3話:光の世界(③)

「よろしければそちらの席にどうぞ。もちろん、お庭をご覧になるのであればお供しますが」

 その人が少しだけ首を傾けると、後ろ髪がシャランと揺れる。

 綺麗な人だ、と思った。「ガラス細工のような」なんて使い古された比喩に本当の意味でふさわしい、美と、輝きと、繊細さの結晶のような姿。それは顕微鏡で見る雪の結晶の緻密さだとか、春の薄青色の空にとろけるような桜の花のやわらかさだとか、とにかく、そんな美しさと眩さを湛えており、目が眩んだ僕は思わず後ずさる。

「えっと……何? お茶? 淹れてくれたって……」

 僕の言葉を聞くと、その人は長い睫毛を重ねるように目を細めると、穏やかな声で「はい」と答える。

「お召し上がりになりますか。それとも、お庭をご覧になりますか。お茶は、後で淹れ直すこともできますよ」

「いや、普通に飲むよ。淹れ直すってもったいないし」

 僕が足を踏み出そうとすると、その人は僕より先にテーブルへと歩み寄る。その人はティーセットの乗ったトレーを持っていたが、音も立てずにそれをテーブルに置くと、静かに椅子の背を引いて僕へと微笑みかけた。

「お座りください」

「え、僕?」

「ええ。どうぞ」

 どこまでも透きとおっている小川のせせらぎのような、清らかでゆたかな声だ。その提案を断る理由もないので、僕はおとなしく席に着く。

 ポットの中では白く小さな花がいくつも、黄金色の波に揺られてぷかぷかと浮いている。その、幻想を煮詰めたような色と輝きに目を奪われていると、横から細い指が伸びてくる。そしてガラスでできた蓋の突起をつまみ、ぱかっ、とそれを開けてみせた。

 甘い香りがいっそう濃くなる。あたたかくて甘い匂いの湯気が僕の胸を詰まらせ、息をするのが切なくなる。僕は、できるだけゆっくりと息を吐いた。そして、また新たな息を吸う。

「カモミールティーです。リンゴのような甘い香りが特徴なんですよ」

 そう言いながら透明な蓋を閉めると、その人は真っ白なコースターを僕の目の前に置いた。その所作さえ美しい。

「そうなの」

「ええ。ほら、あそこに見えている白い花がカモミールですよ」

「どれ? よく見えないんだけど」

「見えてますよ。ほら、向こうに群生している」

「あ、ほんとにちっちゃい花なんだ」

「可憐な花でしょう」

 淡くやわらかな緑の中で揺れている、白い花の群れ。煙のように輪郭のないそれを眺めていると、コポコポ……という音とともに、あたたかな空気に頬を撫でられた気がした。

 見ると、その人がソーサーの上の、白いカップに黄金色の液体を注いでいる。ポットからあふれ出したその液体は陽光にきらめき、果実のような甘い香りを立ち上らせながら、真っ白の器を満たしていく。

「……いい香りだね」

「ええ」

 僕は頬杖を突いた。とても、気分がよかったから。

 カモミールティーを注ぎ終えたその人は、ポットをテーブルに置く。そして、「どうぞ」と恭しく一礼し、後ろに下がる。

 そういえば、ハーブティーを飲むのは生まれて初めてかもしれない。というか、こんな形で人にお茶を振舞われること自体が初めてだ。だから、少し緊張している。こういう時の作法を、僕はまったく知らない。

 けれど、どうせここには僕しかいない。誰も見ている人はいない――後ろに控える、あの人以外は。

 それなら、とカップに手を伸ばす。作法も何もわからないけれど、とりあえず飲んでしまえばいい。たぶん、この場に僕の行儀の悪さを叱る人なんて、誰もいない。

 引き寄せられるようにカップに手を伸ばしながら、不意に僕は、「何か」に気づきそうになる。なんだろう、と考える間もなく、僕の指はカップの縁へと到達する。指先が、指の腹が、そのなめらかな表面をなぞる。なぞって、そして――その瞬間。


 僕は、カップを「掴んだ」。


「……え?」

 片手――そして、両手でそれを包み込むと、それは不思議なくらいしっかりと両手の内側に収まる。

 手のひらがじんわりと温まっていくのを感じながら、僕は慌てて「ある物」を探す。手の中でカップを回してみると、その白い器も、中に注がれた液体も、それはもう綺麗に、くるくると回転した。

