7話:二学期(②)



 芸術棟別棟の階段を一番上まで上り、ベージュ色に塗られた扉の鍵を開ける。ドアノブを回せば、湿度の高いこもった空気が僕たちを迎え入れた。

「暑いねえ、クーラー入れるね」

 多目的教室に入った彼女は壁に取り付けられた操作盤へと近づき、慣れた順番でボタンを押していく。

 久々に入る部室は、特に様子は変わらない。三列に並べられた、白くて大きい長机。教室の奥に固めて置かれた作品棚。向かって右手の窓際に置かれたトルソーは、夕方になりかけの白っぽいような黄色っぽいような光に包まれながら、佇んでいる。浅く息を吸うと、油絵の具の匂いが肺を狭くするような気がした。

「またぼんやりしてる」

 声のする方を向くと、彼女が僕の真横の窓ガラスを開けた。吹き込んだ風が、伸ばした前髪を散らばらせて僕の視界に入り込む。

「うわ」

「あー、気持ちいい」

 彼女はからからと笑う。差し込む光が、彼女の髪を明るい茶色にきらめかせる。

 低い音とともに、少し遅れて天井のクーラーが動き始める。教室が冷え始めるにはもうしばらくかかるだろう。手際よく窓を開けていく彼女にならい、反対側の窓を一つ開けるとびゅう、と大きな音がした。

「ありがとう。そっちお願いするね。麦茶でも用意しておこうか」

「あ……お願いします」

「オーケー。そういえば、宿題考査はどうだった?」

 西側の窓をすべて開け、作品棚の方へと歩きながら彼女は尋ねる。

「まあまあ……だと思います。平均くらいなんじゃないですか」

「平均あるなら十分でしょ」

 彼女はそう言って笑う。彼女が本心からそう思っているかはわからないが、僕はそのとおりだと思っている。

「あんまり成績がよくないとね、ちょっと頑張ってもらわないといけないかもって思ってたんだよね。そんなに心配はしていなかったけど」

 あの奥には掃除用具や簡単な食器類、そして冷蔵庫など、この部室を居心地のいい空間にするためのアイテムが揃っている。自分の任された窓を開け終えた僕がその場に突っ立っていると、麦茶のポットと空のマグカップ二個を手に現れた彼女が吹き出した。

「あはは、ずっと立ってたの?」

「まあ……」

「遠慮しないでいいのに」

 彼女は僕に座るように促す。慎重にプラスチックの座面に腰を下ろすと、僕の前にマグカップが置かれた。この部室で使い回している、すっかり見慣れたマグカップ。彼女はそれに麦茶を注ぎながら話す。

「播磨先生はね、真面目な生徒には何も言わないの。私は私たちの活動のことを『真面目に自習をしているだけです』って言っているんだけどね、先生がそんな理由だけでここの鍵をずーっと貸してくださっているのは、授業態度が真面目だとか、成績も特別悪いわけじゃないとかで、それなりに信頼してもらってるからなんだ」

「信頼……」

「そう。その信頼だけで、三年目」

 彼女の声色は自信で満ちている。自分が他者から正当に、そして自分の思い通りに評価されていることを誇りに思っているのだろう。彼女はパフォーマーであり支配者だから、それはそれは大きな喜びに違いない。その薄暗い喜びには僕にも心当たりがある。

「まあ、巴くんなら大丈夫だと思うけどね」

 僕が顔を上げると、彼女がこちらに笑いかけていることに気づいた。

 彼女に「信頼」してもらえて嬉しい、という感情が沸き上がるより早く、くすぶっていた不安が膨らんで体積を増やして、胸から頭の奥までを圧迫するような感覚に襲われる。違う。勘違いしてはいけない。甘えてはいけない。「許されている」と思ってはいけない。

 無償でここにいさせてもらえると、思ってはいけない。

「あの」

 震えてしまった僕の声に、牧田先輩は軽い調子で「ん?」と聞き返す。声をかけておいてなんだけど、唐突すぎやしないか。でも、これ以上踏み込むのであれば、確認しておかなければならない。僕が、「そっち側」に行ってもいい人間なのか。

