4話:仁(③)








 その日の帰り、僕は花屋の前で「不審者」を見た。


 町の小さな花屋の前。道路の反対側からなのでよく見えないが、このクソ暑い中、黒い長袖セーターに長袖ズボンを履いて町を歩くような馬鹿野郎は、あいつ――マスターくらいだろう。


 緑色の屋根の下、男は赤色のエプロンをつけた若い女性から花束を受け取る。花束を手渡した女性がお辞儀の体勢に入る前に、男は向きを変えて歩き出した。お辞儀をし終えた女性は頭を上げ、しばし男の後姿を目で追っていたが、少し頭を捻ると、すぐに店内に消えていった。


 僕は、周りを確認すると、自転車を降りた。自転車を押して、後ろからあいつを尾行することにしたのだ。道路の向こう側を歩く男は、ゆら、ゆら、と相変わらず陽炎のように揺らめき歩く。ときどきすれ違う人、買い物帰りのおばさんたちや群がって歩く中学生たちにぶつかりそうになりながら、いや、たまにぶつかられながら、男がアスファルトの歩道を歩いていく。人や塀にぶつかるたびに、男の手に握られた花束からは、赤色の花がこぼれ落ちそうに揺れた。




 昼間の熱が残ったままの、夕暮れの町。オレンジの強い光に蝕まれながら、じわりじわりと男は進む。




 まっすぐ歩いていた男は、不意に、住宅街の路地の方へと向きを変える。僕は、自転車を押すときのチェーンの音で気付かれるかもしれないと思い、その辺にあった郵便ポストの横に自転車を停めた。失くさないように、ズボンのポケットの奥に自転車の鍵をぐっと押し込み、男との距離を確認すると、後を追った。足音をできるだけ殺したからだろうか、男は僕の様子にまったく気付いていないようだった。


 何かに導かれるように、迷うことなく、男は歩く。前を行く男は、すぐに右に曲がった。僕もそれについていく。しばらく歩き、左へ。そして、また左へ。三つ曲がり角を曲がった先で、男はようやく立ち止まった。




 それは、なんの変哲もない、普通の一軒家だった。




 男は表札の掲げられた門の前におもむろにしゃがみ込む。そして、その門の傍に、持っていた花束をふわりと置いた。アスファルトに置かれた花束をぼうっと眺めていた男は、しばらくすると、ゆっくりと両手を合わせる。


 ――蝉の声。カラスの声。夏の夕暮れ。そして、じっと俯いて、表札の前で手を合わせる男。町から浮いているはずなのに、男は手を合わせている間、一枚の風景画の被写体のように、町に、世界に、じんわりと馴染んでいた。その丸まった背中は、なんというか――ただの、普通の「人ひと」に見えた。


 ぐわっ。と僕は唐突に、今までその男に抱いたことのなかった感情に支配される。それが何なのか、善なるものか悪なのかわからないが、名前をつけるとなにか大きな罪を犯したことになってしまいそうな――黒く、重たく、熱を持った感情。に、僕は、とり憑かれたように脚を、一歩、踏み出した――。




 ――というところで、僕はハッと我に返る。家の前を走る道路の奥から、人が現れたからである。




「……また、来たのね」




 道の向こうから現れたのは、ウネウネしたウェーブ頭を斜陽に光らせ、両手に大きな買い物袋を持った、スーツ姿の猫背の女だった。


 げっそりとした声色と油の少ない髪質から、自分の母親よりも上の世代であることを感じさせられる。どうしてスーツを着ているんだろうと思わせるような老けた女だった。膝上のタイトスカートがどうしても痛々しい。


 男はその場にしゃがみ込んだまま、おもむろに女の顔を見上げる。見上げられた女は、しばらくその場に立ちつくしていたが、徐々に、両手に持ったスーパーのビニール袋ごと、女はわなわなと肩を震わせはじめる。二人はゆっくりと、そこに流れる空気を咀嚼するように、互いのことを認識していく。スローモーションのように行われる存在確認。そしてついに、男と女は視線がぶつかった。




 その瞬間、女は大きなレジ袋の一つを、男に向かって投げつけた。




 洗剤のボトルや石鹸が男の頭に直撃する。閑静な住宅街に、ボゴン! ゴロン! と、重いボトルがアスファルトの上を転がる音が鳴り響く。男はドシャ、と力なくアスファルトに倒れ込んだ。


 女はその場に突っ立ったまま、空になった方の拳をぶるぶると震わせている。鬼のような形相で女は男を睨みつけながら、男の頭から足へと、徐々に視線を動かした。


 と、女は倒れている男のそばの、豊かなふくらみの花束を視認する。すると突然女は、悲鳴にも似たヒステリックな叫び声を上げた。


「もう来ないでって言ったでしょ‼」


 女はもう片方の袋をも、倒れ込んでいる男に叩きつけた。もう、全身の力をかけて、鈍器を振り下ろすみたいに!