 それは、どうして? どうして「回る」? 先ほどまでゆるみ切っていた心に落ちた一滴の墨汁のせいで、僕の心臓はどくどくと早鳴る。

 そう、これはおかしい。僕でもわかる。

 だって、このティーカップには――「取っ手」がない。

「……これ、『お茶碗』でしょ」

「え?」

 手の中の、「碗」を見ながら僕は言う。後ろにいたその人が近づいてくる気配に振り返ると、その人はどこか不思議そうな顔をして、僕の手元を覗き込んだ。

「『お茶碗』ですね」

「そうだね。じゃあ、何で『お茶碗』がソーサーに乗って、ハーブティーと一緒に出てくるの?」

 僕の問いに、その人――そいつは、繊細で美しい微笑みのまま、しかし、あっけらかんとした声で答えた。

「『お茶』『碗』だから……、じゃないんですか?」

 その時、麻酔が切れた。

「『ご飯茶碗』なんだよ、これは! 見たらわかるでしょ!」

「そうなんですか?」

 そいつはなおも頭をひねっている。こいつ、まだ僕の言っていることが――いたって「当たり前」のことが、わかっていない。全然わかっていない!

 僕の意識は急速に覚醒していく。と、いうことは、さっきまで僕の意識は「眠っていた」んだ――と思うと、身震いをしてしまう。僕は、僕の意思を奪われていたのか?

 ちらりと横目でそいつの容姿を再確認する。薄いピンク色の髪に、透きとおるような水色の瞳。それだけでおかしいじゃないか。だって、透明の瞳なんてありえない。血が通っていたら、そんな色になるわけがない。

 髪型も、「一つに束ねている」と僕は思っていたが、よく見れば、何かゴムのような物で縛られているというわけではなく、「部分的に髪が長い」……という感じ。説明できるわけがない。だってそんな髪型の人間、存在できるわけがないんだから! おまけに、しっぽのようなその髪の毛の束は、風向きと重力を無視してふんわりと宙を漂っている。だから、ありえないんだって! そもそもピンク色の髪の毛からありえないし。

 服装も、なんで先ほどまでは気にならなかったのかが不思議なくらいで、僕の学校の指定セーターに見たことのない黄色のプリーツスカートに、無地の白いエプロンをつけている。丈の短いスカートから覗いているのは黒いスパッツ、履いているのはこれもまた、見たことがないような鮮やかなイエローのスニーカーだ。

 未だかつて見たことがない着こなしで制服を身にまとい、エプロンの腰紐を風にたなびかせながら、「そいつ」は男とも女とも言えない声と体つきと表情で、僕の後ろに立っている。

 とんでもなくちぐはぐで、とんちんかんな容姿をしたそいつは腕を組み、顎に手を当てながら、さっき僕が言った言葉の意味を、まだ咀嚼しているようだ。

「どうして『茶碗』は『茶の碗』と書くのに、お茶を入れたらいけないのですか?」

 そいつの声は清らかで美しく、仕草は非常に様になっている。だけど、僕はもう騙されない。こいつのペースに乗るもんか!

「『茶碗』の『茶』は緑茶でしょ! 日本のお茶専用! カモミールティーを入れるなんて、本当にありえないから!」

 僕がそう言っているのにまだ納得できないのか、そいつは追撃のように質問を重ねる。

「どうしてですか? なぜありえないのですか?」

「それは――」

 それが「普通」だからだ、と怒鳴りそうになって――喉の奥で止める。

 僕は、そいつの顔を見る。そいつは僕をからかっているわけでも、意地悪をしたいわけでもなく、ただ、きょとんとした顔で――僕の続きの言葉を待っていた。僕は、ご飯茶碗に入ったカモミールティーを一口啜る。

「――『似合わない』からだよ。あらゆる物には『適』『不適』があるんだ。例えばハーブティーだったらね、カップに入っている時が一番『適』だ。ティーカップに入っているハーブティーは、他のどんな器に入っている時よりもおいしいはずなんだ。なぜなら、そもそも『ティーカップ』っていう物が、ハーブティーだか紅茶だかを注ぐために生まれてくるからだし、そのように生まれた物たちが用途を変えずに存在し続けているということは、それらが持って生まれた果たすべき目的が、多くの人たちによって有用だと証明されているからなんだよ」

 今しがた生まれて初めてのハーブティーを飲んだ僕はぺらぺらと喋る。そいつは、おとなしく僕の言葉に耳を傾けていた。

「つまり、『適材適所』ということですか?」

「いーや、ちょっと違うね。ニュアンスが違う。そもそも道具ってのはね、何か『目的』があって作られるんだよ。道具は何かを達成するために、その目的に『適う』ために、最も効率がよくて最も結果が出せる形に、時間をかけて洗練されていくんだ。ティーカップだったら、そこに入れるお茶が一番見た目に美しく、味を際立たせるような形に洗練されていく。すべての道具は『効用』のために仕組まれていて、目的を、意図を実現するために必要な物が残り、それ以外の物は削ぎ落とされていくんだ」

