6話:ゼロ

6・ゼロ




「――また会ったね、『巴くん』」

「うん、そうだね」


 教室には、夕暮れのオレンジ色がひたひたと満ちている。僕は机と椅子がずらりと並ぶその中央に立ち、窓辺に立った制服の少女と向き合っていた。

 以前にも、ここに来たことがある。見慣れない、しかしどこか懐かしい教室。窓の前に佇む彼女は長袖シャツに指定の赤いリボンと膝丈スカート。花の生けられていないこげ茶色の花瓶を両手に抱え、控えめな表情で微笑んでいる。

「『阿部礼』……、さん」

 そう呼ぶと、目の前の少女は頷いて笑う。

 ――平凡であまり特徴のない顔の彼女は、あまり彼女の兄――「礼治」とは似ていないように見えた。が、その控えめな表情の作り方にはどこかきょうだいじみたものを感じた。

「また会いましたね。って、たぶん敬語の方がいいですよね」

 僕が言うと、彼女は少し驚いたような顔をする。

「あなたは高校二年生の時に亡くなっているわけだから、今のあなたは僕より一年先輩ですよね。それに、実年齢で言ったらマスターと同年代なんだから……」

「ううん、敬語じゃなくていいよ。その方が友達みたいで嬉しいの。だから、いつも通り話してほしいな」

「ふーん、そう」

 僕の言葉に彼女はうんうんと頷く。そして再び笑顔を咲かせる。

「……そういえば、君のお兄さんも同じようなことを言ってたよ。『敬語は堅苦しいからなしでいい』、て」

 それを聞いた彼女は、くすぐったそうに言う。

「兄さんに会ったんだ」

「うん。あと、『マスター』――、『古壱うたぎ』にも会って、話をしてきたよ」

「そうなんだ」

「うん。――それで、前、君に『あいつに伝えとくよ』って言ったことなんだけど、まだ伝えられてなくて。ごめん」

「そうなの」

 僕は頷く。

 彼女は僕と同様に、以前、ここで僕と話したことを覚えている。そして、一つだけ約束をしたことも。

 まだ約束を果たしていない僕に対して彼女は怒ったり叱ったりすることもなく、そのままのトーンで返事をした。少しかすれて空気質な少女の声が空間に響くのを感じながら、僕は、彼女の瞳を見つめて話す。

「マスターに伝える前に、『君』に訊きたいことができたから」

「私に?」

 黙って深く頷いた僕に、彼女は不思議そうに首を傾げる。

 ……彼女とは、少し距離がある。僕は、視界に映る自分の前髪が「黒色」であることを確認する。そして、着ている制服は「夏服」だ。

 花瓶を持った少女は微笑を浮かべたまま口を固く閉ざしており、好意的に取れば――僕が喋り始めるのを待っているのかもしれない。

「――まず確認したいのは、『この空間』のこと」

 僕が傍にある机を指先で弾くと、カツン、と硬い音がする。

「僕がここ――この教室に来るのは二回目だ。前回、僕はマスターに首を絞められ、気絶した時ここに来た」

 僕は、もやがかかっているかのように少し輪郭のぼやけた教室を見渡す。

「最初、僕はここがLの世界だと思っていた。僕はRの世界で窒息死し、その直前に『死にたくない』と願ったがために、マスターの起こした『世界の交差』によって、意識がLの世界――『ここ』に、転送されたのかと思っていたんだ」

 そう、尚人先輩が僕に「そう」しようとしたように。「世界の交差」を起こせる場所で対象を殺すことにより、対象の「死にたくない」という願いの強さで、その願いを叶えるための「世界の交差」を起こす。そうやって転送された対象の意識は、Rの世界からLの世界へと移動し、Lの世界の物となる代わりにRの世界からは完全にその存在を消してしまう。

「だけど、そうじゃなかった。結局僕は『ここ』からRの世界へと帰ることができた。しかも帰った先、Rの世界においても僕の存在は抹消されていなかった」

 牧田先輩は眠りから目覚めた僕を、当たり前のように認識していた。僕はRの世界に存在したままだった。

「あの時はそこまで考えが回らなかったけど、後から考えたんだ。……僕が思うに、そもそも君と『ここ』で出会ったあの現象には、『世界の交差』は絡んでいないんじゃないかって」

 僕は彼女の顔を見る。

「と言うのも、あの日、僕が目を覚ましたのは『夜の八時過ぎ』だった」

 そこでいったん言葉を区切り、目の前の少女の様子を窺う。が、こちらを見つめる彼女が口を開く気配はない。しばしの静寂の中、僕は少しだけ迷ったが続けることにした。

「『世界の交差』から帰ってくるのは、下校のチャイムが鳴ったとき。たとえLの世界に滞在している時間が一時間でも、一日でも一週間でもそれ以上であっても――必ず、その日の下校のチャイムで目を覚ます『ルール』なんでしょ。ただ、あの空間――あのスタジオがマスターに特別に認められた空間なのだとしたら、下校のチャイムが聞こえなくてもRの世界に帰ってくることができる、という例外が認められるのかなと思った。けどそれは違って、僕が仁に会うべくあの空間で『世界の交差』を起こし、Lの世界から帰ってくる際にも、牧田先輩はCDを使ってチャイムの音を流すと言っていた。それに、流さなければ『目覚めないんじゃないかな』とも」

 僕は実際、仁――礼治とLの世界で会話をした後、Rの世界に戻ってきた時には先輩の流したチャイム音で目を覚ましている。

「……関連してつけ加えるとね、僕の記憶違いでなければ、最初に『ここ』で君と出会って話をして、その後スタジオで目を覚ました時――僕は『チャイムを聞いていない』んだよ。念のため、当時の状況を牧田先輩に確認したけど、やっぱり先輩の方も特別な音源を流したりだとか、先輩自身で物音を立てたりはしなかったそうだ――マスターから気を失った僕を預かる時、マスターに、『寝ているだけだ』と言われたから、だって」

 ただ寝ているだけだから、大丈夫。それは、「じきに目を覚ます」というニュアンスだったらしい。

「結論、僕はその時、『世界の交差』を起こしたわけじゃない。ただ『気絶して』、『夢を見ていた』んだよ」

 そこまで言うと、考えていたことが口を衝き、次から次へとあふれ出す。

「つまり、君とは――『Lの世界』ではなく、僕の『夢』の中で会っていたんだ。もし『Lの世界』で会っているのだったら、Lの世界の僕は銀髪のはずでしょ。でも黒髪だった。今だってそうだよ。僕が『いつもの』容姿で『ここ』にいるということは、『ここ』は『Lの世界』ではなくて、『Rの世界』で――それでいて現実の空間ではないから、俗に言う『夢』の中なんじゃないかな?」

 特に、今回については「夢」の中じゃないとおかしい。

 だって今、僕の体はいつも通りに晩御飯と風呂を終え、ベッドの上に横たわっているんだから。――もっとわかりやすく言えば、「普通に寝てる」んだから。

 眠る直前に「何か」を特別に願ったわけじゃないし、普通に考えれば、ここは「世界の交差」に関係のない、就寝時に見る「夢」の、その中だろう。っていうか、もしこれが「世界の交差」であれば、僕はチャイム音を流されない限りここから一生目覚めないわけだし。それは困る。

「だから、『ここ』は僕の『夢』の中だと仮定する。『世界の交差』とは無関係の場所だと仮定する――と、ね」

 僕は右腕を持ち上げ、スッと彼女を指さした。


「おかしいんだ。いろいろとね」


 指さされた彼女は表情を変えず、目を細めて僕の様子を見ている。

 ……きっとこれは、マスターや礼治、そして、「彼女」自身と話したことのある、僕にだけしかわからない違和感だ。

「――まず、『君』の存在がおかしい。『Lの世界』だったらありうるかもしれないけれど、僕は『君』――『阿部礼』の存在すら知らなかったにもかかわらず、僕の前に『はっきりとした姿で現れた』」

 すべてが曖昧な教室の中、二つ結びにした黒髪を、一本一本夕陽にきらめかせながら。

「その時僕は、会ったこともないのに君を『すでに知っていた』。君の名前を確かに呼んでいたんだ。目が覚めてしばらくは忘れていたけれど、『鏡』の中で礼治にその名前を聞いた時、まったく知らない名前のはずなのに『君の名前だ』って確信した。『はっきりと思い出した』んだよ」

 それは、「既視感デジャブ」かもしれない。でも、その本質が違うような気もした。

「さらに礼治に確認したら、この教室の特徴や君自身の外見の特徴まで、確かに『礼治の知っている』教室や外見と、一致していたんだ。不思議だよね。聞けば、その花瓶に彫られた『2―B』の文字も、事件が起きた当時の君とマスターのクラスだったそうじゃないか。そんな偶然ってある? 僕は君のことを『知らなかった』し、君たちの学生時代なんて『想像したこともなかった』のに。ねえ、これは『偶然』なの?」


