3話:光の世界(①)

 3・光の世界




 名目上は自由参加なのに、実態はほぼ全員参加の七月の夏期補習も中盤に差しかかると、授業に出るメンバーもほとんど固定化されてくる。

 結局、僕も初回からずっと出席し続けているし、何が夏休みだよって感じがする。一回出席をしてしまうと、次の授業の予習範囲を言い渡されたり、数学なんかは「次の授業が始まる前に、ここの解答を板書しておいてください」という指示まで出されたりする。こうなってくるとクラスメートたちも僕も、これは通常授業だと割り切って出席せざるを得ないわけで、僕たちはそのように、終業式を終えた校舎に来続けてはつまらない勉強を積み重ねている。

 ただ、いくらつまらないとは言っても勉強は勉強で、しかも、教師が言うことには今の範囲は二学期からの授業の先取り範囲らしく、夏期補習に出席していないと場合によっては授業についていけなくなるらしい。塾とかに行っているやつらはいいのかもしれないが、僕はそういうのには行っていないので、しょうがなしに、念のため来ることにしている。

 僕は基本的に、あらゆる場面において、凡庸で判断力のないやつらと同じ部類に分類されるのはまっぴらごめんだと思っている。が、多少「変なやつ」になれるからといって、他のやつらがほぼ出席している授業をわざと欠席するなんてことは絶対にしない。

 先生がよく言うアレじゃないけど、やっぱり勉強ができないと、人としての価値は下がると思う。それは、「勉強」自体に価値がある――勉強ができればできるほどその人の価値が上がる――というよりかは、与えられた課題をこなしたり、望まれた一定のレベルに自分を保つことができたりする、ということに価値があるのだと思う。僕らは義務教育時代から今に至るまでずっとこの能力を磨かされ続けている。ということはつまり、それらの訓練が社会にとって「価値」がある……と、そういうことなのだろう。

 そのような、社会の押しつけや均一化から生まれる「普通」だとか「当たり前」だとかの曖昧な価値観が蔓延り、自分の意思でものも考えない阿呆どもの「善」や「正義」になっているという実態に、僕はいつもうんざりしている。が、「普通」という共通認識によって価値観の共有がなされているこの世の中においては、そのような「当たり前」をこなすことができない人間には、価値がない。人権がない。発言権がない……ということと同義だ、と僕は感じている。

 僕の生きる世界においては、「当たり前」のことを「当たり前」にこなせる人間が「善」だ。なぜなら実際、「当たり前」のことを「当たり前」にこなすことは難しいから。

 善なる人間は善であるが故にそこに存在することを認められ、発言権を与えられる。人はそこに存在することを許されたいから、発言権が欲しいから、自分が「普通」でいられるよう努力する。その努力の成果がわかりやすく表れ、他人から見て評価をしやすい一例が僕たち高校生にとっては勉強であるわけで、僕たちはある程度の勉強ができれば親や教師からチクチク文句を言われることもないし、他の生徒に変な目で見られることもない。

 多少クズで性格や思想の随所に欠陥がある僕のような人間でも「当たり前」程度の勉強をこなせるが故に野放しになってしまうんだから、この世の中って大丈夫なんだろうかと思う。っていうかこれは持論だけど、勉強ができるやつは大概頭がおかしい。頭がおかしい、あるいは中身がクズであっても世間的には人権を保障されているから自分がおかしいことに気づけないままその辺にのさばっている。イカれてる、それにしょうもない。世の中も狂っているしそんな世の中を作っているのがイカれ野郎ばかりなのも気色悪い。

 そもそも「善い人間」って何なんだろう。そんなもの存在するのだろうか。もし存在したとして、ちゃんと、僕らのような愚かで醜い人間を「善」なる方へ導いてくれるのだろうか……というところまで考え、僕は胸の内で阿呆か、と思った。善人だって暇じゃない。きっとそいつもそいつで自分の世界を生きている。他人の生き様なんてどうでもいいし、クズどもに割く時間なんてないに決まってる。

