5話:アバターネーム(⑥)
◇
阿部礼治は、非常に優秀な男子生徒だった。
成績は常に学年のトップ。そして、礼治の――僕僕の通っている高校は県で一番偏差値の高い公立高校なので、学年トップということは全国的に見てもかなり優秀な成績ということになる。
今から数年前、阿部礼治はこの高校に堂々の主席合格を決めた。そして入学した後も、彼の絶え間ない努力によりその頂点の座を譲ることはなかった。彼は校内、いや県内の他の学生たちにはまったく目もくれず、次は誰しも聞いたことのある超難関大学に主席合格するべく勉学に励んでいた。
ただそれは、礼治自身が超難関大学への入学に憧れがあったからだとか、その大学でやりたいことがあったから、というわけではない。それを熱望していたのは、礼治の親――特に、礼治の母親だった。
礼治の母親は典型的過ぎるほど典型的な学歴コンプレックスだったと言う。彼女は中学校を卒業した後、専門学校を卒業し、そのまま就職した。僕はその経歴が社会的に見てどうだとか、一般的な大人が見てどういった印象を受けるかということは正直わからない。ただ、彼女は自身の学歴をひどく恥じ、それが原因で苦しむことがあったらしい。
そんな彼女は、「自分の子どもに同じ思いをしてほしくない」という強い思いから、自分の腹から産まれた子ども――第一子である礼治の教育に執心していた。彼女は礼治にミルクを飲ませながら教育のハウツー本を読み、ベビーカーを押しながら礼治の教育プランを考え、礼治の物心がつく前から「一番じゃないと意味がない」なんて、漫画の世界でも鼻で笑われそうな台詞を繰り返し言い聞かせていた。
子どもの教育に熱心になる母親なんて、今時そうめずらしくないのかもしれない。人間の社会的地位を測るための一つの基準として学歴が採用されているこの時代に、残りの人生を自分の子どもの教育に注ぎ込む親というのはおそらくごまんといるはずだ。
ただ、理想と現実は違う。自分の子どもに対して「こうあってほしい」と願うことが、叶うことなんてほとんどない。なぜなら彼らは「他人」だし、一人の「人間」なんだもの。だからきっと多くの親たちは「頭のいい子になってほしい」と勝手に努力をしたとしても、子どもにやる気がないだとか、勉強以外にもっと興味があることを見つけたとかの理由によって上手く行かなくなり、しょうがなしにそれらの働きかけを「諦めて」しまうんじゃないだろうか。
礼治の母親も、「普通」であれば、諦めていてもおかしくなかった。特に礼治の母親は、自分が俗に言う受験勉強をしたことがなかったのもあり、巷で有名なあらゆる教育本を鵜吞みにしていた。彼女には勉強がわからず、何が正しく適正であるかの判断がつかないため、それらすべての勉強法を礼治に実践するようにと言いつけていた。「普通」の子どもであれば、それらすべての実践というのは無理なことだ。吟味されていない大量の情報は、判断力に乏しい幼い精神を潰すだろう。だけど礼治は「普通」ではなく、賢い子どもだった。礼治は母親に与えられた勉強法を一通りこなし、その中から自分に合ったものを選び取ることができた。彼は判断力に長けていたのだ。だから礼治は母親がたいした努力をせずとも、自分の力だけで最適な勉強方法を見つけることができた。礼治は母親の描いた「理想」を「現実」に出力することができる、「いい子ども」だった。
また、礼治は勉強をすること自体が好きだった。彼は新しい知識を吸収することが好きな好奇心旺盛な子どもだった。彼自身が持つ「最適なものを見抜く力」を最大限に発揮するために、それこそ勉強という営みが「最適」であることを見抜いていたのかもしれない。国語、算数に理科社会――。礼治からすれば、何も知らない自分に次々と知らないことを与え、それらと向き合う時間と、それらを組み合わせて実践する自由を保障してくれる母親の教育法は、彼の知的好奇心を満たすのに「最適」だった。彼と彼の母親は、奇跡的に相性がよかったのだ。
さらに、礼治には「
礼治は、自分が人に、そして環境に恵まれていたと語った。しかしそれは彼自身の人のよさが引き寄せたものでもあると思った。彼は心に余裕があり、他人に対して優しく接することができる。それは彼の幼馴染みとの交流によって培われたのかもしれない。ともすれば彼は頑固なガリ勉に育っていたかもしれないが、彼の真面目さにはどこか愛嬌があった。話を聞いていた僕も、彼の話し方や態度、些細な仕草の一つ一つに、彼の人柄のよさを感じ取っていた。彼はきっと多くの人に好かれ、愛されていたと思う。
そういうわけで、礼治は小中高と、ほとんど円満な学生生活を送っていた。
――だが一つだけ、ある問題を抱えていた。
その問題が彼の生活に影響を与え始めたのは、礼治が高校三年生になった年の秋。学園祭のほとぼりが冷め、三年生の生徒たちが少しずつ、来たるセンター試験に向けてピリピリとし始めた、九月から十月にかけてのことだった。
「礼治先輩、」
終業のチャイムが鳴り、図書館で自習でもしようかと思っていた礼治の元に、ノーネクタイで長袖シャツを肘までまくったラフな印象の後輩、「
理想の高い母親から文武両道の実践を言い渡されていた礼治は、中学から高校にかけて陸上部で中距離選手として活躍していた。礼治はその夏、県大会が終わると同時に陸上部を引退したが、同じ部活の、学年が一つ下の後輩であるうたぎとは特別に交流が続いていた。
「どうした。練習は」
礼治が部活を引退した後も、うたぎは特に用もなく三年生の教室にやって来ては、礼治と話をしたがった。うたぎが話しかけて来るのはいつものことだから、礼治は決まり文句で返事をする。うたぎはいつも明るくて元気がよく、話し方が少々馬鹿っぽいところがある。しかし、その時彼は「ああ、それは……」と、いつになく歯切れ悪く返事をした。
おかしい。いつもだったら「この後すぐ行きますよ! でもその前に~」とかなんとか言って喋り始めるのに、様子が違う。その日、うたぎは何かを言い淀んでいた。礼治よりも長身で、かなりくだけた雰囲気のうたぎはワックスで固めた髪をガシガシと掻いた。
「その前にちょっといいッスか? どうしても気になることがあって……」
礼治は自分の荷物をまとめると頷いた。
「なんだよ、改まって」
「歩きながら話していいスか」
何か悩み事の相談だろうか。うたぎに連れられ、礼治は教室を出た。部活のことか、勉強のことか。礼治はうたぎのテスト勉強に何度かつき合わされたことがあるが、こんなに神妙な面持ちで誘われたことはない。だったら何だろうか。礼治は後輩のそのような顔を見たことがなかったから、彼の言いたいことにまったく見当がつかなかった。
校舎から出て、渡り廊下に差しかかると生徒の数が少なくなる。吹きさらしの通路は秋らしく乾燥していて、気の早い落ち葉が隅で舞っていた。
「礼治先輩」
前を歩いていたうたぎが振り返る。ちょうど辺りから人影が消えたタイミングだった。
礼治を見つめる彼の瞳には見たことのない不安と疑念が満ちていて、次の言葉を聞いた瞬間、礼治は頭の中が真っ白になった。
「
まったく予想外の言葉に動転した礼治は、ごまかすのも忘れて首肯してしまう。
「やっぱり……!」
うたぎは短く漏らすと、目を見開いたまま固まってしまった。礼治には、その一瞬が永遠のように感じられた。
「…………礼に聞いたのか」
なんとか絞り出すように訊くと、うたぎは無言で頷く。
「どういう流れで」
「詳しくは覚えてませんけど。普通に話してて、たまたま家族の話になったんです。俺も自分の家族の話をして、礼にも話してもらおうと思って……。そしたら、礼がお母さんとのことを話してくれたんです。『私はお母さんに嫌われているから』……って」
礼治は思わず頭を抱えたくなったが、代わりにうたぎの顔を少しだけ睨んだ。礼の、自分たちの家庭の問題は、学校の誰にも言わないつもりでいた。
「……礼なら大丈夫だ。俺からも母さんに言っとくよ。それでいいな」
「『大丈夫』って、何がですか」
はねつけるように言ったつもりだったのに、うたぎはそう簡単には引き下がらなかった。礼治は面倒な相手に知られてしまったと思った。苛立つ気持ちを抑え込むように両腕を組み、うたぎに向かって語りかける。