 僕の問いに、少女は笑みを崩さない。

 意図せず畳みかけるような口調で話しながら僕は、自分の鼓動がだんだんと早まるのを感じた。

 きっと、いけないところまで踏み込んでいる。でも、もう引き返そうとも思わなかった。

「関係のないことかもしれないけど、まだあるんだ、気になることが。あのね、礼治に君たちのことを聞いている時に、礼治がぽろっと言ったことなんだけどさ――」



「――目に焼きついて離れないものがある」

 礼治は一通り自分自身のこと、そして自分の身に起きたことについて語り終えると、長いため息の後にそう言った。

「何?」と訊いてやるも、礼治は話すことをためらっていた。しかし、しばらく待っていれば遠慮がちに話し始める。礼治の言うところによると、本当はこれが一番話したかったことらしかった。

「これは、母親にも警察にも、その他の誰にも言っていないんだ。捜査を攪乱すると思ったし、言ったところで意味のないことだと思ったからな……」

「何かあったの?」

 少し虚ろな、青白い顔で礼治は頷いた。そして、「うたぎには言えないが」と前置きをした上でこう言った。

「俺にナイフで刺される直前、礼が『笑っていた』」

「……え?」

 間抜けな声で思わず聞き返すと、礼治は俯いてその顔に影を落とす。ああ、違うって。

「信じられないとか馬鹿にしたいとか、そんなんじゃないんだよ。ただ、『笑っていた』って……なんで? 確かにそう見えたの?」

 僕のフォローに礼治は迷いながらも頷く。

「気が動転していた。それに薄暗がりだったから、見間違いかもしれない……。でも、それにしてははっきりと、鮮明に覚えているんだ。俺の見たことがなかった笑顔……。心から『満足』していて、『喜び』に満ちた、『幸せそうな』笑顔で礼は笑っていた」

 青ざめた彼は、ぶるりと体を震わせた。

「ナイフが刺さってもなお、礼は笑っていた。その幸せそうな笑顔が、おかしかった俺をもっとおかしくさせた。冷静だったらあんなむごいことはしなかった……、気がついたら、俺は礼の心臓から引き抜いたナイフで全身を刺しまくっていた。――俺は恐怖を払拭したかった。ずっと礼に対して抱いていた、恐怖を……」

「『礼に対する恐怖』……」

 僕が繰り返すと、礼治は両腕を抱えて小さく息を吐く。そして、目を伏せた。

「……実を言うと、ずっと前からあったんだ。恐怖心とはいかないまでも、そういう、礼に対する『違和感』のようなものが」

「違和感?」

「ああ、」

 礼治は一瞬口をつぐむ。

「上手く説明しづらいんだが、感覚としては、『妹だけど妹じゃない』みたいな……。変な言い方をすれば、礼とは、『血が繋がってる』って感じがしなかったんだ。それは俺だけじゃなく母親も抱いていたみたいで、いつか言っていたよ。『礼がお腹から出てきた時に、私は心底恐ろしいと思った』……って」

「彼女が生まれた瞬間から、恐怖を……?」

「ああ……。何もかも終わった後だから言えるんだが……。俺はな、母親からそれを聞いて、母親も同じことを感じていたんだって『安心』したんだ。父親はどうだったかわからないが、俺と母親は、確かに、常にそう思っていた」

 礼治は僕に向き直り、力強く言う。

「だから、それもあって母親は礼を虐待していたんだと思う。そして俺も、母親にやめろと言えなかった――『礼を守らなくてはいけない』と思えなかった。……こんなことうたぎには言えないが、君には伝えておくべきだと思った。俺の真実として」

 僕はその話を聞き、そこまで納得できなかった隙間にピースが一つ嵌まるのを感じていた。

 真面目な人格者である礼治が実の妹である礼を助けるためになかなか動かなかったのは、彼自身が礼に対して謎の恐怖心や違和感を抱いており、その感覚を母親と共有していたから、ということだろう。礼治は礼にではなく、母親の方に共感していたのだ。でも、それってどういうことだ? それに、礼は刺される瞬間も「笑顔」だったって……なぜ?

 なんとなく不吉な予感を感じながら、僕は思考を巡らせる。礼が笑っていたのはなぜか? 彼自身の言うとおり、錯乱した礼治の見た、ある種の幻だったのかもしれない。母親の手による妹の殺害という悲惨な状況に直面した際、彼の精神は限界に近かったそうだから。……ただ、仮にそれが彼の見た幻覚ではなく現実だったとして――そもそも死んでいる人間が表情筋を動かし、笑顔を作るなんて不可能な話か。

 いや、礼治が来た時点で死んでいた、と確定するのもまだ早いか? 母親に刺された礼には実はまだ息があり、意識もあったけど、礼治のナイフでとどめを刺されたみたいな。

 でも、それでどうして「笑顔」になるのだろう……? 母親に殺されるよりも礼治に殺された方がよかったってことか? いや、殺されて喜ぶ人間なんて、いるはずが――。

 ハッ! としたのは、僕と礼治、同時だった。「どうした?」と言う礼治に「ごめん、先に言って」と返事をすると、礼治は「悪い」と頭を下げた。そして、僕に向かって恐ろしいことを言ったのだ。



「これだけ、どうしても言わせてくれ。俺たちの名前って、双子でもないのに、『礼治』に『礼』で……変だと思わなかったか? どちらも母親がつけた名前で、一応は画数で決めたそうでな、もし他人に名前の由来を訊かれたら、そう答えるように言われていた。だけど、本当は違うんだ。俺が母親と二人きりの時に教えてもらったんだが、俺の名前は画数を調べて大切につけたのに対して、礼の名前は、つけようとしても、『何も思い浮かばなかった』らしい。その顔を見ても、腕に抱いても、ミルクをやっても、母親は、礼に対して言葉にできない恐怖しか感じることができなくて……だから、『しょうがなしに』俺の名前から一文字とって、名前にしたそうだ。……それを聞いた俺は恐ろしく思ったよ。そんなのは母親が、最初からこいつに『こいつ』自身としての生き方を求めていないと、最初から期待していないと言ってるようなものじゃないかと……。でも、母親は冗談とかではなく、礼の存在を否定したいんだと後からわかった。無視をしたり、暴言を吐いたり、とり憑かれたように暴力を振るったりする母親は、本気で自分の産んだ娘を、『なかったこと』に――『ゼロ』にしたかったんだ」




 花瓶を抱えて窓辺に立つ少女は、依然として、斜陽の中で微笑んでいる。開いた窓から吹き込む風がやわらかく僕たちを包み、彼女の膝丈のスカートは穏やかに膨んでいる。

「『偶然にしちゃ、でき過ぎている』んだよ……全部。君が殺された時のことも、君が僕に見せてくれた『夢』も。君の生前の名前が『れい』で、今の名前が『ゼロ』なことも、全部、不思議なくらい繋がっていて。そう、まるで『運命の糸』みたいにさ」

 僕の言葉を聞いても、彼女は微笑を浮かべたまま動かない。僕は心臓の辺りを手で押さえる。額に嫌な汗が滲んでくるのを感じた。

「もしかして君は、『礼治に殺された』んじゃなくて、『自分で望んで礼治に殺された』んじゃないのか? 君は、もしかして、最初から死にたかったんじゃないのか……? それが叶ったから、『笑顔』だったんじゃないのか? もしそうじゃなかったとしたら、君は、どうして『笑っていた』んだ?」

「……」

 僕は彼女に向かって、一歩踏み出した。

「ねえ、ここが『Lの世界』でも『夢』の中でもないとしたら、ここはどこなんだ? 君は、それを説明できてしまうのか? もしそうだとしたら――君は何者なんだ?」

「…………」

「ねえ、答えてよ」

 彼女は無言のままで僕を見つめる。その黒い瞳は、見ていると自然と気持ちが凪いでしまう――のが、怖かった。その穏やかな瞳に惑わされていると、すぐに彼女に「持っていかれそう」になる。今なら礼治の言っていた「違和感」が、「恐怖」がわかる。彼女の無言の微笑は、今や、僕の心に言いようのない不安感しか与えなかった。

 と、その瞬間。



「――やっと、辿り着きましたね」


 

 脳内に。

 彼女の声が直接響く。

 それは、ほんの一瞬のことだった。

 だが、ハッと我に返った時、僕は自分の目を疑った。


 目の前にいた「彼女」は、「ゼロ」へと成り代わってしまっていた。

 真白の瞳。そして真白の、珠のような髪飾り。二つにくるんと結んだ後ろ髪は蝶々結びをしたかのようなシルエットで、ところどころにフリルのついたメイド服の首元には、ふわふわの白いスカーフと、紫色のブローチがあしらわれている。

 制服に身を包んだ「阿部礼」を、僕は目を離さず、それどころか睨みつけるように見ていたのに。しかし、瞬きを一つする間に、「そこにいた」。マスターの従順で聡明な従者である――「ゼロ」という名の、可憐な少女が。

 突然のことに動揺し、僕は思わず後ずさる。と、体が後ろにガクンと沈んだ。

「っ、な……っ!」

 さっきまであった足場がなくなっているのだ。近くにあった机を掴もうとするが、僕が手を伸ばした瞬間にしゅわんと消えて空を切る。

 教室の壁や天井が、パタパタパタッと乾いた音を立てながら高速で裏返っていく。まるでドミノ倒しのように、見えていた世界が深い黒に塗り潰されて、気がつけばそれは際限のない闇となってどこまでもどこまでも続いていた。