 僕は手元の数学の教科書をぺらぺらとめくりながら、二次関数とやらの解説を聞き流している。高校に入って最初に勉強した因数分解は結構なんとなくで理解できたし、パズルみたいで面白いから好きだった。だけど、二次関数はどうもわかりづらい……と、十字に突き刺さったUの字を眺めながら思う。中学で一次関数を勉強した時はまさか、関数というものにこんなにいろんな種類があるとは思わなかった――と言うと、噓になるけれど。だって、わざわざご丁寧に、「一次」って書いてあるもんね。そりゃ「二次」も「三次」もあるわけだ、それはそうだ……と言い聞かせながら、まだ見ぬ三次関数のグラフの形を想像して、意気消沈する。一から二になっただけでこんなぐんにゃり曲がってしまうんだから、三次になったらどうなってしまうのかな。もっとぐにゃぐにゃになるのかな、円とか書き始めるのかな……さすがに、円はないかなあ。

 数学的センスに欠けていることを自覚している僕は、小さくため息をついて、顔を上げる。そして、窓の外の景色を眺めながら、僕は物思いに耽るのだった――というのが僕の理想のポーズなのだが、現実世界はそう上手くいかない。僕の隣には窓じゃなくて生徒がいるだけで、僕は外を見ることができない。

 ――窓の外が見たいわけじゃないんだ、僕は。ただ僕は、「登場人物」が、日常生活のシーンから自分の世界へと没入していくときの視点の切り替えの、ベタで古典的な描写をこの身でなぞりたいだけ。ただ、そのためだけに「窓」という装置が必要なだけなのだ。

 しかし、僕はその装置を利用することができない。よく漫画やアニメで見るシーンではあるけれど、あれを実行できるのは、窓側の列に座っている六人だけ。クラスが四十人だから、この空間においては四十分の六人しか、その「特別」な演出によって「悩める青少年」を演出することができない。のに、彼らは机に伏して寝たりとか、先生の話を聞かずに次の授業の予習を進めてばかりで、一切窓の外を見る様子がない――ことを、僕はもったいないと思ったり、羨ましく思ったりする。

 偶然にもカ行に生まれ、そしてなぜかア行の多いクラスの出席番号七番になった僕は、窓際から二列目の一番前の席で、チョークの粉と頻繁に飛んでくる先生の唾とを浴びながら、板書のメモを取っていた。

 僕はもう、この世界に見切りをつけた。この世界はつまらなくて、味気なくて、僕の心をワクワクさせるような「非凡」の起こる余地なんてない。何か起きても、それだって後から振り返って見てみれば、結局誰かの「平凡」の範囲内。すべてがありきたりで、ありふれていて、目新しい物なんてないんだ。

 少なくとも、「僕にとってはそうなんだ」……ということを、僕は受け入れなくちゃいけない。起こるはずのない奇跡をいつまでも夢見て願っているのなんて馬鹿らしい。

 そう思いつつ、しかし――それでも僕は、自分の身に何か「普通じゃないこと」、「非凡」が起きることを諦められずにいた。

 ほら、例えばチープな漫画やアニメみたいにさ。突然勇者に選ばれただとか、実は自分の出自が「特別」だったことがわかっただとか。まあ、そこまで極端じゃなくてもいいんだけど、とにかく僕は、何か、そういう「運命」みたいなものに理不尽な義務を叩きつけられてみたい。

 数奇な「運命」に翻弄されながら生を全うしていくって、なんて美しくて、それでいて本人は楽なんだろうね。

 「運命」というのは電車のレールのようなものなのだろう。レールと言われれば、僕たちは進行方向を決定づけるレールの道筋を、そして出発すると決めたらその決められた方向にだけしか進むことのできない列車としての僕たちを思い浮かべることができる。が、実際はそのようなレール、つまり「運命」の形を視認することはできない。ここではそのレールの存在自体が、僕たちの想像の産物にすぎない。

「運命」の存在をこの目で見ることができない僕たちは、自分が自分の人生のどの地点において、どんな顔で、どのように立ち振る舞うべきであるかということを知らない。そもそもそんなレールが存在しているのか。もし存在していたとして、そんなレールが自分にも敷かれているかを確認したり、証明したりする術はない。ちなみに僕が個人的にどう思っているかということについては、牧田先輩にも言ったけれど、限りなく「存在しない」に近いと思っている。まあ存在しないにせよ存在しているけど視認することができないにせよ、僕たちがその存在を確かめることができないことに変わりはない。僕たちは常に暗闇の中にいて、前も後ろもわからない中を手探りで進んでいる状態だ。

 そう思うと、「運命」のレールを見ることができない限り、「生きていく」ということはどこまで行っても不安なんだ。その存在を確かめることができない僕たちは、どうして生まれたのか、どうして生きているのか、そして、これからどうやって生きていけばいいのかわからない。だから不安だ。僕らは常に、不安と隣り合わせで生きている。


 ――じゃあ、「運命」のレールを他者から与えられたら? 見ることはできなくても、「これが君の運命だよ」って、そんな言葉を授けられたら?


