3話:光の世界(②)
◇
「――それで、来てくれたってわけね」
牧田先輩は黄色のマグカップを傾けると、残っていた麦茶をぐいっと飲み干し、そう言った。
創作部部室は相変わらず快適だった。しばらく顔を出していなかったにもかかわらず、牧田先輩も尚人先輩も変わらぬ態度で迎えてくれた。
いや、そうでもないかもしれない。僕がめずらしく必死の形相(少なくとも、僕からしたら)で飛び込んでしまったものだから、驚かせてしまった気がしなくもない。
それでも平然としていつもの対応をしてくれるところが、なんというか、「非凡」のプロである。彼女たちが「選ばれた」人間である理由が、なんとなくわかったような気になる。
「『こっちの世界』でマスターに会ったっていう報告をしてくれたのはきみが初めてだよ。しかも家が隣なんて……ねぇ」
かつて尚人先輩がマスターに会っている、ということを知らない吞気な彼女は、興味深そうな目で僕を見る。当の尚人先輩は、教室の後ろで黙ってほうきを動かしていた。
「どうだった?」
「どうだった……って」
「他に有力そうな情報はある? 見たこと、感じたこと、何でもいいよ。全部手がかりになるから」
「ああ……そうですね、」
突然僕の家の隣にできた、彼の家。そこはもともと水色の壁に白い屋根の、小洒落た洋風の一軒家だった。表札に書いてある名前はあまり思い出せないが――細田? 細葉? 長田みたいな名前の家族が住んでいた気がする。
あの家は僕の家の隣にあったが、学校もコンビニも反対側にあるので、あまりその前を通ることはなかった。しかし、さすがに誰でも気づくはずだ。自分の家の隣が、いつの間にか、「知らない家」になっていたら。
黒い男が中へと消えていった灰色の家。よく言えばモダン、悪く言えば不気味なくらい無機質な灰色の家は、「灰色の四角柱を作って、気まぐれに窓を取りつけておきましたよ」程度の造りで、現代風を通り越して未来風だった。おそらく二階建てなのだろうが、階の境目は曖昧だった。また、壁にべたっと貼りつけられたような黒色のドアが嫌に目立っている。一階と二階にぽつぽつとついている窓は暗幕に遮られ、内側の様子はまったく見えない。
庭の様子も、僕の記憶の中のものと変わっているように見えた。昔はもっと、前を通りかかる時には手入れされた草花が見えた気もする。が、昨日はそれらの気配がなく、中途半端な長さに伸びた雑草を見た僕は、この家がこの状態になってから「そこそこの時間が経っている」ことを直感した。
「工事の音とか、そういう気配はまったくありませんでした。なのに、いつの間にか『変わっていた』。何もかも、まるで『最初からそこにあった』ように、あったんです」
僕が説明を終えると、牧田先輩は神妙な面持ちで頷く。そして、口を開いた。
「それが、『世界の交差』によって行われる、『こっちの世界』の書き換えの結果。書き換えが行われると、存在しなかったものは最初から存在していたものとしてそこに現れ、最初から存在していた世界はその存在を受け入れる。そして、その存在ごと『最初から存在していた世界』として、世界の事実が書き換わる。……びっくりしたでしょ」
僕は頷く。「世界の交差」については尚人先輩から直接聞いたので、わかったつもりになっていた。しかし、実際に「書き換わった物」を見るのは初めてだったから本当に驚いた。尚人先輩との約束があるから、彼女にそこまでは言わないが。
「マスターは、僕が『向こう』で見たのとまったく姿をしていましたよ。全身真っ黒の服を着こんで、だらだら汗を掻いて。かなり暑そうでした」
「あの格好でうろついてたらそりゃあねぇ」
「あれ、会ったことあるんですか?」
僕の質問に、彼女は「もちろん」と答える。そうか、彼女はマスターと会ったことがないわけじゃないのか。
「それっていつのことなんですか?」
思わず質問すると、こてんと首を傾げた彼女はこともなげに言う。
「『初めて』は中三の時。早いでしょ?」
中三! 僕はこんなにもあっさりと、彼女が高校に入る前から「世界の交差」について関わっていることを話したので驚いてしまう。そういうのは秘密事項かと思っていたが、さほど重要なことではないのか? いや、でも。
あれこれ考えていると、正面に座った彼女が笑顔で両手をパン! と叩く。
「そのことについてはまた話すとして。とりあえずは、情報提供ありがとう。巴くんの情報は今後かなり重要になってくるはずだよ」
彼女は僕に向かって頭を下げた。その堂々とした風格はまさに組織のリーダーというか、長というか。しばらく首を垂れていた彼女は、ゆっくりと顔を上げて僕を見据える。
「それで、これからのことなのだけど、私たちはきみからの情報を元に『世界の交差』の調査を進めていきます。それが、私たちの活動内容だから」
淀みなく話す彼女がそこで一呼吸置く。そして深いブラウンの瞳で僕のことを見据えると、あくまでさらりと僕に問うた。
「きみはどうするの?」
僕はカップに口をつける。ぬるくなってきた麦茶は、乾いた口の中を湿らせることはできても、頭の中をすっきりさせるのにはいまひとつだった。
僕はまだ、選択に迷っていた。と言っても、僕の中の答えはほとんど決まっている。それは今日ここに来た時からそうだった。もっと言えば、僕がマスターに会った時からそうだ。