「生き物の進化と似ていますね」

 言われて僕は、思わずそいつの顔を見上げる。

「そう、そうなんだよ。必要な物が残ってそうじゃない物が捨てられていく……。そうやって僕らは進化してきて、『生きるために必要な物』だけ残されて、進化してきたわけなんだけどさ、そもそもいったいいつから僕たちに『生きていく必要』が、『生きている必要性』が発生していたんだろうね?」

 僕はあははと笑う。そいつは何も言わず、ただ僕の方を見ている。

「たぶん、そんなものは『ない』んだよ。僕たちの存在には効用もなければ価値もない。僕たちは僕たちの存在の正当性を他人に認めさせることはできないのさ。なぜなら僕たちは道具のように、目的や意図を持って生まれてきたわけじゃないからね。無価値のままこの世に放り出されて、世界のあらゆるものに害を与えながら生きて、そうして一人で死んでいくんだ。『どうして自分は生きているのだろう』なんて考えても時間の無駄だね、そもそもそんな理由はないのだから。自分を欲しているのは自分だけさ。結局人間は、生まれてから死ぬまで『自分』という生き物をいかに殺さないでいられるか、いかに無価値な自分を他人から与えられる価値や評価で着飾れるかなんていうクソゲーをしてるんだ。それで『人生楽しい』みたいな顔してさあ。ね、狂ってると思わない? 『それが普通だ』とか言ってるやつらの方がずっと異常で愚かに見えるよ。真実から目をそらして、本質を知ることなく生きて、それで本当に『楽しい』って? 狂人だね!」

 そこまで一息に言い、茶碗を掴んでハーブティーを流し込む。と、勢いをつけ過ぎてむせてしまう。「大丈夫ですか」という声を手で制すと、そいつは何もしてこなかった。呼吸を整えながらちらりとそいつの顔を見ると、不安がるでもなく、軽蔑するでもなく、ただまっすぐ僕の顔を見ていた。僕は目線を逸らす。どうして僕は、出会って間もない人間に、自分の考えていることをべらべらと披露してるんだろう。

 と、つんと鼻をくすぐる甘い香りに、僕は碗の中のハーブティーを覗き込む。先ほどまでと変わらない、黄金色の水面。しかし、そこには先ほどまでは気づかなかったが、「何か」が映り込んでいる。

 なんだろう。何気なく顔を近づけると、その物体はぐんっと大きくなり、波の動きに合わせてゆらめいた。「銀色」の、物体?

「は、……え?」

 茶碗の中身を覗き込みながら、僕はおそるおそる、自分の頭に手を伸ばす。そして、髪の毛を手で梳くと、――その銀色の物体も、「同じように」、髪に手櫛を通した。

「…………」

「どうぞ、お使いください」

 場違いなくらい穏やかな声とともに差し出された手鏡をひったくり、覗き込む。そして、思わず「あっ」と声を上げた。そして、目が離せなくなった。だって、そこには、見たことのない「僕」がいた。

「なん……っ、だ、……これ?」

 髪は銀色に、瞳は深い青色になっている。顔の右側を隠すように伸ばしていた前髪は、完全に顔の右半分を覆っている。が、視界としては前髪を上げている時のように全体が明瞭に見えており、試しに前髪を手で払ってみたり戻してみたりしてみるが、一切の変化がないようだ。それに、髪自体に質量もないのか、目に触れて痒くなることもない。

 僕は思わず立ち上がる。そして、クリアになった視界で辺りをぐるりと見渡した。

 後ろに佇んでいるのは、今までに見た記憶のない、白くて清潔な一軒家。反対側に広がっているのは穏やかで美しく、一見開放的ではあるが、濃い緑色の木に囲まれて他の家や道路が見えない閉鎖的な庭。自分が今立っているのは、まるで一度も雨に晒されたことがないかのように、新しくて整備され過ぎたテラスだ。

 新品の食器、つやつやと輝くお茶――どれもまったく見たことがない。香りも花も、空や風や光でさえ、「他人の物」であるような感じがする。

 くらっとしてしまいそうになるのを抑え、両足を踏ん張りながら、僕はその違和感に耐える。こんな所で倒れるわけにはいかない。「僕」という意識を殺してはいけない。だって、「そいつ」が見ているから。僕にとって、何より異様で、ありえなくて、得体が知れない「そいつ」が――、僕の言葉を待っているから。