 受け身を取らない男に、今度はキャベツやトマトや、何本もの重そうな缶が浴びせられた。銀色に鈍く光るそれを見て、お酒の缶だ、と僕は本能的に思った。そして、少しだけ手が震えた。あんなもの直で受けて、痛くないわけがない。




 ぶちまけられた野菜、肉、洗剤、酒の缶。男はそれらに埋もれながら、ゆっくり、ゆっくりと上体を起こす。


 女は大股で花束に近付いて、拾い上げる。そして白い包みとビニールを乱暴に剥ぎ、男の顔目がけて投げつけた。そして、花の束を丸裸にした女は――信じられないことに――茎の部分と花の部分をそれぞれグワシと掴むと、ブチブチブチ! と派手な音を立てて、恐ろしい力で引きちぎった。




 男の目の前で、バラバラになる花束。女は、汚らしそうに手の中の草花を路上にまき散らすと、足元にあった一番大きくやわらかな花弁の白い花を、汚れたヒールで踏みつけた。


 男は女の一連のヒステリーを、何も言わず、ただ見つめ続けていた。そして、日用品や花束の残骸で荒れまくった道路の上を呆けたように眺めている男の後頭部に、女が躊躇いなく拳を叩き込む。男は再度アスファルトに倒れ込み、女は金切り声を上げながら両手を振り回した。


「うちには死人はいないの‼ どうしてこんなものを持って来るの⁉ 毎日毎日気持ち悪いのよ‼」


 女は男の頭を執拗に殴りつけ、ギャンギャンと叫び続ける。


「子供もいないの‼ うちには主人だけ‼ どうして私たちの『普通』の生活をめちゃくちゃにするの⁉ もう、迷惑‼ 目障り‼ いい加減にしてくれない⁉」


 ヒステリックな金切り声が住宅街に反響する。これだけ騒いでいたら誰か出てきてもおかしくないのに、誰かが止めに来るどころか、野次馬さえも現れない。


 無抵抗にその場に倒れ込んでいた男は、髪を振り乱しながら自分の体を殴り続ける女の暴行を受け容れていた。だが、女の体力が持たなくなって、暴行が一区切りした頃、男はゆっくりと、しかししっかりと、その場に立ち上がった。


 ゆうらりと立ち上がった男の背丈は、女よりも、ひと回りもふた回りも大きく見えた。そして男は、こちらにまで聞こえるはっきりとした声で言う。


「また来ます」


「死ね‼」


 女は聞いた中で一番大きな声で叫んだ。と、その瞬間何かの糸が切れたのか、そのままその場に座り込む。そして号泣し始めた。ワアーッっと、幼い子供が泣き立てるみたいに。


 男の背中に浴びせられる、「死ね」だとか「消えろ」だとかの低俗な罵声。汚らしい喚き声。男は土砂降りのように降り注ぐそれらを受け容れていたが、くるりと踵を返す。男がこちらに向いたとき、僕は我に返った。


帰るんだ。僕も慌ててずっと固まっていた足を動かすと、元来た道を戻ることにする。


 曲がり角が多い道でよかったと、小走りでポストのところまで戻ってくる。停めておいた自転車に鍵を挿し、男が追い付いていないのを確認しながらハンドルを握ろうとすると、やはり、僕の手は震えている。体の奥は熱っぽくて苦しいのに、指先は冷たい。僕はいつも以上にきつくハンドルを握ると、夕暮れを背中に町を駆ける。






 マスターが通っているという花屋を教えてくれたのは、牧田先輩だった。


 Lの世界から帰り、創作部部室で目が覚めた僕を、牧田先輩と尚人先輩は傍で見守ってくれていたらしい。僕はマスターについての必要最低限の報告をした。


「おそらく、『マスター』と『仁』は違います。何らかの関係性があるとは思うのですが、僕が見た殺人鬼の仁と、花束を持っている不審者は、おそらく、別人だと思います」


「その『不審者』が、『マスター』ってことね?」


 牧田先輩は確認するように問うた。いろいろなことがあって脳の処理が追いついていない僕は、この人は何を言っているのだろうと思いながら、「はい」と答えるので精いっぱいだった。




「一つ、情報をあげる」




 牧田先輩は、最近、エスチュー近辺で、同様な「花束を持った男」の目撃情報が何件か確認されていること、その男の特徴が、僕が会ったという、マスターの外見情報と酷似していることを教えてくれた。


「情報の出所は?」


「私の周り。うちのクラスでも結構情報が飛び交っていてね。みんなミーハーだから」


「最近、突然証言が増えたってことですか?」


「そうかもね……。噂って、一気に広まるじゃない。おそらく噂が噂を呼んで……って感じだと思う。それでも目撃情報にあまりブレがないのはすごいことだよね。みんな口を揃えて『黒い、花束を持った男』って言うんだもの」


「たしかに。……ああ、ありがとうございました。あとはなんとかします」


「うん。頑張ってね」


 そう言った牧田先輩はニコニコと笑う。僕は試しに牧田先輩の笑い顔をひょうの笑顔と重ね合わせようとしたが、いまいち二つは重ならない。Lの世界の人間とRの世界の人間がどこまで対応しているのかはわからないが、仮に対応していたとして、ひょうと牧田先輩は全くの別人だな、と本能的に思っていた……。






