7話:二学期(③)



「……巴様」

 透明で、おだやかな声に名前を呼ばれる。

 瞼を持ち上げようとした瞬間、あたたかな風が吹いた。かすかに草と土の匂いのする、湿った風に目を開くと、僕は見覚えのあるテラス席に座っていた。隣には、僕が共に「暇つぶしをしたい」と願った人が立っている。

「……ひょう」

「おはようございます。いい昼寝っぷりでしたね」

 上品で落ち着いた雰囲気に反して、いい加減な言葉遣い。にこ、と微笑みながら僕を迎えたそいつが、「結花(けっか)ひょう」だ。

 長袖セーターに黄色のミニスカート、黒スパッツにスニーカーという女子生徒風の制服に白いエプロンをつけた、僕の「従者」。一つに束ねた桜色の長髪は春風に乗ってゆるくたなびいており、薄く水色のかかった透明な瞳は、瞬きの度に光がはじけるようだった。

「寝相を褒められても、全然嬉しくないんだけど。……えっと、久しぶり?」

「はい、お久しぶりです。とりあえず、お茶にしましょうか?」

「そう、だね」

 僕が頷くと、ひょうは一礼をしてきびすを返す。その拍子に僕の前で、ひょうのエプロンの紐が揺れた。

 相変わらずひょうは、全体として統一はとれているが、ちぐはぐな容姿をしている。僕はひょうが少しも変わらないことに少し安心をしながら、椅子に深く座り直す。この場で僕ができることといえば、考え事をするくらいだろうか。


 Lの世界には久しぶりに来た。最後に来たのは、夏休み、「世界の交差」の調査をほとんど終えて、「ゼロ」と話をした後のことだったっけ。

 ゼロというのは、マスターの従順で聡明な従者であり、ある「概念」のことである。

 彼女はいつもクラシカルなメイド服に身を包み、マスターの少し後ろで佇んでいる。一見すると彼女は、マスターの「ただの」従者であり、自分の意志を持たない、控えめな少女に見える。

 しかし僕は、彼女がもっと高次の存在――「概念」そのものだということを、彼女自身に教えてもらった。僕の普段使いの言葉なんかで説明するのは難しいのだが、あえて説明しようとすると、彼女とは、「私(彼女)」という純粋な意識であり、その意識が占めている空間の全範囲のことである。彼女は「私」という意識の維持のために、肉体を必要としない――そういう意味で、彼女は「概念」なのである。

 彼女は、「私が私である」という意識を初めて覚えた際、肉体を持っていなかった。その後、彼女はマスター――同じく肉体を持たずに存在している「概念」――による「世界の交差」によって、Rの世界に肉体を伴い顕現したことがあるが、Rの世界に生まれ落ちてから、Rの世界で肉体を損傷し、死亡したあとも、「私」という意識やその記憶のすべてを維持し続けている、「人ならざる」存在である。

 そのせいかゼロは、夢の中のような、Lの世界ともRの世界とも言えない曖昧な場所に姿を現すことができる。

 彼女は僕の夢の中に現れて、自分は「運命」という概念そのものであると言った。

 彼女には、彼女と関わるすべての人間の未来が見えている。また、たとえ彼女から見て定められている運命だったとしても、彼女が行動を起こすことによって、その運命を変えることができる。百パーセント、彼女が思い描いた未来に沿って。


「お待たせしました」

 リンゴのような甘い香りを引き連れて、ひょうがテラスに戻ってくる。トレーの上にはティーセットが乗っている――と言いたいところだが、相変わらずソーサーに乗っているのは真っ白な「茶碗」だ。

「この家にティーカップはないわけ?」

 平然としてひょうは、ガラス製のポットを傾け、金色のハーブティーを茶碗に注いでいる。

「そのようですね。はい、どうぞ」

 仮にも主人である僕の質問をさらりと流すと、ひょうはソーサーごとその器を差し出した。僕はさらに文句を言おうか迷ったが、見た目はどんなにちぐはぐでも、立ちのぼる白い湯気からはいい香りがする。両手で茶碗を包み、口をつけると、華やかな香りが鼻に抜けた。そのまま甘い液体を飲み下すと、頭の中にこもっていた思考まで喉の奥に滑り落ちていくような感じがする。

