7話:二学期(③)

 ◇


「……巴様」

 透明で、おだやかな声に名前を呼ばれる。

 瞼を持ち上げようとした瞬間、あたたかな風が吹いた。かすかに草と土の匂いのする湿った風に目を開くと、僕は見覚えのあるテラス席に座っていた。隣には、僕がともに「暇つぶしをしたい」と願った人が立っている。

「……ひょう」

「おはようございます。いい昼寝っぷりでしたね」

 上品で落ち着いた雰囲気に反して、いい加減な言葉遣い。にこ、と微笑みながら僕を迎えたそいつが「結花けっかひょう」だ。

 長袖セーターに黄色のミニスカート、黒スパッツにスニーカーという女子生徒風の制服に白いエプロンをつけた、僕の「従者」。一つに束ねた桜色の長髪は春風にゆるくたなびいており、薄く水色のかかった透明な瞳は瞬きの度に光がはじけるようだった。

「寝相を褒められても、全然嬉しくないんだけど。……えっと、久しぶり?」

「はい、お久しぶりです。とりあえず、お茶にしましょうか?」

「そう、だね」

 僕が頷くと、ひょうは一礼をして踵を返す。その拍子に僕の前で、ひょうのエプロンの紐が揺れた。

 相変わらずひょうは、全体として統一されているが、よく見るとちぐはぐな容姿をしている。僕はひょうが少しも変わらないことに安心して、椅子に深く座り直す。今、ひょうを待ちながら僕にできることといえば、考え事くらいだろうか。


 Lの世界ここには久しぶりに来た。最後に来たのは、「世界の交差」の調査をほとんど終えて、「ゼロ」と話をした後のことだったっけ。

 ゼロというのは、マスターの従順で聡明な従者であり、ある「概念」のことである。

 彼女はいつも丈の長いクラシカルなメイド服に身を包み、マスターの少し後ろで黙って佇んでいる。一見すると、彼女は控えめな性格の「ただの」少女に見えるかもしれない。しかし実際は、彼女は僕たち人間よりももっと高次の存在――肉体という実体を持たずとも存在し続けることのできる、人間を超越した存在である。僕の普段使いの言葉なんかで説明するのは難しいのだが、あえて説明しようとするならば、彼女とは「彼女」という純粋な意識であり、その意識が占めている空間の全範囲のことである。彼女は現在その可憐で可愛らしい「器」の中に彼女の意識を流し込んだ状態で動いているが、彼女自身は「器」という実体がなくともその「意識」だけで存在することができる。――要は、彼女は「人ならざる」存在なのだ。

 彼女はマスター――同じく肉体を持たずに存在している「概念」――による「世界の交差」によって、Rの世界に肉体を伴って顕現したことがあるが、Rの世界に生まれ落ちてからRの世界で肉体を損傷し、死亡したあとも、「私」という意識やその記憶のすべてを維持し続けているという。

 彼女がそのような存在であるからか、ゼロは人の夢の中といった、Lの世界ともRの世界とも言えないような人の意識が曖昧になっているところにも姿を現すことができる。彼女は僕の夢の中に現れて、自分は「運命」という概念そのものであると言った。

 彼女は「彼女と関わるすべての人間」にとっての運命であり、彼女にはその運命が――定められた未来が見える。また、彼女から見える定められた未来は、彼女が何か行動を起こすことによって、「必ず」、その軌道が変わると言う。そういった意味で、彼女は「運命」そのものなのだ。「世界の交差点」を通過した――「ゼロの世界」に関与したすべての者にとっての「運命」。それが、ゼロの正体だ。


「お待たせしました」

 リンゴのような甘い香りを引き連れて、ひょうがテラスに戻ってくる。トレーの上にはティーセットが乗っている――と言いたいところだが、相変わらずソーサーに乗っているのは真っ白な「茶碗」だ。

「この家にティーカップはないわけ?」

 僕が文句を垂れても平然として、ひょうはガラスのポットを傾けている。

「そのようですね。はい、どうぞ」

 仮にも主人である僕の言葉をさらりと流すと、ひょうはソーサーごとその器を差し出した。僕はさらに文句を言おうか迷ったが……見た目はどんなにちぐはぐでも、立ちのぼる湯気からはいい香りがする。両手で茶碗を包み、口をつけると、華やかな香りが鼻に抜けた。そのまま甘い液体を飲み下すと、頭の中にこもっていた思考まで喉の奥に滑り落ちていくような感じがする。

