7話:二学期(①)
7・二学期
九月一日、月曜日。「月曜日に新学期が始まるなんて、なんかラッキーな感じだね」と誰かが言っていたのを、いったい僕はどこで聞いたんだっけ。誰もが参考書や単語帳を片手に、声を潜めるようにして話をしていた朝の教室だろうか。それとも始業式へと向かう渡り廊下だったか。あるいは宿題考査が終わって緊張の解けたクラスメートの誰かが、黒板を見て呟いたのをたまたま覚えていたのだろうか。いずれにしても僕がその言葉を覚えていたのは、その言葉に共感したからではなく、その発言の中身のなさに呆れてしまったからだ。
そんな安直かつ感覚的な発言、誰が面白いと思うんだろう。短絡的かつナンセンス。共感しようにも共感できない感覚を他人にぶつけて、楽しくなれるものだろうか。「そうだね」と言わされるやつは可哀そうだし、「何言ってるんだ」とウケるやつは、まさか本当にウケているわけではないだろうな。もしそうだとしたら、僕はそいつを理解することができないだろう。まあ、僕にはまったく関係のないことだけれど。
教室のある四階から一階へと下りていきながら、すれ違う生徒たちが皆浮き立っていて嫌だなあと思う。「普通」の連中は、二学期が始まったというだけでそんなに楽しいものなのだろうか。僕らなんて、学校が勝手に決めたスケジュールにただ従わされているだけなのに。しかしそれは僕も同じだ――と思うと頭の奥がぼんやりとして、目がかすんでくる。階段を下りる足と意識がばらばらになって、からまってもつれそうになる。
「
開かれた空間にもよく通る、凛とした声に名前を呼ばれる。目線を上げれば、階段を下りた一階のスペースに見慣れた女子生徒の姿があった。
「
彼女が手を上げる。その拍子に、耳の辺りできらっと汗が光った。
思わず僕は辺りを見回すが、親しげに僕を呼んだ彼女もそんな彼女に呼ばれた僕も、誰の興味も引いていない。僕はほっとして残りの階段を駆け下りた。そして彼女の元へ向かう。
「お待たせして、すみませんでした」
「ううん、気にしないで。呼び出したのは私なんだから」
彼女は持っていた本を丁寧な仕草で畳み、バッグの中へとしまう。
「単語帳ですか?」
「うん」
彼女は汗を拭う。暑い中、待たせてしまって申し訳ない。じゃ、行こうかと言った彼女はくるりと向きを変える。背中まで垂らした重たげな黒髪が、布のように翻った。
背筋を自然に伸ばし、堂々とした足取りで進む牧田先輩を眺めていると、さっきまで僕の頭を支配していた憂鬱がほんの少し紛れる。
彼女はわずかな間だけ僕を「非凡」な存在にしてくれる。だから、僕はおとなしく彼女に導かれた。彼女が僕を見捨てないうちは、こうしても許されるだろう。
と、前を歩いていた彼女が、立ち止まって僕の方を向いた。驚く間すら与えず、彼女は僕を見つめて口パクで何か言った。僕は慌ててそれを追う。が、周りの生徒たちの声がうるさすぎて聞き取ることができなかった。
「あの、今なんて」
「『緊張してる?』」
気がついたら、僕は職員室前の廊下に立たされていた。彼女は扉の前で、軽く握った右手を持ち上げている。ノックをするときの手の形だ。
「……ええ、まあ」
「噓」
間髪をいれずに彼女は決めつける。
「何がですか」
「今、別のこと考えていたでしょ」
それは、その通り。なんて言い訳しようと考えていると、「ほら」と牧田先輩が勝ち誇ったように笑った。
「巴くんがぼーっとしてるのはいつものことだから気にしないけど。今日は部活の『引き継ぎ』をするんだから」
彼女は目元に笑みを残したまま、扉を軽やかにノックする。
「『ちゃんと見ててね』」
唇の動きを追わずとも、今度は彼女が何を言ったのかわかった。そしてやられた、と思った。