 他人から付与された「自分が生きる意味」は、「運命」とかいう「あるのかないのかわからない、しかし『ない』ことを証明できないが故に『ある』可能性もあるという形で保障されている便利な言い訳」に裏打ちされることによって限りなく真となる。

 自分が生まれた意味だとか、生きている意味だとか、生きていく意味だとかが、すべて外から理由が与えられる。その「意味」こそがレールの形をした「道」であり、それを与えられた人間はもう、自分で考える必要はないのだ。

 その「運命」のレールの先が幸福か凄惨かだなんてのはここでは置いといて、いや、そんなことどうでもよくて。ただ、僕は「与えられて生きる」ことの幸せを羨み続けている。願い続けているのだ。

 ……十五年ほど生きてみた僕には、やっぱり自分がどういう理由で生まれてきたのかがわからない。どうして生きているのかがわからない。そんな、答えの出ない命題について、自分なりに考えてみるのは好きだった。だけど、考えれば考えるほど、年を重ねて賢くなればなるほど、そこに、僕がこれから生きていくことの不安を払拭するような答えは見つからないし、きっと、そんなものは最初から存在しないのだろうという残酷な予感が僕を苛んだ。

 僕の思考が行き着くのはいつだって、僕という人間はなんてことない人間で、この世界に生まれてきた意味なんて最初から存在しないということ。僕は「平凡」で、どれだけかっこつけても、「特別」になろうと思っても、「平凡」の枠を出ていけない。僕はそれがたまらなくて、恐ろしくて、生きていけなくなる。

 だから僕は、俗物的な「運命」が欲しい。そうすれば、ようやく「非凡」になれる。「平凡」の枠を出て、選ばれた人間、「特別」な人間になれるんだ。

 そうすれば、こんなことを考えていちいち不安にならずに済む。最初から結果が決まってるんだったら、その先が悲劇であれ喜劇であれ、僕は笑って「しょうがないな」って言えるんだ。その時には、僕は「運命」が存在するか存在しないかなんて、そんなナンセンスなことについて考えたりしないだろう。その時の僕は、僕の「運命」を全うしさえすれば、それが一番正しくて、美しくて、善い人間になるんだからさ。



 そんな結論が出た後、程なくして、いつものチャイムが響き渡る。チョークを黒板に走らせながら、先生はまだ解説をしている。だが、教室のそこかしこからはすでに、筆箱にペンをしまい、机の上を片付けるカチャカチャバサバサという音が聞こえている。教壇の上で一人「授業」を続けていた先生は、その耳障りな音に耐えかねたのか、残りの途中式を早口で読み上げると「今日はここまで」と少し突っ張った声で言った。先生用の教科書をまとめ、白いチョークを白いチョークばかりの箱にしまいながら「最後まで聞いておかないと困りますよ」と注意するが、誰も聞いていやしない。先生はポケットからガーゼのハンカチを取り出し、額の辺りをゴシゴシと擦りながら次の予習範囲を言った。僕はそれだけ教科書に書き込む。

 ベテランの先生だったら、終了のチャイムが鳴ろうが生徒が勝手に片付けを始めようが、何分過ぎようと説明を続けている。正直迷惑ではあるのだが、生徒の上に立つ教師という立場なら、そのくらい図々しい方がうちの学校の教師らしくていいと思うけど……なんてことは本人には言わない。この先生の授業はたいして面白くないし、さほど身にもならない。そんなに頭のいい先生じゃないんだと思う。たとえ、有名な大学の出身だったとしても。

 今年赴任してきたという三十代くらいのやせぎすの先生は、チョークの粉で汚れた右手で眼鏡をかけ直すと、

「君たちもね、暑くて大変な中頑張ってます。よく集中してますよ。七月中の補習もあともうちょっとだし、頑張っていきましょう」

 ……なんて言って歯を見せたが、聞いているやつなどほぼいなかった。この学校に来るやつに、そんな意味のない話につき合ってやるやつなんてほとんどいない。

 終着点を見失っていつまでも続く言葉が一瞬途切れた隙を見計らって、クラス委員は素早く号令をかける。クラス委員のファインプレーに僕らは便乗し、「ありがとうございました」と言って早々に帰り支度をする。今日はこれが最後の授業だった。