だけど、その一言を言うだけの勇気が、決断力がまだ足りない。だが、彼女が僕にとって都合のいいことを言ってくれるなんてお気楽に信じ込むこともできない。だって僕は、彼女たちとは違う。選ばれた存在じゃないんだ。ただ待っているだけじゃ選ばれない。でも……僕は自分の行動に、責任を取れるだろうか。
「……帰らせてあげたら」
教室の後ろから聞こえてきた小さな声に、僕も牧田先輩も振り返る。尚人先輩は、ほうきを動かしている。顔を上げることはなかった。自信がなさそうに、床を見つめたまま、かすれた声で言葉を紡ぐ。
「僕たちに遠慮してくれてるのなら、気にしないで。……大丈夫だよ。部員にならなくても。ここにはいつでも来てくれていいし、巴くんは僕たちの後輩だから……」
一体、何を言っているんだろう。
どこか的外れな発言にいらっとする。が、彼が顔を上げて視線がぶつかった時、僕は彼の言いたいことを理解した。
尚人先輩は僕に対して、「君が危険な目に遭うかもしれないから、関わらなくていいよ」って言ってくれてるんだ。自分自身が僕のことを危険な目に遭わせたからこそ、そんな状況に置かれて怯え、逃げ惑った僕の姿を見ているからこそ、「君ならわかってくれるだろう」「だから無理に入部する必要はない」って言いたいんだ。
こちらを窺うような、しかし強く訴えるような瞳を受け入れ、僕はしばし思考を止める。が、くるりと思考が回り始めた僕はなんだかおかしい気持ちになっていて、あれこれ考えるのが馬鹿らしくなった。僕は彼に対して微笑みを返すと、そのまま牧田先輩に向き直った。
「……僕、初めてここに来た時に、『入部します』って言いましたよね。そうしてテストを受けた。その時から僕は、もう、『ここ』に入るつもり満々だったんですよ」
口を衝いて出てくる言葉。それが本心なのか、それともハッタリなのかはわからないが、僕は話していて気持ちいい。口元に笑みが浮かんでしまうほどには。
「『向こう』で僕は『マスターの見ている世界の仕組みを暴いて、ぶっ壊してやる』って願いを言いました。それを言った時はちょっとおかしくなってて、気が動転していて……それもあって、現実に戻ってきた時に、どうすればいいかわからなかった。だから僕はあなたたちに導いてもらうのを待った。でも、今は違う」
尚人先輩と、そして牧田先輩の視線を感じながら、僕は喋り続ける。
「僕は、あいつの世界をぶっ壊す。自分の力で手がかりを、情報を見つけるとこができた今なら、できる気がします。と言うかここまで関わったのに今さら後戻りする気になんてなれない。だから……僕を、入部させてください。『世界の交差』の調査を、僕にもやらせてください」
僕は、彼女たちに向かって頭を下げる。さっき、彼女がしたみたいに、綺麗に。いや、同じようにはできていないかもしれないが、それでもよかった。僕が僕のことを納得できたら、それで。
彼女は何も言わなくて……だから、僕はゆっくりと顔を上げる。すると、僕は目の前に座った彼女が微笑みを浮かべていることに気づいた。満足そうに目を細める彼女のことを怖いと感じもしたが、なぜか、謎の愉快さの方が勝った。これがこの人の持ち味なんだ。
「入部届はいりません。もう『サインイン』しているからね。あとはその、きみの宣言だけでした」
彼女は椅子から立ち上がると、その右手を僕へと差し伸べた。
「ようこそ、『創作部』へ。きみの入部を受理しました」
僕もつられて席を立ち、その手を取る。彼女の手はあたたかくて……僕は、自分の手が冷えていたことに、今さら気づく。
僕は、こんな形で人と握手をするのは初めてだった。まるでニュースで流れてくる外交官になったようだ。僕は、僕の意思で彼女たちと「協定」を結んだんだ……と思うと達成感と誇らしさに満たされる。そして単純な僕は、その感覚に気持ちよく酔ってしまう。
馬鹿だな、またどうせぬか喜びなんだろうという思いもある。しかし、それでも僕はよかった。僕は選ばれるのを待つんじゃなくて、自分から選びに行った。勇気を出したんだ。
これですべての責任は全部僕持ちになってしまったが、それはそれでいい。すべて自分の責任で自分の道を選ぶということはつまり、僕は「自由」だということだ。僕には選ばれるだけの「運命」はなくても、代わりに自由を手にしている。
手を離した彼女は、歩いて教壇へ上がる。僕も教室の真ん中まで移動して、一番前の席へと腰かけた。彼女とは、正面から向き合いたかった。
「……やる気十分って感じだね」
教卓に手を突き、彼女は楽しそうにふふと笑う。
「はい」
僕はそれに微笑みで返す。しかし神経はピンと張り詰めていて、彼女の口からどんな言葉が出てきてもいいように、防御の体勢を取っていた。
この人は強い。特に、僕のペースを崩すことに関して。それはおそらく彼女が僕と似た人間で、しかも僕よりも長くひねくれ者――「厄介な人間」を演じているからだろう。
彼女が「そのようにして」笑う時、他のやつらがどう思うかは知らないが、僕は彼女に不快感を覚える。その微笑みはまるで成熟したつもりの大人のような、はたまた美術の教科書に載っている
