8話:モザイクアート(①)

8・モザイクアート




 二学期が始まって三日目。昨日からさっそく始まった通常授業は、夏の短縮授業に慣れていた脳と体にひどく負荷がかかる。

 とっくの昔に終業のチャイムが鳴った騒がしい教室の中で、僕はめずらしく、まだ席についていた。もちろん、自ら「教室に残る」っていう選択をしているわけじゃない。可能なんだったら、とっとと帰って眠りたい。その前に、今日の授業の復習だとか予習だとかをしなくちゃいけないけれど……。夏休みにデータをリセットして、レベリングが途中になっているゲームもあるが、しばらくは時間と体力が足りなくて、続きを進めることも難しいだろう。


「鏡味、お待たせ!」


 明るく、はつらつとした声が僕を呼ぶ。座ったまま振り返ると、そいつは僕の後ろの机の上に、真っ白なビニール袋を置いた。

「モザイクアート班の男子、集まってくれる?」

 その声を号令に、教室にいた男子の何名かが集まってくる。僕もそのメンバーだったから、必然的に、号令をかけた男と僕の席の周りを彼らが囲むような陣形になった。円の中心部に近いため、どうにも居心地が悪い。

「待たせてごめんね。さっそくなんだけど、今日から作業を進めていくよ。人数は少ないけど、切って貼るだけだから、ちゃっちゃと終わらせよう」

 折り紙を手渡されたやつらから、適当に、近くの椅子に腰かけてハサミを入れていく。僕の机の近くで黙々と、あるいは他のやつらとだべりながら作業を始める男たちの存在感に息苦しさを感じていると、僕の視界に濃いブルーの折り紙が差し出される。見上げると、そいつは再び「鏡味」と僕を呼んだ。

「紺色をよろしくね。もし早く終わったら教えてね、新しいのを渡すから」

「……」

 少し頷いてやると、その男は愛想よく笑った。そして別の男に向き直り、別の色の折り紙を渡している。

 印象的なのは、うちの学校には珍しい、明るめの茶髪。前髪が邪魔なのか、細いピンでまとめて後ろに送っている。見せつけるように開かれた額に、黒くて大きな瞳がさらに印象的だ。少しだけ吊った目元はいたずらっぽく、チャラそうな風貌の中に子どもっぽさが入り混じっている。

 そいつは、「佐伯(さいき)」と言う。入学した時から僕の席の後ろに座っている彼は、いたって「普通」の男子だ。いつもクラスメートの群れの中にいて、目立たず、しかし忘れ去られることはなく溶け込んでいる、典型的な「モブ」。詳しい経緯は知らないが、今回は「第一祭」の実行委員――要はクラスのまとめ役――に選ばれたらしい。だから、こうやって作業を仕切っているということらしい。

 僕は最近、この男のことが気になっている。この「普通」の代名詞みたいな佐伯を、どうして僕が気にかけているかというと、彼の人間性に興味があるから……というわけではない。


 ――だから、いるんだって、「不審者」が。


 この発言を、僕は非常によく覚えている。僕は、この発言に「二度」導かれたから。

 一度目は夏期講習中、牧田先輩や尚人先輩と関わっていく中で、「僕には『世界の交差』に関わる資格がなかったんだ」と途方に暮れていた時。二度目は、その言葉をきっかけにLの世界へと向かって、「世界の交差」を調査するための手がかりを探している時だった。

 僕が行き詰まっている時に、次に進むための「ヒント」になったのが、「この声」だった。異なる世界において、異なるシチュエーションで、指している「不審者」は別人だったものの、一度目は僕がRの世界で「マスター」と出会うきっかけとなり、二度目は、ひょうのインスピレーションを刺激し、「仁(じん)」と対峙するきっかけとなった。

 その発言が、この夏に僕が体験した一連の出来事の中で、重要な役割を果たしたのは間違いない。「世界の交差」の仕組みや成り立ちについてはほとんど解明してしまったが、「あの声」が僕にとってなんだったのか、ということについては、奇妙な謎として残されている。

