5話:アバターネーム(①)

5・アバターネーム




 そこは、誰もいない教室。閉じられた透明な窓の奥に、灰色のかかった白っぽい空が広がっている。僕は、教室の入口の辺りで立ち尽くしていた。

 自分の長い前髪が、右目の視界の邪魔をしている。手で掻き分けると、教室の様子がよく見えた。だいたい四十くらいの机、椅子。薄汚れた床。壁、黒板――。そのどれもがどこか懐かしいが、決して見覚えがあるわけではない。

 それらはすべて、滲んでいるかのような、ぼやけた輪郭をしている。一歩足を踏み出すと、硬いフローリングの感触がした。と、僕はそこに「彼女」の姿を見つける。

「……『君』は、」

 黒板の横、小さな棚の上の花瓶。こげ茶色の筒のようなそれを彼女が手に取った瞬間、それは輪郭を手に入れる。振り向いた彼女は僕に気づいて、小さく笑った。彼女は細くて白い指の先――二つ結びにした髪の先まで、はっきりとした線を持っている。

「おはよう、――くん」

 ノイズがかかったようなその声に、僕は返事をする。

「おはよう、――」

 名前の部分にはやはりノイズがかかっており、僕はそれを認識することはできない。しかし、不思議と口に馴染む。名前を呼ばれた彼女は微笑むと、空の花瓶を持ったままで会話を続ける。

「朝練? 頑張ってるね」

「まあね。――も早いね」

「うん。お兄ちゃんと一緒に出てきたんだ」

「そっか」

 僕が言うと、彼女は嬉しそうに、くすぐったそうに笑う。素朴で、あどけない雰囲気の彼女がよく笑うから、つられるように僕も笑った。僕らは他愛のない話題で盛り上がった。僕は彼女の名前を呼んで、彼女は「僕」の名前を呼んだ。


 ――くん。

 ――くん。

 ――くんってば。


 僕は、目を閉じる。瞼の裏に広がるのは教室。それは、「ここ」とは違う――僕の教室。そして、気づいた。僕が「ここ」のことを知らないのは――「ここ」が、冬の教室だからだ。


 ――くん、


 彼女が「僕」の名前を呼ぶ。僕はその声に耳を凝らす。そうすると、初めて聞こえた。その奥に聞こえていた、弱々しく震える声が。


 ――くん、もういいよ。


「……そうだよね」

 僕は思わず呟く。そして、目を閉じたまま、声のする方へと手を伸ばしていた。

「伝えてあげるよ、君の愚かな友人にさ」

「……うん」

 伸ばした手がふわ、とやわらかい物に包まれる感触に、僕は思わず瞼を開く。

 それは、彼女の両手だった。白く、少しかさついた彼女の手が僕の手を撫でる。そして、同じ高さにあった僕らの目線が、ぶつかって弾けた。

「ありがとう、『巴くん』」

 その瞬間、しゅわんと音を立てて、彼女は僕の前から消えた。

「……ちゃんと名前、わかってんじゃんか」

 こぼれ落ちた独り言。と、僕はさっきまで彼女が持っていた花瓶を、両手で抱いていることに気づく。ざらざらとした土の感触を確かめながら、何とはなしにそれをひっくり返してみると――底には、小さく「2―B」と彫られていた。



 ◇


 ……頭が、重い。

 瞼を開くと、薄暗くてぼやけた視界に淡いクリーム色が広がっていく。次に目に映ったのはゆるく握られた自分の手。そして、何房か垂れ、視界を遮る前髪の黒だった。片頬に触れているやわらかな感触を思わず頬ずりで確かめると、それがタオルのような物だとわかった。

 どうやら、僕は床の上で寝ていたようだ。少し体を動かすと、何か、布のような物が自分の体にかけられていることに気づく。

 横になったまま手で引っ張って視界に入れれば、こちらも淡い黄色のタオルケット。僕はこれらのタオルに見覚えを探そうとするが――記憶の引き出しを探るたび、頭がズキズキと痛む。


「あっ、気がついた?」


 静けさの中に、突然、凛とした声が響く。そちらを向こうとすると、またズキンと頭が痛んだ。

 丸めていた体を徐々にほどき、顔を動かして周りの状況を確認する。すぐ横には真っ暗な壁。反対側に壁はなく、蛍光灯の白い光が差し込んでくる。そして、薄暗いと感じていたのは、僕の真上に屋根があったかららしい。でも、屋根にしては低過ぎるような……。