 「創作部」には、あれから一度も行っていない。別に、怖い思いをしたからだとか、自分の身を守るために、とかそういう理由があるわけじゃなくて、単純に、あそこに行く気が起きないだけ。あれから牧田先輩に呼ばれたわけでもないし――僕があそこに行く「理由」がない。

 ……と、座って教科書を片付けている僕の背中に、トンッと軽い衝撃がある。

「あ、ごめん」

 声の主を見ると、それは割と明るい茶髪の男子だった。前髪をピンで留め、額を丸出しにしたそいつはどこかチャラそうに見える。視線がぶつかりそうになったが、すぐ「別に」と言って目線を逸らす。

 なんだっけ、こいつ。クラスメートだからまったく知らないわけじゃないんだけど、なんか印象に残っている。終業式の日に声をかけてきたグループの中にいたんだっけ。覚えてないけど、っていうか、どうでもいいけど……なんて決まり文句を唱えながら、バッグの中に教科書と筆箱をしまう。早く、この空間から出ていこう。


「――だから、いるんだって、『不審者』が」


 それは、さっきぶつかってきた男の声だった。思わず振り返ると、さっきの男が二、三人ほどのグループの男たちに、身ぶり手ぶりを交えながら、何かを説明しているところだった。頭の位置を戻した僕はバッグの中にしまった筆箱の中身を確認するふりをして、一時的に男の声に耳を傾ける。

「本当にいるのかよ」

「見たんだよ! 全身真っ黒な、長身の若い男だった。黒いタートルネックに黒のジーパン。ボサボサの髪。こんな暑い中さあ、長袖長ズボンだよ? なんかおかしいっていうか、気味が悪いっていうか……」

 彼らの声の調子から、メインで話している茶髪の男が必死に話しているのに対して、他のやつらは半信半疑だとわかる。どちらかというと「疑」に傾いているようだ。

「不審者がいるのはわかったけどよ。別にそいつ、アブナイ物を持ってるわけじゃねんだろ?」

「そういうのは全然。ただ……花束を持ってるんだよ」

 男がそう言うと、他の二人ほどが間抜けな声でハモった。

「花束ぁ~?」

「そう。すごい綺麗な花束を持ってんの。気持ち悪くない? 百八十くらいありそうな黒いセーターの男がさ、花束を持って真昼の道路をうろついてんの」

「確かに気味が悪いかもな」

「でも襲いかかってきたりはしないんだろ?」

「まあ……そうなんだけどさ」

「ならいいじゃん」

「そういうのはムシしときゃいーんだよ、なっ」

「下手に関わる方が危ないって」

 僕はバッグのファスナーを閉めると、席を立つ。そして、肩紐を腕に通すと、去り際に先ほどの会話の主たちの方を一瞥する。

 さっきの話題はもう終わったらしい。ただ、茶髪の男だけがまだ何かを考えているかのように俯いていた。

 この男、不審者のことで気になることがあるんだろうか、僕はドアの近くで立ち止まり、まだ何かを考えている男の様子を窺う。

 男はこちらに気づいていないようだった。口元に手をあて、会話にも入らず自分の考えに没頭している。頭の悪そうな見た目のくせに、意外と長考するんだ。しかも、そんな神経質そうな仕草で。僕はなんだか面白くなって、しばらく彼の横顔を眺めていた。


「ごめん、通らせて」


 突然、女子の不機嫌そうな声に思考を遮られる。見ると、通学バッグにバカでかいぬいぐるみを何個もつけた、スカートの短い女子が僕の後ろに立っていた。いつの間にか集中していた僕は、自分の置かれた状況を把握するまでに少々の時間を要した。が、すぐにそいつが、ドアの前に突っ立っている僕に対して邪魔だからどいてという旨のことを言いたかったのだと理解すると、同時にカッと頭に血が上った。

 は? 普通に通れるでしょ。ちゃんと人が通れるスペース空けてあるじゃん? その邪魔なぬいぐるみを取っ払ったら余裕で通れると思うけど? 外したやつはそのすっからかんの頭に詰めておいたらどう?