 もしかしたら、「世界の交差」システムを理解するために、何か重要なことが隠れているのかもしれない。または、それを調査することで、「世界の交差」や「Lの世界」、あるいは僕たちの生きている「Rの世界」について、新しい見解を得られるかもしれない。

 そういうわけで、「世界の交差」の調査はほぼ終わってはいたが、僕は僕の興味のために、ついでに「創作部」としての役割を少しでも果たすために、個人的に「あの声」について調べようとしていた。


「――で、鏡味はどう思う?」


 不意に「あの声」に呼ばれ、僕は思わずびくりとしてしまう。反射で振り返ろうとして、紺色の小さな正方形が手元で山積みになっていることに気づいた。どうやら僕は無心で折り紙を切っていたらしい。深く思考することと無心になることは、どこか似ている感じがする。

 改めて、自分のペースで振り返ると、佐伯が真剣な眼差しでこちらを見つめていた。何か話し合いでもしていたのだろうか。僕は手元に視線を戻しつつ、とりあえず「ごめん」と言っておく。

「聞いてなかった。何の話?」

 佐伯は腕を伸ばし、びっ!と僕の顔に近づけた。ピースかと思ったら、三本、指が立っている。

「もう、ちゃんと聞いててよ! 鏡味はおにぎりの具だったら何が好き? 今、ツナマヨと梅と明太とで割れてて、大変なんだよ!」

 佐伯の真剣な表情と、立てられた三本の指と、発言の内容とを、とりあえず、思考のベルトコンベアに乗せてみる。しかし、思考の工場にいる僕が、首を横に振った。

「め、ちゃくちゃどうでもよくない……?」

 結論を口に出すと、近くで聞いていた佐伯以外の男子たちが、どっと声を上げて笑った。そこで初めて、僕と佐伯のやりとりが注目されていたことに気づく。どういう状況?

「そりゃ~確かに!」

「マジでどうでもいいな!」

「っていうか、ツナマヨも梅も明太も買って食えばよくね⁉」

「そうなった時にどういう順番で食べるかって話だろ!」

 集まった男子たちは作業もそこそこに、おにぎりを食べる順番だとか、好きな食べ物は先に食べるか最後まで残すかとか、話題を次々と飛躍させながら、自分の意見を主張し合っている。ちなみに、それらの話題はどこまで飛躍しても不毛そのものである。どうしてそんな話題でそこまで盛り上がることができるのか、理解できない。「集団」の力だろうか。だとしたらいっそ恐ろしい。

「鏡味は面白いね」

 後ろから、佐伯が楽しそうに僕を見つめている。僕に話しかける余裕があるということは、あのくだらなくてなぜか白熱している議論に、こいつは参加していないようだ。

「別に、何にも面白くないよ」

 あんたらの「面白い」の言葉の定義にもよるけど……なんて、余計な一言は呑み込む。佐伯の方は、相変わらずお気楽に笑っていた。

「んーん、面白いよ。一学期にもっと喋っとけばよかったなあ」

「ていうか、どうでもいいけどさ。あんたらさっきから手が止まってるよ。注意しなくていいの? 実行委員」

「ああ、うん。話してないとみんな疲れちゃうと思うし、この調子だったら予定より早く終わると思うし、大丈夫だよ。ありがとう」

「それならいいんだけどさ」

 そう言って僕が会話を切り上げようとすると、佐伯が「待って」と引き止める。せっかく無駄話に区切りがついたと思ったのに。僕はイライラしてきた。

「何?」

「一応教えてよ。ツナマヨと梅と明太、どのおにぎりが好き? ちなみに僕はツナマヨ」

 佐伯は歯を見せて、愛嬌いっぱいに笑う。僕は、いい加減くだらなくなって、無言で体の向きを戻した。


 佐伯は、夏休みが明けてから、妙に僕に構うようになった。

 たぶん、気のせいじゃないと思う。一応、僕と佐伯は一学期から席順が前後ろだった。一度も席替えをしていないため、プリントを回す時や、班活動の時には話す機会もあり、実際、必要最低限の言葉を交わしたこともある。そもそも僕は、佐伯に限らずクラスの誰とも仲良くなる気はなかったから、可能な限り話しかけないようにしていたし、何か話題を振られても素っ気なく返していた。