「すぐ起き上がっちゃだめだよ。頭ぶつけちゃう」

 パタパタ……という音とともに、音の主が近づいてくる。その声はとても聞き慣れた――聞いていてなぜか安心する女の人の声だ。僕は、光の差してくる方を見る。

 と、そこにデフォルメされたクマのプリントが二つ並ぶ。スリッパ、と思った瞬間、目の前に長くてさらさらの黒髪が、甘い石鹸の匂いとともに広がった。

「…………牧田先輩?」

 僕が訊くと、その場にしゃがみ込んだ彼女はにこっと笑う。

「うん、私だよ。大丈夫? 意識ははっきりしているみたいだけど」

 出ておいでと言うように、牧田先輩は手招きをする。重たい体を引きずって這い出れば、そこはまったく見覚えのない空間だった。

 ぱっと見の印象は、とにかく、雑然としている小部屋。部屋のそこかしこには段ボールや書類の束、ぐるぐると巻かれたコードなどが積み重なっており、そのどれもが埃っぽい。白い壁に灰色の床、と明らかに室内なのに、まるで誰も使っていない倉庫のようだ。

 横を見れば、さっきまで僕が屋根だと思っていた物が大きな灰色の机だったとわかる。無機質な印象を与えるそれは、小学校の教室に必ずあった担任机によく似ている。首を伸ばしてその上の様子を窺えば、そこにも雑多に紙やファイル等が積まれていた。その中でも異彩を放っていたのは。

「……マイク?」

 黒色の、細くて、にゅっと上に伸びていくような形のマイク。それらが三本、いや四本、寄り添うように固めて置いてある。

「一体何に……」

 そう言って隣を見ると、しゃがんだままの牧田先輩と目が合う。

 その時、僕はようやく、彼女がいつもと違う格好をしていることに気がついた。胸元にリボンがついた、ふんわりとした白の半袖ブラウスと、水色のひらひらのハーフパンツ。さらさらの黒髪は相変わらず重たそうだが、それを加味しても爽やかで女の子らしい……女性らしい印象を受ける。それはそうとして。

「……なんで、私服なんですか」

 思わず訊いてみると、彼女はしゃがんだままあまり表情を動かさずに答える。

「だってここ、私の家だもん」

「……え、先輩の家?」

「うん」

 彼女は頬杖を突くと、僕から視線を外す。「先輩の家」? この、埃っぽい空間が? 確かにそれなら牧田先輩が私服を着ている理由はわかるけど。でも、この物置みたいな空間が、本当に牧田先輩の家なのか……?

「と、言っても」

 僕の思考を遮るように、彼女は言う。

「ここは、いつもは使っていない『スタジオ』だけど」

「『スタジオ』?」

 スタジオ? 何でそんな物が家にあるんだ? そしてどうして僕たちはそんな場所にいるんだ?

 渦巻く疑問のどれから口に出せばいいのだろう。迷いながら、状況を整理しようとしながら立ち上がろうとした、その時だった。


「――その前に!」


 視界が、暗くなる。ハッとして避ける間もなく、彼女の手が勢いよく伸びてくる。僕はギュッと目をつぶる。殴られる! そう思った瞬間頭の上に手が乗せられた。僕は目を開こうとして――。


 パアン! という鋭い音が、鼓膜を、ジンと痺れさせた。


「、せん、ぱい……?」

 ――それは彼女の手が、僕の頭に置かれたもう片方の彼女の手を、平手打ちした音だとわかった。

 大きな音こそしたけれど、わずかに振動があったのみで、僕の頭はまったく痛くない。むしろ、今、頭に置かれた握りこぶしの指の骨が、つむじに食い込んでいる方が痛い。そのこぶしは固く、そして、わずかに震えている。

「……巴くんからしたら、おかしな話かもしれないけれど」

 その場に膝立ちをした牧田先輩は、僕から手を離し、目線を逸らしながら言う。今や、僕と彼女との間には、片腕分のリーチしかなかった。


「これでも、ものすごく、心配したんだから……」


 ……そう言われた瞬間に、ズキン、と痛む脳。

「…………あ、」


 ――そうだ、僕は、「マスターに会った」んだ。

 僕は思い出す。今日一日のことを。朝起きて、補習を受けて、創作部に行ったこと。Lの世界で学校に行って、ひょうとおにぎりを作ったこと。仁と対峙したこと。帰ってきて、牧田先輩に報告したこと。そして、帰り道にマスターを尾行して、家まで行って――そこで、マスターに殺されかけたことも。

