8話:モザイクアート(②)




 土曜日の昼間。第一祭まで、残り一週間を切っている。

 床に置かれたビニール袋の中には、折り紙の紙片が色ごとに分けて入れられている。また、模造紙を貼り合わせて作った台紙は、すでにその面積の半分以上が紙片に埋め尽くされていた。僕たちモザイクアート班の仕事は早くも終わりに近づいており、教室には和やかな空気が流れている。

 教室には、モザイクアート班以外の人間はいない。基本的に、作業時間中、僕たちは看板班のやつらと関わることがなかった。特別仲が悪いというわけではなさそうだが、そもそも女子と、女子に好かれたい男子で結成された看板班と、そういったことに前のめりではない男子の寄せ集めでできたモザイクアート班だからか、僕は二つの班に、人間的な「カテゴリ」の違いを感じていた。遠目に見ているだけでも、それぞれの班のやつらは住んでいる世界が違うのだろう、だから関わり合おうとしないのだろう、と思わされた。単純に、看板班の作業場が外にあるから関わる機会が少ない、というのもあるかもしれないけど。

「よっ。やってるな」

 看板班と関わらない代わりに、モザイクアート班は、「こいつ」と絡むことが増えた気がする。

 前のドアから現れたそいつは「また来たぜ」と言いながら、気楽な感じで片手を上げてみせる。

「お前は来るなよ~」

「帰れよお前!」

 口ではそう言いつつも、男子たちはそいつの登場を喜んでいるようだった。僕は手元の作業を続けながら、教室の空気が変わるのを感じていた。こいつが来ると、明らかに場の雰囲気が明るくなる。

 播磨聡介(はりまそうすけ)。隣の一年D組の男子生徒で、噂によれば、この学年一の秀才――いや、天才らしい。あくまでモザイクアート班の男子たちが話しているのを小耳に挟んだ程度だが、播磨という男は勉強もできれば運動神経もよくて、しかもまあまあ顔がいいためモテるし、さらに高いコミュ力を持っている上に、どこかの会社の社長の息子とかで金も権力も持っている、スーパーエリート完璧人間だそうだ。

 彼のあらゆる個人能力の高さや人柄のよさを補強するエピソードは、彼に関わったことがあるやつなら誰でも一つ以上は持っているらしい。が、そんな眉唾物の噂話に頼らずとも、僕も彼という人間のスペックの高さを、たまに聞こえてくる会話の節々から感じとることができた。

 僕には、播磨という男が優秀で、とりわけ「賢い」人間だということがなんとなくわかる。彼には独特のオーラがある。うまく言えないけど、彼は常に、他のどんな生徒――下手な大人とかよりも、「デキる奴」なんだってことが、彼の持つオーラでわかるのだ。

 僕の身近な人間に例えると、一番牧田先輩に近いだろうか。控えめだけど自分の考えがしっかりあって、へらっとしているけど状況をよく観察していて、頭の回転が速く、気が利いて、それがさりげない。隙さえあれば自分の話をしたがる青臭いやつらのことを一歩引いた場所から見ていて、しかし決して馬鹿にしたような態度はとらず、名前を呼ばれたらどんなやつに対しても平等に、気さくに、相手のテンションや理解度に合わせて話す。そういった話し方や表情の作り方、堂々としながらも肩の力の抜けた不思議なバランスの佇まいに、僕は、こいつは他の「普通」のやつらとは違う、いろんな経験を積んできた人間だということがわかる。僕も、ほかの「普通」のやつらと同様に、しかし僕の目線から、播磨という男を一目置いていた。

 ただ同時に、僕には播磨について、どうしても理解のできない点があった。彼と佐伯の関係である。

 この男、妙にうちの文化祭実行委員、佐伯に絡む。彼が佐伯に対する過激なスキンシップでクラスを騒がせた日以来、彼はたまに、E組の教室に現われるようになった。一瞬でうちのクラスの人気者になった彼は、彼に興味を示す者に対して分け隔てなく、ちょっかいをかけたりかけられたりして過ごしている。だが、彼のお気に入りはたった一人、佐伯だけのようで、それは彼の言動から誰が見ても明らかだった。

 ちょっと隙があれば佐伯に絡みに行くとか、さりげなく彼の隣をキープするとか。肩を組んだり、会話の途中で手を繋いでみたり、播磨は人目をまったく気にすることなく、むしろ見せつけるようにしてそのようなスキンシップを欠かさなかった。クラスの男子たちは播磨の佐伯に対する態度にやや引きつつも、特にツッコむことはしない。一部の女子たちの間では夏休みが明けてから急接近した彼ら(なんて言い方だ)の関係について考察する動きもあったようだが、事実に尾ひれがついてしまう前に、佐伯が播磨のいない間にそれとなく説明しているのが聞こえてきた。

 佐伯が言うには、播磨と佐伯は通っていた中学校や小学校こそ違うが、小学校の頃から同じ地域のバスケットボールクラブに所属していたらしい。高校に進学するにあたって互いにクラブはやめてしまったが、同じ学校に通うことになったから、「きっと嬉しくて、一時的に遊びに来ているんだと思う」……ということだった。

