4話:仁(②)
◇
三時間目の生物と四時間目の世界史の授業の間、ひょうは教室に現れなかった。そこでも本当に、「普通」の授業が行われた。
目を持たない先生と目を持たない生徒たち。僕は念願のってほどでもないけれど、確率にして四十分の一の教室の窓側、一番後ろの席に座り、教室の中と外とを交互に眺めている。
おそらく、教室の間取りも、見えている景色もRの世界と変わらない。窓の外には何の変哲もない、いつもの校庭が、僕たちの町が映っている。
そして、教室の中にいる生徒たちは――Rの世界の彼らと同一人物なのかそうでないのか、よくわからない。一番後ろの席に座った僕には、基本、彼らの後ろ姿しか見えないし、ふとした瞬間に振り向いて瞳のない顔が見えても、そもそもクラスメートの顔を覚えていない僕にはそれを判別する術がない。
そういえば、とチカの姿を探したが、それらしい人物はこの中にはいないようだ。
もともとチカの席だった場所にはやはり見知らぬ男子生徒が座っており、僕は瞬間的に「違うな」と思う。ここでは僕の席が窓際の一番後ろになっているのと同じようにチカの席も移動している可能性もなくはないが、たぶん、ここにはいない。チカがいたら、僕はすぐ気づくはずだから。あの、傷んだショートカットの髪型に。
僕はチカがここにいないことを、自分で少し意外に思った。僕はチカのことを「願って」はいないにしても、少なくとも「意識下に置いている」と思っていたから。
四時間目終了のチャイムが鳴ると、僕はすぐに廊下に出た。
屋上へと続く階段の入り口は、見当がついている。もしこの学校がRの世界の学校と同じ間取りだったら、おそらくこの廊下の突き当たりの、A組の教室の正面にあるはずだ。
自分が出てきた教室が一年E組の教室であることを確認し、僕は人のまばらな廊下を早足で進む。すれ違う人間は皆、教室の生徒たちと同じように灰色の頭をしている。よく見ると青っぽかったり緑っぽかったりするが、どれもぼんやりとしていて、まさに「モブ」という感じだ。そしてどの顔も、僕の見た範囲だと、本来目のある場所が、つるんとした皮膚に覆われている。
何かを喋るときにパクパクと動く口はある。が、滑らか過ぎる彼らの目元を見ていると、僕は少し恐ろしくなる。通り過ぎようとしたトイレの入口が目について、僕はそのままその中に入った。そして手洗い場の鏡へと近づく。
鏡を覗き込むと、そこには「僕」が立っている。いつもと同じ長さ、少し長めに伸ばした髪の毛は銀色、こちらを見つめる瞳は深海のように深い青。ぱちぱち、と自分の意思で数回瞬きをし、顔の向きを変えては瞳がそれに合わせて動くのを確認すると、思わず安堵のため息が出る。
どうやらちゃんと、僕には目があるようだ。相変わらず右目は前髪に隠れているが、持ち上げてみると左目と同じ碧眼が現れるし、相変わらず視界は覆われているときとまったく変わりがない。
不思議に思いながらも改めて自分の身なりを確認すると、僕はあることに気づく。どうやら、僕は制服まで変わっているようだ。ネクタイとスラックスは学校指定の物で間違いないが、僕はいつの間にか濃紺のベストを身に着けており、半袖だったシャツは長袖、くしゃりと腕まくりをしている。
ひょうに手鏡を渡された時にはそこまで目に入らなかったが、もしかして僕は、「こっち」に来た時からずっとこの格好だったのだろうか。おそらく「あっち」では校則違反になるであろうベストの生地の感触を手のひらで確かめながら、僕は今まですれ違った生徒たちの姿を思い返す。
そういえば、この学校の生徒たちは、髪の色も、制服の着こなしも、かなり自由だった気がする。髪の毛だって、落ち着いた色ではあるけど、赤っぽかったり青っぽかったりしているもんな。Rの世界では茶色や金色の髪だって、一部例外を除いて許されないのに。
ここはまるでアニメの中の世界だ――と思ったが、実際そうなのだろう。ここは僕が「願った」世界だから。願ってなくても、僕の意識化にあれば、それが現れてくる世界だから。
僕は漫画やアニメは嫌いじゃない。むしろその自由さは好きな方だ。だから、僕が今いる世界はまるで、ファンタジーの世界のように、カラフルで自由な世界なんだろうか――なんてことを思いながら、もう一度自分の銀髪を触った。これも、僕が「願った」物なんだろうか。この、深い青色の瞳も――。
「――あれ?」
僕は、思わず独り言ちる。服の裾が洗面台に触れないように、ぐっと近づいて瞳の中を覗き込むと、そこには、今の瞬間まで気づかなかった、ある物に気がついた。
瞳の中心に浮かんでいるのは――白くて小さい、光の粒。前髪を持ち上げて、隠れている右目の方を確認してみてもまったく同じものが浮かんでいる。
白内障……じゃ、ないよな。名前を出しておきながら僕は白内障のことをちっとも知らないが、たぶんちょっと違うと思う。視界はRの世界にいるときとまったく変わらないどころか、右目が見える分クリアだし。
僕は目を凝らし、それをもっとよく観察しようとする。トイレの蛍光灯の角度? それとも、こういう模様? いや、まだ何か違うような気がする……。
と、僕の見ていた鏡の中に、四人の男が映り込んだ。
反射的に鏡から飛び退くと、男たちは僕の様子には気づいていない様子で、雑談をしながらその奥へと進んでいく。
僕はうるさい心臓を抑えつけながら、足早に出て行こうとする。びっくりした。まさか人が入ってくるなんて――しかも、Lの世界で。漫画のキャラクターがトイレに入る描写なんてほとんどないはずなのに、どうして。
「――『だから、いるんだって、不審者が』」
