5話:アバターネーム(⑥)








 阿部礼治は、非常に優秀な男子生徒だった。


 成績は常に学年のトップ。そして、礼治の――僕の在籍する学校は県内で一番偏差値の高い県立高校であるため、この学校でトップの成績であるというのはつまり、県で一番勉強ができる人間である、ということと、ほぼ同義なのだ。


 今から数年前。阿部礼治はこの高校に堂々の主席合格を決めると、絶え間ない努力によりその頂点の座を譲ることはなかった。彼は校内、いや県内の他の学生たちにはまったく目もくれず、今度は誰しも聞いたことのある超難関大学に主席合格するべくさらなる勉学に励んでいた。


 ただ、それは実は――礼治自身が超難関大学への入学に憧れがあっただとか、それを希望していたから、というわけではない。


 それを熱望していたのは、礼治の親――特に、礼治の母親の方だった。


 礼治の母親は典型的すぎるほど典型的な学歴コンプレックスだったと言う。


 彼女は中学を卒業したあと専門学校を卒業し、そのまま就職した。僕はその経歴が社会的に見てどうだとか、一般的な大人が見てどういった印象を受けるかということは正直わからない。ただ、彼女は自分自身の学歴を酷く恥じ、それに苦しめられていたそうだ。


 彼女は、「自分の子どもに同じ思いをしてほしくない」という強い思いから、自分の腹から産まれた子ども――第一子である礼治の教育に執心することになる。彼女は礼治にミルクを飲ませながら教育のハウツー本を読み、ベビーカーを押しながら礼治の教育プランを考え、礼治が物心つく前から「一番じゃないと意味がない」だなんて漫画の世界でも鼻で笑われるような台詞を繰り返し言い聞かせては幼い精神に植え付け、幼稚園に入園する前から四則演算ができるようにドリルや問題集を解かせていた。


 それは今どき、そう珍しくない話なのかもしれない。学歴がその人間の社会的地位を決定するための大きな判断材料の一つとなっているこの時代、余った人生を子どもの教育に注ぎ込む親はおそらくごまんといるはずた。


 ただ、「理想」と「現実」は違う。「こうあってほしい」と願っても、実際うまくいくことなんてそうそうない。だからきっと多くの親は、「頭のいい子になってほしい」と思って彼らなりに努力しても、子どもにやる気がないだとか、勉強以外にもっと興味があることができてしまっただとか、そもそも親が教育に飽きてしまっただとか、そういった理由でどこかで「諦める」ことの方が多いのだろう。


 礼治の母親だって、「そう」なってもおかしくなかった。特に、礼治の母親の教育方法は、彼女自身が俗に言う受験勉強をしたことがなかった分、かなり非現実的な量、そして内容であり、普通の子どもであればそのような勉強法を続けていくのは肉体的にも精神的にも苦痛に感じ、途中で投げ出してもまったくおかしくないものだった。




 ただ、礼治は「普通」じゃなかった。幸か不幸か、礼治は母親の「理想」の勉強法を実践し、母親の思った通りの成果を出すことで「現実」にする――そんな類稀なる才能を秘めて生まれてきたのであった。


 そもそも礼治は最初から、学問に対して純粋な興味と好奇心を持っていた。


彼は幼い頃から新しいことを学ぶことや、それを知識として吸収することに楽しみを見出せる子どもだった。同時に、新しいことを学べば学ぶほどに直面する未知や困難に臆することなく、知的好奇心を持ち続け、根気強くその問題に取り組むことができる強さを持ち合わせていた。


 国語、算数に理科社会――何も知らない自分に次々と新しい「未知」を与え、それらに向き合う時間をくれる母親の教育法を、礼治が疑うことはほとんどなかった。むしろ「一般的」に、行き過ぎのように見える彼女の異常な教育法は、「普通」ではないポテンシャルを持って生まれた礼治の知的欲求を満たすのにちょうどよかった――つまり、この母子は本当に奇跡的な確率で「相性が良かった」のだ。


 さらに、礼治には「竜二りゅうじ」と「絵子えこ」という二人の幼馴染みがおり、この二人が勉強づくめの礼治の人格形成にとても良い影響を与えた。


 学習机に向かわない時間――小学生のとき、まだ自由に友人と放課後を過ごすことのできた礼治は、仲のいい二人の友人に誘われるようにして、校庭で鬼ごっこや鉄棒をしたり、裏山で草木や虫を観察してスケッチをしたり、植え込みのツツジの蜜を吸ったりして遊んでいた。


 新しいものを学ぶことが好きだった礼治は、遊びの中で出会った様々な疑問や発見の一つ一つが、彼の勉強の糧となった。未知のものに感動し、わからなければ辞書や図鑑を使って調べ、面白いと思ったことは二人に共有する。そのような中で知識を生きた知識として蓄積しつつ、二人とのコミュニケーションを図る。集団行動が苦手で孤立しがちな絵子に、相手に遠慮をしすぎて思うように自分の意見を言うことができない竜二。礼治とはまったくタイプの違う二人と遊び関わっていく中で、礼治はコミュニケーションの基礎を築いた。家庭環境も性格もまったく異なる二人の友人との係わりは礼治にとって非常に大きな財産であることを、礼治自身も感じていた。


 礼治は人に、環境に、恵まれていた。そして礼治はそのことに自覚的であり、そしてその豊かさに感謝していた。


 心に余裕があり、豊かな人間は他人に優しくすることができる人間だ。礼治もそのような素晴らしい人格者の一人であったため、彼は「勉強ができる」という同世代の子どもたちにネタにされたり、疎まれたりしがちな属性を持っていながらも、多くの人に愛される人間に育っていった。彼は元来多少真面目で融通がきかないところがあったが、それでもどこか愛嬌があり、好かれた。僕はこんなにも理想的な人格の形成パターンを見たことがなかったのでいっそ驚嘆したが、彼の話し方や態度、些細なしぐさの一つ一つに、彼の人柄の良さが表れているのを感じ取っていた。僕は、この人は本当に「よく出来た」人だと思った。そして、愛されるべき人間だと思った。




 話を戻そう。


 そういうわけで、礼治は小中高と、円満な学生生活を送っていた。


 だが、彼には一つだけ問題を抱えていた。


 それが彼の生活に影響を与え始めたのは、礼治が高校三年生になった年の秋半ば。学園祭のほとぼりが冷めきり、三学年の生徒たちが少しずつ、来たるべきセンター試験に向けてピリピリとし始めた、九月から十月にかけてのことだった。


「礼治先輩、」


 終業のチャイムが鳴り、図書館で自習でもしようかと思っていた礼治の元にやって来たのは、ノーネクタイに長袖シャツを肘までまくった、気さくでラフな印象の後輩、古壱こいちうたぎだ。


 理想の高い母親から文武両道の実践を言い渡されていた礼治は、その足の速さと持久力を生かし、中学から高校にかけて陸上部で中距離選手として活躍していた。礼治は高校三年生の夏、県大会が終わると陸上部を引退して勉強に専念するようになったが、一つ下の学年であるうたぎとは、唯一、特別に交流が続いていた。


「どうした。練習は」


 礼治が部活を引退した後も、うたぎはことあるごとに教室にやってきては、くだらない話をしたがった。


 だから、その日も礼治はいつも通りの台詞を投げかけた。ただ、その時うたぎは、「ああ、それは……」と、妙に歯切れ悪く返事をしたのだ。


 おかしい。いつもだったら「この後すぐ行きますよ! でもその前に~」だなんて勝手に喋り始め、こちらがうるさいと言うまでいくらでも話し続けるのに。


 常日頃、礼治が「口から先に生まれたようだ」という譬たとえがぴったりだと思っていた後輩は、その日は何から言えばいいかわからないとでも言いたげに、何かを言い淀んでいた。礼治より背が高く、どこかチャラそうな印象を与える彼の後輩は、毎朝セットでもしているのか、少し長めの硬そうな黒髪をガシガシと掻くと、ようやく切り出した。


「その前にちょっといいッスか? どうしても気になることがあって……」


 礼治は自分の荷物をまとめると頷いた。


「歩きながら話していいスか」


 何か悩み事の相談だろうか。うたぎに連れられ、礼治は教室を出た。部活のことか、勉強のことか。礼治はうたぎのテスト勉強に何度か付き添ったことがあったが、こんなに神妙な顔で頼まれたことはまずない。だったら何だろうか。礼治は後輩のそのような顔を見たことがなかったから、彼の言いたいことにまったく見当がつかなかった。