 一学期までは、僕がそういう態度をとると、佐伯は潔く引き下がっていた。だけど、夏期補習が始まってからの佐伯は、もっとこう、へこたれなくなったと言えばいいんだろうか、素っ気なくされることへの免疫をつけたのだろうか、図太くなった。朝、学校に来たら、必ず僕に「おはよう」とか言ってくるし。授業の合間に話しかけてくるし。移動教室があれば「一緒に行こう」なんて言って、さっきみたいにくだらない話題を振ってきたり、気まぐれに僕の意見を聞いてみたりする。そして、訊いてもいないのに自分のことについてべらべら喋ってくるものだから、僕は自分からアクションを起こさずとも、佐伯に関する余計な情報をたくさん仕入れることになってしまった。例えば、僕と佐伯は中学校が一緒だったとか、実は一人っ子同士だとか、佐伯は体を動かすのが好きで、今はバスケ部に入っているだとか。

 「世界の交差」の調査を進める際に、僕の道標となった「あの声」は、たぶん、佐伯のものだった。だけど、僕にとって無駄に思えるさまざまなことを佐伯から聞かされるにつけて、僕は、「佐伯は『世界の交差』にとって『特別』な存在ではない」ことを、感じ取っていた。おそらく、この軽薄で、チャラくて、仲間が多くて当たり前のように他人が自分に対して興味を持っていると信じている思い上がった人間の存在が、「世界の交差」にとって重要であるわけがない。ではなぜ「あの声」が佐伯のものだったのかというと、佐伯自身が特別な存在だからというわけではなく、佐伯の声質が特徴的で、「僕にとって」印象的な声だから、たまたま選ばれた、ということだと思う。佐伯と接してみればみるほど、その思いは強まった。佐伯には悪いけど、佐伯の話は聞いても聞いても中身がなくて疲れる。そういったわけで、僕は佐伯には自分から近づこうとすることをやめにして、佐伯と「世界の交差」の関係については掘り下げないことにした。

 僕は、手元の折り紙に目を落とす。手渡される折り紙にはすべて、縦横に鉛筆でうっすらと線が入っている。佐伯曰く、こういった準備はすべて、佐伯が家で済ませてきたことらしかった。僕たちはこの線に従ってハサミを動かすだけでいい。「みんなの作業が早く終わったらいいなと思って」というのが、佐伯の言い分だった。他のやつらは単純に喜んだり佐伯を褒めたりしていたようだが、彼らの輪の外で、僕はなんだかぐったりする思いだった。そういう細かい気遣いというかなんというか、よくやるよ。僕は「気配りができるすごいやつだなあ」というよりもむしろ、「そんなめんどくさいことよくやるなあ」「わざわざそんな準備をする必要ってある?」と、呆れていた。僕だったらそんなこと、絶対にしない。鉛筆で補助線を引くくらい、誰でもできるし。複雑なことじゃないのに、勝手に進めておいて「やっておいたよ」ってわざわざ言って、他人に褒められて嬉しそうにしている一連の流れが、なんというか、気持ち悪くてムカつくなあと思う。でもそれは、僕がひねくれた感性の持ち主だからで、普通、人は佐伯みたいなやつの「さりげない」気配りや思いやりを、ありがたがって好きになるのだろう。きっと傍から見たら、集団に非協力的な僕よりも、集団に貢献したがる佐伯のほうが「いいやつ」に映るのだろう。実際、佐伯は普通のやつらにとっては「いいやつ」だと思うし。でも、僕は佐伯みたいな「普通」の「いいやつ」が、どうもいけ好かない。二学期に入ってから佐伯は妙に僕に構うようになったが、それも彼の「いいやつ」ムーブの延長線なのだろう。「こいちは仲間の輪から外れているから、僕が仲間に入れてあげよう」みたいなことを、佐伯は考えているのかもしれない。だとしたら心の底から気持ち悪いが、佐伯の軽薄な言動からは、そういった魂胆が透けて見えている。もっと、上手にできないものだろうか。さも「仲良し」っぽく話しかけて、こっちの反応を窺って、「仲良くしてくれてありがとう」って、僕から感謝されることを待っている。僕は佐伯から見当違いな期待をされている、と思う度にひどく疲弊する。