「……ひょうってこの、茶碗に入れたハーブティーみたいだよね」

「そうなんですか?」

 僕が呟くと、ひょうが不思議そうに首を傾げた。

「いろんなところがちぐはぐだよねってこと。完璧じゃないのに、全体的にバランスがとれてて、上手くいってて……そういうところがなんだかムカつくよ」

「お褒めにあずかり光栄です。巴様に褒めていただけると、非常に励みになりますね!」

「いや、どう解釈したって今のは皮肉でしょ」

 ひょうとそんなやりとりをする、のも、久しぶりだ。

 ひょうは、僕が「願った」存在だ。「世界の交差」には、初めてLの世界に行く際、「世界の交差点」で、管理人であるマスターにどんな世界に行きたいか、どんな容姿、どんな設定でその世界の住人になりたいかを申告することで、それを叶えてもらうことができるというシステムがある。僕のLの世界での容姿――片目を隠した銀髪に碧眼――は僕の要望ではないのだが、代わりに僕が要望として出したのが、Lの世界における「世界の交差」のおともにゼロが欲しいということだった。もちろんその願いが叶うことはなかったのだが、その代わりにゼロだかマスターだかが寄越したのが、このひょうという不思議な存在だった。

 ひょうはゼロと違い、ちぐはぐでたまに敬語も抜けていて、設定上は主従関係である僕に対してあまり敬意が感じられない、いい加減なやつではある。が、僕のことはその命に代えても守ろうとしてくれることを、僕は知っている。一度、ひょうが無力な僕をかばって刃物に切り裂かれ、瀕死の状態になったことがあるのだ。あの時は本当に、その傷の深さと出血量からひょうが死んでしまったのではないかと思ったが――次にLの世界に来た時には傷も失血も完治している様子で、吞気にいつものハーブティーを勧めてきた。

 一応、肉体を傷つけられれば血が出る存在ではあるみたいだけど、その傷の治りの異常な速さといい、普通の人間ではないような気もする。が、今のところは深く考えないようにしている。そもそもここはLの世界で、僕の生きているクソくだらない世界の常識を当てはめて考えること自体がナンセンスな可能性もある。……まあ、だとしても茶碗にハーブティーが入って出てくるのはさすがにおかしいだろ。

「そろそろ『正しい』ティーセットを揃えなよ。ハーブティーを入れるのはティーカップが『適している』って、結構前に説教したでしょ?」

「ああ、その件なのですが……」

 何気なく言ったつもりが、ひょうが変な間を作ったので気になった。ちぐはぐなひょうのことだから単純にこの形式が気に入っているのかと思いきや、どこか気まずそうな顔をしている。

「言い訳があるんだったら、聞くけど」

 僕が言うと、ひょうがこちらを一瞥する。

「おそらく、この家にはティーカップはないんじゃないかと思います」

「そうなんだ。ソーサーやティーポットはあるのに?」

「ええ。……巴様のいない間に探そうとしたこともあるのですが、上手くいかなくて。私は、巴様がいない間は、ここでの意識がはっきりしないみたいなんです」

 ひょうは少し困ったような声で、そう言った。

 そういえば、以前もそんなことを言っていた気がする。僕に願われて創られた存在であるひょうは、自分についての知識をほとんど持たない。自分の名前と、Lの世界に来る時に僕が願った「願い」の内容以外のすべてを、知らない。今回の僕の、「願い」……。

「……もしかしてだけど」

「何でしょう」

「今回の『僕の願い』が何なのか、知ってる?」

 る……と語尾を上げながら、だんだんと居心地が、悪くなってくる。気まずさに近い恥ずかしさが頭の中をいっぱいにして、背中が変な汗をかいている。ひょうの表情を盗み見ようとすると、僕を見下ろして微笑むひょうと目が合った。

「〈ひょうと、暇つぶしをしたい〉、でしょう」

 あっけらかんと言うと、ひょうはにこっと笑った。

「ご指名いただけるなんて嬉しいですね! 私も巴様とお喋りをしたかったんですよ」

 そう言うと、ひょうは僕のソーサーを手に取り、流れるような手つきで茶碗にハーブティーを注ぎ足した。

 ……自分の幼稚な願いが見透かされているって、本当に居心地が悪い。今度からは「願い」の内容を変えた方がいいかもしれない。そして気のせいかもしれないが、ひょうの機嫌が妙にいい気がするので水を差しておくことにする。