「あのなぁ、これは俺の家の問題だ。お前がそうやって首を突っ込む必要はないだろう」
その言葉にぴくりと反応し、低い声で言う。
「……『部外者はすっこんどけ』って言いたいんスか」
「そういうことだが」
「『部外者』じゃないでしょ、俺は!」
静寂の中、うたぎは突然声を荒げる。
その勢いに気圧された礼治が見上げると、彼の顔はただ不安に満ちていた。その様子を見て少しだけ冷静になった礼治はうたぎに歩み寄り、その肩にポンと片手を置いた。
「お前が礼のことを心配してくれるのは嬉しいよ。ありがたいって思ってる。お前は、礼のことが好きだもんな」
そう言うとうたぎは一瞬で顔を赤くする。そして、力強く頷く。礼治もその様子に満足して頷いた。うたぎは礼に、異性としての好意を寄せている。礼治はそのことを知っていた。好意を寄せているからこそ、うたぎが礼を必死に守ろうとすることは予測がついたし理解ができた。
「礼と母さんはな、昔からこうなんだ。竜二や絵子も知っているし、知った上で様子を見てくれている」
「竜二と絵子って、先輩の幼馴染みの……」
「そうだ。あいつらやあいつらのご両親に説得してもらったこともあったけど、全然変わらなかった。お前よりずっと長いつき合いで、それなりに信頼関係もあるご両親が直接説得しても、変わらなかったんだよ。だからわかってくれないか」
それを聞いたうたぎは俯いて、考え込む。一生懸命に考えを巡らしている姿を眺めていた礼治は、少し待った後、その頭に手を伸ばして思い切りわしゃわしゃっとやった。
「! せんぱ、」
「大丈夫だ」
できるだけ落ち着いた声で言うと、うたぎは礼治の瞳を見る。礼治はそれを真正面から受け止めた。
「今のところは、大丈夫だから。それに、いざとなったら俺がいる。お前はせめて、礼が学校にいる間だけでも気分を楽に……楽しませてやってくれないか。お前はそういうのだったら得意だろ?」
そう笑ってやると、うたぎはようやく安心したようだ。「はいっ!」と元気よく返事をしたうたぎはやる気に満ちた顔で、自分の胸をドンと叩いた。
「わかりました! それなら、家での礼のことは先輩にお任せします!」
「ああ。……よし、わかったらさっさと着替えて走って来い。もう時間ギリギリだろ」
今日も陸上部は練習があるはずだった。礼治はグラウンドの方を眺めながら言う。
「ホントですね! 先輩は来ないんスか?」
「ばーか、もう俺は引退したろ。……そういえばお前、成績の方は大丈夫なんだろうな!」
礼治の言葉にうたぎは表情を強張らせる。うたぎは礼治と異なり、頭よりも体を動かす方が断然好きなタイプだった。焦ったようにその場で足踏みをし始める。
「あ、えー……、まずまずッスかね! わはは! それじゃあ俺はこれで!」
「おい、お前もすぐに受験なんだからな! ちゃんと両立するんだぞ!」
「わかってまーす!」
うたぎは大声で叫ぶや否や、風のように去っていく。短距離走の選手のうたぎは、こういう時は無駄に逃げ足が速いのだ。
礼治はうたぎがいなくなったのを確認すると、近くの柱にもたれかかる。そして長い息を吐いた。渡り廊下には再び、人の姿が戻り始めていた。
――礼が、うたぎに母親のことを言うとは思わなかった。
純粋に驚く気持ちと、「何で他人に言ったんだ」と礼を責め立てたい気持ちの両方が湧いてきた礼治は、慌てて後者を追い出す。その時、辺りが少しだけ暗くなった気がした。雲が太陽を隠したのだろうか、ひんやりとした柱にもたれた礼治は静かに両目を閉じる。
彼の抱えていた問題というのは、礼治の一つ下の妹が、彼の母親から虐待を受けているというものだった。
妹の名前は「礼」と言った。
礼は、よくも悪くも「平凡」な少女だった。彼女が母親から虐待を受けるようになったのは、「それ」が原因だった。
全国でトップクラスの成績を誇る礼治、その妹の礼の成績は、別に悪いわけではなかった。むしろ礼は勉強嫌いのうたぎと比較するとずっと成績がよく、校内模試では常に平均より少し上の成績を取り続けている優等生だった。
礼治も礼のことは賢い、よくできた妹だと思っていた。それは教師から見てもそうだったようで、礼が二年生に進級して初めての三者面談で、礼の担任は「この成績なら地方の国立大学はもちろんのこと、努力さえすれば難関大学も射程内ですよ」と笑顔で告げたそうだ。
しかし、彼らの母親は、それを許さなかった。
三者面談が終わったその日から、母親は礼に対する態度を変えた。礼に対し、ことあるごとに暴言を吐くようになったのだ。最初は「勉強しなさい」から始まり、「寝る時間をギリギリまで削りなさい」だとか「そんなのだからあんたは馬鹿なのよ」と、勉強あるいは成績についての文句や暴言が多かったものが、「邪魔」、「のろまのくせにうろうろしないで」などと次第にエスカレートしていき、ついには「あんたのこと産んだ意味ないわ」と、礼の人格や存在自体を否定するような言葉を浴びせるようになった。
実は礼治の母親は、その三者面談をするまで、礼の教育については清々しいまでの放任主義を貫いていた。いっそ放置していると言っても過言ではないその態度は、礼が勉強に関して礼治と同等の才能を持っていないということを、早々に見抜いていたからかもしれない。礼治の勉強に関する才能を愛していた彼女は、第二子である礼の成績にはちっとも興味を持たず、むしろそのことを忘れようとするかのようにひたすら礼治の教育に専念していた。
しかし――先ほど礼治がうたぎにも忠告したように、二年生となった礼自身にも大学受験はやってくる。彼らの母親は、今まで放置していた礼の、彼女の娘の受験勉強を本気で見てやらなくてはいけないことに気づいてしまって――それからおかしくなったのだ。
彼らの母親の、成績に対する感覚は狂っていた。礼治の優秀さを当たり前だと思っていた彼女は、礼の成績に満足できなかった。また、いくら優秀だとはいえ、礼治の受験に対して非常に大きな不安と緊張を抱えていた彼女は、常に「礼治は合格できるだろうか」、「礼がいい大学に入らないと、礼治も自分も馬鹿にされないだろうか」、「むしろ礼は浪人するんじゃないだろうか」と心配し、頭を悩ませ、時にはひどく体調を崩した。
子どもの受験の「当事者」であると信じ込んでいた彼女は、自身が受験ストレスに陥ってしまっていた。そして、彼女自身の精神が磨耗すればするほど、彼女は礼に対してうるさく、口汚く暴言を吐いた。それまで静かだった彼らの家には、毎日のように彼女の暴言が飛び交うようになっていた。ちなみに彼がうたぎに説明したとおり、彼の母親の学歴コンプレックスや礼に対する暴言は、礼治の父親や、礼治の幼馴染みである竜二や絵子の両親が直接彼女に説得しても、止まることはなかった。
そして、礼治自身はと言うと――礼治は早いうちから、それこそ竜二や絵子の両親と関わり、対話をする中で、自分の母親が異常であることには気がついていた。また、精神に異常があるからといって、それを理由に他人に当たったり、暴言を吐いたりすることが認められるわけじゃない、ということもわかっていた。礼のためにも母親のためにも――そして、母親の暴言を毎日聞きながら過ごし、精神が疲弊している自分のためにも早くやめさせたほうがいいということを、礼治自身、十分に理解しているつもりだった。
だが――礼治は絶対に、母親に「やめてほしい」とは言えなかった。
礼治は生まれてこの方、自分の母親に対して意見をしたことがなかった。というか、する理由がなかった。なぜなら、礼治は「母親にも正しいところはある」と思っていたからだ。いくら他人からすれば異常で、「普通」から外れた母親であっても――その彼女の考え方や彼女の方法で、客観的に見て「正しい」成果を上げてきたからこそ、必ずしも母親がすべて間違っているとは思えなかった。
もちろん、礼治が全国でトップクラスの成績を修めていることは、彼自身の素質や努力の成果でもある。それらすべてが母親の方針や教育の賜物ではないことも理解した上で、礼治は、自分が母親の「正しさ」の象徴であることをやめようとしなかった。