 それが真実なのか噓なのかは、クラスの誰もが判別できなかった。というのも、播磨の佐伯のみに対するスキンシップは、最初に見せつけられたのと同等に「友達」の域をやや超えていたからだ。「嬉しくて、遊びに来ている」以上の何かがあることは誰が見ても明らかだったが、佐伯がそれ以上何も語ろうとしないことから、それきり彼らの関係性が追究されることはなくなった。もともと、場の空気を読むのに長けたやつらが集まっていた。クラスメートたちは佐伯と播磨の関係性を追究することによって、一つのタブー――播磨が佐伯のことを「そういう」目で見ている可能性――に触れてしまうことに気づき、それらをクラスの「暗黙の了解」の一つに加えた。

 だけど僕は、それでも、佐伯と播磨に対する言いようのない違和感が拭えなくて、もやもやとしている。

 別に、二人の関係性をもっとよく知りたいとか、そういう気持ちはまったくない。ただでさえ他人の人間関係に興味がないのに、自分とは一切関わりのない、カースト上位のやつらのごたごたに首を突っ込もうなんて気持ちは一切湧かなかった。

 ただ、佐伯と播磨が一緒にいると、無性に気になる。根本的な違和感、と言うのだろうか。胸の奥で何かがざわざわと蠢く感じがして、思わず意識を向けてしまう。他のやつらが同じような違和感を覚えているかはわからないけれど、とにかく僕は、教室に播磨がやってくると、ピンと神経が張り詰める。

「D組の準備は順調? たしかお化け屋敷だよね?」

 佐伯は床に広げた模造紙に色紙を貼りつけながら、隣にいる播磨に声をかける。今日は土曜日で授業もないので、机をすべて後ろに下げ、空いたスペースいっぱいを使って模造紙やらビニール袋やらを広げていた。僕たちが作っているモザイクアートは、教室の前黒板をほとんど覆ってしまうくらいの特大サイズとなる予定だ。僕は、本当はまったく興味がないはずなのに、佐伯と播磨の会話に耳をそばだててしまう。僕ってこんなにミーハーだっただろうか。軽く自分に失望しながら、でもこの何とも言えない「嫌な感じ」に背くと余計に集中できなくなるから、せめてもの抵抗として、佐伯と播磨のいる場所から一番遠いところに座り込んで作業を進める。ちょうど地面の部分だった。僕は近くにあったビニール袋から茶色の紙片を取り出す。

「ああ、順調だぜ。当日はつみきも遊びに来いよ」

「うん、絶対行くよ」

「おう。あ、何なら一緒に行かねえ? 俺がエスコートしてやるよ」

「ええー、播磨は作ってるところを見てるから、面白くないでしょ」

 佐伯が笑いながらやんわりとツッコむと、聞いていた男子たちが「そりゃそうだ」と言って笑っている。播磨は腕を組んで何かを考えていたが、突然ひらめいたように顔を上げ、佐伯に向かって言った。

「逆に俺がつみきにエスコートしてもらうか! 何なら俺が目隠しでもして、つみきには俺が転ばないように案内してもらいつつ、お化けから逃げながら出口を目指してもらう……っていうのはどうだ」

「えっ……」

「うわ、何その縛りプレイ!」

「ハードモードじゃん」

「でもさー、目隠しして歩くのって楽しそうじゃね? そもそも目隠しがエロいっていうか……」

「それはわかる」

「俺も目隠しされてえー」

「Mの発言来たー」

 男子たちはゲラゲラと笑いながら、俺はお前はSだMだと至極くだらない話を始める。僕はこの手の話題が苦手だから、自分が巻き込まれることはないとわかっていながらも、できるだけ気配を消しつつ作業を進める。男というのは基本的に、女子のいないところでは下ネタしか話さない生き物だ。普段、どんなに女子に優しくて当たり障りのないことしか言わないやつも、女子たちの姿が見えないと急に猿みたいなことを言ったりする。

「でも目隠ししながらのお化け屋敷の件は、結構面白いかもな。D組の奴らに一応話をしてみるか」

「マジか!」

「うちのマゾどもが喜ぶぞ」

「おい!」

「ははっ。もちろん、安全性とかもろもろ吟味してからになるけど。『特殊な性癖を持った一部の人間の集客が見込める』って伝えておくぜ。例えばE組の男子たちってのもな」

 播磨がウインクをすると、普段は大人しそうにしている男子たちが声を上げて笑う。

「マジかよ播磨~!」

「俺はマジだぜ? っつーことでじゃあな。また遊びに来るぜ」

「俺は濡れ衣だ!」

「罪は全部マゾどもに着せてくれ!」

「いーや、お前らまとめて同罪にしてやるよ」

 ひらりとドアに近づくと、播磨は教室にいる人間をぐるっと見渡した。その時、僕とも目が合う。会話に参加していなかった僕に彼は一瞬だけ照準を合わせた、が、僕が息苦しさを覚え始めてしまう前に解放されたのがわかった。

「じゃあな」

 いたずらっぽく笑いかけると、播磨はドアの向こうに消えた。播磨が見せた意味ありげな笑みに、下ネタで興奮していた男子たちはしばらくブーイングをしているようだったが、僕は一人気が抜けて、模造紙の上に腰を下ろした。