「……社交辞令も『噓』だよ。僕は君に噓を吐くなって言ったはずだけど?」

「いいえ、社交辞令は噓ではなく、『貴方と良好な関係を築きたい』という意思表示ですよ」

「僕以外に付き合う人間もいないのに、なんでそんなことを知ってるんだよ」

「なんででしょうねえ」

「別に、興味ないけど」

 ひょうは「そうですか」と言うと、庭の方を見やった。ひょうの横顔はリラックスしており、それにつられて僕も息がしやすくなってくる。

「隣にかけてもいいですか?」

 そう言われて、そういえばひょうは僕の後ろに立っていることがほとんどで、隣に座るところを見たことがないことに気づく。

「いいよ。椅子はあるの?」

「はい。ただ土ぼこりを被ってしまっているので、少し綺麗にしてきますね」

 僕が「手伝った方がいい?」と声をかける前に、ひょうはさっさと家の裏の方へと向かってしまった。

 ひょうは――いやひょうも、立ちっぱなしは疲れるのだろうか。もしそうだとしたら悪かったな。でもひょうがあまりに完璧な立ち姿で、それがひょうの自然体だと思っていたから気づきようがなくて……いやそれは屁理屈で、僕が少しでもひょうのことを気遣っていれば、気づくことができたんじゃないだろうか。

 ぐるぐると思考を巡らせていても、なかなかひょうは帰ってこない。椅子の掃除に時間がかかっているのだろう。僕はその様子を想像することができる。きっとブラシかなんかで砂を払って雑巾で拭いて、座っても汚れがつかない程度に、見栄えがよくなるように磨いているのだろう。その工程をわざわざ辿り、それなりの時間をかけてたった一つの椅子を綺麗にしているひょうのことを思うと、ここは僕のLの世界――光に満ちた理想の世界のはずなのに、現実的な手触りがあって、不思議だと思う。



「今、『世界の交差』に必要なのは三名なんだ」

 僕たちの「暇つぶし」と言えば、とりとめのないことについて語り合うことだった。というか、僕がひょうに対して自分の考えていることを聞いてもらう。

 僕の左手側、少し距離をとってひょうは埃を払ったばかりの椅子を置いた。僕とひょうは向き合うのではなく、二人で庭の様子を見ながら話をすることになる。ひょうが僕の正面に椅子を置かなくてよかった。目の前に人がいると、緊張して話しづらいから。

「その三名っていうのが、『世界の交差』の仕組みに直接関わっている、ゼロとマスター。あとは、『創作部』部長として彼らの手伝いをしている牧田先輩。それと……間接的に、尚人先輩も必要なのかもしれない」

「『間接的に』というのは?」

 ひょうは利口にも、自分が気になった部分について質問をしてくれる。

「尚人先輩は『世界の交差』システム自体に対して直接の権限を持っているわけではない。だけど『世界の交差』によって発生する……不要物の処理をしている。もし彼がいなくなって『掃除係』を放棄してしまったら、Rの世界には、『精神がLの世界に行ってしまって戻らず、置き去りにされた肉体』の処理係がいなくなる。……誰かが代わりにやればいいんだろうけどね」

 今日は姿が見えなかったが、創作部に在籍しているもう一人の先輩、尚人先輩はマスターに「掃除係」という役職を与えられている。

 尚人先輩は、僕や牧田先輩みたいに物事をこねくり回して考えることのない、素直で善良な「普通」の高校生だ。彼はマスターに「掃除係」という名目で、「世界の交差」現象においてまれに発生する、Lの世界に精神が完全に移行しまった後の肉体――それは限りなく死体に近い――の処理係を任命されている。「普通」で善良な彼は、その処理という行為に対して「普通」並みに恐怖を覚えているものの、彼が高校一年生の頃から今に至るまでずっと「掃除係」を続けている。きっと真面目で優しくて愚鈍な彼のことだから、断るだとか辞めるだとかばっくれるだとかの選択肢がなかったのだろう。マスターが彼を狙って任せたかどうかは不明だが、尚人先輩は上手く利用されてしまったわけである。しかし、それは「上手いことはまった」わけなのだ。不本意かもしれないが、彼には「特別」になる素質があったのかもしれない。

「マスターやゼロは、そもそも存在が『特別』だ。でも、牧田先輩も尚人先輩も、『特別』な彼らに役割を与えられ……無理やり関与させられることで、『特別』な存在になった」