――自分は母親の「正しさ」の象徴である、という自認が膨らみ、それが結果ではなく目的にすり替わっていることに気づいた時にはもう遅かった。
いつの間にか、彼の努力の結果である母親の正しさの証明は、彼の努力の目的になっていた。礼治は母親の思い通りに、そして母親の言うとおりに生きていたから少なくとも無事だった。しかし礼には暴言が浴びせられ、居場所はなかった。礼治は、礼のようにはなりたくなかった。難関大学の試験に合格できるかどうかということは、礼治にとって半ばどうでもいいことになっていた。とにかく礼治は自分が安全に、何事もなく、母親の思い描く理想の人生を歩くことに集中した。それが結局、自分の身を守ることにも、母親の精神を守ることにも繋がる。母親の性格は変わらない。礼の成績も、そんなにすぐ上がる物じゃない。だから自分は勉強に集中した。まずセンターでいい成績を取らないと、それこそ母親が壊れてしまう。礼には悪いがもう少し待ってもらって、自分の受験が終わったら、すぐに勉強を見てやろう。それまではできるだけ、母親にストレスを溜めないようにしてやり過ごそう。
うたぎに礼の虐待を指摘されて、なお、礼治が選択したのは「現状維持」だった。
だがそんな「現状」は、文字通り、彼の母親の手によって打ち砕かれる。
――「運命の日」は唐突にやってきた。
それは十二月の頭、センター試験を間近に控えた、とある冬の日のことだった。
「――礼治、それで、話してもらえないかな。今は忙しいんだったら放課後でもいいし……」
「礼治先輩‼」
昼休み。弁当を食べ終わった礼治の傍にはめずらしく、彼の二人の幼馴染み、竜二と絵子がいた。そして会話の最中だった三人はドアの方を振り向く。そこには必死の形相をしたうたぎがいた。
控えめな声量で会話をしていたクラスメートたちはうたぎの登場に静まり返り、視線を集中させる。その的となったうたぎは大股で一直線に礼治の机に向かい、竜二と絵子を押しのけるようにして礼治の前に立った。
「礼に何が起こってるんですか‼」
うたぎの大声に竜二が体を震わせる。座っていた礼治はガタン! と激しい音を立てて立ち上がると、勢いよくその胸ぐらを掴み、顔を近づけて凄んだ。
「他の人の迷惑になる。大きい声を出すんじゃない」
礼治のドスの利いた声に怯んだうたぎは、しかし、目の前の礼治の顔を見てハッと息を吞んだ。
深く刻み込まれた眉間の皺に、黒く濁った瞳。そして濃くなった隈。一見して明らかに様子の変わった礼治の様子と、干渉を拒絶する厳しい眼差しにうたぎは些か動揺したが、それでも負けじと礼治に言い返す。
「礼、怪我してたんですよ! 少し見えたんです。顔が腫れてたり、太ももに怪我をしてたり――」
「『太もも』ってお前、礼のどこを見てるんだ!」
「ちらっと見えただけですって! ってかそこじゃないでしょ! 怪我してるんですよ、聞いたら『家の人に暴力を受けてる』って言うじゃないですか!」
礼治は黒い煙のような憎悪が胸に立ち込めていくのを感じながら歯ぎしりをする。教室は静まり返っているのに、誰もがこちらを見ているのに、「そのこと」を大声でまくし立てるうたぎの神経が礼治は信じられなかった。
「だから大声を出すな! みんな勉強してるんだ。それに、前にも言っただろ。俺が何とかするから待っとけって」
「そんなこと言って、結局エスカレートしてるじゃないですか!」
「『うたぎ』くん……だったっけ」
唐突に、二人の間に絵子が入り込む。
それにはうたぎはもちろん、一緒に隣に立っていた竜二、そしてうたぎの胸ぐらを掴んでいた礼治も驚く。観衆も少しだけどよめいた。マイペースでよくも悪くも空気の読めない絵子は、いつだって、礼治や竜二の驚くような行動をする。
「きみの気持ち、わかるよ。あたしたちもさっきまで、礼治とその話をしてたの。でも礼治、全然話してくれなくてさ。ね、竜二」
「えっ! うん、そうなんだけど……」
突然話を振られた竜二は声が裏返ってしまう。絵子は竜二の返事を聞くと、礼治とうたぎに向き直る。
「そ。だから、放課後にでも話そうと思ってたんだ。今、礼治は話したくないんだってさ。ここじゃ他の人も聞いてるし嫌なんだって。だから、また後にしようよ。ほら、礼治も手を離して」
小柄な絵子はそう言って、礼治の手に自分の小さな手を重ねる。掴んでいた手をおとなしく礼治が離すと、うたぎは何歩か後ずさり、そして幼馴染み三人を代わる代わる見た。
「……先輩はいいですね、自分を守ってくれる人がたくさんいて」
「あ?」
礼治はうたぎに向かって一歩踏み出す。それを背の低い絵子が手で制した。
「礼を守ってくれないくせに、先輩は守ってもらって! ずるいんですよ!」
「うたぎくん、落ち着いて。礼治もきっと大変なんだよ」
今度は竜二が止めに入る。竜二はおそるおそるうたぎに話しかけた。
「信じて、待っててあげようよ。だから――」
「待ってたのにひどくなってるから、ここに来たんじゃないですか‼」
うたぎの大声に、竜二は小さな悲鳴を上げて飛び退く。それを見た絵子が一歩前に進んだ。繊細な竜二をかばうように立つ絵子に、うたぎは声を張り上げる。
「あんたたちは礼治先輩の味方かもしれないけれど、礼の敵だ! 俺は早く礼を助けてやりたいから言ってるんだ!」
「だからって、礼治に迷惑をかけていい理由にはならないじゃん。礼治が話したくなるまで待とうよ、礼治を信じたいんだったらさ」
「そんなこと言ったって‼」
うたぎは三人に向かって叫んだ。
「俺は礼のことが好きなんですよ‼ 好きな人がひどい目に遭って苦しんでるのに、黙っていられますか‼ そんなの男じゃないでしょう‼」
うたぎの叫びに、静かだった教室がさらにシン、と音を失くす。
「……それはあたしも同じ」
その均衡を崩すのは、やはり絵子だ。
「男だろうが女だろうが関係ない。あたしだって礼ちゃんも礼治も好きだから、どっちも傷つけられたくないよ。だから、礼治のことも傷つけないで」
きっぱりとした絵子の言葉が決め手だった。うたぎは唇を嚙み、礼治を睨みつけたままでわなわなと震えていた。が。
「意気地なし!」
礼治にそう言い放つと、走って教室を出て行った。
「……昼休み、終わっちゃうから」
うたぎの後ろ姿を見届けると、絵子はぽつりと言って竜二の手を取る。呆然としていた竜二は絵子に手を引かれると、あ、とかうんとか言いながら、導かれるままに歩いて行く。
ドアから出る間際に絵子は一度だけ振り向いて、「放課後。また来るから」と言った。しかし礼治は見向きもしない。
その場に取り残された礼治は、ガタン、と音を立てて椅子に座る。
その瞬間、五時間目の予鈴のチャイムが鳴った。その機械音に、教室はまるで魔法が解けたかのようににぎわいを取り戻した。
先ほどまでの出来事について話し始めるやつ、逆に何事もなかったかのように世間話を始めるやつ、授業の用意を始めるやつ。いろいろなやつがいたが、椅子に座った瞬間に放心し、虚ろな目で黒板を見つめる礼治に話しかけるやつはいなかった――そして、誰も思っちゃいなかった。それが、彼らが教室で「認識」する、最後の阿部礼治の姿になるなんて。
絵子の言葉を裏切り、逃げるように学校を出た礼治は、帰宅するやいなや荷物をベッドに放り出して、慣れ親しんだ学習椅子を思い切り蹴った。
ガン! という鈍い音の後に、右の脛に激痛が走る。机の正面を蹴ったので、椅子が暴れない代わりに跳ね返ってくるダメージが大きかった。
礼治の息は荒く、真冬だと言うのにその額にはうっすらと脂汗が滲んでいた。見開かれた目は赤く充血しており、その下の隈は、逆に蛍光灯の光でその黒を濃くしていた。
先ほど蹴飛ばした椅子を乱暴に引くと、机の上の、棚の、引き出しの中の参考書を掴んでは取り出し、壁や床に向けて投げつけた。ペン立てや蛍光スタンドは床にぶち撒けて踏みつける。本棚から雪崩れ落ちる参考書、ガラスが割れる音、力任せに引っ張れば千切れるコード。整頓されていた礼治の部屋はあっという間にめちゃくちゃになる。そして机の上や引き出しの中、壁や本棚から何もかもがなくなると、礼治は水中に飛び込むように、物だらけのベッドの上に倒れ込んだ。
