8話:モザイクアート(④)


『巴くんのクラスに、うちのクラスの女子が行ったみたい。大丈夫だった?』

 めずらしくメールが来たと思ったら、牧田先輩からだった。絵文字のない、用件だけ書かれた短いメールが牧田先輩らしくて、不覚にも笑いそうになる。僕はベッドの上で寝返りを打つと、携帯を握り直した。学校指定のワンタッチネクタイを外しただけで、もう晩御飯の時間も近いのに、僕はまだ制服を着ていた。

『大丈夫です。ありがとうございます。』

 ……こんなもんでいいだろうか。いろいろ話そうと思ったら話せるし、牧田先輩なら黙って聞いてくれそうだけど、わざわざ文字起こしするまでもないか、と思う。

 短いメールだけど何回か誤字や誤変換がないか確認して、慎重に送信ボタンを押した。たぶん、失礼はないと思う。僕は携帯を閉じて枕元に置いた。久しぶりに、ラジオでも聴こうかな。

 と、枕元に置いた携帯がけたたましい音で鳴り始める。

 メールの受信音じゃない、これは電話の着信音だ。こんなに大音量に設定してたっけ? 飛び起きて携帯を開くと、案の定「牧田先輩」と表示されている。着信音の音量の下げ方がわからず、僕は咄嗟に受話器のボタンを押した。

「っ、もしもし」

「もしもし、巴くん? 文字を打つのがめんどくさいからかけちゃった。元気? 準備とかで疲れてない?」

 牧田先輩のはきはきとした、よどみのない声を聞きながらベッドに座り直す。電話で話すのは初めてなのに、牧田先輩は相変わらず遠慮がなくて逆に安心する。

「大丈夫です。先輩の方こそ、準備が大変なんじゃないですか。三年生だし」

「あー、けっこう大変。今日も居残りして、さっき帰ってきたところなんだ」

「『さっき』って……もう夜じゃないですか。そんなに学校に残っていいんですか?」

「ホントは駄目なんだけどね。第一祭の準備期間中は、事前に許可さえ取っておけば許してもらえることの方が多いんだ。その日の施錠担当の先生にもよるけどね……。遅くまで残業されてる先生の日だと、割と遅くまで残っていられるの」

 彼女は会って話している時のように、リラックスした感じで話す。耳を傾けていると、家にいるということを忘れてしまいそうだ。

「うちのクラスの女子、怖くなかった?」

「え?」

 急に、話が本題に入る。気の抜けた声を出すと、スピーカーの向こうで牧田先輩が笑うのが聞こえた。この人、僕のペースを乱すのが好きなんだろうな。勝手にすればいいけど。

「何でですか?」

「ここだけの話なんだけど、今日、巴くんたちのところに行った三人組はクラスの中でもかなり気合が入ってる方なんだよね。一年生は知らないかもだけど、うちの学校、第一祭の準備期間中に上級生が下級生の様子を見に行って、下級生たちにエールを送るのが恒例行事みたいになってるの。『縦割りでの結束を固めるため』とか言ってね」

「はあ」

 呆れた。そんなの、上級生が自分たちの権力を誇示したいだけの傍迷惑な儀式じゃないか。

 僕が文句を言う前に、牧田先輩が「馬鹿馬鹿しいでしょ」と笑ったので吞み込む。

「あの人たちも、そういうのがやりたかったみたいよ」

「どうして牧田先輩が知っているんですか? 別に友達じゃないんでしょ?」

「まさかぁ。教室で、あの人たちが大声で言いふらしているのを聞いただけだよ。『一年の応援看板がありえないほど進んでいない、全然人も来てないし、信じられない』――ってね」

「はあ……そうですか」

 彼女の言葉に、落ち着きかけていた苛立ちが復活するのを感じる。全然進んでいない応援看板と、そんなわけあるはずがないのに、存在することを忘れられていた応援旗。作業も話し合いもめんどくさいからってサボって帰ったクラスメートたち。最悪のタイミングで割り込んできた能足りんの上級生。そいつらの侵入を正当化する、誰かが作った無意味で無価値で迷惑なだけのしきたり。

「……めんどくさいことばっかだよね」

 牧田先輩の声に、我に返る。

「巴くん、そうは思わない?」

「……そりゃ、思いますけど」

「私のこともめんどくさい?」

 いいえ、と答えようとして止まる。彼女は笑っているようだった。黙っていれば、彼女の方が話し始める。

「上級生が、先輩だからって干渉してきて嫌だよね。クラスの中のことだってめんどくさいのにさ。私がこうやって電話をかけるのも、おせっかいかな?」

「……いいえ」

 僕は、今度は返事をした。

「牧田先輩ならいいです。……『普通』のことを、『めんどくさい』って思ってる人だから」

 僕の言葉に、牧田先輩はふふっと声を出して笑った。なんだかそれに救われる。携帯を耳にくっつけたまま、僕はベッドに横になった。

「……あのさ、きっと、あの人たちも悪気があるわけじゃないと思うんだ」

 牧田先輩の穏やかな声に、目を閉じて「はい」と言う。

「『第一祭を成功させたい!』って気持ちが、強くあって。その表現の仕方が、ちょっと押しつけがましくて、ちょっと過激で、周りの人がどう思うかみたいな発想に、ちょっとだけ欠けてるんだと思うよ」