 僕は手元の茶碗を見つめながら話す。ハーブティーの表面には、よく見ると、ちらちらと産毛のようなものが浮いている。葉や花を抽出する際に茶漉しを通過した繊維だろうか。

「対して僕は、『世界の交差』システムにとって必要不可欠な存在ではないと思う」

 これは、何度考えても覆らなかった結論だ。想像していたよりもずっと、きっぱりとした声が出る。ハーブティーの表面できらきらと、埃のような繊維が揺蕩っている。

「僕は彼らに……『世界の交差』にとって必要不可欠な人たちに関わることで、同じように、『特別』になりたかった。だけど無理だった。僕は選ばれなかったんだよね。僕は『特別』な彼らの完成されたシステムに入ることはできなくて、やっぱり『普通』の人間として生きていかなきゃいけない。つまらない、ありきたりな有象無象の一粒として」

「……巴様」

 ひょうが僕を見つめている。これはただの弱音であり愚痴であって、その解決策についてアドバイスが欲しいわけじゃない。だってそんなものはないのだから。ただ無意味な暇つぶしをしたいだけの僕が笑ってやると、ひょうは唇を引き結ぶ。そうだよ、同情されたくて話しているわけじゃないんだ。ただ話を聞いてもらいたいだけ。

「牧田先輩が、個人的に僕のことを『特別』に思ってくれているのは伝わってるし、嬉しいよ。でも……」

 心地のいい春風が吹き、胸の中をあたたかい気持ちにさせることを僕は拒む。

 ひょうは、僕の言葉の続きを待っている。座っていても背筋が伸びていて、こちらを気遣うような目線を向けつつも、相槌さえ打たず黙ってそこにいる。ひょうの態度は僕にとって理想的で、どこまでも都合がよかった。それはこいつが、僕の願いを叶えるのに最適化した、「道具」だからなのだろう。ふと、牧田先輩の顔が思い浮かぶ。

「牧田先輩に、僕が君のことを好きなんじゃないかって思われてる」

 ひょうの表情が、一瞬固まったように見えた。が、それは僕自身が、口にした後で固まってしまったからかもしれない。

「……はい」

 ひょうは、静かに頷く。一切の価値判断も感情も込められていない、透明な相槌に僕は少し安心する。きっと、これから話すことがどんな内容であったとしても、ひょうは最後まで聞いてくれる。僕はもう一度、深く椅子に座り直した。目の前の庭で、白やピンクの花をつけた木々が揺れている。

「僕はたしかに、君のことを『特別』に思っているよ。君と話していると、落ち着く。君の気遣いや思いやりのおかげで、僕は……安心して弱音を吐けるよ」

 僕は、よく整備された庭の植物たちを見ながら、言葉を紡ぐ。隣にいるひょうが、どんな表情をしているのかは見たくない。僕自身はどんな表情をしているのだろう。見たくもないし、見られたくもない。

「だけどそれは、ただの『慰め』で、現実逃避でしかない。君と話して……君に僕の弱いところを晒して、その度に君が僕を勇気づけてくれるから、『もう少し頑張ろう』っていう気持ちになった。それに君だけじゃなくて、牧田先輩にも、尚人先輩にも、なんとなく励ましてもらうことはあったよ。僕は『特別』な人たちに、特別扱いをしてもらって、嬉しかった。だけど、いくら前向きな気持ちになったって、救われたような気持ちになったって、僕の問題はちっとも解決していない。僕が『普通』な存在で、『普通』の人間として生きていかなくちゃいけないって、そのことからは、ちっとも逃れられていない」

 話を続ければ続けるほど、言葉にすればするほど……言わなくていいことを言ってしまっていると頭ではわかっている。僕は冷たいのだろうか。こんなにもよくしてもらっているのに、心のどこかでその善意を疑ってしまっている。「意味のないこと」に振り分けてしまおうとしている。

「誰かに優しくしてもらうことって、僕にとって、何の解決にもならないんだ。何というか……大切なことを、ごまかされているような気持ちになる。誰かに優しく接してもらうことで、少しの間苦痛は和らぐけれど、決してそれは改善になっていなくて……それがまやかしや、麻酔のようなものだったって気づくんだ。麻酔が切れれば、治していない傷口がまた痛む。結局、治っていないんだからね。傷が治らないことも、そこで傷を治さずにまた麻酔を求めて……人の優しさを欲しがってしまうのも、嫌なんだ。優しくされるのも情けないし、欲しがって得られないのも虚しい。そういう繰り返しの中にい続けたくないんだ。虚しくて、苦しいだけなんだから」

