4話:仁(③)
◇
その日の帰り、僕は花屋の前で「不審者」を見た。
昔からある小さな花屋の前。道路の反対側からなのでよく見えないが、このクソ暑い中、黒い長袖セーターに長ズボンを履いて町を歩くような馬鹿野郎は、あいつ――マスターくらいだろう。
男は赤色のエプロンをつけた女性から花束を受け取る。花束を手渡した女性がお辞儀の姿勢に入る前に、男は向きを変えて歩き出した。お辞儀をし終えた女性は頭を上げ、しばし男の後ろ姿を目で追っていた。が、少しすると急に首を傾げて、きょろきょろと辺りを見渡したかと思うと店内へと消えていった。
僕は、周りを確認して、自転車を降りた。自転車を押して、後ろからあいつを尾行することにした。道路の向こう側を歩く男は、陽炎のようにゆら、ゆら、と揺らめいている。すれ違う人、井戸端会議中のおばさんや群がって歩く学生に時々ぶつかりそうになりながら、いや、たまにぶつかられながら、男はアスファルトの歩道を歩いていく。人や塀にぶつかるたび、男の抱える花束から花がこぼれ落ちそうに揺れた。
昼間の熱がまだまだ残っている町を、真っ黒な男は、橙色の強い光に蝕まれながらじわりじわりと進んでいく。
まっすぐ歩いていた男は、不意に、住宅街の方へと向きを変える。静かな場所だと自転車を押すときのカチカチという音がうるさいかと思い、その辺にあった郵便ポストの横に止めた。そして決して失くさないように、自転車の鍵をスラックスのポケットの中にぐっと押し込む。男はまだ見える場所にいる。僕は急いで後を追った。足音をできるだけ殺したからだろうか、男は僕の様子にまったく気づいていないようだった。
何かに導かれるように、迷うことなく、男は歩く。前を行く男は、すぐに右に曲がった。僕もそれについて行く。しばらく歩き、左へ。そして、また左へ。三つ曲がり角を曲がった先で、男はようやく立ち止まった。
――それは、なんの変哲もない、普通の一軒家だった。
男は表札の掲げられた門の前におもむろにしゃがみ込む。そして、その門の傍に、持っていた花束をふわりと置いた。アスファルトに置かれた花束をぼうっと眺めていた男は、しばらくすると、ゆっくりと両手を合わせる。
蝉の声。カラスの声。夏の夕暮れ。そして、じっと俯いて、表札の前で手を合わせる男。町から浮いているはずなのに、男は手を合わせている間、一枚の風景画の被写体のように、町に、世界に、じんわりと馴染んでいた。その丸まった背中は、なんというか――ただの、普通の「人」に見えた。
ぐわっ……と僕は、その男に抱いたことのない、不思議な感情に支配される。それが何なのか、善なるものか悪なのかはわからないが、名前をつけると何か大きな罪を犯したことになりそうな――黒く、重たく熱を持った感情、に、僕はとり憑かれたように脚を、一歩踏み出した――。
と、我に帰る。道の向こうから人が現れたのだ。
「……また、来たのね」
道の向こうから現れたのは、ウネウネしたウェーブの髪を背中まで垂らして、両手に大きな買い物袋を持ったスーツ姿の女だった。
げっそりとした声色と油の少ない髪から、自分の母親よりももっと年上であると察せられる。どうしてスーツを着ているんだろうと思わせるような、老けた猫背の女だった。ペンで塗ったかのような派手なピンクの口紅と、膝上丈のタイトスカートがどうしても痛々しい。
男はその場にしゃがみ込んだまま、おもむろに女の顔を見上げる。女はしばらく立ち尽くしていたが、だんだんと、両手に持ったスーパーのビニール袋ごと肩を震わせ始める。男と女はゆっくりと、流れている空気ごと咀嚼するように、互いのことを認識していく。スロー再生で行われる存在の確認。そして、二人の視線が交わった。
その瞬間、女は大きなレジ袋の一つを、男に向かって投げつけた。
洗剤や石鹸の箱などが、男の頭に直撃する。閑静な住宅街に、重たいボトル類がボゴン! ゴロン! と転がる音が響く。少し遅れて長袖の男が、ドシャ、と力なくアスファルトの上に倒れ込んだ。
女は突っ立ったまま、空になった方のこぶしをぶるぶると震わせている。鬼のような形相で男を探るように睨みつけながら、男の頭から足へと、徐々に視線を動かした。
と、女は男の傍の、ゆたかで鮮やかな色彩の花束に目を留める。そして悲鳴にも似たヒステリックな叫び声を上げた。
「もう来ないでって言ったでしょ‼」
女はもう片方の袋をも、倒れ込んでいる男に叩きつけた。全身の力をかけて、鈍器を振り下ろすみたいに。