 スローモーションのように背中から沈んでいく僕は、暗闇に吞まれていく恐怖を感じながら、同時に言いようのない懐かしさと安堵に包まれ、そして目を閉じた。

 ――ああ、僕はこの感覚を知っている。

 どぷん、と海に突き落されたような感覚に、全身の力を抜いた。無駄な力を抜いてしまえば、あとはつま先からとろけていくようだ。

 自分の「体」がなくなり、「僕」という自己認識の境界までもがとろんと溶けて曖昧になっていけば――。

「最初に来た所だ、ここ――」

「左様でございます」

 声の聞こえる方に目をやると、遥か上方に、ゼロの体が浮いていた。暗闇の中なのに、その姿はぼうっと白く浮かんでよく見えた。

「ゼロ……、君もここに来たことがあるの?」

 僕の言葉に、ゼロは黙ってにこりと笑う。

「ここがどこなのか、君は知っているんだよね……?」

「ええ」

 ゼロはすいっと、泳ぐようにこちらに近づいてくる。額と額が近づき、ぶつかる、と僕が思った瞬間。彼女は白くて細い腕を広げ、そのまま僕を抱き締めた。

 と、ゼロの体が、大量の光の粒になって弾け飛んだ。

 ぼぼぼぼっ! と爆発するような光の煙に巻き込まれ、僕は目の前が真っ白になる。


「ようこそ、『私』の――『ゼロ』の中へ」


 脳を震わせるように届く声。辺りには白だけ広がっていて、ゼロの姿は見当たらない。が、不安はなかった。「近くにゼロがいる」という感覚が確かにある。いや、むしろ、自分とゼロの意識がシンクロし、「僕」と「ゼロ」が同じ存在になってしまったような感覚。そして、ずっと前から僕はこの感覚を知っており、これとともに生まれてきたかのような――そんな感覚に包まれていた。

「『0』の中……」

「貴方は、『ここ』がどこであるのかを問いましたね」

 ゼロの声が頭に響く。僕は頷いた。

「そして、私が何者なのかということも。――答えは、どちらも同じです。『ここ』は、あらゆる世界と世界を繋ぐ、『世界の交差点』という空間です。そして、その空間こそが、『私』なのです」

「『空間』が、『君』……?」

「左様でございます」

 視界の端がチカリと光った。

「『Lの世界』と『Rの世界』の名づけをした貴方には、教えて差し上げましょう。『私』が『私』として――『ゼロ』という名の器を与えられる前から、そして、『阿部礼』として貴方がたの世界に生まれ落ちる前から、『私』という意識が見てきた物の、そのすべてを」




 それは、まるで神話のような話だった。



「『私』が『私』であるという意識」。

 それが、「ゼロ」でも「礼」でもない――「彼女」の起源だった。



 彼女は、実体のないただの「概念」だった。そして最初は、彼女は「『私』が『私』であるという意識」すら、持っていなかった。

 「彼女」という概念はずっと暗闇の中にあったのだが、彼女はその際限のない暗闇のどこからどこまでが「私」自身であり、どこからどこまでがそれ以外なのかを知らなかったし、そんなことを自覚する必要もなかった。それに、「私」という意識に範囲があることを知る由もなかった。彼女は暗闇全体だったから。

 だが、ある時、「全体」だった彼女の一部に、彼女ではない「異物」が混じり込む。

 「異物」という感覚に目覚めた時、初めて彼女は暗い広がりの中に、「私」という名の範囲と境界があることを自覚した。

 「他者」の存在により、「自」と「他」の境界に目覚めた彼女の「自」の部分こそが、今の「彼女」だと言う。そして、「彼女」が「彼女」としての範囲を認識するきっかけを与えた「他者」というのが、他でもない、「マスター」だったと彼女は言った。

「それって、『古壱うたぎ』のこと?」

 僕が質問をすると、彼女は静かに否定した。

「いいえ。『間違っている』とは言い切れないのですが、『私』がRの世界でお会いした『古壱うたぎ』様とは、また別の存在です」

「じゃあ、僕の知らない人ってこと……?」

「いいえ、それは違います。貴方は『古壱うたぎ』様の姿をした『マスター』と、すでに会っていらっしゃいます」

「『古壱うたぎ』の姿をした、『マスター』……」

「左様でございます。『マスター』は、私が彼に会った時から今に至るまで、『彼自身』の実体を持っていません。貴方の会った『マスター』は、『古壱うたぎ』様の姿を借りて実体化しているだけで、両者はまったく別々の存在なのです」

「『君』と『阿部礼』と『ゼロ』は繋がっているけれど、『マスター』と『古壱うたぎ』は繋がっていない……?」

「ええ。『古壱うたぎ』様のことは、この後にお話しいたしますので――まずは、『マスター』と『私』の話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」



 暗闇の中、「概念」と「概念」として、彼女とマスターは出会いを果たす。彼女は「自分」の中に現われた、初めての「他者」の存在に感動し、興味を持った。

 実体も言語も持たない二人は、不思議な力で意思の疎通をすることができた。意思疎通をする中で、彼女は彼がどうしてそこに現われたのか、彼自身も知らないことを知る。

 だが彼は彼女とは違い、「他の世界」の存在を知っていた。彼は無知な彼女に、その不思議な力で自分の知っていることを語り聞かせた。

 自分たちには「実体」がないが、別の世界には「実体」という器を持つ存在がいるということ、その世界には様々な器があり、器の大きさや容量はその世界によって異なるということ、逆にその尺度の数だけ「世界」があるということ。自分たちはそのどれにも属さないが、器を持たないがために、どの世界にも干渉することができること。彼はそれを彼女に説いたり、時には彼女を実際にあらゆる世界に連れて行くことで、そこにある様々な物質や、そこに生きている様々な生命を見せてやったりした。

 彼女は彼女以外の存在を見たことがなかった。そして彼女以外の世界を知らなかった彼女は、彼に連れられ、初めて「彼女自身」の外側へと連れ出された。そこには新しい世界や、あらゆる物質、存在が、色とりどりにあふれ、統合され、輝いていた。同じ概念である彼とともに様々な世界を移ろい、見たり、ふれたり、感じたりするたびに、彼女は心が躍った。彼女は彼にその感覚を「喜び」だと教えられた。

 彼女は「自分」という暗闇しか知らなかった。彼女は「自分」とは違う仕組みや様式で存在する、光に満ちていて鮮やかな世界を知るごとに「自分」を比較させ、相違点を見つけることで、「自分が何であるか」という意識の輪郭をはっきりさせていった。それは、「自分」という意識が芽生えてから間もない彼女にとって非常に楽しい工程で、彼女はしばらくその遊びに夢中になった。


 しかし、そうやって遊んでいくうちに、彼女の中にはとある感情が生まれてしまう。

 それは、「孤独感」だった。「実体を持たない」という、他の存在者とは決定的に異なる彼女の特徴は、最初は彼女にとってはつまらない、当たり前に持っている属性だったが、彼女が様々な世界と出会い、あらゆる尺度や「器」を持つ存在者を見るたび、それは彼女のコンプレックスとして次第に肥大化していった。


「いいな、『器』があって」

 彼女がぼそりと呟くと、マスターがすぐに反応した。

「『器』が欲しいのか?」

 実体のない彼女が頷く。彼女にとって初めての羨望――「欲」の感情を、同じく「概念」であったマスターは、すぐに理解して受け止めてくれた。

「お前が望むなら、お前の一番気に入った世界に、お前だけの『器』を用意してやる」

「そんなことができるの?」

「できる。しかし、『器』を持つということは、『限定される』ということであり、『生命に限界を与える』ということでもある。もし『器』が――その世界のお前の『器』が壊れたら、それに入っていたお前が、今のお前として戻ってくることができる保証はできない。――お前は『限界』を迎え、言ってしまえば、『死』を迎えるかもしれないが、それでもいいか」

「もちろん、マスター」

 彼女は彼の提案を心から受け入れた。

「私は『限界』を手にしてみたい。『限界』を持っている物は、楽しそうで、美しくて、愛おしいから。なれるなら、私もそうなってみたい。――『限界』を持つことで、私の感じたことのない、『幸せ』を感じてみたい」


 そうして、実体のなかった彼女は僕たちの世界を選び取り、「阿部礼」という名の「器」を持って生まれてきたのだ。

 そしてそれが、マスターの起こした、初めての「世界の交差」だったというわけだ。


「無数にある世界の中で、この世界を選んだ理由は――この世界の『器』が他の物より小さかったからです。他の世界にはもっと大きい『器』もあったのだけれど、『器』を持たなかった私は、とにかく小さな『器』を欲していました」

「僕の生きている世界の『器』が、どの世界の物より小さいの?」

「いいえ。もっと小さな世界も、逆に大きな世界も無数にあります。ですが、私はこの世界を選びました」

「どうして?」

「『幸せ』を感じてみたかったのです」

 彼女は呟いた。

「この世界の存在者が所有している、『器』という限界から生み出される『幸福』という感情を、私は感じてみたかったのです。私はその時、自分が『器』という限界をもたないがために、存在していることに喜びを見出すことができず、そして幸福という感情を得ることができないのだと考えていました」