「『世界の交差』の調査ってもう、終わっているようなものじゃないですか。……それなのに、まだ僕は、『創作部』としてここに来てもいいのかなと思って……」

 

 牧田先輩が創設した、学校非公認の部活――「創作部」。

それは決して、この多目的教室で「自習をするだけ」の生徒の集まりなどではない。「創作部」の活動には、「世界の交差」という、なんとも現実離れしたファンタジックな現象が関係している。


 「世界」とはどうやら、僕たちが今生きている、このクソつまらなくてありふれた世界以外にも存在している、らしい。

 例えば、それは漫画やアニメの世界。そこでは魔法が使えるだとか使えないだとか、髪の色がピンク色や水色をしているのは普通だとかありえないとかが、その作品世界――物語と言えるかもしれない――によって異なっている。

 それぞれの作品世界によって普通や常識の基準は異なり、その基準を定めるのは作者だ。それらは誰かが考えた物語(フィクション)であり、「創作」にすぎないから、それらが現実(リアル)に、この世界に存在することはできない。誰かの考えた物語が、この世界に適用されて現れることはない。このくだらない世界には、それだけの「器」がないから。融通が利かない、とも言う。

 しかし、僕らからすればフィクションでしかない世界は、まったく存在しないというわけではないらしい。

 もちろん、僕たちが生きている現実世界の中には存在しない。その世界は、「この世界」とは別の普通や常識の基準が適用される、この世界ではない場所で、「別の世界」として存在している。

 その、「この世界ではない場所に存在する世界」の実在を確かめる手段の一つが、「世界の交差」である。

 「世界の交差」というのは、現象の名前だ。僕たちは「世界の交差」を起こすことによって、「現実(リアルの)世界」から、「仮想(フィクションの)世界」に「行く」ことができる。僕たちは現実世界ではない別の世界に精神を移動させて、そしてその世界の基準で書き換えられた肉体によって、その世界に存在するものを見たり、そこに存在する地面を踏みしめたりすることができる。「世界の交差」によって別の世界に移動した僕は、僕の行き着いた先が、現実世界ではないが確かに「そこに存在する」と感じられる、「別の世界」だと判断した。そこで、僕はその世界を、「Lightの世界」――「Lの世界」と呼ぶことにした。また、「世界」の話をする際に、Lの世界に対応する名称として、僕たちが生きている世界のことは便宜上、「Rightの世界」――「Rの世界」と呼ぶことにしている。

 正しい代わりにつまらない、僕たちの現実(リアルな)世界。そう思うと、Lの世界はフィクションからとってFの世界とでも言いたくなるところだが、Lの世界の手触りのすべては、「現実」世界で感じられるそれと大差ない。それは、Lの世界もRの世界と同様に、同じくらいの確かさで「存在している」ことの証拠なのだと思う。だから、僕はLの世界のことを仮想(フィクション)だとか偽(ファルス)だとかと言うことはできない。じゃあなぜLight(光)なのかというと、それは――僕の個人的な体験に因(よ)る。いったん、それは棚に上げておく。……何かを入れておくのに使えそうだけどすぐに使い方が思い浮かばなくて処分に困る、おみやげのクッキー缶をしまうように。


 この世界にはうんざりするほどたくさんの人間がいる。しかし、「Lの世界」の存在を知っている人間、また、「Lの世界」に行くことができる人間はほとんどいないだろう。

 僕も、そのような「その他多数」の一人だった。しかしこの夏、とあるきっかけで「創作部」部長の牧田先輩と出会ったことにより、僕は「世界の交差」の存在を、そしてLの世界の存在を知ることになった。


「『世界の交差』の調査は、もう終わったと思ってる?」

 牧田先輩に問われて、僕は少しの間黙ってしまう。

 「創作部」の、自習ではない本当の活動内容は、「『世界の交差』について調査をすること」だ。

「『世界の交差』の調査の目的が『世界の交差』システムの解明っていうことであれば、僕のできることって、もうないんじゃないかって。……『調べ尽くした』感があるんです。『世界の交差』の仕組みも生まれたきっかけも、『世界の交差』を管理している『マスター』のことも」