受け身を取らない男に、今度はキャベツやトマトや何本もの缶が浴びせられた。その長めの缶を見て、お酒の缶だ、と瞬間的に思う。そして、少しだけ手が震えた。あんなものを直に受けて、痛くないわけがない。
ぶちまけられた野菜、肉、洗剤、酒の缶。男はそれらに埋もれながらも、ゆっくりと上体を起こす。
女は大股で花束に近づいて、拾い上げる。そして白い包みとビニールを乱暴に剝ぎ、男の顔に投げつけた。そして花の束を丸裸にした女は――信じられないことに――茎の部分と花の部分をグワシと掴むと、ブチブチブチ! と派手な音を立てて、恐ろしい力で引きちぎった。
男の目の前でバラバラになる花束。女は握った花の断片を汚らわしそうに路上に撒き散らす。そして、足元にあった一番大きくやわらかな花を、汚れたヒールで踏みつけた。
男は女の一連のヒステリーを、何も言わず、ただ見つめ続けていた。日用品や花束の残骸で荒れまくった道路で、男は呆けている。そんな男の後頭部を、女はためらいなく殴った。男は再びアスファルトに倒れ込む。女は金切り声を上げながら両手を振り回した。
「うちには死人はいないの! どうしてこんな物を持ってくるの! 毎日毎日気持ち悪いのよ‼」
女は男の頭を執拗に殴りつけ、ギャンギャンと叫び続ける。
「子どももいないの! うちには主人だけ! どうして私たちの『普通』の生活をめちゃくちゃにするの! もう、迷惑! 目障り! いい加減にしてくれない‼」
ヒステリックな金切り声が住宅街に反響する。これだけ騒いでいたら誰かが様子を見に来てもおかしくないのに、野次馬さえ現れない。
男は、髪を振り乱しながら自分の頭や体を殴り続ける女の暴行を無抵抗に受け入れていた。だが、女の体力がもたなくなって暴行が一区切りした頃、男はゆっくりと、しかししっかりと、その場に立ち上がった。
砂埃にまみれ、切れた口の端に赤い血を滲ませた男は、女よりも、ひと回りもふた回りも大きく見えた。男は女に向かって、はっきりとした声で言う。
「また来ます」
「死ね‼」
女は一番大きな声で叫んだ。その瞬間何かの糸が切れたのか、そのままその場に座り込む。そして号泣し始めた。ワアーッと、幼い子どもが泣き立てるみたいに。
男の背中に、「死ね」だとか「消えろ」だとかの低俗な罵声が、汚らわしい喚き声が浴びせられる。男はそれらを受け入れていたが、くるりと踵を返した。そして、その顔が僕の方を向く。僕は我に返った。
家に帰るんだ。慌てて僕もずっと固まっていた足を動かし、来た道を戻ることにする。
曲がり角が多い道でよかったと、ポストまで戻ってくる。止めておいた自転車に鍵を挿し、男が追いついていないか目で確認していると、僕の手が震えていることに気づく。体の奥は熱っぽくて苦しいのに、指先は冷たい。僕はいつも以上にきつくハンドルを握って、夕日を背に住宅街を抜ける。
◇
マスターが通っているという花屋を教えてくれたのは、牧田先輩だった。
Lの世界から帰り、創作部部室で目が覚めた僕を、牧田先輩と尚人先輩は傍で見守ってくれていたらしい。僕はマスターについての必要最低限の報告をした。
「おそらく、『マスター』と『仁』は違います。何らかの関係があるとは思いますけど、僕が見た殺人鬼の仁と、花束を持っている不審者は、おそらく、別人だと思います」
「その『不審者』が、『マスター』ってことね?」
牧田先輩は確認するように問うた。いろいろなことがあって脳の処理が追いついていない僕は、この人は何を言っているのだろうと思いながら、「はい」と答えるので精いっぱいだった。
「――一つ、情報をあげる」
牧田先輩は、最近S中近辺で、同様な「花束を持った男」の目撃情報が何件か確認されていること、その男の特徴が、僕が会ったというマスターの外見情報と酷似していることを教えてくれた。
「情報の
「私の周り。うちのクラスで情報が飛び交っていてね、みんなミーハーだから」
「最近、突然証言が増えたってことですか?」
「そうだねえ。噂って、一気に広まるじゃない。おそらくは一つの目撃証言をきっかけに、他の人の目にも留まるようになったんだと思う。ただ、目撃情報にほとんどブレがないのはすごいことだよね。みんな口を揃えて『黒い、花束を持った男』って言うんだもの」
「確かに。……ああ、ありがとうございました。後はなんとかします」
「うん。頑張ってね」