 教室のある棟から出て、渡り廊下に差し掛かると生徒の数が少なくなる。吹きさらしの通路は秋らしく乾燥していて、気の早い落ち葉が隅で舞っていた。


「礼治先輩」


 前を歩いていたうたぎが振り返る。ちょうど辺りから人影が消えたタイミングだった。


 礼治を見つめる彼の瞳には見たことのない不安と疑念が満ちていて、次の言葉を聞いた瞬間、礼治は頭の中が真っ白になった。




「礼れい、家で母親に虐待されてるって、本当なんですか」




 まったく予想外の言葉に動転した礼治は、誤魔化すのも忘れてかぶりを振ってしまう。


「やっぱり……!」


 うたぎは短く漏らすと、目を見開いたまま固まってしまった。礼治には、その一瞬が永遠のように感じられた。


「…………礼に聞いたのか」


 なんとか絞り出すように聞くと、うたぎは無言で頷く。


「どういう流れで」


「詳しくは覚えてませんけど。普通に話してて、たまたま家族の話になったんです。俺も自分の家族の話をして、礼にも話してもらおうと思って……。そしたら、礼がお母さんとのことを話してくれたんです。『私はお母さんに嫌われているから』……って」


 礼治は思わず頭を抱えたくなったが、代わりにうたぎの顔を少しだけ睨んだ。礼の、自分たちの家庭の問題は、学校の誰にも言わないつもりでいたのに。


「……礼なら大丈夫だ。俺からも母さんに言っとくよ。それでいいな」


「『大丈夫』って、何がですか」


 はねつけるように言ったつもりだったのに、うたぎはそう簡単には引き下がらなかった。礼治は面倒な相手に知られてしまったことを悔やみながら、それでも両腕を組んで語りかける。


「あのなぁ、これは俺の家の問題だ。お前がそうやって首を突っ込む必要はないだろう」


 その言葉にぴくりと反応し、低い声で言う。


「……『部外者はすっこんどけ』って言いたいんスか」


「そういうことだが」


「『部外者』じゃないでしょ、俺は!」


 静寂の中、うたぎは突然声を荒げる。


 その勢いに気圧された礼治が見上げると、彼の顔はただ不安に満ちていた。その様子を見て少しだけ冷静になった礼治は一つため息をつくと、うたぎに歩み寄り、その肩にポンと片手を置いた。


「お前が礼のことを心配してくれるのは嬉しいよ。ありがたいって思ってる。お前は、礼のことが好きだもんな」


 そう言うとうたぎは一瞬で顔を赤くする。そしてすぐに、力強く頷いた。礼治もその様子に満足して頷いた。礼治は、うたぎが礼に対して異性としての好意を寄せていることを知っていた。


「礼と母さんはな、昔からこうなんだ。竜二や絵子も知っているし、知った上で様子を見てくれている」


「竜二と絵子って、先輩の幼馴染みの……」


「そうだ。あいつらやあいつらのご両親に説得してもらったこともあったけど、全然変わらなかった。お前よりずっと長い付き合いで、それなりに信頼関係もあるご両親が直接説得しても、直らなかったんだよ。だからわかってくれないか」


 それを聞いたうたぎは俯いて、考え込む。一生懸命に考えを巡らしている姿を眺めていた礼治は、少し待ったあと、その頭に手を伸ばして思いきりわしゃわしゃっとやった。


「! せんぱ、」


「大丈夫だ」


 できるだけ落ち着いた声で言うと、うたぎは礼治の瞳を見る。礼治はそれを真正面から受け止めた。


「今のところは、大丈夫だから。それに、いざとなったら俺がいる。お前はせめて、礼が学校にいる間だけでも気分を楽に……楽しませてやってくれないか。お前はそういうのだったら得意だろ?」


 そう笑ってやると、うたぎはようやく安心したようだ。「はいっ!」と元気よく返事をしたうたぎはやる気に満ちた顔で、自分の胸をドンと叩いた。


「わかりました! それなら、家での礼のことは先輩にお任せします!」


「ああ。……よし、わかったらさっさと着替えて走って来い。もう時間ギリギリだろ」


 今日も陸上部は練習があるはずだった。礼治はグラウンドの方を眺めながら言う。


「ホントですね! 先輩は来ないんスか?」


「ばぁか、俺はとっくの昔に引退したろ。……あ、そういえばお前、勉強の方はちゃんとやってるんだろうな!」


 その言葉に表情を強張らせるうたぎ。彼はぎこちなく笑みを、つくると焦ったように駆け足を始める。


「あ、え――……、まずまずッスかね! ワハハ! それじゃあ俺はこれで!」


「おい、お前もすぐに受験なんだからな! ちゃんと両立しろよー!」


「わかってまーす!」


 うたぎは渡り廊下に響き渡る大声で叫ぶと風のように去っていく。うたぎは短距離の選手だった。なのでこういう時は無駄に逃げ足が速いのだ。


 礼治はうたぎがその場から去り切ってしまうと、近くに会った柱にもたれかかる。そして長い息を吐いた。渡り廊下には再び、人の姿が見え始めた。


 ――礼が、うたぎに母親のことを言うとは思わなかった。


 そのことに純粋に驚く気持ちと、「何で他人に言ったんだ」という礼を責め立てたい気持ちが湧いてきた礼治は、慌てて後者を追い出す。その時、辺りが少しだけ暗くなった気がした。雲が太陽を隠したのか、ひんやりとした柱に体重を預けた礼治は静かにその両目を閉じる。




 礼治の抱えていた問題というのは、礼治の一つ下の実妹が、彼の母親から虐待を受けているというものだった。




 妹の名前は「礼」といった。


 礼は、良くも悪くも「平凡」な少女だった。それゆえ彼女は虐待された。彼女が母親から虐待を受けることになったのは、それが原因だった。


 全国でトップクラスの成績を誇る礼治の妹、礼の成績は、別に特別悪いわけではない。むしろ勉強嫌いのうたぎよりも良い方で、校内模試では平均より少し上の成績をとり続けている、十分な優等生だった。


 礼治も礼のことは賢い、よく出来た妹だと思っていた。それは教師から見てもそうだったようで、礼が二年生に進級して初めての三者面談で、礼の担任は「この成績なら地方の国立大学はもちろんのこと、努力さえすれば難関大学も射程内ですよ」と笑顔で告げたそうだ。


 ――しかし、彼らの母親は、「それを許さなかった」。


 三者面談が終わったその日から、母親は突然礼に対する態度を変えた。


 礼に対し、ことあるごとに暴言を吐くようになったのだ。最初は「勉強しなさい」から始まったのに、「寝る時間をギリギリまで削りなさい」だとか、「そんなのだからあんたは馬鹿なのよ」とか。初めのころは主に勉強関係や、礼の成績についての暴言が多かったのに、次第に「邪魔」、「のろまの癖にうろうろしないで」などとエスカレートしていき、ついには「あんたのこと産んだ意味ないわ」と、礼の人格や存在自体を否定するような言葉を浴びせるようになったのだ。


 実は礼治の母親はそれまで礼の教育について、礼治とは全く異なり、清々しいまでの放任主義を貫いていた。


 いっそ放置していると言っても過言ではないその態度は、礼が礼治と同等の才能を持っていないことを早々に見抜いていたからかもしれない。礼治の才能を愛していた彼女は、その日まで、第二子である礼の成績にちっとも興味を持たず、むしろ礼の存在を忘れようとするかのようにひたすら礼治の教育に専念していたのだ。


 しかし――先ほどうたぎにも忠告したように、二年生となった礼自身にも大学受験はある。彼らの母親は、今まで放置していた礼の、彼女の娘の、受験勉強を本気で見てやらなくてはいけないことに気付いてしまって――それからおかしくなったのだ。


 すでに、母親の成績に対する感覚は狂っていた。なので、傍から見たら十分優等生である礼の成績に彼女は満足することができなかったし、また、いくら成績が良いといえども礼治の受験に大きな不安を抱えていた母親は、常に「礼治は合格できるだろうか」、「礼がいい大学に入らないと、礼治も自分も馬鹿にされないだろうか」、「むしろ礼は浪人するんじゃないだろうか」と心配し、頭を悩ませ、時にはひどく体調を崩した。子どもの受験の「当事者」であると信じ込んでいた彼女は、自身が受験ストレスに陥ってしまっていた。そして、摩耗するほど口煩く、口汚く、礼に対して暴言を吐いた。それまで静かだった彼らの家には、毎日のように母親の醜い暴言が飛び交うようになっていた。




 ちなみに、彼がうたぎに説明した通り、彼の母親の根深い学歴コンプレックスや礼に対する暴言は、幼馴染みである竜二や絵子の両親が、彼女に直接止めるように言っても変わらなかった。


 そして、礼治自身はというと――礼治は早いうちから、それこそ竜二や絵子の両親と対話する中で、自分の母親の異常性には気付いていた。また、精神に異常があるからといって、それを理由に他人に当たったり、暴言を吐いたりすることが認められるわけじゃない、ということもわかっていた。礼のためにも母親のためにも――そして、母親の暴言を毎日聞きながら過ごし、疲弊していた自分のためにも、早くやめさせなければいけないということを、礼治自身は十分よく理解しているつもりだった。