僕の心に影が差す。卑しい人間を軽蔑するのも、それを相手に微笑みかけてやるというやり方で表現するのも、「僕」の特権なんだ。それなのに、彼女は同じことを「先輩」であることを振りかざして、まさにこの「僕」にやってのける。そのことが僕は腹立たしい。そうだ、確かに僕は彼女と協定を組むけど、決して、「仲間」になったわけじゃない。
僕は彼女を見据え、自分の勝利、そして彼女の敗北のために思考を巡らせる。前から考えていたのだが――僕が彼女と似ており、彼女が僕とよく似た思考で行動するのであれば――僕は、「彼女の思考の先取り」をすることもできるんじゃないだろうか。そして、それができたら――僕も、彼女のペースを掴み、打ち崩していくことが可能になるんじゃないか。
もし僕が彼女だったら、まずどの言葉を発するだろう。
僕や牧田先輩のような人間は、自分が物を言うときのシチュエーションや演出にこだわりたがる。それらは、まさにその説得力に直結するからだ。
言葉というものは、相手を自分のペースに乗せるための、ある種のパフォーマンスである――と僕は、そしておそらく彼女も認識している。言葉を武器とする僕たちは、その刃がちゃんと相手の急所を捉えるために、どんな角度で、どのような力でそれを突き立てるのが一番いいか、という研究を怠らない。それはその言葉の内容だけではなく、言葉遣い、声、態度、場の条件などそれぞれを吟味するということだ。
彼女がこのタイミングで教壇に移動したのは、おそらく、新入部員となった僕に、「世界の交差」について何かを語るためだけじゃない。
例えば、気持ちを切り替えたいだとか。あとは、教壇に立ったということは、自分を特別に、そして「先生」のように偉く見せたい……というふうに、演出上の効果を狙っているのかもしれない。そうだとすると、次に来る言葉は、彼女が「威力を持たせたいと思っている」言葉だ。つまり、重要な言葉。この場で彼女が主導権を握るために必要な、最も威力のある言葉が来るだろう。そのために、この場を、この静寂を、彼女自身が構築している。
僕は、細くて長い息を吐くと、丸椅子の上で足を組む。彼女のペースには、乗らない。乗ってやるもんか。
「……じゃあ、」
最初に沈黙を破ったのは、彼女だった。僕は身構える。僕には彼女のやりたいことがわかっている――彼女もきっと、僕を自分のペースに乗せたいんだ。
全神経を脳と耳に集中させた僕は、彼女の次の言葉を待つ。彼女はしばらく、何を考えているか読み取りづらい表情で僕の方を見ていた。が、この世のすべての空気抵抗やら摩擦やらを無視するような滑らかさで、彼女は「その言葉」を言った。
「後は、『任せる』ね」
「っ、」
僕が「?」マークを浮かべる前に、彼女はこちらに手を差し伸べて笑った。
は……?
僕は、僕に向かってまっすぐに伸ばされた手と、彼女の顔を交互に見る。教卓に片手を置いた彼女は不思議なくらい軽やかな笑みを浮かべており、そして、ぴたりと閉ざした唇を開くことはなさそうだった。「もう、伝えることはない」とでも言うように。
なんだ、それ? もう「終わり」ってこと……?
どう考えても変だ。この人が僕に対して、そんな非合理的な言動をするはずがない。
よく考えろ。この人が今僕に何を求めていて、何を期待しているのかを。それが絶対あるはずだ。彼女が、この「場」まで作り、「間」まで作り、こんなにももったいぶって発言した理由。「僕」ならばきっと、彼女の意図がわかるはずなんだ。
教卓からカタン、という音がして、僕の意識は引き戻される。彼女の顔を見たその時、依然として笑みを浮かべる彼女が、何か、唇を動かしているのが見えた。
すかさずその動きを目で追うと、彼女が声を出さずに、何か言葉を紡いでいるのがわかる。読唇術の心得がないというよりも、そもそも誰かと話をするときに相手の顔を見ていない僕は、ゆっくりと……嫌にゆっくりと感じられるのだが、その唇が何を言っているのか、ちっともわからない。
彼女はなんて言っている……? もし、この言葉が何か、とても重要な言葉だったらどうする……?
しばらくすると、彼女の唇は元通りの形に戻る。そして再び動くことはなさそうだった。
心臓がバクバクンと波打つのを感じる。頭の中が真っ白になり、背中に滲んだ生ぬるい汗が背中をたらりと垂れていくのを感じながら、ある一つの考えに囚われていた。僕は、「何かとんでもなく重要なことを聞き逃したんじゃないだろうか」?
「あの、」
耐えきれなくなって、僕は彼女に話しかける。彼女は「なあに」とでも言うように、人形のような、人工的な愛らしさでこてんと小首を傾げる。
「今、なんて言ったんですか」
「なんて言ったと思う?」
無害で「普通」な生徒の姿をしているくせに意地悪で性悪なこの女子生徒は、当たり前のように質問に質問で返す。いつもならそこにまた質問や皮肉をかぶせる僕だが、今はそんな余裕はなく、また何か彼女の策略に嵌っているような気がしながらも、こう聞かずにはいられない。
「……見当もつかないです。一文字もわからなかったので」
こんなの、敗北宣言じゃないか。そう思いつつ、絞り出すように僕は言う。それを聞いた彼女はきょとんとすると、うん、と一つ頷き、あっけらかんとした顔でこう言った。
「そうだろうね。だって、ただ昨日の晩ごはんを言っただけだもん。『ミートソーススパゲッティと生ハムサラダ』って」
……え?