「それ……微妙に悪口言ってます?」

 僕の言葉に、彼女は「あくまで私の主観です」と言って笑った。主観なら仕方ないか。彼女が何と思おうと、それを聞いた僕が何と思おうと自由だ。彼女はさすが、上手に逃げる術を知っている。

「でもね、彼女たちの気持ち自体はわかるような気もするんだ。高校最後のイベントだし、いい思い出にしたいんだろうなあって」

「……それは、僕も思いました」

 牧田先輩は小さく笑う。彼女が穏やかに笑う様子が見えたような気がした。

「だから、みんなには迷惑をかけたかもしれないけど、あんまり恨まないであげてね。悪気はなかったと思うから」

 彼女の諭すような、そして僕の気持ちに寄り添うようなあたたかい話し方に、僕は懐かしさを覚える。そして、「あ」と声が出た。

「……ありがとうございます。わかりました」

 スピーカー越しの牧田先輩の声。それは、僕が昔好んで聞いていた、DJの「ミキちゃん」の声に他ならなかった。だからこんなにも、聞いていて心が安らぐのだろう。学校で嫌なことがあった時、どうしても納得できないことがあって苛立ちが収まらないとき、僕が聴きたくなる声だった。「ミキちゃん」が中学校を卒業し、あのコーナーは終了していたが、「ミキちゃん」の人生は続いていて、今、僕のためだけに少しだけ時間を割いてくれている。

「牧田先輩は、第一祭、成功させたいんですか」

 僕はいつの間にか、彼女に質問していた。電話の向こうの彼女はそれを聞いて、考える。そして「うん」と答えた。

「私にとっても最後の学校行事だから。……尚人くんや巴くんと一緒のチームで頑張ることができる最後の機会だから、優勝とかじゃなくても、いい思い出になったらいいなって思うよ」

 はにかみながら、しかしはっきりとした口調で語られる牧田先輩の言葉に、僕は妙にじんとする。牧田先輩の素直な言葉は、不思議なほどまっすぐ心に届いた。僕も……牧田先輩と尚人先輩にとって、いい思い出になってほしいのだと思う。たとえ僕にとって意味がないことでも、二人のためになるのなら。

「……じゃあ、そろそろ切るね」

 牧田先輩の声に、我に返る。

「はい、ありがとうございました」

「ううん、こちらこそ。あっ!」

 電話を切ろうとすると、突然彼女が何かを思い出したように言う。

「なんですか?」

「忘れてた! 巴くん、二学期に入ったら言おうと思っていたんだけど、『創作部』にはまだ――」

「美樹! ご飯できたよー!」

 彼女によく似た、凛として通る声がこちらにも聞こえてくる。彼女の母親だろうか? 「ちょっと」と慌てたように言う彼女に構わず、母親と思わしき女性がはきはきと喋る。

「何焦ってんの。あ、もしかして彼氏ぃ? 何くんって言ってたっけ?」

「なっ、ちょっとお母さん! ただの部活の後輩だから! あっ、巴くん切るね! おやすみー!」

「え、あの――」

 僕が何かを言う前に、電話はぶつりと切れる。液晶を見れば、「通話終了」の文字と通話時間が表示され、すぐに元の待ち受け画面に戻った。

 急に静かな部屋に取り残されたような感じがして、あと、気恥ずかしくなって寝返りを打った。握りっぱなしであたたかくなった携帯は閉じ、枕元に投げ込む。

 確かに、傍から見れば付き合っている男女っぽく見えたかもしれない、と思いかけて振り払う。いやいや、牧田先輩のことを「恋愛対象」として見るのはありえない。あの人はやっぱり「師匠」だし、「上位互換」だから。それに、俗に言う恋人っぽいことをできるかと言われたらたぶんできない。想像をしようとすると、急に頭が冷えてくるのがわかる。僕はベッドから起き上がった。

 数日前に佐伯に変なことを言われたから、変に意識をしてしまった。

 ベッドから降りると、自分がすっかり空腹になっていることに気づく。めずらしく人前で喋ったり、怒鳴ったりしたからかもしれない。

 不思議なくらい落ち着いた心持ちで、僕はリビングへと向かった。今日の夕飯は何があるだろう。




 翌朝教室に入ると、やはりどこかギスギスしていた。お気楽に談笑しているのは、昨日あったことを知らないやつらだろう。しかし昨日あの場にいたメンバーは、沈黙しているか、浮かない顔をしつつもいつも通りに振る舞おうとしている。他の女子から事情を聞いたか、あるいはなんとなく事情を察した一部の女子たちは居心地が悪そうにしていた。本当にサボる気はなかったが、用事があって抜けざるを得なかったやつもいただろう。

「おはよ、鏡味」

 僕に声をかけてきた男――佐伯は、見たところ、今学校に来たわけではなさそうだった。僕が無視して席についても、佐伯は目の前に回り、教壇の段差に腰かける。そして僕を見上げると、佐伯は小さな声で言った。