 彼女の声は無機質だったが、どこか寂しそうな響きも持っていた。

「だから、『器』さえ得ることができたら、今まで見てきた存在者のように幸福を感じることができると思いました。ですから私は『器』を、『器』がないと存在することがない世界での生を願ったのです。――ですが、与えられた『器』に入ったところで、私は結局『私』であり、『人』ではありませんでした」

 私はやはり、人間という「器」に収まることはできなかったのです。と、彼女は感情のない声で言った。


 マスターの力、「世界の交差」によってRの世界に生まれ落ちた彼女は、「器」は与えられたものの、完全に「人」になることができなかった。その精神は、あくまで「概念」として存在していた頃の「彼女」のままで、自分がこの世界ではなく別の世界に存在していたことも、自分が今ここに存在するのは自分がそう「願った」からだということも、彼女は母親の腹の中にいる時から知っていた。

 そして不思議なことに、彼女には軽い未来予知のような能力が備わっていた。

 具体的には、「自分は今回のテストで平均より少し上の成績を取る。そのため、先生に目をつけられることもなく、他の生徒から特別注目されることもなく、さらに親も文句を言ってこない」、と予見するとする。すると、実際にテストを受けた際、彼女は自分があらかじめ見たとおりに平均より少し上の点数を取り、また周囲からの反応もあらかじめ見ていたとおりだった――という、最初はその程度だった。

 そのような能力がどうして自分に備わっているのか、彼女は理由を知らなかったが、初めの頃は見ることのできる未来の範囲も具体性もまちまちだったため、「他の人とは違う、不思議な力」くらいにしか考えていなかったそうだ。

 「阿部礼」としての生の前に、「私」としての生があったことを知っていた彼女。そして、未来予知という人間ならざる能力を持って生まれた彼女は、最初こそ「器」を持つ存在者としての日々を楽しみ、それを与えてくれたマスターに感謝しながら生きていた。が、成長するにつれて自分の予測できる「未来」の範囲が広がっていった彼女は、次第に、「人」としての生に飽きていった。

「その頃にはもう、母親から虐待されてたの?」

「ええ。『自分が母親から虐待を受ける』という未来は『見て』いましたから」

「未来を変えようとは思わなかったの?」

「ええ」

 彼女は声の調子を変えずに言う。

「確かに肉体的な痛みはありましたが、私には悲しみや苦しみ、恨みのような感情は発生しませんでした。私には『こうなるのが当たり前だ』という感覚しかなくて、私にできることと言えばただ、自分の見た未来と実際に起きたことが合致していくのを確かめることだけでした。――長い間、私は自分の見ることができる未来のその先にある、最終的な結末を見ることはできませんでした。自分の見た未来と現実の『答え合わせ』を生業とし、それに背かぬよう、未来との整合性をとるために現実を積み重ねていました。そしてある時になって、私は自分に訪れる未来の終着点を見ることができました」

「君の見た『終着点』って、もしかして――」

「左様でございます」

 彼女は穏やかな口調で言った。

「私が見たのは、『私は母親と兄に殺される』という未来です。だから、母親に腹を刺されて兄に心臓を貫かれた時、私は『笑った』のです。『ようやくここまで辿り着いたんだ』という達成感もありましたし、何より――その時初めて、自分がどうして未来を見ることができたのか、自分は何者だったのかを知ることができました。それが、私――『阿部礼』として得ることができた、最後の喜びでした」


 彼女が「自分は母親と兄に殺される」という未来を見たのは、彼女が中学三年生の冬のことだった。

 彼女はその未来を――他のどんな些細な未来と同様に――すんなりと受け入れた。なぜなら、彼女はもっとずっと早くから、自分の母親と兄が精神的におかしくなっていく未来を見ていたからである。

 その終着点が、彼女が想像していたよりもずっと早くやってくること、そしてその結果、「阿部礼」としての器が壊れることを知った彼女は喜んだ。なぜなら、彼女は生に飽きていたから。

 彼女は今までと変わらず、自分の見た未来通りの行動を実行し、まったく同じ未来を手に入れていった。それどころか、当時見えていた「未来」の結末が早く訪れるように、彼女は自分の予知によって把握することができた、自分の「未来」の行動を少しずつ変えていった。

「『人間』も、自分の行為によって未来を変えることができます。ですが、未来を変えても、それが思い通りの結果をもたらすとは限りません。ですが、私が私の望む未来のために行動を変えると、私の見ていた『未来』自体も、私の望んだ『未来』に書き換わったのです。私は自分が見た未来のとおりに行動すれば、必ずその未来を手に入れることができましたし、さらに、自分の目標のため、自分の意志で行動することによって、新たな『未来』を手に入れ、私の望んだ結果をもたらすことができました」

「『望んだ』って、そんな」

 僕は口を挟んだ。見えない彼女に、僕は自分の思いをぶつける。

「それにしても、ひどいでしょ。だって……、君は死にたかったかもしれないけどさ、母親と兄の手を汚したわけじゃん。『殺させて』、『罪を着せた』わけでしょ? 自殺したいなら勝手に一人ですればよかったじゃん。そんな卑怯なこと――」

「彼女たちは『最初からそうなると決まっていた』のですよ」

 彼女は斬り捨てるように言う。

「『母親と兄が私を殺す』ことは最初から決まっていたのです。私はその結末を正しく迎えようと思った。それだけのことです」

「抗おうとは思わなかったの?」

「はい、思いませんでした」

 見えない彼女はこくりと頷いた。

「その時、その理由はわかりませんでしたが――私はその『未来』を見た時、何よりもまず、懐かしい気持ちになったのです。それは『ずっと前からこうなることを知っていた』かのような感覚だったので、私がその『未来』を変えようだとか、『未来』に抗おうだとか、そのような気持ちは一切起きませんでした。……むしろ、私があの世界で感じた数少ない充足感は、その『未来』通りの行動をすることによって『未来』と『現実』を合致させることができたとき、また、予定された『未来』を塗り替えて、その結末までの距離が短くなったときにしか感じることができませんでした。――だから、私は、母親に腹を刺され、兄に心臓を突かれた時、『ようやくだ』って思ったのです。だから『笑った』のです。――それに、私が笑った理由はそれだけではありません」

「……他に、どんな理由が――」

 僕が言うと、耳元で彼女がクスリと笑ったような気がした。

「私はずっと、どうして私は他の人間とは違い、未来を予見したり、さらに自分自身の行動によって未来を変えたりすることができるのか、その理由を知りたかったのです。また、私は私が『人間ではない』ことを知っていましたが、何者であるかは知りませんでした。――ですがそれは、ナイフを持った母親に襲われたあの夜、自分の見た『未来』通りに体を滑らせ、兄のナイフの真下に潜り込んだ時――それがぴったり私の心臓を突き刺した時、私は『私』が何者だったのかがわかったのです。『確約された未来』を見る権利を与えられ、さらに『確約された未来』を自分の望み通りに変えることができる私の正体、それは――」



 ピシッ、と、何かが歪む音がした。


「『運命』そのものだったのです。『確約された未来』のことを『運命』と呼ぶのなら、私はまさに、それでした――ただ、『阿部礼』という器に入っているだけで。私だけが『運命』を変える術を知っていて、私だけが変えることができました。変えようとしているつもりの人間の行動もすべて私にはわかっていて――すべては『運命』の知るところでした」


 僕は最初に牧田先輩とした話を思い出していた。

 ――僕は、自分の「運命」を、「自分の行為の結果に生まれた、選択肢の一つ」だと思ってます。運命っていうのは、生まれた時から死ぬ時まで繋がっている既成の一本なんじゃなくて、何か行為の選択をした時に広がる「可能性」の一つ一つがなんじゃないかって。

 ――じゃあその「行為の選択」は、どのように行われてるの? 自分の意志?

 ――「自分の意志」って、本当に「自分の」ものなの?

 ――え?

 ――「自分の意志」だって思い込んでいるだけで、実はその意志までもが、誰かに作られ、決められたものだったらどうする? 何かある出来事に遭遇することも、そこで選択肢を与えられることも、そこでどんな選択をして、どんな結果になるかってことも、全部決められてたら、どう思う?

 僕が知らないだけで、全部決められていたら。その人によって、その人のためだけに変えられていたら。そんなことができる「人間」がいたら。「人間」じゃない、そんな存在がいたら。

「……それが、君なんだね……?」

 僕の問いに、彼女は頷いたようだった。


「はい。左様でございます」 


 ――僕の頭の中を、走馬灯のようなものが駆け巡る。

 僕が牧田先輩と出会い、「マスター」と出会い、いろいろな「偶然」が重なり合って、彼の真実まで辿り着いたこと。その途中で失敗したり、遠回りをしたりしたこと。奇跡を起こしたこと。

 そのすべてが、もし、「運命の糸」によって、最初から最後まで決められていたとしたら。僕のすべての行動のきっかけも原動力もその帰結も、あたかも「僕が自分の力で選びとった」ものに見えているが、それが本当は「最初からすべて決まっている」ものだったら。

 僕は確かにその「特別」で「非凡」な「運命」を欲していた。レールでも糸でも、自分を何か面白いものに導いてくれる「運命」を欲しがっていた。だけど、僕が「平凡」をつまらないと思ったり、「非凡」に憧れたり、それを求めて勇気を出して、普段は話さないような人間に話しかけたり勇気を出していつもはしない行動を取ったり、それによって「思いもよらない」結果を生み出すのだって、「最初から最後まで決まっている」って言うんなら、さ?