そう言った牧田先輩はニコニコと笑う。僕は試しに牧田先輩の笑顔をひょうの笑顔と重ねてみるが、それらはいまいち重ならない。Lの世界の人間とRの世界の人間がどこまでどういうふうに対応しているのかはわからないが、ひょうと牧田先輩はまったくの別人だな、と思った。二人はそれぞれの世界で僕に近いところにいるが、別の存在なのだろう。
――それはさておき。
自転車を屋根の下に止め、まだ誰も帰っていない家に荷物を置いた僕は――薄紫色に変わりかけている空を背に、隣の家の玄関に立っていた。
もうそろそろ、完全に日が暮れる。そうすれば夜になる。夜になってしまう前に、僕は、彼に会いたかった。いや、「僕が」、「知りたかった」。
ピーンポーン……と電子音のチャイムが鳴っても、反応はない。僕は平然とした調子で、しかし、できるだけ声を張って呼びかける。
「すみません、隣の家の鏡味ですけどもー」
僕はそのドアを何度かノックした。が、返事はない。それでも、僕はドアの前から動かなかった。
「回覧板、回しに来たんですけどー」
そう言いながらしつこくノックを続けると、内側からカチャンと鍵が開く音がする。そして、ほんの少しだけ、ドアが開けられる。その隙間から冷気が漏れ出していた。
「……はい」
「こんにちは、すみません、ホント」
僕は、例の先手を打つための「すみません」を言う。そしてさりげなく、ドアを閉められないように固定する。
中にいる人物は奥にいるせいでよく見えないが、その声のトーンで、僕は確信していた。僕はドアの向こうの暗闇に向かって言葉を投げかける。
「回覧板です。お願いします」
暗闇は動かない。男は蚊の鳴くような小さな声で、ぼそりと返事をする。
「はい」
「あと、鍵のお礼を言いたくて」
「別にいいのに」
「いいえ。ありがとうございました。拾ってくださって」
「はあ」
「それで、『マスター』」
ドアの隙間に言葉をねじ込む。すると、暗闇が少し動いた気がした。僕は、すかさず追撃した。
「あんた、『マスター』だな」
しばし静寂。ドアノブを掴んだ手に、じんわりと汗が滲む。蝉の声をバックに空気が動くのを待っていると、暗闇の中から、先ほどよりもしっかりとした、男の声が聞こえた。
「――何をしに来た」
認めた! と瞬間的に思った僕は、一気に気持ちが昂ったが抑え込む。
僕は一つには、こいつが本当にマスターかどうかを確かめに来たのだ。そしてそれは、まだ確定するには及ばない。それは今から情報を集めるのだ。そして、もう一つ、僕が敵陣のチャイムを鳴らしたのは――。
「『あんたの世界を壊しに来たよ』」
「……中に入れ」
そう言うと、男がドアから離れる気配がした。僕はドアノブを握り直すと、心を決め、ゆっくりとそのドアを開いた。
家の中は、冷気で充満していた。
僕がその中に侵入すると、小さな玄関の先に、フローリングの廊下が延びているのがわかった。廊下の横に三つ、突き当たりに一つ、閉じられた木製のドアがある。無機質な外装に反して、屋内は割と普通の家と変わらない造りをしている。
ただ、玄関にしても廊下にしても、物が少な過ぎることには違和感を覚える。あと、何となくだが、天井が低い気がする。窓がなく、薄暗いからだろうか。全体的に閉鎖的で、生活感のない家だった。
「閉めてくれ」
廊下の先を歩いていた男が、僕に背を向けたまま言った。見失うことはないと思いながらも、男から目を離さずに、後ろ手でドアを閉める。
すると、さっきまで外から入り込んでいた光が、そして熱気と湿度が、一切遮断された。
「……っ」
暗く、そして、恐ろしく寒い。僕は思わず、生身の両腕を抱えた。
額に、背中に、体全体に掻いていた汗が急速に冷えて、とにかく寒い。牧田先輩と初めて出会った時の、美術室のクーラーの三倍は寒い。ローファーを脱いでフローリングを踏むと、床まで凍てついているかのような冷たさだ。まるで巨大な冷蔵庫の中のような、暗くて、冷たい空間だった。
「クーラー、効き過ぎじゃない」
男の背中に声を投げかけると、男はぴたりと止まり、ゆっくりと振り返る。
「文句を言うな」
暗がりの中で、男の顔はよく見えない。早足で徐々に距離を詰めるも、真っ黒の長い前髪に覆われて、男がどのような顔をしているのかがまったくわからない。
その場に突っ立った男は腕をさすった。その黒いセーターが擦れる音に、僕は男が奇妙な格好をする理由の一つがわかった気がした。確かに、こんなに寒い所にいるんだったら長袖の方がいいのかもしれない。だが、長袖を着なくちゃいけないほどにクーラーを効かせているのはどうしてだ?
