3話:光の世界(②)






「――それで、来てくれたってわけね」


 牧田先輩はグラスを傾けると、残っていた麦茶をぐいっと飲み干し、そう言った。


 創作部部室は相変わらず快適だった。しばらく顔を出していなかったにもかかわらず、牧田先輩も尚人先輩も変わらぬ態度で迎えてくれた。


 いや、少しは違ったかもしれない。僕がめずらしく必死の形相(少なくとも、僕にとっては)で飛び込んできたものだから、驚かせてしまった気がしなくもない。


 それでも平然としていつもの対応をしてくれるところが、なんというか、「非凡」のプロである。彼女たちが「選ばれた」人間である理由が、なんとなくわかったような気になる。




「『こっちの世界』でマスターに会ったっていう報告をしてくれたのはきみが初めてだよ。しかも家が隣なんて……ねぇ」


 かつて尚人先輩はマスターに会っている、ということを知らない呑気な彼女は、興味深そうに僕を見る。当の尚人先輩は、教室の後ろで黙ってほうきを動かしていた。


「どうだった?」


「どうだった……って」


「他に有力そうな情報はある? 見たこと、感じたこと、なんでもいいよ。全部手掛かりになるから」


「ああ……そうですね、」


 突然僕の家の隣にできた、彼の家。そこは元々水色の壁に白い屋根の、小洒落た洋風の一軒家だった。表札に書いてある名前はあまり思い出せないが――細田? 細葉? 長田? なんかそういう感じの名前の家族が住んでいた気がする。


 あの家は僕の家の隣に位置していたが、学校もコンビニも反対側にあるので、あまりその前を通ることはなかった。しかし、さすがに誰でも気付くはずだ。自分の家の隣が、いつの間にか、「知らない家」になっていたら。




 黒い男が中へと消えていった灰色の家。よく言えばモダン、悪く言えば不気味なくらい無機質な灰色の家は、「灰色の四角柱を作って、気まぐれに窓をつけておきましたよ」程度の造りで、現代風を通り越して未来風だった。おそらく二階建てなんだろうが、境目が曖昧で、壁の中央からずれたところの黒いドアが嫌に目立つ。一階と二階にぽつぽつとついている窓は暗幕に遮られ、内側の様子はまったく見えない。


 庭の様子も、僕の記憶の中のものと変わっているように見えた。昔はもっとこう、通りがかった時に、手入れされた草花が見えた気もする。が、昨日見た時にはそんなものはどこにもなくて、中途半端な長さに伸びた雑草を見た僕は、この家がこの状態になってから、「そこそこの時間が経っている」ことを直感した。




「――工事の音とか、そういう気配はまったくありませんでした。なのに、いつの間にか『変わっていた』。何もかも、まるで『最初からそこにあった』ように、あったんです」


 僕が説明を終えると、牧田先輩は神妙な面持ちで頷く。そして、口を開いた。


「それが、『世界の交差』によって行われる、『こっちの世界』の書き換えの結果。書き換えが行われると、『あったらいいと思われたこと』が本当に『あったこと』になるの。存在しなかったものの側から言えば『最初からそれが存在していた世界』、存在した側から言えば『最初からそれが存在していなかった世界』に書き換わるってことね。……びっくりしたでしょ」


 僕は頷く。「世界の交差」については尚人先輩から直接聞いたので、わかったつもりになっていた。しかし、実際に「書き換わったもの」を見るのは初めてだったから、本当に驚いた。もちろん、彼女にそこまでは言えない。彼女には、尚人先輩がマスターと関わっていることを伝えられない。尚人先輩自身がそう、マスターに制限されている。


「マスターは、僕が『向こう』で見たのと全く同じでした。全身真っ黒の服着て汗をかいて、暑そうでしたよ」


「あの格好でうろついてたらそりゃあねぇ」


「あれ、会ったことあるんですか?」


 僕の質問に、彼女は「もちろん」と答える。そうか、会ったことがないわけじゃないのか。それはそうかもしれない。


「それっていつのことなんですか?」


 思わず彼女に質問をすると、こてんと首をかしげた彼女は、僕の目を見てこともなげに言う。


「『初めて』は中三の時。早いでしょ?」


 中三! 僕は、こんなにもあっさりと、彼女が高校に入る前から「世界の交差」について係わっていることを話したので驚いてしまう。そういうのは秘密事項かと思っていたが、さほど重要なことではないのか? いや、でも。


 あれこれ考えていると、正面に座った彼女が笑顔で、両手をパン! と叩く。


「そのことについてはまた話すとして。とりあえずは、情報提供ありがとう。巴くんのくれた情報はかなり重要になるとはずだよ」


 彼女は丁寧にその頭を下げた。その姿はまさに組織のリーダーだったというか、「長おさ」らしいというか。堂々とした態度で僕に礼を言った彼女は、しばらくすると顔を上げる。


「それで、これからのことについてなのだけど、私たちはきみからの情報を元に調査を進めていきます。そういう活動をするのが私たちの役割だから」


 淀みなく話す彼女は、そこで一呼吸置く。そして、濃いブラウンの瞳で僕を捉えると、あくまでさらりと僕に問うた。


「きみはどうするの?」


 僕はごまかすようにカップに口をつける。ぬるくなってきた麦茶は、乾いた口の中を湿らせることは出来ても、頭の中をすっきりさせるのには今一つだった。




 僕はまだ、選択に迷っていた。といっても、僕の中でほとんど答えは決まっている。それは、今日ここに来た時から。もっと言えば、僕がマスターに会った時から。


 だけど、その一言を言う勇気が、決断力がまだ足りない。だが、彼女が僕にとって都合のいいことを言ってくれるのを待つ、なんてのもできない。だって僕は、彼女たちとは違う。選ばれた存在じゃない。このままじゃ選ばれない。誰かに選ばれない限り、脇役は脇役のままで、変わらない。でも……、僕は自分の行動に、責任を取れるだろうか。