礼治は、肉体的にも精神的にも限界を迎えていた。
奇しくもうたぎが初めて礼の虐待について問い質したその日から、礼治の母親は、礼に対して直接的な暴力を振るうようになった。多大なるストレスから、ついに母親はヒステリーを起こした。暴言が暴行に変わることになったトリガーが何だったのかはわからない。ただ「初めての受験」というプレッシャーに自分ではなく母親が押し潰され、限界を迎えてしまったことを礼治は悟っていた。
初めて暴言が暴行に変わった日、礼治は礼の部屋で起きている異変にすぐに気がついた。
礼治が普段通りに自分の部屋で問題集を解いていると、聞いたことのない激しい音で、階段を上る音がした。なんだと思っているうちに隣の部屋――礼の部屋のドアが開く音がして、母親が何かを大声で喚き散らし始めた。
なんて言ってるんだ、と耳を傾けた瞬間に、何か硬い物が家具にぶつかる、ゴン‼ という激しい音が家中に響いた。さらにその激しい音は続き、合間に妹の悲鳴が混じった。止まない音、母親のヒステリックな声、そして礼の悲痛な叫び声を聞いた礼治はシャーペンを放り出し、弾かれたようにベッドに飛び込み息を潜めた。
……止めに行かなくてはいけないのに、体が震えて動けない。
礼治はその夜、礼の部屋から暴行の音が聞こえなくなった後も、毛布の中で自分の無力を恥じながら言いようのない恐怖に震えていた。
次の日は休日だったため、礼治は昼間、母親が買い物に行った隙を見計らって部屋を出た。そして隣の部屋の扉の前に立つ。ノックをすれば、静かな声とともに礼が扉を薄く開いた。
「はい、」
扉の隙間から見えたその部屋は片付けかけであり、ところどころに荒らされた形跡が残っていた。礼の片頬は痛々しく真っ赤に腫れており、部屋着の裾からは青色や紫色の痣が見え隠れしていた。礼治が妹に頭を下げ、昨晩助けに入らなかったことを謝ると、礼は小さく笑って「大丈夫だよ」と言う。ただようやく現状に危機感が湧いてきて、しかし自分の力だけではどうすることもできないと判断した礼治が「やっぱり外部の人に相談しよう」と提案すると、礼は意外なことに、首を横に振った。礼はなぜか、礼は母親の暴力が表沙汰になることを拒むのだった。
礼の言い分は、「お母さんはセンター試験の前で気が立っているだけだから、きっと試験が終わったら楽になる。試験の近い兄さんの邪魔をしちゃいけないし、自分たちの家族に関係のない人を心配にさせてはいけない。それに、うちのご飯を作って掃除も洗濯もしてくれているのはお母さんなんだから、私が我慢するよ」というものだった。
礼治は内心で礼の言い分に納得していたが、兄として、一人の「正しい」人間として、それではいけないという気持ちもあった。
でも、と続けようとした礼治に、礼は首を横に振る。
「大丈夫。私は死なないから」
そう言うと、礼は礼治に向かって微笑んだ。その後、礼は礼治が何を言っても、笑って「大丈夫」と言うだけだった。
――その日から始まった礼への暴力は毎晩続き、次第にエスカレートしていった。
隣の部屋から聞こえてくる母親の声や、物を殴る音、部屋を荒らす音は、日に日に大きくなっていく。対して、礼の悲鳴はだんだん聞こえなくなっていった。おそらく、自分が悲鳴を上げると母親を刺激してしまうことに気づいたのだろう。礼治は母親が階段を上ってくる音が聞こえるとすぐに、参考書や単語帳を持ってベッドに入った。そして、懐中電灯のスイッチを入れると毛布をかぶって耳を塞いだ。それでも隣の部屋の音が聞こえてしまうのは、無意識のうちにストレスを溜め込んだ礼治の神経が、過敏になっていたからだろうか。
礼治は真冬の永い夜を、息苦しい毛布の中で、母親の喚き声と礼の部屋の物が壊れる音を聞きながらひたすら問題を解いて過ごした。
彼はひどいストレスで不眠症になっていた。睡眠は休み時間や放課後、人の少ない教室で取る。それだけでは足りなくなった時だけベッドで気絶するように眠り続けることができた。彼が陸上部に通っていた頃とはまったく異なる、今まででは考えられないような睡眠時間と生活リズムは、受験直前の礼治の精神と肉体に十二分な負荷をかけた。
それまでは奇跡的なバランスで上手くいっていた礼治の普通の日常は、歪み、脆くなり、崩れ始めていた。ベッドにうつ伏せで沈み込み、荒い呼吸で目を閉じていると、これまでのことが走馬灯のように蘇る。
……絵子と竜二との約束を破ったのは、初めてだった。そもそも、二人に隠し事をするなんて、昔は考えられなかった。
竜二は繊細な心の持ち主で、礼治の知っている誰よりも優しいからこそ、不安にさせたくなかった。また絵子はとても自然に礼治を守ってくれるが、家に帰れば歳の離れた妹がいて、彼女の面倒を見なくてはいけないと言っていた。礼治は昔から、ひそかに絵子に好意を寄せていた。だからこそ、絵子には自分の家の醜いところを見せたくなかったし、絵子の手を煩わせたくないと思っていた。
うたぎのことも怒らせてしまった。いつも元気でノリが良くて、融通の利かない自分と衝突することもあったけど、さりげなく自分や礼のことを気にかけて、力になろうとしてくれた。そんなうたぎを、自分は、心の底から軽蔑させてしまった。
――そりゃそうだ。「礼を守る」っていう、大事な約束を破ったんだから。誰から見ても、自分は加害者側の人間だ。絵子や竜二は俺の気持ちを尊重してくれたが、たぶん、本当はうたぎのように、俺を責めたいに違いない。俺だって自分自身を「意気地なし」だと思っている。責めている。でも、だからと言って、礼治は自分が今何をすべきかわからなかった。
礼のことは守りたいが、母親のことも守りたい。それが礼治の、誰にも言えない本心だった。礼や自分が学校や警察に相談したら、母親はどうなってしまうのだろう。通報した自分のことをどう思うのだろう。礼治は母親を裏切りたくなかった。他人の母親とは少々違うかもしれないけど、彼女こそが礼治にとって、唯一無二の母親だった。
産まれた時から、自分に対していつも一生懸命に接してくれた母親。時に難しい試練を与えられることもあったけど、それだって自分のためにと与えてくれたものだった。それ以上に、彼女は自分に必要なものを与えてくれて、自分に期待してくれて、自分を支え続けてくれた。彼女は彼にとっての絶対的な味方だった。
しかし、礼にとっては違った。母親は決して平等じゃない。それは母親が悪いのではなくて、そもそもこの家では、母親の期待に沿えられないものが「正しくない」のだ。だから礼は排除されてしかるべきとされてしまう。それが嫌ならただその「正しさ」の中に入るだけでいいのに、礼はそうすることさえしなかった。それは、礼が悪いんじゃないだろうか。
礼治はその「正しさ」の中でさえ生きていけば傷つかないと知っていた。それがこの家のルールだと割り切っていたから。いや、そもそもそれに値する学力があったから。その学力を手に入れるための才能があったから。彼の母親の期待に応えることができる、「いい子」だったから。
――だと、したら。
もし、自分が礼と同様に、才能を持たずに生まれてきていたならば。
もし、今後、自分が母親の期待に応えられなくなったなら。
……どうなるのだろう。「自分」には絶対的に優しかった母親。いつだって「自分」を褒めてくれた母親。いつも「自分」のことを大切にしてくれて――そして、誰よりも「自分」のことを愛してくれていた、愛すべき母親。
よくできたね、礼治。
すごいわ、礼治。
さすがお母さんの息子ね。
私の誇りよ、礼治。
彼女の声で再生されるのは、子どもの頃から聞くのを楽しみにしていた数々の褒め言葉だ。どこか甘くて優しくて、彼が苦しい時や孤独な時はいつも思い出していた、彼の心の拠り所であり唯一の指針。彼は母親のことが好きで、自分の母親のことを誰よりも愛していた。母親に褒めてもらうために、認めてもらえるように、母親の望み通りの自分でいたくて勉強を続けてきた。彼自身のことも、彼女にとって唯一無二の、大切な存在だと思ってほしかった。彼は彼女に愛してもらいたかった。