「……ひょうってこの、茶碗に入れたハーブティーみたいだよね」

「そうなんですか?」

 僕が呟くと、ひょうが不思議そうに首を傾げた。

「いろんなところがちぐはぐだよねってこと。完璧じゃないのに、全体的にバランスがとれてて、うまくいってて……そういうところがなんだかムカつくよ」

「お褒めにあずかり光栄です。巴様に褒めていただけると、非常に励みになりますね!」

「いや、どう解釈したって今のは皮肉でしょ。それより、そろそろ『正しい』ティーセットを揃えなよ。ハーブティーを入れるのはティーカップが『適している』って、結構前に説教したでしょ?」

「あー、その件なのですが……」

 呑気な表情で僕の小言をかわしていたひょうが、一瞬変な間(ま)をつくる。茶碗に入れられたハーブティーが出てくるのは、これで何度目だろうか。ちぐはぐなひょうのことだから、単純にこの形式が気に入っているのかもしれないが、それにしては気まずそうな声色だったのが気になった。

「……言い訳があるんだったら、聞くけど」

 僕が言うと、ひょうがこちらを一瞥する。

「おそらく、この家にはティーカップはないんじゃないかと思います」

「そうなんだ。ソーサーやティーポッドはあるのに?」

「ええ。……巴様のいない間に探そうとしたこともあるのですが、うまくいかなくて。私は、巴様がいない間は、ここでの意識がはっきりしないみたいなんです」

 ひょうは少し困ったような声で、そう言った。

 そういえば、以前もそんなことを言っていた気がする。ひょうは、僕の願い――僕がゼロの正体について何も知らなかったころに、「ゼロのような従順で聡明な従者が欲しい」と願ったことによって生まれた、いわば「創られた」存在である。そのため、ひょうは自分についての知識をほとんど持たない。自分の名前と……Lの世界に来るときに僕が願った、「願い」の内容以外のすべてを、知らない。僕の、願い……。

「……もしかしてだけど」

 思考を巡らせるうちに、一つ気づいてしまったことについて、尋ねてみる。

「何でしょう」

「今回の『僕の願い』が何なのか、知ってる?」

 「る」のウ音を上げながら、僕は途端に居心地が悪くなってくる。背中に変な汗が吹いてくる。ひょうの表情を盗み見ようとすると、こちらを見下ろして微笑むひょうと目が合う。

「〈ひょうと、暇つぶしをしたい〉、でしょう」

 あっけらかんと言うと、ひょうはまたもにこっと笑った。

「ご指名いただけるなんて嬉しいですね。私も巴様とお喋りをしたかったんですよ」

 そう言うと、ひょうは僕のソーサーを手に取り、流れるような手つきで茶碗にハーブティーを注ぎ足した。

 僕は、先ほどまで感じていた居心地の悪さが別の居心地の悪さに代わっていくのを感じながら、ふたたび茶碗を手に取った。

「……社交辞令も『噓』だよ。僕は君に噓を吐くなって言ったはずだけど?」

「いいえ、社交辞令は噓ではなく、『貴方と良好な関係を築きたい』という意思表示ですよ」

「僕以外に付き合う人間もいないのに、なんでそんなことを知ってるんだよ」

「なんででしょうねえ」

「別に、興味ないけど」

 ひょうは「そうですか」と言うと、庭の方を見やった。ひょうの横顔はリラックスしており、それにつられて僕も息がしやすくなってくる。

「隣にかけてもいいですか?」

 そう言われて、そういえばひょうは僕の後ろに立っていることがほとんどで、隣に座るところを見たことがないということに気づく。

「いいよ。椅子はあるの?」

「はい。ただ土埃を被ってしまっているので、少し綺麗にしてきますね」

 僕が「手伝った方がいい?」と声をかける前に、ひょうはさっさと家の裏の方へと向かっていく。

 ひょうは……いやひょうも、立ちっぱなしは疲れるのだろうか。もしそうだとしたら、申し訳ない。ただひょうが、あまりに完璧な立ち姿で、それがひょうの自然体だと思っていたから気づきようがなくて……。でもそれはただの屁理屈で、僕が少しでもひょうのことを気遣っていれば、気づくことができたことかもしれなくて……。

 ぐるぐると思考を巡らせていても、なかなかひょうは帰ってこない。椅子の掃除に、まあまあ時間がかかっているのだろう。僕はその様子を想像することができる。きっとブラシなんかで砂を払って、雑巾で拭いて、座ることができる程度にしているのだろう。その工程と、それにかかる時間のことを思うと、ここは僕のLの世界――光に満ちた理想の世界のはずなのに、現実的な手触りがあって、不思議だと思う。