「……帰らせてあげたら」


 教室の後ろから聞こえてきた小さな声に、僕も牧田先輩も思わず振り返る。尚人先輩はほうきを動かしている。顔を上げることはなかった。自信がなさそうに、床を見つめたまま、かすれた声で言葉を紡ぐ。


「僕たちに遠慮してくれてるのなら、気にしないで。……大丈夫だよ。部に入ってくれなくてもいつでも来てくれていいし、巴くんは僕たちの後輩だから……」


 一体、何を言っているんだろう。


 彼の、どこか的のずれた発言に、僕は一瞬イラッした。が、彼が顔を上げ、互いの視線がぶつかったとき、僕は瞬時に彼の言いたいことを理解する。


 尚人先輩は僕に対して、「君が危険な目に遭うかもしれないから、関わらなくていいよ」って言ってるんだ。自分が危険な目に遭わせたからこそ、怯え、逃げまどった僕を見ているからこそ、「わかるだろう」って、そう言いたいんだ。


 こちらを伺うような、しかし強く訴えるような瞳を受け容れながら、僕はしばし思考を止める。が、それがくるりと回り始めたとき、僕は、なぜか可笑しい気持ちになっていた。あれこれ考えるのが唐突にめんどくさくなった僕は、彼に向かって少し微笑みかけてやると、そのまま牧田先輩に向き直る。


「……僕、初めてここに来た時に、『入部します』って言いましたよね。そうしてテストを受けた。その時から僕は、もう、『ここ』に入るつもり満々だったんですよ」


 口を突いて出てくる言葉。それが本心なのか、それともハッタリなのかはわからないが、僕は話していて気持ちいい。口元に笑みが浮かんでしまうほどには。


「『向こう』に行ったとき、僕は『マスターの世界の仕組みを暴いて、ぶち壊してやる』って願いを言いました。その時はちょっとおかしくなってて、たぶん気が動転していて……こっちに戻ってきたときには、『じゃあどうすればいいんだ?』っていう気持ちと、非現実感っていうか、そういう気持ちがあって……。だから、僕がこの部で何かを成し遂げる、イメージがついてませんでした。だけど、今は違う」


 尚人先輩と、そして牧田先輩の視線を感じながら、僕は喋り続ける。


「僕は、あいつの世界をぶっ壊す。今なら、できる気がします。ここまで係わったのに今さら後戻りする気になんてなれない。だから、……僕を、入部させてください。『世界の交差』の調査を、僕にもやらせてください」


 僕は、彼女たちに向かって頭を下げる。さっき、彼女がしたみたいに、綺麗に。いや、同じようにはできていないかもしれないが、それでもよかった。僕が僕のことを納得できたら、それで。


 彼女から何の反応もないことを確かめると、僕はおもむろに顔を上げる。と、僕は、目の前に座った彼女が微笑みを浮かべていることに気付く。満足そうに目を細める彼女を僕は怖いと感じもしたが、なぜか、謎の愉快さの方が勝まさった。そうだ、これがこの人の持ち味だ。


「入部届はいりません。もう『サインイン』しているからね。あとはその、きみの言葉だけでした」


 彼女は椅子から立ち上がると、その右手を僕へと差し伸べた。




「ようこそ、『創作部』へ。きみの入部を受理しました」




 同じように席を立った僕は、おずおずと、その手を取る。彼女の手はあたたかくて、……僕は、自分の手が冷えていたことに、今さら気付く。


 僕は、こんな形で人と握手をするのは初めてだった。まるで、ニュースでたまに映像が流れる外交官たちのような。僕は、僕の意思で彼女たちとの「協定」を結んだんだ……という達成感と誇らしさに満たされ、単純な僕は、その感覚に気持ちよく酔ってしまう。


 馬鹿だな、またどうせぬか喜びなんだろうという思いもある。しかし、それでも僕はよかったんだ。僕は選ばれるのを待つんじゃなくて、自分から選びに行った。勇気を出したんだ。


 これですべての責任は全部僕持ちになってしまったが、それはそれでいい。すべて自分の責任で自分の道を選んでいくということはつまり、僕は「自由」だということだ。選ばれる側ではなくて、選ぶ側なのだから。選ぶ側になることを、「僕が選んだ」のだから!




 手を離した彼女は、歩いて教壇へ上がる。僕も教室の真ん中まで移動して、一番前の席へと腰かけた。彼女とは、正面から向き合いたかった。


「やる気十分って感じだね」


 教卓に手をついて話す彼女は、楽しそうにふふと笑っている。


「はい」


 それに微笑みで返すと、僕は彼女の次の言葉を待つ。そして、心の準備をする。どんな言葉が来てもいいように。




 この人は強い。特に、僕のペースを崩すことに関して。


 それはたぶん、彼女が僕と似た人間で、しかも、僕よりも長いことひねくれものをしているからだろう。彼女は僕よりもずっと熟練の、いわば、「厄介な人間」だ。


 彼女がその顔に笑みを湛えるとき、他の人がどう思うかは知らないが、僕は不快でたまらなくなる。その微笑みは、まるで成熟した大人のような、はたまた、美術の教科書に載っている聖母像のような――「慈悲深い」笑みだ。その笑みを、例えば僕がするときは、自分よりも愚かで矮小な人間と対峙し、「しょうがなしに」、そいつを「赦してやる」とき。「あんたは愚かな人間だなあ」と嘲ってやりたいとき。きっとそれは彼女も同じで――同じだと分かっているからこそ、彼女は時おり僕に、そのようなまなざしで僕を見る。