 だが――礼治は絶対に、母親に「やめてほしい」とは言えなかった。


 それは何故か。礼治は生まれてこの方、自分の母親に対して、何かを意見する――「母親あなたとは違うことを考えている」ということを表明する――ということをしたことがなかった。いや、する理由がなかった。なぜなら、礼治にとって「母親の言うことはすべて正しい」から。いくら異常に見えても、「普通」から外れていても――その彼女の考え方で、彼女の方法で、「正しく」成果を上げてきた礼治は、自分の存在こそが、「普通」に生きてきた自分の生き様こそが、彼の母親の「正しさ」を裏打ちしている――ということを、いつの日からか自覚していたからだ。


 もちろん、礼治が全国トップの成績を修めていることは彼自身の素質もあるので、ひとえに母親の教育のおかげではない。そのことを礼治も理解はしていた。


 ――ただ、自分は母親の「正しさ」の象徴である、という自認が膨らみ、それが結果ではなく目的にすり替わってしまっていたと気付いたころには、礼治はもう、「遅かった」。


 賢い礼治は、自分が勉強する理由がすでに、自分の知識欲を満たすためでもなければ、トップになりたいという向上心からくるものでもないことに気がついていた。


 それは、母親のため。そして母親から自分の身を守るためだった。


 礼治は母親の思い通りに、そして母親の言うとおりに生きていたから、少なくとも無事だった。母親の思う「理想」であり続ける限り、自分は「正しい」。「理想」になれない存在は、礼のように虐待される。


 自分が勉強し、難関大学に合格する理由が自分のためであろうと母親のためであろうと礼治はどちらともよくて、ただ「合格しなくてはいけない」という強迫観念からとにかく今は自分の勉強を邪魔されたくなかった。


 母親の性格は変わらない。礼の成績も、そんなにすぐ上がるものじゃない。


 となれば、とりあえず自分は勉強に集中する。まずセンターでいい成績をとらないと、それこそ母親が壊れてしまう。礼には悪いがもう少し待ってもらって、自分の受験が終わったら、すぐに勉強を見てやろう。それまでは出来るだけ母親にストレスを溜めないようにやり過ごそう。




 結局、うたぎと話して礼治が選んだのは、「現状維持」だった。


 だが、そんな「現状」は文字通り、母親の手によって打ち砕かれる。








 「運命の日」は唐突にやってきた。


 それは十二月の頭、センター試験を間近に控えた、とある冬の日のことだった。




「――礼治、それで、話してもらえないかな。今は忙しいんだったら放課後でもいいし……」


「礼治先輩‼」


 昼休み。弁当を食べ終わった礼治の傍にはめずらしく、彼の二人の幼馴染み、竜二と絵子がいた。そして会話の最中だった三人は、一斉にドアの方を振り向く。そこには必死の形相をしたうたぎがいた。


 控えめな声量で会話をしていたクラスメートは彼の登場に静まり返り、視線を集める。うたぎは大股で一直線に礼治の机に向かってくると、立っていた竜二と絵子を押しのけるようにして礼治の前に立った。


「礼に何が起こってるんですか‼」


 うたぎの大声に竜二が体を震わせる。座っていた礼治はガタン!と激しい音を立てて立ち上がると、勢いよくその胸ぐらを掴み、顔を近付けて凄んだ。


「他の人の迷惑になる。大きい声を出すんじゃない」


 礼治のドスの利いた声に怯んだうたぎは、しかし、目の前の礼治の顔を見てハッと息を呑んだ。


 深く刻み込まれた眉間の皺に、黒く濁った瞳。そして濃くなった隈。一見して明らかに様子の変わった礼治の様子と、他者からの干渉を拒絶する厳しい眼差しにうたぎは些いささか動揺したが、それでも負けじと礼治に言い返す。


「礼、怪我してたんですよ! 少し見えたんです。顔が腫れてたり、太ももに怪我をしてたり――」


「『太もも』――ってお前、礼のどこを見てるんだ!」


「ちらっと見えただけですって! っていうかそこじゃないでしょ! 怪我してるんですよ! 聞いたら『家の人に暴力を受けてる』って言うじゃないですか!」


 礼治は黒い煙のような憎悪が胸に立ち込めていくのを感じながら歯ぎしりをする。教室は静まり返っているのに、誰もがこちらを見ているのに、「そのこと」を大声でまくし立てるうたぎの神経が礼治は信じられなかった。


「だから大声を出すな! みんな勉強してるんだ。それに、前にも言っただろ。俺が何とかするから待っとけって」


「そんなこと言って、結局エスカレートしてるじゃないですか!」


「『うたぎ』くん……だったっけ」


 と、唐突に、二人の間に絵子が入り込む。


 それにはうたぎはもちろんだが、一緒に隣に立っていた竜二、そしてうたぎの胸ぐらを掴んでいた礼治も驚く。観衆も少しだけどよめいた。マイペースで良くも悪くも空気の読めない絵子は、いつだって、礼治や竜二の驚くような行動をする。


「きみの気持ち、わかるよ。あたしたちもさっきまで、礼治とその話をしてたの。でも礼治、全然話してくれなくてさ。ね、竜二」


「え⁉ うん、そうなんだけど……」


 突然話をふられた竜二は声が裏返ってしまう。絵子は竜二の返事を聞くと、礼治とうたぎに向き直る。


「そ。だから、放課後にでも話そうと思ってたんだ。今、礼治は話したくないんだってさ。ここじゃ他の人も聞いてるし嫌なんだって。だから、また後にしようよ。ほら、礼治も手を離して」


 絵子はそう言って、礼治の手に自分の小さな手を重ねる。掴んでいた手を礼治が大人しく緩めると、うたぎは何歩か後ずさり、そうして三人をかわるがわる見た。


「……先輩はいいですね、自分を守ってくれる人がたくさんいて」


「あ?」


 礼治はうたぎに向かって一歩踏み出す。それを背の低い絵子が手で制した。


「礼を守ってくれないくせに、先輩は守ってもらって! ずるいんですよ!」


「うたぎくん、落ち着いて。礼治もきっと大変なんだよ」


 今度は竜二が止めに入る。竜二はおそるおそるうたぎに話しかけた。


「信じて、待っててあげようよ。だから――」


「待ってたのにひどくなってるから、来たんじゃないですか‼」


 うたぎの大声に、竜二は小さな悲鳴を上げて飛び退く。それを見た絵子が一歩前に進んだ。絵子には少々のことでは怯まない図太さがあった。


「あんたたちは礼治先輩の味方かもしれないけれど、礼の敵だ! 俺は早く礼を助けてやりたいから言ってるんだ!」


「だからって、礼治に迷惑をかけていい理由にはならないじゃん。待っててあげなよ、信じてるんだったらさ」


「そんなこと言ったって‼」


 うたぎは三人に向かって叫んだ。


「俺は礼が好きなんですよ‼ 好きな人を傷付けられて、黙ってられる男がどこにいるんですか⁉ そんなの男じゃないでしょう‼」


 静かだった教室が、さらにシン、と音をなくす。


「……それはあたしも同じ」


 その均衡を崩したのは、やはり絵子だ。




「男だろうが女だろうが関係ない。あたしは礼ちゃんも礼治も好きだから、どっちも傷付けられたくないよ。だから、礼治を傷付けないで」




 きっぱりとした絵子の言葉が、教室の空気をしずかに満たす。


 うたぎは唇を噛み、礼治を睨みつけたままでわなわなと震えていた。が。


「意気地なし!」


 礼治にそう言い放つと、うたぎは走って教室を出ていった。


「……昼休み、終わっちゃうから」


 うたぎを見届けると、絵子はぽつりと言って竜二の手を取る。しばらく呆然としていた竜二は絵子に手を引かれると、あ、とかうんとか言いながら、導かれるようについていった。


 ドアから出る間際に絵子は一度だけ振り向いて、「放課後。また来るから」と言った。しかし、礼治は頷かなかった。


 二人が消え、取り残された礼治はガタン、と音を立てて椅子に座る。


 その瞬間、五時間目の予鈴のチャイムが鳴った。その機械音に、教室はまるで魔法が解けたかのように、にぎわいを取り戻した。


 先ほどまでの出来事について話し始めるやつ、逆に何事もなかったかのように世間話を始めるやつ、授業の用意を始めるやつ。いろいろな人がいたが、椅子に座った瞬間に放心し、虚ろな目で黒板を見つめる礼治に話しかけるやつはいなかった。そして、誰も思っちゃいなかった。それが、彼らが教室で「阿部礼治」を見る、最後の日になるなんて。