 僕たちは、「世界の交差」システムの管理人を、「マスター」と呼んでいる。

僕は初めて彼と対面した時、その態度や口ぶりが無性に気に入らなくて(それはマスターも同じだったようだが)、彼が我が物顔で管理しているという「世界の交差」システムを、否定する、ぶっ壊してやると宣言した。

 当時、僕は彼について何にも知らなかったから、彼の個人的な信念や野望を「正しく」否定しようとして、まずは彼の世界のことを「正しく」理解しようとした。その過程で僕は、「世界の交差」システムが始まった経緯と、その管理人であるマスターの過去を知ることになった。

 彼女は僕の言葉に、黙って耳を傾けている。数日前、夏休みが終わって後半の夏期講習が始まったタイミングで、僕が彼女に「調査」の結果を報告した際にも、彼女は同じように聞いてくれていた。

「……だから、あれから来てくれなかったのかな?」

 牧田先輩の言葉に、僕は頷く。

「僕がここに来る目的も、理由も、なくなったってことじゃないですか」

 できるだけ自分の感情を込めず、平坦な声を出す。すると、牧田先輩も平坦な声で「なるほどねえ」と呟いた。

「それでも、ここに来てくれていいのに」

 僕は、心臓がどきりと跳ねた気がした。だけどそれを悟られないように努める。

「僕は、自分で決めて創作部の部員になりました。『部員だから』っていう理由で、ここに入り浸るのは正当なことだとは思います。だけど……入り浸ったところで、これから先、僕が先輩たちに与えられるものは、もうないかもしれない。だったら」

「『ここに来ない方がいい』って、判断したというわけね。でも、巴くんは『ここに来たい』んでしょ?」

 僕は、遅れて顔を上げた。そこには、僕を見つめている牧田先輩がいる。彼女は真剣な面持ちをしていたが、僕と目が合うと、なぜか彼女の方が安心したような微笑みを見せた。

 僕が何と答えようか、その表情の意味は何なのか、訊いていいのか迷っていると、彼女がマグカップを手に取って口をつける。

「もともと、『ここに来る』人たち――創作部の部員が何をやっていたかってね、『世界の交差』の調査という名目で、向こうの世界……Lの世界でしばらく過ごす、だけだったんだ」

 彼女は記憶を辿るように、ぽつ、ぽつと話す。

「自分の行きたい世界に、自分のなりたい設定や容姿で行く。そこで、しばらく好きに過ごす。帰りたくなったらこの部室に帰ってきて、自分がそこで何を見てきたのか、何を実現してきたのか、語り合うの。……そんな、ゆるい感じだったんだよ。だから、巴くんが私たちに『もう与えられるものはない』なんて、思う必要は全然ない。皮肉に聞こえるかもしれないけど、巴くんは、本当に『真剣に』、『世界の交差』の調査に向き合ってくれたの。今までの部員は、巴くんみたいに、『世界の交差』自体に向き合うことはなかった」

 だから、マスターのことも、ゼロちゃんのことも、「正しく」理解してくれたんだよね。と、彼女は言った。

「私は、巴くんがそうやって深く調べてくれてよかった、って思ってる。私も知らないことを知ることができたし、きっと……わからないけど、マスターにとっても、『特別』なことだったと思うから」

 僕は思い出す。真夏であるにもかかわらず、薄暗くて、凍えるほどに寒い彼の家で、彼の過去について答え合わせをしたこと。彼の大切な人からの伝言を伝えた時のこと。その時、彼の目から溢れた大粒の涙。

「……きみは私たちにたくさんの『特別』を与えてくれた。私は、きみに感謝しているよ。でも、これから先も『特別』を与えてほしいって、期待しているわけじゃない。『特別』を与えてくれないからって、きみのことを不要だと思ったりしない」