 播磨が見えなくなった瞬間に、例の何とも言えない違和感が消え去る。播磨の放つプレッシャーみたいなものなんだろうか。それか、彼に対して僕が無意識に劣等感みたいなものを抱えているんだろうか。頭がよくて堂々としていて、人気者の彼に、わざわざ劣等感を? 無駄すぎる。

 しばらくすると、さっきまで馬鹿騒ぎしていた連中も変な熱が引いてきたのか、静かになってくる。教室にいる人間はもともとこの人数だったはずなのに、ごっそりと人がいなくなってしまったみたいに広々とした。

「あのさ」

 一人の男子が切り出すと、モザイクアート班の全員の視線がゆっくりと集まった。

「これから……どうするよ」

「モザイクアートのこと?」

 真っ先に反応したのは佐伯。男は持っていた紙片の裏側をスティックのりでぐりぐりとしながら話す。

「この調子でやったら月曜のうちには完成するだろ。看板の方を応援しに行った方がいいんじゃね? みたいな」

「ああ、それはあるかも」

 佐伯は立ち上がると、ぐるりと全体の様子を確認する。僕たちはモザイクアートで、学校の正門を作っていた。高校生のモザイクアートにはよくある題材らしく、文化祭を見に来た卒業生などには評判がいいと聞くが、僕は正直何の面白みもない、つまらない題材だなと思っている。僕もしゃがんだままで全体を見てみるが、確かに、メインとなる正門やその近くに植えてある大きな木、水色の空の辺りはほとんど完成している。今日の夕方までしっかり作業を進めたら、全体が完成してしまうかもしれない。

「でもさ、思ったんだけど、寂しくね?」

 今度は空の近くに立っていた男子が言う。

「これは前の黒板に貼るじゃん。でも、そしたら後ろ黒板とかここの横の壁とかは、何もないってことになるじゃん。それは寂しくね?」

 男子が壁を撫でるようなジェスチャーをしながら説明すると、ああ、とか、たしかに、とかの声が聞こえる。佐伯もうんうんと言いながら聞いている。

「絵を増やすのは?」

 別の男子が手を上げて提案する。目を塞がれるのがいいとか何とか言っていたやつだ。僕はおえ、と思うが佐伯はすんなりと問う。

「これとは別の模造紙で作るってこと?」

「そそ。折り紙も微妙に余ってるし、多分だけど、看板もそこそこ進んでんだろ。D組みたいな大がかりなのを作らないからって多めに人を回してんじゃん。向こうも特に何も言ってこないし、こっちはこっちで新しいのを作ればよくね?」

「そうだね……」

「わざわざ仕事増やすことなくねー?」

「でも、何もしてないってのもサボってるみたいで嫌じゃん」

「暇つぶしに、ってか」

「予算は? あるん?」

「言うて折り紙と模造紙だけだろ、買うのって」

 男子たちは口々に話し始めた。僕はそれらの会話をなんとなく耳に入れながら、指定された順番で模造紙に紙片を貼りつけていく。話し合いに参加する気はないけど、僕としては余計な仕事を増やさないでほしい。やるべき仕事が終わったんならそれで終わりでいいじゃん。

 佐伯は足元の模造紙の様子を見ながら唸っていたが、決心したように頷くと、ぱっと顔を上げて「やろっか!」と言った。僕は思わずげ、と言いそうになる。

「せっかくだし、やろう! 予算も残ってるし、小さいサイズのだったら文化祭までに間に合うと思うから、作ってみよっか!」

 佐伯の声に、何人かの男子たちはよっしゃ! と声を上げる。顔を上げて確認すると、少なくとも、僕以外で嫌そうな顔をしているやつは一人もいないようだった。マジか。こいつら結構乗り気で作業をしてたんだ、と驚いてしまう。無駄話ばっかりしているから、てっきり退屈してるんだと思っていた。

「図案はどうするよ」

「前に没になった、あのアニメのやつでよくね? 縦長でボツになったやつ」

「メインが校門なら、縦長のやつでもいいか。サブっぽいし」

「後ろ黒板に張る感じ?」

「後ろは椅子を並べるとか言ってなかったっけ」

「横の柱が意外と幅広だからさあ……」

 口々に話し始めるクラスメートから距離を置き、模造紙の指定の場所に紙片を貼りつけ続けていると、すすっと誰かが近づいてくる気配がする。いや、この状況で僕に声をかける人間なんてわかりきっている。僕は紙片の裏側にのりをつけ、気づいていないふりをする。

「かーがみっ。ねぇ、買い出し一緒に行こうよ」

 わざとらしく、ゆっくりと顔を上げると、案の定佐伯だった。佐伯は僕の近くにしゃがむと、悪気なく僕に顔を近づける。プライベートゾーンのない人間ってどうなってるんだろう。のけ反りたい衝動に駆られるが、動揺していることを悟られるのも癪(しゃく)なので踏ん張って耐える。

「『買い出し』? あんたと僕が?」

「行こうよー。いいよね?」

「よくないよ。なんで僕?」

 何気なく聞き返すと、佐伯が一瞬間を作る。

「……なんとなく?」

「何それ」

 ため息をつくと、佐伯はなぜか困ったような顔で笑う。いや、相手にとって突拍子もないことを言うのであれば、ちゃんとそいつを説得できるような理由を用意しておけよ。僕はビニール袋から新しい紙片を取り出すついでに、佐伯の様子を窺う。僕が黙って待ってやっているのに、佐伯には僕を誘った理由を話し始める気配がない。僕はいらいらした。もう時間切れだ。