 じゃあ、「僕」の意思ってなんなんだよ。僕が自分の行動を選択すること、僕が僕なりに考えを巡らせることって、本当の意味で、「意味のない」ことなんじゃないか……?

「――話を続けても、よろしいでしょうか?」

 彼女の声に、僕はハッとする。

「少々勘違いをされているようですが、私はすべての人間にとっての『運命』ではありませんし、すべての事物の『運命』を把握しているわけではありませんよ。せいぜい、阿部礼の母親と、兄と、その周辺の人々の『運命』であるくらいです。その先には関与していませんし、関与するつもりもございません」

「え……?」

「つまり、貴方がお考えのような、万能の『神』ではないということですよ」

 その声と同時に、目の前に「ゼロ」が現れた。ゼロは僕の前にふんわりと降り立つと、僕に向かって微笑んだ。

「どうして、姿を……?」

「今の私の『器』をお見せしようかと思いまして」

 ふんわりとしたメイド服に身を包んだ彼女はその場でくるりと一回転すると、僕に向かってにこりと笑う。それはどちらかというと、「礼」の方がしそうな、子どもっぽい動きだった。

「『器』……? あれ、そういえば、Rの世界で亡くなった君は、今は『概念』じゃないの? 何で実体を持ってるの?」

「この『器』は、私と『古壱うたぎ』様で作った物なのですよ」

「『古壱うたぎ』……、あっ」

 僕は不意にゼロの言葉を思い出す。そうだ、こっちの問題は棚に上げたままだった。

「そうだよ、さっき話してる時、『古壱うたぎ』と『マスター』が別人って言ってなかったっけ。それってどういうことなの?」

「そうですね。簡単に言えば、『マスター』は最初に私を掬い上げてくださった人で、『古壱うたぎ』様は、二度目に私を掬い上げてくださった人です」

 彼女はそう言うと、眩しそうに目を細めた。

「どちらも別の存在です。ですが、どちらも確かに、私のことを変えてくださった存在です」


「『君』を変える……?」

 僕の言葉に彼女は振り向く。

「『君』は『確約された未来』――『運命』じゃないの?」

「ええ、そうなのですが……私が『阿部礼』として生きていた世界の中で、『古壱うたぎ』様だけは、違っていたのです。彼は、あんなにも私の近くにいたのに、私の『運命』の干渉の及ばない場所にいた、唯一の人でした。――その点も含めて、もう少し過去のことについてお伝えしましょう。『古壱うたぎ』と『マスター』によって、『阿部礼』が『ゼロ』になった経緯について――」




 「阿部礼」としての生を終えた彼女は、「器」を失った後、かつてのマスターの忠告とは裏腹にもう一度「運命」という概念に戻った。再び実体を失った彼女は、自分が死んだ後に起こるすべての事象を、「空の上から」眺めることができた。阿部礼治と彼の母親が警察に連行されていく場面も、自分の机の上に花瓶が置かれるところも、学校中に、そして町内に、自分の家族の噂が広がっていく様子も。

 礼はそれらすべてに興味を持つことはなかった。自分が死んだ後に母親と兄が、そして自分の周囲にいた人々がどうなるかを彼女はやはり、「すでに知っていた」。

 再放送のドラマを流し見するようにして、それでも彼女がそれらの一部始終を追っていたのは、これから再び過ごすであろう長い年月の、短い退屈しのぎだった。

 だが――それでいて、彼女の目はある一人の存在を追っていた。彼女の視線の先にいた、その人間こそが「古壱うたぎ」だったのだ。

 彼は元気で明るくてよく笑う、おしゃべりと体を動かすことが好きなムードメーカーだった。礼とうたぎは高校一年生の時、初めての席替えで隣同士になったことをきっかけに、二人で話すようになった。交友関係が広いうたぎはおとなしくて控えめな礼とも難なく距離を縮め、それからというもの、彼は不思議と礼に構うようになった。

 礼からすると、古壱うたぎは、礼や礼治のとても近くにいるのにその「運命」を見ることができない特殊な人間だったと言う。礼は、うたぎと出会った時――席が隣になり、二、三の言葉を交わしただけで、「この人は普通の人とは違う」ことに気がついた。それから礼は彼と一緒のクラスで過ごしながら、彼の言動に注意を向けるようになった。

 しかし、うたぎは自分の特殊性に無自覚だった。そのことがわかると、彼女は彼という存在については、いったん静観することにした。「運命」として、身近な人間の未来をあらかた把握している礼にとって、それは本当に「特殊」なことだった。

 うたぎの身近にいながらうたぎの未来を把握することができなかった礼は、逆に、彼という存在から目を離すことができなくなってしまった。

 彼は、礼の思いもよらない行動をする。例えばある時は、彼は教科書を忘れて「ゴメン! 教科書見せてください!」と両手を合わせて懇願してくるだとか。また運動会では「絶対に一位とってくるから!」と礼に向かって親指を突き立ててみせるだとか。

 彼の言動はいつも唐突で、それでいて「読めなかった」。彼に関係するどんな未来も予見することができなかった礼は、うたぎが教科書や消しゴムを忘れたと言う時はいつも驚いた。うたぎが貸してほしいと言った教科書を礼も忘れることがあって、そういった時は別々の人に見せてもらおうかと提案をすると、うたぎは「ちょっと待って!」と叫んで走り出す。突然のことに礼が驚いていると、すぐに戻ってきた彼が「これを一緒に見よう!」と、一冊の教科書を自分と礼の間に置くのだった。また運動会では、礼はうたぎがスタート地点に立つ姿を見ながら、うたぎ以上に緊張していた。いくらうたぎが陸上部で短距離走の選手だからと言って、他の運動部の男子たちを抜いて一位になれる確証は持てなかった。彼女はその結果を予見することはできなかったから。

 うたぎは彼女にとっての「驚き」であり、「喜び」だった。

 間に置かれた教科書を見て「一冊しかないんだね」と言うと、急に真っ赤になって「一人しか貸してくれなかったの!」と弁明するいじらしさが好きだった。誰よりも早くゴールテープを切り、青空に向かって両手を上げる彼の伸びやかな体を美しいと思った。そして、礼の存在に気づいた彼が「見てたー⁉」と大声で叫びながら見せる、屈託のない笑顔をとても好ましく思っていた。

 うたぎは礼治や礼治の母親とは違い、その中身が「概念」である礼に対して違和感や不信感を抱くことはなかった。礼はむしろ、うたぎの言動に驚かされたり笑わされたりすることで、「普通」の女子生徒のように振る舞うことができた。真面目で分別のある礼治にさえ、「うたぎといるときのお前は楽しそうで、安心するよ」とうっかり言わしめるほどに。

 礼は、その言葉が礼治の本心だったこと、そしてそう言ってしまったことを礼治が後悔していることに気づいていた。また同時に、その裏には礼の心を容易く開いたうたぎに対する嫉妬心や、実兄なのに礼と距離を縮めることのできない焦り、自責の念などが含まれていることを知っていた。

 礼は礼治のそのような心情そのものには興味を持たなかったが、それらの心情をうまく利用することで、自分が待ち望んでいる「運命の日」を早めることができると知っていた。

 そのような意味では、うたぎの存在は礼にとって間接的に利用価値のあるものだったが、それ以上に彼は、礼という「運命」を揺るがす可能性のある不確定要素として、礼の傍に存在し続けていた。

 「彼によって『運命』を変えられてしまうかもしれない」という心配から、礼は最終的に逃れることはできなかった。しかし彼女は最終的に、彼女の見た「運命」どおりにこの世界から去ったのだった。

 礼という「運命」は、そこで結末を迎えたかのように見えた。

 しかしうたぎは、彼女という「運命」を再び動かすことになる。



 あてもなく、暗闇の中を漂っていた彼女は気がつくと、自分の中に、未だかつて招いたことのない存在がいることに気がついた。

 「概念」としての彼女にとって久しぶりの感覚。何だろう、と思ってその「異物」の方に注意を向けると、そこには途方に暮れて立ち尽くす、うたぎの姿があった。

「うたぎくん……?」

 それは、そこにいるはずのない存在だった。驚いた彼女は思わず名前を呼んでしまう。その瞬間、彼の体がびくんと跳ねた。

「礼っ?」

 彼は辺りを見渡すと、自分の姿を探しているようだった。……そうか、私の「器」はもうないんだった。彼女は彼を「自分」という暗闇で包み込むと、「どうしてこんな所に?」と訊いた。