「現状、『世界の交差』に必要なのは三名だ」

 僕の左手側、少し距離を置いたところに、ひょうは埃を掃ったばかりの椅子を置いた。僕とひょうはテーブルに向かい合うのではなく、二人で庭の様子を見ながら話をすることになる。ひょうが僕の正面に椅子を置かなくて、安心した。相手が目の前にいると、緊張して話しづらい。

「その三名っていうのが、『世界の交差』の仕組みに直接関わっている、ゼロとマスター。あとは、『創作部』部長として彼らの手伝いをしている牧田先輩。それと……間接的に、尚人先輩も必要なのかもしれない」

「『間接的に』というのは?」

 ひょうは利口にも、自分が気になった部分について質問をしてくれる。

「尚人先輩は、『世界の交差』システム自体に対して、直接の権限を持っているわけではない。だけど、『世界の交差』によって発生する……不要物の処理をしている。もし彼がいなくなったら……『掃除係』を放棄してしまったら、Rの世界には、『精神がLの世界に行ってしまって戻らず、置き去りにされた肉体』の処理係がいなくなる」

 牧田先輩は知らないようだが、創作部のもう一人の部員、尚人先輩はマスターに「掃除係」という役職を与えられている。

 尚人先輩は、僕や牧田先輩みたいに物事をこねくり回して考えることのない、素直で善良な「普通」の高校生だ。彼はひょんなことからマスターに「掃除係」――「世界の交差」によって発生する、限りなく死体に近い肉体の処理係を押しつけられたのだが、彼は「普通」に恐怖を覚えつつ、三年生になった今まで「掃除係」を続けている。彼は素直すぎるがゆえに、断るだとか、辞めるだとか、ばっくれるだとかの選択肢がなかったのだろう。マスターは彼の善良さをうまく利用したのだ。

「マスターやゼロは、そもそも存在が『特別』だし、牧田先輩が『特別』な人間だっていうのは、なんだか納得がいくよ。でも、あの『普通』すぎる尚人先輩だって……マスターから『掃除係』に任命されることで、『特別』な存在になった。『世界の交差』にとって、必要不可欠な存在になった」

 僕は手元の茶碗を見つめながら話す。ハーブティーの表面には、よく見ると、ちらちらと産毛のようなものが浮いている。葉や花を抽出する際に茶漉しを通過した繊維だろうか。

「……僕は、『世界の交差』システムにとって必要不可欠な存在ではない」

 これは、何度考えても覆らなかった結論だ。想像していたよりもずっと、きっぱりとした声が出る。ハーブティーの表面できらきらと、埃のような繊維が揺蕩(たゆた)っている。

「僕は彼らに……『世界の交差』にとって必要不可欠な人たちに関わることで、同じように、『特別』になりたかった。だけど、無理だった。僕は選ばれなかった。僕は特別な彼らの完成されたシステムに入ることはできなくて、やっぱり『普通』の人間として生きていかなきゃいけない。つまらない、ありきたりな有象無象の一粒として」

「……巴様」

 ひょうが僕を見つめている。これはただの弱音であり、愚痴だ。解決策について、アドバイスが欲しいわけじゃない。だってどう考えたって解決しようがないんだから。僕が少し笑ってやると、ひょうは唇を引きしめる。そう、同情してほしいわけじゃない。

「きっと牧田先輩が、個人的に僕のことを『特別』に思ってくれているのは伝わってるし、嬉しいよ。でも……」

 心地の良い春風が吹き、胸の中をあたたかい気持ちにさせることを僕は拒む。

 ひょうは、僕の言葉の続きを待っている。座っていても背筋が伸びていて、こちらを気遣うような目線を向けつつも、相槌さえ打たず黙ってそこにいる。ひょうの態度は僕にとって理想的で、どこまでも都合がよかった。それはこいつが、僕の願いを叶えるのに最適化した、「道具」だからなのだろう。ふと、牧田先輩の顔が思い浮かぶ。

「牧田先輩に、僕が君のことを好きなんじゃないかって思われてる」

 ひょうの表情が、一瞬固まったように見えた。が、それは僕自身が、口にした後で固まってしまったからかもしれない。

「……はい」

 ひょうは、静かに頷く。一切の価値判断も感情も込められていない、透明な相槌に僕は少し安心する。きっと、これから話すことがどんな内容であったとしても、ひょうは最後まで聞いてくれる。僕はもう一度、深く椅子に座り直した。目の前の庭で、白やピンクの花をつけた木々が揺れている。