 キーン、コーン、カーン、コーン……。

 キーン、コーン、カーン、コーン……。


 教室に、チャイムが鳴り響く。気がつけば、他のやつらも黙って作業に没頭していたらしい。彼らは手に持っていたハサミや折り紙を机に置くと、次第に口を開き始める。

 黒板の上の時計を見れば、さっきのは下校時間のチャイムだったようだ。と、いうことは、今から創作部に行くことにはあまり意味がない。もし、今から部室に行って「世界の交差」を起こせば、僕は明日の下校時間のチャイムが鳴るまで、目覚めなくなってしまう。

「みんな、お疲れ様!」

 佐伯の声に、男子たちは口々に「お疲れ」と言い合う。僕は黙っていた。

「みんなありがとう! 今日だけでものすごく進んだから、明日からは半分をハサミ係、もう半分をのり係にして、模造紙に貼っていこうと思うよ」

「『ハサミ係』に『のり係』って、小学生みたいだな」

「明日は俺、塾だから出れねえ」

「俺も~」

「塾や部活で抜ける人はしょうがないし、抜けていいよ。うちのクラスは『できる日だけ手伝う』っていうスタンスだしね」

「悪いな」

「やべ~わ、ずっといたら俺が暇人なのがバレる」

「暇人は手伝え!」

「あはは。でも、本当に頼りになるよー」

 男子たちは佐伯を中心に、ときどき冗談を交えつつも、明日以降の作業について話を進めている。改めて、この場にいる十名弱の男子の顔を見渡せば、モザイクアート班は、クラスの中でも比較的地味な男子の集まりなんだということがわかる。というより、もう片方の応援看板班(クラスごとに運動場に掲示する、応援看板?というのがあるらしい。リレーなどの競技種目と同様に、応援看板の出来も、運動会の採点対象となるそうだ)は女子がメインで制作を進めるらしく、そこに女子と仲良くなりたい男子たちが流れたせいで、そうでない男たちがここに残っている、といった様子だ。僕は初日の話し合いをサボったために、その辺の詳しい経緯を知らないが、くだらないやつらの考えるくだらない魂胆なんて、ちょっと考えればなんとなくわかる。

 がさがさ、と佐伯はビニール袋の中身を漁ると、中からさらに数枚のビニール袋を取り出す。

「それじゃ、サクッと片付けよっか。色ごとに袋を用意してるから、それに入れて、僕のとこまで持ってきて。余った紙や、切るのが途中になってる紙は、適当に僕の机の上に置いておいて」

 佐伯が言うと、男子たちは席を立って佐伯の周りに群がり、次々と袋を手に取った。僕も、ワンテンポずらして袋を手に取る。他に紺色の折り紙を切っていたやつはいなかったはずだ。机の下にビニール袋を広げてセットし、紙の欠片を引き寄せてさらさらと中に落としていると、急に佐伯が覗き込んでくる。

「鏡味、もしかして器用? すごいいっぱい切ったじゃん」

 佐伯は大げさに声を上げ、大げさに嬉しそうにする。僕は周囲を視線で確認し、誰もこちらを気に留めていないことを確認すると、ため息を吐いた。

「……別に。こんなもんでしょ」

「そんなことないよ。器用な人がいると、すっごい助かるなあ」

 佐伯は、僕の手元を見つめながら言う。その、わざとらしい響きの褒め言葉に、僕はやっぱりイライラしてくる。机に残った切れ端を最後は雑に袋に入れると、口を絞って佐伯に突き返す。