「礼こそ! ……よかった、会えると思ってた。っていうかめちゃくちゃ会いたかった……。あれからもう、学校とかいろいろヤバくてさ、警察も町の人も大慌てで、クラスや部活もそうで……。うちの学校の評判も下がってるみたいでさ、三年生の受験とか、俺たちの受験とか、いろいろ影響があるかもしれないって先生たちが言ってた。受験とかは正直どうでもいいけどさ、もう全部めちゃくちゃで、こんなの、ひどいよな……」

 泣きそうな声で、その場に崩れ落ちそうになりながら、必死に言葉を絞り出すうたぎ。彼の周りで起きていたあらゆる事象を見ていた礼は、「知ってるよ」と言いそうになったが、それが伝わらないように「そうなんだ」と促した。

「俺、いろいろ信じらんなくて。礼治先輩が礼を殺すなんてありえねえって、許可をもらって留置所にまで行ったんだぜ。でも、先輩は否定しなかった。『間違いなく俺がやった。母親を殺そうとして、代わりに礼を殺してしまった』って……、おかしいだろ普通! なんでそんなことになる前に相談してくれなかったんだって思うだろ! そしたらもう『帰れ』しか言わなくなるし……ッ、さあ……ッ!」

 怒りの感情を抑えきれず、小刻みに震えながら話すうたぎの姿を見ながら、礼は「それも知ってるよ、うたぎくん」と、聞こえない所で呟いていた。

 礼は留置所でうたぎと礼治がした、その最後の会話の様子も見ていた。あなたの無罪を信じたいんだと涙ながらに叫ぶうたぎと、頑なに自分の本心を話そうとしない礼治。最後は、そんな礼治の態度に逆上して掴みかかろうとしたところを、見張りの警察官に取り押さえられて強制的に退出させられていたが、礼はそれを見ながら、「どうして彼は他人なのに、自分や兄のことについて、必死になって怒ることができるのだろう」と思っていた。

「――うたぎくん、あなたはどうしたい?」

 彼女は、かつて自分がマスターに訊かれたのと同じように、小さく震えているうたぎに問いかける。

 すると、うたぎはバッと顔を上げて、大きな声で叫んだ。

「そんなの決まってる! あの事件を、礼治先輩がやったことをなかったことにしたい。そんで、もう一度礼と生きたい! 先輩が守ってくれないんだったら、もう、俺が礼を守るから! 礼が戻ってくるなら何がどうなったっていいから!」

「どうして、私のことを、そこまで……」

「だって俺は‼」

 こぶしを握って彼は咆哮する。

「ずっときみが好きだったんだ! 一生一緒にいるつもりだった! ……今だってそう思ってる‼ 俺は礼のことが好きだ‼ 大好きだからこんなにつらいんだよ‼」

 その時彼女は、自分の見たことのない「未来」が見えた。暗闇は突然真っ白な光となり、うたぎの体を、そして彼女自身を、白く、眩く塗り潰していく。



 その時、二度目の「世界の交差」が起きたのだ。



 ――うたぎが目を覚ますと、すべてが元通りになっていた。

 学校もクラスも、町も、警察も、すべてが「阿部礼治」と「阿部礼」のことを忘れていた。センター試験や校外模試を控えた生徒たちは他愛もない会話をしながら廊下を歩いている。教室ではクラスメートたちがその日の授業の予習をしたり、楽しそうに笑い合ったりしていた。

「オハヨーうたぎ!」

 教室の入り口に突っ立ったうたぎの背を、友人の一人がぼーっとすんなよと言いながらすれ違いざまにバシンと叩く。

 そいつは迷うことなく、昨日まで花瓶の置かれていた、礼の席に着いた。うたぎはそれを見た瞬間に、すべては、自分が望んだとおり、「なかったこと」になったと知った。

 うたぎはあらゆる人間に確認し、その町から「阿部礼治」と「阿部礼」が消えたことを確認した。二人の幼馴染み、絵子と竜二にも確認しようと思ったが、直接確かめるまでもなく、廊下で見かけた彼らはそれぞれ別の友人たちと楽しそうに話していた。

 殺人事件どころか、二人の高校生の存在を忘れても平然と世界は回った。うたぎはその中で一人だけ、まるで人が変わったように勉強に没頭した。人付き合いをやめた彼は友人を避けるようになり、同時に部活もやめた。その唐突で急激な変化を彼の友人や親は非常に心配したが、彼はそれらすべてを拒絶し、淡々と受験勉強に励んだ。そして彼は一年後、その次の春には地元の国立大学に難なく合格を決めていた。

「礼」

 うたぎは「世界の交差」を起こした日以来、夢の中で、何度も礼の名前を呼ぶようになっていた。

「どうしたの? うたぎくん」

 名前を呼ばれると、礼はいつもうたぎの夢の中に出るようになっていた。正確に言えば、礼は彼が眠っている間だけ、「自分」という暗闇の中に彼の意識を呼び込むことができたのだった。

 高校二年生の時よりも髪が伸び、感情の起伏がなくなった彼は、姿の見えない彼女に向かって、目を細めて微笑んだ。

「聞いてくれよ。俺の考えてること」

「うん、いいよ」

 礼は、彼が彼の世界で行っていること自体はずっと見ていたが、彼の考えていることは、言ってもらわなければわからなかった。彼女が彼の言葉を待っていると、彼は自分の胸に手を当てて、静かに言葉を紡ぎ出した。

「俺、工学部に入ったんだ。ここでは機械とかロボットとかの研究ができるらしい。なあ、俺が頑張ったら、もしかしたら礼の『器』を作れるんじゃないか?」

「『器』?」

「ああ」

 うたぎは静かに頷くと、言葉を続けた。

「毎日こうやって、ちゃんと礼と話せてる。そのたびに違う話ができるし、ただの夢にしちゃ、はっきりし過ぎかなって。――なあ礼、きみはもしかしたら、まだ生きてるんじゃないか。形はないけれど、もしかして、また俺の世界に戻ってこれるんじゃないか」

「死んだら、『普通』は戻れないんだよ」

「でも、こうやって話ができてる。だから俺は、信じてる。俺はきみが戻ってくる時の体を作る。時代は進歩し続けてるから、もしかしたら、俺が勉強してる間に意志を持つロボットくらい現れるかもしれないだろ。現れなかったら俺が作る。もし完成したら――俺ともう一度、一緒に生きてくれるだろうか」


 それから数年が経ち、うたぎが大学での研究に行き詰まった頃――彼女は久しぶりに「マスター」を呼んだ。彼女が自分の暗闇に、彼を呼ぶのは久しぶりのことだった。

「もう一度あの世界に行きたいのだな」

 彼女の中に再び現れた彼は、挨拶もなしに彼女の気持ちを確かめる。二人は概念同士だったから、唇を動かしたり声帯を震わせたりしなくとも、自然と意思疎通をすることができた。

「うん……。でも、どうしたらいいんだろう。『私』はたぶん、うたぎくんの用意してくれた『器』には収まりきらないと思うの。『私』として、『人間』として生きていくには不十分だと思う。……だけど、試してみることはできないかな。うたぎくんの用意してくれた『器』に入り込んで、もう一度あの世界で、彼と一緒に暮らせないかな……」

「今のあの世界の『器』では、無理だろうな」

 礼より多くの世界を、そしてその仕組みを知っているマスターは斬り捨てるように結論を述べる。しかし、彼は続けてこう言った。

「だが、試してみる価値はある。――『うたぎ』とやらと話をさせてくれ」


 その夜、「彼女」の力によって引き寄せられた二人――マスターと古壱うたぎは、うたぎの夢の中で初めて出会った。

「なんだ、これ……」

「お前が『古壱うたぎ』だな」

 実体こそそこにないが、明らかに礼とは異なる存在がそこにいることを察知して、うたぎは身構える。長く伸びたボサボサの髪に、黒いタートルネックと黒い長ズボン。全身真っ黒な服に身を包み、高校生の時から数センチ身長の伸びた彼は、その年の初夏に成人していた。

 マスターは彼を観察しながら言葉を続ける。彼女は、二人が会話する様子を黙って見守っていた。

「誰だ、お前……」

「さあ、誰だろうな。だが、お前と礼の望みを叶えてやることができるかもしれない。それをお前に伝えに来たんだ」

「礼を知っているのか!」

「ああ」

 すっかり黒く濁っていたうたぎの目に、わずかに光が点る。マスターはそれを確認すると、少し微笑んだようだった。うたぎは気づかないだろうが、彼女は確かにそう感じていた。

「俺の力を使えば、『礼』をもう一度そちらの世界に届けられるかもしれない」

「本当か!」

「ああ。……ただ、それには多大な時間を費やすかもしれない。それに、俺だけじゃなくてお前自身の技量も必要になる。俺は、必ずしも『お前の望みを叶えてやる』ことはできないだろう。――それでも、試してみるか」

「やってやる‼」

 うたぎは掴みかかるように言った。

「何だってする! 俺にできないことだってやってみせる‼」

「――そう言うと信じていた」

 マスターが言った瞬間、パンッ! という破裂音とともに、辺りが光に包まれる。あまりの眩しさに顔を背けたうたぎが目を開くと、そこには「もう一人のうたぎ」――古壱うたぎの形をした、マスターの姿があった。