 それはさておき。




 自転車を置き、まだ誰も帰っていない家に荷物を預けた僕は――薄紫色に暮れかけている空を背に、男の家の玄関に立っていた。


 もうそろそろ、完全に日が暮れる。そうすれば夜になる。夜になってしまう前に、僕は、男に会いたかった。いや、「僕が」、「知りたかった」。




 ピーンポーン……、と指で電子音のチャイムを鳴らすも、反応はない。僕は平然とした調子で、しかし、できるだけ声を張って呼びかける。


「すみません、隣の家の鏡味ですけどもー」


 僕はそのドアを何度かノックした。が、返事はなかった。それでも、僕はドアの前から動かなかった。


「回覧板、回しに来たんですけどー」


 そう言いながら再度、数回ノックをすると、ドアの内側からカチャンと鍵が開く音がする。そして、ほんの少しだけ、ドアが開けられる。その隙間から冷気が漏れ出していた。


「……はい」


「こんにちは、すみません、ホント」


 僕は、例の先手を打つための「すみません」を中にいる人物にかける。そしてさりげなく、ドアノブを握って固定した。ドアを閉められないように。


 中にいる人物は奥に隠れているせいでよく見えなかったが、その声のトーンで、僕は確信していた。僕はドアの向こうの暗闇に向かって言葉を投げかける。


「回覧板です。お願いします」


 暗闇は動かない。男は蚊の鳴くような小さな声で、ぼそりと返事をする。


「はい」


「あと、鍵のお礼を言いたくて」


「別にいいのに」


「いいえ。ありがとうございました。拾ってくださって」


「はあ」


「それで、『マスター』」


 ドアの隙間に言葉をねじ込む。すると、暗闇が少し動いた気がした。僕は、すかさず追撃した。




「あんた、『マスター』だな」




 しばし静寂。回覧板を持った手に、じんわりと汗が滲む。蝉の声をバックに空気が動くのを待っていると、暗闇の中から、先ほどよりもしっかりとした、男の声が聞こえた。


「――何をしに来た」


 認めた、と瞬間的に思った僕は、気持ちが一気に昂ったが、その気持ちを必死に抑えた。


 僕は一つには、こいつが本当にマスターかどうかを確かめに来たのだ。そしてそれは、まだ確定には及ばない。それは今から情報を集めるのだ。そして、もう一つ、僕が敵陣のチャイムを鳴らしたのは――。




「『あんたの世界を壊しに来たよ』」




「……中に入れ」


 そう言うと、男がドアから離れる気配がした。僕は、ドアノブに手をかけると、心を決め、ゆっくりとそのドアを開いた。






 開いたドアの奥からは、ブワッと冷気が押し寄せた。


 僕がその中に侵入すると、小さな玄関の先に、フローリングの廊下が延びているのがわかった。廊下の横に三つ、突き当たりに一つ、閉じられた木製のドアがある。無機質な外装に反して、屋内はわりと普通の家と変わらない造りをしている。


 ただ、玄関にしても廊下にしても、物が少なすぎるのには違和感を覚える。あと、何となくだが、天井が低い気がする。窓がなく、薄暗いからだろうか。全体的に閉鎖的で、生活感のない家だった。


「閉めてくれ」


 廊下の先を歩いていた男が、僕に背を向けたまま言った。見失うことはないと思いながらも、男から目を離さずに、後ろ手でドアを閉める。




 すると、さっきまで外から入り込んでいた光が、そして熱気と湿度が、一切遮断された。




「……っ」


 暗く、そして、おそろしく寒い。僕は思わず、生身の両腕を抱えた。


 額に、背中に、体全体にかいていた汗が急速に冷えて、とにかく寒い。牧田先輩と初めて出会ったときの、美術室のクーラーの三倍くらいは寒い。下靴を脱ぎ、フローリングに足を踏み入れると、フローリングも凍てついているかのような冷たさだ。まるで、巨大な冷蔵庫の中に閉じ込められてしまったかのように、暗くて、冷たい空間だった。


「クーラー、効き過ぎじゃない」


 男の背中に声を投げかけると、男はぴたりと止まり、ゆっくりと振り返る。


「文句を言うな」


 暗がりの中で、男の顔はよく見えない。早足で徐々に距離を詰めるも、真っ黒の長い前髪に覆われて、男がどのような顔をしているのかがまったくわからない。


 その場に突っ立った男は、おもむろに腕をさすった。セーターの擦れる音に、僕は男が奇妙な格好をする理由の一つがわかった気がした。確かに、こんなに寒い所にいるんだったら長袖の方がいいのかもしれない。だが、長袖を着なくちゃいけないほどにクーラーを効かせているのはどうしてだ?