辺りを見渡しながら、僕はドアを閉めた時から訊きたかったことを、訊こうとしてやめる。まずは、お互いのためにも、世間話から始めることにしよう。時間はたっぷりあるんだから。
「いつもこの中にいるんだ」
僕が訊くと、男は後ろを向いたままで「そうだな」と言う。
「でも、外には出るんだね」
「……」
「花屋であんたを見たよ」
それを聞いた男は、遅れて返事をする。
「そうか」
「うん。……って人が、他にもいるみたいだよ、うちの学校にね。あんた、そんなに有名になって大丈夫なの? 『世界の交差』を司る、『マスター』様なんでしょ」
「……お前はよく喋るな」
男はため息交じりにそう言って、立ち止まる。まだ暗闇に慣れ切っていない目では、男の表情は読み解けない。
「まあね。それより、客間に通してくれたり、お茶を淹れてくれたりするサービスはないの? 廊下で立ちっぱなしってのもなんでしょ」
「お前にはこれで十分だ」
男は息を吐いて、僕の方に体を向ける。そしてその姿勢で止まってしまった。
ちょっとだけでも客人をもてなすそぶりを見せてくれればいいのに――というのは建前で、「少しでも情報を開示してくれればいいのに」というのが本音。僕は腕を組んだまま、一番近くの壁にもたれて、男から距離を取る。
最初は、仁とマスターが別人であることを再確認して終わるつもりだった。とりあえず一目見ておこう、そして、明日にでも牧田先輩に報告すればいいやみたいな。しかし、夕方に住宅街で行われた一連のやり取りを見て、僕はこの男が一体どういう人間なのか、知りたくなったのだ。
あれは一体誰なのだろう。何をしたらあんなに恨まれるのだろう。また、あれほどの暴行を受けたにもかかわらず、どうして「また来る」なんて言うのだろう。あの老けた女と男にはどんな因縁があるのだろうか。どんな理由があって、男は花束を供えに行くのか――?
普段の僕であれば、このような疑問はすべて持ち帰った上で情報の整理をし、次の行動を決めようとする。Lの世界で得られる情報は、ひょうが言うことにはもうない。Rの世界で得られる情報に関しても、同じくほとんど出切っているだろう。
しかし、情報が出切っているということはつまり、僕はすでに「『世界の交差』の仕組みを暴き、マスターの世界をぶっ壊す」ために必要な要素をほぼ揃えているんじゃないだろうか。そうすると、僕は今の段階でマスターに会ってしまいさえずれば、決着をつけることが可能なんじゃないだろうか。
ただ、僕は早くも後悔し始めている。マスターに「あんたの世界を壊しに来たよ」と言ったのは三割くらいが本心で、七割はハッタリだった。僕はとにかく、マスターに会いさえすればいいと思っていた。そして対話をする中で、こいつの矛盾を見つけて指摘し、暴くことで「ぶっ壊す」ことを目論んでいたのだが、思っていたようには事が進まない。極端に口数が少なく、表情も上手く読み取ることができない
思考を断ち切るように咳払いを一つすると、俯きがちな男に向かって話し始める。あまり黙っていると追い返されそうだ。せっかくここまでやって来たのに、タイムアップで退場なんてちっとも笑えない。
「『世界の交差』について調べていて、いろいろわかったことがある。まず、あんたは僕が思っていた以上に大掛かりなことができるんだね。例えばどこからか『この家』を持ってきて何事もなかったかのように住んでみたり、人の意識をRの世界からLの世界に動かしてみたり。完全に移行させてLの世界の住人にし、Rの世界から存在を消してみたり――」
「『Rの世界』、『Lの世界』と呼称し始めたのはお前か」
不意に、男が口を開く。突然口を挟まれたことに僕は少々驚くが、この男には耳がついており、僕の声が聞こえていて、ある程度の状況把握と判断をもって僕と対話をする気を起こしていると思うと、僕はそれだけで胸が躍る。
「そうだよ」
「言い得て妙だな」
素直に感心している風な声に、僕は悪い気はしない。
「そう、Lの世界に行ってきたよ。ひどいじゃないか。普通だったら『世界の交差点』で『マスター』は僕の望みを聞いて叶えてくれるらしいじゃないか。僕はあんたがキレちゃったせいで、『望んだ』世界に連れて行ってもらえなかったんだよ。最終的には行けたけどさ、それでも『こういう世界に行きたい』みたいな申告は、直接できていないんだけど?」
わざとらしく文句を垂れれば、男は「悪かったな」と答えた。あまり「悪かった」と思っているような態度ではないが、いちいち目くじらを立てたってしょうがない。
「ま、別に不便してないからいいけどさ」
そう言うと、男はゆっくりと顔を上げる。廊下は薄暗く、長い前髪の下でどんな表情をしているかを読み取ることは難しい。その時男が唇を動かす。僕は見逃さなかった。
「――お前にとって、『マスター』って何だ?」
「…………え?」
予想外の質問に、思わずうろたえる。男は何も言わない。僕の回答を催促するかのように視線を向けられた気がして、僕は取り急ぎ、思いついた言葉を並べ立てる。
「……ムカつくやつ。何でもわかった気になって、偉そうな顔をして、気に入らないことがあると我を忘れて怒り出す――ちっぽけで、愚かな、そういうやつだよ」
「……そうか」
「『そうか』って……。あんたのことを言ってんだけど」
僕はそう言いながら、自分の言葉に微かな違和感を覚える。
「『俺のこと』、か」
男は僕の言葉を反芻し、少し体を揺らす。そして僕が身構える間もなく男は歩き始めた。それも玄関の方へ。
その動きを目で追いながら、僕はまずいと思った。こいつ、僕を帰らせようとしている。何か問答をミスっただろうか。それとも情報が足りない? どっちにしろ、こんなところでゲームオーバーなんて絶対に嫌だ。
「マスター、」
男が僕の目の前を通り過ぎる瞬間に声をかける。男は歩みを止めない。
「訊きたいことがある!」
――だめだ、まだ立ち止まらない!
