のみんな、ピンチに気づけなくてごめん。モザイクアート班のみんなも手伝うから、だから、頑張って間に合わせようよ。協力すれば、きっと何とかなるよ!」

 佐伯は真剣な顔で力説する。クラスメートの何人かは曖昧に頷き、他のやつらは固まったままだった。ほとんどのやつらが先ほどの一件から頭を切り替えられていないのだ。

「モザイクアートはいったん置いといて、全員で看板と応援旗をやろっか。そうすれば早く終わると思うし、みんなも安心すると思うし……」

「じゃ、モザイクアートはどうすんだ?」

 モザイクアート班の男子の一人が、急に佐伯を遮る。

「もう材料も買ってあるし、どうする? ここで全員が集まって作業しようつったって、ブラシが足りないんだから意味ないだろ」

 静止していた他のやつらが、その発言に呼び覚まされるようにして「確かに」だとか「それもそうか」だとか言い始める。佐伯はすかさず、その声を代表するように「そうだよね」と言った。

野々上ののうえの言うとおりかもしれない。いや、その通りだと思う」

 発言者の男は冷静に頷く。こいつ――野々上はたぶん、この中では賢い方なんだ。そういえば、モザイクアート班の話し合いの時にも積極的に発言していた気がする。即座に全体を見て、状況を把握することができるやつ。そして、冷静に分析して、最善手を導き出すことができるやつ。

「だから、作業自体はやっぱり二手に分けた方がいいと思うんだ。看板班にも応援を出すけど、モザイクアートの方にも何人か残す。それで――」

「待って、」

 案内役の女子――確か黒住が、男の言葉に割り込んでくる。野々上は黒住を見下ろすと、「何?」と言う。

「なんか問題ある?」

「私、今日はもう帰るわ」

「……は?」

 野々上は予想外の言葉に、あんぐりと口を開ける。黒住に続くように、他の黙っていた女子たちも口々に喋り始めた。

「うちも」

「実は私も」

「私も……」

「お前ら……やる気あんの?」

 野々上が低い声で言う。先ほどまでは冷静だったが、さすがに女子たちの態度に立腹したようだった。が、今度は黒住の方がその言葉にキレる。

「塾があったら抜けていいって言ったの、そっちじゃん! 文句言わないでよ!」

「……じゃあ何人残るんだよ」

「少なくとも……五人くらいは残れるはず」

「あのさ、少なすぎだろ。お前らフルで二十五人だろ? 代わりに仮病のやつらを連れて来いよ!」

「ありえない。その言い方はない!」

「お、落ち着いて!」

 ケンカに発展するすんでのところで、佐伯が仲裁に入る。さすが実行委員様だ。

「野々上も黒住も落ち着いて。二人で言い争っててもしょうがないよ。とにかく、今はやらなきゃいけないことをやらなきゃ、ね?」

「じゃあ、このまま帰していいのかよ! 絶対に今話し合いした方がいいだろ、すぐ終わる!」

「別にこっちだって逃げてるわけじゃないから。本当に部活の練習があるの! 今さら何なの? ろくに相談せずに作業を進めたのはそっちなのに、何で私たちばっか怒られないといけないの⁉」

 また黒住が逆ギレモードに入る。が、野々上も相当キレていた。こうなってしまってはどちらが正しいとかじゃない……と思うが、今度はどちらの言いたいこともなんとなくわかる。

「そっちは勝手にお金を使ったよね、相談もなしに! もし看板でペンキが足りなくなったらどうしようとか、そういうのは考えなかったの⁉」

「だから何回か訊いただろうが! 『大丈夫ー』とか言ってたのは看板班だったよな。見通しが甘かったのはそっちじゃないのか?」

「そんなのずっと前のことじゃん! 本当に使う時こそ許可は取れよ! クラス全員のお金だろうが!」

 黒住の口調が荒くなる。そこでまた佐伯が慌てたように遮った。

「黒住ごめん、それを判断したのは僕だから! だから、勝手に判断をしちゃってごめんね。僕が一言看板班に相談できていれば――」

「佐伯さあ、何でもかんでも謝ったらいいと思ってるわけ⁉」

 女の言葉に、他のやつらの視線が一斉に集まる。佐伯はうろたえたようだ。

「私たちのこと、丸く収めようとしてんだよね⁉ そういうの、本っ当に最低‼」

 黒住は吐き捨てると、踵を返して走り出す。……それに続くように、看板の板を持っていた他の女子たちも、次々とその場に板を置き、去っていく。その場に残ったのは、看板組の中でも大人しそうな、チカを含めた女子の何名かとモザイクアート組の男子だけだった。

「……あれは、わけわかんねーな」

 野々上が呟く。口論の相手がいなくなったことで落ち着きを取り戻したらしい。ただ、瞳の奥に押し込めている苛立ちは、まだ完全に鎮まっていないようだった。

 僕は、おおむね野々上に同感だった。看板班にだって悪いところはあっただろうに、あそこまで一方的に怒ることができるなんて感心する。僕だったら後ろめたくて無理だ。それにあんだけ間に合わないとか言っておいて、自分たちは部活だ塾だと理由をつけて帰るんだ。さすがに図太すぎるというか、どうかしてると思う。

「……これからどうする?」

 モザイクアート班の一人が、佐伯に言う。佐伯は苦い顔をして、必死に何かを考えているようだった。皆が佐伯の判断に期待していた。残った看板班の女子も、心配そうな顔でこちらを見ている。