 なんて言えばいいんだろう、と牧田先輩は首の付け根を掻いた。

「要するに、『きみにはこれからも、創作部に来てほしい』って思ってる」

 彼女はそう言って笑うと、「お茶、飲みなよ」と促した。僕は少し迷ったが、口をつけることにした。マグカップの取っ手を握って持ち上げれば、蛍光灯の光を映していた表面に波が立った。

「何もできなくても?」

「うん。何もしてくれなくても」

 ぬるくなっているはずの麦茶が口の中を、喉の奥を冷たく潤していく。ぼんやりとしていた脳が、徐々に冴えていくのがわかる。

「きみがこれからも、『ここに来たい』って思ってくれるのであれば、私も、尚人くんも大歓迎だよ。私たち、きみのことを気に入ってるんだ」

 私が言っても噓っぽいかもしれないけれど、と、彼女はおどけてみせる。僕は思わず笑ってしまった。

「自覚、あるんですね」

「そりゃあるよ。あーあ、こういうことは尚人くんに言ってもらえばよかったかな」

 牧田先輩は上体を反らして、そして笑った。その顔を見ていると――それでも彼女の言うことを否定することは、逆に失礼なことだという気がしてきた。

 今は。少なくとも今だけは、彼女たちの気持ちを、素直に受け止めてもいいのかもしれない。

「……わかりました。それじゃ、これからも、ここに来ます」

 牧田先輩は僕の顔を見ると、「うん」と笑った。

「そう来なくちゃ。じゃあ、改めて『引き継ぎ』をしよう」


 

 マグカップに麦茶を注ぎ足して、牧田先輩が話し始めたのは、僕たちの高校の学園祭――「第一祭(だいいちさい)」についてだった。

 僕や牧田先輩の通っている高校は、正式には「天野(あまの)第一(だいいち)高等学校」という名前の県立高校だ。ちなみに「第二」や「第三」があるのかと言われると、昔はあったらしいが、今は廃校になったとか名前を変えたとかで存在しない。しかし県内での通称が「天野」ではなく「第一」であり続けているのは、第二や第三があったころの名残、かつすぐ近くに「天野高校」という私立高校が建ったから、ということらしい。ちなみに「天野」というのは、この高校のすぐ近くに流れている川の名前の「もじり」だ。県内に昔からある学校はだいたい、学校の土地の近くにある川や山の名前をもじってつけた名前、というのをどこかで聞いた。

 年間スケジュールのほとんどを考査、模試、試験が占めるうちの学校において、「第一祭」の存在は異質ですらある。どうやらこれが、うちの学校に存在する、数少ない青春イベントらしい。まあ、僕には関係ないけれど。

「うちの学園祭は、文化祭と体育祭を一気にやるの」

 毎年九月の、だいたい二週目の金土日。その三日間が第一祭と呼ばれる期間で、金曜日は学生による弁論大会、土曜日は文化祭、日曜日は体育祭を行うらしい。

「宿題考査が終わってからこの二週間は、学校中が一番バタバタするの。文化祭や体育祭の準備期間っていうのがここしかなくて、しかも結構いろいろなことをやらなくちゃいけないから、大変な二週間になるんだよね」

「へえ、そうなんですね」

「巴くんのクラスでも、そんな話になってない?」

 先輩に言われて思い返せば、確かに、そんな話が聞こえてきた気がする。

「そういえば、テストの後に話し合いをするとか言ってた気がします」

「え、それって……今?」

「はい、たぶん」

 おそらく。テストの後、なんとなく、クラスがもぞもぞと気持ち悪い感じになっていた。教室から出ていいような、よくないような、微妙な雰囲気が漂っているくせに何の話し合いも始まらないから、イライラして教室を抜け出してきた。