「ごめんけど、僕は無理。家の用事があるの。別の人を誘って」

 こんなにもわかりやすい噓だったらさすがに自分が拒絶されていることくらいわかるだろう。と、思っていたのに、佐伯はバカ正直に拗(す)ねたような顔をする。そして、少し考えると、パッと顔を上げた。

「じゃあさ、今からさっと行こうよ。下校時刻くらいまでは空いているでしょ?」

 噓を言おうか迷う。けど、これ以上噓をつくと収拾がつかなくなりそうなので、首を縦に振ってしまう。

「よかった! 買ったものは僕が教室に持って帰るから、鏡味はそのまま家に帰っていいよ。たぶんだけど、鏡味の家から近いんだ。『はくとや』って知ってる?」

「え」

 思わず声が出る。「はくとや」というのは、僕の家の近所にある大きめの文具屋だ。確かにあそこで買い物をするなら、僕は一度学校に戻るより、そのまま帰った方が都合がいいけれど……。そうではなくて、僕には別の疑念が渦巻いている。

「なんで僕の家の場所、知ってるわけ」

 気持ち悪いなあ、という気持ちを込めて訊いてみると、佐伯は慌てて補足する。

「違う違う! そうじゃないかなって思ったんだよね。ほら、鏡味ってS中出身だから、学区があの辺でしょ」

「まあ……確かにね」

 そこまでリサーチされてというか、考えられての誘いだと、このクラスメートの中で僕だけが選ばれた理由に納得がいかないわけではない。しかし、それならそうと、最初から言ってくれたらいいのに。

「僕が一緒に行く意味は? 佐伯が一人で行けばいいじゃん」

「冷たいなあ」

「どこが?」

 思わず言ってしまう。こんなやつ、取り合う必要はないとわかっているのになぜかむきになってしまう。どうして僕はこんなに佐伯の態度がムカつくんだろうか。

 佐伯はまた何か言い訳を考えようとして、まごまごしている。困ったり傷ついたり、何にも喋ることができないくせに表情だけは豊かだ。僕は手元の作業を続行することにして、顔を下に向ける。あまり他人の優しさに甘えないでほしい。

 と、佐伯が手を伸ばして、僕が手に取ろうとしたのりを取り上げた。

 一瞬何が起きたのかわからなかった。僕は左手で紙片をつまみ、空いた右手で空を掴みながら、ゆっくりと状況を咀嚼(そしゃく)する。今、僕はそののりを使おうと思っていたところだ。それを取り上げられたら、僕はこの紙片を模造紙に貼りつけることができない。作業を進めることができない。……えーと、どういう意図で、佐伯はのりを奪おうと思った?

 佐伯を見ると、奪ったのりを僕の前で見せびらかしながら、挑発するように笑っている。僕は反射的に手を伸ばすが、佐伯は腕を使って器用に避ける。素早く頭の上に掲げたり、ポイと投げたのりを片手でキャッチしてみたり。そういえば、こいつはバスケをしていると言っていた。こうなると、僕に勝ち目はない。

「何なの」

 馬鹿らしくなって、手に持っていた紙片をビニール袋に戻すと、佐伯は歯を見せて笑った。

「一緒に行ってくれる?」

「……」

 とにかく、こいつから解放されるためには必要なイベントなのだと理解した。僕が頷くと、佐伯は表情を明るくして、子どもみたいに「やったぁ」と言った。

「鏡味と買い出し行ってくる!」

 佐伯は奪ったのりを握ったまま、話し合いをしている男子たちに声をかける。

「いってらー」

「メモ渡すからよろしくなー」

「ついでにアイス買ってきてくれ!」

「俺高いやつー」

「待って待って、そっちもメモるから!」

 佐伯は男子たちの方に戻り、メモを受け取ると何やら熱心に書き込んでいる。のりを奪われたままの僕は、手持ち無沙汰となってしまったため、おとなしく帰り支度をすることにした。

 聞こえてくる会話から、僕たちが作ることになった追加のモザイクアートは、とあるアニメに出てくる戦隊ロボットになったらしい。メインが学校の校門でおまけがロボットというのは、いささかアンバランスだし、個人的なオタク趣味に走りすぎな気がするけれどいいのだろうか。もともと校門だって、卒業生に受けがいいから、みたいな理由で選ばれたモチーフだったと思うけど。

 だがまあ、「看板班には俺から説明するから!」と意気込んでいる男子やその仲間たちがずいぶんと楽しそうにしているから、余計なことは言わないことにする。僕は上から言われたことをこなすだけのザコ作業員で、作っているものに対して何の権限も責任もない。

「鏡味、行こう!」

 黒いエナメルバッグを肩にかけながら、佐伯がやってくる。うちの学校でエナメルバッグを持っているやつは、運動部だと一発でわかる。明らかに住む世界の違う佐伯が、どうしてこんなにも僕に構うのかはわからない。が、僕は彼と行くことにした。ついでに早上がりさせてもらおう。