だけど、礼治は彼女が自分にかけてくれた言葉のすべてが、「自分」ではなく、「自分」に付属している能力や才能を褒めそやす言葉であることに気づいてしまった。
彼女は、もしも自分がすべてを失って丸裸になっても、「自分」のことを愛してくれるだろうか。
――そんなわけが、ないだろう。
バチン、と瞼を開けると、礼治は自分がベッドの上で眠ってしまっていたことに気づいた。
床の下に転がった時計を見れば、朝の四時を過ぎている。冬の早朝の空気は氷のように冷たく、カーテンの向こうは真夜中のように暗い。
ふと喉の渇きと微かな空腹を感じた礼治は、ゆっくりとベッドから起き上がる。その弾みでベッドの上の参考書が何冊か落ちたが、それを直すことなく部屋を出る。
足音を潜めて階段を下り、リビングに侵入するも誰もいない。暗闇の中で冷蔵庫を開けると白い光が部屋に漏れ出し、昨晩母親が用意したのであろう、自分用のおかずがぼんやりと浮かび上がっていた。
礼治はそれには手をつけずに牛乳パックを取り出して、いつものグラスに半分ほど牛乳を注ぐ。一気に飲み干し喉を潤わせると、洗剤を沁み込ませたスポンジでグラスを洗った。
氷のように冷たい水でグラスの泡を流しながら、彼は昨晩手をつけられなかった過去問をいつ解こうか考えていた。早くシャワーを浴びなくてはいけないし、荒らしてしまった部屋の片付けもしないといけない。学校にも行かなくてはいけないけれど、学校に行ったら絵子と竜二にまた何かを言われるだろうか。うたぎと鉢合わせたらどうしようか。どうやったら三人を心配させず、センター試験を迎えられるだろうか――。
礼治はいつもの動作で乾燥棚にグラスを置く。棚にはいつもより食器が少なかった。そのことに違和感を覚えた礼治がその隅に視線を移した瞬間。
ドクン、と心臓が跳ねるのを感じた。
いつも置いてある場所に、包丁が、ない。
棚の上にも、調理台にも、どこにも見当たらない。
弾かれたように振り返って階段を駆け上がる。礼の部屋の前まで来る。閉ざされたドアの前に立った礼治はその悪い予感のままに、ドアに体当たりをして中に飛び込んだ。
――そこに広がっているのは、最後に見たのとは比べ物にならないほどに荒れ果てた寝室だった。
本棚や椅子は薙ぎ倒され、唯一倒れていない学習机には数えきれないほどの傷とへこみがある。辺りには教科書やプリントの残骸のような紙類が散らばっている。ベッドのシーツは引き剝がされてぐしゃぐしゃに丸められており、破れた枕からは青緑色のビーズがこぼれて床や床を覆い尽くすごみの山の上に散乱していた。
引き裂かれたカーテンの奥は漆黒で、深夜かと思った。薄暗がりの中、何かがもぞりと動いて這うように近づいてくる。
「…………れい、じ、」
礼治のスラックスにしがみつく。母親だった。膝の辺りに当たった硬い感覚に視線をやると、彼女の手には、台所にあるはずの大きな肉切り包丁が握られていた。
「どうしよ、礼治、どうしよう、わたし……礼を、…………、礼を、……殺しちゃったみたい…………」
ウワーッと、女は声を上げて泣き出した。
少しずつ視線を上げると、奥には何かが学習机にもたれるようにして座っている。
――礼。
パステルカラーの彼女の寝巻きは、腹の辺りだけ暗闇が濃かった。その広がり方と形状から――礼治は彼の母親が礼の腹を刺したのだと理解した。
礼は大きな血溜まりの中に、両足を投げ出して座っている。またその中で、母親も一晩中座り込んでいたのだろう。彼女が引きずる下半身も、血に染まって赤黒く変色していた。
「まさか、死ん、じゃうと、おもわなくて、……ほんとに、殺すつもりはなかった、の……、ほんとに、そう、なの」
彼女は途切れ途切れの言葉を発しながら、礼治の脚に縋りついて幼い子どものように泣きじゃくっている。礼治は変わり果てた彼の妹の方を見ていた。
「そろそろ、お父さん、かえってくるじゃ、ない……、だから、どうしよう……って、……。殺しちゃうなんて、おもってなかった、から……」
――ついに、礼は死んだんだ。
「正しさ」の中に入ることができない人生を、とうとう終えることができたんだ。
礼治の唇が薄く開く。彼は母親の頭を優しく撫でた。母親が顔を上げると、その顔は涙と腫れと返り血で目も当てられないほど汚れていた。しかし、礼治はまるで、自分が彼女の親にでもなったかのように彼女に優しくすることができた。彼が彼女の頭を撫でる手は、この世の誰よりも彼女のことを愛していた。
「大丈夫だよ。いい方法を考えたから」
彼が優しい声をかけると、彼女は潤んだ瞳を輝かせる。
「ほん、と……?」
「ああ」
礼治は穏やかに微笑んで、母親の手からするりと包丁を奪い、
「あ、」
母親を血だまりの中に突き飛ばした。
バシャン! という音とともに、母親は礼の足元に倒れ込む。娘の血にまみれてぐしゃぐしゃになりながら起き上がった彼女は、その顔を恐怖に歪めた。
「れい、じ…………?」
「大丈夫だよ、母さん」
包丁を握り締めた礼治は母親の前に仁王立ちになり、彼女への愛情を込めてにっこりと微笑む。
両手で静かに包丁を構えると、不思議なくらいに心が凪いだ。まるでずっと、こうすることがわかっていたみたいに。
心地のいい静寂に満ちている礼治に対し、母親は口をパクパクとさせながら、彼の持つナイフの先端を見つめ続けていた。
「やめて……、れいじ、やめて…………」
「大丈夫だよ、母さん」
礼治もうわごとのように、同じ言葉を繰り返した。
「母さんも俺も、生きている価値なんてないから。だけど、俺は母さんの後を追うよ。だから安心して、俺のことを信じて」
礼治はそう言うと、ゆっくりとナイフを振りかぶった。
ナイフに怯える彼女は、最期まで、「自分」のことを見てくれることはなかった。
彼女が愛していたのはきっと、彼女自身だけだったんだ。
頭に浮かんだ考えの答え合わせをするように、彼女に刃を振り下ろす。
――その時、不思議なことが起こった。
礼治が包丁を振り下ろす瞬間、母親が、まるで誰かに引っ張られたかのように、勢いよく横に倒れ込んだのだ。
そして、その衝撃の反動だろうか、机にもたれかかっていた礼の体が、ズルッと音を立てて滑り、母親の体があった場所に崩れ落ちてきて――。
――礼治の振り下ろした包丁は、礼の左胸を貫いていた。
◇
「――『その後、人を刺したショックで狂気に陥った礼治は、ナイフで礼をめった刺しにし、その間に家から脱出した母親が警察に通報。母親と礼治は現行犯で逮捕された』――って、そういう事件だったわけだ、うん」
持参した長袖カーディガンの裾を伸ばしながら、僕はマスターに向かって声をかけた。
僕たちは今、例の部屋――僕が勝手に侵入し、去り際に首を絞められ殺されかけた、マスターの作業部屋にいた。
マスターの部屋は相変わらず薄暗くて散らかっていて、信じられないくらい寒い。明らかに業務用としか思えない大きさののクーラーからは冷たい空気が絶えずに流れ込んでいる。今ならばこれが、ここにある大量の電子機器をヒートさせないようにするためにあるのだとわかる。僕は上着を用意してきてよかったと思いながら、僕に背を向けて作業をし続けるマスターに一方的に語りかけていた。
「向こうの言い方を借りるなら――僕に与えられた『能力』は、『他方の世界に完全転生した人間の、転生前の姿と記憶を呼び起こす能力』らしい。なんてピンポイントな力なんだって感じだけど、まあ要は、〈マスターの世界をぶっ壊す〉という願いを叶えるためには、マスターのことをよく知る人物から直接話を聞き出す必要があったんだよね。おかげで『仁』の転生前の人格である『阿部礼治』から、彼自身のこと、彼の周りの人間関係、そして彼の身に起きた『事件』について、直接聞くことができた。で、僕も、いろいろ考えたんだ」
ドアの付近にもたれかかり、自分が礼治から聞いたことを話し終えた僕は――今度は、自分の「考察」を述べることにする。