「昨日はごめんね」

「……別に」

 極力短く返すと、佐伯は困ったように笑う。佐伯はよくこの顔で笑うが、今日は「困っている」の方が強めだった。僕は呆れてしまう。

「何。許してほしいわけ」

「あー……うん。『許してほしい』っていうか、『ちゃんと謝っときたい』っていうか」

「どうして」

 できるだけ冷たい口調で言っているのに、佐伯はめげない。凍えながらもはっきりとした口調で言う。

「鏡味に言われたこと、家でじっくり考えたんだ。誰かから『傲慢だ』なんて言われたの、生まれて初めてだったから」

「うん」

「自分のこととか作業の進め方とか考えてみて、ちょっとは反省したつもり。だから、帰りにみんなに相談しようと思って」

「そう」

「鏡味は今日、残れそう?」

 佐伯の顔を見下ろす。佐伯は大きな黒目で僕を見つめていた。瞳の中には僕が映り込んでいる。

 なんでわざわざ、僕に訊いているのかはわからないけれど。佐伯は僕が塾にも部活にも行かないことを知っているはずだ。まあ、彼の中の儀式なんだろうな。鬱陶しいけど、僕は頷く。

「綺麗事を言うにしても、ちゃんと納得できるような理由を用意しなよ。じゃないと、昨日と同じことになるだけだから」

 ――僕は、この「普通」を極めた馬鹿で愚鈍な佐伯が、同じく「普通」のやつらを相手に、どこまで渡り合えるかを見てみたいと思った。どうやら僕は佐伯のことが嫌いだが、観察対象としてであれば見ていられるらしい。だから泳がせることにした。僕の許可なんか取らずに、佐伯は佐伯で好きにやればいい。

 僕の言葉に、佐伯は「頑張るよ」と言って笑った。僕が何を考えているか知らないくせに、安心したように笑っている。


「みんな、聞いてください」

 すべての授業が終わると、佐伯はそう声を張り上げて教壇に上がった。帰ろうとしていた看板班の男子たちや、気まずそうにしていた女子たち、そしてモザイクアート班の男子たちも動きを止める。佐伯の声は特徴的でよく通るから、それが実行委員様の声だとすぐに気づいた。

「三分で済ませるから、少しだけ残ってほしいんだ。忙しいのはわかってる。……お願いします」

 佐伯は教壇に両手を突き、深々と頭を下げる。クラスメートたちの視線が佐伯に集まる様子を、僕は自分の席から見ることができた。

「さっさと済ませてくれる」

 苛立った女子の声――昨日の案内係だった黒住の声が、消極的なゴーサインとなった。佐伯は頭を上げると、はっきりとした口調で話し始める。

「まず、僕は実行委員として――いや、クラスメートとして、全体のことをよく見ることができてなかった。そのせいでみんなに迷惑をかけてしまったこと、本当に申し訳ないなと思っています。本当にごめんなさい」

 佐伯はもう一度、深々と頭を下げた。そして言葉を続ける。

「看板の方を昨日初めて手伝ってみて、制作もそうなんだけど、板やペンキを運ぶのがとにかく大変で。きっと、最初の想定よりもっと人手が欲しかったんじゃないかなって、初めて気づいたんだ。今まで気づかないまま、任せっぱなしにしてしまってごめん」

 黒住は少し俯いて、黙って佐伯の話を聞いている。昨日は来ていなかった女子たちの中には、うんうんと頷いているやつもいた。

「あのさ、謝ってばっかいないで、どうしてくれるのか言ってくれる? この時間だって無駄な時間でしょ」

 黒住の横に立っている女が口を挟む。

「もう間に合わないから、諦めようって言いたいの?」

「ううん」

 女子の挑発に乗らず、佐伯は真剣な顔のまま対応する。

「昨日、手伝ってみて思ったんだ。『頑張れば、まだ間に合う』……って」

 佐伯がそう言うと、何人かの女子たちが顔を見合わせた。男子たちも、何か言いたげにもぞもぞと体を動かし始める。

「さすがに無理じゃない? あと一週間もないし……」

「ううん、できるよ! これからはモザイクアートの男子たちも参加するから、もっと作業も進むはず。シートを置く場所だって、昨日ちょうどよく空いている場所を見つけられたんだ。これで集中して作業を進められるよ」

「でも、今の進み具合じゃ……」

「じゃあ、このまま諦めるの?」

 佐伯のストレートな言い方に、何人かの目の色が変わるのを見た。素直で率直で、まるで子どもが大人に質問するような口調がクラスメートの心に届く。

「僕たちのクラスだけ未完成の応援看板だなんて、カッコ悪いよね。応援看板は、完成してもしていなくても、他のクラスと同じように運動場に並べるんだよ。僕たちが諦めたり手を抜いたりするのは自由だけど、それでいて未完成のままみんなの見えるところに出して、恥ずかしいと思うのも、情けないと思うのも僕たちだ」

 普段は「うん」、「いいと思う」しか言わない佐伯が、めずらしく自分の考えを語り、他人の負の感情を煽る。言葉は熱っぽいのに話し方と表情は淡々としていて、クラスメートたちも不思議と引き込まれている。

「それに、そう思うのは僕たちだけじゃない。昨日三年生の先輩方が作業を見に来られたときに思ったのが、『これは自分たちだけの問題じゃない』ってことだった。この応援看板は、僕たちのものだけじゃなくて、『E組』全体のものだよ。未完成の看板を飾って恥ずかしい思いをするのは、二年生も、三年生もだ。僕たちが終わらないなんて言っている暇はどこにもない。『やるしかない』んだよ」

 佐伯が大きな瞳でぐるりと教室を見渡す。その途中で僕とも目が合った。「きみが必要だ」、と訴えるような視線だ。その視線がクラス全体へと繋がっていき、僕たちは佐伯の視線に絡めとられる。