「あんた、誰……?」

 本来、一番初めにするべき質問をすると、「そいつ」は自分の胸にその白い手を置いて、再び恭しく一礼をした。


「私は結花けっかひょうと申します」


 結花ひょう。僕はそのめずらしい名前を、頭の中で反芻する。

 そして、気づいた。僕はどうして、「けっか」という名前を口頭で伝えられて、その漢字が頭に浮かんでくるのだろう。「ひょう」がひらがなの名前だということがわかるのだろう。黒板に書いたり、分解したりして説明してくれなくても、どうして僕はそいつの声だけで、その文字までわかってしまうのだろう。


「はじめまして。そして、ようこそ、『こちらの世界』へ。今日から私が、あなたが『こちらの世界』で願いを叶えるためのお手伝いをいたします。どうぞ、何なりとお申しつけください」


 結花ひょう、と名乗ったそいつが追加の湯を沸かしている間、僕は、再びベンチに腰かけて考え事をしていた。

 まず、おそらくここは、牧田先輩の言っていた「あっちの世界」だ。それは、ここが「世界の交差」を利用して行き着いた世界だから、というのもあるし、この世界に存在するあいつも、僕自身も、「普通」とはありえない色の髪の色、目の色をしていることからも証明できる。前髪で目が隠れているのに視野が確保されているのもおそらく、ここがファンタジーの世界――ゲームや漫画の世界だから、ということで説明がつく。

 問題は、どうして僕が「この世界」を願ったか、ということだ。牧田先輩は「自分の望んだ姿で、自分の望んだ世界に行く」と言っていたが、僕は、果たしてこの世界を「望み」、「願った」のだろうか?

「願う」ということは少なからず、「僕の意識下にある物」を改めて意識する、ということだと思うから、少しは僕が知っている物――知っている風景や知っている小道具が現れてきてもいいと思うのだが、先ほど自分が出てきた家も、部屋の様子も、ここのテラスや庭だって見たことがない物ばかりだ。あるいは、見たことがなくても僕が漫画やアニメで見て、「いいな」と思った物が出てくるという可能性もなくはないだろうが、しかし、こんな家が出てくる話を僕は読んだことがない。あいつが出してきたカモミールティーだって、僕は飲んだこともなければ、「いつか飲みたい」と願ったこともないはずだし。それが、どうして今、僕の目の前に発現したのだろう。

 それに、あいつ。あいつがとんちんかんな容姿と思考を持っているのは置いておいて、さっきあいつは確かに、僕が「『この世界』で願いを叶える手伝いをする」と言った。

 あいつは、僕の「願い」を知っている? それはどうして。どういった経緯で。僕はまだ、僕がここに来た経緯を、理由を、あいつに話していないのに、どうしてまだろくに口もきいていないあいつが「知っている」んだろう。それは、明らかに怪しくないか?

「お待たせしました」

 そいつは音もなく僕の横に立つと、再びカモミールティーのポットをトレーに置く。ふわんと香る甘い匂いは、先ほどまでは僕の心を落ち着けるためのアロマだったが、真面目な思考に集中したい今は、かなり邪魔で鬱陶しい。

「……あんたは、僕のことを知ってるの」

 僕が訊くと、そいつは「そうですねぇ」と間延びした返事をする。

「正確には、『あなたの願い』を、でしょうか。私は、あなたのことを断片的にしか知りませんから」

「……ふうん」

 追加で注がれたカモミールティーに口をつける。先ほどよりも少し熱いそれはやはり茶碗に注がれているため、味噌汁を啜るときのように持たないと火傷してしまいそうだ。

「そしたらさ、どうして君は、『僕の願い』を知ってるの。誰に教えてもらったの?」

 僕は薄ら笑いをこらえきれないまま、そいつに訊く。そいつは彫刻のように美しい横顔で、何かを考えているようだった。僕はその表情の変化を見逃さないようにする。何か、少しでも兆候が出たら絶対につついてやる。揚げ足を取ってやる。だから、早くボロを出せ。僕はお前を貶し、否定したくて仕方がないんだ。

 僕は基本的に、僕のことを「知っている」と言うやつだとか、「知っている」という顔をするやつのことが大嫌いだ。身近な例で言えば(決して身近であってほしくはないが)、マスターとか。学校のクラスのやつらだってそうだし、教師だってそうだし、親だってそうだ。そんなことを言っていたら、僕以外のその他大勢のやつらのことが僕は大嫌いだということになる。実際そうなんだ。