 「放課後に」と言った絵子の言葉を裏切り、逃げるように学校を出た礼治は自分の家に帰ってくると、荷物を自室のベッドに放り出し、慣れ親しんだ学習椅子を思い切り蹴った。


 ガン! という鈍い音の後に、右のすねに激痛が走る。机に向かって真正面に蹴ったので、椅子が暴れない代わりに跳ね返ってくるダメージが大きかった。


 礼治の息は荒く、その額にはうっすらと脂汗が滲んでいた。見開かれた目は赤く充血しており、その下に広がった隈は蛍光灯の光に照らされ、逆にその色を濃くしていた。


 先ほど蹴飛ばした椅子を乱暴に引くと、机の上の、棚の、引き出しの中の参考書を掴んでは取り出し、壁や床に向けて力任せに投げつけた。鉛筆立てや蛍光スタンドも床やベッドの上に投げつけ、スリッパで踏みつける。参考書の重たい音、ガラスの割れる音、コードの断線する感覚。綺麗に整頓されていた礼治の部屋はあっという間に滅茶苦茶に荒れ、机の上からすべてのものがなくなると、礼治は水中に飛び込むように、物だらけのベッドの上に勢いよく倒れ込んだ。




 ――礼治は、肉体的にも精神的にも限界を迎えていた。


 奇しくも、うたぎが初めて礼の虐待について問いただしたその日から、礼治の母親は礼に対して暴力をふるうようになったのだ。


 多大なるストレスから、ついにヒステリーを起こした母親。暴言が暴行に変わった、その明確なトリガーが何だったのかはわからない。ただ礼治と、そして礼のセンター試験が間近に迫ることで、神経質な母親のストレスが早くもピークを迎えてしまったことを礼治は理解せざるを得なかった。


 その日、礼治は礼の部屋に起こった異変にすぐに気がついた。


 礼治が普段通りに自室で問題集を解いていると、聞いたことのないような激しい音で、階段を上る音がした。なんだと思っているうちに隣の部屋――礼の部屋のドアが開く音がして、母親が何かを大声で喚き散らし始めた。


 なんて言ってるんだ、と耳を傾けた瞬間に、何か固いものが家具にぶつかる、ゴン‼ という激しい音が家中に響いた。さらにその激しい音は続き、合間に妹の悲鳴が混じった。止まない音、母親のヒステリックな声、そして礼の悲痛な叫びを聞いた礼治は握っていたシャーペンを机に投げ捨てると、弾かれたようにベッドに飛び込み息を潜めた。


 ――止めに行かなくてはいけないのに、体が震えて動けない。


 礼治はその夜、礼の部屋から暴行の音が聞こえなくなった後も、自分の無力を恥じながら、毛布の暗闇の中でひたすら恐怖に震えていた。


 次の日はちょうど土曜日だったため、礼治は昼間、母親が買い物に出かけた隙を見計らい、久しぶりに隣の、妹の部屋のドアをノックした。


「はい、」


 扉の隙間から見えた礼の部屋は片付けかけであり、ところどころに荒らされた形跡が残っていた。礼の片頬は痛々しく真っ赤に腫れており、部屋着の裾からは青色や紫色の痣が見え隠れしていた。


 昨晩助けてやれなかったことを礼治が謝ると、礼は小さく笑って「大丈夫だよ」と言った。しかし、やはり危機感を持った礼治は「やっぱり外部の人に相談しよう」と提案した。しかし、礼は首を横に振った。礼は母親の暴力が表沙汰になることを拒むのだった。


 礼の言い分は、「お母さんはセンター試験の前で気が立っているだけだから、きっと試験が終わったら楽になる。試験の近い兄さんの方に行ったらいけないし、関係ない人を心配に思わせちゃいけない。それに、ご飯を作ってくれてるのはお母さんなんだから、私が我慢するよ」というものだった。礼治は内心で礼の言い分に納得していたが、礼の兄として、一人の「正しい」人間として、それではいけないという気持ちもあった。


それ故に「でも……」と続けようとした礼治に、礼は首を横に振って遮る。


「大丈夫。私は死なないから」


 そう言うと、礼は昔から変わらない表情で、礼治に向かって微笑んだ。その後、礼は礼治が何を言っても、笑って「大丈夫」と言うだけだった。


 ――その日から始まった礼への暴力は毎晩続き、次第にエスカレートしていた。


 隣の部屋から聞こえてくる母親の声や、ものを殴る音、部屋を荒らす音は、日に日に大きくなっていく。対して、礼の悲鳴はだんだん聞こえなくなっていった。おそらく、自分が悲鳴を上げると母親を刺激してしまうことに気付いたのだろう。礼治は母親が階段を上ってくる音が聞こえるとすぐに、参考書や単語帳を持ってベッドに入った。そして、懐中電灯のスイッチを入れると毛布を被って耳を塞いだ。それでも隣の部屋の音が聞こえてしまうのは、無意識のうちにストレスを溜め込んだ礼治の神経が、過敏になっていたからだろうか。


 礼治は真冬の永い永い夜を息苦しい毛布の中で、母親の喚き声とものの壊れる音を聞きながら、ひたすら問題を解いて過ごした。


 彼は酷いストレスで不眠症になっていた。睡眠は休み時間や放課後、人の少ない教室でとる。それだけでは足りなくなったときだけ気絶するようにベッドで眠り続けられた。陸上部の練習に励んでいた頃には考えられないような睡眠時間と生活リズムは、受験直前の礼治の精神と肉体的に負荷をかけるのに十分すぎるほどだった。


 それまで奇跡的なバランスで上手くいっていた礼治の「日常」は、まるでそれを動かしていた歯車の一つが軋んで割れてしまったかのように、そこから他のすべての歯車がバラバラになっていくかのように、歪み、脆くなり、崩れ始めていた。


 その絶望的な崩落の中、息を荒げた礼治は両まぶたを閉じると、走馬灯を見るかのようにこれまでのことを振り返る。


 ……絵子と竜二との約束を無断で破ったのは初めてだった。そもそも、二人に隠し事をするなんて、昔は考えられなかった。


 礼治は二人のことを信じていなかったわけではなくて、ただ、自分のことで二人に迷惑をかけたくなかった。誰よりも優しくて、そして繊細で思いつめやすい竜二を不安に思わせるわけにはわけにはいかなかったし、絵子もマイペースで自由に見えるけれど、家に帰れば年の離れた妹の面倒をしてやっているのに、自分の相談なんかして、これ以上心労を増やしたくなかった。


 うたぎのことも怒らせてしまった。いつだって元気に笑っていて、生真面目な自分をからかいつつも、さりげなく気遣って息抜きに笑わせてくれていたうたぎには、今日、心の底から軽蔑された。


 ――そりゃそうだ。「礼を守る」っていう、大事な約束を破ったんだから。誰から見ても、自分は加害者側の人間だ。絵子や竜二は俺の気持ちを尊重してくれたが、たぶん、本当はうたぎのように、俺を責めたいに違いない。俺だって自分自身を「意気地なし」だと思っている。責めている。でも、だからといって、自分が今何をすべきかわからなかった。


 礼を守りたいのはもちろんだったが、礼治はそれと同じくらい、母親のことも守りたかった。礼や自分が学校や警察に相談したら、母親はどうなってしまうのだろう。通報した自分のことをどう思うのだろう。礼治は母親を裏切りたくなかった。他人の母親とは少々違うけれど、この母親は彼にとっての、唯一無二の母親だった。


 産まれたときから、自分に対していつも一生懸命だった母親。厳しいときは厳しかったが、自分の欲しいものを何でも与えてくれて、自分に期待してくれて、自分を支え続けてくれた母親。


 だけど、それは自分に対してそうだっただけで、礼に対しては違った。母親は決して平等じゃなかった。だけど母親の行為は「悪」ではなく、そもそも母親の期待に沿えられないものは「正しく」ないから。母親の「正しさ」からは、排除されてしかるべきだった。ただ、礼が「そういうもの」だったから。


礼治は、その「正しさ」の中で生きていけば、自分が傷つかないと知っていた。それがこの家のルールだと割り切り、受け入れることができたから。それに値する学力があったから。その学力を手に入れる才能があったから。その才能を伸ばすために、母親の言うことを何でも聞いてきたから。「いい子」だったから。


 ――だと、したら。


 もし、自分が礼と同様に、才能を持たずに生まれてきていたならば。


 もし、母親の期待に応えられない自分に生まれていたならば。


 ……どうなるのだろう。「自分」には絶対的に優しかった母親。いつだって「自分」をほめてくれた母親。いつも「自分」を大切にしてくれて――そして、誰よりも愛してくれていた、「自分」の愛する母親。