「礼治の事件を聞いてさ、僕はひどい事件だと思ったけれど、同時に不思議だとも思った。『全国でも名の知れた超のつくほどの秀才が、あろうことかセンター試験直前に、受験ストレスのために母親と一緒に実の妹を殺害』だなんて、そんなショッキングな事件がどうしてニュースになっていないのか? どうして僕は同じ学校に通っているのに、そんな事件をちっとも知らないのか……ってね。いや、ただ単に僕がそういう噂に疎いだけかなーって、一応ネットで調べてみたんだよ。そしたらね、やっぱり『そんな事件は起きていない』んだ」
僕は息を一つ吸う。
「そこで、確信したよ。ここに『マスター』の干渉があるってね」
マスターは、両手でキーボードを叩く手を止めない。
「これは、『マスター』の『世界の交差』によって書き換えられた結果だ。あんたは『礼治』を『仁』に……そして、『礼』を『ゼロ』に、Lの世界への転生処理をすることによって、二人の存在をRの世界から抹消した。その結果、大がかりな『世界』の改ざんがされたんだ」
牧田先輩の言っていた、「すでに起こした大がかりな『世界の交差』」とはおそらくこれのことなのだろう。もしかしたら一度はニュースになったかもしれない事件も、彼は「なかったこと」として、この世界からの消去を行うことにおそらく成功している。
だから、当時の生徒や教師、学校の近辺に住む人たちは皆、その事件のことを忘れてしまった。マスターが世界を創り変えることによって、この世界から「例の事件」は消えた。
「あんたが花を供えに行っていた家は、阿部礼治と阿部礼の住んでいた家なんだろ。あの時、あの女は『うちには子どもがいない』って言ってた。それは、彼女の中から二人の記憶が抜けているだけではなくて、彼女にとって『阿部礼治と阿部礼が存在しない』世界になったから、彼女からすれば『子どもはいない』んだ」
ここまでは事実の確認。と言っても、マスターはちっとも反応してくれないけど。
ただ、ここまで来たからには続けるしかなかった。ここからは――僕の、自己満足のための憶測。
「……それでも、物を投げつけられて、傷をつけられてもあんたが毎日あの家に花を持って行くのは、どうしてだろうって思ってたんだ。そんなことは僕が考えなくてもいいことなのかもしれない。だけど、僕は二つの仮説を立ててみた。――まず、一つ目」
僕は、男がこちらを見ていないとわかりつつ、二本の指を折りながら話す。
「あんたはあの女に礼治や礼の記憶がないことを理解し、しかも本人から直接『来るな』って言われているのに、あの女にとってまったくの意味不明で、ゴミにしかならない花を供え続けている。それってよく考えなくても、かなりの迷惑行為だよね。だからあんたは、あの女に対する陰湿な嫌がらせ、当てつけのためにしているんだ。……で、もう一つなんだけど」
僕は一度口を閉ざす。そのくらいでは男に動きはない。僕はしばらく様子を窺っていたが、男が態度を変える気がないことを確認して、言葉を続ける。
「あんたのことについて牧田先輩から少しだけ聞いたから、そのことを合わせての考えになるんだけどね……。そもそも、『花を供える』って、故人に対してするのが一般的でしょ。あんたは、『あの家に住んでいたけれど、もう存在しない人間』に、花を供えに行っているんだよね。……毎日、誰かに嫌われてでも通うくらい大切な人が、そこにいたんだ」
男はそれでも背を向けたままだ。だから……僕は僕が「マスター」を理解するための推論の、最後の部分について述べる。
「牧田先輩はあんたの目的について、あんたが高校生の時に死別した少女――『ゼロ』の魂をRの世界に還すことだと言っていた。で、『ゼロ』は、『阿部礼』のことなんでしょ。……前にあんたは、僕にとって『マスター』とは何かって訊いたけど、今なら答えられる。『マスター』とは、『ゼロ』――『阿部礼』のことが誰よりも好きで、『阿部礼』の死を誰よりも受け入れられなくて、『阿部礼』を殺した相手と『阿部礼』のいない世界を恨んでいる――『古壱うたぎ』だ。『あんた』は礼が虐待を受けていると聞いて激怒して、その状況を変えたいと強く願い、奔走したことのある、『古壱うたぎ』以外に考えられないんだ」
――電子機器の微かな作動音しか聞こえない部屋に、静寂がひたりと満ちる。
それはどれくらいの時間だったのだろう。僕は息を止めて、その黒い男の背中を、どこか祈るような気持ちで見つめている。
不意に男が振り向く。僕は思わず息を吞んだ。デスクトップの光に照らされ、日焼けしていない肌をさらに青白くした男はゆっくりとその唇を開くと、低く、かすれた声でこう言った。
「……そうだ。俺の名前は古壱うたぎ。『世界の交差』を管理する――『マスター』だ」
「……、そっか…………」
――そっか、合ってたのか。
気が抜けた僕は、その場にずるずると座り込む。そして、改めてその顔を見た。長い前髪とその影に隠された男の顔は相変わらずよく見えないが、今までとは違うまっすぐな視線を向けられているような気がして、僕は、今度こそ正解なんだと実感した。
「よかった……」
「何が『よかった』んだ」
男は低い声で言う。僕は床に座り込んだままで言った。
「いや、ここまで来て間違ってたらどうしよう、みたいな。ここに辿り着くまで、結構大変だったんだから……」
「それはお前が勝手に首を突っ込んだことだ。俺に責任はない」
「それはそうかもしれないけど。……でも、これですっきりしたよ」
僕がそう言うと、男は怪訝そうな声で聞き返す。
「どうしてお前がすっきりするんだ。それが何のためになる。〈マスターの世界をぶっ壊す〉っていう、お前の願いを叶えに来たのか」
彼の口調は厳しく冷たい。だけど……僕は、男にくたりと顔を向けた。
「それが、わからなくなったんだよ」
「……どういうことだ」
僕は、膝を抱えながら話すことにした。やっぱり立ちながらよりも、座って、縮こまって話す方が僕は落ち着く。
「……あんたのこと、わからなくなった。最初は『なんてムカつくやつ!』って思ったけど、あんたを否定するためにあんたのことを調べていたら、本当にあんただけを否定していいのか……って気持ちになったんだ。考えれば考えるほどさ、あんただけを責めるのはどーにもお門違いな感じがして……」
「…………」
マスターはめずらしくこちらを見て、話に耳を傾けてくれている。それはそれで少し緊張するが、ここでは多少時間がかかっても、思っていることを、きちんと伝えないといけない気がした。
「確かに牧田先輩の言うとおり、いくら『世界の交差』なんて奇跡があるとは言え、それを使って死んだ人間を生き返らせようとしてるのは無謀だと思うし、そのために牧田先輩とか尚人先輩とか、関係のない人間を巻き込むのは駄目だと思う。だけど、そもそも礼治が礼をもっと早く救うことができていたら、礼は死ななかったんだよね。そう考えると礼治が悪いのかなとも思ったけど、そもそも礼に暴力を振るったり、礼治のこともちゃんと大事に愛さなかったりした礼治の母親だって悪いって話になるじゃん。でも、母親がそんなひどい学歴コンプレックスになったのは、学歴なんかで人の価値を判断して簡単に他人を傷つけるような身の回りの人だったりとか、見ず知らずの人だったりとか、そんな価値基準をつくっている社会の方だって話になるじゃん……。そしたらもう、僕は誰が悪いのか、誰を責めればいいのかわからないよ。だから……僕には、あんただけを否定することはできないって思った」
要領を得ない僕の話を、男は黙って聞いていた。僕は、なんとなく視線を外した。そして、床に積もった埃を指でなぞってみる。
「上手く言えないけど……誰かが絶対に悪くて、誰かが絶対に悪くないことなんてないと思う。みんな悪くて、たまに正しいかもしれないけど、みんな、どこかで誰かを傷つけてるんだ……。僕だってそうだよ。僕も勝手な自分の思い込みで、人を傷つけた。僕は、とんでもない過ちを犯した……」
僕は、自分をかばって倒れたひょうの姿を、視界いっぱいの赤を思い出す。その瞬間のことはこちらの世界でも鮮明に思い出される。そして、思い出すたびに胸が苦しくなった。本当に、いつだって自分は馬鹿だと思い知らされるのだ。
すごく忘れたい。それか、後悔し続けていたい。前に進もうとして傷つけるなら、前に進もうとするのを諦めてしまいたい。……でも。