「……、はあ……?」
「『何でそんなことを言うのか』って思ったでしょ」
頭の中が大混乱を起こし、まともな思考がスタートし切っていない僕に、彼女は即座に切り返す。「そうだ」とも「違う」とも、もっとその根源の思考すらも出てこないというのに、彼女は畳みかけてくる。
「『話の脈絡を無視している』、『発言と行動に一貫性がない』……って、そう思ってるね。きみは私の筋の通っていない言動に混乱してるんでしょ。そうじゃない?」
彼女はいとも簡単に僕の心を見透かす。いや違う、彼女が「僕がそうなるように」、僕の思考を誘導したのだ。つまり、僕はまたしても、まんまと「彼女のペースに乗せられている」。僕はとにかく頭の中で、「冷静になれ」と繰り返している。
「巴くんは頭がいいからね。周りの状況とか相手のタイプとか、材料があれば、自分の経験や思考を軸に、それなりに正しい答えを導き出せるの。例えば、『この人はこういう人で、今こういう状況にあって、こういうふうに考えてるだろうからこういう行動をするだろう』って。観察して、予想して、ある程度の仮説を立てて、それから自分の行動を決めるのね」
彼女は垂れてきた髪の毛を払う。僕は完全に、吞まれていた。
「だから、戸惑った。今までの状況から導き出される『予想』と、『結果』が一致しなかったから。それの大きなズレは、きみに動揺を与えるはずだよ。そして、もっと言えば、きみが私の口の動きを読めなかったのは、そういう動揺もあったからだろうけど、何よりきみが、私が言うであろう言葉――ここで語られるべき言葉を予想していたから」
彼女は唇だけで、「そうでしょ?」と言った。僕にはその動きがはっきりとわかってしまった。
「『語られるべき言葉』って、どうしてそれは『べき』なの?」
彼女は僕に問うた。僕は返答に詰まった。
「『べし』……は、古文では七つの用法があるよね。『スイカトメテヨ』――推量、意志、可能、当然、命令、適当、予定の七つ。一年生ならそろそろ覚えさせられるよ」
現役受験生の彼女はすらすらと言う。確かに夏休みの前に教わったやつだ。僕はまだ覚えていない。
「きみはおそらく、『べし』というときは『当然』の意味で使うでしょ。『ここではこうするのが当然だ』、『ここではこう語られるのが当たり前だ』って、そうやって、自分の地平で物を見て、それに当てはまる物を『当然』、合理的だとして受け入れて、そうでない物を受け入れない。それは、きみが『そうなること』を『願っている』からなんだよ。きみは、自分の周りの出来事が、自分の思っているとおりに動いていくことを『願っている』。きみは『当然』のこととしてすべての因果を客観的に描写しているつもりでも、『そうなってほしい』という主観や願いでしか物を見ていない。そして、その『願い』が叶った物についてはすんなりと受容し、そうでなかった物を受容することはできない。まさに、『ミートソーススパゲッティと生ハムサラダ』を聞き取ることができなかったようにね」
彼女の言葉は理解できそうでなかなか理解できない。この人が何を言おうとしているのか、わかりそうでわからなくて、僕は今、その「わからなさ」が怖かった。彼女の言葉はわかりやすい。明瞭だ。しかし、それを理解することができないということは、もしかして、今まさに、僕は「受容することができないでいる」……?
「何が言いたいんですか……?」
唇はぱさついてくっつき、喉の奥から出てくる声もかすれている。彼女は彼女の言葉を理解できていない僕のことを軽蔑しているのかもしれない。そんな疑念に苛まれながら見る彼女の顔は、笑っていた。ちっともその意図を読むことができない、ペラッペラの笑顔だった。
「きみは、きみの周りにあるあらゆるものに対して、『こうなってほしい』という願望を捨てられない。その思考のフィルターがきみの『世界』を狭めているのだとしたら、きみに『世界の交差』の謎を解くことはできない」
わん、と、彼女の声が脳内に響く。責めるのでも、怒るのでもない。優しい響きでもない。僕はそれを、ただ、一つの出来事として受け取っていた。
僕は、「世界」は自分というフィルターを通して、「自分の世界」としてしか見ることができないということを知っている。その上で、そこが安全で、自分にとって必要な物と大切な物で満たされてさえいればそれでいい。この目に映り、感じたものを自分なりに工夫して組み合わせて、僕だけが理解し納得することができる僕だけの法則を作ることができたら――そうやってこの世界を「なんとなく」やっていけたら、それでいいと思っている。
僕がそうなんだから、他のやつらだってそうなんだろう。っていうか、人はそういうふうにしてしか物を見ることはできないし、それは悲しむことでもどうにかしないといけないことでもなくて、「当たり前」のことだ。だから、そのことを他人にとやかく言われる筋合いはないし、言われたって、そんな不都合な物は「世界」の外に追放してやればいい。
それが「選ぶ」ということだ。僕はそのようにして、「僕の世界」を作ってきた。取捨選択を繰り返すことで後に残った、「僕にとって必要だと思った物の結晶」が、「僕の世界」であり、「僕」自身だ。
僕はそのことに満足し、それを正しく理解している自分のことを誇りに思ってきた。けど、急に恐ろしくなった。僕は今までに、どれほどの「見逃し」を、「聞き逃し」をしてきた? 僕のフィルターに弾かれたその中に、僕にとってものすごく重要なことが紛れてなかったか? 僕はそれを、取り返しのつかない場所へ投げ捨ててしまったんじゃないのか?