 ……なんて言うのもめんどくさいので、僕は黙って端に避ける。「ごめん」なんて言葉を使うのは、使わないとその場の収拾がつかなくなるときと、相手が「いい人」そうなときだけだ。例えば牧田先輩みたいな。単純な空間把握すらできない、こんなバカに使ってやる必要はない。

 とは言っても、ドアの前でぼけっと立っているのも確かに邪魔だ。ぬいぐるみ女がさっさと出ていった後、僕は、今までなぜ自分がそこにいたのかを忘れてドアを出ようとする。

 その時、絶妙なタイミングで、背後からさっきの男の「あっ」という声が聞こえた。

比奈ひな! 比奈ってエスちゅうじゃなかったっけ!」

 彼のよく通る、ちょっと幼い声が教室を駆けていく。僕は思わず振り返った。「比奈」はチカの苗字で――チカは「比奈ちか子」という名前だった。

 急に、あまり話したことがないであろう男子に大声で名前を呼ばれた比奈は、長くてぼさぼさの前髪の向こうで、目を見開いてひどく驚いてしまっている。声をかけた男の、そのグループの男たちの、そしてクラスメートの視線を一斉に集めたチカは、首から耳のあたりまで腫れ上がるかのように顔を真っ赤にした。チカは赤面症だった。目立つことに慣れていないチカは、口をパクパクとさせて、そして、小さく掠れた声を絞り出す。

「そ……そうだけど」

 今にも消え入りそうなチカの声に、茶髪の男は遠慮なく話しかける。茶髪の男の声は明朗で、やたら耳に残る甘ったるい声だ。

「やっぱり! あのさぁ、S中の周りは気をつけた方がいいよ。ていうか比奈は家の周りで見たことある? 夏なのに長袖長ズボンで、花束を持っている男とか……」

 チカは勢いよく首を横に振る。

「ううん、私の家は学区の端っこだし……あんまり人がいないから……」

「そっか、」

 男はそう言うと何かを考えているようだったが、すぐにチカに向かって笑いかけた。

「うん、ありがと!」

 爽やかで、この上なく快活な「ありがと」をかけられたチカは、「うん」と短く答え、またすぐに俯く。ここから見えるチカの耳も、首の後ろも真っ赤だった。たった一瞬のやりとりだったにもかかわらず、相当緊張したのだろう。そういえば、このクラスになってからチカがクラスメートに注目されたことって、授業で当てられるときを除いたら、これが初めてなんじゃないだろうか。

 一方、チカと話した例の男はすっきりしたようで、「まだ考えていたのかよ~」なんて友人たちに茶化されながらも、いつもの輪の中に戻っていく。そして、そのやりとりがどうでもいい世間話に変わる頃には、教室はいつも通りの「平凡」になっていた。

 そして僕は教室から出た。いつも通り歩いているつもりだが、気がつけば早足になっている。僕を気にかける人はいない。だから、一人で進んでいく。


 今日も創作部には行かない。

 ――が、少し調べたいことができた。



 ◇


 日中熱風にさらされ続けたハンドルを握り、僕はスピード抑えめで、自宅へと自転車を走らせていた。

 わざわざ遠回りをする、なんてのは疲れるからしないけど、普通に帰るときと総距離が変わらない程度に大通りの裏道を選んで走る。

 大通りは毎日通学で通っているから、何か異変があれば気づくはず。例えば、「見慣れない黒い男が歩いている」……とか。


 さっきの男が言っていた「S中」というのは、チカと僕が通っていた中学校の略称だ。僕はチカの家がどの辺にあるのか知らないが、昔、聞いた時には小学校も一緒だったと言っていたから――おそらく、そう遠い所には住んでいない。つまり、チカの家の近くに現れる可能性があるということは、僕の家の周辺にも例の男が現れる可能性があるということだ。

 だから、僕はそいつを探すことにした。僕には、茶髪の男が見た「不審者」と、僕の大嫌いな「マスター」が、同一人物であるという奇妙な確信がある。だから、僕は自転車を走らせている。

 なぜそう思うのかはわからない。強いて言えば、男の言った「不審者」の特徴が、僕の見たマスターの姿と酷似していたからだろうか。

 僕は、「こっちの世界」のマスターに出会ったことはないが、尚人先輩の話から、「あっちの世界」のマスターとほぼ同じ姿をしている、ということを知っている。

 ただ、普通のクラスメートが目撃した人物が僕が知っている「特殊」の塊みたいな人物と一緒である、という確証はどこにもない。探してみて、本当にその人であるという保証はどこにもないし、そもそも、このちっぽけだけど広い町で、本当にあの男に会えるかなんてことは、それこそわからない。