 人は人のことを、完全に理解することはできない。

 僕の中にはいつもその考えが横たわっている。しかし僕がその考えを他人に説明したところで誰も理解してくれないというそのことがまさに、僕の仮説が真であることを裏打ちしているのだった。

 「知っている」とか「わかっている」とか、そういったものはすべて主観だ。それは事実――「その人が、そのことを、百パーセント理解している」ということ――を伴っていなくても、その人「だけ」が、そのことを百パーセント理解したと「思い込んだら」、「知っている」、「わかっている」ということに「なる」んだ。

 そういう意味で、「わかっている」という言葉は非常に不確かで、危うい言葉だ。しかし人は他人の考えを百パーセント理解することはできない、という至極当たり前の事実、現実を正しく理解している僕は、少なくともその辺にごろごろ転がっている脳足りんたちに比べたら、この「わかっている」という言葉を、用法・用量を守って使うことができる自信がある。

 僕はそのことをわかっていないやつらのことは阿呆だな、と思う。だからマスターのことが嫌いだし、今同じ空間にいる「こいつ」のことも信用ならない。僕のことを「わかっている」と語るやつは皆、僕の敵だ。お前らが僕の知らない誰かのことを勝手に思い込んで決めつけて生きるのは自由だけどさ、「僕」のことを決めつけられるのは本当に、ぶっ壊したくなるくらい嫌なんだよ。

 僕が睨んでいる間、そいつは一言も発さず、ぼうっと、どこか遠くを見るような目で考え込んでいる。何か、言葉を選んでいるのだろうか。僕に隠したいことでもあるのだろうか。隠すための噓を考えていなかったから、今考えてるのだろうか。だとしたら相当間抜けだな。聞かれないはずないじゃないか、この僕にさ。

 ふと、ここに来るまでに牧田先輩に、きみは相手の様子や仕草や考え方のタイプから、その人の思考を予測するのが得意だね、と言われたのを思い出す。僕もそう思う。それこそが、僕の唯一の得意技であり、武器だ。これができるからこそ僕は賢くて、他のやつらよりも上手く生きられている。そう、実感しながら生きている。

 だから――と、思考を続けようとした時、そいつの唇が開いた。僕は、身構える。と、唐突に既視感が襲ってきた。その時には、遅かった。

「それが、わからないんですよね」

「……は?」

 僕は、思わず間抜けな声が出る。

「わからない」? なんだそれ? いや、それよりも、また、ペースを崩される!「予想」していなかった事態に直面させられて――いや、僕が勝手に「予想」していたのがいけないんだけど――また、話の主導権を握られる!

 また、僕は同じ過ちを繰り返したんだろうか。そうだとしたら馬鹿だ! 脱力感、そして焦りという同時に存在し得ない二つの感情の同居におかしくなりそうな精神を何とか奮い立たせる。いや、もしかしたらこいつは「わからない」なんて噓をついて、大切なことをごまかそうとしているのかもしれない。改めて表情を窺い、読み解こうとしているとばちん、と視線がかち合った。

 その瞬間、そいつが――どこかさびしそうに微笑んだ。

 だからつい、僕は、そいつに尋ねていた。

「……どういうこと?」

「信じていただかなくて結構ですが」

 そいつはポットを持ち上げ、その表面を優しく撫でながら言う。

「『気づいたら』私は、ここ――この家にいました。その時、私は私の名前に『気づき』ました。そして、私がそれ以上のことを知らないことに『気づいた』のです」

「それ……『記憶喪失』ってこと?」

「そうとも言えるかもしれませんね」

 そいつはあっけらかんと言うと、ポットを傾けて僕の茶碗にカモミールティーをなみなみと注ぐ。その横顔に、さっき見たさびしさのようなものは、もうない。そいつの表情は読み取りづらかった。何を考えているのかわからない――と思っていたけれど。

「あのですね」

 そいつは話を続ける。その時初めて、こいつは敬語を使っているが、使い方がめちゃくちゃだなと思った。

「しばらくの間、私はここで一人、途方に暮れていたのです。何せ、なぜ自分がここにいるのか、何をすべきなのかがわからなかったのですから……。ですが、ある日、私は唐突に『思い出した』のです」

 そいつは再び、僕を見る。

「私が『ある人』を待っていること。そしてその人の願いを叶えるために、私は私のすべてを捧げるという、使命を持ってここにいることを」

 見つめられた僕は、心臓が高鳴るのを感じた。そして、訊いていた。――「いいえ」と言われたら、恥ずかしくて、情けなくて死んでしまいそうな質問。でも、訊かずにはいられなかった。