 卑しい人間を軽蔑するのも、それを相手に微笑みかけてやるというやり方で表現するのも、「僕」の特権なんだ。それなのに、彼女は同じことを、「先輩」の顔をして、まさにこの「僕」にやってのける。そのことが僕は腹立たしくて仕方ない。手のひらに爪を突き立ててしまうくらいには。


 しかし、僕が彼女と似ており、彼女が僕とよく似た思考で行動するというのなら――僕は、「彼女の思考の先取り」をすることもできるんじゃないだろうか。そして、それが出来たら――僕も、彼女のペースを掴み、打ち崩していくことが可能になるんじゃないか。




 もし僕が彼女だったら、まずどの言葉を発するだろう。




 僕や牧田先輩のような人間は、自分がものを言うときのシチュエーションや演出にこだわりたがる。それらは、まさにその説得力に直結するからだ。


 言葉というものは、相手を自分のペースに乗せるための、ある種のパフォーマンスである――と、僕は、そしておそらく彼女も、共通で認識している。言葉を武器とする僕たちは、その刃がちゃんと相手の急所を捉えるために、どんな角度で、どのような力でそれを突き立てるのが一番いいか、という研究を怠らない。それはその言葉の内容だけではなく、言葉遣い、声、態度、場の条件などそれぞれを吟味するということだ。




 彼女がこのタイミングで教壇に移動したのは、おそらく、新入部員となった僕に、「世界の交差」について何かを語るためだけじゃない。


 例えば、気持ちを切り替えたいだとか。あとは、教壇に立ったということは、自分を特別に、そして「先生」のように偉く見せたいといったような、演出上の効果を狙っているのかもしれない。そうだとすると、次に来る言葉は、彼女が「威力を持たせたいと思っている」言葉だ。つまり、重要な言葉。この場で彼女が主導権を握るために必要な、最も威力のある言葉が来るだろう。そのために、この場を、この静寂を、彼女自身が構築している。


 僕は、細くて長い息を吐くと、丸椅子の上で足を組む。彼女のペースには、乗らない。乗ってやるもんか。




「……じゃあ、」




 最初に沈黙を破ったのは、彼女だった。僕は身構える。僕には彼女のやりたいことがわかっている――彼女もきっと、僕を自分のペースに乗せたいんだ。


 全神経を脳と耳に集中させた僕は、彼女の次の言葉を待つ。彼女はしばらく、何を考えているか読み取りづらい表情で僕の方を見ていた。が、この世のすべての空気抵抗やら摩擦やらを無視するような滑らかさで、彼女は「その言葉」を言った。




「あとは、『任せる』ね」




 そして、彼女はその手をこちらに差し伸べる。


「ここからは、巴くんの好きなように調べてくれていいから。だから、あとは『ご自由に』」




 は……?




 僕は、僕に向かってまっすぐに伸ばされた手と、彼女の顔を交互に見る。教卓にもう片方の手をついた彼女は不思議なくらい軽やかな笑みを浮かべており、そして、ぴたりと閉ざした唇を開くことはなさそうだった。「もう、伝えることはない」とでも言うように。




 なんだ、それ? っていうか、「ご自由に」も何もない。


 どう考えても変だ。この人が僕に対して、そんな非合理的な言動をするはずがない。よく考えろ。この人が今僕に何を求めていて、何を期待しているのかを。それが絶対あるはずだ。彼女が、この「場」まで作り、「間」まで作り、こんなにももったいぶって発言した理由。「僕」ならばきっと、彼女の意図がわかるはずなんだ。




 教卓からカタン、という音がして、僕の意識は引き戻される。彼女の顔を見たその時、依然として笑みを浮かべる彼女が、何か、唇を動かしているのが見えた。


 すかさずその動きを目で追うと、彼女が声を出さずに、何か言葉を紡いでいるのがわかる。読唇術の心得がないというよりも、そもそも誰かと話をするとき相手の顔を見ていない僕は、ゆっくりと、……いやにゆっくりと感じられるのだが、その唇が何を言っているのか、見当もつかなかった。


彼女はなんて言っている……? もし、この言葉が何か、とても重要な言葉だったらどうする……?


 しばらくすると、彼女の唇は元通りの形に戻る。そして、もう、動くことはなさそうだった。


心臓がバクバクンと波打つのを感じる。頭の中が真っ白になり、背中に滲んだ生ぬるい汗が背中をたらりと垂れていくのを感じながら、ある一つの考えに囚われていた。僕は、「何かとんでもなく重要なことを聞き逃したんじゃないだろうか」。


「あの、」


 耐えきれなくなって、僕は彼女に話しかける。彼女は「なあに」とでも言うように、人形にんぎょうのような、人工的な愛らしさでこてんと小首を傾げる。


「今、なんて言ったんですか」


「なんて言ったと思う?」


 無害で「普通」な生徒の姿をしているくせに意地悪で性悪なこの女子生徒は、当たり前のように質問に質問で返す。いつもならそこにまた質問や皮肉を被せる僕だが、今はそんな余裕はなく、また何か彼女の策略に嵌っているような気がしながらも、こう聞かずにはいられない。


「……見当もつかないです。一文字もわからなかったので」


 こんなの、敗北宣言じゃないか。そう思いつつ、絞り出すように僕は言う。それを聞いた彼女はきょとんとすると、うん、と一つ頷き、あっけらかんとした顔でこう言った。




「そうだろうね。だって、ただ昨日の晩ごはんを言っただけだもん。『ミートソーススパゲッティと生ハムサラダ』って」




 ……え?