 辺りを見渡しながら、僕はドアを閉めたときから聞こうと思っていたことを聞こうとして、やめた。まずは、お互いのためにも、世間話から始めることにしよう。時間はたっぷりあるんだから。


「いつもこの中にいるんだ」


 僕が訊くと、男は後ろを向いたままで「そうだな」と言う。


「でも、外には出るんだね」


「……」


「花屋であんたを見たよ」


 それを聞いた男は、遅れて返事をする。


「そうか」


「うん。……って人が、他にもいるみたいだよ、うちの学校にね。あんた、そんなに有名になって大丈夫なの?『世界の交差』を司る、『マスター』様なんでしょ」


「……お前はよく喋るな」


 男はため息まじりに言うと、その場に立ち止まる。まだ暗闇に慣れきっていない目では、男の表情は読み解けない。


「まあね。それより、客間に通してくれたり、お茶を淹れてくれたりするサービスはないの? 廊下で立ちっぱなしってのもなんでしょ」


「お前にはこれで十分だ」


 ふう、と息をついた男は体の向きを変えると、僕を見据えたままで止まってしまった。


 ちょっとだけでも客人をもてなす素振りを見せてくれればいいのに――というのは建前で、「ちょっとでも情報を開示してくれればいいのに」というのが本音。僕は腕を組んだまま、一番近くの壁にもたれて、男から距離をとる。




 最初は、軽く男の姿を見て、それで終わるつもりだった。とりあえず一目見ておこう、そして、明日にでも牧田先輩に報告すればいいや、みたいな。しかし、さっきのやりとりを見て、僕はこの男が一体どういう人間なのか、知りたくなったのだ。


 何をしたら、あんなに他人に恨まれるのか。そして、こいつはあれほどの暴行を受けたのに、あの家に「また行く」と言うのだろうか。何のために、どういう理由で、どういう因縁があって――?


 普段なら僕は、このような疑問はすべて家に持ち帰り、一晩かけて整理と考察をし、仮説を立ててからそれに基づいた行動を起こそうとする。ただ、Lの世界で得られる情報は、ひょうも言った通り、もうなくなっている。そして、きっと、Rの世界においてわかることも、僕が動かないことにはわからないままだ。


 ――つまり僕は、もう、「『世界の交差』の仕組みを暴き、マスターの世界をぶっ壊す」ために必要な要素をほぼ揃えている。そして、その願いのために必要なことは、僕がここ、Rの世界で直接マスターに会うことだけ、ということなんだろう。


 しかし、僕は早くも後悔し始めている。マスターに「あんたの世界を壊しに来たよ」と言ったのは30%が真で、70%はハッタリだった。僕は直接こいつと話しながら、その言葉の中にある欠陥を指摘して、そこから真実にたどり着く――というやり方でこいつのことを暴こうと思っていた。しかし、極端に口数が少なく、表情もうまく読み取ることができない敵ラスボスを前に、僕は考えている。本当に、今持っている情報とこれからの問答で、「世界の交差」の仕組みを解明することができるのだろうか。こいつの信じる「世界」をぶっ壊すことができるのか。ひいてはその後、こいつは――Lの世界は――こいつは――僕は、一体どうなってしまうんだろうか。


 僕は思考を断ち切るように咳払いを一つすると、俯き加減の男に向かって話し始める。あまり黙っていると追い返されそうだ。せっかくここまでやってきたのに、タイムアップで退場だなんてちっとも笑えない。


「『世界の交差』について調べていて、いろいろわかったことがある。まず、あんたは僕が思っていた以上に、大掛かりなことをしていたってこと。例えば、どこかから『この家』を持ってきて、何事もなかったかのように住んでみたり、Rの世界とLの世界の意識を行き来させたり、完全に移行させたり、その時の生死の判定をしてみたり――」


「『Rの世界』、『Lの世界』という呼称を考えたのはお前か」


 不意に、男が口を開く。俯いたまま発せられている割にはよく通る声に僕は少々驚いたが、この男にはきちんと耳がついていて、ある程度の状況理解能力と会話能力、そして、僕と話をする意思があるということを確認すると、僕はそれだけで満足した。


「そうだよ」


「言い得て妙だな」


 素直に感心している風なその声に、悪い気はしない。


「そう、Lの世界に行ってきたよ。ひどいじゃないか。普通だったら最初の『世界の交差点』の時点で、『マスター』は、僕の願う姿、僕の願う世界を聞いて、叶えてくれるそうじゃないか。僕はあんたがキレちゃったせいで、あんたに自分の願いも要望も言ってないし、『望んだ』世界に連れていってもらえなかったんだよ。最終的にLの世界には行ったけどさ、それでも直接、『この世界に行きたい』みたいな自己申告は、全然できてないんだけど?」


 僕がそう文句を垂れると、男は「それは悪かったな」と言う。あんまり「悪かった」と思ってるようには思えない態度だったが、僕はいちいちそれに目くじらを立てるような器量の小さい人間じゃない。


「ま、別に不便してないからいいけどさ」


 その言葉に、男はゆっくりと顔を上げる。相変わらず、どんな表情をしているかはわからなかったが。そして男は不意に薄い唇を動かす。その一瞬の動きを僕は見逃さない。




「――お前にとって、『マスター』って何だ?」




「…………え?」


 男の唇から零れ落ちたのは、予想外の質問だった。


一瞬僕はうろたえたが、顔色一つ変えずに黙って返答を待っている男となんとなく目が合った気がした僕は、取り急ぎ、思いついた言葉を並べ立てる。


「……ムカつくやつ。何でも分かった気になって、偉そうな顔をして、気に入らないことがあると我を忘れて怒り出す――ちっぽけで、愚かな、そういうやつだよ」


「……そうか」


「『そうか』、って……。あんたのことを言ってんだけど」


 僕はそう言いながら、自分の言葉にかすかな違和感を覚える。なんだ? このモヤモヤ……違和感。


「『俺のこと』、か」


 男は僕の言葉を反芻はんすうすると、少し体を揺らす。なんだ、と思う間もなく、男は歩き始めた。それも――玄関の方へ。


 その動きを目で追いながら、僕は、瞬間的にマズいと思った。こいつ、僕を帰らせようとしている。何かミスっただろうか。それとも情報が足りない? どっちにしろ、こんなところでゲームオーバーなんて絶対に嫌だ。


「マスター」


 男が僕の目の前を通り過ぎようとする瞬間に、声をかける。男は歩みを止めない。


「聞きたいことがある!」


 男は歩みを止めない!