この抜き打ちテストは、点数自体にはあまり意味がない。それよりも彼女が狙っていたのは、僕に少しの恥をかかせることで、彼女の次の行動――「引き継ぎ」の内容に集中させることだったというわけだ。彼女の下位互換である僕はまんまと術中に嵌まって、彼女の手の動き、次の言葉に注目してしまうことになる。……悔しいけれど、目を覚まされた。
三回の軽やかなノックの後、彼女は職員室の扉を開ける。
「
「外で待っていなさい」
ずしんと低い、空気を震わせるような声が中から聞こえる。彼女が「はい」と言って扉を閉めると、程なくして長身の男性教師が出てきた。
おそらく百八十センチはあるだろう。教師がするにしては鮮やかで派手な色の紫のフレームをつまむと、量の多い癖毛に差し込むようにしてレンズを頭の上に乗せる。その場所が彼の眼鏡の定位置なのだろうか。失礼にならない程度に顔を覗き込めば、目の周りには教師特有の疲れが出ているようだが、それでもどこかきりっとした印象を与える端正な顔立ちだ。もしかしたら他の先生に比べて若いのかもしれない。牧田先輩へ、そして僕へと向けられる視線は鋭くて独特の威圧感がある。僕は身長が百六十センチもないから、物理的に見下ろされているだけかもしれない。
「巴くん」
彼女はいつもの調子で僕を呼ぶ。彼女はにこにことしながら先生の隣に回り込んだ。
「紹介するね。こちら、私の担任の播磨先生。三年生の国語を担当されていて、ご専門は現代文なの。古文や漢文も教えられているけどね。そして、私たちにとっては『顧問』の先生でもあるんだよ」
「……牧田。私はお前たちの『顧問』ではない」
播磨先生が口を開く。近い距離で聞くと、肺の奥がぶるぶると震わされるような低い声だ。
「たまたま、多目的教室の鍵の管理を任されているだけだ。お前たちは公式の部活動ではないだろう。そこの彼に、勘違いをされては困る」
先生はきっぱりと言う。笑わないどころか愛想の一つもない言い方に、なぜか僕の方が悪いことをしたような気持ちになる。だが彼女の方は「そうでした!」なんて言いながら笑っている。先生の愛想のなさに慣れているのか、単に彼女が図太いのだろう。
「じゃあ改めて、多目的教室の鍵を貸してくださる播磨先生だよ。今後、一人で『部室』に行く時には先生に鍵を貸してもらってね。もし先生がいなかったら、先生の机の、右の引き出しに入っているから勝手に持っていいよ。ただ、借りたら責任を持って返すこと。間違えて家に持って帰ったりしたらダメだよ。あと、今日みたいに考査の前後は職員室に入れないから――」
……僕は彼女の言葉を半分聞き流していたが、それは彼女の隣に立っている先生も同じようだ。
ちっとも彼女が怯まないからか、あるいはもともとそういう顔立ちなのか、彼は険しい表情のまま下を向いたり、廊下の向こう側から来る先生や生徒に律儀に会釈をしたりしている。この場にはいてくれているものの、先生は話の内容自体には興味がないようだ。しかし僕も、彼女が話しているのは上辺だけで、なぜ学年の離れた僕たちが一緒にいるのか、どうして多目的教室の鍵を必要としているのか、ということについてはあえて触れようとしないことに気づいている。
「じゃ、そういうわけだから」
彼女の声に意識が呼び戻される。彼女は僕と先生の間でにこりと笑った。これも元ラジオDJの――「ミキちゃん」の特技なのだろう。ラジオという媒体で何年も喋り続けてきた彼女は、その声色を変化させて話をつまらなさそうに思わせたり、逆に人の気を惹きつけることもできるようだ。
「そうだ、最後に。遅れちゃったけれど」
彼女はくるりと僕を見た。言いようのない「悪い予感」に、僕が流れを変えようとする前に――彼女が僕に手を差し伸べた。
「巴くん、播磨先生に自己紹介して。簡単でいいからさ」
「は? ええと……」
「自己紹介」って、何だろう。僕は思考をフル回転させる。