「やはり俺には、『お前の望みを叶えてやる』とは言い切れない」

 うたぎの形をしたもう一つの実体は、静かに片腕を伸ばす。そして元のうたぎの頬に触れると、その真っ黒の瞳を覗き込んだ。

「ただ、尽力してやる。俺がお前の世界に行って、お前が作ろうと考えている機械を完成させられるか、試してきてやる。その間、お前はここで礼と一緒に、俺の欲しているエネルギーを集めることに尽力しろ。この『中』であれば、お前と礼さえ望めば、礼が存在するための『器』を作ることができるはずだ」

「礼に触れられるってことか?」

「そう望むのであれば」

 そう言った瞬間、再びパンッ! と小さな破裂音がして、「彼女」が実体化した。それは、フリルのついたメイド服に身を包んだ「ゼロ」だった。

「礼……?」

「うたぎくん!」

 叫んだ彼女にうたぎは駆け寄ると、柔らかな衣服ごと彼女の体を抱き締めた。

「礼……っ!」

「俺は、『奇跡』を起こすことができる」

 黒曜石のような瞳の中に、マスターは「光のチップ」を浮かべている。その特徴的な瞳で彼らを見つめながら、マスターはうたぎの声で静かに言った。

「だが、今度は、俺とお前で『奇跡』を起こそう」

 彼の言葉に、メイドの少女を強く抱き締めたままでうたぎは激しく頷いた。

「もちろんだ! 礼のためなら、『奇跡』だって何だって起こしてやる‼」




「『マスター』と『古壱うたぎ』が別人っていうのは、そういうことか……!」

 ゼロの話によって、僕の中にあった違和感は次々と解消されていく。

 まず、僕が首を絞められている時に見た、「マスター」の瞳の中の「光のチップ」。僕はあの時からすっかり存在を忘れていたが、話を聞いているうちに思い出した。

 よく考えてみれば、Rの世界にいるマスターの瞳の中に、Lの世界の住人の目印とも言える「光のチップ」が浮いていたのはおかしかったのだ。普段は長い前髪の下に隠れているからわかりにくいものの、本当は最初から――概念であるマスターが古壱うたぎの姿を伴ってRの世界に現れた時から、今に至るまで――マスターはLの世界の住人、いや、それすらも超越するような存在だったのだ。

 さらに言えば、これは確証がないためあまり根拠にしないようにしていたのだが、僕は「世界の交差点」で出会った「マスター」よりもRの世界で出会う「マスター」の方が、なんとなく落ち着いているように感じていた。それに、二度目に会った「マスター」――鍵を拾ってくれた時のマスターが、まるで僕を知らないかのような態度をしたことに違和感があった。あれは「古壱うたぎ」と「マスター」が別人だと考えたら説明はつく――が、次に会った時、彼は僕を名前で呼んだよな。

「マスターが貴方の名前を知っていたのは、『サインイン』をした人物の情報が、創作部から報告が上がることになっているからです」

 ゼロはいとも簡単に僕の思考を読み取ると、僕の返事を待たずに言った。

「マスターの家にお見えになった時、貴方はすでに入部を済ませていました。創作部部員は、生徒の入部を受理すると、すぐにマスターにメールを送ることになっています。そのメールには名前や性別、学年等の簡単なプロフィールを記載することになっているため、対面したことはなくとも、名前を把握していることは大いにありえます」

「ふーん……。じゃあ、うたぎとマスターって意識を共有しているわけじゃないんだ?」

「ええ。お二人はもともと、別々の存在ですから」

 僕の頭の中に浮かんだ疑問点に、ゼロは的確に答えていく。

「今、古壱うたぎ様はマスターに指示されたとおり、『世界の交差点』に訪れた人々から『想像力』を集めています。そして、Rの世界にいらっしゃるマスターは、彼のご自宅にある機材を使い、概念である『私』がもう一度、この世界の存在者たり得るための『器』を製作しているのです」

「でもさ、『世界の交差』を起こせるマスターが、どうしてちゃちゃっとそういう機械を作れないの? それこそ『世界の交差』でもう一度『器』を作るっていうのは無理なんだっけ」

 僕は牧田先輩に言われた言葉を思い出しながら喋る。ゼロは僕の言葉に頷くと、「貴方はマスターが『想像力』を欲しているのをご存じですね」と前置きをした。

「なぜマスターが『世界の交差』によって、もう一度Rの世界に『私』を転生させることができないかと申しますと、マスターが、『私』という存在に対して行使することのできる『奇跡』を使い果たしているからでございます。マスターは彼自身の『奇跡』によっても『世界の交差』を行うことができますが、その『奇跡』は無尽蔵というわけではございません。一度消費をしてしまうと、再び十分な量が溜まるまで待つ、あるいは別のところから集める必要があるのです。その代替エネルギーを、マスターは『想像力』と呼んでいます。マスターは概念の私を、彼自身の奇跡、一度目の『世界の交差』によってRの世界に現前させました。さらに間もなく、マスターはうたぎ様の『想像力』を媒介として、二度目の『世界の交差』を行いました。あの世界から阿部礼治と阿部礼が消失したのはうたぎ様の『想像力』による二度目の『世界の交差』の結果ですが、私が『ゼロ』として、Lの世界においてのみではありますが、再び実体を得ることができたのはマスターのわずかな『奇跡』による、ある種の取り計らいでした。……うたぎ様の『阿部礼をもう一度世界に取り戻したい』という願いを叶えるためには、特にうたぎ様にとって相当な時間がかかることを、マスターはわかっておられました」

 今、ゼロがこのような実体を伴って存在していることは、マスターからのうたぎへの贈り物であり気休めなのだろう。ただまあ、それによって残ったわずかな想像力を使用してしまい、うたぎの本当の願いが叶うまでの期間が延びてしまっているのなら本末転倒だと思うが。

「現在マスターが試みているのは、うたぎ様が作成していた『器』の調整です」

 彼女の言葉が僕の思考を遮る。

「ただ、マスターは、今は『Rの世界の器』に入っているため、以前のように世界を概観したり、概念である『私』と夢以外の場所で話したりすることはできません。またそのため、起こせる『奇跡』も限られています。そのような、ほぼ『人間』であるマスターがされているのは、うたぎ様が集められた『想像力』――マスターにとっての『奇跡』のエネルギーを補充をしつつ、うたぎ様の用意してくださった機械を、Rの世界における私の新しい『器』とするための調整なのです」

「じゃあ、マスターは今、『人間』の体のままで、Rの世界で、『ロボットを喋らせる奇跡』を起こせるかどうか試してるってこと?」

「左様でございます」

 ゼロは静かに頷く。

「うたぎ様は、『私』という意識をそのままRの世界に呼び込みたいとお考えです。『私』はもともと実体を持たずとも存在することができますから、『私』が『私』のまま入ることのできる『器』がRの世界にありさえすればよいのです。マスターにおかれましても、『かつてRの世界に存在していた者を再びRの世界の存在者にする』ことよりも、『ある対象に、別の存在者の魂を宿す』ことの方が容易であると仰っていました。その方が、集めるべき『想像力』が少ない、そのため実現する可能性がより高いだろうと」

「……残念だけど、そんな『奇跡』は起きないんじゃないかな」

 僕は、先ほどから思っていたことを言葉にした。

「この世界――Rの世界の『器』がかなり小さいことは君も知っているんだろ。僕たちの世界にはさ、言うなれば『科学』っていう『器』があって、その法則に従わない事象は『非現実』として存在しないことになってる。『機械に魂を入れる』っていうのはたぶん、その法則に従わない事象だよ。だから、マスターがどんなに頑張ろうと、少なくとも『この世界』においては叶わないよ」

「『この世界』において、家がまるごと別の家に変わってしまっている現実をご覧になっても、そう思われますか?」

「っ、」

 ゼロの突然の反論に、僕は言葉が詰まる。

「貴方は『非現実』の範囲をどのように定めていらっしゃいますか? 死んだ人間が生き返ることでしょうか、それともロボットが喋ることでしょうか。『世界の交差』のことでしょうか、それによって異世界の存在が異世界の存在として現前することでしょうか。貴方がいる世界とは別の場所にいる存在者は、『非現実』ですか?」

 彼女はこちらに歩み寄り、冷たい指を僕の頬に這わせる。そして真白の瞳で僕を見つめた。

「貴方は、貴方が『非現実』だと判断していた事象をいつの間にか受け入れ、『普通』にしてしまっています。マスターは私に、『普通』というものは『慣れ』なのだと仰いました」

 彼女の語調は穏やかだったが芯があり、それはやはり僕の頭の中に直接響いてくるような声だった。

「最初は、すべてが『ありえないこと』なのです。ですが、その『ありえないこと』は重なることで『普通』になっていきます。貴方が『世界の交差』を次第に受け入れていったように、マスターはご自分の存在が、『Rの世界』にとって当たり前になることを願っています。だから、わざわざご自身とうたぎ様を入れ替え、『別世界の住人が存在している奇跡』を体現することで、これから起こしたいと願う『奇跡』を、Rの世界に受け入れさせ、『普通』にしようとしているのです」