「はい」

「ありがとう。鏡味、明日も残れる? そういえば、鏡味って塾行ってる?」

「『行ってない』、って言ったら、休みづらくなるから嫌なんだけど。そう思わない?」

 佐伯は僕の言葉に多少は面食らったようだが、すぐに苦笑いに変えると、「それもそうかもね」と言った。

「休みたくなったら、休んでくれていいから。今日の進みの感じだと、たぶん余裕で当日に間に合うし。……僕にこっそり言ってくれたら、『鏡味は用事があって休みだよ』って、みんなには伝えとくから」

 僕はその言葉に引っかかりを覚える。

「それって仮病でしょ。実行委員が仮病を許しちゃってもいいの?」

「休む前に一言くれたら、まあいいかなって。ほら、塾がない人ってどうしても他の人よりいっぱい作業してもらうでしょ。疲れたら休んでもらったらいいんじゃないかなあって」

 佐伯は僕に向かって笑いかける。視界に入れないように顔を逸らすと、また、佐伯お得意の「優しい」「正義の」演説が始まった。

「誰かが来られない日は、その日に来ている他の人たちが頑張ればいい。みんな、自分の都合があるから、それは優先してもらいたいんだ。そうしないと、楽しい文化祭の準備も楽しくなくなっちゃうでしょ」

「うん」

「僕は、みんなに楽しく準備をしてもらいたいから……。誰かが不満を感じることがないようにしたいんだ。そのためなら、僕はなんだってするよ」

「へえ」

「僕は実行委員になったから」

 ね、となぜか、そこで僕の様子を窺う。上目遣いで僕を覗き込むその表情に、僕は瞬間的にカッとする。

 それ、「えらいね」って言われたいの? 「すごいね」って、「優しいね」って褒められたいの?

 言っておくけど、それじゃ用事がないからって真面目に毎日放課後に残って作業をするやつは、仮病を使って休んだやつの尻拭いをしろって言うの? あんたはそれを「正しい」と思うの? 本当にそれはあんたのやりたい「気遣い」か? あんたがそれでいいって言ったとしても、真面目にやってるやつらって損をさせられていないか? そいつらが、「それでいい」って受け入れてくれると思うか? ていうかなんで、あんたはそこで、そいつらの考え方じゃなくて、「自分の評価」を気にしているんだ? なんでそれで「褒められる」と信じ切っているんだ?

 思わず立ち上がって佐伯を見下ろすと、驚いた瞳と目が合う。何から言ってやればいいのか。脳に酸素を送ろうとして、息を吸い込んだ瞬間。


「つみきいるか?」


「……え?」

「播磨!」

 佐伯が振り返り、その視線は教室の後ろに向けられる。低めだけど明朗で、そして、聞き慣れない声だ。一連のやり取りに反応し、他の男子たちも後方ドアに注目する。そこにいた人物は、スラックスのポケットに両手を突っ込み、佐伯に気安く声をかける。

「一緒に帰ろうぜ」

 切り揃えられた、清潔でつややかな黒髪はマッシュヘアと言うのだろうか、彼が足を踏み出すたびにさらさらと揺れる。皺一つない半袖シャツに、彼の少し大股な歩き方によく映える、真っ黒のスラックス――指定の夏服を指定通りに着こなしているだけなのに、もっと上等なものを着ているかのような、独特な風格。男は無駄のない動作で、こちらに近づいてくる。上級生かと思ったが、よく見ればそんなに背が高い方ではない。佐伯と同じくらいだから……平均身長だろうか。それにしても、不思議と「大きく」見える。

「播磨……」

 佐伯が椅子から立ち上がる。その間、教室に残っているやつらは一言も発さず、その男と佐伯のやりとりに釘付けになっているようだった。教室には、不思議な緊張が張り詰めている。