僕は自己紹介というものが苦手だ。そもそも他人に教えられることなんてない。家族構成だとか趣味嗜好だとか、そんなの誰が興味あるんだよって思う。っていうか僕が安易に家族構成やら血液型やらを提示することで君は一人っ子なんだねとかA型なんだねとか勝手に納得されたと思ったらじゃあこういう性格なんだねと言われたり思われたり誰かの話のネタにされたりつまらない自分語りの導入として利用されたりするのが心の底から気持ち悪いしだるいなと思う。でもそういう無意味な話や無遠慮な自分語りで他人の時間を奪っても苦にならないようなやつらの方が気楽でいいのかもしれない。僕は苦痛だけどね。どうせ僕のことなんか興味もない、隙あらば自分語りに興じるやつらに話題を提供してしまうのも阿呆くさいし、少しでも有意義な時間を過ごしたいと思っている数少ない人に対して無意味で無価値で無駄な僕のことを知ってもらおうとするなんておこがましい。
だから僕はこの「自己紹介」という場が、儀式がだめなんだ。どっちに転んでもスベるだけなんだからなくなればいいのに。しかし僕としてこの「場」を与えられてしまった以上、名前だけ言ってハイ終わりで済ませるのも主義に反する。「自己紹介をしてください」と言われて名乗るだけで、一言も添えないやつの「わかってない」感は何なのだろう。彼らは彼らで空気が読めていないから不快だなと思う。やつらは状況把握能力の低さや対応力のなさを他人に晒すことが恥ずかしくないんだろうか。少なくとも僕は最低限の空気を読みたいというか、「こいつ、わかってないな」と思われたくはない。しかし「自己紹介」として、僕は僕のどの情報を選び取ってどんなトーンで話せばいいのだろう……と考えているうちに思考がふりだしに戻っている。すべてが苦痛な時間だ。僕がこうやってしょうもないことを考えている間にどれほど二人のことを待たせているのだろう。焦れば焦るほど頭が真っ白になって、何も考えられなくなってくる。
ていうか、さっき先生にしたみたいに僕のことも紹介してくれたらいいのにと先輩の方を見る。その視線をどう受け取ったのかはわからないが、先輩は目を細めて笑った。それで、あーもう、となるほど、が同時に来る。わかった、先輩は確信犯だな。きっと社会的に未熟な僕をこういう状況に放り込めば慌てふためくだろうと予測して、面白半分に話を振ったのだろう。彼女は僕の性質と経験値をよく理解している唯一無二の先輩であり、同時にサディストだ。先輩は僕のことを実験用のネズミか何かだと思っている。
自分のペースを乱されながらも、僕は「自己紹介における気の利いた一言」を必死に探す。おそらく、今の状況だけで言えば僕の独自性の提示みたいなものは求められていない。大事なのは形式だ。僕は牧田先輩がした、播磨先生の紹介の仕方を思い返す。所属、専門分野、そして彼女自身と彼の関係性。これが社会的な儀式の完全な真似事であるならば、儀式は儀式らしく形式を整えてやるだけでいい。それだけなら僕にもできるだろう。形式を整えるということは、その枠組みを理解した上で、再現するということだ。
「
……ようやく出てきた言葉は思ったように音声にならず、ところどころ震えてしまう。
たいしたことは言っていないのに、今、自分だけが二人に注目されていると思うとそれだけで緊張してしまう。自分が何を言っているのかわからない。最後に付け加えた「よろしくお願いします」なんて、何か意味があっただろうか。
「……牧田」
播磨先生は僕ではなく、牧田先輩に声をかけた。
「何でしょう」
「また関係のない生徒を巻き込んでいるのか」
その言葉に、僕は先ほどまでとはまったく異なる緊張感で全身が強張る。「関係のない生徒を巻き込んでいる」? もしかしてこの先生は、牧田先輩が多目的教室に生徒を集めて何をしているのか、知っているのだろうか。
「もう、無理やりじゃないですよ!」