僕の視界はぐらぐらとした。今まで他人に何と言われたってちっとも心を動かされることがなかった僕が、自分の考えを疑っている。自分の考えを信じて、ただひたすら貫き通すことで僕は「僕」として存在し、僕だけの世界の王様として君臨し続けていた。だからこそ、僕次第でどうにでもなる世界が、僕が僕自身を疑ってしまうことで、本当にどうにかなってしまう。
「自分の価値観が変わる」。――それは、今までそれを信じてきた自分の価値観を、そうして生きてきた人生を、「僕」を、否定するっていうことだ。僕は、彼女に「僕」を否定されている? いや、僕が、「僕」自身の正しさを、疑ってしまっている……?
バチン、と頭の中で、スイッチが切り替わる音がした。
そうだ、別にそんな言葉、信じることはない。
僕は、「正しく」生きていきたいわけじゃない。僕が、「僕」であるために、生きていけたら――他のやつらとは違う、僕だけの「正しさ」を信じて生きて、「僕」の中で整合性が取れていればそれでいいんだ。だって、「これが僕です」「これが僕の生き方であり生き様です」って言える方がかっこいいだろ。それに、たとえそれが他人から間違ってるって、あるいは損してるって言われたって、そんなの知ったこっちゃないし。僕にとっては他人なんて至極どうでもいいし、他人にとっては僕なんて、それこそどうでもいいんだ。
自分以外の人間なんてすべて他人で無関係で、今後一生その発言に責任を取る気もないやつの言葉なんか無意味で無駄、無関係で、引っ掻き回されるやつの方が馬鹿だ。っていうか、他人の生き方に口出しするやつなんて、よっぽどの暇人か自己中なんだよ。自分の目に映る物が全部自分の信じる「正義」に基づいていないと気に食わない、わがままで傍迷惑な独裁者だ。そんなやつらの方が迷惑だし悪だ。この世の理をわかっていない、愚かな馬鹿どもなんだ。
僕のひねくれ者の部分は今日も正常に暴れ回る。高速で「それらしい」言葉を並べ立て、僕のやわらかで頼りない部分を完全に覆ってしまうと、満足げに笑みを浮かべる。すう、と深く息を吸う音に、自分が平静になっていくのを感じた。僕はそれを、できるだけ、ゆっくりと吐いていく。
そうだ、これが「僕」だった。
「……どうしてそれだと、『世界の交差』の謎が解けないんですか」
僕は彼女に質問をする。窓から差し込む西日は強く、それに照らされた彼女の顔は、眩し過ぎてよく見えなかった。
「『世界の交差』の性質上、としか言えないな」
「どういう性質なんですか? 『自由にしていい』と言われましたけど、何も知らない状態で調査するよりも、少しは知ってる方が効率的でしょ。今、あなたたちがわかってるところまででいいんで、僕に教えてもらえませんか」
僕が言い切ると、彼女は一つ、よくわからない息を吐いた。そして、黒板の方を向くと、真っ白のチョークを手に取る。もう、彼女の顔は見えなかった。
「……きみは、最初から『それ』を聞きたかったんじゃない?」
そう言う彼女の声は乾いていた。静かにチョークを滑らせる彼女は、黒板の上に、大きな円を出現させる。僕は、それが「世界」の形だと直感した。
「私が口パクした時も、きっと、きみは、『それ』を聞きたかった――『それ』を教えてもらえるって、期待してたんじゃない?」
僕は聞かない。僕にとって「どうでもいいこと」は、一切。
「きみが今、やっと訊いてくれたから私は答えるけれど、次からはもっと早く訊いてね。私は訊かれたことについてしか喋らないよ。そうじゃないと――」
黒板に書かれた二つの円。彼女は、その広い隙間を、指の骨でコンと叩いた。
「『世界の交差』の調査は務まらない」
◇
――黒の世界。
僕はまた、重力のない空間に漂っている。
目をつむっていても開いていても、真っ暗な世界。頭のてっぺんから足先までのすべての力を抜き、僕はそれを暗闇に預ける。やはりそれは死の感覚に似ている――だなんて、僕は一度も死んだこともないくせに思う。でも、これはきっと僕が死ぬ時にもう一度味わうであろう感覚だ。
今回、僕に目的があることを除いては、ほとんどが以前と同じだった。そのことが僕を安心させる。一度見た世界は安心だ。それは、僕の世界になったからだと思う。
僕は自分の思考に集中するために、たいして景色が変わるわけでもないが瞼を閉じる。すると、心なしか暗闇が濃くなった気がする。
……「死にたいと願うこと」と「生きたいと願うこと」は、僕たちが生きていく上でとても無駄な行為だ。
だって、そんなことをしたって僕たちの寿命はちっとも変わらない。人間、死ぬときは死ぬし、死ぬまではしょうがなしに生き続ける。自殺でもしないかぎり、僕たちが自分の生をコントロールすることはできない。「止まれ」と願ったって、拍動は止まらない。そういうふうにプログラムされて、僕たちはなぜか、生きることを強いられている。
そういう意味では、僕たちの世界では、願うことも祈ることもたいして意味をなさない。
願いも祈りもただの言葉だ。それはただの文字の羅列と音声であって、何を強く思おうが、言おうが、何を変える力もない。でも――。
――貴方のその願う力を、想像力を、マスターは必要としているのです――
「……マスターに、会いたい」
そう呟いて瞼を開くと、上空からキラキラと、何本もの白い糸が垂れてきた。