 それでも、このめんどくさがりで怠惰な僕が彼を探してみる気になったのは、僕の胸の中に訪れた予感があまりに大きく、あまりにも心地よかったからだ。

 牧田先輩に出会った時からしばしば僕に立ち現れては、いつもの思考を奪っていくこの予感。この予感こそが俗に「運命」と呼ばれているものだとしたら、僕はこの町で、再びマスターに出会うだろう。

 太陽はまだ落ちる気配がない。徐々に家へと近づき、日が傾き始めても、目は見えない男の姿を探している。



 ――お願いだ、僕の前に現れてくれ。

 「運命」を僕にも授けてくれ。お願いだから、僕のことも選んでくれ。



 僕は創作部に案内され、自分の生きている世界とは別次元の世界が存在することを知り、その世界に足を踏み入れた時から、自分が「非凡」に選ばれたのだと、自分にも「運命」が与えられたのだと興奮したんだ。「つまらないやつら」の中から弾かれ、選ばれた、数少ない「特別」な存在だったのだと喜んだのだ。

 だが、尚人先輩から掃除係や創作部について聞いた日の夜、僕は尚人先輩の行動を思い出し、彼の話を思い返し、考えれば考えるほど、それはぬか喜びだったのだと思わずにはいられなかった。

 尚人先輩にとって、僕は、「殺しても構わない」存在だった。ということはつまり、彼にとっても、創作部にとっても、創作部に入部する人間は初めから、「誰でもよかった」ということだ。

 「都合が悪かったら殺してしまえばいい」というのは、その人が尚人先輩の「運命」の外側にいるということ。「特別」を与えられた彼の、「必然」ではないということ。

 そして、僕の側から言えば、彼の「運命」から弾かれ、「殺しても構わない」という判断をなされた僕は、彼によって――彼にそのつもりがあったかは知らないが――「僕」にはこの世界に存在する意味にも理由にも「必然性」がないことを、証明されてしまったのだ。

 別に、「僕」が死のうが、消えようが、彼らの「運命」は変わらない。選ばれていたのは最初から、牧田先輩と尚人先輩だけだったんだ。

 そう思うと、悔しくて、悔しくて、「世界の交差」だとかマスターだとかどうでもよくなった。僕は勝手に、彼らに「選ばれた」のだと、少なくとも「特別」な彼らに少しでも関わることができたのだと思っていたけれど、それは僕の思い上がりで、僕にはまったく無関係の世界だった……というのがオチだ。

 最初からわかっていたつもりだった。けど、わかっていなかった。その証拠に、今、こんなにもみじめで、泣きたくなるくらい、自分で自分が恥ずかしい。自分のことを再起不能になるまで殴りたくなるくらいに。

 それでも平気な顔で学校に行ったのは、「そんなことで僕が折れるわけないじゃん」っていう、僕のつまらない強がりと意地だ。

 僕には「運命」のレールなんか敷かれていない。それでも、ここまで生きてきた。そのことに変わりはないし、これからも同じように生きていく。現実を知った僕はこれから、自分が「特別」な存在なのかもしれないという期待に胸を躍らせることも夢を見ることもなく、「平凡」な自分であることを受け入れ、自分で自分を諦め、「つまらないやつら」の一人として、じきに死ぬのだ。

 ――そう思っていた矢先の、マスターの目撃情報だった。

 と、言っても、それがマスターだという確証はないけれど。それでも、信じてみたくなった。あれだけ自分を正当化するための言葉を並べ立てた僕は、あっさりと、そのすべてを破棄した。違う、まだ心の底で、諦められていなかった。


 これは僕が自分の存在意義を問うための、最後の賭け。そしてもしその賭けに勝てるなら――「あいつ」に会えるとしたら――絶対に今日しかない、という確信があった。

 通学路も、あと少しで終わる。血眼になって、誰もいないただの小道を覗き込んで……こんなに必死になっている僕もめずらしい。ただ、今の僕を他人がどうこう言う筋合いはない。愚かに、滑稽に見えるのならそれでいい。僕はただ僕の自己満足のためだけに、ひたすら今日は馬鹿になるって決めたんだ。そう、今日だけさ。期待することは今日でやめる。でも、もしあいつに会えたなら――。