「……その『ある人』って、僕のこと?」

「そうです」

 そいつは即答する。

「……その、『願い』は?」

「はい、〈『世界の交差』の仕組みを暴き、マスターの世界をぶっ壊すこと〉です」

 そいつはポットをトレーの上に置くと、僕の前まで歩いてきて、その場で片膝を突く。僕とそいつの間に、びゅうと強い風が吹く。そしてそのやわらかな後頭部が僕に捧げられた時、僕は、心臓が焼けつくような衝動を覚えた。

「――私には、自分の名前と、あなたの願いと、あなたがそれを叶えるためのヒント以外の記憶がありません。つまり、私のアイデンティティは、『あなたがあなたの願いを叶えるための手伝いをすること』、ただそれだけなのです」

 ――その言葉に、姿に、心臓がドキドキドキと激しく脈打つ。

 なぜ最初からその可能性を考えなかったのだろう。むしろ最初から、その可能性しかなかったんじゃないだろうか。僕はこいつに対して不要な苛立ちを覚え、不要な論理を展開したことを後悔した。

 だって、ここは「あっちの世界」だ。僕が願ったことを叶えるための、僕の「願った」、ただの空想の世界。そこの住人なんてただの偶像で、僕の大嫌いな「人間」じゃない! むしろ、「僕の願いを叶える手伝いをする」という目的を果たすために存在するこいつこそまさに、僕が僕の願いを叶えるためにマスターから与えられた、ただの「道具」なんだ!「効用」の下に存在している、「道具」! こいつには心がない、人生がない、人権がない! それでいいんだ!

 そう思うと、ひどく心が湧き立った。僕に向かって膝を折るそいつの姿は、僕のプライドを満たすのに十分過ぎるほどだった。

 先ほどまではささくれ立っていた僕の心は、これでもかというほど晴れてくる。僕は初めて、このような存在を僕に与えてくれたマスターに感謝した。いや、実際に願いを聞き入れてくれたのはゼロだから、ゼロに感謝すべきなのかもしれない。あれ、そういえばあの手続きって、注文を聞いたのはゼロだけど、実行したのってやはりマスターなんだろうか。そうしたら、僕が感謝すべきはマスターなんだろうな。ここはおとなしく、「管理人」に感謝しとこう。ありがとう、「世界の交差」の管理人マスター様。

 まあしかし、こいつがマスターに作られた存在だというのが真であるということはまだ断定できない、とも考えられる。あくまで、現時点では「有力な仮説」に過ぎない。うん、仮説として提示しておいて、その仮説を基にこいつが何者であるかを知っていくというのは、いいかもしれない。その方がクールで、理知的で、より真実に辿り着ける気がする。自分の都合のいいように決めつけながら生きるのは愚かなことだ。

 ――と、僕の頭に一つの疑問が浮かぶ。

「……あのさ、訊いてもいい?」

「何でしょう」

 そう言って、そいつは顔を上げる。相変わらずその表情は読み取りづらい。

 僕は椅子の上で脚を組み替えると、頬杖を突いてそいつを見下ろしてやる。穏やかな無表情で僕を見上げるそいつの顔は、整い過ぎて人間らしくない。逆にそのことが、こいつは僕の願った空想の世界の住人であるという自分の説を裏打ちしてくれるような気がするからそれはそれでいいのだ、が。

「……君は、僕が願いを叶えるために、君のすべてを捧げるって言ったね」

「はい、言いました」

「具体的には? 何をしてくれるの?」

 僕が訊くと、そいつは心なしか、先ほどまでよりも楽しそうな顔で胸に自分の手を添える。この仕草、こいつの癖なんだろうか。

「先ほども申しましたとおり、あなたにヒントを与えることです。――といっても、メインは炊事や掃除等の、あなたの生活面でのサポートになるでしょうね。『こっちの世界』の勝手を、あなたはよくわかっていないと存じ上げていますので」

