2話:掃除係(③)

 背もたれのない丸椅子に腰かけた僕の元に、静かな足音が近付いてくる。トレーの上にマグカップを二つ乗せた彼は、僕と目が合うと、少し気まずそうに目を伏せた。


「……よかったら、飲んで」


 トン、と目の前に置かれたカップから、甘い湯気が立ちのぼる。彼が後ろのスペースで作っていたのはミルクココアだったらしい。突如鼻腔を刺すように届いた糖の香りに僕は一瞬眉をひそめたが、しかし、気がつけばそのどこか懐かしくて落ち着いた香りに手を伸ばしていた。


 夏の盛りに熱々のココアを飲むのは、これが初めてだった。が、ぐっしょりと汗をかき、クーラーの冷気ですっかり体を冷やしてしまっていた僕の体を芯から温めるにはちょうどよかった。まだ手先の感覚が覚束ない僕は、念のためカップを机の上に置き、その側面を両手で包んだり離したりしながら暖を取る。


「……さっきは、本当にごめん」


 自分のカップには一口もつけず、じっとこちらを見ていた彼が、わずかに震える声で話を切り出す。僕が彼に向き直ると、彼は机に額をつけるように、深々と頭を下げた。


「君のこと、『殺そう』って思ってしまった……。ごめん」


「……いや、全然殺してくださってもよかったんですけどね、そういうノリだったんなら」


 慣れないせいでどこかピントがずれてしまった冗談を返すも、彼は顔を上げない。いや、僕はよく目の前の人間を屈服させたいって思うけれど、こういうガチなやつは苦手なんだ。自分よりずっと背も高く、しかも年上の男が僕に向かって首を垂れているその姿に、僕は、逆にうろたえてしまう。


「ほんとにいいですって。結局死ななかったわけだし。それに、どっちも怪我とかなくてよかったじゃないですか。床はへこんだけど」


 ちらりと横目でさっきの現場を見ると、教室と準備室とを繋ぐフローリングの床には、小さなへこみができている。言われないと気付かないほどの僅かなへこみは、これからも、そこで「何か」があった証として存在しつづけるのだろう。


 依然として頭を下げたままの彼は、絞り出すように言葉を紡ぐ。


「……僕は、君や牧田さんと違って、考えるのが得意じゃない。むしろ、苦手なんだ、自分で考えることが……。だから、難しいことは、全部牧田さんに任せてる。……僕にできることは、ただの、『掃除』くらい。だから僕は、『掃除係』なんだ」


 彼の声をちゃんと聞いたのは初めてかもしれない。彼女の声は凛としてよく通る声だが、彼の声は細かい砂が擦れるような、さらさらとした声だった。


「今から言うことは、牧田さんにも言わないでほしい。……ずっと、誰かに話したくて。だから君に、聞いてほしくて……」


「……僕に?」


「君には、見られてしまった。さっきまでは、それが、怖くてしょうがなかった。でも、今は、逆に安心してる。やっと、話してもいいのかなって思って」


 そこで僕は初めて、彼も怖かったのだ、ということを知った。彼も彼で、その骨張った拳をわずかに震わせている。僕にとってはさっきの彼の方が余程恐ろしい存在だったけど、彼も僕のことが恐ろしかったと言う。


 そんな彼が、僕に何を話そうとしているのかはわからないが。その話が、牧田先輩も知らない話だと聞いた瞬間に、僕の心は強く惹かれた。あの、何でも知っているかのような顔をしている牧田先輩が知らなくて、彼だけが知っていることを、彼は、「僕に」教えてくれるって言うんだ。




 だったら、しょうがないな。




 僕はココアをもう一口飲むと、まだ頭を垂らしている彼に、気さくな感じで声をかける。この人からペースを奪うのは容易い。それなら僕も、気楽に話せるってもんだ。


「僕でいいなら聞きます。ただ、そのためには二つ条件を呑んでもらいたいです」


 彼には見えないとわかっているが、僕は左手の指を折りながら話す。


「一つ目、その顔を上げてください。そのままじゃ話しづらいでしょうし、僕も聞きづらいですから。で、二つ目、あなたの苗字を教えてください。『牧田先輩』みたいに名字で呼びたいんですけど、たぶんあなたには名乗ってもらっていないはずだ」


 そう言って彼を一瞥すると、彼はゆっくりと顔を上げた。思いの外しっかりとした顔つきに、てっきり申し訳なさそうな顔をしていると思っていた僕は少し驚いたが、それはそれでやりやすい、と思った。何を? もちろん、これから始まる質疑応答を。