「駄目だよ、そこはそっちを優先してくれてよかったよ」

「でも、グダグダ過ぎて。別に後から文句を言う気もないし、結果だけ聞けばいいやーって」

「そう……」

 先輩が何か言いたそうにため息をついたが、今回は深く突っ込まない方針らしい。肩から滑り落ちてきた髪を払うと、背筋を伸ばして僕に向き合った。

「『創作部』に関連して、伝えておきたいことが何個かあるの。まず、私と尚人くんだけど、この期間中はほとんどこの部室に来なくなると思う」

「そうなんですか?」

 僕が訊くと、牧田先輩は「うちのクラスにも準備があるからね」と言った。そのまんざらでもなさそうな表情に、僕は不思議な気持ちになる。彼女は、中学生のころから「世界の交差」に関わってきて、今なおそのシステムのうちで唯一の立場にいる、「特別」な人だ。そんな彼女が、「普通」のやつらに混じって「普通」に学園祭の準備に追われるのかと思うと、なんだかもったいない気がした。彼女には僕以上に、そんなくだらない学校行事になんて関わらなくてもいい理由がある、と思う。

「それに、第一祭が終わったら、三年生は一気に受験ムードになるの。だからどっちにしろ、これからは部室に来る回数が減ると思う。だから、今日は『引き継ぎ』をしたというわけ。きみが自由にここに出入りできるようにね」

「なるほど」

 と、返事をしながら、僕は彼女が「引き継ぎをしたいから、テストが終わったら階段下に集合ね」と声をかけた時にはもう、僕に部室を任せるつもりだったんだ、ということに気がつく。僕の夏休み中の悩みはなんだったんだ。何にも知らず、先輩に対して弱気なことを言ってしまった恥ずかしさもあるが、それより先にうれしい、みたいな気持ちがこみ上げてきてむずかゆい。

「また、注意してほしいのが、準備期間中のここへの出入り」

 彼女の声が引き締まるのにつられて、自然と僕の背筋も伸びる。

「第一祭の準備期間は特に、学校の敷地内を生徒がうろうろするの。普段、こっちの方には美術部員や書道部員以外はあまり人が来ないでしょう」

 「こっち」というのは美術棟や、この部室のある美術棟別棟のことだ。確かに普段は、本校舎から離れた場所にあるというのもあり、ほとんど人の気配がない。

「文化祭や体育祭の準備のために広い敷地を探そうとして、こっちの棟まで来る生徒もいるのよね。それ自体は問題ないのだけど、私たち『創作部』としては、あまりこの部室の存在を知られたくない。『世界の交差』を起こしてLの世界に行っている間、この世界に残る肉体は無防備な状態になっているからね」

 「世界の交差」でLの世界に行くと、Rの世界に残された肉体は「眠っている」ような状態になる。Lの世界に移行した精神は、Lの世界で過ごした期間に影響を受けることなく、下校時刻のチャイムが鳴るタイミングで「戻ってくる」ことになっている。そのルールには例外があり、ある条件を満たすと、「戻ってこない」場合もある。その場合、Rの世界の肉体がどうなるのかと言うと――牧田先輩は自然消滅すると思っているのかもしれないが――「掃除係」の尚人先輩に訊けば、詳しく教えてくれるだろう。僕や牧田先輩よりずっと優しい彼にとっては酷な話だが。

「……だったら、ここに来る回数自体、減らした方がいいですかね?」

「その辺の調整は巴くんに任せるよ。まあきっと、この二週間は巴くんもクラスの人にこき使われて、ここに来る余裕なんてなくなるかもしれないし」

「そんなことはないと思いますけど……」

「どうかなあ」

 彼女は面白がっているような声で言う。

「たぶん、思っている以上に厳しいスケジュールだから。二週間で文化祭と体育祭の準備をするわけだからね。巴くんみたいな暇人、実行委員としては喉から手が出るほど欲しい人材だと思うよ」

「ええ、嫌です」

「嫌なんだったら忙しい振りをするか、身を隠すしかないね。クラスの顰蹙(ひんしゅく)は買うと思うけれど」

 彼女はいつの間にか組んだ手の上に顎を乗せ、ニコニコと笑みを浮かべている。僕は急に気が重くなってきた。一学期はうまくやりすごすことができたのに、どうやら、二学期はそうもいかないらしい。あの、どうしようもなく決断力のないやつらと一緒に話をしたり、協力して出し物を作ったりしなくちゃいけないのか。高校の学園祭にどんな準備が必要なのか、具体的なことはまったく想像できないけれど、その想像のつかなさがまた僕を憂鬱な気持ちにさせた。嫌だな、面倒くさい。