「僕は誰のことも、『いてもいなくてもいい』とは思わない。わがままを言っていいなら、『みんなに手伝ってほしい』よ。僕のためでも、みんなのためでなくてもいい。E組全体のために、誰も悔しくて恥ずかしい思いをしないために、みんなの力を貸してください」

 全員の視線を引き受けたまま、佐伯がもう一度頭を下げた。その様子に、教室が静まり返る。

「佐伯、俺は残れるぞ」

 モザイクアート班の男子の一人が声をかけた。それにつられて、「俺も」「いけるぞ」と声が上がり始める。看板班の男子も混ざっているようだった。女子たちも、持っていたバッグを机に置き始める。

「やるしかないんだよね!」

 黒住が言うと、佐伯は嬉しそうに顔を輝かせて「うん!」と答えた。

「みんな、ありがとう!」

 佐伯が主張したのは、やっぱり精神論だったけど。でも、それがただの綺麗事じゃなくて、クラスメートたちの心のどこかに引っかかっている「このままじゃやばいんじゃないだろうか」「このままだと恥を掻くんじゃないだろうか」という不安や恐れを煽る言葉だったことが、少し意外で、かつ今回は効果的だったように思う。

 本当はみんな、「そう」思っていたんじゃないだろうか。このままでいいのか不安で、しかし現実を直視することもせず、見て見ぬふりをしていた。そのまま「自分は関係ないです」と言って、逃げ切ることもできただろう。だけど、きっとそうやって逃げた証、未完成の応援看板は他の完成した応援看板と並べられることによって、嫌でも僕たちの目に入る。それに、その応援看板を「自分たちのもの」としなくてはいけない上級生の目にも。

 佐伯は一言も「いいものを作ろう」とは言わなかった。だけどクラスメートたちの気持ちが動いたのは、クラスメートたち自身がこの先に起きる未来を思い描き、その未来で自分が嫌な思いや気まずい思い、恥ずかしい思いをするかもしれないという事実を身近に感じたからだ。彼らは自分の保身のため、想定される未来からの逃避のために、「今」できることをやるしかないと思えた。そして、その認識の一致が、同じ状況に置かれた「仲間」同士の協力関係を誘発する。

 今後の作業について話し合いを始めるクラスメートたちを見つめながら、佐伯は嬉しそうに微笑んでいた。僕はそれについて、何も考えないようにしようと思った。

「佐伯」

 その時、モザイクアート班の男子の中から声が上がる。昨日、佐伯を見捨てて帰った野々上だった。クラスメートたちの視線が集まる。

「どうかした?」

「モザイクアートのことなんだけど。二枚目の制作、続けるか? それとも諦めるか?」

 野々上はまだ、二枚目の制作について考えていたらしい。そんなにこだわりや思い入れがあるんだろうかと思っていると、他の男子もつけ加えるように言う。

「そのまま放置すんのも、なんかもったいないよな~って話してたんだよ。せっかく材料も買ったわけだし」

「え、男子、勝手に材料買ったの?」

 昨日、あの場にいなかった女子が驚いたように言う。そういえば、二枚目のモザイクアートについてはまだ全体に説明していなかったんだっけ。佐伯が説明を挟もうとしたが、その前に野々上を中心とした男子たちが看板班に向かって喋り始める。

「一枚目が早く終わりそうだからって土曜に材料を買ってきたんだよ。模造紙と折り紙だけだから、そんなに金はかかってない」

「いや、それ聞いてない」

「ていうかお金余ってたの?」

「ブラシとかペンキとか追加した方がいいんじゃない?」

「いや、足りてるって話だったじゃん」

「全員で作業するんだったら、話が別だろ」

「どうする? 二枚目作る?」

「一枚目って終わってるの?」

「看板に時間を割けないんだったら作らない方がよくね?」

「少なくとも、金は無駄にしたよな。もったいねー」

「そもそもクラスの金を勝手に使うのってさぁ……」

 クラスメートたちの発言は微妙に違う方向を向いている。佐伯を見ると、教壇の上で焦った表情で、教室を飛び交う発言のどれを捕まえようか判断に迷っているようだった。佐伯がとろとろと悩んでいる間に、頭の回るやつ、口の回るやつが発言したりしなかったりして、クラス内で話題が分岐していく。分岐したまま、まとまっていこうとする。

「追加のブラシは、必要だよねっ」

 佐伯の出した声が、ざわめく教室に貫通した。

 クラスメートの注目が集まる。見れば、何とか笑顔で話そうとする佐伯が、また独りよがりの目になっていることに気づいた。やめときなよと言う前に佐伯は喋り始める。

「クラスのみんなで作るんだし、必要になるよね。どうしようか、人数分買うにはお金が足りないと思うから、ええと、今回は僕の判断ミスだから責任を取って僕が負担するのがいいと思うんだけど……」

「え、佐伯が?」

「それは別によくね?」

 野々上が、強めの口調で言う。佐伯はその場でたじろいだ。バラバラだった不信感の矛先が、今は佐伯に向けられている。


 さすがに、今回は同情できなかった。

 佐伯、それは失言だ。あんたはまだ、自分の何がまずかったのかをわかっていないし、反省もしていない。


 そして、クラスメートたちが何かを言いかけた時。

「――二枚目も作った方が、見栄えはいいんじゃねーか?」

 教室の廊下側から聞こえたのは、うちのクラスのものではないが、うちのクラスに妙に馴染んでいる声だった。

「播磨⁉」

 一斉に振り向けば、廊下の窓の桟に両腕を乗せ、こちらを眺めている播磨がいた。存在を認識した瞬間に、ぐっと引き込まれるような魅力の持ち主だ。播磨はいつもの余裕そうな顔で軽く片手を上げる。