「まだ片づけが残ってるみたいだな。手伝おうか?」

 男は佐伯の目の前で立ち止まると、この空気をゆるくほどくかのように、目を細めて笑う。その端正な顔立ちに、僕は思わずはっとする。「播磨」って言ったら、創作部の顧問の「播磨先生」と同じ苗字じゃないか。よく見れば、なんとなく、播磨先生と顔が似ている気もする。人の顔に興味のない僕がこう思うということは、相当似ているんじゃないだろうか。特徴的な苗字だし、きっと、目の前にいるこの男と播磨先生は血縁者だ。兄弟……にしては、年が離れすぎだろうか。

 目の前にいる「播磨」と呼ばれた男も、播磨先生と同じように、どちらかといえばきりっとした顔立ちをしている。しかし、佐伯を見つめるまなざしは柔らかい。一昨日、播磨先生に見下ろされたときの感覚とは対照的に、目の前の男の視線からは一切の鋭さや威圧感のようなものを感じない。

「あ、播磨くんだ!」

 後方のドアから、急に女子の声が聞こえる。見れば、看板班の作業から戻ってきたのか、わらわらと固まった女子たちが教室に入ってくるところだった。女子たちはその男が「播磨」だと、なぜか認知していたらしい。動物園にやってきた子どものように、キラキラした目を向けながらこちらに近づいてくる。

「よっ。邪魔してるぜ」

 男が笑って片手を上げると、遠慮のない女子が黄色い歓声を上げる。男の横顔を見て、女子たちの態度を見て、なるほどね、と腑に落ちる。確かに女子が好きそうな顔だ。とはいえ、こういうノリは全般的に、僕は苦手だ。

 盛り上がる女子たちの向こうから、看板班の男子たちも帰ってくる。そのうちの一人が「おっ」と声を上げた。

「播磨じゃねえか! どうした? うちのクラスの偵察か?」

「まさか。帰りがけにちょっと寄っただけだぜ。そういえばお前らのクラスの展示、モザイクアートなんだってな」

「そうだぜ~、楽だからな! D組はお化け屋敷だっけ? 一番準備が大変だろ~」

「まあな。ま、当日までには何とかなりそうな感じだよ」

「D組なら余裕だろ、お前がいるんだし!」

「サンキュ。E組も頑張れよな」

 播磨と呼ばれる男と、看板班の男は親しげに話したり、拳で小突き合ったりしている。二人は友人なのだろうか、と思ったところで別の看板班の男が彼に話しかけて、また親しげに話し始める。よくわからないけど、愛想よく対応しているところを見るに、彼はただ誰にでも分け隔てなく接するタイプなだけなのだろう。後ろから、モザイクアート班の男子が話し合っているのが聞こえる。

「『播磨』って、うちの首席合格だよな?」

「確かバスケ部なんだっけ」

「そうそう、運動でも勉強でも、とにかく何でもできるらしい」

「あー、あいつバイオリンも弾くらしいぜ」

「マジか藤原(ふじわら)! なんでそんなこと知ってんだ?」

「同じ中学だったからな……」

 見れば、席に座っている男子のうち、眉間に皺を寄せた図体のでかい男が発した声だったようだ。「藤原」と呼ばれたその男は背中を丸め、フレームのない眼鏡のレンズの奥で、小さくて細い目をしばしばとさせている。播磨という男は、こういう地味で、目立たない感じの男とも交流をしていたのだろうか。藤原は、播磨を中心とした会話の輪に入るというわけでもなく、自分の切った折り紙をビニール袋にしまいながら、その様子を眺めている。

「播磨、久々だし一緒に帰ろうぜ」

 看板班の男の一人が、気さくな感じで播磨を誘う。それまでテンポよく会話が弾んでいたようだったから、僕はてっきり、播磨は看板班の男子たちと共に教室から去っていくかと思っていた。けれど、男は「悪い」と言って断る。看板班の男は、まさか断られると思っていなかったようだ。