「とりあえず、今日の作業は僕たちだけでやろうか。今いる人だけで、できるだけ看板の作業を進めよう」

 その言葉に、野々上がぴくりと反応する。先ほどまでのやりとりのせいで、言い争いをするための感覚が研ぎ澄まされているようだ。

「さっき帰るって言ってた奴らは? 今からでも引き留めて、手伝わせなくていいのか?」

「それは、しょうがないよ。もし本当に塾だったら引き留められないし、今は何を言ってもしょうがないと思う。だから、今いる人でやろう?」

「それは違うだろ」

 野々上はばっさりと斬った。その瞳には再び苛立ちの色が浮かんでいる。今度はその視線の先が、黒住ではなく佐伯に向けられていた。

「俺だって、これが終わったら塾に行くんだ。お前やあいつらと同じように授業の予習や復習もあるし、全員、同じ条件だろ。もしかしたらマジで用事があるのかもしれないけど、もしあいつらが面倒くさくてサボろうとしてるならここは無理やりにでも引き留めて話をするべきだっただろ」

「それは、そうかもしれないけど。でも、」

「そういうの、ちゃんと言わないと駄目だろ」

 野々上がきっぱりと言い、その場の誰もがわかった。それは明らかに、相手を見放すときの声だった。

「来ない連中の代わりに、真面目に来てる人間が無理する必要がどこにあるんだよ。真面目な奴らが割を食うだけだ。サボってる連中の尻拭いのために時間も労力も割いて作業するなんて、そんなの間違っていると思わないか」

 佐伯は黙りこくる。野々上はしばらく佐伯の返答を待っていたが、佐伯が何も答えられないのを確認すると、静かに佐伯に背を向けた。

「悪いけど、俺は帰るよ」

 彼は黙って、校舎の方に去っていく。他の何人かの男子も、それに続くようにして行ってしまった。その場に残ったのは、もう、男女合わせて十人もいない。クラスには四十人いるはずなのに。

「……ごめん、みんな」

 僕たちの真ん中に立った佐伯が、小さな声で呟いた。

「もし、みんなも不満があるんだったら、帰っていいよ。たとえみんなが帰っても、今日の作業は、僕ができるだけ進めておくからさ。最終的な責任は、全部僕がとるし……」

 その場に残っているクラスメートの何人かが、おそるおそる顔を見合わせる。佐伯は地面を見つめたまま、握りこぶしをわずかに震わせていた。その顔は気丈にも、笑おうとしている。僕たちに心配をかけまいとして。

「……そういうところなんじゃないの」

 僕は、佐伯に声をかけていた。クラスの視線が一気に僕に集まる。佐伯の肩もピクリと跳ね、ゆっくりと僕の方を振り向く。

「その『最後は自分が全部やるから』、『みんなの責任は自分がとるから』っていうの、何様? っていうかいちいち言い方が恩着せがましくて嫌だな。そういうことを言う割に全体も見えてないし、後先考えずにあれこれ決めちゃうところも嫌い。責任感がなくって嫌い。綺麗事ばっかり言って、結局自分の意見がないとこも嫌い。そういうところ、ちゃんと自覚してんの?」

「おい、鏡味」

 男子の一人が僕の名前を呼ぶ。一瞥すれば、彼の眼鏡越しに目が合う。モザイクアート班の藤原だった。藤原は細く鋭い目で僕を睨んでいる。僕はその視線をまるっきり無視した。

 そして、佐伯に向き直る。僕の胸の中には黒くて熱い泥のような物が渦巻いていて、吐き出し切らないと気が済まない。もう周りの目とかどうだっていい。この苛立ちを、気持ちの悪さを、こいつにぶつけないと解放されない。

「あのさ、『最後は自分がやる』って、誰も協力しなくても『自分だけで完成させられる』って思ってるんじゃないの。よく見てよ、今の状況。残りの日数。どう考えたってあんただけの力じゃ完成させられっこないでしょ。それでも自分だけで完結できるって思ってる? そうだとしたら馬鹿でしょ。計算がザル。それか自分のことを過信しすぎのとんでもない傲慢だね。あんたって自分のことを何だと思ってんの?」

「鏡味‼」

 大股で近づいて来た藤原が僕の肩を掴む。こいつは僕の話を止めようとしているんだ、という意図に気づいた瞬間カッと頭に血が上った。僕の言っていることは正しいだろ! みんな、同じことを思ってるんじゃないのかよ!

「……っ」

 心の中の叫びを声にすることができなくて、代わりにその手を振り払う。これ以上この場にいたら頭がおかしくなる。時間の無駄だ。労力の無駄だ。佐伯みたいな傲慢な馬鹿野郎に話をしたって、ここに残った自主性も判断能力もない馬鹿どもに同意を求めたって何にも返ってこない。僕がここで真剣に考えることには何の意味もないんだ。

 どうしようもない虚しさとやるせなさに胸を掻き毟りたくなる衝動を抑えながら、僕は踵を返す。もうこんなところにいたくはない。

 教室へと向かう僕を、引き留めるやつは誰もいない。佐伯も藤原も、チカやその他の男子も女子も、誰も僕を追ってこなかった。


 そして教室に戻れば、不思議なくらい誰の気配もなかった。あの場から去ったやつらは宣言通り、本当に全員帰ったんだ。

 抜け殻のようになった教室を見て僕は清々しくなってもおかしくないはずなのに、無性に腹が立って、自分の机の脚を思いっ切り蹴飛ばした。

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