 佐伯の推察通り、「はくとや」は僕の家のすぐ近くにある文房具屋だ。僕の家やはくとやがある辺り、すなわちS中の学区は、街の中心部からそんなに離れてないにもかかわらず、落ち着いた町だ。おそらく、その間に大きくて幅の広い川が横たわっているからだろう。S中の学区は川の東側にあり、西側と比べて道の幅が広く、背の高い建物がほとんどないからか風通しがいい気がする。建物は縦に伸ばすのではなく横に広げるのが主流で、はくとやも、大通りに面した広い敷地に、平べったい店舗と、同じくらいの面積の大きな駐車場を構えていた。

 学校から自転車で来るのも、そう難しい道ではない。お互いに場所を知っていたから特に迷うこともなく、僕は佐伯とともに空車だらけの駐車場を横切り、自転車を止めた。駐輪スペースには小学生が乗るようなピンクや水色の自転車の他に、第一高校や近隣の高校の駐輪ステッカーを貼った自転車も多く見受けられて、途端に気が滅入る。もしかしたら中学時代の顔見知りに会うかもしれない。僕じゃなくても、佐伯の知り合いとか。佐伯の方を見上げると、額に浮いた汗を手の甲で拭っているところだった。

「早くアイスが食べたいね」

「……何しに来たと思ってるの?」

「そうだね、まずは買い出しだ」

 日焼けしたチラシが何枚も貼ってある、土埃で薄汚れた自動ドアを、佐伯とともにくぐる。すると、冷たくて湿度の高い空気が僕たちを迎え入れた。

「涼しいー。けっこう人がいるね」

 僕が予想した通り、店内には親子連れや中高生が多い。店内はホームセンターのように広く、しかし入口の近くには女子向けのレターセットやシール、キャラクターものの筆箱などが固めて置いてあり、そこだけ空間が濃縮されていて、狭くてうるさい感じがする。ここだけおもちゃ売り場のようだ。

「何を買うんだっけ」

「えーとね」

 佐伯がポケットからメモを取り出す。

「模造紙と折り紙。模造紙は……たしかあっちだったと思う」

「じゃあ、僕は折り紙を見てくればいい?」

 佐伯が「え」と僕を見る。

「一緒に行く流れだったじゃん」

「なんで? 二人で見ても意味ないでしょ」

 僕はこの用事を早く済ませたい。そうすれば、いつもより早く帰れるし。

 折り紙の売り場はなんとなく把握している。

「見つけたら佐伯を探せばいい?」

「えー……まあ」

「何セット必要? 今使ってるやつと同じのを買えばいいんだよね」

 佐伯は何か言いたげにしつつも、メモに目を落とす。

「……じゃあ、五つ」

「わかった」

 僕は歩き始める。と、佐伯がすかさず声をかけてくる。

「やっぱり、僕が鏡味の方に行くから! 模造紙を見つけたらそっちに行くから、動かず待ってて」

「はいよ」

 返事をしながら先に進む。僕は佐伯と余計な会話をしたくなかった。

 何でもかんでも誰かと一緒に、べったりくっついて行動するなんて気持ち悪い。そういうやつには、だいたい決断力とか責任感が欠けている。自分で考えることをはなから放棄して、恥ずかしげもなく「よくわからない」「難しい」って言えるやつ。自分の知能の低さを免罪符にして、自分で決断する責任から逃れ、他人に判断を委ねる甘ったれ。そんな無知で未熟で無責任な自分を責めるのではなく、それを覆い隠すための愛嬌や感じのよさを育ててきた、「愛される」人間のことが、僕はとても嫌いだ。

 佐伯はその典型みたいな人間だと思う。日々の会話の様子を見ていても、佐伯の頭の回転の速さは他の男子たちと比べて平均的か、少し遅いくらいだ。だけど、それは彼の愛嬌というか、子どもっぽさで許されている感じがある。他の男子たちがどう思っているかは知らないけれど、僕は佐伯の会話のテンポにものすごくイライラする。思考回路にもムカつく。そもそも、買い出しなんて一人でできるじゃん。結局別行動となっている今、一緒に買い出しに来た意味というか、僕がここにいる意味ってほぼないんじゃないだろうか。

 折り紙売り場は僕の記憶通りの場所にあった。僕は言われた通りに五組の折り紙を手前から取って、言われた通りにその場に待機する。

「鏡味、決まったよー」

 丸めて棒のようにした模造紙を抱えて、佐伯がこちらに駆け寄ってくる。その様子がなんていうか、本当に子どもみたいだ。屈託なくて開けっぴろげで、隙だらけの笑顔。夏休みが明けてすぐはそんなに気にならなかったが、佐伯は最近、自分の子どもっぽさを隠さなくなっているような感じがする。

「折り紙、見つけてくれてありがとっ。まとめて買ってくるから、鏡味は外で待っててくれない?」

「え、帰っちゃ駄目なの?」

 これで帰れると思っていたから、思わず訊き返してしまう。もう用事も終わったし、僕が佐伯の会計を待つ意味もない。苛立ちを隠さずに佐伯の目を見ると、佐伯は少し困ったような顔をした。

「駄目だよ。何のために鏡味を誘ったと思ってるの?」

「え?」

 理由があるの? と僕が訊く前に、佐伯は僕の持った折り紙をぱっと奪う。こいつ、無害そうな顔して手癖が悪いんじゃないだろうか?