「僕はたしかに、君のことを『特別』に思っているよ。君と話していると、落ち着く。君の気遣いや思いやりのおかげで、僕は……安心して弱音を吐けるよ」

 僕は、よく整備された庭の植物たちを見ながら、言葉を紡ぐ。隣にいるひょうが、どんな表情をしているのかは見たくない。僕自身はどんな表情をしているのだろう。見たくもないし、見られたくもない。

「だけどそれは、ただの『慰め』で、現実逃避でしかない。君と話して……君に僕の弱いところを晒して、その度に君が僕を勇気づけてくれるから、『もう少し頑張ろう』っていう気持ちになった。それに君だけじゃなくて、牧田先輩にも、尚人先輩にも、なんとなく励ましてもらうことはあったよ。僕は『特別』な人たちに、特別扱いをしてもらって、嬉しかった。だけど、いくら前向きな気持ちになったって、救われたような気持ちになったって、僕の問題はちっとも解決していない。僕が『普通』な存在で、『普通』の人間として生きていかなくちゃいけないって、そのことからは、ちっとも逃れられていない」

 話を続ければ続けるほど、言葉にすればするほど……言わなくていいことを言ってしまっていると頭ではわかっている。

「誰かに優しくしてもらうことって、僕にとって、何の解決にもならないんだ。何というか……大切なことを、誤魔化されているような気持ちになる。誰かに優しく接してもらうことで、少しの間苦痛は和らぐけれど、決してそれは改善になっていなくて……それがまやかしや、麻酔のようなものだったって気づくんだ。麻酔が切れれば、治していない傷口がまた痛んでくる。痛くて、苦しくて、耐えられなくなったら、また誰かの優しさが欲しいと願ってしまう。そういう繰り返しが全部……嫌なんだ」

「……お聞きしたいことがあるのですが」

 ひょうが、静かに言う。僕が視線で促すと、ひょうはガラス玉のような瞳で僕を見つめた。

「巴様の感じている『苦痛』って、どういったものなのですか?」

 僕は、僕に向けられたまっすぐな視線で、自分の心の暗いところを照らし見る。

「……僕はきっと、『普通』であることが、苦しい」

「……『普通』であること」

「僕も、言葉にするのが難しい。ただ僕は、『普通』のやつらが嫌いで、本当に馬鹿に見えて、あんなやつらと一緒にされるのが本当に嫌だ」

 そう言いながら頭に浮かんでいるのは、中学の同級生や高校のクラスメート。その中の誰か、ではなく「そいつら」という名前の群れや塊そのものが、僕は嫌いだ。ただ盛り上がって、大声で騒ぐことができれば話の中身なんてどうでもいい馬鹿ども。つまらない、有象無象の極み。その他大勢。

「……僕は『普通』にはなりたくない。だけど、きっと他人から見たら『その他大勢』でしかなくて、自分をそいつらから区別しようとしたくても、できない。だって僕は、実際に『その他大勢』だから」

「……」

「この事実からは、逃れられないってわかった。そう思ったら、他人から優しくしてもらったり、慰めてもらったりすることっていうのがまったく意味のないことだと気がついた。最終的に僕がしなくちゃいけないことは、自分自身が『普通』であることを認めて生きていくこと。そして、『普通』であることの苦痛に耐えられるように、自分自身が強くなることだよ。そのことが『普通』となるように、他人の優しさにいちいち甘えず、自分で自分をコントロールすることができるようになるんだ。そうすれば、僕は僕に対して安心して、生きていくことができる。こうやってうじうじと悩むこともきっとなくなる」

 ……この夏休み、家に引きこもっていろいろと考えた結果、僕に必要なのは「大人になること」だと思った。僕はきっと、さっさと大人になったほうがいいのだろう。「普通」のやつらが、でかい図体のくせしてガキのような精神性で青春という名の乱痴気騒ぎに興じている間に、僕は正気を保ったままで、大人になるため鍛錬を始める。それこそが、今の僕に唯一できそうな「普通」への対抗策で、そうと決まれば行動あるのみ、というわけだ。僕は今後、親しい友人や恋人のような、他人を必要とする自分になりたくない。

「そういうわけで、僕は君のことを好ましく思っているけれど、君を好きになったり、ましてや恋人にしたいなんて思ったりすることはないよ。……そもそも、君ってそういう感じの存在じゃないし」

 頭の中に渦巻いていた考えをほぼ出し切り、少し余裕のできた思考と視界で、僕はひょうの顔を覗き込む。

 やっぱり、ひょうは、男にも女にも見えない。ただただ綺麗で、上手に「創られた」人間だという感じがする。もしかすると、僕が潜在的に、恋愛感情や性的なことを嫌っていることが、ひょうの姿に反映されているのかもしれない。