 自宅付近の住宅街に入ってからは、自転車を押して歩くことにした。

 結局、「不審者」はどこにもいなかった。悲しいくらいに町は静かで、平和だった。「変わることができるかもしれない」と躍起になっていた僕だけが浮いていて、そんな僕を泳がせるだけ泳がせた世界は、最後には「残念、私はいつも通りです」とでも言うように、僕のことを嘲笑っていた。

 重たい自転車を押しながら歩くと、先ほどまでの高揚感が音もなく引いていくのがわかる。まるで、寄せては返す波のよう――なんて譬えて、そしてその比喩を胸の中で反芻しては、的確さに自分で笑ってしまう。声は押し殺しながら。


 そうだよな。すぐテンションが上がったと思ったら、ちょっと思い通りにならないとまた落ち込む。そんで、誰かに醜態を晒しそうになったり自分を傷つけそうになった時は、必死に言い訳をして、自分の心を守るんだ。

 その姿が逆にみっともなくて、可哀そうに見えることに、僕はいつになったら気づくのだろう。成長しないやつはこれだから嫌いなんだ。そんで少しの成長もできないクズの僕は、クズであることをもっと自覚して、過度の期待をするのをやめた方がいい。やめろ。身の程知らずなことを自覚しろ、僕は「特別」なんかじゃないって言い聞かせながら、全部、全部諦めて生きていくべきだ。自分のためにも、この世界のためにも。僕は「平凡」だ。「特別」なんかじゃ、決して、ない。

 ガレージに自転車を止めた僕は、自分の家のドアの前で、ポケットの中の鍵を探す。こんな日は部屋にこもり、気が済むまで自分に暴言を吐きながら眠るに尽きる。

 自分を罵りながら、右手の指先はポケットの中を探っている。先ほど入れた自転車の鍵に、いつ入ったのかわからない小さな石、また石……。そして気づいた。指先で順に触れていく物の中に、肝心の、家の鍵がない。

 おかしいな。

 少しどきりとしたが、すぐにもう片方の手を反対側のポケットに入れる。しかし、こっちにはイヤホンコードを巻きつけたiPod以外、何も入れるはずがない。後ろのポケットには何も入れない主義だけど、一応……と思って手を突っ込むも、やはりない。僕は扉の目の前にしゃがみ、バッグを置いて、その中身を一つ一つ見ていくことに決めた。

 家の鍵にはプラスチックのタグと、青い塗装が剝げかかった小さな鈴がついている。落としたらすぐにわかるようにって、小学生の頃に親につけてもらった物がそのまま。特に外す理由もないから高校生になった今もつけているが、あれがついていたら、落としたときに音が鳴るはずだ。

 バッグの中身を全部出し、ひっくり返したり揺さぶったりしてみる。が、いくら耳を澄ましても、鈴の音はまったくしない。ぱらぱらと砂の音がするくらいだ。

 やばいよな。親が帰ってくるのは夜だし、それまでに見つけて家に入っていないと、叱られる。うちの親は、どうしてだか、物の紛失にとにかく厳しいんだ。特に家の鍵には。

 僕は立ち上がると、自然と門の方へ向かっていた。まだ、時間はある。自転車に乗っていると気づかないかもしれないから、歩くことにする。

 徒歩で、学校まで。――頭の中で、今日通ったすべてのルートを思い描こうとするだけで、くらくらした。どの道に落としたかなんて見当もつかない。今日に限って行きと帰りで違う道を通ったってのがまた痛手だ。結局、無駄にいろんな道に入ったから、総距離もきっととんでもない……今日に限って。

 「効率よく探す」、なんてのは幻想。とにかくこの町の通りを虱潰しに探していくしかない……と思うと、気持ちがどっと重くなる。

 それに、考えてみれば、仮にその辺の道路に落としていたとして、誰かが拾っているかもしれないし。その「誰か」が親切な人だったら交番に届けてくれているかもしれないが、悪い人が見つけていたら何か犯罪に使うかもしれない。もし家に空き巣が入ったらどうする? 強盗事件になって、家族の誰かが危ない目に遭ったらどうする……? それにもし交番に届けられてるにしても、僕が交番に届け出、って言うの? 「失くしました」って言わなければいけないのが、めんどくさい……。交番なんて入りたくない。入れない。でも、頼る人もいない。警察に頼るのも嫌だ。そもそも自分から人に頼らなければいけないのが嫌だ……。でも、頼らないと……、でも、怖い……。