「だからと言って、間違えることや傷つけることを恐れて黙りこくってしまうのは、一番いけないことなんだ……って、教えてもらったから。『自分の思い込みに陥って、相手のことを知らずにいるままの方が、よっぽど悲しいことだ』……って」
僕は思い切って顔を上げ、改めて、男の顔を真正面から見据えた。
――大事なことを言うとき、ひょうは、いつも僕の目を見て話してくれたから。こういう時くらい、僕も真似してみようと思ったんだ。
「僕はあんたの――古壱うたぎのことについて、その周りのことについて、やっぱり『ちゃんとわかっていない』んだ。だから今の僕は、あんたを否定することもあんたの世界を壊すこともできない。……だから、もう少し後にしようと思ったんだ。もし僕があんたや『世界の交差』について何らかの判断を下すとするなら、もっと、あんたや『世界の交差』のことについて知ってから。そう思ったら、ちょっとすっきりしたんだ。……何で『すっきり』なのかは、僕もわからないけど」
「…………」
男は黙っていた。僕の言っていることをちゃんと咀嚼してくれているような、そんな、心地のいい間だった。
男がそれ以上何も言ってこないのを確認したくて、僕はその場で伸びをしてみる。んん、と唸りながら上半身を伸ばすと、思いの外気持ちいい。ちらりと様子を見ると、男は黙って僕を見ているだけだった。きっと、彼から言うことはもうないのだろう。
それなら、と思って立ち上がる。いい加減、僕はお暇することにした。
「……そういうわけだから」
僕は男に背を向ける。そしてドアノブに手をかけたところで、背後で男が動く気配がした。
「どうかしたの」
「、いや……」
振り返れば、男がのそりと立ち上がるところだった。そして、猫背のままこちらに歩み寄ると――前でも後ろでもなく、彼は僕の真隣に立った。
「……見送り? それともまた首を絞めるつもり?」
「もう……、しない。また来るんだろう」
男もドアノブにその大きな手を重ね、僕の代わりにドアを開ける。その時一瞬だけ触れた男の指は、乾燥していて、骨ばっていて、氷のように冷たかった。
僕は男の後ろに引っついて廊下を歩いた。僕らはしばらく無言だったが、その途中、あることを思い出して、僕は思わず「あ」と言った。
「どうした」
「忘れてた、伝言があったんだ」
「伝言?」
男は僕を振り返り、そして立ち止まる。奥の部屋ほどではないが、廊下も寒くて薄暗い。
……僕は少し迷ったが、前髪に手をかけた。臭過ぎるかな。でもまあ、せっかくだしな。
前髪の分け目を変えながら、僕は男の顔を見る。男は今から僕のしようとしていることにまったく見当がついていないのか、何の緊張感もなくその場に突っ立っている。
なんだか忘れていた方がよかった気もするが、別の日に改めてこれだけ伝えに来るのもなあ、なんて思いながら、少しずつ話し始めることにした。
「えーと……最初あんたは、僕を見た時に『あいつ』に似てるって言ったよね。その『あいつ』って、つまり礼治のことなんでしょ。で、実際会ってみて思ったんだけど、あの人、わかりやすくいい人だね。真面目で素直そうで、確かにストレスを溜めやすそうだなーって思ったよ」
「…………何が言いたい」
「そんな礼治からの伝言」
目の前の男がわずかに動揺したのを察知する。
「……そんなの、」
「聞きたくない? でも、一応頼まれてるから。それに思い出しちゃったし、嫌だったら聞き流して」
もう後には引けないか。カッコつけで伸ばした前髪を、いつもと反対側の耳にかける。そして、すうっと息を吸って止める。
大丈夫。できるだけ、礼治が言っていたとおりに。
僕は男の顔を見据えて、静かに言葉を吐いた。
「――『ごめんな、うたぎ』」
聞いた瞬間、男がハッと表情を変える。その反応に、僕は伝言を続けることにした。なんだか、上手くやれるような気がして。
「『人伝いにこんなことを言うのは、卑怯かもしれない。でも、ずっと謝りたかった……。礼のこともお前のことも、守ってやれなくて、本当にすまなかった。お前が俺のことを恨んでいるのはわかっている。お前はもう、俺の顔も見たくないかもしれない。それほどひどいことをしたことは、俺も、よくわかっている……』」
男は黙って、僕の言葉を聞いていた。男の肩や握られたこぶしは、遠目にだけど、微かに震えているようにも見えた。
「『そんなひどいことをしたからこそ、うたぎ、俺に直接謝らせてくれないか。俺は、ちゃんとお前に頭を下げたいんだ。恨み言ならいくらでも聞く。聞かせてくれ。お前は俺にとって、大事な後輩なんだ。たまにうざかったけど、いつも話してくれて、笑わせてくれて、本当に楽しかったんだ。お前の話をどうして聞いてやれなかったんだろうって、今になって、やっと後悔しているんだ。だから……、』」
僕は男に向かって言う。礼治が僕に託したメッセージの、そのすべてが伝わるように。
「『俺はここで待っている。お前に頭を下げるその日まで、俺はずっと、いつまでも、ここでお前を待っているから』」
「…………ッ!」
男の体がブルッ! とひときわ大きく震える。そして、大股で僕に近づくと、僕の肩を勢いよく掴んで揺さぶった。苦しそうに顔を歪めた男の第一声は、「なんで‼」という叫び声だった。
「なんで今さら、そんなこと言うんですか‼」
「……知らないよ、そんなの」
激しく揺さぶられたことで、耳の後ろにかけていた前髪がはらりと視界に垂れてくる。その瞬間、我に返った男は僕から手を離して後ずさる。僕もふらりと距離を取ると、前髪を整えた。礼治とは真反対の、いつもの分け目に。
「僕は礼治じゃないんだからさ、直接本人に訊いてよ」
「…………ッ」
激しい感情を抑え込むように肩で息をしながら、男は僕の顔を睨んだ。悲しいことに、僕は礼治に似ているらしいけど礼治ではない。ただ僕は、彼に対する親切心から再び言葉を続ける。
「……でも、こんなことは言ってたよ。礼治が当時、古壱うたぎにちゃんと相談しなかった理由は、さっきも言ったとおり礼治が君たち三人に迷惑をかけたくなくて抱え込んだからなんだけど……特にあんたは陸上の大会の前だったらしいじゃん」
「陸上の大会?」
オウム返しをした男に、僕は「らしいね」と頷く。
「あんたは大会前だった。だから、無駄な心配をかけたくなかったんだって。あんた、走るの早かったらしいじゃん。『仁』も相当早かったから、礼治も早かったんだと思うけど――あと、」
……そこまで言った僕は、本当に、すべてを伝えないといけないんだなと、そう思った。
「あと、礼治はあんたに、『礼の前ではいつも笑顔でいてほしかった』んだってさ。礼治はね、きっと、あんたは何にも知らない方が、いつもみたいに笑ってくれるだろうって思ってたんだって」
「そんなこと……ッ!」
男が声を荒げる。固く握ったこぶしで壁を殴る。それは「マスター」としてじゃない、「古壱うたぎ」としての、行き場のない怒りの発露だった。
「そんなの、先輩が決めることじゃない‼ 大会よりも、礼が困ってることの方が大事じゃないか‼ 困ってるって知ってるのに、何も知らないふりをして笑ってられるわけがないじゃないか‼」
「……それは、礼治も言ってたよ」
僕が言うと、男の動きがピタリと止まる。僕は可能な限り冷静に言おうと努めた。
「礼治も、『なんて馬鹿だったんだろう』って言ってた。まったく同じことを言ってたよ。そんで、自分のことを『カッコつけだった』とも言ってた。礼治はあんたの前では『かっこいい先輩』でいたかったんだって。そんで、あんたにはお気楽に笑っていてほしかったんだ」
「そう、先輩が……?」
僕は頷く。ゆっくりと男の方に歩み寄りながら、僕は自分の感じたことを言う。
「ホント、礼治って人も馬鹿だよね。――でも、礼治は今、あんたに馬鹿なことをしたってわかってるよ。あの礼治ならもう、あんたの話を逃げずに聞くし、きっと礼治自身のことも教えてくれる。……あの人、『仁』ほど危なくて、悪い人じゃなかったよ。もしかしたらあんたは『礼治』を『仁』みたいに見てたかもしれない。だけど、そんなことなかったよ。あんたの『先輩』は、ちゃんと、あそこに残っていたよ」
僕は、男の正面まで来た。そして、男の瞳を覗き込むと、男にまっすぐ届くように、はっきりとした声で言った。
「礼治は今でも、あんたのことを大事に思っていた。……あんただって、礼だけじゃなくて、礼治のことも好きだったんだろ」
その言葉に、ハッ、と男の目が見開かれる。
と、次の瞬間、その目から涙があふれ、いくつもの粒が玉となり、男の頬をこぼれ落ちていった。
「…………ッッ!」
男は勢いよく顔を背けると、真っ黒なセーターの裾で乱暴に目を擦った。そして僕も顔を背ける。他人の泣き顔なんて見たくもないし、自分の泣き顔も他人に見られたくない。それはあっちだって同じのはずだ――同じ「人間」なんだったら。
「じゃあね、マスター」
僕はすれ違いざまに、短い別れの言葉を告げる。
男はもう僕を追ってこない。あふれてくる涙を不器用に拭い続けている男を一瞥し、僕は玄関に置いていたローファーを突っかけた。
――これは完全に、僕の考察なんだけど。
「仁」という存在は、マスター、つまり古壱うたぎが、礼治に対して「こうあってほしい」ではなく、「こうあってほしくない」と願った存在なんじゃないだろうか。
「世界の交差」でLの世界に行く時、僕らは一回だけマスターに頼み、自分の容姿を変えてもらうことができる。僕にもその機会はなかったが、礼治にも同様に、自分の容姿に関して要望を出すような機会はなかったそうだ。
彼は「世界の交差」の仕組みも、「マスター」のこともまったく知らなかった。彼は気がついたら「仁」の姿になっており、「仁」として生まれ変わった時の記憶はまったくないと言っていた。
マスターに何も願っていないにもかかわらず、礼治がLの世界であんなに姿を変えてしまったのは、「礼治」自身が願ったからではなく、マスターである「うたぎ」の方が、礼治と真逆の人格を想像してしまった、あるいは創造してしまったからではないだろうか。それが礼治に対してうたぎが願った、そして願わなかった、「仁」という人格だったんじゃないだろうか。
もしかしたらうたぎは、「礼治であってほしくない」と彼が願った殺人犯としての「仁」の人格だけを恨み、そうではない、彼の先輩としての「礼治」のことは信じたかったんじゃないだろうか――なんてところまで行くと、今度こそ本当に憶測になってしまうのでやめておく。真相はうたぎにしかわからないことだし、そんな心理が彼の中に働いていたかどうかなんて、そんなことはうたぎ自身もわかっていないかもしれないから。
ステンレスのドアノブを握ると、ゆっくりと、それを手前に引いてみる。
途端に、熱風、湿度、激しい日差し。
それらが一体となり、冷え切った体に鬱陶しくまとわりついた。僕は顔をしかめ、そしてドアを閉めるとその場でカーディガンを脱いだ。まだ室内から出て一分も経ってないのに、すでに額から汗が噴き出している。
暑い。本当に暑い。今日は七月に行われる夏期補習のうちの最終日。僕らが本物の夏休みに入る前の最後の授業の、その帰りだった。
いくら夕方とは言え、クーラーの効いた部屋とは比べ物にならないくらい暑い。僕は季節外れのカーディガンを畳みながら、礼治のこと、マスターのこと、そして――今度は自分のことについて、改めて考えようとしていた。
――たぶん、僕のLの世界の姿が仁に似ていたのは、たまたま、僕の容姿が礼治に似ていたからだ。
そんで、僕がマスターと初めて対面した時に、たまたま彼の気に障るようなことを言った。さらにたまたま、僕が、自分のLの世界での見た目を決めるタイミングで「こうなりたい」っていうイメージを持っていなかった。だから代わりにマスターのイメージが適用されて、仁と瓜二つの――鏡合わせみたいな容姿にさせられた。
僕が礼治とほんの少し似ていたおかげで、さらにマスター、もとい古壱うたぎが彼の感情に任せてLの世界の僕を仁に似せてくれたおかげで、それが「ヒント」となって、僕はこの真実まで辿り着くことができた。
それは、かなりの幸運だろう。きっと、かつての創作部員の中で、ここまで辿り着いた人間はいないはずだ。牧田先輩が言ってくれたように、これはきっと、僕にしか導き出せなかった答えなんだ。
――だけど、僕はまだ、「何か」が腑に落ちなかったのだ。
その、「たまたま」とかいう幸運や、何でもかんでも「運命」の一言で済ませられる奇跡が許せないんだろうか? もしくは、「たまたま」僕と礼治が似ていたってところから始まる、そのストーリーの始まり方が許せないのか? それともラストが許せないのか? 僕はどうして、何もかもが終わったのに、どうもしっくりこないんだろうか。自分にしか出せない答えを、自分の力で、ようやく導き出すことができたっていうのに、どうしてだ?
「あ……そっか、」
畳んだカーディガンを通学バッグにしまう時、僕の「?」マークで満ちた心の水面に、一片の花びらが落ちてくるかのような静けさでその答えが降りてきた。
「これ……、『僕の物語』じゃないんだな」
僕が関わった今回の一件は、結局、「マスター」および「古壱うたぎ」と、「仁」改め「阿部礼治」の物語だったんだ。
僕が自分の「運命」を信じ、まるで主人公になった気分で立ち向かっていった出来事はすべて、かつて些細なことですれ違い、仲違いをした男たちの、「彼ら」にとっての事件であり、「彼ら」の問題であった。そして言ってみれば、「僕」という存在は、そのような数奇な運命によってバラバラになってしまった二人が和解するための――一つの「駒」に過ぎなかった……のかもしれない。
思わず背後を振り返る。この無機質な、コンクリート打ちっぱなしみたいな建物の中で、今頃マスターは泣いていたりするんだろうか。彼は数年越しに礼治のことを、そして礼のことを考えながら、例えば明日から何かを変えようとしたり、今日から何かを変えたりするのだろうか。いや、そんなこともないんだろうか。何も変わらず、涙を流せるだけ流して、ひとしきり泣いて、落ち着いたら何もなかったかのように、パソコンの前に座って作業を再開させるのだろうか。ああ、なんだかそんな気がしてきたな。
通学バッグの紐を肩にかけた僕は、自分の家までの道のりを、思いっきり直射日光にさらされる。と言っても僕とマスターの家は隣同士だから、距離なんてほぼないに等しい。それでも日差しは馬鹿みたいに熱くて、僕は八月になったら一体どうなってしまうんだろうと思った。ちょっと想像するだけで嫌気が差す。でもきっと、そんな暑さや嫌悪感も、家に帰ってクーラーをつけて、しばらくベッドに転がっていたら忘れてしまうんだろう。
感覚というのは不確かだ。それに、物や人だって、僕が思っていた以上に不確かなものなんだと知った。家が一つすり替わったって、誰かの大切な人が一人や二人いなくなったって、悲しむ人ももちろんいるけど構うことなく世界は回る。
そんな不確かな世界の中で、それでも「僕」は生きている、けど。
じゃあ、ねえ、「絶対的」なものってこの世に存在するんだろうか。「物」も「他人」も、もしかしたら「自分」までもが他人によって管理され、勝手に変えられたり消滅させられたりする世界で、僕らは何を拠り所に生きていけばいいのだろう。そして、たとえ世界が不確かであろうとも、たった一つ揺るぎないと思っていた、「僕」という意識すらも不確かで不必要な存在なんだと言うのなら、僕は一体何を頼りに生きていけばいいんだろうか。
家に着いた僕は、まずは自室のクーラーを入れる。そしてベッドの上で丸くなると、しずかに、しずかに目を閉じた。
僕はこの夏休みをきっと、与えられた課題だけこなして適当に過ごす。外は暑いしゲームをしよう。誰にも会わずにレベルを上げて、敵を倒して、食べたくなったらコンビニにアイスを買いに行って。
そのようにして、平凡な僕にはただ、平凡でありきたりの日々が続く。それだけで。僕は何も変わらなくて、きっと、彼らみたいに「特別」にはなれなくて。
……そこで、「それでいい」って諦められたら、僕も大人になれるのかもしれないけれど。
僕はゆっくりと意識を手放す。そして、ひっそりと願うのだ。「僕にも『運命』をください」……ってさ。
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