ドクン、と音を立て、心臓が跳ねる。声の方を振り返ると、ちょうどやつらが便器の前に並ぶところだったので、慌てて向き直った。
振り返った時、手前の衝立のせいで、首から上はよく見えなかった。見とけばよかった、髪の色だけでも。しかし、今は廊下へと歩みを進める。
「本当にいるのかよ」
さっきの発言を疑うような、あまり特徴のない男子生徒の声に、先ほどの声が答える。その声は、僕が教室――Rの世界の教室で聞いたのとまったく同じ声だった。
「見たことはないよ。でも結構、この辺じゃ有名になってきてるっていうか……」
「あ、知ってる。例の殺人鬼だろ」
「そうそう!」
「殺人鬼」。話の流れは微妙に違うが、それでも僕は聞き続ける。聞き慣れない声たちが次々と発言する。トイレを出た僕は、周りに人が少ないことを確認すると、人を待っている風を装い入口の壁にもたれる。都合がいいことに、廊下はそんなに騒がしくなかったので、大げさに聞き耳を立てずとも中の音はよく聞こえた。やつらの声が大きいというのもある。
「そりゃ見つかった瞬間に殺されるかもな」
「連続殺人犯か。それなら俺も噂で聞いたことあるわ」
「隣の学区だろ?」
「猟奇的だって」
「頭おかしいやつの犯行か?」
「人を殺すやつなんてそんなのばっかりだよ」
やつらのまばらな笑い声の中に、「あの声」がある。明るくて、まだ幼さの残る――チカに「ありがと!」と言った――「あの声」に間違いない。でも、どうして同じ声、同じ言葉が、Lの世界に現れたんだ?
「ま、こっちまで来ないっしょ」
「そうだね」
そう言うと、やつらは順に手を洗い始めたようだった。念のため出てくるやつらの姿を確認しておきたかったが、僕が中にいたことをやつらも少しは認知しているだろうから、ずっとここにいたことを知られれば不審に思われるだろう。
激しい水勢の音を背に、僕はそっと場を離れる。「あの声」の主は、Rの世界の茶髪の男だったのだろうか。
「お待ちしてましたよ、巴様」
漫画でしか見ることのない学校の屋上に足を踏み入れれば、まさに漫画で見るとおりの様相を呈している。開放感と閉塞感を兼ね備える、コンクリートとフェンスで区切られた殺風景な空間だ。そんな中で目を引いたのは、コンクリートのど真ん中に赤いレジャーシートを敷き、ニコニコとしながら正座をしているひょうだった。
「こちらへどうぞ」
のったりと近づいて行くと、ひょうが座っているシートは、よく見ると赤と白のギンガムチェックの模様であることがわかる。二人で使うには少し大きいくらいのレジャーシートの上には、座ったひょうの隣に一つ、そこから少し離れた場所に一つ、バスケットが置いてある。おそらくシートが風で飛んでいかないようにしているのだろう。二つのバスケットにも、それぞれシートと同じような赤いチェック柄の布がかぶせてある。それにしても大きいバスケットだ。
「何? それ」
僕が訊くと、ひょうは「はい」と短く答える。心なしか声が浮かれている。
「本日の昼食です。巴様、そちらのバスケットの中にウェットティッシュがあるので、必要なら使ってくださいね」
お座りくださいと言われるがまま、レジャーシートの上に腰を下ろす。靴を脱ぐのはめんどくさいので、足をシートの外に投げ出すようにして、隅の方に座った。これなら普通に座るときよりもひょうから距離を取れる……などと考えながら、自分に近い方のバスケットの布をどける。すると中からウェットティッシュの筒が現れた。あと、銀色の大きめの水筒と、紙コップと、紙皿と、割りばしが何膳か。バスケットの大きさの割には中身が少な過ぎると思ったが、赤と白のギンガムチェックの袋が入っているのを見た僕は、ここにレジャーシートが入っていたのか、と納得した。それにしても、割りばしが入っているってことは、弁当か何かだろうか。紙皿があるってことは、何か取り分けるタイプかもしれないけど。
そういえば、さっきは流しの前まで行ったにもかかわらず、手を洗わなかったことを思い出して、ウェットティッシュの筒を手に取った。なかったらなかったでいいんだけど、軽度の潔癖症な僕にとって、ウェットティッシュはありがたい存在だ。っていうか、ここにはこんなどうでもいい物まであるのか。
湿ったティッシュで手を拭きながら、僕はさっきの、「あの声」のことをひょうに伝えようと思った。ひょうが「屋上で待ってる」なんて言わなかったら、あそこのトイレに行って鏡を見ることも、再び「あの声」を聞くこともなかったわけだし。
屋上に来ることによって、何かヒントが増えているかもしれない。はたまた、わざわざ周りに人間がいない場所に呼び出したということは、僕に何か伝えたいことがあるのかもしれない。近くにあったゴミ袋と思わしき袋に使用済みのティッシュを突っ込みながら、僕はひょうの名前を呼んだ。
「ねえ、ひょう――」
「何でしょう」
その声に振り向いた僕は、思わずギョッとしてしまう。ひょうが膝の上に乗せ、ギンガムチェックの布をとった、その下で黒光りする「それ」の姿に――。
「……何それ?」
僕が言うと、ひょうはそれを持ち上げ、それはもう楽しそうな顔で微笑んだ。
「炊飯器ですよ。さっき炊き上がったんです」
バスケットの中にすっぽりと収まっていたのは、どの家庭にもあるような、黒っぽい色の炊飯器。
「…………」
視覚情報を上手く処理できずに固まっていた僕は、ハッと我に返ると靴を履いたまま、ひょうの座っている所まで這って行く。と、四つん這いで近づいてきた僕に角度を合わせ、ひょうは両手でバスケットを傾ける。炊飯器の蓋についた銀色のスイッチを見つけると、無意識に腕が伸び――僕の指は、それを押した。