「とりあえず、これだけ買ってくるね」

 佐伯は振り返らずに、レジの方へ早足で歩いていく。僕は急にその場に取り残されて、ぽかんとしてしまった。あるんじゃん、理由。「なんとなく」って言ってたのに。

 一体どんな理由だろう。これは勘だけど、それはただ、「鏡味と友達になりたいから」とか「鏡味のことをもっと知りたいから」みたいな、佐伯のよく言うどうでもよくて厚かましい理由ではないような気がする。レジへと向かって踵(きびす)を返すときの佐伯の表情――何かを話すことをためらっているような、どこか不安げにも見える表情が、僕の予感を裏打ちしていた。いや、それも考え過ぎかもしれない。ただ、僕はもともと、「あの声」の件で、佐伯に接触しようと思っていた。もし、佐伯も同じだったら。

 もし、佐伯が僕に、他のクラスメートがいる場所でできないような話がしたくて、この状況を作り出したのだとすれば。いつもは中身のないことしか言わない佐伯が、今この特殊な状況で、これから僕が「世界の交差」の調査をするにあたって重要なヒントを落としていってくれるのであれば。

 そうであるならば、願ったり叶ったりだ。第一祭の準備なんていう地味でつまらない学校行事のせいで忘れかけていたが、こういった状況が僕に訪れた以上、佐伯とこれから話すことには何か意味があるのだと思う。

 僕は佐伯の会計を待つために、自動ドアの近くに移動する。そして、佐伯からどんな予想外なことを言われても落ち着いて対処できるように、イメージトレーニングをする。夏はあんだけ「異常」なことに驚かされたんだ。その辺の、「普通」の人間よりかは肝が据わったはずだ。少なくとも、牧田先輩に出会う前の自分よりかは。

 そして佐伯がやってくる。佐伯ははくとやのロゴがプリントされた、鮮やかな緑色のビニールバッグを引っ提げて走ってきた。

「お待たせっ」

 先ほど一瞬だけ見せた、複雑な表情の影はなかった。いつも通りの能天気で、幼稚な笑顔で佐伯は僕に笑いかける。いくらこいつがアホそうで、僕にとって無意味な存在であるとしても、こいつの落とす情報は僕にとって有意味かもしれない。そう思うと、僕はこいつに対してだいぶ寛容になれる気がした。

「別に。それで、これからどうするの?」

 さあ、佐伯は何と答える? 問われた佐伯は少し驚いたような顔をする。僕が黙って見つめていると、佐伯は言葉を探すようにもじもじとして、それから急に甘えたような声を出した。

「……先にアイス買わない?」


「みんなへの差し入れ、どうしよっか」

 はくとやの広い駐輪スペースに自転車を置きっぱなしにしたまま、隣のコンビニに入った。佐伯は入店するなりアイス売り場に向かい、さっきのメモを取り出して、ショーケースの中の商品と見比べている。僕はそれにゆったりと追いついた。

「思ってたんだけどさ、アイスのお金どうすんの? 向こうから預かっているわけ?」

 佐伯は彼の肩越しに僕を見て、笑いかける。

「ううん、僕の奢り。一応、僕が実行委員だし」

「や、それは関係なくない? そのメモ通りに買ってたら、まあまあ高くなると思うけど」

 僕は彼の手に持ったメモを覗き込む。模造紙、折り紙の下に、ずらりとアイスの名前が並んでいた。というか、追加で書き込まれた文字列が妙に綺麗で読みやすい。そういえば佐伯は、意外にも綺麗な字を書くのだ。板書の時など、佐伯は日本語もアルファベットも数字も、まるでパソコンの画面に直接打ち込んでいるかのように、真っすぐに整った文字を書くことを思い出す。

「まあ……みんな土曜に集まってくれてるんだから。ほら、実行委員会からのお礼ってところ」

「はあ」

 あまり納得がいかないが、佐伯が平然としているところを見ると、佐伯のこういった気遣いは普通の高校生たちの中では一般的なものなのかもしれない。または、運動部独自の文化なのか。佐伯はひょいひょいとアイスを選び取り、後ろに突っ立っている僕に声をかける。

「鏡味は? 一緒に買うよ」

「別にいいよ。それよりさ、今買うの? 学校までそこそこ距離あるし、買うんだったら学校の前のコンビニにしたら」

 九月に入ったと言っても、外はまだまだ暑い。こんな中、アイスを自転車のかごに乗せて十数分も走ったらドロドロに溶けてしまうだろう。ちょっと考えたらわかることだ。

「ああ……それも、そうかもね」

「そんなことよりさ、僕と何か話したいことがあるんでしょ。今はとりあえず、自分が食べる分だけ買えば」

 と言って、一番安いアイスバーを手に取る。買い食いなんか初めてだ、という浮ついた気持ちと、お金がもったいないから安くで済ませようという気持ちが混在している。

 佐伯が後に続かないので目線を向けると、佐伯も佐伯で複雑な表情のまま、その場で静止している。アイスを選んでいるわけではないようだ。

「……何、その顔」

 一応訊いてやると、佐伯はしどろもどろになった。

「あっ、いや……鏡味が意外と、乗り気になってくれてびっくりしたっていうか。一緒に寄り道できて、嬉しいなーって……」

「何それ」

 様子を眺めていると、佐伯の焦ったような表情がだんだんとゆるんで、ニヤニヤ笑いに変わっていく。というか、照れ笑いだろうか。僕は急に居心地が悪くなった。こいつは一体何に照れているんだろう。自分の口から出たいじらしい言葉にか?