「あのさ、『マスターには原則、一度しか会えない』っていう規則があるんだろ。でも今、僕はあんたに会ってる。これで三度目だ。いや、それはどうでもいいのかもしれない――そうじゃなくて――それよりもっと、訊きたいことがあるんだ。あんたに!」
気の利いた前ふりをしようとすればするほど言葉は拙くなっていく。混乱してむしゃくしゃしてきた僕は単刀直入に言うことにした。
「『仁』という男を知っているか」
それを聞いた男は――ピタリ、と足を止める。
ビンゴだ! 僕は畳みかけるように言う。
「銀髪の、片目の隠れた、目の下の隈のひどい殺人鬼。あいつのことを、あんたは知っている?」
男はわずかにだが僕の発言に反応している。ちゃんと聞いてるんだ。
「答えて、マスター」
「……知らんな」
男は素っ気なく答えるが、僕はすぐさま追撃した。
「じゃあ、『仁の容姿がLの世界の僕の容姿と酷似している』っていうのも、まったくの偶然なんだね?」
――男が、ゆっくりとこちらを振り返る。
僕は相手に気づかれないように体勢を整え、壁にもたれかかりながら話す。正直変な汗が止まらない。ここからは発言を間違えた瞬間にゲームオーバーになる気しかしない。
「あんた、最初に僕と会った時に、『お前の顔は、あいつに』って言いかけたの、覚えてる? 僕はちゃんと覚えてる。――ねえ、『あいつ』って誰? もしかして『仁』? もしそうだとしたらさ、僕と仁ってどういう関係? どうして僕たちは似ているんだ? それは、『あんたの世界をぶっ壊す』ことに関係があるのか……?」
さらに質問しようとする、いや確かめようとする僕のことを、男は玄関の方から黙って見つめている。
――どう出る? 男の反応を見るに、おそらく僕は間違ったことを言っていない。が、男が自ら動く気配もない。僕の次の発言を待っているのだろうか。だとしたら分が悪い。僕はまだ、こいつを論破するための「決め手」を持っていないんだから。
じりじりと、頭の中で作戦を練る。僕がこいつにできること。僕が僕の力で可能なこと。今まで集めた、「世界の交差」に関する知識。マスターについての情報。この家の間取り。男の様子。僕のコンディション。今、僕の手札で一番威力を出せるのは、どの刃を、どういう角度で突きつけてやった時だろう?
様々な要素を一瞬で吟味し、僕はある作戦を思いついた。僕は目を閉じる。そしてイメージトレーニング――「想像」をする。
大丈夫だ。この方法ならそのやり方も、上手くいかなかったときの言い訳も、全部完璧のはず。
僕は目を開いた。そして相手にバレないように、少しずつ息を吐き出していく。
「…………質問に答える気はない?」
「……ああ」
僕が問うと、男は僕を見つめたままで返事をした。そして、それ以上喋るつもりはなさそうだった。
「……そう」
僕は、極めて自然に、残念そうな声を出した。そして壁から背中を離す。体が自由に動くのを確認する。
動く。大丈夫。これならいける! 今しかない!
「それは、残念なことで!」
スタンディングスタート! 僕はフローリングを、力いっぱい蹴り上げる。
僕は玄関とは逆方向――廊下の奥に向かって走る。突然のことに反応が遅れたのだろう、その場に突っ立った男を置き去りにして僕は突き当たりのドアに貼りつき、その隙間から漏れる明かりを確認する。
このドアだ! 僕が最初に玄関のドアを閉めて家全体が真っ暗になった時、このドアだけからわずかに光が漏れ出ていた。最初に訊こうと思っていたのはこれのこと。「どうしてあの部屋だけ電気が点いているのか」って――だが、そんなことは考えればわかる! だって電気が点いているということは、そこで生活をしているということだ!
マスターはこの奥で生活している。もっと言えば、僕がチャイムを鳴らす直前まで、この部屋で何かをしていたに違いない。ということは、このドアの向こうに「マスターのしていること」――「世界の交差」の秘密があるはずだ!
氷のように冷たいドアノブを掴む。そして、思いっきり、そのドアを開け放った!