パカン、と小気味のいい音を立てて、炊飯器の蓋が開く。
青空にぼわあっと放たれる、大量の湯気。辺り一面に広がる、ほのかな甘い香り。
「とりあえず二合炊いてきました。余ったらタッパーに詰めて、持って帰りましょうね」
ジャーの中に敷き詰められ、目の前でキラキラと輝く米粒たちに、ニコニコと笑っているひょう。
それらを交互に見て、眺めていると――一言くらい文句を言ってもいいはずなのに、僕は怒鳴る気も、あるいはつっこむ気も失せてしまった。
「ひょう」
「はい」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「…………いつ炊き上がったの、これ」
「十分くらい前でしょうかね。チャイムと同時に炊けるようにセットしてたんですよ」
「ああ、そう……」
「ええ」
「…………」
「…………」
ひたすらに沈黙。からの、脱力。
「…………しゃもじ貸して、空気入れないと……」
「そうですね。さすがご主人!」
ひょうは炊飯器の埋まっているバスケットを傍らに置くと、「どうぞ」と言って、ラップにくるまれたしゃもじを渡してくる。
「……どーも」
「はい!」
力が抜け、レジャーシートの上でのびていた僕は起き上がり、しゃもじのラップを外しながら、一言だけ文句を言う。
「……その『主人』っていうの、気が抜けるんだけど……」
ひょうはうふふと返すと、てきぱきと紙皿などの準備を始めた。
夢なんだろうか。いや、夢の中なんだろうけど。何が起こってもおかしくないのだろうけどさ。
青空の屋上で、ピカピカの米粒たちにさっくりと春風を混ぜ込みながら、なんつー穏やかな昼休みだよ……だなんて、考えてしまう。
「巴様、ここには迷わず来ることができました?」
二つの茶碗を重ねてラッコみたいにシャカシャカと振りつつ、ひょうが質問を寄越す。僕は紙皿の上に並べたおにぎりに塩を振りかけながら、「まあね」と答えた。
「すぐわかったよ。ちなみに、屋上の鍵は君が開けたの?」
「ええ。職員室で借りてきたのです」
「ごくろーさんだこと」
「恐縮です。ところで巴様、そんなに塩をかけてはお体に悪いですよ」
「すぐ食べないからいいんだよ。多めに振っといた方が、持って帰るときに安心でしょ」
「そうですね。巴様の言うとおりです」
「……君のそういう変わり身の早いところ、嫌いじゃないよ」
僕は割りばしでおにぎりを持ち上げると、ひょうの手さげ袋から出てきたタッパーに一つ一つ詰めていく。余談だが、僕は塩に防腐作用があるかどうかは知らない。でもまあ、食べ物を保存しようと思ったらだいたい味を濃くすればよかった気がする。それか乾燥させるか。
ひょうが炊いた二合の米はやはり多過ぎるということで、おにぎりにして食べられるだけ食べ、残りはタッパーに詰めて持って帰ることにした。
どうしてわざわざおにぎりにすることになったかと言うと――そもそもひょうが、バスケットから大きさの違う茶碗を二つ取り出しながら、「これで作りましょう」なんて僕に言ったのがいけなかった。
『もしかして、昔テレビでやってたやつ!』
ピンと来た僕が叫ぶと、ひょうは「そうかもしれませんね」と微笑んだ。まず、ご飯を片方の茶碗にひと掬い。それにもう一つの茶碗をかぶせ、蓋みたいにすると、両手でそれを押さえて振る。
僕はそんなひょうの姿を見ながら、僕は幼い頃に見たテレビ番組を思い出していた。確か生活の知恵や、ちょっとした裏技を紹介する番組だった。
「お願いします」
「はいよ」
ラップを張った紙皿の上に、ひょうが成形したご飯の塊を落とす。僕はラップの端をつまんで持ち上げると、全体をラップでくるんだ後、軽く握って三角形に整える。
――本当は小さい頃、やってみたかったんだ。でも、うちの母親は「洗い物が増えるからやめて」などと言って、絶対にやらせてくれなかった。僕も言いつけを破ってまでしようとは思わなかったから、ずっと忘れていた。だけど、僕の意識下にはずっとあったらしい。それがこんな形で実現されるなんて。
僕たちはそうやって、交互に茶碗を持っておにぎりを作り続けていた。いつの間にやら炊飯ジャーの米はほとんどなくなり、タッパーの隙間も埋まりつつあった。ていうか、ひょうが米を炊き過ぎなんだよ。
「そういえば、聞きたいことがあるんだけど」
「何でしょう」
「本当は、君とのとんちんかんな会話が始まる前に聞きたかったんだ……。ねえ、Lの世界とRの世界って、何がどこまで対応してるかってのはわかる?」
「と、言いますと?」
律儀にも手を止めて聞こうとするひょう。僕はひょうに手を動かしながら聞くように促し、そのまま話を続けることにする。
「例えば季節。ここ――Lの世界は今、春じゃん。しかもたぶん、授業の範囲からして四月になったばっかりだよ。対してRの世界は今、七月の終わりだ。流れている時間が違うってことは、時間はきっと対応してないんだ。そもそも、僕がここで一日過ごそうが一年過ごそうが、Rの世界に戻るのは、同じ日の下校時刻のチャイムが鳴る、その瞬間だから。でも、何でもかんでも対応してないってわけでもなさそうだって、わかってきた」
「何か、対応していることが?」
「LとRとで、まったく同じ声を聞いた」
ひょうは紙皿の上にご飯を転がした。僕はそれを持ち上げ、手の中にきゅっと閉じ込める。
「まったく同じ声を?」
「うん。ちゃんと確認したわけじゃないから根拠に乏しいかもしれないけど、でも、そう確信してる。だって、同じ声が、同じ言葉を発したんだ」
――だから、いるんだって、不審者が。