 首元をさすりながら、改めて、自分の体を確認する。いつもの、学校の制服。頭が痛むこと以外に問題はないが、強いて言えば、ずっと硬い床の上で寝ていたからか全身がギシギシと軋む。

 ……死んで、なかったのか。改めて部屋の様子を見るべく立ち上がろうとすれば、代わりに牧田先輩が、その場にぺたんと座り込む。

「……先輩?」

 僕が声をかけるも、うなだれたままの彼女は何も言わない。僕とは違い、見慣れない服装で、見慣れない様子で黙りこくってしまった先輩に対して何をすればいいかわからず、困ってしまう。この部屋には僕と、牧田先輩しかいない。ただでさえいつもと違う状況で落ち着かないのに、この人が黙ってしまったら、僕はどうすればいいのかわからない。

 とにかく、状況把握をしないといけない。気を取り直して再び立ち上がろうとすると、目の前の彼女がようやく言葉を発した。

「……『マスターが巴くんを運んできた』時は、ほんとにどうしようかと思った」

「、は……?」

 それ、どういう意味――と訊こうとした瞬間、牧田先輩が勢いよく顔を上げる。僕は言葉を失った。リンゴみたいに顔を赤くした彼女に、真正面から睨みつけられて。

「こんなに早くきみがマスターと接触するなんて思ってなくて……。っていうか、情報も不十分なのにその日のうちに敵陣に乗り込むなんて、いくらなんでも無茶過ぎる! きみならそのくらいわかってくれると思ってたの! ああ、私の考えが甘かった……男の人っていつもそう……!」

「えっと、待ってください! え? 僕を……『マスターが運んできた』って……?」

「そう、あいつ、私のこと何だと思ってるんだか! 突然電話してきたかと思えば『今から生徒を連れていくから、目が覚めるまで匿ってやってくれ』なんて、こんな夜更けにおかしいでしょう! 慌てて外に出たら巴くんを担いで立ってるし! ここに置いたらすぐ帰っちゃうし!」

「あの、落ち着いてください……! えっと、夜? 今何時なんですか?」

「夜の八時過ぎ! もうお風呂に入った後だってのに、あいつ、自分勝手なんだから!」

「『夜の八時過ぎ』……」

 感情を露わにしている牧田先輩に押されつつも浮かんでくる、「先輩って風呂に入るの早い人なんだな……」という関係のない考えを思考の外側に追い出しながら、僕は自分自身に、できるだけ冷静になるように言い聞かせる。

 先輩の発言からわかったことは、今が「夜の八時過ぎ」ということ、ここは牧田先輩の家ということ。僕はマスターに担がれて「ここ」にやってきて、その前にマスターは牧田先輩に電話で連絡を入れていた。牧田先輩はマスターに対して激怒していて……。

 ――いや、わからない。ちっともわからない。今の状況も先輩の言うこともちっとも頭に入ってこないし、起き抜けだからかもしれないけど、まったく頭が回らない。

 ていうかそもそも、どうして、こんなにも先輩は怒っているのだろう。こんな先輩はめずらしい。いつもは笑顔の仮面で決して本心を見せようとしない彼女が、感情のままに嘆いたり、怒ったり、怒鳴ったり睨んだりするのを、僕は初めて見た――。

「……あ、」

 ――いや、初めてじゃない。

 僕はある一瞬を思い出す。僕は、彼女の仮面が剝がれ落ちた瞬間を、この目で確かに見ている。その時はあまり気に留めなかったが、今思えば、怪しかったのかもしれない。追及しなくてはならなかったのかもしれない。

 ――そんな大層なものじゃない。あいつなんかと一緒にしないでもらえる。

「そういえば先輩って、マスターと、どういう関係なんですか……?」

 ――ゴゥンと、空調が低い唸り声を上げる。

「……それを、もっと早くに聞きにくるべきでしょう」

 ふわ、と甘い香りがするのと同時に、牧田先輩が動くのがわかった。彼女のたっぷりとした黒髪が鼻の先で揺れると、僕は一瞬くらっとする。

 牧田先輩は立ち上がると、傍にあった椅子に腰かけた。頬杖を突き、遠くを見ながら話す彼女の声はよく通る。その声色は、どこか僕を責めているようだった。

「だから、最初に言ったの。わからないことは勝手に決めつけるんじゃなくて、ちゃんと言葉で訊いてねって。そうじゃないと、『世界の交差』の調査は務まらないって」

 そういえば、最初に「世界の交差」の説明を聞いた時に、そんなことを言われた気もする。今の今まですっかり忘れていたけれど。

「もちろんそれは『世界の交差』システムのためでもあったけど、何より、きみが間違った道に突き進んで、大変なことにならないためでもあったの。そのための忠告だったのに……その結果がこれ。きみは、きみの考えなしの行動で、こんな危険な目に遭ったんだよ」

 僕はその言葉にカチンとする。僕の、「考えなしの行動」? 僕がマスターの家に押しかけたことが? それはそうかもしれないけれど、でも、この人はそれを、「間違った行動」だと言うの?