それらのうちの一本を適当に選んでつまむ。すると、つまんだところがパチンと音を立てて弾けた。そして連鎖するように、隣り合ったところ、絡み合ったところからパチパチパチンと弾けて広がっていくと、とてつもなく大きな光の爆発となって、僕の体を包んだ。
見る見るうちに、世界を白く塗り替えていく光。なぜか今回は、眩しいはずなのに目を開けていることができて、僕はその様子を冷静に見つめている。ぐんぐんと変わっていく景色に目を奪われていたせいか、いつの間にか重力がなくなっていることには気づけなかった。
無際限だった空間に、壁が、天井が。白くて大きなタイルのようなものが黒い空間を埋めていくようにバーッと高速で並んでいき、僕の足元からドミノ倒しのように色を変えていく。真っ白で硬質なタイルのようなものによって形づくられる空間はとうとう体育館ほどの広さになり、カチン、パチンと最後のピースが埋められると、完全に閉じられた直方体の箱となった。
「鏡味巴様」
僕が後ろを向くと、数メートルほど離れた所に例のメイド――ゼロが立っていた。彼女はその場で恭しくお辞儀をする。
「お久しぶりでございます」
空気を震わせるのではなく、直接心の中に届くような声。僕はローファーの底をキュッと鳴らして体の向きを変えると、彼女と向き合った。
「や。ねえ、さっそくだけどマスターに会わせてくれない? 今どこにいるの?」
「申し訳ございませんが、マスターへの直接面会はできません。本日は私が承ります」
「『マスターには原則、一度しか会えないから』?」
「左様でございます」
ゼロは顔色一つ変えずに返事をする。
僕は少しだけ気落ちしたが、まあ、想定内のことだ。牧田先輩の言ったとおり、僕は『世界の交差点』で、しばらくマスターに会えないらしい。
「マスターに確実に会えるのは、初めて『世界の交差』を起こした時だけ。サインインを済ませた人はその場で、自分の『願い』を実現させるために、『あっちの世界』のうちどんな世界に行きたいか、そこでどのような容姿となり、どのような特殊な力を持ちたいかをマスターに申告して、変えてもらうことができるの。要は、その人の行きたい世界と、そこで動かす『アバター』を決定するんだ」
アバター。自分の現身になる存在。最近のゲームで流行っているやつだ。
「ただし、ゲームとは違って、『あっち』と『こっち』には相関関係がある。流れている時間こそ違うけれど、『こっち』の肉体と『あっち』の肉体はリンクしているから、どちらか片方の世界で体調不良になったり怪我をしたりしないようにね。もしかしたら、もう片方の世界の肉体に、何らかの影響が出る可能性があるから」
はい、尚人先輩から、よーく伺っております。なんて、口には出さないけどね。
「一つ気になるんですけど、『あっちの世界』って、いろんな種類があるんですか?」
手を挙げて質問をする僕に、彼女は頷いて答える。そして彼女は黒板に書いた二つの円の片側、「あっち」の世界の円の中に、チョークで小さな円を増やしていく。
「いろいろあるよ。ファンタジーの世界、アクションの世界、絵本の世界、限りなく『こっち』に近い日常の世界……なんて、本当にいろいろ。願えば、まだまだ他の世界にも行けるみたいだしね。そういえば、巴くんはどこの世界に行ってきたの?」
「いや……それが、」
「世界の交差点」には行ったがその先には行っていないこと、それは、「世界の交差点」でマスターと口喧嘩(?)したからだということを彼女に伝えると、彼女は説明の途中で吹き出し、声を上げて笑い始めた。
「口喧嘩……って! あっはっは、初めて聞いたよ、そんなの!」
「だからたぶん、僕はアバターの変更も『世界』の選択もしてないです。これ、次行ったらどうなるんですかね」
「そうだね、もしかしたらその移行手続きのために、もう一度マスターが出てくるかもしれないよね。でも、わざわざそのために、巴くんの前に現れてくれるのかな……くっ」
笑いを嚙み殺して話す牧田先輩を見ていると、なぜだか僕の方が居心地悪くなる。何がそんなに面白いんだろう……と考えていると、そういえば彼女はマスターのことをそんなによく思っていなかったはずだ、と思い当たる。前、僕が彼女に対して、彼女とマスターが似ているといったことを伝えた時、彼女は機嫌が悪くなったんだっけ。
と、不意に、「世界の交差点」でゼロに言われた言葉を思い出す。
「――『また、ここに来ることができるように『願って』ください。貴方のその『願う力』を、『想像力』を、マスターは必要としているのです』――」
「ゼロちゃんに会ったの?」
けらけらと笑っていた牧田先輩が急に笑うのをやめ、真面目な顔になる。驚きに見開かれた目にどきりとして、僕は目を逸らした。
「はあ、まあ、マスターが暴走しちゃったんで」
「……いい傾向だね」
彼女はニッと笑う。何か企んでいる顔だ、っていうのはすぐにわかった。僕もだいぶこの人のことがわかってきた。っていうか、この人もゼロを知っているのか。
「かなりの低確率だけど、きみはマスターに会えるかもしれない。そうでなくても、もう二度と『世界の交差』を起こせないなんてことはないだろうから安心していいよ」
彼女はそう言うと、黒板消しを持って、自分で書いた文字を消し始める。黒板に書かれた白い図形は、当たり前のようにするすると消えていった。