「あのさ、『マスターには原則、一度しか会えない』っていう規則があるんだろ。でも今、僕はあんたに会ってる。これで三度目だ。いや、それはどうでもいいのかもしれない――そうじゃなくて――それよりもっと、聞きたいことがあるんだ。あんたに!」


 気の利いた前振りをしようとすればするほど、言葉は拙くなっていく。むしゃくしゃした僕は、単刀直入に言うことにした。




「『仁』という男を知ってるか」




 それを聞いた男は――ピタリ、と足を止める。




 ビンゴだ! 僕は畳みかけるように言う。


「銀髪の、片目の隠れた、目の下の隈のひどい殺人鬼。あいつのことを、あんたは知っている?」


 男は、わずかだが反応を見せている。僕の発言を聞いているんだ。


「答えて、マスター」


「……知らんな」


 男はそっけなく答えるが、僕はすぐさま追撃した。




「じゃあ、『仁の容姿がLの世界の僕の容姿と酷似している』っていうのも、まったくの偶然なんだね?」




 ――男が、ゆっくりとこちらを振り返る。




 僕は相手に気付かれないように壁にもたれかかりなおすと、言葉を続ける。正直、変な汗が出そうだ。ここからは、何か間違ったことを言った瞬間にゲームオーバーになりそうな気しかしない。


「あんた、最初に僕と会った時に、『お前の顔は、あいつに』って言いかけたの、覚えてる? 僕はちゃんと覚えてる。――ねえ、『あいつ』って誰? もしかして『仁』? もしそうだとしたらさ、僕と仁ってどういう関係? どうして僕たちは似ている? それは、『あんたの世界をぶっ壊す』ことに関係があるのか……?」


 畳みかけるように質問する――いや、確かめようとする僕を、玄関の方に立った男は黙って見つめている。


 ――どう出る? おそらく男の反応を見るに、僕は間違ったことを言っていない。が、男が自ら動く気配もない。僕の動きを待っているのだろうか。だとしたら僕は相当に分が悪い。だって僕はまだ、こいつを論破するための「決め手」を持っていないんだから。




 じりじりと、頭の中で作戦を練る。僕がこいつにできること。僕が僕のためにできること。今まで集めた、「世界の交差」に関する知識。マスターについての情報。この家の間取り。男の様子。僕のコンディション。今、僕にできることで一番「威力」があるのは、一体どの刃だ?


 様々なものを一瞬で吟味して、僕は一つの「作戦」を思いついた。僕は目を閉じて、イメージトレーニング――「想像」する。




 うん、大丈夫だ。これならそのやり方も、上手くいかなかったときの言い訳も、全部完璧のはず。




 僕は目を開いた。そして相手にバレないように、少しずつ、ゆっくりと息を溶かしていく。


「…………質問に答える気はない?」


「……ああ」


 僕が問うと、男は僕を見つめたままでそう答える。そして、それ以上喋るつもりはなさそうだった。


「……そう」


 僕は、極めて自然に、残念そうな声を出した。そして、もたれていた壁から背中を離す。身体が自由に動くのを確認する。


 動く。大丈夫。これならいける! 今しかない!




「それは、残念なことで!」




 スタンディングスタート! 僕はフローリングを、力いっぱい蹴り上げる。


 僕は玄関とは逆方向――廊下の奥に向かって走る。男は突然のことに反応が遅れたのであろう、男を置き去りにすると僕は、突き当たりのドアに貼りつき、その隙間から漏れる明かりを確認する。




 このドアだ! 僕が最初に玄関のドアを閉めて家全体が真っ暗になったとき、このドアだけから、わずかに光が漏れ出ていた。最初に聞こうと思っていたことはこれのこと。「どうしてあの部屋だけ電気が点いてるんだい」って――だが、そんなことちょっと考えればわかる! だって光があるところでしか、人間は生活できないんだから!


 マスターはこの奥で生活している。もっと言えば、僕がチャイムを鳴らす直前まで、おそらくこの部屋で何かしていたに違いない。ということは、このドアの向こうに「マスターのしていること」――「世界の交差」の秘密があるはずだ!




 氷のように冷たいドアノブを掴む。そして、思い切り、そのドアを開け放った!