「お、ダメな感じか? 何か用事?」

「先につみきに予約入れてたんだ。だから悪いな」

「『つみき』?」

 男は怪訝な目で播磨を見る。播磨はきょとんとした顔をすると、佐伯の方に向き直る。

「一緒に帰る約束をしてたんだよ。そうだよな、つみき?」

 そう言って、ニコッと笑顔を咲かせる播磨。それに誘導されるようにして、播磨を見ていた人間が一斉に佐伯に目を向けた。

 佐伯の下の名前は「つみき」――ひらがな三文字で、そのまま「つみき」と言う。佐伯の両親が、どういう魂胆で、自分たちにとって可愛くて仕方のない息子に「つみき」なんて名前をつけたのかは知らない。だけど、俗に言う「キラキラネーム」であることに変わりはないから、僕のクラスのやつらは佐伯を「つみき」とは呼ばない。佐伯自身が、あまり呼んでほしくなさそうにしているのもあるかもしれない。僕たちは暗黙の了解で、彼のことを「佐伯」と呼ぶようにしていた。クラス全体で「空気を読んでいた」、と言っても過言ではない。

 そんな「空気」があったとはつゆ知らず、完全に佐伯の、そしてうちのクラスの地雷を踏み抜いていった播磨は、まだ、この気まずい静寂の理由をわかっていないかのように、不思議そうな顔をしている。佐伯も可哀そうに。まさか、自分の思いもよらないタイミングで恥をかかされることになるとはね……と哀れんでいたその時、視界の隅で、播磨が表情を変えた。

端正な顔が、不敵な笑みを浮かべる。

 え、と思う間もなく、播磨は佐伯の隣に立ち、肩に腕を回す。そのままぐっと引き寄せれば、突っ立っていた佐伯がふらりとよろめく。播磨は空いた手で佐伯の胴を支え、驚く佐伯と目を合わせると、「愛おしそうに」目を細めた。細くて骨張った指が、佐伯の頬をするすると撫でる。

「何かおかしいか? とびきり可愛い『つみき』に似合う、世界一可愛い名前だろ?」

 播磨はオーディエンスにそう言い放つと、何か言おうとした佐伯の顎を持ち、その頬に自分の顔を寄せて――。

 ……?

 ――え?

「……っは!」

 男子の一人が、勢いよく息を吐き出す。それを合図に、堰を切ったように、教室にいた男子も女子も大笑いをし始めた。

「おま……っ、播磨お前~!」

「超ウケる! え、今の何のサービス⁉」

「キスしたの⁉ してないの⁉」

「ウケる~!」

「播磨くん大胆~!」

 看板組には女子が多いから、男のこういう悪ノリ的スキンシップがものめずらしかったのだろう。普段は地味で大人しい連中まで、腹を抱えて笑ったり、キャーキャー言って騒いだりしている。モザイクアート班の男子はと言うと、それぞれにドン引きしたり、反応に困って硬直したりしている。僕もその一人だ。僕はこの、動物園みたいに騒がしくて秩序のない状態に激しく頭痛がする。

 爆発的な騒ぎを起こした当の本人である播磨は、いたって平然としている。見れば、佐伯の肩に腕を回したまま、佐伯を見つめて不敵に微笑みを浮かべていた。僕は今更、そいつの表情にぞっとした。佐伯の方は、この角度だと顔がよく見えないが、明らかに体をこわばらせているようだ。

「じゃあ俺たち、二人だけで帰るから。いいよな? つみき」

 播磨は敢えて佐伯の名前を親しげに呼ぶと、もう一度、その指で佐伯の頬をなぞる。女子たちがまたも歓声を上げるが、僕はもう勘弁してくれと思っていた。男同士の茶番なんて見たくない。それに、勝手に盛り上がっている女たちの甲高い声が、頭に響いてズキズキする。