 よくできたね、礼治。


 すごいわ、礼治。


 さすがお母さんの息子ね。


 私の誇りよ、礼治。




 彼の母親の声で再生されるのは、子どものころから聞き慣れた数々の褒め言葉。甘やかで優しくて、彼が勉強に行き詰りそうになったときはいつだって思い出していた、彼の救いであり、暗闇をかき分けて進む彼のただ一つのお守り。彼は母親に傷つけられたくなかったが、それ以上に彼の母親に愛されたかった。そして愛したかった。その為に勉強を続けてきた。彼にとって彼の母親が唯一無二であるように、彼自身も、彼の花親にとって唯一無二であってほしいと、そう願っていた。


 だけど、そのとき初めて気付いてしまった。今まで彼がちっとも疑わず、自分が努力するため糧にしてきた言葉の中に、「彼自身」を思ってかけられた言葉はないことに。それらはすべて、礼治の頭脳を、才能を――彼の「持っているもの」だけを評価する言葉にすぎないのだと、「賢い」彼は愚かにも、気付かなくていい真実に気付いてしまったのだ。






 バチン、と瞼を開けると、礼治は自分がベッドの上で眠ってしまっていたことに気付いた。


 床の下に転がった時計を見れば、朝の四時を過ぎている。冬の早朝の空気は氷のように冷たく、カーテンの向こうは真夜中のように暗い。


 ふと喉の渇きとかすかな空腹を感じた礼治は、ゆっくりとベッドから起き上がる。着替えていないからまだ制服のままだった。彼はそのまま部屋を出る。


 足音を潜めて階段を下り、リビングに侵入するも誰もいない。暗闇の中で冷蔵庫を開けると白い光が部屋に漏れ出し、昨晩母親が用意したのであろう、自分用のおかずがその光の中でぼんやりと浮かび上がっていた。


 礼治はそれには手を付けず、牛乳パックを取り出してグラスに半分ほど注ぐ。それを一気に飲み干し喉を潤わせると、洗剤を沁み込ませたスポンジでグラスを洗った。


 氷のように冷たい水でグラスを流しながら、彼は昨晩手を付けられなかった過去問をいつ解こうか考えていた。早くシャワーも浴びなくてはいけないし、荒らしてしまった部屋の片付けもしないといけないし。学校にも行かなくてはいけないけれど、そういえば、学校に行ったら絵子と竜二にまた何か言われるだろうか。うたぎと鉢合わせたらどうしようか。どうやったら三人を心配させないようにできるだろうか――。


 礼治はいつもの動作で食器用の乾燥棚にグラスを置く。棚にはいつもより食器が少なかった。そのことにふと違和感を覚えた礼治がその隅に目をやった瞬間。


 ドクン、と心臓が跳ねるのを感じた。




 ――いつも置いてある場所に、包丁が、ない。


 棚の上にも、調理台にも、どこにも見当たらない。




 弾かれたように振り返り階段を駆け上がる。そして礼の部屋の前まで来た。閉ざされたドアの前に立った礼治は体当たりするようにそのドアをこじ開けた。




 広がったのは、最後に見たのとは比べ物にならないほどに荒れ果てた、とある少女の寝室だった。




 本棚や椅子は薙ぎ倒され、唯一倒れていない学習机には数えきれないほどの傷と打撲痕があった。辺りには教科書やプリントの残骸のような紙類が散らばっている。ベッドのシーツはぐしゃぐしゃに丸められており、枕からは青緑色のビーズが溢れてシーツや床の上に散乱していた。


 引き裂かれたカーテンの奥は漆黒で、深夜かと思った。点けっぱなしの隣の部屋の電気だけが光源だった。薄暗がりの中、何かがもぞりと動いて這うように近付いてくる。


「…………れい、じ、」


 礼治のスラックスにしがみつく。母親だった。膝のあたりに当たった固い感覚に視線をやると、彼女の手には、台所にあるはずの大きな肉切り包丁が握られていた。


「どうしよ、礼治、どうしよう、わたし……礼を、…………、礼を、……殺しちゃったみたい…………」


 ウワーッと、女は声を上げて泣き出した。


 少しずつ視線を上げると、奥には何かが学習机にもたれるようにして座っている。


 ――礼。


 パステルカラーの彼女の寝巻は腹のあたりだけ暗闇が濃かった。その漆黒の広がり方と、形状から――礼治は彼の母親が礼の腹を刺したのだと理解した。


 床に置かれた人形のように両足を投げ出して座る礼の下には大きな血だまりがあり、一晩中そこで座り込んでいたのであろう、母親の寝巻のズボンもその血に染まって変色していた。


「まさか、死ん、じゃうと、おもわなくて、……ほんとに、殺すつもりは、なかった、の……、ほんとに、そう、なの」


 彼女はとぎれとぎれの言葉を発しながら、礼治の脚に縋りついて幼い子どものように泣きじゃくっている。礼治は変わり果てた彼の妹の方を見ていた。


「お父さん、かえってくるじゃ、ない……、だから、どうしよう……って、……。殺しちゃうなんて、おもってなかった、から……」




 ――ついに、礼は死んだんだ。


 あの「間違った」人生を、とうとう終えることができたんだ。




 礼治の唇がうすく開く。彼は思い出したように、母親の頭を優しく撫でた。母親は顔を上げる。その顔は涙と腫れで目も当てられないほど醜く汚れていた。しかし、礼治はまるで、自分が彼女の親になったかのように彼女に優しくすることができた。彼が彼女を見つめる瞳、頭を撫でる手のひらに、語りかける声は、この世に存在する何物よりも彼女に優しかった。


「大丈夫だよ。いい方法を考えたから」


 穏やかな声で礼治が言うと、母親は潤んだ瞳を輝かせる。


「ほん、と……?」


「ああ」


 礼治は優しく微笑むと、母親の手からするりと包丁を奪い、


「あ、」


 その瞬間、母親の血だまりの中に突き飛ばした。


 バシャン! という音と共に、母親は礼の足元に倒れ込む。娘の血にまみれてぐしゃぐしゃになりながら起き上がると、その顔を恐怖に歪めた。


「れい、じ…………?」


「大丈夫だよ、母さん」


 包丁の絵を握りしめた礼治は彼女の前に仁王立ちになると、親愛の意を込めてにっこりと微笑む。


 両手で静かに構えると、不思議なくらいに心が凪いだ。まるで、ずっとこうすることがわかっていたみたいに。


 心地の良い静寂に満ちている礼治に対し、母親は口をパクパクとさせながら、彼の持つナイフの先端を見つめ続けていた。


「やめて……、れいじ、やめて…………」


「大丈夫だよ、母さん」


 礼治もうわごとのように、同じ言葉を繰り返した。


「俺も母さんも、もう、生きている意味なんてないよ。絶対に後を追うって約束する。だから、安心して」


 礼治はそう言うと、ゆっくりとナイフを振りかぶった。




 どうして人のことは平気で傷つけるのに、自分が傷つけられるとなると、そんなに怯えるのだろうか。


 それはきっと、この人が、「自分」だけしか「人間」に見えなかったからなんだろうな。




 頭に浮かんだ自問自答を振り払うように、礼治は、その刃を振り下ろした。




 ――と、その時、不思議なことが起こった。




 礼治が包丁を振り下ろす瞬間、母親が、まるで誰かに引っ張られたかのように、勢いよく横に倒れ込んだのだ。


 そして、その衝撃の反動だろうか、机にもたれかかっていた礼の体が、ズルッと音を立てて滑り、先ほどまで母親の体があった場所に崩れ落ちてきて――。






 礼治の持った包丁は、いつの間にか、礼の左胸を貫いていた。













「――『その後、人を刺したショックで狂気に陥った礼治は、ナイフで礼をめった刺しにし、その間に家から脱出した母親が警察に通報。母親と礼治は現行犯で逮捕された』――って、そういう事件だったわけだ、うん」


 持参した長袖カーディガンの裾を伸ばしながら、僕はマスターに向かって声をかけた。


 僕たちは今、例の部屋――僕が勝手に侵入し、去り際に首を絞められ殺されかけた、マスターの作業部屋に二人でいた。


 マスターの部屋は相変わらず薄暗くて散らかっていて、そして信じられないくらい寒い。明らかに業務用でしょって大きさのクーラーからは冷たい空気が絶えずに流れ込んでいる。今ならこれが、ここにある大量の電子機器をヒートさせないようにするためなんだとわかる。僕は上着を用意してきてよかったと素直に思いながら、僕に背を向けて作業をし続けるマスターに一方的に語りかけていた。