「その後の会話は微妙に違うものだったけど……。でも、とても、まったくの無関係には思えなかった。何か意味のあることだって気がしたよ」
「『不審者』……」
「うん。そいつは、この辺に出る殺人鬼のことって言ってた。知ってる?」
僕がひょうの顔を見ると、ひょうは手を止めて、何かを思い出せそうな顔で固まっている。成形し終わった僕は、ラップを剝がして紙皿の上に置いた。僕は、ひょうを急かさない。もしかしたら、ちょうど今、ひょうに「ヒント」が降りてきているところかもしれないから。
「いいえ……。その不審者について教えてくださいますか?」
塩の瓶を掴んだ僕は頷き、話を続ける。ひょうにヒントが降りてきそうなのだろう。
「……その殺人鬼についての情報は少ない。だけど、Rの世界での『不審者』には、僕も会ってるんだ。黒いボサボサの短髪に、黒いセーターと長ズボンの男。それが――『マスター』だったんだよ」
ひょうは「マスター……」と小さく呟く。僕は頷いた。
「どれだけLの世界とRの世界が対応しているかがわかれば断言できるんだけど。もし、仮にだよ。その二人の『不審者』が完全に対応していて、完全に同じ人物だとしたら、『殺人鬼』と『マスター』は同一人物ってことにならない? そしたら、その『殺人鬼』に会うことが、どこにいるかわからないって言われている『マスター』に会うことになると思わない……?」
ここに来るまでに思いついた一つの推論を、ひょうに語って聞かせる。ひょうは僕が語るのを、目を閉じて聞いていた。
僕自身、この推論にあまり自信はない。だが、別の世界で、まったく同じ声が、まったく同じ発言をするっていうのは、看過できないことだと思う。特にこっちの、Lの世界においてはそうだ。教室での雑談の声も、廊下のざわめきも、ここに来るまでほとんど聞き取れなかったんだ。なのに、その声だけははっきりと聞き取ることができた。それがどれだけの意味を持つかはわからないが、少なくとも、まったくの無関係ではないだろう。
「ひょう――」
「巴様、」
ひょうは手に持っていた茶碗を手早くラップにくるむと、手さげ袋の中にしまった。僕にはタッパーの蓋を差し出してくる。
「蓋をしてもらえますか。あと、紙皿をください。できるだけこの辺りの整理をしてください」
「え? いいけど……」
僕はタッパーにプラスチックの蓋をかぶせる。ラップと、あと紙皿をひょうに渡すと、ひょうはにこりと笑って「ありがとうございます」と言った。その笑顔はいつもと変わらないが、僕は本能的に、「何か」が変わったことを察知した。
ひょうは、「お水を頂けますか」と言って僕に手を伸ばす。僕はバスケットの中に水筒が入っていたのを思い出し、手渡す。
「ひょう、移動するの?」
水筒の蓋を外したひょうは、口はつけずに「いいえ」と答えた。
「しばらくここにいましょう。ここには誰も来ませんからね」
「あ、そう。五時間目は受けなくていいんだっけ」
「もうとっくの昔に始まっていますよ」
ひょうはどこか遠くを見つめながらとんでもないことを言った。
「は、予鈴とかなってないじゃん! 授業は?」
「受けに行く必要はありませんよ。Rの世界の方が、授業の進度は早いのでしょう」
「いや、そーじゃないでしょ!」
遅刻とかサボりとか、そういう悪目立ちは嫌なんだよ。そう言って立ち上がろうとすると、ひょうがものすごい力で僕の腕を掴んだ。
「っ、」
僕の体はブルルッと激しく震える。ものすごい力にも驚いたのだが、何より、僕の腕を掴んだひょうの手は、あまりにも「冷たかった」のだ。
「いい匂いがするねぇ」
……びりびりと空気を震わせるような低い声が、僕の耳に入ってくる。
そして、ガシャン! と、フェンスに何かがぶつかる音がした。
「なんの匂い?」
アルミでできたフェンスを軽々と飛び越え、小気味のいい音を立てて着地したそいつは、ゆっくりと、ゆらめくように、こちらに近づいてきた。
銀色のボサボサの髪の毛。向かって右側の前髪が長く、顔の半分を覆っている。黒のタンクトップに、緑系のだぼっとしたズボン、黒のスニーカー。猫背のためこちらに突き出された肩は、筋肉の隆起でごつごつとしている。
フラ、フラ、とおぼつかない足取りで、しかし着実にこちらに歩を進める。春のぼやけた陽光が彼の顔に影を落とし、そして彼の持つ「それ」を鈍く光らせた。
「……ナイフ?」
「そうだよぉ」
そいつは「それ」を――ギザギザのついた、刃渡りの長いナイフを見せびらかすように持ち上げた。日光に照らされた刃が、ぎらりと不気味に輝いている。
「おっきいでしょ。よく切れるんだよねぇ」
「巴様」
耳元でひょうに囁かれ、僕はハッとする。ひょうは僕の背中を二、三度さすると「大丈夫ですか」と言った。
「こいつ……例の」
「ええ。『殺人鬼』でしょうね」
ひょうはいつになく真面目な顔をしている。
「やっぱり……」
「巴様、あれが『マスター』ですか?」
ひょうは小声で僕に問うた。そうか、ひょうはマスターに会ったことがない。僕は目を凝らしてそいつの顔を見ようとしたが、なかなか焦点が合わない。どうして。どうして? なんでよく見えない――。
「――私が引きつけますね」
持っていた水筒を置き、すっくとひょうはその場に立ち上がる。僕の目の前でエプロンの腰紐と黄色のスカートがはためき、その背が一歩ずつ遠のいて――。
「……ひょう‼」
――僕は、思わず声を張り上げていた。呼び止められたひょうよりも、なぜか僕の方が驚いて、言葉が出なくなってしまう。心臓がうるさい。なんでこんなにドキドキしている? なんで今、ひょうの名前を呼んだ?