「あの、播磨……。もう少し片づけが残ってるから、先に帰っててくれてもいいんだよ」

「いんや、待つよ。適当に座って待ってたらいいだろ?」

「そ……れも、そうだね」

「じゃ、待ってるぜ、つみき」

 そう言うと、播磨は佐伯からゆっくりと体を離して、近くにあった椅子に腰かける。と、看板班の男子と女子が、一斉に彼を取り囲んだ。

「今の何だったんだよー!」

「播磨くんって、佐伯と別の中学じゃなかったっけ⁉」

 播磨の周りにできた人の壁に弾かれるようにして、僕はようやく距離をとることができた。呼吸を整えながら隣を見ると、同じく輪から弾き出された佐伯がいた。改めてその表情を観察すると、佐伯は、赤いような青いような、変な顔色をしている。その目は播磨の方を向いているように見えて、ゆらゆらと、焦点が定まっていない。どこかめずらしい感じがして様子を見ていれば、不意に佐伯が、ぎゅっと、体の前で両手を組んだ。

 ……まあ、動揺しているんだろうな。ただでさえ動揺して、この場から消えたいって思っている時に、さらに爆弾をぶっこまれたんだもの。僕だったら完全にキレてるよ。そこで、キレたり取り乱したりせず、平静を保とうとした努力は評価に値する……が、僕はこの一連の流れを引き起こしたあんたの友人の行動すべてがとにかく不快で腹立たしいよ。

 僕はとりあえず、バッグの取っ手を掴む。もう帰ろう。今日の作業は終わっているらしいし、こんなうるさくて低俗な空間にい続けたら、ストレスで死んでしまう。

 モザイクアート班の男子たちも、僕と同様に帰り支度を始めている。こいつらの中の誰一人と靴箱で鉢合わせたくないから、素早く席を立ち、出て行こうとする。と、退路に男が一人、ぬぼーっと突っ立っていることに気づいた。

「邪魔。どいて」

 自分が避ければいいのに、苛立っていた僕は思わずその男に言うと、男は「ああ、悪い」と後ずさった。こいつ、「藤原」だ。藤原はどうやら、例の人だかりを眺めていたようだ。

 まあ、僕には関係ないんだけど。っていうか、関係ないからこそ僕の邪魔をしないでほしいよね、といつも通りに心の中で悪態づいていると、背後から「藤原、」と、別の男が藤原に呼びかけるのが聞こえた。

「播磨が気になるのか?」

 男の質問に、藤原はううん、と、変な唸り声を出す。一瞬だけ振り返ると、藤原はフレームのない眼鏡の縁をつまみ、さらに眉間に皺を寄せて、人込みに目を凝らしている。僕は、その様子が少し気になった。藤原は細い目をさらに細めながら、「なんつーか……」と呟いた。

「『なんつーか』?」

「あんな奴だったかな、と思って……」

 藤原の発言も気にかかったが、僕は教室を出た。僕はこいつらに、これ以上関わる筋合いはない。


 自転車の鍵を握りしめ、自転車置き場に向かって歩くと、いろんな生徒とすれ違う。絵筆とバケツを持って駆けていく生徒もいれば、渡り廊下にブルーシートを敷いて、大きな布に何かを描いている生徒もいる。明らかに指定の体操服ではない運動着でうろうろする生徒も多いし、みんなで同じTシャツを着ている少人数のグループもよく見かける。下校のチャイムはとっくの昔に鳴り終えたのに、まだ帰らない人の方が多いようだ。

 それらのどれが目に映っても、僕は、息苦しくなる。これが高校の学園祭なのかと思うと、憂鬱で仕方がない。

 クラスメートたちの、特に佐伯の顔を思い浮かべながら、しばらくの間あんなやつらと一緒に作業をするなんて、身も心も持つんだろうか……と思う。この二週間は、「世界の交差」を起こせないどころか、いつも通りの退屈でどうでもいい日々すら送ることができないのかもしれない。

 ため息を吐きながら、自転車の鍵を外す。カシャン、という小気味のいい音だけが、沈んだ気分の中で唯一軽やかに響いた。

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