 ブワ――ッ! と、一気に溢れ出す冷気。まるで雪崩のような冷気の直撃と同時に、まばゆい光が溢れ出す。


 僕は思わず目をつぶる。そして、瞬時にあることに気付く。


 この部屋、蛍光灯の類は一切点いていない。それなのにこんなにも明るいのは――暗闇に目が慣れていたからというのもあるのだろうが――部屋の中央に置かれている大きなスクリーンから、ものすごい輝きの光が漏れ出しているからだ。


 その脇にはいくつもの小さなモニタが置かれている。ブルーライトと呼ばれるパソコン特有の光だけが、真っ暗な部屋を必要最低限、いや、それ以上に照らし出していた。


 全体像は捉えきれないが、狭い廊下に比べて、その部屋は異様に大きく感じた。スクリーンやモニタだけでなく、数々の、同じく真っ黒の電子器具が低い唸り声を上げている。足元には、紙の束、ペンやコード、金属のようなものや布のようなものが乱雑に散らばっており、足の踏み場はほとんどない。そこはまるで最先端の研究を行っているラボのようでもあり――後片付けの苦手な、子どもの一人部屋のようでもあった。




 ここで、「世界の交差」の管理をしている?




 異様な光景に思わず立ち尽くしていると、不意に背中を突き飛ばされる。


「ッ!」


 勢いのままに前方に倒れ込むと、ブワッと埃が舞い上がった。しばらく手をつけられていなかったであろう紙束の山。ちらと見えた感じ、何か設計図のようなものが書いてある? が、肺いっぱいに埃を吸い込んだ僕は激しく咳き込んだ。


 と、背後に気配を感じる。振り向くと近付いてきた男が僕のそばにしゃがみ込むところで、僕が上体を起こそうとすると、その瞬間に片手で首を掴まれる。気道が詰まる感覚と同時に、ガン! と派手な音が響き渡り、コンマ数秒遅れて激しい痛みが後頭部から広がる。


「ッ、!」


 埃を吐こうと痙攣する肺、締まった気道。上手く咳ができない喉が震え、ヒュ、ヒュ、と不規則に鳴っている。


 僕はそれを無理やり抑え込みながら、じりじりと男の顔を見上げた。


「残念だったな」


 僕の首を掴んだまま、男は僕に馬乗りになる。


重い、体格が全然違う。氷のように冷たい指が、寝返りどころか顔を背けることすら許してくれない。これで僕は、この男からは完全に逃げられないということか。




 ――まあ、それも「予想通り」なんだけどね。




 僕が首を押さえつけられたまま、男ににやりと笑いかけてみせると――男がその体をびくりと震わせるのが伝わってきた。


「何を笑っている?」


「いや、はは」


「……気持ち悪い」


 僕は笑顔を崩さないまま、ゆっくりと腕を持ち上げる。そして、「は、な、し、て、」と口を動かし、男の手を指差してやる。


 男は僕の意図を理解したようだったが、首を絞める強さは変えない。僕は、少しだけ笑顔を緩め、ふっ、と鋭く息を吐いた。脳からだんだんと酸素が失われている。


「ねえ、離して」


 声を振り絞り、男に訴えるが、反応はない。僕は、マスターの手に自分の両手を重ねる。


「苦しいよ」


「…………」


「僕、このままじゃ、死んじゃうよ」




 ――「死んじゃう」、と僕が言った瞬間、頑なに閉ざされていたマスターの口が、すうっと開いた。




「ならば――」


「なー、ん、てね、、」


 僕はマスターの手を包み込むように握った。うっすらと手汗をかいた、冷たい男の手。僕も同じだった。クーラーが強すぎると、すぐ手先が冷えるんだ。




「『最初から、殺す気なんてない』んだろ? マスター」




 僕は、これ以上はないってくらいの、皮肉な笑みを浮かべた。


 男は反射的に僕の首から手を離そうとした。が、僕がそれを許さない。僕は男の手ごと自分の首を掴んだ。ただ、男が握る力を緩めたおかげで、先ほどよりもずっと自由に喋ることができる。


「『世界の交差』は、人を生かすためのシステムだ――って、知り合いが言っててね。二年ほど前にあんたが会いに行った生徒さ。覚えてるかい? ……僕は彼にいろいろ教わったよ。二人きりの時に、こっそりとね……。彼にはね、今みたいに、殺されそうになったんだよ。でも、僕は今、こうして生きている……。どうしてだと思う? それはね、……僕が『殺してくれ』って、願ったからなんだってさ」


 部屋には、僕が語る声以外には、ブ――ンという、機械の動作音しか聞こえない。それほど静謐せいひつな空間だった。


 窓もない。明かりもない。真っ暗で外部から完全に遮断された部屋で――僕は、かつて異空間で対峙した男と、また、このような形で対峙している。


「彼はね、『マスターが願いを叶える』という形でないと、僕を殺すことは――世界の誰にも気付かれないように、存在を抹消することは――できないと言っていた。でもね、僕は思ったんだ。もしまたマスターに会うことがあったとして、『マスターは僕を殺すだろうか?』『僕の願いを叶えてくれるだろうか?』……ってね」


 男は黙って、僕の話に耳を傾けている。


「ずっと、おかしいと思ってたんだ……。今思えば、僕が最初に『サインイン』したとき、僕はそのときも暗闇の中で、『さっさと殺してくれ』って願っていた。でも、それは叶えられなかった。……むしろ、無理やり阻止された気がしたんだ。『こっちを選べ』って、強制的に『交差点』に連れてこられたような感じだった」