「……先輩は、今の情報量だったら僕が危ない目に遭うってわかっていたんですか」

 僕は苛立ちを抑えて、彼女に訊く。見上げた先の彼女は机に頬杖を突き、脚を組んでいて――まるで、「世界の交差点」でふんぞり返っているマスターのようだと思った。彼女自身が嫌っているその姿によく似ている。僕は笑ってしまいそうだった。

「と、いうより、真実に辿り着けないだろうって思っていたの。実際そうだったでしょ」

「……だったら、」

 僕は言う。僕の体にかけられた、そして寝ていた僕の下に敷かれていた、能天気に明るいタオルの黄色がひどく恨めしい。

「先輩が知っている真実って、何なんですか」

 僕が言うも、彼女は微動だにしない。から、続ける。僕が、ずっと思っていたことを。

「あなたは僕に隠し事をし過ぎていて……僕に何をさせたいのか、正直よくわからない。あなたは僕に『世界の交差』の調査を頼んだ。説明もしてくれた。それはいいですけど……。Rの世界でマスターと会った部員は僕が初めてだとか言う割には、先輩はマスターと連絡を取り合っているみたいじゃないですか。それって、どういうことなんですか」

 閉じられた空間に、僕の声が響く。牧田先輩は僕から目を離すことなく、無表情に僕を見つめている。

「あなたは、本当は『世界の交差』についてよく知ってるんじゃないですか。そしてマスターと手を組んで、何も知らない僕みたいな生徒たちを利用して、何か企んでるんじゃないですか。もしそうだとしたら、あなたは最低だ。最低で、心にもないくせに『心配した』なんて言うし……。ていうかあんたは真実を知っているくせに、ここまで僕のことをコントロールして、隠したりはぐらかしたりしてきた! それって僕が悪いの⁉ 『ちゃんと訊いて』とか『ちゃんと忠告した』とか、そんなの知らないよ!」

 僕は言う。だって、今までちっとも納得できなかったから。

「……それでもあんたが正しいって言うんなら、あんたの言葉で証明してよ」

 しいん……とする小部屋。言ってやったという、達成感にも似た疲労が僕を包む。同時に罪悪感もあった。僕は年上に、「あんた」なんて言ってしまった。

 牧田先輩は僕を見つめたまま、ぴくりともしなかった。その瞳は静かだったが、同時にその奥で何かが燃えているかのような、不思議な力が宿っている。怒っているようにも、ただ真剣なようにも見えた。

「…………わかった」

 牧田先輩の唇が、ゆっくりと動いた。


「全部話す。きみがそう言ってくれたなら、私は話す『べき』だもの」


 そう言うと、牧田先輩は脚を組み直す。

 そして――とうとう、その唇を真面目な形にした。


「巴くんの推理は、一部合っている」

 彼女は静かな声で語り始める。

「――私は『世界の交差』について、そしてマスターのことについて、おそらく『こちらの世界』の誰よりも知っている。マスターの目的も知っていて――その上で手を組んでいる」

 閉鎖された空間に、彼女の声はよく響く。まるでナレーションのように整っていて、正しく聞こえる響きに、僕は惑わされそうになる。が、それではいけない。僕は彼女を疑わなくてはいけないのだ。彼女が隠していた、彼女の知っている真実を知るために。

「……どうして、隠していたんですか?」

 僕の質問に、彼女は穏やかな声で答える。

「きみたちに『想像』させるため」

「『想像』?」

「『ここは一体どういう部活なんだろう』。『何をする部活なんだろう』。『何をすればいいんだろう』。『何ができるんだろう』。そういう予測や、推測、憶測をさせるため。ほら、人ってわからないことがあると、わかろう、何かを掴み取ろうって必死に見当をつけるでしょう。私はそれをしてほしかったの」