「向こうの言い方を借りれば――僕の『能力』は、『他方の世界に完全転生した人間の、転生前の姿と記憶を呼び起こす能力』らしい。なんてピンポイントな力なんだって感じだけど、要は、僕は自分の願いを叶えるために、マスターと何らかの関係を持つ『仁』から情報を聞き出さなきゃダメで、どうしてもこの能力が必要だったんだね。――でも、おかげで『仁』の転生前の人格である『阿部礼治』から、彼自身のこと、彼の周りの人間関係、そして彼の身に起きた『事件』について、直接聞くことができた。で、僕も、いろいろ考えたんだ」


 入り口のドアの横にもたれかかり、自分の聞いたことを話し終えた僕は――今度は、自分の「考察」を述べることにした。


「礼治の事件を聞いてさ、僕はひどい事件だと思ったけれど、同時に不思議だとも思った。『全国でも名の知れた超のつくほどの秀才が、あろうことか、センター試験直前に、受験ストレスのため母親と一緒に実の妹を殺害』だなんて、そんなショッキングな事件がどうしてニュースになっていないのか? どうして僕は学校の近所に住んでいるのに、その噂をちっとも知らないのか……ってね。いや、ただ単に僕がそういう噂に弱いだけかなーって、一応ネットで調べてみたんだよ。そしたらね、やっぱり『そんな事件は起きていない』んだ」


 僕は息を一つ吸う。


「そこで、確信したよ。ここに『マスター』の干渉があるってね」


 マスターは、両手でキーボードを叩く手を止めない。


「これは、『マスター』の、『世界の交差』によって、書き換えの結果だ。あんたは『礼治』を『仁』に、……そして、『礼』を『ゼロ』に、Rの世界からLの世界への『世界の交差』を起こすことによって二人の存在を抹消し、結果、『そんな事件は起こりようもなかった』世界に、大掛かりな書き換えを行ったんだ」


 牧田先輩の言っていた、「すでに起こした大掛かりな『世界の交差』」というのはおそらくそれなんだ。もしかしたら一度はニュースになったかもしれない事件も、彼は「なかったこと」として、この世界からの消去を行うことに、おそらく成功している。


 だから、当時の生徒や教師、学校の近辺に住む人たちは皆、例外なくその事件のことを忘れてしまった。「なかったこと」になり、そもそも、そのようなことが「起こり得なかった」世界に創り変えることによって、この世界から「例の事件」は消えた。


「あんたが花を供えに行っていた家は、阿部礼治と阿部礼の住んでいた家なんだろ。あの時、あの女は『うちには子どもがいない』って言ってた。それは、彼女の中から二人の記憶が抜けているというより、彼女にとっては『阿部礼治と阿部礼が存在しない』世界になったからだろ」


 ――と、ここまでは事実の確認。と言っても、マスターはちっとも反応してくれないけど。でも、僕はここまで来たからには続けるしかなかった。ここからは――僕の、自己満足のための憶測の話。


「……それでも、物を投げつけられて、傷つけられてもあんたが毎日あの家に花を持っていくのは、どうしてだろうって思ってたんだ。そんなの僕が考えなくてもいいことなのかもしれない。だけど、僕は二つの仮説を立てた。――まず、一つ目」


 僕は、男がこちらを見ていないとわかりつつ、二本の指を折りながら話す。


「あんたはあの女に礼治や礼の記憶がないことを理解し、しかも本人から直接『来るな』って言われているのに、あの女にとってまったくの意味不明で、ゴミにしかならない花を供え続けている。それってよく考えなくても、かなりの迷惑行為だよね。だからあんたは、あの女に対する陰湿な嫌がらせ、あてつけのためにしているんだ。……で、もう一つなんだけど」


 僕は一度口を閉ざす。そのくらいでは男に動きはない。僕はしばらくその様子を眺めていたが、彼がまったく態度を変えないことを確認すると、言葉を続ける。


「あんたのことについて、牧田先輩から少しだけ聞いたから、それも合わせての考えになるんだけどね……。そもそも、『花を供える』って、故人に対してするのが一般的でしょ。あんたは、『あの家に住んでいたけれど、もう存在しない人間』に、花を供えに行っているんだよね。……毎日、誰かに嫌われてでも通うくらい大切な人が、そこにいたんだ」


 男はそれでも背を向けたままだ。だから、……僕は僕の、「男」に、「マスター」に対する推論の、一番最後を述べることにした。


「牧田先輩はあんたの目的を、あんたが高校生の時に死別した少女、『ゼロ』の魂を、Rの世界に還すことだと言っていた。で、『ゼロ』は、『阿部礼』のことなんでしょ。……前にあんたは、僕にとって『マスター』とは何かって聞いたけど、今なら答えられるよ。『マスター』は、『ゼロ』の――そして『阿部礼』のことが誰よりも好きで、『阿部礼』の死を誰よりも受け入れられなくて、『阿部礼』を殺した相手と『阿部礼』のいない世界を恨んでいる――『古壱うたぎ』だ。『あんた』は、礼が虐待を受けている事実を聞いて、礼のために心から激怒して、その状況を変えたいと誰よりも強く願っていた、『古壱うたぎ』以外に考えられないんだ」




 ――電子機器のかすかな作動音以外は聞こえない部屋に、張りつめた静寂がひたりと満ちる。


 それはどれくらいの時間だったのだろう。僕は息を止め、そしてマスターの背中を、ただ見つめていた。


 すると不意に、男が振り向く。僕は思わず息を呑んだ。デスクトップの光に照らされ、日焼けしてない肌をさらに青白くした男はゆっくりとその唇を開くと、低く、かすれた声でこう言った。




「……そうだ。俺の名前は古壱うたぎ。『世界の交差』を管理する――『マスター』だ」




「……、そっか…………」






 ――そっか、合ってたのか。


 気が抜けた僕は、その場にずるずると座り込む。そして、改めてその顔を見た。前髪とその影に隠された男の顔は相変わらずよく見えない。が、彼が僕に視線を向けており、それが、今まで感じたことのないくらいにまっすぐだったから――僕は、今度こそ正解だったんだという実感が、胸に、じわじわと湧いてきた。


「よかった……」


「何が『よかった』んだ」


 男は低い声で言う。僕は床に座り込んだままで言った。


「いや、ここまで来て間違ってたらどうしよう、みたいな。結構大変だったからさ、ここに来るまで……」


「それはお前が勝手に首を突っ込んだことだ。俺に責任はない」


「それはそうかもしれないけどさ。……でも、これですっきりしたよ」


 僕がそう言うと、男は怪訝そうな声で訊き返す。


「どうしてお前がすっきりするんだ。それに、お前はそんなことを知ってどうする。〈マスターの世界をぶち壊す〉っていう、お前の願いを叶えに来たのか」


 彼の口調は厳しく冷たい。だけど……僕は、男にくたりと顔を向けた。


「それが、わからなくなったんだよ」


「……どういうことだ」


 僕は、その場で膝を抱える。そして話し始めた。やっぱり立ちながらよりも、座って、縮こまって話す方が僕は落ち着く。


「……あんたのこと、わからなくなった。最初は『なんてムカつくやつ!』って思ったけど、あんたを否定するためにあんたのことを調べてたら、本当にあんただけを否定していいのか……って気持ちになったんだ。考えれば考えるほどさ、あんただけを責めるのはどーにもお門違いな感じがして……」


「…………」


 マスターはめずらしくこちらを見て、話に耳を傾けてくれている。それはそれで少し緊張するが、ここでは多少時間がかかっても、思っていることを、きちんと伝えないといけない気がした。


「確かに牧田先輩の言うとおり、いくら『世界の交差』なんて奇跡があるとはいえ、それを使って死んだ人間を生き返らせようとしてるのは無謀だと思うし、その為に牧田先輩とか尚人先輩とか、関係のない人間を巻き込んでるのは駄目だと思う。だけど、そもそも礼治が礼をもっと早く救ってあげることができていたら、礼は死ななかったんだよね。そう考えると礼治が悪いのかなとも思ったけど、礼に暴行を加えたり、礼治の考え方を悪い方に支配した母親のことを考えると、そっちの方が悪いって話になるじゃん。でも、母親がそんなひどい学歴コンプレックスになったのは、学歴なんかで人の価値を判断して簡単に他人を傷つけるような家族だったり、職場だったり、もっと言えばこの社会全体のせいなわけじゃん……。そしたらもう、僕は誰が悪いのか、誰を責めればいいのかわからないじゃん。だから……、僕には、あんただけを否定することはできないって思ったんだ」


 要領を得ない僕の話を、男は黙って聞いていた。僕は、なんとなく視線を外した。そして、床に積もった埃を指でなぞってみる。


「上手く言えないけど……、誰かが絶対に悪くて、誰かが絶対に悪くないことなんてないと思う。みんな悪くて、たまに正しいけど、みんな、どこかで誰かを傷付けてるんだ……。僕だってそうだよ。僕も勝手な自分の思い込みで、人を傷付けて、間違えて。そのせいで、僕はとんでもないことをした……」