「……、はあ……?」


「『なんでそんなことを言うのか』って思ったでしょ」


 頭の中が大混乱を起こし、まともな思考がスタートしきっていない僕に、彼女は即座に切り返す。「そうだ」とも「違う」とも、もっとその根源の思考すらも出てこないというのに、彼女は畳みかけてくる。


「『話の脈絡を無視している』、『発言と行動に一貫性がない』……って、そう思ってるね。きみは私の筋の通っていない言動に混乱してるんでしょ。そうじゃない?」


 彼女はいとも簡単に僕の心を見透かす。いや違う、彼女が「僕がそうなるように」、僕の思考を誘導したのだ。つまり、僕はまたしても、まんまと「彼女のペースに乗せられている」。僕はとにかく頭の中で、「冷静になれ」と繰り返している。


「巴くんは頭がいいからね。周りの状況とか相手のタイプとか、材料があれば、自分の経験や思考を軸に、それなりに正しい答えを導き出せるの。例えば、『この人はこういう人で、今こういう状況にあって、こういう風に考えてるだろうからこういう行動をするだろう』って。観察して、予想して、ある程度の仮説を立てて、それから自分の行動を決めるのね」


 彼女は垂れてきた髪の毛を払う。僕は完全に、呑まれていた。


「だから、戸惑った。今までの状況から導き出される『予想』と、『結果』が一致しなかったから。それの大きなズレは、きみに動揺を与えるはずだよ。そして、もっと言えば、きみが私の口の動きが読めなかったのは、そういう動揺もあったからだろうけど、何よりきみが、私が言うであろう言葉――ここで語られるべき言葉を予想していたから」


 彼女は唇だけで、「そうでしょ?」と言った。僕にはその動きがはっきりとわかってしまった。


「『語られるべき言葉』って、どうしてそれは『べき』なの?」


 彼女は僕に問うた。僕は返答につまった。


「『べし』……は、古文では七つの用法がある。『スイカトメテヨ』――推量、意志、可能、当然、命令、適当、予定の七つ。一年生ならそろそろ覚えさせられるよ」


 現役受験生の彼女はすらすらと言う。夏休みの前に教わったやつだ。僕はまだ覚えていない。


「きみはおそらく、『べし』というときは当然の意味で使うでしょ。『ここではこうするのが当然だ』、『ここではこう語られるのが当たり前だ』って、そうやって、自分の地平でものを見て、それに当てはまるものを『当然』、合理的だとして受け入れて、そうでないものを受け入れない。それは、きみが『そうなること』を『願っている』からなんだよ。きみは、自分の周りの出来事が、自分の思っている通りに動いていくことを『願っている』。きみは『当然』として、全てのものの動きの理由を外側から説明しているように見えて、『そうなってほしい』という主観でものを見ている。そして、その『願い』が叶ったものについてはすんなりと受容し、そうでなかったものを受容することはできない。まさに、『ミートソーススパゲッティと生ハムサラダ』を聞き取ることができなかったようにね」


 彼女の言葉は理解できそうでなかなか理解できない。この人が何を言おうとしているのか、わかりそうでわからなくて、僕は今、ただ、その「わからなさ」が怖かった。彼女の言葉はわかりやすい。明瞭だ。しかし、それを理解することができないということは、もしかして、今まさに、僕は「受容することができないでいる」……?


「何が言いたいんですか……?」


 唇はパサつき、乾いた喉の奥から出てくる声もかすれている。彼女は彼女の言葉を理解できていない僕のことを、軽蔑しているのかもしれない。そんな疑念に苛まれながら見る彼女の顔は、笑っていた。ちっともその意図をとることができない、ぺらっぺらの笑顔だった。




「きみは、いろんなものに対して『こうなってほしい』って思ってる。そのフィルターが、きみの『世界』を狭めているとしたら、きみに『世界の交差』の謎を解くことはできない」




 わん、と、彼女の声が、脳内に響く。責めるのでも、怒るのでもない。優しい響きでもない。僕はそれを、ただ、一つの出来事として受け取っていた。




 僕は、「世界」は自分というフィルターを通して、「自分の世界」としてしか見ることができないということを知っている。


 僕は自分のいるところが安全で、そこが自分にとって必要なものと大切なもので満たされてさえいれば、それでいい。この目に映り、感じたものを自分なりに工夫して組み合わせて、僕だけの、僕だけが理解し納得することができる法則をつくることができたら――それでこの世を、「なんとなく」でやっていけたら、それでいいんだ。


 「僕」がそうなんだ。それならほかの人たちもみんなそうだ。っていうか、人はそういう風にしてしかものを見ることはできないし、それは悲しむことでもどうにかしないといけないことでもなくて、「当たり前」のことだ。だから、そのことを他人にとやかく言われる筋合いはないし、言われたって、そんな不都合なものは「世界」の外に追放してやればいい。


 それが「選ぶ」ということだ。僕はそのようにして、「僕の世界」をつくってきた。取捨選択をくり返すことで後に残った、僕にとって必要だと思ったものの結晶が、「僕の世界」であり、「僕」自身だ。


 僕はそのことに満足し、むしろ誇りに思って生きてきた。だけど、急に、恐ろしくなった。僕は今までに、どれほどの「見逃し」を、「聞き逃し」をしてきた? 僕のフィルターに弾かれたそれの中に、僕にとってものすごく重要なことが紛れてなかったか? 僕はそれを、取り返しのつかない場所へ投げ捨ててしまったんじゃないのか?