 何を考えているのかさっぱりわからない佐伯を放置してレジに並ぼうとすると、佐伯も慌てて、抱えていたアイスを元の場所に戻した。どうやらこの場で他の男子たちへの差し入れを買うのは諦めたらしい。佐伯が素直に僕に従ったため、僕は少しだけ満足した。そう、少なくとも僕の前では不可解なことをしないでほしい。そして僕は、レジカウンターにアイスの袋と小銭を乗せた。


 会計を終えて外に出ると、むっと暑さが押し寄せる。来たときよりも少しだけ伸びた、コンビニの屋根の影に二人で入る。正面には大通りが見えた。行き交う車や自転車がいつもより多いような気がして、今日が土曜日であることを思い出す。それでも、僕たちのように制服を着てうろついている他校の生徒もちらほらいるようだった。スラックスの色が違う。

 視界の端で、佐伯がアイスバーの包装を剝がしている。と、ぺたりとガラスの壁にもたれかかったから鳥肌が立った。汚いよ、と言いかけて、佐伯があまりにも気にしていなさそうなので無言で引くに留める。もしかしたら僕が特別に潔癖症なだけかもしれない……だけど、汚いと思わないんだろうか。コンビニという場所をそもそも綺麗だと思ってないけど、誰が掃除しているかもわからない、何なら掃除されているわけがない場所に自分の体をくっつけることに、こいつはまったくためらいがないんだろうか。

 もう一つ僕が嫌だなと思うのが、こちらに向けて表紙を見せるように置かれた数々の雑誌である。入り口から離れれば離れるほど、いわゆる成人向けな表現の表紙が、堂々と並べられているのが気持ち悪かった。ガラス窓の向こう側で、平然と立ち読みをしている大人たちが見えるのも気持ち悪い。教室を出て、くだらない会話から抜け出したところで男はやっぱり「こんなの」にしか興味がないんだ、と思うと本当に嫌気が差す。僕も男だけど。

 佐伯を見れば、正面の大通りを眺めながら水色のアイスバーを舐めていた。何か考えているような顔をしているのは、今から話すことを頭の中でまとめているのだろうか。

 僕はそんな佐伯の表情に気づかないふりをして、自分のアイスバーの包みを開けた。佐伯に真似をされてしまったが、僕は佐伯と同じアイスのブドウ味を選んでいた。立ったままで一口齧ると、冷たくて水っぽくて、だんだん甘い。

「……鏡味はさ」

 佐伯が口を開く。僕は思わず身構えた。すぐに本題に入るだろうか。

「好きな人っている?」

「……は?」

 上手く聞き取れなかったのかと思った。佐伯を見ると、割と平然としている。

「いや、なんで……」

「なんとなく」

「……」

 質問に答えよう、というより、どうしてそんな質問をするのだろう、というのが頭の中に渦巻いている。なんで、好きな人の話? それ、何に関係があるの?

 僕と佐伯の間に、微妙な空気が流れる。佐伯の食べかけのアイスからぽたりと水滴が落ちた。

「……っていうより、もっと気になってることがあって……」

「うん……何?」

 手短に、というニュアンスを込めて促すと、佐伯はきまりが悪そうに少し身をよじって、「実は、」と言った。


「僕、ミキ先輩のことが好きなんだよね」

「…………ん?」


 僕が聞き返そうとすると、佐伯は顔を真っ赤にしている。暑さのせいではないだろう。僕はアイスを手に持ったまま、状況を吞み込めないでいた。

 当たり前だけど、ミキ先輩って、「三木(みき)尚人」先輩じゃなくて「牧田美樹(みき)」先輩の方だよな……? っていうか、佐伯、どうして牧田先輩のことを知ってるんだ?

「あのさ、僕も夏休みは学校に来ていたんだ。バスケ部の練習もあったから」

 佐伯が話し始める。

「何度か、ミキ先輩と鏡味が一緒に歩いてるのを見てさ。鏡味が学校にいるのも意外だったけど、教室じゃ全然喋らないのに、ミキ先輩とは結構話してるみたいだったから、あれ? って」

「それは……」

 佐伯に、牧田先輩といるところを目撃されていた。それってまずくないだろうか。バスケ部の練習に来ている佐伯に目撃されているということは、他の連中にも目撃されている可能性があるということだ。「創作部」の存在や部室の場所は、その活動の性質上、一般の生徒にはバレないようにしないといけない。

 一体どこまで見たのか――と質問しようとしてやめる。もしこいつが何も知らないのだったら、逆に墓穴を掘るだけだ。

「それで、どうなの?」

 佐伯は真剣な顔で僕に近づく。

「ミキ先輩のこと、好き?」

「……いや、いやいやいや全然」

「本当に?」

「本当。それだけは本当に、ありえないから!」

 照れ隠しなどではなく、本心だ。悪いが僕は、牧田先輩のことを「女子」だと思って見ていない。ただでさえ年上だし、それに牧田先輩という存在自体が「師匠」とか「超えるべき壁」という感じで、俗に言う「恋愛対象」として見ることなんてできない。罰当たりな感じさえする。