ブワ――ッ! と、一気に襲いかかってくる冷気。まるで雪崩のような冷気の直撃と同時に、眩い光があふれ出す。
僕は思わず目をつぶる。そして、瞬時にあることに気づく。
この部屋、蛍光灯の類が一切ない。それなのにこんなにも明るいのは――暗闇に目が慣れてきたからというのもあるのだろうが――部屋の中央に置かれている大きなスクリーンから、ものすごい輝きの光が漏れ出しているからだ。
その脇にはいくつもの小さなモニタが置かれている。パソコンに特有の青白い光だけが、真っ暗な部屋を必要最低限、いや、それ以上に照らし出していた。
全体像は捉えきれないが、狭い廊下に比べて、その部屋は異様に大きく感じた。スクリーンやモニタだけでなく、数々の真っ黒の電子器具が低い唸り声を上げている。足元には、紙の束、ペンやコード、金属のような物や布のような物が乱雑に散らばっており、足の踏み場はほとんどない。そこはまるで最先端の
――ここで、「世界の交差」の管理をしている?
異様な光景に立ち尽くしていると、不意に背中を突き飛ばされる。
「ッ!」
勢いのままに前方に倒れ込むと、ブワッと埃が舞い上がった。しばらく整理されていないであろう紙束の山だ。ぱっと見た感じ、何か設計図のようなものが書いてある? が、それを確認する前に、肺いっぱいに埃を吸い込んでしまった僕は咳き込んだ。
背後に気配を感じる。振り向くと近づいてきた男が僕の傍にしゃがみ込むところで、上体を起こそうとした瞬間に片手で首を掴まれる。
気道が詰まる感覚と同時に、ガン! と派手な音が響き渡る。そして、数秒遅れて激しい痛みが後頭部から広がった。
「ッ、!」
埃を吐き出そうと痙攣する肺、締まった気道。上手く咳ができない喉が震え、ヒュ、ヒュ、と不規則に鳴っている。
僕はそれを無理やり抑え込みながら、じりじりと男の顔を見上げた。
「残念だったな」
僕の首を掴んだまま、男は僕の体に跨った。
重い、体格が全然違う。氷のように冷たい指が、寝返りどころか顔を背けることすら許してくれない。これで僕は、この男からは完全に逃げられないということか。
――まあ、それも「予想通り」なんだけどね。
僕が首を押さえつけられたまま、男ににやりと笑いかけてみせると――男がその体をびくりと震わせるのが伝わってきた。
「何を笑っている?」
「いや、はは」
「……気持ち悪い」
僕は笑顔を崩さないまま、ゆっくりと腕を持ち上げる。そして、「は、な、し、て、」と口を動かし、男の手を指差してやる。
男は僕の意図を理解したようだったが、首を絞める強さは変えない。僕は、少しだけ笑顔をゆるめ、ふっ、と鋭く息を吐いた。脳からだんだんと酸素が失われている。
「ねえ、離して」
声を振り絞り、男に訴えるが、反応はない。僕は、マスターの手に自分の両手を重ねる。
「苦しいよ」
「…………」
「僕、このままじゃ、死んじゃうよ」
「死んじゃう」と僕が言った瞬間、頑なに閉ざされていたマスターの口が、すうっと開いた。
「ならば――」
「なー、ん、てね」
僕はマスターの手を包み込むように握った。うっすらと手汗を掻いた、冷たい男の手。僕も同じだった。クーラーが効き過ぎていると、体の末端から冷えてくる。
「『最初から、殺す気なんてない』んだろ? マスター」
――僕は、これ以上はないってくらいの、皮肉な笑みを浮かべた。
男は反射的に僕の首から手を離そうとした。が、僕が、それを許さない。僕は男の手ごと自分の首を掴んだ。ただ、男が握る力をゆるめたおかげで、先ほどよりもずっと自由に喋ることができる。
「『世界の交差』は、人を生かすためのシステムだ――って、知り合いが言っててね。二年ほど前にあんたが会いに行った男子生徒さ。覚えてる? 僕は彼にいろんなことを教わったよ。僕は彼に、今みたいな感じで殺されそうになった。でも今、僕はこうして生きている……。どうしてだと思う? それはね、僕が彼に殺される前に、『殺してくれ』って願ったからなんだってさ」
部屋には、僕が語る声以外には、ブ――ンという機械の動作音しか聞こえない。それほど静謐な空間だった。
窓もない。明かりもない。真っ暗で外部から完全に遮断された空間で――僕は、かつて異空間で対峙した男と、またこのような形で対峙している。
「彼はね、『マスターが願いを叶える』という形でないと、僕を殺すことは――世界の誰にも気づかれないように、存在を抹消することは――できないと言っていた。でもね、僕は思ったんだ。もしまたマスターに会うことがあったとして、『マスターは僕を殺すだろうか?』『僕の願いを叶えてくれるだろうか?』……ってね」
男は黙って、僕の話に耳を傾けている。
「ずっと、おかしいと思ってたんだ……。今思えば、僕が最初に『サインイン』した時、僕はその時も暗闇の中で、『さっさと殺してくれ』って願っていた。でも、それは叶えてくれなかった。……むしろ、無理やり阻止された気がしたんだ。『こっちを選べ』って、強制的に『世界の交差点』に連れて来られたような感じだった」