 僕の視界はぐらぐらとした。今まで他人に何と言われたってちっとも心を動かされることがなかった僕が、自分の考えを疑っている。自分の考えを信じて、ただひたすら貫き通すことで、僕は「僕」として存在し、僕だけの世界の王様として、君臨し続けていた。だからこそ、僕次第でどうにでもなる世界が、僕が僕自身を疑ってしまうことで、本当にどうにかなってしまう。


 「自分の価値観が変わる」。――それは、今までそれを信じてきた自分の価値観を、そうして生きてきた人生を、「僕」を、否定するっていうことだ。僕は、彼女に「僕」を否定されている? いや、僕が、「僕」自身の正しさを、疑ってしまっている……?




 バチン、と頭の中で、スイッチが切り替わる音がした。




 そうだ、別にそんな言葉、信じることはない。


 僕は、「正しく」生きていきたいわけじゃない。僕が、「僕」であるために、生きていけたら――他のやつらとは違う、僕だけの「正しさ」を信じて生きて、「僕」の中で整合性が取れていたらそれが一番いいんだ。だって、「これが僕の生き方です」って言える方がかっこいい。それに、たとえそれが間違ってるって、他人から損してるって言われたって、そんなの知ったこっちゃないし。僕にとっちゃ他人なんて至極どうでもいいし、他人にとっちゃ僕なんて、それこそどうでもいいんだろ。


 自分以外の人間なんてすべて他人で無関係で、今後一生その発言に責任を取る気もないやつの言葉なんか無意味で無駄、無関係で、引っ掻き回されるやつの方が馬鹿だ。っていうか、他人の生き方に口出しするやつなんて、よっぽどの暇人か自己中なんだよ。自分の目に映るものが全部自分の信じる「正義」に基づいていないと気にくわない、わがままで傍迷惑な独裁者だ。そんなやつらの方が迷惑で悪だ。この世の理をわかっていない、愚かな馬鹿共なんだ。


 僕のひねくれものの部分は今日も正常に暴れまわる。高速で「それらしい」言葉を並べ立て、僕のやわらかで頼りない部分を完全に覆ってしまうと、満足げに笑みを浮かべる。すう、と深く息を吸う音に、自分が平静になっていくのを感じた。僕はそれを、できるだけ、ゆっくりと吐いていく。




 そうだ、これが「僕」だった。




「……どうして『世界の交差』の謎が解けないんですか」


 僕は彼女に質問をする。窓から差し込む夕陽は強く、それに照らされた彼女の顔は、眩しすぎてよく見えなかった。


「『世界の交差』の性質上、としか言えないな」


「どういう性質なんですか?『自由にしていい』と言われましたけど、何も知らない状態で調査するよりも、少しは知ってる方が効率的でしょ。今、あなたたちがわかってるところまででいいんで、僕に教えてもらえませんか」


 僕が言い切ると、彼女は一つ、よくわからない息を吐いた。そして、黒板の方を向くと、真っ白のチョークを手に取る。もう、彼女の顔は見えなかった。


「……きみは、最初から『それ』を聞きたかったんじゃない?」


 そう言う彼女の声は乾いていた。静かにチョークを滑らせる彼女は、黒板の上に、大きな円を出現させる。僕は、それが「世界」の形だと直感した。


「私が口パクした時も、きっと、きみは、『それ』を聞きたかった――『それ』を教えてもらえるって、期待してたんじゃない?」


 僕は聞かない。僕にとって「どうでもいいこと」は、一切。


「私が今、やっと聞いてくれたから私は答えるけれど、次からはもっと早く聞いてね。私は聞かれたことについてしか喋らないよ。そうじゃないと――」


 黒板に書かれた二つの円。彼女は、その広い隙間を、指の骨でコンと叩いた。


「『世界の交差』の調査は務まらない」













 ――黒の世界。


 僕はまた、重力のない空間に漂っている。


 目を瞑っていても開いていても、真っ暗な世界。頭のてっぺんから足の先までのすべての力を抜き、僕はそれを暗闇に預ける。やはりそれは死の感覚に似ている――だなんて、僕は、一度も死んだこともないくせに思う。でも、おそらく、これは死の感覚だ。


 今回、僕には目的があることを除いては、ほとんどが以前と同じだった。そのことが僕を安心させる。一度見た世界は安心だ。それは、いったん僕の世界になったからだと思う。


 僕は自分の思考に集中するために、たいして景色が変わるわけでもないが、目蓋を閉じる。すると、心なしか、暗闇が濃くなった気がする。




 「死にたいと願うこと」と「生きたいと願うこと」は、僕たちが生きていく上でとても無駄な行為だ。


 だって、そんなことをしたところで、僕たちの寿命はちっとも変わらない。人間、死ぬときは死ぬし、死ぬまではしょうがなしに生き続ける。自殺でもしないかぎり、僕たちが自分の生をコントロールすることはできない。「止まれ」と願ったって、拍動は止まらない。そういう風にプログラムされて、僕たちはなぜか、生きることを強いられている。