「つみきの声が聞こえてな」

 播磨は佐伯の方を向くと、にこっと笑いかける。佐伯も播磨の登場に驚き、動揺しているようだった。佐伯のその動揺の仕方に――そして同時に播磨の存在に、僕はやっぱり「嫌な感じ」を覚える。

「制作のことで揉めてるんだろ。見てた感じ、頑張りゃどっちも終わりそうだぜ。同時進行で進めたらどうだ?」

「播磨ぁ、そうは言ってもなあ」

 一人の男子が立ち上がり、播磨の方に向かっていく。あれは、どいつだっけ。見覚えがあまりないから看板係だろう。

 自分たちの領域に入ってきたよそ者を威嚇するがごとく、男は播磨の目の前に立つ。男の体に隠れてよく見えなかったが、播磨は相変わらずちっとも怯んでいないようだった。

「もう残り四日だぜ? 時間も金もないんだ。『頑張りゃなんとかなる』って話でもねーんだよ」

「ふーん。まあ、時間は残ってないかもしれないが」

 播磨が頬杖を突く。少し首を傾ける時、彼の不敵な笑みがちらりと見えた。

「何が引っかかってるんだ? 詳しく聞かせてみろよ」

 看板係の男が一瞬怯む。クラスメートたちは、いつの間にかそうつと播磨のやり取りに釘付けになっていた。看板係の男は、昨日も制作に来ていなかったが、播磨に見つめられるとすらすらと今の状況を話し始める、のが、僕はちょっと意外だった。

「現状、金曜までに看板と応援旗を間に合わせるのが難しいらしいじゃん。ただモザイクアートから応援が来たってブラシがなけりゃ買わなきゃいけねえし。でもモザイクアートの二枚目の材料費で金を使っちまってるって言うし……うん?」

 男は喋りながら、何かに気づきそうな素振りを見せる。播磨はそれを見逃さず、「ちょっと待ってな」と言って遮る。

「実行委員。確認だ、予算はあと何円残ってる?」

「えっ、あ、ちょっと待って」

「焦らなくていいぜ。正確な数字を教えてくれ」

 佐伯は自分の席にいったん戻ると、自分の財布から折り畳んだ封筒を取り出し、丁寧に中身を数えた。

「……千三百十四円残ってるよ」

 主に看板班の女子たちが、驚いた顔をする。「まだそんなにあるんだ」とか「それなら追加で買っても大丈夫じゃない?」などの声が飛び交うのを聞きながら、播磨は再び男の方に顔を向けた。

「ブラシは百均でいいだろ。だとしたらまず十本は買えるよな」

「あー、じゃあ十人は追加で作業できるな?」

「ちょっと待て。お前ら、ペンキも買うって言ってただろ? ペンキの方は、どの色がどれくらい足りなくなりそうっていうのが具体的にわかるか?」

「えーっと……」

 看板班の男が視線を泳がせる。その時一人の女子が前に歩み出た。昨日もいた女子だろうか。

「どの色が、っていうより、いっぱい使う色がものすごく足りなくなる気もしてる。でも、まだ塗りに入ったばっかりで、それがどれくらいかは……」

 気まずそうに話す女子に、播磨は「よく言ってくれた」と言わんばかりの笑顔を返すと、

「それなら予算は多めに残しておこうぜ。追加で集金するより、今残っているお金でやりくりできるんだったらその方がいいだろ? ペンキは高いから、まあ千円残しておくとかな」

 と穏やかな声で提案した。先ほどの女子は安心したような顔で頷き、傍にいた女子たちに同意を求め始めた。近くにいたチカも、強く何度も頷いている。

 短くてシンプルな質問を投げかけることで、播磨は不明瞭な点を次々と洗い出す。質問の回答者はばらばらで、僕たちがいかにクラス間で現状を共有できていなかったかということが視覚的にもわかってしまう。しかし、そんなE組を責めたり、馬鹿にしたりする素振りは一切見せることなく、播磨はてきぱきと話を前に進めていく。部外者であるはずの彼に、クラスメートたち、そして実行委員の佐伯さえもが完全に従っていた。

「今あるブラシは十本、そんでペンキ代を残すために追加で三本買うとするだろ。看板一枚につき二本、応援旗は分割した看板二枚くらいの大きさだから四本使うか? それで十二人が同時に作業を進められる。残った一人は作業が遅れている場所に入ればいい」

「それで、間に合うか……?」

「手の空く人間が出てくるんじゃね?」

「まあ、看板なんかはもうちょっと人数がいてもいいよな。例えば一枚につき一人か二人くらい。作業場所的にもそれが限度だろ」

 看板一枚につき四人が張りついて作業する。となると、看板だけで十六人、応援旗の四人を含めて二十人が、作業に当たることができるマックスの人数になるのではないかと播磨は提案する。その人数は、文化部の練習や塾に抜ける人間、モザイクアートの制作を進める人間を抜いたとしても余裕のある、かなり現実的な人数だ。