 僕は、自分をかばって倒れたひょうの姿を、視界いっぱいの赤を思い出す。その瞬間のことはこちらの世界でも鮮明に思い出される。そして、思い出すたびに胸が苦しくなった。本当に、いつだって自分は馬鹿だと思い知らされるのだ。


 すごく忘れたい。それか、後悔し続けていたい。前に進もうとして傷つけるなら、前に進もうとするのを諦めてしまいたい。……でも。


「だからと言って、間違えることや傷つけることを恐れて黙りこくってしまうのは、一番いけないことなんだ……って、教えてもらったから。『自分の思い込みに陥って、相手のことを知らずにいるままの方が、よっぽど悲しいことだ』……って」


 僕は思い切って顔を上げ、改めて、男の顔を真正面から見据えた。


 ――大事なことを言うとき、ひょうは、いつも僕の目を見て話してくれたから。こういう時くらい、僕も真似してみようと思ったんだ。


「僕はあんたの――古壱うたぎのことについて、その周りのことについて、やっぱりちゃんとわかっていないんだ。だから、あんたを否定することも、あんたの世界を壊すこともできない。『世界の交差』がどんな仕組みかなんて、結局僕にはわからなかったし。……だから、僕の願いを叶えるのは、もう少し後にしようと思ったんだ。今答えを出すんじゃなくて、もっと、あんたや『世界の交差』のことについて、知ってから。そう思ったら、ちょっとすっきりした。……なんで『すっきり』なのかは、僕もわからないけど」


「…………」


 男は黙っていた。僕の言っていることをちゃんと咀嚼してくれているような、そんな、心地のいい間まだった。




 男がそれ以上何も言ってこないのを確認したくて、僕はその場で伸びをしてみる。んん、と唸りながら上半身を伸ばすと、思いのほか気持ちいい。一応様子を伺っていたが、男は黙って僕の方を見ているだけだった。きっと、彼はこの場で言うことはないのだろう。


 それなら、と思って立ち上がる。いい加減、僕はお暇いとますることにした。


「……そういうわけだから」


 僕は男に背を向ける。そして、ドアノブに手をかけたところで背後で男が動く気配がした。


「どうかしたの」


「、いや……」


 振り返れば、男がのそりと立ち上がるところだった。そして、猫背のままこちらに歩み寄ると、――前でも後ろでもなく、彼は僕の真隣に立った。


「……見送り? それともまた首を絞めるつもり?」


「もう……、しない。また来るんだろう」


 男もドアノブにその大きな手を重ね、僕の代わりにドアを開ける。そのとき一瞬だけふれた男の指は、乾燥していて、骨ばっていて、氷のように冷たかった。




 結局、僕は男の後ろにひっついて廊下を歩いた。僕らはしばらく無言だったが、その途中、あることを思い出した僕は、思わず「あ」、と言って立ち止まった。


「どうした」


「忘れてた、伝言があったんだ」


「伝言?」


 男は僕を振り返り、そして立ち止まる。奥の部屋ほどではないが、廊下も寒くて薄暗い。


 ……僕は少し迷ったが、自分の前髪に手をかけた。臭すぎるかな。でもまあ、折角だしな。


 前髪の分け目を変えながら、僕は男の顔を見る。男は今から僕のしようとしていることにまったく見当がついていないのか、何の緊張感もなくその場に突っ立っている。


 なんだか忘れていた方がよかった気もするが、これだけ伝えにここに来るのもなあ、だなんて思いながら、少しずつ話し始めることにした。


「えーと……、最初あんたは、僕を見たときに『あいつ』に似てるって言ったよね。その『あいつ』って、つまり礼治のことなんでしょ。で、実際会ってみて思ったんだけど、あの人、わかりやすくいい人だね。真面目で、確かにストレスを溜めやすそうな性格してるなーって思ったよ」


「…………何が言いたい」


「そんな礼治からの伝言」


 目の前の男がわずかに動揺したのを察知する。


「……そんなの、」


「聞きたくない? でも、一応頼まれてるから。それに思い出しちゃったし、嫌だったら聞き流して」


 もう後には引けないか。


 かっこつけで伸ばした前髪をいつもと反対側の耳にかける。そして、すうっと息を吸って止める。




 大丈夫。できるだけ、礼治が言っていた通りに。


 僕は男の顔を見据えて、静かに言葉を吐いた。




「――『ごめんな、うたぎ』」




 聞いた瞬間、男がハッと表情を変える。その反応を見た僕は続けることにした。なんだか、上手くやれるような気がした。


「『人伝いにこんなことを言うのは、卑怯かもしれない。でも、ずっと謝りたかった……。礼のこともお前のことも、守ってやれなくて、本当にすまなかった。お前が俺のことを恨んでいるのはわかっている。お前はもう、俺の顔も見たくないかもしれない。それほど酷いことをしたことは、俺も、よくわかっている……』」


 男は黙って、僕の声を聞いていた。男の肩や握られた拳は、遠目にだけど、微かに震えているようにも見えた。


「『そんな酷いことをしたからこそ、うたぎ、俺に直接謝らせてくれないか。俺は、ちゃんとお前に頭を下げたいんだ。恨み言ならいくらでも聞く。聞かせてくれ。お前は俺にとって、大事な後輩なんだ。たまにウザかったけど、いつも話してくれて、笑わせてくれて、本当に楽しかったんだ。お前の話をどうして聞いてやれなかったんだろうって、今になって、やっと後悔しているんだ。だから……、』」


 僕は男に向かって言う。礼治が僕に託したメッセージの、そのすべてが伝わるように。


「『俺はここで待っている。お前に頭を下げるその日まで、俺はずっと、いつまでも、ここでお前を待っているから』」


「…………ッ!」


 男の体がブルッ! とひときわ大きく震える。そして、大股で僕に近付くと、僕の肩を勢いよく掴んで揺さぶった。苦しそうに顔を歪めた男の第一声は、「なんで‼」という叫び声だった。


「なんで今さら、そんなこと言うんですか‼」


「……知らないよ、そんなの」


 激しく揺さぶられたことで、耳の後ろにかけていた前髪がはらりと視界に垂れてくる。その瞬間、我に返った男は僕から手を離して後ずさる。僕もふらりと後ずさって距離をとると、前髪を整えた。いつもの分け目だ、礼治とは真反対の。


「僕は礼治じゃないんだからさ、直接本人に聞いてよ」


「…………ッ」


 激しい感情を抑え込むように、フーッと息を吐きながら、男は僕の顔を睨んだ。悲しいことに、僕は礼治に似ているらしいけど礼治ではない。ただ僕は、彼に対する親切心から再び言葉を続ける。


「……でも、こんなことは言ってたよ。礼治が当時、古壱うたぎにちゃんと相談しなかった理由はさ、さっきも言ったように、礼治が自分の力だけで何もかも解決しようとしていたからなんだけど、……特にあんたは陸上の大会の前だったらしいじゃん」


「陸上の大会?」


 オウム返しをした男に、僕は「らしいね」と頷く。


「あんたは大会前だった。だから、無駄な心配をかけたくなかったんだって。あんた走るの早かったらしいじゃん、『仁』も相当早かったけど、それ以上だって礼治は言ってたよ。――あと、」


 ……そこまで言った僕は、本当に、すべてを伝えないといけないんだなと、そう思った。


「あと、礼治はあんたに、『礼の前では笑顔でいてほしかった』んだってさ。礼治はね、きっと、あんたは何にも知らない方が、いつもみたいに笑ってくれるだろうって思ってたんだって」


「そんなこと……ッ!」


 男が声を荒げる。固く握った拳で壁を殴る。それは「マスター」としてじゃない、「古壱うたぎ」としての、行き場のない怒りの発露だった。


「そんなの、先輩が決めることじゃない‼ 大会よりも、礼が困ってることの方が大事じゃないか‼ 困ってるって知ってるのに、何も知らないふりをして笑ってられるわけがないじゃないか‼」


「……それは、礼治も言ってたよ」


 僕が言うと、男の動きがピタリと止まる。僕は可能な限り冷静に言おうと努めた。


「礼治も、『なんて馬鹿だったんだろう』って言ってた。あんたとまったく同じことを言ってたよ。そんで、自分のことを『かっこつけだった』とも言ってた。礼治はあんたの、『かっこいい先輩』でいたかったんだって。そんで、あんたには心配かけたくなかったんだって」