 そして僕は不意に、僕のことを異性として見ているであろう女子、中学からの知り合いの比奈(ひな)ちか子の顔を思い浮かべる。僕の方は彼女のことを何とも思っていないし、彼女のことを異性として見ることには、彼女の見た目や性格がどうだからというわけではなく僕が勝手に無理だと思っている。

「実際、君って男なの? 女なの?」

 愚問かもしれないと思いつつ、訊いてみる。するとひょうはにっこりと笑い、左手を左胸に添えて元気に返事をする。

「どちらでもいいですよ。巴様の仰せのままに!」

「なんだそれ」

 やはりナンセンスな質問だったようだ。しかしひょうは気を悪くすることなく、なぜかわくわくとした様子で僕の指示を待っている。性別がないならないでいいし、無理に決定するようなことでもないと思うけれど。

「じゃあ男ってことにしておく」

「わかりました。ちなみにどうしてですか?」

「女だとがっかりするから」

 もしひょうが女性だったら、僕が潜在的に恋人を欲しがっていたみたいで、自分で自分に失望するから。僕は脳内の牧田先輩に主張しておく。ひょうはひょうであって、「ひょうちゃん」ではないです。

 改めてひょうの様子を窺えば、ひょうは左手でそのまま胸を撫で下ろした。

「よかった。じゃあ、私がスカートを履いていても何の問題もないですね」

「待った。君にも一応、その格好が変だっていう自覚はあるんだね」

「私が男になることで、自動的に私の格好は『変』ということになってしまうんですよね……。もし巴様が『女性の服を着た人間が嫌いだから』と言うのであればしぶしぶ着替えるつもりだったのですが、その必要はなさそうですね。いやあ、安心しました!」

「そんなことを言うつもりはなかったけど、そう言われると気になるよね、君のちぐはぐ加減が……」

 一通りの問答によって、一応、ひょうの性別は男ということになったようだが、ひょうは見た目にも声にも、その一人称にも変化はない。ひょうはなぜかスカートを履きたがるが、それも自分が女だからという認識からではなく、「自分がそうしたいからそうする」だけのことらしい。ていうか、自分の名前くらいしか知らない「創られた」存在のくせに、趣味嗜好があるってなんだよ。こういった意味のわからない思考の偏りがあるところにも、僕はひょうの中に奇妙な「人間っぽさ」があると感じる。

「まあ、巴様曰く、私は『全体的にバランスがとれてて、うまくいってる』そうなので、大きな問題はないでしょう」

 そう言って自信満々に胸を張るひょうに、僕は呆れる。

「だから褒めてないんだって。他人の言葉を自分に都合よく解釈するな」

「まあまあ。そういったことが必要になる局面もあります」

「そういうのは、もっと重要な局面で言うものなんだよ」

「つまり、『私にとっては』重要な局面だったということですね」

「よく口が回るね」

「お褒めにあずかり光栄です!」

「だから、褒めてないんだってば」

 ひょうの返答はただの屁理屈で、こんなやり取りはくだらない言葉遊びにすぎない。ただ、僕にとってはちょうどいい距離感のやり取りだ。

 でも、ひょうとの会話が「ちょうどいい」のは、ひょうが僕の「理想の人」として創られたから、きっと当然のことなのだろう。これは僕の理想が創り上げた理想の会話であって、僕は誰とも会話していないのかもしれない。そう思うと、ひょうとの会話は楽しいはずなのに虚しい。結局、こんなやり取りは僕がいつもしている脳内会議と変わらないのではないか。

 きっと僕はLの世界で、都合のいいひょうと、都合のいい会話をしているだけの方が楽なのだろう。もしかしたら、Rの世界に肉体を置き去りにして、こちらの世界に生まれ直した方が楽なのかもしれない。だけど、ひょうという理想の人間との会話を虚しいと感じ、この世界で過ごす時間を現実逃避だと思ってしまう以上、僕はやはり現実世界で生きていかなくてはいけない。たとえ、気の合う話し相手がいなくても。

 ひょうに追加のハーブティーを注いでもらいながら、今日すっぽかした、クラスの話し合いのことを思い出す。

 これから僕は二週間も、第一祭の準備のために、「普通」のやつらと関わらなければならない。牧田先輩はそんなことを話しながら、僕のことを面白がるような目つきで見ていた。きっと、彼女は僕のうんざりする気持ちを見抜いていたのだろう。実際、心の底から気が滅入る。

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