「そんで、二十人の人員に対して足りない七本のブラシを補うためのアイデア。これはうちのクラスで出た提案なんだが、家から余っている筆を持ってくればいい」

「余っている筆?」

 播磨はいたずらっぽくニヤッと笑うと、まるでそこに筆があるかのように、指先でその輪郭をなぞった。

「こんくらいの、水彩用の筆。小学校や中学校で使ったボロい奴があるだろ? ああいうのを持ってきて、ブラシを使う奴らとは別に、細かい部分を塗ったり、線や色ムラを調整したりするために筆で作業する人間を一人か二人配置する。そもそも今使っているブラシで細かい部分を塗るのは形からして難しいんだよ。あのブラシを増やしてちまちま塗るよりも、家にある使わない筆を持ってきて、そっちで作業を進めた方が速いし見栄えもよくなる。作業効率はぐんと上がるはずだぜ。そんで、モザイクアートは残った奴らで進めればいい。そっちは作業にだいぶ慣れてるんだろ?」

 急にモザイクアート班に話が振られる。一瞬僕も目が合ったが、答えたのは気さくでノリのいい浅野だ。

「こっちは問題ねーぜ!」

「じゃあ、そっちは勝手にやってくれ」

 播磨があまりにもスマートに体の向きを変えたので、教室から笑いが起こる。浅野も「おい!」なんて言っているが嬉しそうだ。自分たちが抱えていた問題が解きほぐされ、解決に向かっていく予感に、クラスの雰囲気も和らいできている。その中心にいる播磨はすべての視線を引き受けながら、自分のこめかみをトントンと指で叩いた。悪だくみに誘うような、いたずらっぽい表情で。

「上手に頭を使おうぜ。ゴールは決まっているんだから、まずは自分が今どの地点にいて、何を持っているか把握すること。そしたら何をどう使って進めばいいか、自然と見えてくるはずだ。お前ら全員で同じゴールを目指すんだから、手持ちのカードを共有し合えばいい。そんですごいことやろうぜ。その方が面白くて燃えるぜ?」

 播磨はニカッと笑うと、「そうだろ、実行委員」と佐伯の方を向く。突然のバトンに佐伯は少し慌てたが、気を取り直して「そうだよ!」と力強く言った。

「播磨の言うとおり、今からいろいろ考えて、工夫して、精一杯のことをやろう! みんなで協力して、全部間に合わせようっ!」

 佐伯の鼓舞に、クラスメートたちは、「おーっ!」と拳を突き上げた。この人たち、こんなにノリがよかったのか。どいつもこいつも冷めた顔して、本当は他のクラスと同じように、皆でワイワイ学園祭の準備をしたかったのかもしれない。

 結束力を強めた佐伯たちは、さっそく今日からの作業分担を決めるらしい。僕は相変わらず用事のない暇人なので作業を手伝わされるわけなのだが、この熱に浮かされたような空気がどうも合わず、居心地が悪い。話し合いには参加したくないが、勝手に看板班にさせられたら嫌だなと思う。チカがいるから気まずいし。まあ、僕はコミュニケーションに問題があるからこのギリギリのタイミングで別のチームに入れられるなんてことはないと思うけど。

 ふと気になって、すっかり静かになった播磨の方を見る。播磨がまだこの場にいることは、僕の意識を引っ張る謎の「違和感」によって察せられた。僕は播磨の話のスマートさや、さりげない気遣い、と言うか他人を立てる能力に感服していた。彼は確かに、人の上に立ち、人から慕われる人間なのだろう。だけど僕は、播磨がそこにいるだけで何とも言えない「嫌な感じ」を覚えてしまう。僕は播磨の表情を盗み見た。

 廊下の窓から上半身を乗り出し、僕たちの話し合いの様子を眺めている播磨の口には笑みが浮かんでいる。利発そうな目を細め、黙って見つめるその表情は、「満足」だろうか? いや、違うな。もっと熱を帯びていて……「うっとりとしている」?

 また、僕はその視線の向けられる対象がまったく変わらないことに気づく。播磨が見つめているのは、「僕たち」じゃない。「佐伯」、ただ一人だ。

 形容しがたい、どこか不自然な彼の様子を観察していた僕に気づいたのか、播磨は表情を元に戻した。そして僕だけに向かって爽やかに笑いかける。気さくだなとか呆れるなとか思う前に、なぜかぞっとした。播磨はくるりと向きを変えると、さらさらの黒髪をなびかせて消えていく。

「鏡味、聞いてる?」

 佐伯の声に我に返る。彼の去ったあと、もう僕の中には「嫌な感じ」は残っていなかった。

「……大丈夫、続けて」

 僕は少しだけ話し合いに参加することにする。さっと周りを見渡した感じ、この不自然な違和感を抱いているのは、間違いなく、僕だけのようだった。




 第一祭の一日目。の、朝八時前。

「っ、終わったあ――!」

「完成~‼」

 どこからともなく湧き起こる拍手が、教室をいっぱいに包む。前の黒板には大小二種類のモザイクアートが、後ろの床には看板用の板と応援旗が完成した状態で並べられて、なかなか壮観だった。

 結局、例の話し合いをした日から、放課後、夜の居残り時間、そして始業前の時間をみっちり使うことによって、僕たちはすべての制作物を完成させたのだった。もちろん雑な部分は残っているし、提出日の朝という超ギリギリに仕上がったわけだけど、それでも一応は目標を達成することができた。今日はとびきり早くに起きたはずのクラスメートたちが、ちっとも眠くない様子で、隣にいるやつと手を取り合って騒いでいる。まあ、今回はさすがに喜ぶ権利はあるだろう。

 換気のために全開にした窓から風が吹き込んでくる。いつの間にか夏は過ぎ去っていて、ひんやりとした朝の空気は確かに秋のものだった。

「みんな、お疲れ様!」

 佐伯のかけ声に、クラスメートたちが一斉に視線を集める。彼らの目に、もう不信の色はなかった。

「そしてありがとう。何とか提出日までに完成させることができたよ。みんなのおかげだよ!」

 佐伯の言葉に、どこからともなく拍手が沸き起こった。それはお互いに対する拍手でもあったし、実行委員の佐伯に対する労いの拍手でもあった。佐伯は口下手ではあるが、残りの期間は看板班とモザイクアート班の連携を絶やさないように駆け回り、必死に働いた。その佐伯の頑張りを、クラスメートたちは、僕の想像以上に高く評価していたらしい。

「モザイクアートの展示はこの教室じゃなくて、二階の三年生の教室になります。放課後、手伝える人は3Eでの設置作業を手伝ってください。看板は男子を中心として、運動場の本部に持っていこうと思います。最後まであとちょっとなので、みんな、手を貸してくれると嬉しいです!」

「任せろー!」

「やっと自由だ~!」

「あとは楽しむだけ、だな!」

 そう言ってニカッと笑ったのは野々上だった。普段はクールな野々上も、無事に作業が終わったからか、やっと安心したような顔をしている。佐伯はとびっきりの笑顔で返し、そして野々上に向かって言った。

「第一祭、一日目のイベントは弁論大会! 野々上、スピーチの準備はできてる?」

「もちろん。最高のやつをかましてくるぜ!」

 野々上は片方の腕でガッツポーズを決める。看板班の男子たちが「かっこいい!」と囃すと野々上はわざとらしく胸を張った。

 三日にわたって行われる第一祭の一日目は、一般公開はなしの弁論大会だ。全校生徒が体育館に集まり、クラスから選ばれた代表者一名が、お題は自由で、数分程度のスピーチを行うらしい。一体どんな感じで進行するのかまったく想像がつかないが、佐伯が言うことには、毎年結構盛り上がっているそうだ。スピーチと言えば教科の先生や校長先生の長話をイメージする僕は、どうしても退屈そうに思えてしまうけど。

 そしてうちのクラスの代表者は、僕は知らなかったのだが、野々上だったらしい。なんとなくだけど、うちのクラスの中では一番ふさわしいような気がする。こいつ、全然物怖じしないし。

「頼りにしてるよ! あと、黒住たちは明日がステージだったっけ?」

「佐伯、さりげない宣伝ありがとー。そうでーす、私たち、明日ステージでかっこいいの踊るんで、見に来てくださーい。コールとかむっちゃして~」

「十二時からなのでヨロシクで~す」

 黒住とその友人が、腕を組んでひらひらと手を振る。佐伯が教えてくれたことには、あの三年生なんかも登場してクラスで揉めた日に僕たちを作業場まで案内した黒住は、ダンス部の練習で忙しい中、空き時間を見つけては看板の制作を手伝っていた熱心な女子だったらしい。理不尽にも見えた黒住の怒りの真相は、自分は可能な限り制作に参加しているにもかかわらず、モザイクアート班が、練習に来ていない人間に対する不満や不信を黒住のみにぶつけたことに傷ついたから――らしい。

 それは、今黒住と腕を組んでいる友人の女子が佐伯に文句を言いに来たことから発覚し、話し合いの結果、当日その場にいたモザイクアート班の男子で謝りに行くことになった。最初は僕たちが話しかけてもうんともすんとも言わなかった黒住だったが、浅野の提案で。コンビニで一番高いアイスを献上することによってなんとか怒りを収めてくれたようだった。僕は、黒住の友人が黒住をかばったこと、というかあの二人の仲がいい理由が初めてわかったような気がした。ちなみに、ものすごくどうでもいいけど、そんな浅野と黒住がうちのクラスの唯一のカップル候補らしい。本当にどうでもいいのだけど。

「何度でも言うけど、みんな大変な中、協力してくれて本当にありがとう! 先生の点呼まで時間があるから、あとは自由時間にします! みんな、八時二十分までには教室に戻ってきてねー!」

「よろしくー!」

「楽しもうな~!」

 佐伯の号令で、クラスメートたちは自由に動き始める。教室を出ていくやつもいれば、完成した看板やモザイクアートに近づいて話し始めるやつもいる。僕はそのどれもに混じらず突っ立っていたが、思い直して教室から出ることにした、が。