あの時、僕の腕に絡みついた光。あれがなかったら、僕はあの暗闇の中で死んでいたのだろうか? しかし事実、あの糸の導きで「死」という選択を回避させられ、僕は「世界の交差点」へと辿り着いた。
「僕は、あんたに、死ぬことを阻止されている。今だってそうだろ? やり口は彼とまったく同じだ。僕を危険な目に遭わせることで、僕に『死にたくない』って思わせる……。そうなればあんたは、僕の『願いを叶える』という形で、Rの世界からLの世界へ移行させることができるからね。でも、今、あんたはそれができない。なぜって、僕が『殺してほしい』と願っているんだからね。あんたは、何らかの事情によって、僕の『殺してほしい』という願いを叶えることはできない。つまり、あんたはこの場で、僕を殺すことはできない。……僕は、自分の『殺してほしい』という願い故に、あんたに殺してもらえないんだ。なんて逆説的なんだろうね。そうじゃない?」
すっかりと力の抜けてしまっている男の手の甲をさすってやる。そして、にこやかに微笑んだ。
「その人がちゃんと殺すつもりだったらね、数分で死ぬらしいよ。首を絞められた人間って」
そう言って、男の骨ばった手を優しくさする。
「まだ死んでないってことは、僕の仮説が正しいってことかな?」
「…………」
男は黙ったまま、僕の上から動かない。
そう。扉の向こうに何があるかを知ることは、「作戦」の副産物に過ぎない。作戦の主な目的は、「男に、僕の存在を抹消しようとする気、つまり、僕を殺す気があるか」を確認することだけだった。
こいつは「世界の交差点」で、こちらが震え上がるほどの殺意を見せている。あの時はゼロが割り込んだからなんとかなった。だけど今回は一対一での対面だから、下手な発言をしてこいつを怒らせたらどうなるのだろうと警戒していた。
だが、もし僕が男の逆鱗に触れた場合に、こいつが僕を抹消するために踏む手順を想像すると、そこに一つの疑問が浮かんでくる。
――本当に、この男には僕を殺すという選択肢があるのだろうか?
「世界の交差点」に至るまでの暗闇で、あるいは尚人先輩にハンマーを振り上げられた際に、僕は自分の生と死を「選ぶ」境地に立たされた。僕はいつも死を選択しようとする。が、その度に僕はマスターの法、「世界の交差点」のルールに阻まれた。
もしそれが気のせいでないのだとしたら――男は僕を殺せないのなら――僕は自分の命の心配をする必要はない。そしてもし男が僕を本来の意味で殺してしまった場合には、僕は「生きたい」と願わないのだから、彼は「世界の交差」による転生処理、つまり存在の抹消を行うことはできない。となると、僕は文字通り正しく死に、いなくなったことにはならず、この男は人殺しとして「普通」に逮捕されることになる。
その場合、少なくともこいつの人生はめちゃくちゃになるのだろう。死んだ後のことなんて僕にとってはどうでもいいが、少なくとも、僕の
「……口の達者な奴だ」
マスターがおもむろに口を開く。長い前髪の下でゆっくりと瞬きをしたように見えた。僕が両手の力をゆるめると、男は僕の首からその手をゆっくりと外した。
「……そりゃ、どうも」
「まったく褒めてないがな」
そう言うと男は静かに僕の体から降り、立ち上がる。僕も枷が外れて身軽になった体を起こして、その場に立った。
男は開けっぱなしだったドアの方に体を向ける。そして――こちらを一瞥した。
その時気づいた。僕は、「勝った」のだ。必要最低限の情報と適切な行為の選択によって、自分一人の力でこいつに勝った!
両足でフローリングの硬い感触を確かめながら、じわじわと湧き起こる喜びを嚙み締める。僕はこの上なく気分が高揚しているが、平静を装う。決して悟られてなるか。そこまでも勝負だ。僕はこいつに、負ける気はない。
僕はのろのろと足を動かし、男の横に並んだ。男は僕をちらりと見下ろすだけで、もう何もしてこないようだった。完全勝利だ!
「……それじゃ、そういうことで。見送りはここまででいいんで」
僕は乱れた髪を直しながら、男に声をかける。しかし男の反応はない。返事がないのは了承しているということだろうか。
男の横を通り過ぎ、一度振り返って「お邪魔しました」と言うだけ言う。
「……ああ」
もういいだろう。男の短い返事を確認すると、僕は前を向いて玄関へと踏み出した。
その時だった。
「『巴』、」
勢いよく振り返る。僕の背後――すぐ後ろに、真っ黒の男が立っていた。
「……ッ!」
状況把握のために体の動きを止めた瞬間、男の指が僕の首へと絡みつく。
飛び退こうとしたが遅い。ひたひたひたひたっとまとわりつく骨張った指の感触、男の吐息。――完全に、「こいつのペースになっている」!