「どうしました?」
「……あの、『引きつける』って、どういうこと……」
絞り出した声は上ずっている。なんだか寒い。震える声で聞くと、ひょうはまっすぐ、男の方を向いた。
「私が彼を引きつけます。巴様は、マスターかどうかを見極めてください」
「いや、そうじゃなくて!」
その場に立ち上がろうと思っても、腰から下の感覚がなかった。どうして! と握りこぶしを作ろうとしても、力が入らない。そこで自分の手を見て初めて、体が震えていることに気づいた。なぜ? どうして……?
――いや、僕は、きっとその理由を知っている。
「逃げよう……よ、」
搾りかすみたいな、僕の弱音。それをひょうはゆっくりと吞み込み、咀嚼すると――僕に向かって微笑んだ。
「逃げませんよ。だって、これが、『ヒント』なのですからね」
その瞬間、後ろにいた男が、アクセルを踏んだように勢いよく走り出した!
「ッ、ひょう‼」
ダンダンダンダン! と悲鳴を上げるコンクリート。男は身を屈めて風を切るように走る。数メートルの距離を大股で縮め、リーチに入ると体を勢いよくひねる。
「ま、ず、は~っ……」
腕から肩の筋肉が盛り上がり、殺人鬼は勢いよくナイフを振りかぶると――!
「お前だ‼」
「避けて‼」
僕が叫んだその時、鋭いナイフが――ひょうの「立っていた場所」を切り裂いた。
「、え……っ」
ひらりと攻撃をかわしたひょうは、体勢を崩して倒れ込もうとする男の脚を軽々と、そして容赦なく自分の脚ではらう。男のバランスを崩したひょうは素早く男の後ろに回り込み、鋭く肘を打ち込んだ。男はコンクリートに倒れ込む、いや叩きつけられる。
「うっ! あ……!」
起き上がろうとして男が地面に手を突こうとする隙すら与えず、ひょうはスニーカーで男の背中を踏みつけた。そんなに重くは見えないのに、ひょうが体重をかけると男は再び呻き声を上げ、四肢をばたつかせた。人間って背中側にも急所があるのだろうか。痙攣する四肢のうち、ひょうは男の右腕を掴む。ナイフを握っている腕だ。ひょうはそれを迷うことなくひねり上げると。
ボキ、と鈍い音が乾いた屋上に響き渡り。
……男が取り落としたナイフが、コンクリートの上で清涼な音を立てた。
「すっご……!」
僕はその場に座り込んだまま、二人の、ひょうの一連の動きから、目が離せなかった。
いや、離す間もなかった。それほどなめらかで、無駄のない動きだったのだ。僕は思わず、感嘆のため息を漏らしていた。
いつの間にか手の震えは止まっており、試しに足に力を入れると、ふらふらと立ち上がることができた。と、僕の様子に気づいたひょうが男の体を固定したまま、いつも通りの穏やかさと能天気さで、僕に向かって微笑んだ。
やっぱ、ひょうってすごいのか……?
いや、前からいろんな意味ですごいと思っていたけど、でも今、僕は、改めてひょうのことをすごいと思った。
今だって、その華奢な体と穏やかな微笑みから想像できないほど強い力で、自分よりも体格のいい相手を組み伏せている。加えて俊敏さ。冷静さ。度胸。すべて、常人のものじゃなかった。「普通」の人だったら、咄嗟にあんな判断はできない。
ひょうが「普通」の人じゃないことは知っている――と思ったところで、ひょうは「人」じゃなかったのだと思い出す。僕の……「道具」。
「巴様、そこにある水筒を持ってきてもらえますか」
ひょうは息一つ切らさず、いつもの調子で言う。水筒って言うと、仁が現れる前にひょうが蓋を外していた、これのことだろうか。僕は視線を落とす。
「いい、けど……蓋は?」
「開けたままでいいですよ」
僕は言われたとおりに銀色の水筒を掴む。震えが止まったと思っていたが、まだ、微妙に力が入らなかった。両手でしっかり水筒を持つと、一歩、また一歩とひょうに近づいていく。
「ありがとうございます」
うつ伏せに固定された男に接近すればするほど歩幅の縮まっていく僕に、ひょうは「大丈夫ですよ」と言う。ひょうに拘束されたそいつは、確かにぴくりとも体を動かせないようだ。下手に動いたらさらに肩を痛めそうな、そんな危険な角度だ。
「な……に、お前ら…………」
先ほどまでよりもより低く、苦しそうな呻き声交じりの男の声は、まだ少し距離のある僕の元にまでびりびりと届く。思わず足を止めた僕とは対照的に、ひょうはちっとも動じずに質問する。
「貴方は『殺人鬼』ですか?」
「ひょ……ひょう、」
そんなストレートに訊くやつがいるか……と思ったが、男が小さく「あー……」と声を漏らしたため口をつぐむ。
「殺……ころす…………」
男の顔はよく見えなかったが、声には本物の殺意が込められているいるためぞっとする。むき出しになったうなじや肩には大粒の汗がいくつも浮いており、黒のタンクトップをぐっしょりと濡らしていた。
痛みをこらえると人間はこんなに汗を掻くものなのだろうか――などと眺めていると、ひょうが僕の名前を呼ぶのがわかった。そうして我に返る。
「巴様、ほら、確かめてください」
「ああ、そうだった」
僕は水筒を抱きかかえたまま、ゆっくりと男に近づいていく。
これが、Lの世界の「不審者」。ということは、Rの世界の「不審者」であるマスターと、同一人物なのかもしれない。これが「マスター」? 本当に……?