「それなんだけどさ」

 僕はそいつの言葉を遮る。そいつは僕の言葉を待っている様子で、「?」という符号を頭の上に浮かべている。

 僕は、一つため息をついて、訊くことにした。……あんまり訊きたくなかったけれど。

「さっきさ、君、茶碗とティーカップの違いがわかってなかったみたいだけど、本当に料理ができるの?」

 僕とそいつの間に生まれる、無言の時間。

 しばしの沈黙の後、そいつは何事もなかったようにケロっと返事をした。

「ええ。和食から洋食、中華まで、何でもござれですよ」

 ……「何でもござれ」って。何? その微塵も信憑性を感じない言い方。

 そいつは妙に自信満々に言うが、どうにも胡散臭い。僕は追加で質問をすることにする。

「掃除は? 部屋の中めちゃくちゃ汚かったけど」

「あの部屋、いいでしょう。あの本がいい味出すんですよ」

「あ、仕様なんだ。あの、床に散らばってるたくさんの本は、ああいう置き方のインテリアなんだ」

「いえ、あの部屋の掃除は時間がかかりそうなので、最後に回すことにしているんですよね」

「やっぱり散らかってるんじゃん!」

 僕は耐え切れなくなって立ち上がる。

「『いいでしょう』もクソもないよ! 散らかしてるだけじゃん! 美意識の対極じゃん‼」

「まあまあ、そうカッカなさらず」

 そいつは地面に膝を突いたまま、どうどう、と僕をなだめるように、にこやかに笑った。いやいや、全然笑えないから。いや、っていうかなんでなすべきことをなしていないあんたの方が気楽そうに笑ってるんだよ!

 ――これではっきりした。予想通りというかなんというか、こいつは、「すべてを捧げる」なんて大仰なことを言う割に、元のスペックが低いんだ。僕は自分が「欲しい」と願ったゼロの姿を、脳裏に思い描く。聡明で、従順な少女。対して、こいつは茶碗とティーカップの違いがわからない。そんなことってある? こいつの存在を願った僕の責任か? それともゼロの発注ミスか? それともマスターの製造拒否か? そうだったら絶対に許さないんだけど――などと頭の中でぐるぐる考えていると、不意に、下から「大丈夫です」という声が聞こえる。僕はそいつの顔を見た。


「料理も掃除も、これから勉強します。少しでもあなたが『こちらの世界』で安心して暮らせるように。あなたがあなたの願いを叶えることに集中できるように、私も尽力しますよ」


 そう言ってにこりと笑うそいつの表情に、僕はドキリとする。

 それが魅力的な笑顔だったからではない。そこに、一点の曇りもなかったからだ。

 百パーセント相手を信じ切った笑顔。僕は生まれて初めて見た。たぶん、これは、「道具」じゃないとできない。「人間」じゃ、無理だ。だって、「人間」は必ず裏切る。必ず裏切る存在に百パーセントの笑顔を向けて、どうなる。どうもならない。どうもならないから、人はそれをしない。いや、他人を信じられる一部の馬鹿がするかもしれないし僕はそれを止めないが、少なくとも、僕は一生することがないだろう。

 それにしても、無条件で僕のことを信じてくれる存在がいて、しかも、そいつが「人間」じゃないなんて、よく考えてみれば最高じゃない? だって、向こうはその存在意義故に僕の言うことを聞くしかないから裏切らないし、僕は僕でこいつのことを、「人間」だと思って接さなくていい。そんなこと、「こっちの世界」じゃありえない話、赦されない話だ。

 だけど、ここでは「赦される」。ここが、僕が僕自身の空想と願望で創り上げた「想像」の世界であるが故に。ここでは「赦す」のも「赦される」のも、全部僕なんだ。ここは、「僕の世界」なんだ。

「いいじゃん……『あっちの世界』」

「気に入ってくださいました?」

 そいつの声に、僕は再び下方を向く。こちらを見ていたであろうそいつは、目が合うと、にこっと嬉しそうに笑う。

 僕も笑顔で応じた。それは、心の底からの笑顔で――いつぶりに、何の含みもない笑顔を他人に見せただろう、と思った。いや、こいつは「人」じゃないのか。だから、僕は笑えたのか。なるほどな。

「気に入ったよ。ここは自由だね」

「はい、とても」

「ま、これから僕がぶっ壊していくわけなんだけど」

 そう言いながら伸びをすると、「あの、」と小さく呼び止められる。

 何、と聞き返そうとした僕は、「な」の口のまま、目を奪われた。



 ――そいつが目の前で立ち上がった瞬間、「世界」が光に包まれた。



 太陽の光がそいつにめいっぱい降り注いで、細い桜色の髪の毛が、春風に吹かれてキラキラと光っている。頭髪も、睫毛も、その一本一本が、新しい光をいっぱい吸って、ぼんやりと発光するように輝く。透明なビー玉のような瞳も、そいつがまばたきをするたびに光を乱反射して、星の瞬きのようにきらめいた。