その言葉の、直感の、どこに根拠があるのだろう。彼女は根拠を述べなかったが、その声には不思議な説得力があり、僕は信じてみたくなった。それに、信じないと話が進まなさそうだし。
じゃあそろそろ、と僕が立ち上がろうとすると、彼女は「巴くん」と僕を呼んだ。まだ話したいことがあるのだろうかと見ると、しばらく黙って僕を見ていた彼女はにこっと微笑み、穏やかな声でこう言った。
「これは、きみに与えられた『運命』なのかもしれないね」
僕は、彼女のその言葉を胸に、ここにやってきた。残念ながらマスターには会えなかったが、前回訪れた時とは異なる様相を呈しているということ自体が、僕や「世界の交差」の調査にとって重要なことであるように思えた。
「あのさ、ここも『世界の交差点』なわけ? 前に来た時とはちょっと雰囲気が違うみたいだけれど」
僕が質問をすると、ゼロは無機質な声で返答をする。
「左様でございます。ここも同じく、『世界の交差点』でございます。以前と見た目が異なることに関しましては『仕様です』としかお答えできませんが、貴方の願いを叶えるための各種変更手続きは、今回はマスターの代わりに、私が承ります」
「それなんだけどさ、」
僕はずっと気になっていたことを聞くことにした。
「君は僕に、二つの強い願いがあるって言ったよね。サインインする時に持っていた最初の願いと、マスターの世界をぶっ壊してやるっていう、二つ目の願い。最初の願いが何だったのかってのももちろん気になるんだけど、それよりも気になるのは、『マスターを否定したい』っていう願いを、マスターの従者である君が、本当に叶えてくれるかってことなんだよね。マスターは君の主人なんだろ? 僕の願いを叶えることは、君がマスターを裏切ることになるんじゃないの?」
「いいえ、それは違います。私がマスターから仰せつかっているのは、『ここに来た人の願いを叶えるために、実現できることは最大限実現させること』、それ以上でもそれ以下でもございません。願いの内容がどうであれ、私はマスターの命令通りに行為するだけ。それが、私がマスターに忠誠を尽くす、ということなのでございます」
彼女は相変わらず表情を変えない。穏やかで、静かな真白の瞳。その瞳に見つめられると本当にすべてを見透かされているような心地がする。が、マスターとは異なり彼女に心を見透かされることに不快感は生じない。むしろ、何か欠けていたものが僕自身の中に戻ってきたかのような、言いようのない安堵を覚えてしまう。
しばらく僕は彼女の瞳に魅入られていたが、ここに来た理由と自分の目的を思い出し、一つ咳払いをする。
「わかったよ。つまり君は、従者としての贔屓なしに、僕の願いを叶えてくれるんだね」
「左様でございます」
「その結果、いくらマスターが困ることになろうとも?」
「左様でございます」
「それじゃ、君が欲しい」
「え?」
そこで彼女は初めて、驚いた顔をした。丸い目をもっと丸くし、ぱちりと音が出そうな瞬きをする。その表情は、動揺だろうか、困惑だろうか。そこまではわからないが、彼女から彼女のペースを奪うことに成功した僕は、そのまま彼女に歩み寄っていく。
「マスターは容姿だとか能力だとかを僕の思い通りに変えてくれるらしいけどさ、そんなのどうだっていいよ。行きたい『世界』だってそうだ。だって『世界』がいくら欠けていようがガラクタだろうが、僕の見方と考え方次第でどうとだってなるんだもの」
そうだ、だから僕は強い。僕が「僕」であるために必要なことを、するべきことを、知っているから。そうして、僕は僕だけが納得できる「僕」として、ここまで生きてきたんだから。
「ただ、もしも願いを叶えるために必要な物を一つくれるって言うんなら、君みたいな相棒が欲しいね」
僕は彼女の目の前に立つ。彼女は小柄な僕とちょうど同じくらいの背丈をしていて、向き合うと同じ高さで視線がぶつかる。
「君みたいに従順で聡明な人はそういないよ。僕は初めて君を見た時からそう思っている。そして同時に、そんな賢い君がマスターみたいに幼稚なやつに仕えているっていうのがもったいないと思ったんだ。君もそう思わないかい?」
様子を窺うと、彼女は自分の主人を否定されたことに反論する様子を一切見せずに、黙ってこちらを見つめていた。その瞳から彼女の考えていることを読み解こうと思ったが、そこには何も感情が映っていない。予想に反してそれほど手応えがなかったことにうろたえつつも、僕はそのまま、彼女の白い瞳に無理やり言葉を流し込んでいくことにする。
「君みたいな人の力が僕には必要だ。なんてったって、僕はその『世界』がどんな所なのか知らないんだもの。ねえ、案内してよ。そして、僕の願いを叶える『ヒント』をちょうだい。考えるのは自分でやるからさ。――ね、君は僕の願いを叶えてくれるんでしょ?」
「左様で、ございます……」
「じゃ、僕と一緒に来てよ」
そう言うと、僕は彼女の手を取る。さながら、悪役に捕らえられたお姫様を迎えに来た騎士みたいじゃないか? ちゃんちゃらおかしいけど。でも、このくらいしないと、彼女の心が動くとは思えない。
と、その時。僕の体はぶるりと震えた。
「……?」