 そういう意味では、僕たちの生きる世界では、願うことも、祈ることも、たいして意味を成さない。


願いも祈りもただの言葉だ。それはただの文字の羅列と音声であって、何を強く思おうが、言おうが、何を変える力もない。でも――。




――貴方のその願う力を、想像力を、マスターは必要としているのです――




「――マスターに、会いたい」


 そう呟いて目蓋を開くと、上空からキラキラと、何本もの白い糸が垂れてきた。


 それらのうちの一本を適当に選んでつまむ。すると、つまんだところがパチンと音を立てて弾けた。そして連鎖するように、隣り合ったところ、絡み合ったところからパチパチパチンと弾けて広がっていくと、とてつもなく大きな光の爆発となって、僕の身体を包んだ。




 見る見るうちに、世界を白く塗り替えていく光。なぜか今回は、眩しいはずなのに目を開けていることができて、僕はその様子を冷静に見つめている。ぐんぐんと変わっていく景色に目をとられていたせいか、いつの間にか重力が無くなっていることには気付かなかったが。


 無際限だった空間に、壁が、天井が。白くて大きなタイルのようなものが黒い空間を埋めていくように、バーッと高速で並んでいき、僕の足元からドミノ倒しのように色を変えていく。硬質なタイルによって形作られていく空間はとうとう体育館ほどの広さになり、カチン、パチンと最後のピースが埋まってしまうと、完全な直方体の空間を作り出した。




「鏡味巴様」




 僕が後ろを振り向くと、五メートルほど離れたところに例のメイド――ゼロが立っていた。彼女はその場で恭しくお辞儀をする。


「お久しぶりでございます」


 空気を震わせるのではなく、直接心の中に届くような声。僕は体の向きを変えると、彼女と向き合った。


「や。ねえ、早速だけどマスターに会わせてくれない? 今どこにいるの?」


「申し訳ございませんが、マスターへの直接面会はできません。本日は私が承ります」


「『マスターには原則、一度しか会えないから』?」


「左様でございます」


 ゼロは顔色一つ変えずに返事をする。


 僕は少しだけ気抜けしたが、でも、想定内のことだった。


 牧田先輩の言う通り、僕はもう、しばらくマスターに会えないらしい。






「マスターに確実に会えるのは、初めて『世界の交差』を起こしたその時だけ。その時に、自分の『願い』を実現させるために、『あっちの世界』の中のどの世界に行きたいのか、どのような容姿、どのような能力を持ちたいのかをマスターに申告して、変えてもらう。要は、そこで『あっちの世界』のステージと、そこでの『アバター』を選ぶの」


 アバター。自分の現身うつしみになる存在。最近のゲームとかでよくあるやつだ。


「ただし、ゲームとは違って、『あっち』と『こっち』には相関関係がある。流れている時間がまったく同じ……ってことはないんだけど、『こっち』から精神を移行して『あっち』に行く時、『あっち』の肉体と『こっち』の肉体は別々だけどリンクしているから、片方で体調不良になったり怪我をしたりしてしまうと、何らかの影響が出る可能性があるんだ。気をつけてね」


 はい、尚人先輩から、よーく伺っております。なんて、口には出さないけどね。


「一つ気になるんですけど、『あっちの世界』って、いろんな種類があるんですか?」


 手を挙げて質問した僕に、彼女は黒板に書かれた二つの円の片側の中に、小さい円を何個か増やしていく。


「いろいろあるよ。ファンタジーの世界、アクションの世界、絵本の世界、限りなく『こっち』に近い日常の世界……なんて、本当にいろいろ。願えば、まだまだ他の世界にも行けるみたいだしね。そういえば、巴くんはどこの世界に行ってきたの?」


「いや……それが、」


 僕は彼女に、「世界の交差点」には行ったがその先には行っていないこと、それは、「世界の交差点」でマスターと口喧嘩(?)したからだということを伝えた。すると、牧田先輩は説明の途中で吹き出し、声を上げて笑い始めた。


「口喧嘩……って! あっはっは、初めて聞いたよ、そんなの!」


「だからたぶん、僕はアバターの変更も『世界』の選択もしてないです。これ、次行ったらどうなるんですかね」


「そうだね、もしかしたらその移行手続きのために、もう一度マスターが出てくるかもしれないよね。でも、わざわざそのために、巴くんの前に現れてくれるのかな……くっ」


 笑いを噛み殺して話す牧田先輩を見ていると、何故だか僕の方が居心地悪くなる。何がそんなに面白いんだろう……と考えていると、そういえば彼女はマスターのことをそんなに良く思っていなかったはずだ、と思い当たる。前、僕が彼女に対して、彼女とマスターが似ているといった旨のことを伝えたとき、彼女は機嫌が悪くなったんだっけ。


 と、不意に、僕は「世界の交差点」でゼロに言われた言葉を思い出していた。


「――『また、願ってください。ここに来ることができるように、そして、何か貴方の本来の願いを持って』」


「ゼロちゃんに会ったの?」


 けらけらと笑っていた牧田先輩は、笑うのをピタリとやめ、急に真面目な顔になる。驚きに見開かれた目で見つめられた僕は、どきりとして思わず目をそらす。


「はあ、まあ、マスターが暴走しちゃったんで」


「……いい傾向ね」


 彼女はニッと笑う。何か企んでいる顔だ、っていうのはすぐにわかった。僕もだいぶこの人のことがわかってきた気がする。っていうか、この人もゼロを知っているのか。


「いいわ、かなりの低確率だけど、きみはマスターに会えるかもしれない。そうでなくても、もう二度と『世界の交差』を起こせないなんてことはないだろうから安心していいよ」


 彼女はそう言うと、黒板消しを持って、自分で書いた文字を消し始める。黒板に書かれた白い図形は、当たり前のようにするすると消えていった。


 その言葉の、直感の、どこに根拠があるのだろう。彼女はそれを言わなかったが、その声には不思議な説得力があり、僕は信じてみたくなった。っていうか、信じないと話は始まらないと思ったし。