 彼女はそこでようやく微笑んだ。彼女にとって数少ないであろう、かけがえのないものを思う眼差しだった。

「……私が『運命』そのものであるならば、彼は、『奇跡』そのものなのでしょう」




 一通りの会話を終えた僕たちは、もうそろそろ、「僕」の夢が覚めてしまうことを予感していた。

「聞いてもいい?」

 僕が言うと、彼女は「どうぞ」と促した。

「さっきさ、『マスターとうたぎはまったくの別人で、意識を共有していない』って言ってたけどさ、それって二人が入れ替わった時からそうなの?」

「左様でございますね」

「……じゃあさ、どうして『マスター』は泣いたの?」

 僕が言うと、ゼロは少し驚いた顔をしたが、「どうしてというのは?」と聞き返してきた。

「だって、マスターとうたぎは赤の他人で、『マスター』は礼治に何の思い入れもないんでしょ。そしたら、何でマスターは礼治の言葉を聞いて、怒ったり、泣いたりしたんだろうって気になってさ」

「――『器』に感情が残っていたのでしょうね。『古壱うたぎ』様という『器』に残っていた感情が、心を強く揺さぶるような貴方の言葉に反応して、出てきたのだと思われます」

 僕は彼女の返答に「ふーん」と短く返す。感想でも言おうかなと思ったけど、別に口に出さなくてもいいやと思った。そもそも、彼女には筒抜けだろうし。僕は別に、彼女を責めたいわけでも、うたぎと礼治を仲直りさせてやりたいわけでもないからね。必要があれば彼女の方から、伝えるべきどちらかに伝えてもらえるだろう。

 ……というプレッシャーを与えつつ、僕は彼女の顔を窺った。彼女は困ったように笑うと、「さあ、」と言った。どうやら、この場で話すつもりはないようだ。

「お別れの時間です。もう疑問はありませんか」

「わかんない……けど、」

 また会えるだろうか、と聞こうとした瞬間に、僕は大事なことを聞きそびれていることを思い出した。

「そう、最後に一個だけ! あのさ、僕が『君が欲しい』って言った時、代わりによこしてきたやつがいるでしょ。知ってるよね?」

 僕が早口でまくしたてるのに対し、彼女はずいぶんと落ち着いている。

「ええ。存じ上げておりますよ」

「あいつ、何者なの? やっぱ君と関係があるの? その割にはいい加減な性格してるんだけどさ、あいつって――」

「もしよろしければ、『お繋ぎ』いたしましょうか?」

 彼女はあっけらかんとした口調で言う。と、その瞬間、ピシピシピシ……ッという小さな音が聞こえると、ドガァン! という爆発音とともに、上から砂が落ちてきた。あれだ、一番最初にマスター――『古壱うたぎ』に会った時と同じだ!

「っ、タイムリミットってこと……っ」

「左様でございます」

 ゴゴゴゴゴ……という地響きのような低い音、ザーッという砂が流れ落ちてくる音、パキパキッと何か硬い物がひび割れていく音。僕は降ってくる砂を掻き分けながら、破壊音の隙間から届く、彼女の声を探した。

「もし、ご希望でしたら、貴方を貴方の望む世界にお繋ぎしますよ。『世界の交差』の権限は今、私にありますので」

「別に『会いたい』って言ったわけじゃないんだけど! ――っていうかそれ、『世界の交差』でしょ! それじゃ駄目だよ、うちにチャイムの代わりになりそうな物なんてないし、一生目覚めさせないつもり?」

「チャイムの代わりに、貴方の携帯の九時のアラームを、トリガー音に設定いたしました。今回の『世界の交差』に限ってこのアラームで覚醒する、ということにいたしましょう」

「随分とサービスしてくれるんだね!」

「それはもちろんでございます」

 彼女の平坦な声が響くと同時に、僕は急激な眠気に襲われる。

「ここは貴方の望みを叶える場所ですし、私は貴方の『運命』ですからね」

「、そうだ……!」

 僕は頭がガンガンするような眠気と戦いながら、彼女に質問をしようと試みた。

 君は、僕の「運命」をどこまで知っているのか。僕は、最初から最後まで「主人公」になれないんだろうか。いくら頑張ってみても、それは予定調和の結果しかもたらさないのだろうか。そこに「僕」という意識が存在する理由はあるのだろうか。もしないんだったら――僕が生きている意味って何なんだろうか。


「さようなら、鏡味巴様」


 ゼロの透明な声が遠のいていく。僕の思いは一つも声にならなくて、僕は瓦礫の音と砂の流れ落ちる音を聞きながら、ゆっくり、ゆっくり……と目を閉じた。



 ◇


 チュンチュンと、小鳥のさえずる声が聞こえている。大きなガラス窓からは陽の光が差し込み、部屋の全体を明るく照らしていた。

 壁も、床も、戸棚も何もかもが白い、小さな部屋。気がつけば、僕は背もたれの大きな椅子に腰かけて、ただぼうっとしていたらしい。

 少し体を動かすと、落ち着いた色味の木製の椅子が、キイとちいさな音を立てる。

 ――やっぱりここに来てしまうのか。

 木製の椅子の上で、ううんと唸って伸びをする。しいんと静まり返った小部屋の中、僕はとりあえず周囲に人影がないことに安心した。が、すぐ不安になって立ち上がると、スリッパを鳴らしてガラス戸に近づいた。

 パッと見た感じだと、手入れされた庭の方には誰もいない。僕はふらりとガラス戸から離れ、元来た道を引き返す。再び椅子にどっかり腰を下ろすと、ため息が出た。そのまま頬杖を突くと、いろんな考えが渦のように頭の中をぐるぐると巡る。


 ――あいつに会ってしまったとして、なんて声をかければいいんだろうか。


 僕はあいつに会いたいような会いたくないような、会いたいけど会ったら気まずくならないだろうかとか前よりも嫌われてたら嫌だなとか、そういうわけでやっぱり会いたくないような、それでも会いたいけど、会ったとして自分はちゃんと話せるんだろうかとか、そういう心配と問答と葛藤をしばらく一人で繰り広げていた。

 会いたいか会いたくないかって言ったら、そりゃ、もちろん、「運命」のゼロ様も気を利かせてくれたとおりなんだけどさ。

 ふと机の上のジャム瓶を見やると、線のような形の、見覚えのある葉が生けられている。その先端にはちょこんと淡い青色の花が咲いていた。


「ローズマリーって、花の形も線っぽいんだ……」

「あら、名前を覚えていてくださったんですね」 


 透明で、瑞々して、凛としているくせにどこか吞気な声。僕はその声を聞いた瞬間に飛び上がってしまう。

「なっ……」

「巴様、見てください! 棚の上を掃除していたら、こんな物が出てきましたよ。せっかくですしお茶にしませんか。すぐにハーブティーを淹れますので」

 カランカラン、という何かが転がるような音にゆっくりと振り返ると、キッチンの方から大きくテーマパークのキャラクターが描かれた缶を手に持って――ひょうが、楽しそうに現れた。

 桜色の髪。透明な瞳。眼球に覆いかぶさるようなたっぷりとした睫毛。胡散臭いと感じさせるくらいに綺麗で整った笑顔をして、ひょうは手に持った缶をカランカランと鳴らしている。そして、僕はそのステンレス製の缶の箱に見覚えがある。


 どうしてかなあ、それ、ずっと僕が誰かに文句を言いたいと思っていたやつじゃん。

 中身はただのどこにでも売っているようなクッキーなのに、「入場者限定」だとか「期間限定」だとかのよくわからない価値を付与されることによって明らかに高過ぎる値段をつけられている、「おみやげ」ってジャンルのお菓子。みんな、それでもその値段を受け入れて買うんだよなあ。なんだろう、「目に見えるものより見えないものの方が大切」理論だろうか。まあそこに何かしらの付加価値があると信じさえすれば、「価値」っていうものは自然と生まれてくるものだけどさ。でもそんな目に見えないものによって、僕らが生産者の都合のいいように誘導され、騙されてるんじゃないだろうかって疑うことはしないのだろうか。まあそれらは目に見えないからこそその価値を確かめようがないもんな。あれ、でもそうしたら、目で見て確かめられるものにはたいした価値はないってことになるのか? ということは「器」を持つ人間って価値が低いの? そもそも価値がない? そういうこと? そんなの、生きるの不安にならないか。

 次から次へと世間に対する文句と愚痴と――あと、なぜだか涙が出てきた。あまりにひょうが間抜けだからだろうか。それとも、自分が間抜けだからだろうか。わからないが、僕は手の甲でぐいっと目元を拭うと、ひょうに向かって叫んでいた。


「あのっさあ、なんでそんなもんがここにあるの!」


 僕がひょうに歩み寄ると、ひょうはにっこりと微笑んで薄い唇を開く。

 ああ言えばこう言う、口だけは達者な僕たちのどうでもいい議論が、ハーブティーの香りの中で再び始まりを告げようとしていた。




   チャイム・1 〈終〉

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