彼女――ゼロの手。真っ白で華奢なその手を取った瞬間、僕は、その手があまりにも冷たいことを知る。
氷のような、いや、冷気の結晶のようなその手のひらは、触れたところから体が凍っていくような冷たさだった。
なんだこれ……? それに、何か、嫌な感じがする――。
「――貴方の望みを叶えましょう」
彼女が言葉を放ったその時、太陽が投げ込まれたかのように、真白のタイルで囲まれた空間が光に満ちた。今度は目をつむらざるを得ない。網膜を焼き切るような強い光に、僕は思わず彼女の手を放した。
触れていた手が離れる瞬間、僕は直感する。僕はもう、ここから出ていかなければならない。そして、しばらくは呼ばれないだろうと。
「本当に、来るの……?」
腕で目を庇いながら言う。激しい光の中でも、聞こえてくる彼女の声は落ち着いていた。彼女の姿を見ることはできないが、見えない彼女は、その小さな頭を横に振った気がした。
「そのことについてなのですが、私は、あくまでマスターの従者です。それだけは変えることができません」
目の前にいるのかいないかもわからない彼女の声が、直接耳に届く。そして、再び手を伸ばしてみようかと思ったけど――できなかった。どうしてだろう、僕はもう、彼女に触れることはできない――そんな気がした。
「じゃあ……」
「申し訳ございませんが、私は貴方を主人とすることはできません。……ただ、貴方が望むものを与えましょう。そして、貴方が貴方の願いを叶えるための『ヒント』になるものを、その身に宿しましょう」
その声が聞こえた瞬間、僕は謎の風圧に吹き飛ばされた。体が宙に浮き、先ほどまでとは違う方向からの引力に、強く、強く引っ張られる。
ものすごい勢いで引っ張られながら、僕は目を開ける。真っ黒の世界。長いトンネルの中を高速で通過していく感覚。もうゼロはいない。僕は引力の根元に右手を伸ばした。右手が、肩が、僕の体がぐんぐんと風を切って進んでいく。自分がどこにいるのか、どこに向かっているのかもわからなかったが、不思議と、不安や恐れはなかった。
――きっと僕は、「僕の望んだ場所」に向かっているんだ。
僕は目を閉じると、伸ばしていた右手を自分の腹の上に置く。もう、何も考えないことにした。きっと、あとは全部、「何か」が僕を導いてくれる――。
◇
――チュンチュンと、小鳥のさえずる声が聞こえている。大きなガラス窓からは陽の光が差し込み、部屋の全体を明るく照らしていた。
壁も、床も、戸棚も何もかもが白い、小さな部屋。気がつけば、僕は背もたれの大きな椅子に腰かけて、ただぼうっとしていたらしい。
少し体を動かすと、落ち着いた色味の木製の椅子がキイとちいさな音を立てる。隣にある、同じ木製のテーブルの上にはジャム瓶が置かれており、線のように細い葉っぱの束みたいな植物が、ちょこんと生けられている。名前はわからないが漂ってくる香りはスッとしていい香りだ。
椅子から立ち上がり、大きく伸びをする。どのくらいの間、座っていたのだろう。というか、いつからここにいたのだろう。
凝っていた体をほぐしながら、ふと足元に目をやると、床に落ちているたくさんの白い本に気づいた。ページが閉じているもの、開いているものなどいろいろあったが、それらの置かれている隙間に、ガラス戸へと獣道のような道が延びている。
僕がその道を通ると、スリッパがぱか、ぱかと鳴る。導かれるようにガラス戸に近づいた僕は、気がつけば、指がその鍵を探していた。
ぱちんという音とともにガラス戸を引くと、あたたかな空気が漏れ出して僕の体を包む。その時初めて、室内が少し冷えていたことに気がついた。
――透明なガラス戸の向こうは、春だった。
春風が、優しく僕の頬を撫でる。テラスの木の匂いだろうか、それとも植えられている草花の匂いだろうか。どこか甘くさい匂いについ口元がゆるんでしまう。
うっかりスキップでもしてしまいそうな足取りでテラスの端まで来て、木製の手すりに両腕を置いてみる。庭の様子を観察すると、花を咲かしている植物、花をつけない植物……花をつけないものの方が多いようだが、葉の形や色、つき方、植物の生え方がそれぞれ違っているからか、見ていて全然飽きなかった。
何の植物だろう、わかる植物はあるだろうかと目だけで探していると、自分のすぐ目の前に植わっている植物が、目が覚めた時にテーブルに飾られていた植物と同じかもしれないと思った。葉っぱの形が独特だから、きっと同じなんだと思う。ただ、目の前の植物はジャム瓶に生けてあったものよりも全体として大きく、茂みのようにこんもりとしていた。また、その房のような枝の先には薄青色の小さな花がついていた。
「それはローズマリーですよ」
突然、背後から聞こえた人の声。バッ! と振り返ると、ガラス戸の奥から、「誰か」が出てくるところだった。誰だ、と考える暇もなく、僕はその人の姿に目が釘付けになる。
その人の容姿といったら。
「ハーブティーを淹れました。よかったら召し上がりませんか。景色でも見ながら」
桜色の髪の毛。透明な瞳。眼球に覆いかぶさるような、たっぷりとした睫毛。真っ白なエプロンの腰紐と一つに結った後ろ髪をあたたかな春風にたなびかせながら、「そいつ」は僕の前に現れた。
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