「かーがみっ」

 甘ったるい、無遠慮な声と同時に肩に腕を回される。誰なのか確認するまでもない。僕は声のする方に顔を向けないように、可能な限り素っ気なく返す。

「何?」

「ありがとね、最後まで手伝ってもらって。ものすごく助かったよ」

 僕がちらりと表情を窺うと、至近距離に佐伯の顔がある。ため息をつこうとして、やめた。僕は結局この期間、佐伯にこき使われたのだった。

「別に、他のやつらと変わらないし」

「鏡味って、なんだかんだ言いつつ手伝ってくれたよねー。手先も器用だし、すんごい助かったよ」

「おだてても何にも出ないよ」

 佐伯を振り払って出ていこうとすると、佐伯が「待ってよ」と甘えたような声を出した。

「鏡味、どこか行くの? 何か用事?」

「別に関係ないでしょ」

「あ、そうだ、一緒にコンビニ行かない? 朝ごはん、あんまり時間なくて食べられてないんだよね」

「行きたいなら勝手に行きなよ」

 言葉で突き放すついでに、軽く佐伯の体を押して距離を取る。佐伯は目を丸くして驚いた。

 そして、すっと目を細めて微笑んだ。


「『あとでね』、鏡味」


 え、と思った時にはすでに――僕は、多目的教室の中で立ちすくんで、いた。

「……は?」

 思わず頭を押さえる。いきなり変わった視界に、混乱する。さっきまでは教室にいた。どうしてこんなところにいるんだ? ふら、と近くの丸椅子に座る。思い出せ。ワープしたわけでもあるまいし。僕は時計を見た。まだ八時過ぎで、ここまで歩いて来たのだとしたら自然な時間だ。思い出せ。教室を出て、廊下を渡って、階段を下りて、また廊下を渡って……。歩いた感覚だって、道すがら、見てきた景色だって覚えている。準備の続きをしている生徒の声、先生の声。強めの風に木々が揺れる様子、理科棟で実験の準備をしている科学部の様子、そして、美術棟。……僕は、いつ土足に履き替えていたんだ? 美術棟別館の裏に回り込み、非常階段を上った僕はポケットから部室の鍵を取り出して、開錠した。それを忘れないようにポケットに入れた、から、今僕のポケットの中には部室の鍵が入っているが一体どのタイミングで職員室に行ってこれを借りたのかがまったく思い出せない、ことを、気持ち悪いと思った瞬間。


 僕は、今ここで、「世界の交差」を起こさないといけない。


 抗いがたい予感は、「世界の交差」が起きるときの激しい睡魔とはまた異なる。僕は机に両腕を組んで置き、その上に頭を乗せた。

 ――創作部部室で「世界の交差」を起こすと、下校時刻のチャイムが鳴るまで、肉体は目を覚まさない。

 集合時間にも現れず、弁論大会が終わっても姿を見せない僕のことを、誰かが心配するだろうか。心配するかどうかはともかく、学校中を探し回る過程で、この部室の存在がばれてしまうのだけは避けたい。だけど、今の僕に、それを回避する術はなかった。今、僕がしなければならないことは、「世界の交差」を起こすこと、それ以外になかった。




 ――暗闇の中、意識がはっきりとしてくる。

 ゆっくりと瞼を開けば、辺りは真っ暗だった。一切の灯りもなく、手触りもなく、重力もない。気を抜けばその暗闇に意識が溶け出してしまいそうなそこは、「世界の交差点」――「0(ゼロ)の世界」だ。

 僕は、自分の足元に地面があることをイメージする。すると、先ほどまでは履いていなかったローファーのつま先が、コン、と固い地面にぶつかる感触がした。ここは、「願えば叶う」世界だ。改めて辺りを見渡す。

 マスターやゼロがいてもおかしくなさそうなのに、彼らの姿はない。また、小さな声でひょうの名前を呼んでみるも、返事も気配もない。

「……誰」

 僕は自然と、暗闇に向かって問いかけていた。僕の声は、壁のないはずの空間に不思議と反響している。

「そこにいるのは、誰」

 一歩、歩みを進める。コン、という足音も反響した。僕には、この空間には「誰か」がいることがわかる。いや、それが「誰」なのかも、本当はわかっている。

「僕をここに呼んだのは、誰なの」

 本当はずっと前から、何なら最初から、わかってたんだ。だけど、この目で直視しないようにしていた。だって、僕の目で見たら、僕の世界の中で、「それ」が事実だと、確定してしまうから。

 ――僕の大嫌いなあんたが、僕が「普通」だと決めつけて、見下したいあんたが、僕以上に「特別」な存在だということが。


「……僕だよ」

 

 幼くて少し甘い響きの、高めの声。その声は最初から最後まで、僕を「正しい」道へと導いた、「あの声」だった。その声に、僕は振り向く覚悟を決める。

「黙っててごめん、鏡味」

 うちの学校では珍しい、明るい茶色の短髪。頭のてっぺんで髪を留めていた二本の黒ピンを引き抜くと、彼の長い前髪がぱらりと下りてくる。その隙間から覗く、黒くて丸い瞳。わずかに震えるその瞳の中央に、少し離れた僕からでもわかるくらいの、大きな「光のチップ」が浮かんでいた。

「……あんたが、呼んだんだね」

 僕の言葉に、彼が頷く。口下手な彼は、短い眉を申し訳なさそうに歪めながら、たどたどしく言葉を紡ぎ始めた。


「僕はマスターに頼まれて、創作部の『書記』をしている、『彩記(さいき)罪記(つみき)』。勝手にきみの『運命』を変えて、『ここ』に呼び寄せたのは僕だよ。きっと鏡味も、僕がやったって気づいてたんじゃないか……と思う」


 僕は、佐伯の――創作部書記の、「彩記」の顔を睨みつける。彼は相変わらず、困ったような顔で笑った。その顔が、本当に「佐伯」と同じ顔だから、僕は思わず拳を固く握りしめる。

 彼は、そんな僕の様子に構わず、困ったような顔のまま話し始める。それは、僕に対する懇願だった。


「きみが『世界の交差』を起こしてからずっと、僕はきみを見ていた。そして、見ていて思ったんだ。きみなら、変えることができなかった『運命』を変えてくれる。いや、もう、すぐにでも変えてほしいんだ。僕やマスターの、そして……播磨の『運命』を」

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