「――あんた、『マスター』を知ってる……?」
「あんた、『マスター』なの?」と訊こうと思っていた僕は、自分の口から発された言葉に自分で驚く。男も男でビクンと体を震わせると、何やらブツブツと呟き始めた。
「『マスター』……。『マスター』……?」
「何か知っているのですか?」
「マス、マ、『マスター』……俺の……、俺……」
「あんたの……何?」
壊れたロボットのように、「マスター」と「俺」を繰り返す男。不安になってひょうの様子を窺えば、ひょうは無表情で男のことを見つめている。と、その顔が歪んだ。
「……ひょう?」
「巴様、早く――」
ひょうがそう言い終わらないうちに、グギリ、という嫌な音が屋上中に響き渡る。
「えっ」
「あっ!」
ひょうの短い悲鳴が聞こえると同時に、男がひょうを振りほどいて立ち上がり、今度は男がひょうの腕を乱暴に掴んだ。
「ひょう‼」
男の右腕はだらりと垂れ下がっている。さっきの音は、掴まれた腕を振りほどく時の音? 関節を無理やり動かしたのかもしれない。男は明らかに血色が悪いが口元には笑みを浮かばせ、ぶつかりそうなくらいにひょうに顔を近づける。
「……っ」
「お前、『ひょう』って言うんだね」
埃まみれの男の荒い吐息が、ひょうの髪を揺らしている。かなり興奮しているのだろう、男の頬は青ざめたり上気して赤くなったり忙しく、呼吸は不規則で、口の端からは粘度の低い涎が垂れ流しになっていた。
ひょうはそんな男にちっとも動じず、無表情に男の顔を見つめる。
「ええ。貴方にもお名前が?」
「俺は、『
男は易々と名乗る。僕はその名前に聞き覚えがないかと記憶をたどるが、どうにもピンと来なかった。
「そうですか。で、どうして貴方はここへ?」
落ち着いた声でひょうが聞くと、男――仁は、ヒヒッと喉の奥を鳴らして笑った。
「知らないなぁ。いつの間にかここに来てたんだぁ」
「『知らない』……ってことはないでしょ」
思わず口を挟む。すると、男は僕に、ぐるんと顔を向けた。
その時、初めて男の顔が見えた。
太い眉。金色の瞳は獣のようにギラつき、血走っている。目の下に刻まれた隈は深く、病的で目を背けたくなるほどだ。ギョロギョロと落ち着きなく動く眼球、彷徨う視線。汗と涎と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、ハア、ハア、と犬のような呼吸をしている。その口元は歪み、笑っていた。とてもじゃないけど正気には見えない。
「ほんとにわからないんだよ、俺にはねぇ」
ガクン、と地面に頬をつけるように首を傾ける。
「歩いてたら、殺したくなる。殺したくなくても、歩いてる。目の前に人がいたら殺してる。殺したくなったら、殺してる。突き刺すと死ぬんだぁ。楽しいねえ」
仁はひゃ、あははと、息切れをしているかのように笑った。ひょうはそんな仁を、じっと、恐ろしいくらい冷静に見つめている。
「人を殺すやつなんて頭のおかしいやつばっかりだよ」――と、トイレで男子生徒たちが言っていた言葉を思い出した。
本当にそうだ。少なくともこいつは、正気じゃない。
僕は先ほど落ちたナイフの場所を確認する。仁からもひょうからも距離がある。強いて言えば、僕が一番近い。
どうする? どうすればこいつを倒せる? 少なくとも、この場から追い出すことができる……?
この場から僕は逃げ出したい。でも、それはしないとひょうが言った。なぜなら、この男が「ヒント」だからだ。しかしこいつのどこにどんなヒントがあるって言うんだ? 僕はこんなイカれたやつから何を聞き出して、何を知る必要があるんだ?