 じゃあそろそろ、と僕が立ち上がろうとすると、彼女は「巴くん」と僕を呼ぶ。まだ話したいことがあるのだろうか、と彼女を見ると、しばらく黙って僕を見ていた彼女は、にこっと微笑み、穏やかな声でこう言った。


「――これは、きみに与えられた『運命』なのかもしれないね」






 僕は、彼女のその言葉を胸に、ここにやってきた。残念ながらマスターには会えなかったが、前回とは違う様相を呈するこの場所は、今後、何か重要な意味を持つ場所であるように感じられた。


「あのさ、ここも『世界の交差点』なわけ? 前来た時とはちょっと雰囲気が違うみたいだけれど」


 僕が質問をすると、ゼロは自動人形オートマタのように返事をする。


「左様でございます。ここも同じく、『世界の交差点』でございます。以前と見た目が異なることに関しましては『仕様です』としかお答えできませんが、貴方の願いを叶えるための各種変更手続きは、今回はマスターの代わりに、私が承ります」


「それなんだけどさ、」


 僕はずっと気になっていたことを聞くことにした。


「君は僕に、二つの強い願いがあるって言ったよね。サインインするときに持っていた最初の願いと、マスターの世界をぶち壊してやるっていう、二つ目の願い。最初の願いが何だったのかってのももちろん気になるんだけど、それよりも気になるのは、『マスターを否定したい』っていう願いを、マスターの従者である君が、本当に叶えてくれるかってことなんだよね。マスターは君の主人なんだろ? 僕の願いを叶えることは、君がマスターを裏切ることになるんじゃないの?」


「いいえ、それは違います。私がマスターから仰せつかっているのは、『ここに来た人の願いを叶えるために、実現できることは最大限実現させること』、それ以上でもそれ以下でもございません。願いの内容がどうであれ、私はマスターの命令通りの行為をするだけ。それが、私がマスターに忠誠を尽くす、ということなのでございます」


 彼女は相変わらず表情を変えない。穏やかで、静かな真白の瞳。その瞳に見つめられると、本当にすべてを見透かされているような気がするが、マスターと違い、見透かされているということにまったく不快感が生じない。むしろ「何か、欠けていたものが僕の中に戻ってきた」……みたいな、不思議な安堵と充足感が胸に満ちていく感覚だ。


 僕はしばらくその瞳と見つめ合っていたが、ふと、ここに来た理由と自分の目的を思い出すと、一つ咳払いをして、彼女に話しかける。


「わかったよ。つまりきみは、従者としての贔屓目なしに、僕の願いを叶えてくれるんだね」


「左様でございます」


「その結果、いくらマスターが困ることになろうとも?」


「左様でございます」


「それじゃ、きみが欲しい」


「え?」


 そこで彼女は初めて、驚いた顔をした。丸い目をもっと丸くし、ぱちりと音が出そうな瞬きをする。その表情は、動揺だろうか、困惑だろうか。そこまではわからないが、彼女から彼女のペースを奪うことに成功した僕は、そのまま彼女に歩み寄っていく。


「マスターは容姿だとか能力だとかをこっちの思い通りに変えてくれるらしいけどさ、そんなのどうだっていいよ。『世界』とかもそうだ。だっていくらそれらが欠けていようがガラクタだろうが、そんなの僕の見方と考え方次第でどうとでもなる」


 そうだ、だから僕は強い。僕が「僕」であるために必要なことを、するべきことを、知っているから。そうして、僕は僕だけが納得できる「僕」として、ここまで生きてきたんだから。


「ただ、もしも願いを叶えるために必要なものを一つくれるっていうんなら、君みたいな相棒が欲しいね」


 僕は彼女の目の前に立つ。彼女と僕は同じくらいの背丈で、向かい合わせになると、ちょうど目線がぶつかるのだ。


「君みたいに従順で聡明な人はそういないよ。僕は、初めて君を知った時からそう思ってる。そして同時に、君がマスターみたいに幼稚なやつに仕えているっていうのがもったいないと思ったんだ。君もそうは思わないかい?」


 彼女の様子を窺うと、彼女は自分の主人を否定されたことに反論するでもなく、ただ黙ってこちらを見つめていた。その瞳から彼女の考えていることを読み解こうと思ったが、そこには何も感情が映っていない。予想に反してそれほど手応えがなかったことに若干うろたえつつも、僕はそのまま、彼女の白い瞳に無理やり言葉を流し込んでいくことにする。


「君みたいな人の力が僕には必要だ。なんてったって、僕はその『世界』がどんなところなのか知らないんだもの。ねえ、案内してよ。そして、僕の願いを叶える『ヒント』をちょうだい。考えるのは自分でやるからさ。――ね、きみは僕の願いを叶えてくれるんでしょ?」


「左様で、ございます……」


「じゃ、僕と一緒に来てよ」


 そう言うと、僕は彼女の手を取る。さながら、悪役に捕らえられたお姫様を迎えに来た騎士みたいじゃないか? ちゃんちゃらおかしいけど。でも、このくらいしないと、彼女の心が動くとは思えない。


 と、その時。僕の体はぶるりと震えた。


「……?」


 彼女――ゼロの手。真っ白で華奢なその手を取った瞬間、僕は、その手があまりにも冷たいことを知る。


 氷のような、いや、冷気の結晶のようなその手のひらは、触れたところから体が凍っていくような冷たさだった。


 なんだこれ……? それに、何か、嫌な感じがする――。




「――貴方の望みを叶えましょう」




 彼女が言葉を放ったその時、太陽が投げ込まれたように、真白のタイルで囲まれた空間が光に満ちた。今度は目を瞑らざるを得ない。強い、強い光。僕は思わず彼女の手を放した。