一方彼女は曇りのない声色で応える。ちっとも動揺していないようだった。
「たまたま意気投合したんです。先生からしたら学年も離れているし、不思議な感じがするかもしれないけど。ね、巴くん」
よくわからないままに頷くと、播磨先生はより厳しい口調で牧田先輩を詰める。
「一年の彼に誤解されないように言っておくと、うちの学校では、特別教室に生徒が出入りすることは、それが部活動でない限り認められていない。本来はこうやって鍵を貸すことも許されていない。牧田、その辺りは説明をしているか?」
「ああ、すっかり抜けていました。すみません」
先輩は軽い口調で続ける。
「それでも先生が私たちに鍵を貸してくださるのは、私たちのことを信頼してくれているからなんですよね」
真正面から言われた先生は彼女に何か言い返そうとしたが、その前に彼女はくるりと僕を向いた。
「そう、本当は駄目なんだけどね。先生には『約束』つきで許可をもらってるの。『常に教室の掃除をして、必ず芸術棟とその周囲の整備と美化に協力する』のであれば、そのために芸術棟に出入りしてもいい。多目的教室を『自習室』として使ってもいい……ってね」
「そういう『名目』、ということだ」
「『名目』……ですか」
牧田先輩と目が合う。やはりこの先生は、僕たちが「本当は」どのような活動をしているのかを知らないようだ。牧田先輩は上手くごまかしているらしい。仕方ないから僕も共犯関係になることにした。牧田先輩は満足げに微笑む。
それにしてもかなり無理やりな「名目」だと思ったが、先生の表情を窺えば、予測に反してそれなりに腑に落ちているようだ。この先生はただ牧田先輩の言いなりになっているというわけではないらしい。まあ、じゃないとこの真面目そうで堅物っぽい先生が生徒の規則違反に二年も三年も加担するわけがないか。
「鏡味……だったか」
先生は低い声で僕を呼んだ。僕は反射で「はい」と答えていた。
「多目的教室の鍵だ」
先生が手を開くと、銀色の鍵がチャリンと音を立てた。見覚えのある、僕たちの「部室」の鍵だ。
「あ……ありがとうございます」
僕が鍵を受け取ると、先生は頭の上に乗せていた眼鏡をかけ直した。牧田先輩が「行こう」と言う。もしかすると、その動作がこの先生の「話はもう終わり」という合図なのかもしれない。鋭い目つきが、厚めのレンズの奥に消えてしまう。
牧田先輩は先生に軽くお辞儀をして、先に歩き始める。僕も軽く頭を下げ、彼女についていこうとした。
「鏡味、少し」
低い声に呼ばれて振り向けば、先生が僕のことを見ていた。牧田先輩もつられて立ち止まったが、その視線の向きから察するに、用があるのは僕だけらしい。
「はい」
努めて平静に返事をする。近づいた方がいいのだろうかと足を踏み出した時、先生が口を開いた。
「牧田は口が立つ。二年も先輩だから難しいかもしれないが、言いたいことは言える時に言った方がいい」
「……え、」
「では、失礼」
先生は踵を返すと、職員室の中へと姿を消してしまった。
今のはきっと、先生からのアドバイスなのだろう。
牧田先輩の方を見れば、彼女がちょうど背を向けるところだった。
先生の言葉は、きっと彼女にも聞こえていただろう。彼女はそれが聞こえる距離にいたし、先生も声を潜めなかったから。
彼女は何も言わなかったが、どこか機嫌がよさそうに見えた。僕はその少し後ろについていきながら、彼女はあの先生のことを気に入っているんだろうなと思った。
彼女が先生を気に入っている理由には、僕にも心当たりがある。それはきっと僕が彼女に懐いてしまっているのと似たような理由なのだろう。自己愛の強い僕たちのような人間は、「自分のことを見抜いてくれる」人がいると、浅ましくも嬉しくなってしまう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます