5話:アバターネーム(⑤)

 仁の時間が動き出したのだ! ……ということは、僕たちはこの場で終えておくべき会話をし終えたのだろうか。

 僕は思わず後ずさる。と、銀髪の殺人鬼が先に口を開いた。


「待ちくたびれたよぉ、『ひょう』」

「ええ、お待たせしました」


 ひょうは変わらない調子で返事をする。銀色の前髪で片目を隠した男は、はあ、はあ、と舌を垂らして僕たちの方を見ている。

 その一連の動きには何の違和感もなく、やはり本当に、僕たちが会話を終えるまで、彼の時間は止まっていたんだと感じられた。。まるで彼はさっきからずっとそうしていたかのように、肩で息をし、顔にはニタリと笑みを浮かべ、のっそりと、こちらへと近づいてくる。

 と、黒いタンクトップからむき出しの腕が、腰の辺りから「何か」を取り出す。僕はすぐにそれが「何か」わかった。刃渡り十五センチほどの、銀のナイフだ。

「、ひょう!」

「……そのナイフ、どこで手に入れたのですか?」

 思わず喉の奥から「え、」と声が出る。

 ひょうの予想外の質問に、僕だけが驚いていた。対して仁は「これぇ?」と言うと、それを掲げてぎらりと日光に反射させた。

「よく気づいたねぇ。そうだよぉ、これは前とは違うナイフ。前のはお前に奪われちゃったからぁ、新しいのにしたんだぁ」

 仁はうっとりとした表情でナイフの曲線をなぞる。じっと目を凝らしても、僕には以前彼が持っていたナイフと今持っているナイフが別の物かわからない。真正面から男を見据えるひょうはぴくりとも表情を動かさず、世間話のような口調で会話を続ける。

「左様でございますか。……では、どちらで入手したのでしょうか」

「どこだろうねえ。気づいたら握ってたんだもの」

「あら、それは不思議ですね。では、一体どうして仁様は――」

 ――再び、突風が屋上に吹きつける。思わず両目をつぶった瞬間、ダンダンダンッ! とコンクリートが打ち鳴った。

「っ、ひょう!」

 叫びながら瞼を開くと、開けた視界でひょうの背中とエプロンの紐が揺れる。すでに物干し竿を構えて走り出したひょうに対して、大きなナイフを握った仁が突進してくる!

「危ない‼」

 振りかぶった仁の腕が切り裂くより先に、ひょうはその身をかわす。そして竿の長さを利用し間合いを取る。ひょうの動きは軽やかで無駄がない。

 しかし仁も体勢を整えると、さらに素早い動作で踏み込みナイフを繰り出す。力任せに振り回すたびに空気を切り裂く恐ろしい音がするが、ひょうは舞うようにそれらすべてをかわしている。

 攻撃が当たらないことに苛立ち始めたのか、仁の顔がみるみる歪んでいく。ナイフがより素早く、力任せに突かれる。

 と、攻撃をかわすことに専念していたひょうがスニーカーで地面を踏み締める。ザッ! と両脚を肩幅に広げ同時に銀色の棍棒の両端を握り、ガードするようにガッチリと構える。

 そこにナイフが飛び込んで来る! 仁はひょうの動きに対応できずにその刃を銀の曲線に滑らせて――。


 ッンキシシシシシッッ‼


「、ッ~~~~……ッ!」

「う、いぃ……っっ!」


 屋上に響き渡る、不快音! 耳と頭と胸の奥とを引っ掻き回してぐちゃぐちゃにするような、卑劣かつ不愉快極まりない金属音に耐えられず、仁とともに僕まで崩れ落ちた。

 おそらくあれは、ステンレスの物干し竿でナイフを受け流した時に発生した、金属同士の摩擦音。給食や外食などで金属の器や箸を使ったことがある人に問えば、その内の何割かが強烈な嫌悪感とともに思い出すアレだ。

 ひょうは器用にも、仁のナイフの軌道に合わせ、持っている物干し竿の角度、タイミングや力を調節することで、よりはっきりと大きな音でそれが響き渡るようにしたに違いない。あの一瞬でそれを計算するなど、並大抵の動体視力ではできないだろう。

 が! 僕は今、素直に感心するよりひょうのことを全身全霊で呪い殺してやりたい気持ちの方が強い。全身が不快感に震えそうになるのを抑え込みながら顔を上げると、その場にうずくまる僕や仁とは対照的に、ひょうは平然とした様子でその場に立っている。なるほど、ひょうにとっては何でもないのか。……と思うとなおさら許せない! お前、自分がされて嫌じゃないことが他人も嫌じゃない保証なんてどこにもないんだからな!

「お、まえっ、な……っ!」

「大変申し訳ございませんでした、巴様。手っ取り早く仁の動きを止めるために、これが一番効果的だと思いまして」

 くるくると棒を回しながらひょうはにこやかに笑う。そして仁に向き直ると、地面に崩れ落ちたままの男の背後に回り、そのまま体を拘束しようとする。


 が、仁も鞭で打たれたように反応した。

 ナイフを握り締めた手でひょうの脚を薙ぎ払う。ひょうはすんでの所でそれをかわす。が、間合いを取る前に、空いていたもう片方の腕が伸びてくる。あいつ、もうあんなに動けるのか! 仁は地面から少し浮いていたひょうの足首をしっかりと掴むと、ひょうの体を地面に叩きつけた!

 ダンッ! という激しい音ともにコンクリートが振動する。

「ひょう‼」


 ステンレス製の棒が、カランカラン……と、地面を転がっていく、軽い音。


「……!」


 さっきの大きな音は、咄嗟に物干し竿を手放したひょうが、正しく受身を取った音だったらしい。ただひょうが上体を起こそうとしても、足首を掴まれているため起き上がれない。

「あぁ、捕まえた……」

 仁は恍惚とした表情を浮かべ、もう片方の手を振りかぶる。高く掲げたナイフのきらめきが一瞬視界を白く塗り潰し、ぶつんと意識が飛びかける。


「、ひょう‼」

「死んじゃえ‼」


 その時。

 ビキビキビキッ! という、強烈な音が屋上に響き渡った。


「、あっ!」

 頓狂な声を上げ、仁はひょうから飛び退く。そしてひょうもバネのように飛び起きた。体勢を立て直したひょうが音もなく地面を蹴る。そして仁の懐に飛び込む。

 仁のナイフを握った右手首に、打ち込まれる手刀。もちろんひょうの美しく繊細な手が仁の握力に勝ることはない。が、ひょうが触れた部分からみるみるうちに氷が張り、仁はナイフを手放した。

 音を立てて落下したナイフをひょうは遠くへ蹴っ飛ばす。

 カラン!

「ああ、あ…………」

 両手を見つめた仁はよろよろと後ずさる。彼の右側の腕は手首から上まで薄い氷が張っており、左側は肘から指の先まで分厚い氷にびっしりと覆われていた。

「……なんで、」

 思わず僕は呟いていた。地面に這いつくばったままの僕も、仁と一緒に呆然としていた。

 どうして。ひょうの能力は「液体を凍らせる」ことだったはずだ。なのに、液体のないこの状況で、どうしてひょうは仁の両腕を凍らせることができたのだろうか?

「その仕組みは、私から説明しましょう」

 パン、とひょうが手の埃を払う音。その音に仁は顔を上げる。その瞳は、それこそナイフのように鈍く、ぬらぬらと薄気味悪く光っていた。

「『液体を凍らせる』という能力は、基本的には変わっていませんよ。仁様、まずは貴方の左腕ですが――貴方の左手の氷の媒体は、私の足首を握った時の、貴方の手汗でございます」

「て、手汗……?」

「ええ」

 思わず口を挟んだ僕にひょうは短く答える。そして、仁へと一歩歩み寄る。

「もちろん、それだけでは『そのように』広範囲を凍らせることはできません。ですが、想像を広げましょう。空気中にはたくさんの水蒸気が含まれていますね。その水蒸気の粒が、私の作った氷に触れることで急速に冷えて、気体から液体の水となる。その水をさらに凍らせ、またその近くにあった水蒸気を液体の水にし、それを私が凍らせる。――液体の水を凍らせるのよりも手間はかかりますし、薄くはなってしまいますが、実際、暴れる貴方を拘束できるくらいには、効力があるみたいですね」

 目を細めてひょうは微笑む。

「そして、水気のなかった貴方の右腕は、私と貴方が触れ合った時にぶつかり合った、『水蒸気の粒の集合』を凍らせました。――つまり私は今、少しでも水蒸気の多い空気があれば、それを媒介して、あらゆる物を凍らせることができるようですよ」

 そう言うと、ひょうは仁と僕によく見える角度でフッ、と息を吹く。そうすると不思議なことに、その息の中にはキラキラときらめく、小さな光の粒が混じっていた。

 それは微小な氷の粒で、ひょうの吐いた息に含まれる水蒸気が凍った物だ。人間の吐く息には通常の空気よりも多くの水蒸気が含まれる、ということを聞いたことがある僕は、そのことを瞬時に悟った。

 ああ、なんとなくわかった。つまり、ひょうは「液体を凍らせる」能力を発展させ、空気中の水蒸気さえもを凍らせることに成功したんだ。ひょう自身の想像の力によって!