ガンッ‼ と派手な音を立てて、水筒がコンクリートに落下した。
握力がなくなっていた。手から滑り落ちた水筒がバウンドし、中の水がぶちまけられる。
「! う……そ、」
「巴様!」
ひょうが鋭く僕の名を呼ぶ。顔を上げると、ひょうが男の首に、掴まれていない方の腕を引っかける瞬間だった。
「水溜まりから離れてください!」
片腕を首にかませたまま、ひょうは助走をつける。先ほどの音にびっくりしたのだろうか、男は不思議なほど無抵抗で、ひょうに意識と体重を奪われている。ひょうは体ごと鎌となって彼をなぎ倒すかのように、僕の方へ大股で向かってくる。
僕は瞬時に理解して、「あの時」――尚人先輩にハンマーを振り上げられた時のように、尻餅を突いて転がる。僕が水溜まりから距離を取ったのを確認し、ぶん投げるように、ひょうはその中に仁を叩きつけた。
「あッ‼」
バシャアッ! と激しく水しぶきが上がる。コンクリートに背中を打ちつけた仁が苦しそうに喘ぐ。ひょうはなめらかな動きでその場にしゃがみ、もがこうとする仁の両肩を押さえつけると。
ビキビキビキッ‼ という激しい音とともに、無数の氷柱が天に伸びた。
「……は?」
突然目の前に出現した氷柱に――そして男は自分の体を閉じ込める檻のような氷柱の数々に――ただただ啞然とした。
そしてひょうだけがゆっくりと目を細めて、微笑みながら両手を離す。
「おやすみなさい。ちゃんと寝ないと、体に毒ですよ」
ひょうの細い指が仁の頬を優しくなぞると、白く、霜のような筋が走る。冷たい氷柱に磔にされた男は、しばらくは凍てつきそうな息を不規則に吐いていたが、徐々にとろとろと瞼を下ろすと、程なくしてその意識を失った。
僕たちを包む静寂。季節外れの冷たい氷が、春の屋上を幻想的な光景に変えていた。
ひょうの長い後ろ髪が、エプロンが、リボン結びにされた腰紐が、春風に乗ってはためく。美しい氷の城の中心に佇むひょうの後ろ姿は、まるで神様のようで――その横で無様に転がっている僕は、逆光になったその姿を呆けるように見上げることしかできなかった。
「巴様」
ひょうがこちらを振り向いた。その透明で優しい声と表情に、僕は咄嗟に言葉が出なかった。
「巴様、立てますか?」
「ああ……うん、」
笑顔のひょうに促され、僕はゆっくりと立ち上がる。その時、パリ、と何かを踏む音がした。靴裏を見れば、ローファーのソールが凍っている。
「大変失礼しました。滑らないように注意して、こちらに来ていただけますか」
「うん」
僕はよろめきながら立ち上がる。コンクリートに薄く張っている氷を踏まないように気をつけながら、ひょうのいる場所へと近づいていく。氷柱の中心部に近づくほどに空気は冷たく、肺は凍るように軋んだが、体を駆け巡る血液はカンカンに熱かった。
ようやく氷の柱の中心部、ひょうの隣に並ぶと、その目線の先で銀髪の男が気絶している。体ごと冷たい氷に閉じ込められて唇が紫色になっていた。僕は「すごいね」と呟く。
「……こんなことができるんだ」
「ええ。どうやら、私は『液体を凍らせる』能力を持っているみたいですね」
「液体を凍らせる」能力。ひょうはこともなげにそう言いながら、自分の体についた氷をぱっぱと手で払う。氷の破片がきらめきながら落ちるのを目で追いながら、僕はひょうに訊いた。
「いつから知ってたの?」
「割と最初からですよ。でも、実際に試すのは初めてでした。案外行けるものですね」
そう言ってニコ! と笑うひょうの表情は相変わらず胡散臭くて、ちょっとだけ気が抜けた。思い切って大きくため息をつくと、肺の辺りがだいぶ楽になる。「割と最初から」ということは、僕に水筒を持ってこさせたのも――計算のうちだったのかもしれない。
「……信じられないよ」
僕は地面に転がった水筒を見ながら呟く。呟きつつも、僕は目の前の景色をあえて疑おうとも思わなかった。ここは、Lの世界。何か異能が使えても、髪の毛が赤や青でも、顔に目がなくても許される、そういう世界なのだ。
「あれ、そういえば……」
僕は、その体が氷の柱に閉じ込められた男を見る。ひょうの触れた場所以外、男の顔は氷に覆われていない。
目を閉じた男の顔には――「目を閉じて」いることからもわかるように――確かに目があった。さっきも僕は彼の金色の瞳を見ている。おそらくこの世界に来て、ひょう以外で初めてだ。
「これが『ヒント』?」
「近くで見てみましょう」
僕とひょうは何歩か近づき、男の顔を覗き込む。男は、ひどい隈こそ残ったままだが、先ほどの表情からは考えられないほど穏やかな顔で意識を失っていた。
「……死んでないよね?」
「寝ているだけですよ。どうやら数日ほど寝ていなかったみたいですね。体温を奪われたことで、眠たくなったのでしょう」
そのままにし続けるのもよくないですし、と言いながらひょうはその場にしゃがみ込み、男の顔をじっと見る。
「巴様、この顔に見覚えはありませんか?」
僕は上体を屈め、薄汚れたそいつの顔を初めてじっくり見ることにする。
マスターに似ているかと言われれば……違う気がする。髪の質も、顔の雰囲気も、何となく別人な感じだ。何より、さっき喋っていた時に、僕はこの男から既視感のようなものをまったく感じなかった。
でも、何か――気になるのだ。何か引っかかるというか。どうしても看過できない問題が、こいつの中にある気がして。僕はじっと、彼の顔を見つめる。なんだろう。何かが、僕の中に「降りて」こないだろうか。
「似ていますね」
突然、ひょうの言葉が僕の思考を遮る。思わずひょうの顔を見た。