「お聞きしたいことがあるのですが」

 ひょうが、静かに言う。僕が視線で促すと、ひょうはガラス玉のような瞳で僕を見つめた。

「巴様の感じている苦しみって、どういったものなのですか?」

 その透明でまっすぐな視線を、自分の心の暗いところに当ててみる。そして、浮かんだ気持ちをそのまま声に乗せる。

「……僕はきっと、『普通』であることが、苦しい」

「『普通』であること」

 ひょうの声で繰り返されると、波立っていた心に不思議な静けさが訪れる。おかげで、僕は自分の考えていることを、落ち着いて言葉にすることができる。

「僕も、言葉にするのが難しい。ただ僕は、『普通』のやつらが嫌いで、本当に馬鹿に見えて、あんなやつらと一緒にされるのが心の底から嫌だ」

 そう言いながら頭に浮かんでいるのは、中学の同級生や高校のクラスメート。その中の誰か、ではなく「そいつら」という名前の群れや塊そのものが、僕は嫌いだ。ただ盛り上がって大声で騒ぐことができれば話の中身なんてどうでもいい馬鹿ども。つまらない有象無象の極み。主役気取りのエキストラ。その他大勢。

「……僕は『普通』にはなりたくない。だけど、きっと他人から見たら『その他大勢』でしかなくて、自分をそいつらから区別しようとしたくても、できない。だって僕の存在って実際に、『特別』でもなければ世界にとって必要でもない『その他大勢』でしかないのだから」

 ひょうは庭園の方を向き、僕の話を聞いている。

「この事実からは、逃れられないってわかった。そう思ったら、他人から優しくしてもらったり、慰めてもらったりすることっていうのがまったく意味のないことだと気がついた。だからね、僕にとってやらなくちゃいけないことは、やっぱり『強く』なることなんだよ。自分が『普通』であることを認められるようにね。そうすれば他人の優しさなんて欲さなくなるし、こうやってうじうじと悩むこともなくなる。そのために、自分自身をコントロールできるようにならないといけない」

 家に引きこもっていろいろと考えた結果、僕に必要なのは「大人になること」だと思った。僕はきっと、さっさと大人になったほうがいいのだろう。「普通」のやつらがでかい図体のくせしてガキのような精神性で青春という名の乱痴気騒ぎに興じ、馴れ合っている間に、僕は僕は一人で生きていくことができるよう、大人になるための鍛錬を始める。それこそが、今の僕に唯一できそうな「普通」への対抗策なんだと思う。僕は親しい友人や恋人のような他人がいないと生きていけないような弱い存在になりたくない。

「そういうわけで、僕は君のことを好ましく思っているけれど、君を好きになったり、ましてや恋人にしたいなんて思ったりすることはないよ。そんなことをしても僕の苦痛は紛れないし……。そもそも君が『そういう存在』になれると思ってないし」

 頭の中に渦巻いていた考えをほぼ出し切り、少し余裕のできた思考と視界で、僕はひょうの顔を覗き込む。

 やっぱり、ひょうは男にも女にも見えない。ただただ綺麗で、上手に「創られた」人間だという感じがする。もしかすると、僕が潜在的に恋愛感情や性的なことを嫌っていることが、ひょうの姿に反映されているのかもしれない。ひょうはちぐはぐな格好をしているとは言え、全体としては美しい。

 そしてふと、僕のことを異性として見ているであろう女子、比奈ひなちか子の顔が思い浮かぶ。チカは中学からの知り合いで、僕が気軽に話しかけることのできる数少ない女子だ。内気な性格に反比例するように背が高く、傷んでぼさぼさの髪が目立つ彼女のことは人間としてどこか好ましく思っているけれど、僕は彼女と付き合いたいとは思っていない。

 僕は彼女に限らず、女子のことを「異性」として見ることや考えることは彼女たちに対して失礼で、汚らわしいことのように感じる。その点ひょうは、確かに目を奪われるほど綺麗で美しい容姿をしているけれど、そういう目で見ようとはまったく思ったことがない……いや、普段はそう思わないだけで、ひょうが男だったらどうしようとか、女だったらまずいよなとか思う場面はあった。せっかくだしはっきりさせておくか。愚問かもしれないけれど。