「そう、先輩が……?」


 僕は頷く。ゆっくりと脚を動かし、男の方に歩み寄りながら、僕は自分の感じたことを言う。


「ホント、礼治って人も馬鹿だよね。ちょっと考えれば、馬鹿なこと考えてるって自分でもわかるだろうにさ。――でも、礼治は今、自分が馬鹿だったってもうわかってるよ。あの礼治ならもう、あんたのこともちゃんと聞いてくれるし、きっと礼治自身のことも教えてくれる。……あの人、『仁』ほど危なくて、悪い人じゃなかったよ。もしかしたらあんたは、『礼治』を『仁』みたいに見てたかもしれない。だけど、そんなことなかったよ。あんたの『先輩』は、ちゃんと、あそこに残っていたよ」


 僕は、男の正面まで来た。そして、男の瞳を覗き込むと、男にまっすぐ届くように、はっきりとした声で言った。




「礼治は今でも、あんたのことを大切に思っていた。……あんただって、礼だけじゃなくて、礼治のことも好きだったんだろ」




 その言葉に、ハッ、と男の目が見開かれる。


 と、次の瞬間、その目から涙があふれ、いくつもの粒が玉となり、男の頬をこぼれ落ちていった。


「…………ッッ!」


 男は勢いよく顔を背けると、真っ黒なセーターの裾で乱暴に目を擦った。そして僕も顔を背ける。他人の泣き顔なんて見たくもないし、自分の泣き顔も他人に見られたくない。それはあっちだって同じのはずだ――同じ「人間」なんだったら。


「じゃあね、マスター」


 僕はすれ違いざまに、短い別れの言葉を告げる。


 男はもう僕を追ってこない。とめどなく溢れる涙を不器用に拭い続ける男を最後に一瞥して、僕はローファーをつっかけた。




 ――これは完全に、単なる僕の考察なんだけど。


 「仁」という存在は、マスター、つまり古壱うたぎが、礼治に対して「こうあってほしい」ではなく、「こうあってほしくない」と願った存在なんじゃないだろうか。


 「世界の交差」でもう片側の世界に行く時、僕らは一回だけマスターに頼み、自分の容姿を変えてもらうことができる。礼治に直接聞いてみたところ、彼にはそのように、自分の容姿を変えてもらう機会はなかったそうだ。


 彼は「世界の交差」の仕組みも、「マスター」のこともまったく知らなかった。彼は気が付いたら「仁」の姿になっており、「仁」として生まれ変わった時の記憶はまったくないと言っていた。


 マスターに何も願っていないにもかかわらず、礼治がLの世界であんなに姿を変えてしまったのは、「礼治」自身が願ったからではなく、マスターである「うたぎ」の方が、礼治と真逆の人格を想像し、そして創造した、あるいは想像してしまったからではないだろうか。そして、それが「誰かが願った世界」において発現した、「うたぎ」の礼治に対する逆意識としての、「仁」という人格だったんじゃないだろうか。


 もしかしたらうたぎは、「礼治であってほしくない」と彼が願った殺人犯としての「仁」の人格だけを恨み、そうではない、彼の先輩としての「礼治」のことは信じたかったんじゃないだろうか――なんてところまで行くと、今度こそ本当に憶測になってしまうのでやめておく。真相はうたぎにしかわからないことだし、そんな心理が彼の中に働いていたかどうかなんて、そんなことはうたぎ自身もわかっていないかもしれないから。




 ステンレスのドアノブを握ると、ゆっくりと、それを手前に引いてみる。




 途端に、熱風、湿度、激しい日差し。


 それらが一体となり、冷えきった体に鬱陶しくまとわりついた。僕は盛大に顔をしかめる。そしてドアを閉めると、その場でカーディガンを脱いだ。まだ室内から出て一分も経ってないのに、すでに額から汗が噴き出すのを感じていた。


 暑い。本当に暑い。今日は七月に行われる夏期講習のうちの最終日。僕らが本物の夏休みに入る前の最後の授業の、その帰りだった。


 いくら夕方とはいえ、室内とは比べ物にならないくらいに外の温度は高い。僕は季節外れのカーディガンを畳みながら、礼治のこと、マスターのこと、そして――今度は自分のことについて、改めて考えようとしていた。


 ――たぶん、僕のLの世界の姿が仁に似ていたのは、たまたま、僕が礼治に似ていたからなんだよな。


 そんで、たまたま僕がマスターと初対面の時に、彼の気に障るようなことを言った。さらにたまたま、僕が自分の容姿変更のときに「こうなりたい」っていうイメージを持っていなかったから、きっと代わりにマスターのイメージが適用されて、仁と瓜二つの、あんな――鏡合わせみたいな容姿になったんだよな。


 ……僕が仁と少し似ていたおかげで、そしてマスターが感情のままに、Lの世界の僕を仁に似せて作ってくれたおかげで、それが「ヒント」となって、僕はこの真実までたどり着くことができた。


 それは、かなりの幸運だろう。きっと、かつての創作部の中で、ここまでたどり着いた人間はいないはずだ。牧田先輩が言ってくれたように、これはきっと、僕にしか導き出せなかった答えなんだ。


 ――だけど、僕はまだ、「何か」が腑に落ちなかったのだ。


 その、「たまたま」とかいう幸運や、なんでもかんでも「運命」の一言で済ませられる奇跡が許せないんだろうか? もしくは、「たまたま」僕と礼治が似ていたってところから始まる、そのストーリーの始まり方が許せないのか? それともラストが許せないのか? 僕はどうして、何もかもが終わったのに、どうもしっくりこないんだろうか。自分にしか出せない答えを、自分の力で、ようやく導き出すことができたっていうのに、どうしてだ?




「あ……そっか、」




 畳んだカーディガンを通学バッグにしまうとき、僕の「?」マークで満ちた心の水面に、一片の花びらが落ちてくるかのような静けさでその答えが降りてきた。




「これ……、『僕の物語』じゃないんだな」




 ……考えてみれば、僕が関わった今回の一件は、結局、「マスター」および「古壱うたぎ」と、「仁」改め「阿部礼治」の物語だったんだ。


 僕が自分の「運命」を信じ、まるで主人公になった気分で立ち向かっていった出来事はすべて、かつて些細なことですれ違い、仲違いをした男たちの、「彼ら」にとっての事件であり、「彼ら」の問題であった。そして言ってみれば、「僕」という存在は、そのような数奇な運命によってバラバラになってしまった二人が和解するための――一つの「駒」にすぎなかった……のかもしれない。


 思わず背後を振り返る。この無機質な、コンクリート打ちっぱなしみたいな建物の中で、今頃マスターは泣いていたりするんだろうか。彼は数年越しに礼治のことを、そして礼のことを考えながら、例えば明日から何かを変えようとしたり、今日から何かを変えたりするのだろうか。いや、そんなこともないんだろうか。何も変わらず、涙を流せるだけ流して、ひとしきり泣いて、落ち着いたら何もなかったかのように、パソコンの前に座って作業を再開させるのだろうか。ああ、なんだかそんな気がしてきたな。




 通学バッグの紐を肩にかけた僕は、自分の家までの道中、思いっきり直射日光にさらされる。といっても隣の家だから距離なんてほぼ無いに等しい。それでも日差しは馬鹿みたいに熱くて、僕はいったい八月になったらどうなってしまうんだろうと思った。ちょっと想像するだけで嫌気が差す。でもきっと、そんな暑さや嫌悪感も、家に帰ってクーラーをつけて、しばらくベッドに転がっていたら忘れてしまうんだろう。


 感覚というのは不確かだ。それに、ものや人だって、僕が思っていた以上に不確かなものなんだと知った。家が一つすり替わったって、誰かの大切な人が一人や二人いなくなったって、哀しむ人ももちろんいるけど構うことなく世界は回る。


 そんな不確かな世界の中で、それでも「僕」は生きている、けど。


 じゃあ、ねえ、「絶対的」なものってこの世に存在するんだろうか。「もの」も「他人」も、もしかしたら「自分」までもが他人によって管理され、勝手に変えられたり消滅させられたりする世界で、僕らは何を拠り所に生きていけばいいのだろう。そして、たとえ世界が不確かであろうとも、たった一つ揺るぎないと思っていた、「僕」という意識すらも不確かだっていうのなら、僕は一体何を頼りに生きていけばいいんだろうか。




 家に着いた僕は、まずは自室のクーラーを入れる。そしてベッドの上で丸くなると、しずかに、しずかに目を閉じた。


 僕はこの夏休みをきっと、与えられた課題だけこなして適当に送る。外は暑いしゲームでいいや。誰にも会わずにレベルを上げて、敵を倒して、食べたくなったらコンビニにアイスを買いに行って。


 そのようにして、平凡な僕にはただ、平凡でありきたりの日々が続く。それだけで。僕は何も変わらなくて、きっと、彼らみたいに「特別」にはなれなくて。




 ……そこで、「それでいい」って諦められたら、僕も大人になれるのかもしれないけれど。








 僕はゆっくりと意識を手放す。そして、ひっそりと願うのだ。「僕にも『運命』をください」……ってさ。




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