 屋上の風に吹かれ、散っていく氷の粒。ぎらぎらとした眼でそれを見ていた仁の前にひょうは立ちはだかると、なめらかな動きで自分の胸の上に手を置き、恭しくお辞儀をした。

「ご無礼をお許しください、仁様。私たちは貴方と戦いたいわけではなく、貴方とお話がしたいのです」

「俺と……話をぉ……?」

「ええ」

 ひょうは顔を上げると、透明なビー玉のような瞳で射抜いた。

「私たちは貴方と、ゆっくり話をしたいだけなのです。そのために、貴方の動きを少しだけ封じさせていただきました。もちろん、こちらに害を与えないと約束してくださるのであれば、すぐに融かして差し上げます。ただ、そうでないと言うのであれば、私はその氷を永遠に融かすことはないでしょう」

「永遠にぃ……? そしたら、どうなるのぉ……?」

「数時間後に細胞が壊死していき、使い物にならなくなるでしょうね。壊死して時間が経ってしまった部位は切断するしかないようですが、貴方は両腕が凍っていますから、それはできないでしょう」

 丁寧でやわらかい調べは沁み渡るような心地のよさだが、少し遅れて、ひょうが恐ろしいことを言っていることに気づく。

「ひょう、そこまでしなくても――」

「もちろん、そんなことになるまで長い間、貴方と話をする気はありませんよ。こちらから聞きたいことは、そう多くはありませんから。貴方がきちんと私たちの質問に答え、私たちに応じてくださるなら、すぐに融かして差し上げます。ですから――」

 仁は、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込む。

「!」

 僕たちはその動きを目で追う。

 地面に膝を突いた仁は、暗く虚ろな目で灰色のコンクリートを見つめると、氷漬けになった両手を高々と上げた。


 ガンッ‼ と、仁の腕が地面に叩きつけられる。


 地面に叩きつけた氷の腕を、仁はゆっくりと持ち上げる。その手は、地面に叩きつける前から何ら変化がない。それをまじまじと見て確認すると、もう一度、大きく腕を振り上げ、落とす。そしてまた振り上げ、また叩きつける。

 ガンッ! ガンッ! っと鳴る音の間隔は狭くなっていく。仁は次第に、連続で腕を叩きつけるようになった。その場にしゃがみ込み、一心不乱に両腕を叩きつけるその姿はさながら猿のようで、人間としての知性を少しも感じさせない。

「無駄ですよ。私の氷は融けない氷です。貴方がいくら炎に近づこうと、ダイヤモンドにぶつけようと、その氷が融けたり割れたりすることはありません」

 そう述べるひょうの声は仁に届いているのだろうか。彼は自分の足元に何度も何度も、コンクリートが割れるんじゃないかと思うくらいに強く激しく両腕をぶつけている。

 よく見ると、仁の凍った手元はまったくの無傷だったが、氷と肌の境目には血が滲んでいた。おそらく、地面にぶつける時の衝撃で、氷に覆われていない皮膚が氷と擦れてしまっているのだろう。

 たまらなくなった僕は、口元を手で押さえる。彼を見ていると胸の辺りがむかむかしてくる。どう見たって人間なのに、人間とは思えない行為をし続ける男の姿を見ていると、そして鳴り止まない打撃音を聞いていると吐き気がしてきた。僕は思わず目を逸らす。

 本当に、こいつには知性があるんだろうか。僕はそれでも考えてしまう。僕は僕の願いを叶えるために、こいつ――仁と話したいと思った。そうすれば光明が見えるんじゃないだろうか。何か、解決の糸口になるんじゃないだろうか。その考えに確信があったからこそ僕は願ったんだ。だけど。

 仁が、すでに知性を失っていたら。完全な狂人だというのなら……いくらひょうが上手に拘束しても、仁から有益な情報を聞き出すことは難しいんじゃないだろうか。

「……巴様、」

 僕は我に返る。ひょうもそれを感じ取ったのだろうか。心なしか不安げに僕の名を呼ぶと、ひょうは僕の顔を見た。

 僕はよろよろと立ち上がる。やっぱり、いったん気絶させた方がいいのだろうか? もしかしたら一度眠らせて、目を覚まさせた後に会話をすると状況が変わるとか、そういう条件なのかもしれない。とりあえず今は、興奮状態に陥っている仁を落ち着けないことには会話もできないと思うのだが、どうなのだろうか。

 生ぬるい風に吹かれながら、僕は考える。そして、改めて仁の様子を窺う。少し離れた場所にいる仁はこちらに気づく様子もなく、腕にはさらに血を滲ませながら、ひたすら自虐とも呼べる暴力を繰り返している。


 ――と。

 仁が、顔を上げた。


「……ッ、」

 その時ぐるんっ! と動いた仁の眼球が僕を捉える。ギラギラと金色に輝く瞳が、狂気にぐにゃりと歪み、口の端が吊り上がり――。


「――巴様‼」


 ひょうの叫び声にハッとした時にはすでに、

「ひょう……っ!」

 凍った腕を引っ提げた仁が、僕を狙って突進してくる!

「巴様‼」

 ひょうの声と同時にピキン! と音を立てて、仁との間に薄い氷の壁が現れる。空気中の水蒸気で作った氷壁! しかし仁も上半身をひねりながら加速し、勢いよく氷漬けの両腕をぶち当てた!

 パンッ! と破裂音のような鋭い音を立てて、氷の破片が飛び散る。そうか、ダイヤモンドより硬いと言っても、同じ硬さで殴れば割れるのか! 飛び散った破片が自らの腕や頬を切り裂いても、仁は突っ込んでくるのをやめない。

「あっはははっ‼」

 凶器と化した腕を振り回しながら走ってくる。あれで僕をぶん殴る気なんだ! 僕はギュッと目をつむり、無駄だとわかっていながら両手で自分の体をかばう。あと五メートル、あと四メートル。だめだ! 三メートル――。

 迫り来る恐怖に耐えきれなくなった僕は絶叫した。

「嫌だ……ッ‼」

 声と同時に。

 ビキビキビキッ! という激しい音が、屋上の空気をつんざいた!

「ッア……‼」

 強烈な音を立てながら仁の腰から下が一気に凍りつく。

 そして、ぐらり、僕の目の前で体勢を崩し――勢いのままにコンクリートへと倒れ込んだ。


 …………ひょうがやったんだ!


 僕は弾かれたように顔を上げる。すると、ひょうがこちらに走ってくるのが見えた。

「……っ、はぁっ…………」

 僕は震える体を抱きながら、へなへなとその場にしゃがみ込む。

 ……怖かった。死ぬかと思った。もう安全になったとわかっていても震えと汗が止まらない。でも、もう大丈夫なんだ……と思うと泣いてしまいそうだ。僕は、ひょうに守ってもらったんだ!

 誰よりも強くて、美しいひょう。僕だけの、聡明で従順な従者! 僕はその名を呼ぼうと、大きく息を吸い込んだ――。

 ズア……ッ! という低い音とともに、辺り一面が暗くなる。

「、え……?」

 ――そして、吹きつけていた風が荒れ始める。

 顔を上げると、確かに屋上の空いっぱいに、どす黒い色をした雲が立ち込めている。それは仁の頭上を起点として広がり、強くて重たい風が吹きつけるたびに、濃度と厚みを増していく。いや、よく見たら雲じゃないかもしれない。

 鋭い風が僕の横を吹き抜ける。ザシャッ! と、細かい粒がぶつかったような音に驚いて見てみると、制服のシャツの袖には黒い流線型の汚れがある。試しに指でこすってみれば、指の腹には黒い粉末がこびりついた。

「砂鉄……?」

「よくわかったねえ」

 凍った両手をだらんと垂らした仁は、その大きく分厚い暗雲の下で、笑みを浮かべる。

 黒い雲はざざ、ざざ、と生き物のように蠢き、仁の上空をぐるぐると回る。最初は羽虫の群れのようだったそれはさらに濃くなり、ぎゅーッと凝縮して、球形になった。

 その球は、仁の目の前に音もなく降りてくると、ぎゅにゃ、ぐにゃ、ゴムボールみたいに形を変え、それは「一本のナイフの形になった」。

 それに気づいた瞬間、全身の皮膚が粟立った。

「それ、もしかして……っ」

「そう」

 恍惚の表情を浮かべている。

「こうやって創り出してたみたいだねえ」

 仁は首を動かして少し離れた場所を見る。つられて僕も見た先、コンクリートの隅には先ほどひょうが蹴り飛ばしたナイフがさらさら……と黒い粉になるところだった。まるでアイスが溶けるようにとろけたナイフは黒い煙となって地面を這ったかと思うと、上空の大きな雲に吸い込まれていく。

「いつもは適当に、上がり込んだ家のナイフや包丁を使ってたんだけどねぇ。今日のナイフは、たぶん俺が『創った』ナイフだったんだ。今、『水蒸気は水の粒』……って話を聞いたから、俺もイメージしやすくなったんだろうなぁ。おかげで、俺も空気の中の砂鉄の粒を集めて、形にすることができるようになった。ほらぁ」

 仁の周りで、砂鉄が集まってできた巨大な黒い煙が、不気味にズズズと蠢いた。仁を取り囲っていたそれ――砂鉄でできた煙は、強い風とともにウネウネと波打ち、屋上の空を覆い尽くしていく。

 その煙の中からゆっくりと、やはり黒色の、テニスボール大の鉄球が下りてくる。ただし、今回は一個じゃない。十個前後の黒い球が仁を囲うように降りてくると、それぞれがぐにゅぐにゅと形を歪ませナイフとなり、ぴたりとその場に静止した。 

「俺は難しいことはわからないからねえ」

 砂鉄の波に上体を起こされた仁は、ピッ、と横に向かって指をさす。と、十本のナイフが横へ飛んでいく。

 振り向けば、そこには物干し竿を掴んで走って来るひょうがいる!

「ひょう!」

「よそ見してていいのぉ?」

 低くて甘ったるい仁の声が厭らしく鼓膜を震わせる。振り返ると、仁がこちらに走り出していた。その足元には砂鉄にまみれた氷の破片が散らばっている。四肢はもう自由になっていた! 仁は右手に真っ黒な、恐ろしく刃渡りの長いナイフを握っている。

 どうして仁はあの氷から脱出できたのか、なんて考える暇もないのはわかっている! もう僕と仁の間にさほど距離はない。自由になった足でコンクリートを蹴り上げ、男は愉快そうに笑っている。

 ひょうなら大丈夫だという根拠のない確信に支配された。だから今ヤバいのは僕だ! どうしたらいい? このままじゃ殺される! 今度こそ本当に! ――ひょうが守ってくれなかったら!

 僕は咄嗟にうずくまる。デジャヴだ。だけど、今回は転がれなかった。

 ザザッ‼ という音とともに男が――殺人鬼が、僕を見下ろすように立ちはだかる。


「じゃあ、『ともえさま』」


 振りかぶったナイフが、絶望のようにきらめいた。




「死んじゃって。」




 ドッッ――‼

 鈍い音とともに、視界が真っ赤になる。




 ……空から、鮮血が降り注ぐ。




 顔に、体に、飛び散ったのは……生温い血液。

 おそるおそる、顔を上げる。

 目の前で揺れているのは、エプロンの紐。

 黄色のスカート。

 桜色をした、やわらかな髪の束。

 僕をかばうように立ったその薄い体の向こうに、返り血に濡れ、驚愕の表情でその人――そこにいるはずのない、ひょうを見つめる、仁がいた。


 ――ドッ‼ と激しい音を立て、ひょうは仰向けに倒れ込む。


 受け身も取らず、その場に崩れたひょうのエプロンには紅色の染みが一つ。その中央――ちょうど左胸の辺りに深く突き刺さっているのは、どす黒い色をした、一本のナイフだった。

 ひた、と何かが膝を濡らす。

 思わずそれを指でなぞった瞬間、ぬるりとした感触とともに、それがひょうの体から湧いている血液であるということに気づいて――。


 瞬間、思考がものすごい勢いで逆流した。


 どうしてこんなに赤いんだ? ひょうのどこにこんな色の、こんな量の血が通っていたんだ? 目も肌も髪の毛も、まるでガラス細工のように綺麗だったじゃないか。ガラス細工には血が通っていないだろう。「物」には、「道具」には血が通ってないはずだろう。こんなに汚くて気持ち悪い色が、君を満たしているわけがない‼



「……う…………‼」

「うわああああああああああああああ‼」


 叫び出そうとした瞬間、仁が大声を上げて発狂した。

 恐ろしいほどに顔は青ざめ瞳は焦点が定まらず、時々白目を剝いている。両腕を振り回しながらコンクリートにのたうち回り絶叫を繰り返す。もう何を言っているのかわからない。何か言葉のようなものを喋っているが聞き取ることができない。まともに耳を傾ければ僕までおかしくなりそうだ。

 咄嗟に僕は両耳を塞ぐ。と、指にこびりついたひょうの血がぬるりと耳の皮膚を撫で、思わずえずきそうになる。


 だめだ。僕が狂気に陥ってしまったらだめだ!


 悪寒とともに込み上げる吐き気を唾で飲み込み、僕は這うようにしてひょうの傍へと近づく。そして、耳を塞いでいた片方の手で、眠っているひょうの頬におそるおそる触れた。

 ひょうの肌はさらさらと無機質で、まったく温度を感じない。

 ふと胸に刺さっているナイフを見れば、ちょうどその輪郭がとろけて砂に還っていくところだった。おそらく能力の使用者である仁が発狂してしまうことにより、砂鉄にかかっていた結合力のようなものが解けかけているのだろう。

「……まずい、」

 僕は慌ててそのナイフを掴んだ。このままじゃひょうの体の中に砂が入ってしまう。

 だけど、理屈ではわかっていても、僕はそれを引き抜けない。じゃり、とした不快な感触を手に這わせながら、僕はそれを引き抜くことも、手を離すこともできなかった。

 僕は、今更、ひょうをこんなにも傷つけてしまったことを後悔している。そして同時に恐れている。今も痛くて苦しいだろうに、僕がこの胸からナイフを引き抜くことで、さらにひょうが痛い思いをするんじゃないかと思うと頭が真っ白になる。今更、本当に今更、僕は僕自身がひょうを傷つけてしまうことの恐ろしさに身動きが取れなくなってしまった。

 僕は馬鹿だった。ひょうのことは、本当にただの「道具」だと思っていた。いや、「道具」のように思っていたかった――むしろ思い込もうとしていたのかもしれない。

 でも実際は、ひょうだって、刃物で刺せば血が出る「人間」だった。僕は、「人間」を利用していたんだ。都合のいいように解釈して、効力を期待して、「君のことを信じてる」なんて言って、危ない役目を押しつけて。壊れるわけない、壊れてもいいやなんて思って。


 そんなの、「僕」が他人にされて一番嫌なことだ!


 僕は歯を食いしばる。自分がひょうに対して取った行動の一つ一つが恐ろしく思えた。それらの愚かな選択の帰結が、この惨状なんだ。この世界で一番僕を信用してくれたひょうは血だらけで地面に横たわっており、話を聞かなくちゃいけなかったはずの仁は頭を振り回しながら奇声を上げ続けている。

 僕は、仁が動き出す前のあの不自然な時間の静止が、この事態を回避するための時間だったことを悟った。僕はあの時、ひょうが仁に向かった時、ひょうに言うべきだったんだ。「大丈夫?」って、「危なくなったら無理はしないで」って。「君のことが大事だから」、いや「必要だから」でもよかった。「君は君のことも大事にしてよ」って、一言、ひょうのことを気遣う言葉をかけてやればよかったんだ!

 耳を塞いでいたもう片方の手もひょうへと伸ばし、両腕でその上半身を抱き締めた。かつてひょうが僕にそうしてくれたように。しかし、僕は自分の愚かさと情けなさに泣いてしまいそうだった。ひょうの体は薄く、驚くほどに軽かった。

 僕には、他人の痛みがわからない。いくら目の前で他人が怪我をして、その腕から赤い血が流れ、涙をボロボロこぼして泣いていても、僕にわかるのは、その人が怪我をして血を流していること、そしてその怪我は涙が出るほどの痛みを伴っているということだけなんだ。

 でも、僕は、胸から血を流しているひょうを見ていると、胸が痛くて、張り裂けそうなほど痛くて、ひょうはちっとも痛そうな顔をしていないのに、僕の方が泣きそうだった。


 しかし、狂ってしまった仁の声を聞きながらひょうの体を抱き締めていた僕は――「あること」に気がつく。

 ――僕は今、間違った選択をしたはずなのに、「世界の交差」が起こらない。

 前回はヒントが出揃い場が膠着した瞬間に眠気が襲ってきて、半ば強制的に「世界の交差」が発生した。

 だけど、今回は違う。先ほどから何も行動していないのに、「世界の交差」で強制的にRの世界に送還されるような気配がないのだ。僕は、ハッとして顔を上げた。

 そうだよ。おかしいんだ。何で僕を殺そうとした仁自身が、ひょうを刺したことに驚いているんだ? それも、発狂して我を忘れるほどに。あいつ、「人殺しは楽しい」って言ってなかったっけ?

 ……一つ、深呼吸をする。

 抱き締めていたひょうの体を地面に横たえると、僕は改めて、どろどろになった砂鉄の塊を引き抜いた。

 予想以上に穏やかに、そして綺麗に引き抜くことのできたそれを、僕は地面へと還す。泥のようなそれがさらさらと消えていくのを確認し、僕はひょうの胸の傷に手を置く。

 そして、「早くよくなれ」と呟く。願ったから、口に出したからと言ってすぐに叶うわけでもないようだが、僕は、ひょうを置いてその場に立つ。そして、目を閉じた。ひょうの胸に置いた手のひらを、今度は自分の心臓の上に重ねた。

 ――僕は今、何をすべきなんだろうか。

 そんなの、考えなくてもわかる。自分の力で、この状況を打開しなければいけない。何とかして、この状況を、いい方に変えていかなくちゃいけないんだ。

 「僕」にはそれができる。それは、この状況が不自然に動かないことから、さらに、この状況において行動することができるのが、仁でもひょうでもなく、「僕」だけなことから自明である。

 そもそも、ここはLの世界。僕の認識の上に成り立つ、「View」の世界なんだ。見方を変えれば世界は変わる。ちゃんと変わってくれる世界なんだ、「ここ」は! 今まではそれを屁理屈に、自分を守るために使っていた。だけど今は違う。僕はそれを、自分の願いを叶えるために使う!



「マスタ――――ッッ‼」



 僕は、出せる限りの大声で、天に向かって叫ぶ。「声に出す」ことが想像力を増幅させるなら、僕はいくらだって叫んでやる!

「あんた、この世界の管理人なんだろ‼ 今もどっかから見てるのか! もしそうだったら、僕にも力を与えてみろ‼」

 僕は腹に力を入れて、思いっきり振り絞る!


「あんたの世界を証明してやる‼ そのための力が欲しい‼ あんたのことを知って、理解して、考えるために必要な情報が、僕は今……欲しいんだ‼」

 叫び切った瞬間、パアンッ! という音が耳をつんざく。

 そして、地響きがする。ズゴゴゴゴ……という低い音とともに、屋上全体が大きく揺れる。

「っ、地震……っ?」

 地面に横たわるひょうへと咄嗟に近寄った瞬間――僕の視界に「ありえない物」が映り込む。


 ――低く、強烈な音を立てながら浮上するそれは、二つの、巨大な「鏡」だ。


 人間の体の数倍はあるような、円形の鏡。縁に装飾などの一切ないシンプルなそれは、僕と仁とを挟み込むような位置で静止すると、その水面のような表面に僕たちの姿を映した。

 僕の正面の鏡に映っているのはもちろん僕の全身。銀髪に碧眼の、こちらの世界での僕の姿だ。さらにその奥には、後ろを向いて呆然と立ち尽くす仁が映っており、その奥にはまた僕が、そして仁が、そしてまた僕が――と、延々と連なって映し出されている。要するに、合わせ鏡になっているのだ。

 仁は突如現れた巨大鏡に驚いているようだった。先ほどまでの狂乱ぶりはどこかに行ってしまい、鏡を見つめたまま呆然とその場に立ち尽くしている。

「……?」

 どこか様子のおかしい仁に声をかけようとしたその瞬間、ドッと、既視感のある強い眠気が襲ってくるのを感じた。

「っ、『世界の交差』……!」

 このタイミングで「世界の交差」! 僕はまた何かを間違えたのだろうか。

 頭を上げようとした瞬間、視界の端で仁が力なく地面に膝を突く。彼は重たそうに頭を抱えている。よく顔は見えないが、もしかして、「仁にも『世界の交差』が起きる」……? しかし、それを確認する間もなく暴力的な睡魔に苛まれる。僕も膝を突いた。

 と、僕の背後から鏡面が近づいてくるのを感じた。そして仁の方にも。二つの鏡は意志を持っているかのように、僕たちに向かって等速で近づいてくる。

 仁はわずかに抵抗しようとしていたが、僕は抵抗しない。


 ――これが、僕の起こした「奇跡」だって言うんなら。


 両目を閉じ、僕は背中へと重心をかける。すると、広く静かな鏡の面に、まるで水面に石を落とした時のようなトプンという音が響いた。

 僕は、身を沈めるように鏡の中に入っていく。液体のような心地よさに全身が飲み込まれてしまう直前に、倒れたま動かないひょうの姿が目に留まった。

 口を開きかけた瞬間――僕は睡魔に頭を殴られる。視界が白一色に塗り潰されて、気絶に近い感覚で僕の意識は飛んでしまう。



 ◇


 ……ぴちょん、という水音が、頭の中に反響する。


 何の音だろう。

 ゆるゆると瞼を開くと、目の前には薄くもやのかかった、灰色の世界が広がっている。

 味気ない――無機質な世界。辺りを見渡しても気になる物は一つもない。遠くに目を向けると、向こうには地平線が続いている。ただ、体の向きを変えるたびにローファーがぴちゃぴちゃと音を立てるから、もしかしたらあれは水平線なのかもしれないと思う。


 足元に広がる浅い海を覗き込んでみると、そこには銀色の髪をしたLの世界の僕が映っている、が。

 僕は指で、視界に入り込んだ前髪をつまむ。この少し鬱陶しい見え方は――僕の視界を遮っている黒い前髪は、Rの姿の僕の物に違いない。

 ゆっくりと自分の体に触ってみると、今、僕はLの世界でなぜか必ず身につけている紺のベストを着ていないらしい。手や指の感覚を通じて身につけているとわかるのは、学校指定の半袖シャツ、首元にボタンで留めたネクタイ、いつものスラックス。

 それらは明らかにLではなくRの物だったけど、今、ここには水面以外に僕の姿を映す物がないから確認しようがない。ただ、自分はRの姿をしている――という確信があった。しかし、もしそうだとしたら、どうして水面に映っているのはLの姿なのだろう。


 その時、背後に人の気配を感じた。


 振り返った僕の数メートル後ろには、いつの間にか、一人の男性が立っていた。さっき見渡した時にはいなかったはずなのに。

 すらっと背が高くて、さらさらの黒髪をなびかせている男。僕に背を向けている彼は、どうやらこちらには気づいていないらしい。

 僕は、導かれるようにその人に近づく。一歩踏み出すたびにローファーがパシャン、パシャンと音を鳴らすが、その人は後ろを向いたままで振り返らない。

 僕はとても自然に「あの」と声をかけていた。瞬間、男は振り向く。とても驚いている顔で。


 ――その顔立ちを、文字通り初めて目の当たりにした僕は、「ああ、確かに、少しだけなら似てるかもしれない」と思った。でも、同時に「そんなに似てるだろうか」とも思った。とても綺麗な人だったから。


「君は……?」


 男性らしくもどこか優しい、しっとりとした声が灰色の空間を満たす。

 ぱっちりとした二重に、真っ黒で大きな瞳。重たそうな瞼は垂れ目がちだ。細くてやわらかな黒髪で、額を出すべく前髪はきっちりと分けている。

 彼は僕と同じ学校の制服を着ていた。シャツのボタンを一番上まで留め、スラックスの中にきちんとその裾を入れた彼はまさに模範的な優等生の風格で、そして美青年だった。


 ――僕自身は、この男に特に恨みはない。だけど、少し興味はあった。


 背の高い彼を見上げ、わざと「あのさぁ」と不機嫌な声を出す。すると、男はわかりやすくうろたえたようだった。ちょっと面白い。真面目で愚直な人なのかもしれない。僕は少しだけ決めつけると、不機嫌そうな表情を作ったままで会話を続ける。

「人に名前を聞くより先に、自分の名前を名乗ったら。それが礼儀ってもんでしょ」

「ああ、それもそうだよな。悪かった。ごめん」

 黒髪の男は僕に向かって深く頭を下げる。その頭の下げ方は、上手く言えないが、こちらを変に持ち上げることも、自分を必要以上に小さく見せることもない、とても正しい頭の下げ方だった。

 思わずつられて男の足元を見る。その時気がついた。水面に映っているのは、銀色の髪で片目を隠し、黒色のタンクトップ、緑色のズボンを履いた、「仁」だ。水面に映った彼は、僕に向かって「とても正しい」姿勢で頭を下げている。

 そして、水面に映った男と目の前にいる男は「同時に」頭を上げる。

 僕の前に立った彼は、仁とはまったく異なる穏やかな瞳で僕を見つめる。僕は――僕も、黙ってその男を見つめ返す。すると、男は少し困ったように微笑んだ。僕は何も言わずに彼の言葉を待つ。彼が、何かを話したがっているように見えたから。

 僕が何も喋らないのを見た彼は、観念したように、そしてどこか安心したように息を吐いた。そしてようやく、その重たい口を開く。


「……俺の名前は阿部あべ礼治れいじ。君が俺に何をしたのかはわからないが、もしよかったら、人助けだと思って話を聞いてくれないか。どうしても俺の中で整理したいことがあって、俺はそれを、ずっと誰かに聞いてほしかったんだ……」


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