 あの時僕の腕に絡みついた光。あれが無かったら、僕はあの真っ暗な空間の中で死んでいたのだろうか? ただ、あれに導かれることで、『世界の交差点』に辿りついたのは確かだ。そして、この男――「マスター」に出会った。


「僕は、あんたに、死ぬことを阻止されている。今だってそうだろ? やり口は彼と全く同じだ。僕を危険な目に遭わせることで、僕に『死にたくない』って思わせる……。そうなればあんたは、僕の『願いを叶える』という形で、Rの世界からLの世界への転生を果たす手続きをすることができる……。でも、今、あんたはそれができない。なぜって、僕が『殺してほしい』と願っているんだからね……。あんたは、何らかの事情によって、僕の『殺してほしい』という願いを叶えることはできない。つまり、あんたはこの場で、僕を殺すことはできない。……僕は、自分の『殺してほしい』という願い故に、あんたに殺してもらえないんだ。なんて逆説的なんだろうね。そうじゃない?」


 すっかりと力の抜けてしまっている男の手を、僕は握り直す。そして、にこやかに微笑んだ。


「その人がちゃんと殺すつもりだったらね、数分で死ぬらしいよ。首を絞められた人間って」


 そう言って、男の骨ばった手を優しくさする。


「まだ死んでないってことは、僕の仮説が正しいってことかな?」


「…………」


 男は黙ったまま、僕の上から動かない。




 そう。この扉の向こうに何があるかを知ることは、「作戦」の副産物にすぎない。そのメインは、「男に、僕の存在を抹消しようとする気、つまり、僕を殺す気があるか」を確認すること、ただそれだけだった。


 この男、「世界の交差点」で、震え上がるほどの殺意を見せた男だ。あの時はゼロの助けがあったから僕は助かったようなもので、男と一対一である今回のコンタクトでは、下手に怒らせると、どういうことになってしまうのかまったく想像がつかなかった。


 だが、ゲームオーバーになる条件――つまり男が僕の存在を抹消するために必要な手順を脳内で想像、確認したとき、どうしてもそこに違和感があったのだ。


 本当に、この男には僕を殺すという選択肢があるのだろうか?


「世界の交差点」に至るまでの空間において、そして何より尚人先輩の前において、僕は複数回生か死かを「選ぶ」境地に立たされたのだが、僕はいつも、死を選ぼうとする寸でのところで、マスターの法――光の束や、彼自身のルール――に、死に向かうことを阻止される。


 もしそれが気のせいでないのだとしたら――男に僕を殺すつもりがないのなら――僕が自分の命の心配をする必要はない。それに、もし男が仮に、僕を本来の意味で殺してしまったならば、彼には「世界の交差」は使えない。そうすれば、僕は正しく「いなくなった」ことになり、そのことに気付いた誰かは警察を呼び、転生処理できなかった僕の遺体を抱えた男は人殺しとして逮捕される。


 そうなった場合、僕はもう死んでいるのだからそこまでなんだけど、少なからずこいつの人生をめちゃくちゃにすることができるのだろう。僕が死んだ後の「世界(World)」なんて知ったこっちゃないけど、少なくとも、僕の「世界(View)」に土足で侵入しては踏み荒らしまくったこの男の「世界(World)」をめちゃくちゃにできるんだから、これほど気持ちいいことはない。それに、そのとき僕はもう死人なんだから、その責任に問われることもない。悪いのは先に手を出してきたこいつだ、それ以上でもそれ以下でもない!






「……口の達者な奴だ」


 黙りこくって僕の話を聞いていたマスターが、おもむろに口を開く。そして、少しだけ上体を起こす。僕が両手の力を緩めると、男はその手を僕の首からゆっくりと外した。


「……そりゃ、どうも」


「まったく褒めてないがな」


 そう言うと男は静かに僕の上から降り、立ち上がる。もう、今さら咳は出ない。僕は枷の外れて身軽になった体を起こし、その場に立つ。


 男は僕に背を向け、開けっぱなしだった部屋の出口のドアの前に立つ。そして、こちらを一瞥する。




 そのとき気付いた。


 僕は、「勝った」のだ。少ない情報と、素早い吟味と、自分の行為によって、自分一人の力でこいつに勝った!




 両足でフローリングをしっかりと踏みしめながら、じわじわと湧き起こる喜びを噛みしめる。僕は正直気分が高揚していたが、必死に平静を装う。決して悟られてなるか。そこまでが勝負だ。僕は、こいつに負ける気はない。


 僕は、ドアの前に立つ男の横に並ぶ。男は僕をちらりと見下ろすだけで、もう何もしてこないようだった。


「それじゃ、そういうことで。見送りはここまででいいんで」


 床に押さえつけられ、ぐしゃぐしゃになった髪をなんとなくいじりながら声をかけるも、男の反応はない。返事がないということは、了解ということだろうか。


 僕は男の横を通り過ぎ、一度振り返って、「お邪魔しました」と言うだけ言う。




「……ああ」




 男の短い返事を確認すると、僕は前を向き、玄関の方へと足を踏み出す。


 その瞬間だった。






「『巴』、」






 バッと、勢いよく振り返る。背後――しかもすぐ真後ろに、「真っ黒の男」が立っている。




「……ッ⁉」




 僕が状況を把握しようとする隙をつき、しなやかな鞭のような指が僕の首へと絡みつく。


飛び退こうとしたが遅い。ひたひたひたひたッと首にまとわりつく骨張った指の感触、男の吐息。――完全に、「こいつのペースになっている」!