 綺麗だ、と思った。光に照らされるそいつの姿が。エプロンの白が。ティーポットが。テーブルが。テラスが。庭が。空が。世界が。

 つまるところ、僕の目に映る、すべてのものが。


「……『Lightライトの世界』」


 僕は、思わず呟いていた。薄く開いた口の隙間から、次から次へと言葉があふれ出す。

「『光の世界』。ここは、『誰かが願った光輝く世界』なんだ。そうだとしたら、僕が生きている『こっちの世界』は、『Rightライトの世界』――『正しい世界』だ。でも、僕らはこの世界の『正しさ』が本当に『真』であることを証明できないから、さしずめ『誰かが正しいって言ったから正しいと思われている世界』と言ったところかな」

 言葉を紡ぎながら、僕はそいつが言った、「思い出す」という表現が、あながち間違いではないことを再認識する。

 知っているはずのない答えが、本当は、最初から自分の中に眠っていて、とあるきっかけで一気に僕の前に立ち現れてくるような感覚。その感覚に、僕は気持ちのよさと、少しの違和と、微かに恐怖を味わう。この言葉は――僕のものなのだろうか?

 僕は頭を振ってその考えを追い払うと、そいつの顔を見る。そいつは、相変わらず何を考えているかわからない顔をしている。いっそ、間抜けに見えてきた。

「で、何。さっき何か言いかけてたけど」

「あ、いいんです。ただ、あなたの名前が知りたくて」

「そんなこと?」

 僕が言うと、そいつは静かに頷く。

「だって、あなたがここ――『あっちの世界』で願いを叶えるためには必要でしょう」

 そいつはそう言うと、やはり胸に手をあてて微笑む。それを聞いた僕は、背筋を伸ばしてそいつを見上げた。

「――今度から、『世界』を指示語つきで呼ぶのはよそう」

 僕の言葉に、そいつはぱちりと瞬きをする。僕は両手を広げて微笑んだ。これが、今、僕にできる最高のパフォーマンスだと思ったから。

「なぜなら、そもそも『世界』というものが、『自分の視点』という地平に成り立つものだから。つまり、『世界』という言葉自体に『自分の』、つまり『この』という指示語的ニュアンスが内包されているんだ。その時点で、どちらか片方の世界を『こっち』、『あっち』だと設定して呼ぶことはナンセンスだ――って、そうは思わないかい?」

 そいつは、僕の問いを咀嚼すると、すぐに口を開く。その眼差しに、僕の心は湧き立つ気がした。胸の奥がじんと痺れるような、それは俗に言う、「喜び」に近いような気がしてしまった。

「それでは、確認のために質問させていただきます。あなたがぶっ壊すという『マスターの世界』って、何なんですか? その範囲はどこからどこまでで、何を意味する『世界』なのですか?」

「……君は、こういう話をするのが好きかい?」

 僕がそう問うと、そいつは胸に手を当てて深く頷いた。カモミールの香りが、一瞬濃くなった気がした。

「ええ、あなたがこういった話をするのが好きと言うのであれば、私はとことんつき合いましょう」

 テラスには、淡く爽やかな春風が流れ着く。僕はそいつと髪を揺らしながら、これからのことを思った。

 ふうと息を吐き、隣に立っているそいつからの視線を察知して振り向く。

「……いいですか?」

 僕はその言葉の意味を図りかねて、すぐ理解して、頷いた。

 すらりと身長の高いそいつは、無駄のない動作で再び僕の前に跪くと、胸に手を当てて頭を垂れる。僕はその姿を見下ろしながら言う。

「君は僕の道具だ」

 そいつは首を垂れたまま、「はい」と返事をする。

「Light――エルの世界は、僕にとって、ただの仮想世界だ。君がいくら居場所をなくそうと、路頭に迷おうと、僕には関係ない。だって、君は僕にとって実在しないも同然だし。そうでなくても、僕と君は他人だし」

「はい、そのとおりです」

 そいつは頭を下げたまま、しかし明瞭に返事をした。

「君という『道具』に、『効用』がないってわかったらとっとと捨ててやる。僕は『主』として、君を使うか使わないか、選ぶ権利があるのだから」

「はい、そのとおりです」

「だからね」

 僕は片膝を突いているそいつの前にしゃがみ込む。そいつは顔だけ上げる。その表情には少しの迷いも戸惑いもなく、疑いすらなかった。僕は笑った。

「せいぜい僕を満足させるように頑張って。僕の名前は鏡味巴。さっそくだけどさ、まずは『世界』の定義から始めようよ。君と僕が、確かに同じ目的に、一緒に向かっていくためにね」

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