 と、触れていた手が離れて行く瞬間、僕は直感する。僕はもう、ここから出ていかなければならない。そしてもう、ここに来ることはほぼないだろうと。


「本当に、来るの……?」


 網膜を焼き切りそうな光から、腕で目を庇いながら言う。激しい光の中でも、聞こえてくる彼女の声は落ち着いていた。彼女の姿を見ることはできないが、見えない彼女は、その小さな頭を横に振った気がした。


「そのことについてなのですが、私は、あくまでマスターの従者です。それだけは変えることができません」


 目の前にいるのかいないかもわからない彼女の声が、直接耳に届く。そして、再び手を伸ばしてみようかと思ったけど――できなかった。どうしてだろう、僕はもう、彼女にふれることはできない――そんな気がした。


「じゃあ……」


「申し訳ございませんが、私は貴方を主人とすることはできません。……ただ、貴方が望むものを与えましょう。そして、貴方が貴方の願いを叶えるための『ヒント』になるものを、その身に宿しましょう」




 その声が聞こえた瞬間、僕は謎の風圧に吹き飛ばされた。身体が宙を浮き、先ほどまでとは違う方向からの引力に、強く、強く引っ張られる。


 ものすごい勢いで引っ張られながら、僕は目を開ける。真っ黒の世界。長いトンネルの中を高速で通過していく感覚。もうゼロはいない。僕は引力の根元に右手を伸ばした。右手が、肩が、僕の身体がぐんぐんと風を切って進んでいく。自分がどこにいるのか、どこに向かっているのかもわからなかったが、不思議と、不安や恐れはなかった。




 きっと僕は、「僕の望んだ場所」に向かっているんだ。




 僕は目を閉じると、伸ばしていた右手を自分の腹の上に置く。もう、何も考えないことにした。きっと、あとは全部、「何か」が僕を導いてくれる――。













 ――チュンチュンと、小鳥のさえずる声が聞こえている。大きなガラス窓からは陽の光が差し込み、部屋の全体を明るく照らしていた。


 壁も、床も、戸棚も何もかもが白い、小さな部屋。気がつけば、僕は背もたれの大きな椅子に腰かけて、ただぼおっとしていたらしい。


 少し体を動かすと、落ち着いた色味の木製の椅子が、キイとちいさな音を立てる。隣に置いてある、同じ木製のテーブルの上にはジャム瓶が置かれており、無数の線のような不思議な葉をつけた植物がちょこんと活けられている。名前はわからないが、漂ってくる香りはスッとしていい香りだ。


 椅子から立ち上がり、大きく伸びをする。どのくらいの間、座っていたのだろう。というか、いつからここにいたのだろう。


 凝っていた体をほぐしながら、ふと足元に目をやると、床に落ちているたくさんの白い本に気付いた。閉じているもの、ページが開いているものなどいろいろあったが、それらの置かれている隙間に、ガラス戸へと延びる獣道のようなものが出来ている。


 僕がその道を通ると、スリッパがぱか、ぱかと鳴る。導かれるようにガラス戸に近付いた僕は、気がつけば、指がその鍵を探していた。


 ぱちん。


 ガラス戸を引くと、暖かな空気が漏れ出し、僕の体を包む。その時初めて、室内が少し冷えていたことに気がついた。




 透明なガラス戸の向こうは、春だった。




 まばゆい光、透き通るような青空。目の前に広がるのは、濃いブラウンを基調とした、木製のテラス。その奥には、鮮やかな緑が広がっており、僕にはそれが庭園だと分かった。スリッパを脱ぎ、置いてあったローファーを適当につっかけると、春の空気へと溶けだしていく。


 春風が、やさしく僕の頬を撫でる。テラスの木の匂いだろうか、それとも植えられている草花の匂いだろうか。鼻腔をくすぐる香りに、僕の口元は自然とほころぶ。


 うっかりスキップでもしてしまいそうな足取りでテラスの端まで来ると、手すりの向こうには、カントリー調の庭が広がっていた。木製の手すりに腕を置いて眺めてみると、花をつける植物、花をつけない植物……。花をつけないものの方が多くて緑の面積の方がはるかに広いが、葉の形や色、つき方、植物の生え方がそれぞれ違って、見ていて全然飽きなかった。


 何の植物だろう、わかる植物はあるだろうかと思って見ていると、自分のすぐ目の前に植わっている植物が、先ほどテーブルの上に置いてあったものと同じなんじゃないかなと思った。葉っぱの形が独特だから、多分、同じなんだと思う。ただ、目の前の植物はジャム瓶に活けてあったものよりも大きく、そして、その房のような枝の先には、薄紫色の小さな花がついていた。




「それはローズマリーですよ」




 突然、背後から聞こえた人の声。バッ! と振り返ると、ガラス戸の奥から、「誰か」が出てくるところだった。誰だ、と考える暇もなく、僕はその人の姿に目が釘付けになる。




 その人の容姿といったら。




「ハーブティーを淹れました。よかったら召し上がりませんか。景色でも見ながら」


 桜色の髪の毛。透明な瞳。眼球に覆いかぶさるような、たっぷりとした睫毛。真っ白なエプロンの腰ひもと一つに結った後ろ髪をあたたかな春風にたなびかせながら、「そいつ」は僕の前に現れた。






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