 あえて強く言い切ると、佐伯はゆるゆると緊張をほどいて「よかったぁ」と笑った。そうだ、どうして佐伯は牧田先輩のことを、「ミキ先輩」と認知できたのだろう。呼び方もこなれているし、「好き」だと言っているし。この安心のような表情は噓じゃないと思う。でも、どこで知り合ったんだろう? 中学の時とか? それとも、先輩がラジオのDJをしていた時に繋がりがあったとか……? 牧田先輩はともかく、佐伯は「普通」の人間だから、そんなわけがないと思うけど。

 考えを巡らせながらアイスバーを齧っていると、いつの間にか遠くを眺めていた佐伯が「あ、」と言う。

「どうしたの」

「あれ、森本と細羽じゃない?」

 道路の向こう側――バス停の傍に立っている、私服の女子二人組。僕はクラスメートの顔と名前が一致しない人間だから「そうだね」とも「見間違えじゃない?」とも言えないが、確かにあんな感じの女子がいた気もする。少なくとも、そういう名前の人間がクラスにいることはわかる。

 僕たちが目を凝らしていると、一人がたまたまこちらの視線に気づいて、隣の女子に耳打ちをする。そいつも僕らのことをちらりと見たが、すぐに二人とも目を逸らし、まるで何事もなかったように二人で喋り始めた。二人はそれぞれ、はくとやの鮮やかな緑色の袋を持っている。

「そこで買い物でもしたんじゃない」

「看板、進んでるのかな……」

 佐伯は心配そうな声で言うと、溶けかけたアイスをひと舐めする。佐伯はアイスを齧らない派のようだ。

「ちょっと心配だね」

 佐伯は残ったアイスをぱくりと食べた。僕も佐伯の不安げな視線の先を追いながら、残りのアイスを急いで食べる。

 バスを待ちながら、楽しげに話をしている女子二人。そういえば、学校では看板班のやつらに会わなかった。あそこの二人も普通に買い物を楽しんでいたみたいだし、作業はしなかったんだろうか、と思う。もしそうだとしたら羨ましい。僕なんかは佐伯に土曜出勤させられているというのに。

「看板班の進み具合、あんまり見てないからさ。大丈夫かな」

 佐伯は幼い顔立ちを、目いっぱい不安げに歪めている。

「知らないよ。それはあんたの仕事でしょ」

「そうだよね。……ごめん、変なこと言って」

「別に変ではないでしょ」

 むしろ、佐伯の立場なら当然だと言う人もいるかもしれないことだ。僕はむしろ、佐伯がたまにするどこか的の外れた返答の方が気になっていた。どうしてそこで謝るんだろう。謝るくらいだったらどうして僕に話を振るんだろう。会話の小さな違和感の積み重ねが、ストレスになっていくのがわかる。僕はやっぱりこいつのことが苦手かもしれない。

「鏡味、捨ててくるよ」

 僕がアイスを食べ終えたのを見計らってか、佐伯は僕の手からアイスのごみを奪った。家で捨てるつもりだった僕が慌ててついていくと、佐伯が入口の近くにあるごみ箱に、僕と佐伯のごみをまとめて捨てるところだった。

「……ありがとう」

「うん!」

 とびっきりの笑顔を浮かべた佐伯が、こちらに寄ってくる。嬉しそうな顔だ。まるで、僕の役に立てて嬉しい――僕にありがとうと言われて嬉しい――とでも言いたげな、純粋で、恩着せがましい、佐伯の意図。

 その時僕は、こいつのことが生理的に無理だと思った。

「……帰っていいんでしょ。帰るよ」

 僕が言うと、佐伯が「え」と気の抜けた声を出す。

「そうだよね。もう、食べちゃったもんね」

「うん。それを教室に持っていくのとか、頼んでいいんだよね」

「それは、もちろんだけど……」

 佐伯の歯切れの悪さが気になってしまうのを抑えて、僕は佐伯から顔を背け続ける。しかし、最近時々感じる「嫌な感じ」が、また僕の胸の中を支配しようとしていた。


 で、結局、佐伯が話したかったことって牧田先輩のこと「だけ」だったの?


「……じゃ、よろしく」

「うん、また月曜にね」

 踵を返すと、背中に佐伯の声が飛んでくる。明るくて、存外平然としている。

 僕は振り返らずに、はくとやの駐輪場まで行って自分の自転車に鍵をさした。


 僕は「まだ言いたいことがあるんじゃない」とか、「言いたいことがあるなら言えば」とか言った方がよかったのかもしれない。っていうか、そうやって、佐伯に訊かなきゃいけない空気だった。きっとそうするべきだった。

 だけど、僕は、なぜかそうしたくなかった。


 はくとやの広い駐車場から出るとき、まださっきの女子たちが並んでバスを待っているのが見えた。家の方向に向かってぐん、とペダルを踏み込みながら、そういえば、佐伯は牧田先輩のどこを好きになったんだろうということが頭をよぎった。

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