「お前……っ‼」


「もっとゆっくりしていかないか」


 無表情な声色とは裏腹に、男はその長い指で僕の首を絞め上げる。


「うッ……‼」


 瞬時に悟る。これ、さっきまでの力と段違いじゃないか! そしてさらに強く絞られる感覚と同時に、僕は自分の足が、地面から浮くのを感じた。首を掴んで、そのまま持ち上げられている。僕は男の腕を掴むも手応えがない。


「はっ、なんッ……」


「『この場でマスターは、自分を殺さないんじゃなかったのか』――で、合ってるな?」


 男は力を込めたままで言った。足をばたつかせたり腕を掴んだり、抵抗しようとする度に男の骨ばった指が喉元に鋭く食い込む。


 急速に失われる酸素にくらくらする。「本当に殺すつもりであれば、首を絞められた人間は数分で死ぬ」……。僕は抵抗をやめ、できるだけ今の酸素を温存させることに徹する。


「結論から言えば、お前くらい簡単に殺せる。お前だけを特別に生かしておく理由はないからな。俺が『何事もなかったかのように』、『向こうの世界』で生きるための処理をしてやる」


「いや……、無理だ。そもそも、ここは……部室じゃない! こんなところで、『世界の交差』は、起こせないはずだ……」


「俺は、『マスター』だぞ」


 地響きのような低い声で、男は僕の鼓膜を震わせる。僕は背筋がゾクリとした。殺意だ、と思った。あの時よりももっと研ぎ澄まされた、鋭い殺意だ。




「俺は、どこででも『世界の交差』を起こすことができる。俺が、『世界の交差』の管理人マスターだからな」




 冷徹な男の声に、僕はもっと驚いてもよかったのかもしれないが――、僕は、そのことはなんとなく、本能でわかっていた。だからこそ、転生処理ありきで、僕は自分の生還のための作戦を練ったんだ。むしろ、この場でマスターが「世界の交差」を起こさないという可能性は全く考慮していなかった。まあ、それはいいんだ。そんなことより、もしここでマスターが「世界の交差」を起こすとして、それを行うために不足しているものが一つある!


「でもっ……! このままじゃ、僕は、普通に死ぬぞ!」


 僕は下方を睨みつけながら、大声で叫ぶ。


「なぜなら……僕は『死にたくない』なんて願わないからだ! それでも僕を殺すというなら……、『世界の交差』は起こらない! そうなったら、僕は行方不明、あんたはじきに、殺人者になるんだ。あんたは、人殺しとして警察に捕まる! それでいいのか⁉ 僕が、『死にたくない』と願わない限り、あんたは――」


「それは、ありえないことだ」


 男は呟き、さらに手に力を込めた。声にはこんなにも覇気がないのに、一体どこから、このありえないほどの力が出てくるんだよ!


「んなの、どうして……ッ」


「『どうして』? そんなもの、」


 食い込んだ指が気道を潰す。




「お前が俺に――いいや、『死に恐怖している』からに決まっているだろう」




「――……ッ‼」


 言われた瞬間、意識が、まるで錘おもりを失ったようにフッと浮いた。


「お前自身の行動が、いつだってそれを証明している。お前はいつも、口先だけだ。本当は『普通』に死を恐れているのに、生きることに興味のないふりをしている。『マスター』は、それが気に入らない。だから、お前を『世界の交差点』の向こう側に行かせなかった」


 ――ついに意識が朦朧としてきた。視覚も、痛覚も、きっとほとんど働いていない。ただ、苦しいのだけは、なんとなくわかる。聴覚もそろそろ使い物にならなくてもおかしくないのに、僕の下方で喋る男の声だけははっきりと聞き取れた。その声は、僕の心のひだを震わせながら響いている。


「『死ぬのが怖い』のは恥ずべきことじゃなく、当然のことだ。お前はそれに従って生きろ。生きている限り死を恐れ、死を恐れている限り生きつづけろ。そうやって人間は生きていくんだ」


「……おい……ッ‼」


「殺しはしないから安心しろ。『世界』がお前を忘れ、お前が『世界』を忘れるだけだ。そうして、お前はまた次の『世界』を生きていく」


「ふざっ……けん、……な…………‼」


「言葉を選べ。俺がふざけているように見えるか」


 男は僕の首を掴んだ腕で、自分の顔へと近付ける。


 ――その時、初めて額がぶつかりそうなほど至近距離で見た、男の黒曜石のような真っ黒の瞳の中に。




「『光の、チップ』…………⁉」


「……っと、」






 男は再度僕を持ち上げた。


 今度こそ信じられないほどの力が僕に喉にかけられて、それで。






「じゃあな、ひねくれた少年」






 ぷつ、と何かが切れる音がして。






「『あいつ』に、よろしくな」






 そして。


 僕の意識は、完全に途切れた。








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