「何が?」
「いえ、巴様と、この男が」
「え……どこが、」
「内面的な意味じゃありませんよ」
まるで僕の心を読んだかのようにそう言うと、ひょうは僕を落ち着かせるようにゆっくりと話した。
「そうやって向かい合っていると、鏡合わせみたいだなって思ったんです」
「『鏡合わせ』――」
僕は男の顔を覗き込んで、思わずギクリとする。忘れていたけれど、鏡越しに見た自分の姿――Lの世界での自分の姿は、この男のように銀髪で、片目が隠れているんだった。
思わず自分の前髪を触る。長いのは右側。対して、そいつの前髪で長いのは左側、「向かって右側」。
髪質はまったく違う。顔の造りも――おそらく違う。だけど、こうやって向かい合っていると、まるで鏡を覗きこんでいるかのように、僕らの見た目は「対応」する。気のせいなのだろうか。ただ、偶然見た目が似ているだけなのだろうか。
――そうだ、鏡といえば。
「ひょう、こいつの目、開かせることってできないかな」
「起こすわけではなく?」
「うん、確かめたいことがあるんだ」
僕がそう言うと、ひょうは「そうですね」と言って、そいつの顔に手を伸ばした。
「え、何するの」
「ちょっとだけ失礼しますね」
ひょうは何気ない手つきで、寝ているそいつの瞼を指でつまむ。すると、ぎょろり、と濁った眼球がむき出しになった。
「うわ、グロッ」
「確かめたいことがあるのでしょう。起きてしまう前にさっさと確認してくださいませ」
ひょうの口調はそこはかとなく失礼な気がしたが、そいつの眼球を見ることが先だと一歩近づく。
先ほどよりかは輝きが鈍いが、やはり不気味に輝く金色の瞳。僕はその中心に、自分が鏡を覗き込んだ時に見つけた「光のチップ」を探そうとするが、瞳はだいぶ上の方に移動しているために、その中心を観察することは難しい。僕は後ろに下がった。
「……どうです?」
「ん、もういいよ」
ひょうは男の顔から手を離す。今回は男の顔に氷はつかなかった。いつでも何でも凍らせてしまうということではないらしい。ひょうはその場に立ち上がると、僕の頭上から声をかけた。
「巴様、何か手がかりになりそうなことはありましたか?」
「そうだね……」
正直、何が手がかりになるのかがさっぱりわからない。いや、個々に気になる事象はあり、いくらか仮説を立てることもできる。だが、それらがどうも結びつく感じがしないのだ。
この世界のこと、「あの声」のこと、この男のこと。それが「『世界の交差』の仕組みを知り」、「マスターの世界をぶっ壊す」ために、どういうふうに繋がってくる……? 何が、どうマスターに関係している? 何を材料に、あの男を言い負かすことができる?
ぐるぐると考えていると、ひょうが少しだけ申し訳なさそうな顔で、「巴様」と呼ぶ。
「うん」
「私にはもう、何も『降りて』きません。私が出せるヒントはここまでのようです」
「そう……」
僕は返事をしながら、それ以上ひょうを責めることはしなかった。ここまでに得た手がかりによってなんとかあいつを暴かねばならないことは、なんとなくわかっていたから。
でも、本当にできるだろうか。何か重要なことを見過ごしてないか? それが、すべての情報を繋ぎ留める、重要なものだったりしないか?
そして、もし見過ごしているとしたら、どこで、何を見落としているんだ?
――と、瞬間、僕は体がだるくなるのを感じた。からの、脳を支配する強烈な眠気――「世界の交差」だ!
「巴様!」
その場に倒れ込もうとする僕の体を、ひょうが正面から抱き留めた。ひょうの腕に抱きかかえられた僕は、段々と重みを増して自由を失う体を、そして消えかけの意識を、あたたかなやわらかさの中に預けていく。
最近、人に抱き締められてばかりだ。いや、そんなこともないか。今まで人とスキンシップすることなんてなかったから、特別多く感じているだけかもしれない。
セーターを着たひょうの腕が、僕の体を支えている。頭の後ろに冷たい物が何度も触れる感触に、僕は頭を撫でられているのだと思った。
ひょうの胸の中はあたたかい。先ほど僕の腕を掴んだ手は身震いするほど冷たかったのに、どうしてこんなにあたたかいのだろうと思った。ひょうの手先はこんなに冷たいはずなのに。ひょうは「人間」じゃなくて、「道具」なのに。
頭を撫でている冷たい手のひらが、その体に僕をぎゅっと引き寄せた、その時。
――そういえばひょうって、男だっけ、女だっけ。
朦朧としながら、そんなどうでもいい、しかし根源的な疑問が頭の中に湧いてくる。もし女だったとしたら、こんなことをさせたらまずくないか。男だとしたら――それもそれでまずい。絵面的に。
抗う意味も込め、顔を上げるとひょうと目が合った。
こちらを見ていたらしいひょうは、逆光の中、穏やかに微笑む。
桜色の長い睫毛はたっぷりと光を吸い込んで輝き、それに覆われた透明な瞳も、ビー玉のようにキラキラときらめいている。初めてこんなに近くでひょうを見た。目も鼻も唇も、整い過ぎているくらい整っているその顔の中の――噓みたいに透明なその瞳の中に。
僕は確かに、仁の瞳の中に探していた、「光のチップ」があるのを見つけてしまった。
「あ! あ……あの……」
「またすぐに会えますよ」
ひょうは答えになっていない答えを返すと、僕の体を抱き締める。
カモミールと、ほのかにお米の甘い匂い。
次の瞬間、僕の視界は真っ黒になって――。
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