「――あの、」

 びく、と体が跳ねる。家の門を出て、学校の方へと曲がろうとした瞬間、後ろから声をかけられたのだ。

「ここの家の人ですか?」

 突然のことに心臓がばくばくと鳴っている。

 相手のペース。相手のペースに乗ってしまった。

 なんとか力を振り絞り、そう、そうです、と言うように、首を縦に振る。

「当たり前でしょ、ここの門から出てくるんだから」といういつもの皮肉が数秒遅れで頭に浮かんだのと、後ろを振り返って声の主の姿を確認したのは、ほぼ同時。彼の姿を捉えた僕は、瞬間、あっと声を上げそうになった。

 黒いタートルネックの長袖セーター、同じく黒い長ズボン。どちらも冬物だと一目でわかる。しばらく手入れされていなさそうなゴワゴワの黒髪が頭部を覆い、その下に現れるわずかな面積の肌には、びっしょりと汗を掻いている。

 「真夏の炎天下を行く、真っ黒の男」――僕は、こいつが「マスター」だと直感した。

 叫んでしまいそうになるのを必死にこらえ、一言「何の用ですか」と訊く。長い前髪で両目を隠した男は、うろたえる僕の目の前に、にゅっとこぶしを突き出す。

 こぶしが裏返されると、まるで蓮の花が開くように、その白くて長い指がゆっくりと開かれる。リン、と鈴の音がして、その上には僕の探していた鍵が現れた。

「そこの道路に落ちていました。……心当たりは?」

 どうして道路に? という疑問もあったが、鍵が見つかったという安堵と、捜していた男が突然目の前に現れたことの驚きで、パニックになっていた。……どうして、こんな所にいるんだ、「あんた」は?

「……あの」

「ちょうどよかった。……では、」

 男は僕の手に鍵を置くと、くるりと踵を返し、逆方向に歩いていく。


 ――ゆらゆらと、陽炎のように町に溶け込んでいく背中に、僕は何と声をかければいいんだろう。


 「待って」と言うのも不自然だ。それに、仮に立ち止まって待たれたとして、その後会話を続けるだけの体力と精神力は残っていない。どうする? じゃあ、もう無理だからって、いつものように、「無関係だ」って手放してしまうのか? それでいいのか? ――僕は、後悔しないだろうか?

 いや、後悔も何も。ここで手放してしまったら本末転倒ってもんだろう。


「――助かりました」


 僕はその背中に声をかけていた。声は上ずってしまい、大声にはならなかった。

 男は、僕の声が聞こえたのかそうでないのか、一瞬だけ立ち止まった。それが、何秒だったのか、はたまた何分、何時間だったのかは、僕にはわからない。まるで、時が止まったのかのような静寂が、僕たちを包む。

 が、男は前触れなく歩き始める。その瞬間、僕の時計が動いた。同時に、彼がもう、二度と振り返ることがないことを直感した。

 その黒い背中から目を離すことができない僕は、彼に手渡された鍵を、ただ握り締めている。


 これでよかったんだろうか。でも、これ以上、僕にできることは何もなかった。僕は意気地なしだ。なんとか声をかけられはしたけれど、でも、ただ、口を衝いて出てきただけで、何の意図も駆け引きもない、意味のない言葉。

 たぶん、あんな言葉じゃ、何も変えられない。最後のチャンスも無駄にした僕は、もう、「あいつ」に出会うことはないだろう――。

 そんなことを考えていた矢先だった。僕の前をふらふらと歩いていた男が、明らかに不自然な場所で、左に曲がった。

「え?」

 そこはまだ曲がり角じゃない。広い道に出る曲がり角は、そこの家を通り過ぎた所にある道を曲がるんだ。僕は駆け出した。心臓が高鳴っている。予感が、確信が、一気に僕の心に押し寄せた。


 あんたが曲がったそこは、「他人ひとの家」だぞ。


 男が曲がった場所に立つと、僕は左を向く。そして、愕然とした。

「何……これ……?」

 そこは、「僕の隣の家」だった。それは、地理について言えば真、本質について言えば偽。つまり、どういうことかというと、そこにあった「僕の隣の家」は、僕の知っている「それ」じゃなかった。

 なぜだろう、どのようにして――。

 「それ」は、いつの間にか、「僕の家の隣にある」だけの、「まったく知らない誰かの家」に、すり替わってしまっていたのだ。

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