「巴くん、Lの世界に行って来たら?」

 突然かけられた言葉に、僕は反応が遅れる。

「……え?」

「今日はもう、クラスに戻らないんでしょ。しばらくはここに来ることもないだろうし、今のうちにひょうちゃんに挨拶でもしてきたら?」

 ひょうちゃん。牧田先輩が軽やかな声で呼んだ名前に、僕の意識は一瞬であの春の庭に飛ぶ。

「……いいんですかね」

「うん。私もここで自習するつもりだったし。私のことは全然気にしないで」

 そう言うと、彼女はさっさと席を立って教科書やノートの入った通学バッグを取りに行く。

 僕は、伸ばしていた背中を丸めて、少し息を吸った。牧田先輩の提案は脈絡がなかったけれど、僕としてまったく考えていないことではなかった。むしろ、僕がここに来たいと思う理由の二割――いや、三割くらいは、僕が、これからもLの世界に行きたいと考えているからだった。Lの世界には、「あいつ」がいる。

 と、視線を感じて顔を上げると、牧田先輩が興味深そうに僕の表情を窺っている。

「あの、先に言っておきますけどね」

 嫌な予感がしたので先手を打つ。牧田先輩は勉強道具を抱えたまま、お、と口を丸めた。

「別に『ひょうが好きだから会いたい』ってわけではないですからね。何か、邪推をされているようですけど」

「やだなあ、そんなこと言ってないでしょう」

 牧田先輩はあははと笑いながら席に着く。今度は僕から少し離れた席だ。

「でも、いっぱい助けてもらって、頼りにしてるんでしょ」

「それは」

 反論しようとして、その言葉の中には否定する要素が一つもないことに気づく。でも、違う。僕の中に違和感があるということは、僕にとっては真ではないということだ。僕は彼女の言葉の外側に、違和感の正体を見つけようとする。

「……『頼りにしている』ことと、『好き』なことは、違うでしょう」

 ひとまずそこで言葉を切り、彼女の出方を窺う。

「まあね」

 彼女はそう言うと、僕にウインクをした。どうやら、彼女は自分にとって都合のいい勘違いをしたままのようだが、これ以上何か言っても逆効果だと判断し、口を閉じる。彼女もこれ以上僕と口論をするつもりはないようだ。ペンケースからシャーペンと消しゴムを取り出して、すっかり練習問題を解く構えになっている。

 彼女が集中してしまう前に、僕はLの世界に行った方がいいだろう。

 僕は椅子を後ろにずらし、白くてつるつるとした表面の机に両腕を乗せる。そしてその腕を枕にするようにして、頭を乗せる。授業中、こんな体勢で堂々と居眠りをしているやつの図太さがたまに羨ましくなる。こんな、思いっきり眠るためだけの体勢を、よく授業中の教師に見せることができるなと思う。どんなにつまらない授業でも、「それ」はないだろ。

 牧田先輩がカチカチ、とシャーペンをノックする音を聞きながら、目を閉じる。「世界の交差」を起こすためには、Lの世界で叶えたい「願い」が必要だ。

 「世界の交差」の調査を終えた僕が、Lの世界で叶えたいことってなんだろう。僕は思いを巡らせようとして――すぐに一つの答えに辿り着く。

 願いは、きっと、単純なものの方が叶いやすい。

 だけど、僕の抱える単純な願いは、幼稚すぎるような気もする。


「……『ひょうと、暇つぶしをしたい』」


 そう呟いた瞬間、視界が眩むような、強烈な眠気が一気に押し寄せる。めまいにも似たその感覚は確かに不快ではあるが、もう、怖いと思うことはない。

 意識して全身の力を抜けば、それを最後に僕の意識は闇に沈む。そうして、この現実からもう一つの「現実」へと向かっていくのだ。

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