「そんなの、どうして」

「創作部の『本当の目的』が『それ』だから」

 彼女は強く言い切る。

「私が――マスターが欲してるのは、きみたちの『想像力』。きみたちが何かを想像する時に生まれる、目に見えないエネルギー。マスターは『想像力』を集め、蓄えて、変換することによって――『奇跡』を起こすことができる。それが、『世界の交差』の仕組み」

「そんなことが……」

 「想像力」を集めるなんて、聞いたことがない。っていうかできるわけがない。だって、想像力は「力」であって、形を伴わない。それらはすべて自分の頭のはたらきであったり頭の中にあるもので、自分の外側から見れば「ない」のと同じの、不確かなもので――。

 でも、確かにLの世界において、「想像」は世界を動かすエネルギーだった。また、想像したものは「世界World」において、形となって現れていた。

「私もマスターも、きみにたくさん『想像して』と言ったはず」

 彼女の声に、意識が引き戻される。

「きみが理想の姿や世界を想像する時、『想像力』というエネルギーが生まれる。サインインを済ませているきみの『想像力』は、一度マスターを媒介して、マスターの手によって、『あっちの世界』で『形』となる。それを、きみは確かに『見た』はずだよ」

 僕は頷かざるを得ない。そうだ、僕はそれらをLの世界で見ている。そして。

「『形』になるのは、『こっちの世界』でも――」

「うん。あれが、マスターが特別に起こすことのできる『奇跡』。『世界の交差』」

 彼女は小さく息を吐く。

「例えば、太陽光や風力が電気エネルギーになる時には、光や熱のような余分なエネルギーが発生するでしょ。それと同じで、サインインを済ませた部員が『想像力』を使って『世界の交差』を起こす時にも、その余剰エネルギーが生まれるんだって。それも、マスターにとっては『世界の交差』を起こすためのエネルギーになるわけだから、厳密に言えば『余分なエネルギー』ではないのだけど……。とにかくマスターはそれを独自に集めることができて、使いたい時に使うことができる。たくさん集めれば、『家を一軒置き換える』ことのような、『こっちの世界』の大掛かりな改ざんもできる」

「じゃあ……どうして、マスターはまだ『それ』を集めているんですか」

 彼女がこちらを見る。影が差したように暗くなった瞳が、僕の言葉を待っていた。

「まさかとは思いますけど、『平凡』な僕たちに奇跡という希望を見せてやりたいみたいな、そんなつまらない慈善事業じゃないでしょう。どうしてわざわざ『創作部』なんて部活まで作って、無関係の人を巻き込んでまで『想像力』を集めようとしてるんですか」

 そう言いながら、多目的準備室で見たブルーシートの歪な形を思い出している。その傍に立った尚人先輩の、汗でぐっしょりと濡れた白い肌も。額に貼りついた前髪も。ハンマーの冷たい黒も。――彼らはマスターや牧田先輩の思惑に巻き込まれただけの、『普通』の高校生だったんじゃないのか。

「これ以上『想像力』を集めて、マスターは一体、何をしたいんですか?」

「……まだ、足りないんだよ」

 牧田先輩の低い声に、僕はハッとする。俯いている牧田先輩の顔は、徐々に、しかしはっきりと嫌悪感に染まっていく。

 時に胡散臭く見える、彼女の仮面の奥に押し込められているのはどろっとした嫌悪感や怒りだ。それらが再びぐちゃぐちゃになって洪水のようにあふれ出す。切り揃えられた前髪の下の黒い瞳が濁り始める。眉間に皺が増え、ギリリと奥歯を食いしばる音がする。

「足りないの。『マスターの願い』を実現させるためには」

「『マスターの願い』?」

 そう聞き返した瞬間、牧田先輩は瞳を動かし僕を見る。

「言うのも悍ましいことだよ」

 牧田先輩は唇を強く嚙んだ。おぞましいこと。僕はその響きにあまり馴染みがないが――これまでのことを思い返して、一つ、思い出す光景があった。

「……もしかして、」

 唇は、まるで最初からその答えを知っていたかのように動く。

「あいつの持ってた花束と、その家に関係する願いですか……?」

「……そうだよ」

 彼女はそう言うと、長く息を吐き出した。肺から重たい空気を吐き出した彼女は、その瞳でどこか遠くを見つめている。

「マスターは、死んだ人間を生き返らせたいの」

 ……トン、と見えない手に、背中を押されたような気がした。

「正確に言えば、少し違うんだけど。でも要は、あいつは――『世界の交差』を起こすことで、『この世界』に取り戻したいの。あいつが高校生の時に好きだった、たった一人の女の子を」


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