「実際、君って男なの? 女なの?」

 僕の質問に、ひょうはにっこりと笑って胸に手を添えた。

「どちらでもいいですよ。巴様の仰せのままに!」

「なんだそれ」

 やはりナンセンスな質問だったようだ。しかしひょうは気を悪くすることなく、なぜかわくわくとした様子で僕の指示を待っている。……わからないけど、ひょうってやっぱり性別がないんじゃないか? ないならないでいいのだけど、ひょうが僕の決定を楽しみに待っているようなのと、僕もどうでもいいことについていつまでも考えていたいわけじゃないので仮決定を下しておく。

「じゃあ男ってことにしておく」

「わかりました。ちなみにどうしてですか?」

「女だとがっかりするから」

 もしひょうが女性だったら、僕が潜在的に恋人を欲しがっていたのがLの世界で具現化された……みたいになってしまって自分で自分に失望してしまう。それなら消去法で、ひょうは男性ということにしておいた方が収まりはいいだろう。というわけで脳内の牧田先輩、ひょうは「ひょうちゃん」ではなくなりました。

 そしてひょうはと言うと、笑顔を崩さないままどこか安心したように、そのまま胸を撫で下ろした。

「よかった。じゃあ、私がスカートを履いていても何の問題もなさそうですね」

「待った。どういうこと? 君が男ってことになった以上、その格好は問題になるんじゃない? 決めつけたのは僕だけどさ……」

 ひょうははきはきと返事をする。

「もしその理由が『女性の服を着た人間が嫌いだから』であれば、しぶしぶ着替えるつもりだったんですよ。でも、そうでないなら問題はなさそうですね! いやあ、安心しました!」

「そんなことを言うつもりはなかったけれど……君はなんなの? どういう意図でそういう格好をしているの?」

「動きやすいのと、何より可愛いでしょう。気に入ってるんです」

 そう言ってひょうはうふふと笑ってみせる。ひょうの楽しそうな様子に僕は文句を言う気も失せて、茶碗に入ったハーブティーを啜った。

 一通りの問答によって、一応、ひょうの性別は男ということになったようだが、ひょうは見た目にも声にも、その一人称にも変化はない。ひょうはなぜかスカートを履きたがるが、それも自分が女だからという認識からではなく「自分が気に入っているからそうする」だけのことらしい。ていうか、自分の名前くらいしか知らない「創られた」存在のくせに、趣味嗜好があるってなんだよ。こういった意味のわからない思考の偏りがあるところにも、僕はひょうの中に奇妙な「人間っぽさ」があると感じる。

「なんにせよ、巴様曰く私は『全体的にバランスがとれてて上手くいってる』そうなので、さしたる問題ではないということでどうでしょう」

 そう言って自信満々に胸を張るひょうに、僕は呆れる。

「それはそれでいいんだけど……なんか君、その格好をすることに対して強引じゃない?」

「気のせいですよ。ほら、追加のハーブティーはいかがですか?」

 無理やり話題を逸らされながら、しかし僕はそれでいいと思っている。話の内容につっこみどころは残っているが、この話はもう終わりだ。

 僕はひょうとの会話を「ちょうどいい」と思っている。内容的にも、その切りどころ的にも。だけどひょうとの会話が「ちょうどいい」のは、ひょうが僕の「理想の人」として創られているのであれば当然のことなのだろう。これは僕の理想が創り上げた理想の会話であって、僕は誰とも会話していないのかもしれない。そう思うと、ひょうとの会話は楽しいはずなのに虚しい。結局、こんなやり取りは僕がいつもしている脳内会議と変わらないのではないか。偏屈で人付き合いの下手くそな僕は、こうやってLの世界で都合のいいひょうと都合のいい会話をしているだけの方が楽なのだろう。もしかしたら、Rの世界に肉体を置き去りにして、こちらの世界に生まれ直した方が楽なのかもしれない。だけど、ひょうという理想の人間との会話を虚しいと感じ、この世界で過ごす時間を現実逃避だと思ってしまう以上、僕という存在はRの現実世界のものなのだと思う。ということは、僕はやはり現実世界で生きていかなくてはいけない。


 ひょうに追加のハーブティーを注いでもらいながら、僕は今日すっぽかしたクラスの話し合いのことを思い出していた。これから僕は二週間も、第一祭の準備のために「普通」のやつらと関わらなければならないらしい。牧田先輩は僕を面白がるような目つきで見ていたが、僕のうんざりする気持ちを見抜いていたのだろう。実際心の底から気が滅入る。やっぱりLの世界でひょうと駄弁っている方が有意義なんじゃないだろうか。

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