「お前……っ!」
「もっとゆっくりしていかないか」
無表情な声とは裏腹に、男は両手で僕の首を絞め上げる。
「うッ……!」
瞬時に悟る。さっきまでの力と段違いじゃないか! そして、さらに絞られるような感覚とともに自分の足が浮くのを感じた。体が持ち上がっている。反射で男の腕を掴むもまったく手応えがない。
「なんッ……」
「『この場でマスターは、自分を殺さないんじゃなかったのか』――で、合っているな?」
男は力を込めたままで言った。足をばたつかせたり腕を掴んだり、抵抗しようとすればするほど骨ばった指が喉元に鋭く食い込む。
急速に失われていく酸素にくらくらする。「本当に殺すつもりであれば、首を絞められた人間は数分で死ぬ」……。僕は抵抗するのをやめ、今ある酸素を温存することにする。
「結論から言えば、お前くらい簡単に殺せる。お前だけを特別に生かしておく理由はないからな。俺が『何事もなかったかのように』、『向こうの世界』で生きるための処理をしてやる」
「いや……、無理だ。そもそも、ここは……部室じゃない! こんな所で、『世界の交差』は、起こせないはずだ……」
「俺は、『マスター』だぞ」
男はその低い声で、僕の鼓膜を震わせる。僕は背筋がゾクリとした。殺意だ、と思った。初めて会った時よりも研ぎ澄まされた、鋭い殺意だ。
「俺はいつ、どこであっても『世界の交差』を起こすことができる。俺が、『世界の交差』の
冷徹な男の声に、僕はもっと驚いてもよかったのかもしれないが――僕は、そのことはなんとなく、本能でわかっていた。だからこそ、転生処理ありきで僕は生還のための作戦を練ったんだ。むしろ、この場でマスターが「世界の交差」を起こさないという可能性はまったく考慮していなかった。まあ、それはいいんだ。そんなことより、もしここでマスターが「世界の交差」を起こすとして、僕の存在を抹消するために欠けているものが一つある!
「でもっ……! このままじゃ、僕は、普通に死ぬぞ!」
僕は下方を睨みつけながら、大声で叫ぶ。
「なぜなら……僕は『死にたくない』なんて願わないからだ! それでも僕を殺すと言うなら……『世界の交差』は起こらないよ! そうなったら、僕は行方不明、あんたはじきに、殺人者になるんだ。あんたは、人殺しとして警察に捕まる! それでいいのか、僕が『死にたくない』と願わない限り、あんたは――」
「それは、ありえないことだ」
男は呟き、さらに手に力を込めた。声にはこんなにも覇気がないのに、一体どこからこんな力が出てくるんだよ!
「んなの、どうして……ッ」
「『どうして』? そんなもの、」
食い込んだ指が気道を潰す。
「お前が俺に――いいや、『死に恐怖している』からに決まっているだろう」
「――……ッ‼」
言われた瞬間、意識が、まるで錘を失ったかのようにフッと浮いた。
「お前自身の行動が、いつだってそれを証明している。お前はいつも、口先だけだ。本当は『普通』に死を恐れているのに、生きることに興味がないと言う。『マスター』は、それが気に入らない。だから、お前を『世界の交差点』の向こう側に行かせなかった」
……ついに意識が朦朧としてきた。視覚も痛覚も、きっとほとんどはたらいていない。苦しいのだけはなんとなくわかる。聴覚もそろそろ使いものにならなくなってもおかしくないのに、僕の下方で喋る男の声だけは、はっきりと聞き取ることができた。その低く無感情な声は、僕の心のひだを震わせている。
「『死ぬのが怖い』のは恥ずべきことではなく、当然のことだ。お前はそれに従って生きろ。生きている限り死を恐れ、死を恐れている限り生き続けろ。人間はそのようにして生きていくのだから」
「……おい……ッ‼」
「殺しはしないから安心しろ。『世界』がお前を忘れ、お前が『世界』を忘れるだけだ。そうして、お前はまた次の『世界』を生きていく」
「ふざっ……けん、……な…………‼」
「言葉を選べ。俺がふざけているように見えるか」
男はその顔を近づけ、僕の顔を覗き込む。
――額がぶつかりそうなほど近くに見えた、黒曜石のような真っ黒の瞳の中に。
「『光の、チップ』…………?」
「……っと、」
男は再度僕を持ち上げた。
今度こそ信じられないほどの力が僕の喉にかけられて。
「じゃあな、ひねくれた少年」
ぷつ、と何かが切れる音がして。
「『あいつ』に、よろしくな」
そして。
僕の意識は、完全に途切れた。
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