「自己紹介、ちゃんとしてなくてごめん。……僕は三木尚人。数字の『三』に木曜日の『木』で、『みき』。……、苗字なんだけど」


 そこで言葉を切り、突如固まってしまう彼。そこからフリーズしたパソコンのように表情が全く変わらない彼を不審に思いながらも、僕はその言葉の続きを引き取ろうとする。


「……ええと、じゃ、『三木先輩』って、呼びますけど……」


 そこまで言ったところで、頭の中に二枚の映像が浮かぶ。彼の名前。そして、教室の黒板に書かれた彼女の名前。それを読み上げた時の、言葉の響き。


なるほど、そういうこと。


「……やっぱり『尚人先輩』って呼びます。『みき先輩』じゃ、こんがらがりますもんね」


 僕がそう言うと、彼は少し、本当にすこしだけ、表情を明るくする。そうか、ちょっとずつわかってきた。この人は、感情がなかなか顔や態度に出ないんだな。


 そうは言っても、つい癖でそろりとその顔を覗き込んだ僕に、彼は無表情に頷く。牧田先輩と違って言葉少なな彼は今、一体何を考えているのだろうか。その答えは、決して表情のみからは読み解くことが出来ないが、彼はきっと緊張しているのだろう、などと薄ぼんやり考えていた。






「さっきも少し言ったけど、僕は牧田さんの調査している『世界の交差』について、ほとんど知らない。『あっちの世界』に行ったこともないんだ。『サインイン』もしたことがない」


「それじゃ、どうして創作部に入ってるんですか」


「……最初は、牧田さんに誘われたんだ」


 彼はそこで初めてココアに口をつけた。僕の手の中のカップは、もうだいぶ冷めていた。


「牧田さんとは、中学が一緒だったんだ。昔からたまに話したりしてて、よく僕に優しくしてくれてて、大事な『友達』だったんだ。僕たちは、同じ高校に入って、最初は違うクラスだったんだけど、牧田さんは僕に会いに来てくれたんだ。――その時に聞かれたんだ。『部活は何に入るの?』って」


 中学でも無所属だった彼は、もともと、高校でも部活に入るつもりはなかった。そのことを知っていたからだろうか、彼女は彼に、「新しい部活を作らない?」という提案をした。


「牧田さんは最初から、高校に入ったら部活を作るって決めていたんだって。まだ部活の名前も、活動内容も聞かされていないのに、僕は『うん』って言ったんだ」


「どうして?」


「牧田さんが作る部活なら、きっと面白いだろう……って思ったんだ。牧田さんって、すごい人だから」


そう語るとき、彼の湖畔のような瞳が遠くなる。安易に同感もできない僕が所在なくカップの取っ手をいじっていると、しばらくして、ふ、と意識が戻ったようだった。彼は小さく「ごめん」と言う。


「牧田さんはそんな感じで、順調に人を集めた。同じクラスの人もいたし、別のクラスや上の学年の人もいて、最初は六人くらい部員がいたと思う。牧田さんはここの、部室の手配もして、みんなを集めて――部員が揃った初めての日に、『世界の交差』について教えてくれたんだ」


「世界の交差」。彼女は「世界の交差」のことや「サインイン」のことを、この高校一年生の時にはもう知っていて、それに係わる「創作部」をつくることも、最初から決めていたというのだろうか。


「僕は、馬鹿だから……。最初聞いた時もちゃんと理解できなくて、頭がぼーっとしていた。でも、他の人たちは驚いたり、興奮したり、いろいろだったよ。……そして、創作部の活動だからって、どんどんサインインしていった。放課後になったら『こっちの世界』と『あっちの世界』を行ったり来たりして。自分が見たものを報告し合ったり、感じたことを話し合ったり。調査は順調だって、牧田さんはよく言っていた」


 彼がカップに口をつける頃合いを見計らって、僕は彼に、さっきからしたかった質問を投げかける。


「その人たち――他の部員は今どこに?」


「もう卒業した先輩もいる。普通に大学に行かれたよ」


「他の人たちは……?」


「…………」


 彼は目を伏せる。その視線は彼の手元をうろうろとして、定まることはなく――。きっと、次の言葉を言うかどうか、迷っているのだろう。


「大丈夫です。教えてください」


「……先に、『掃除係』の話をしてもいいかな」


 珍しく話の腰を折った彼は、随分顔色が悪かった。僕が黙って頷くと、彼は「ありがとう」と小さく言うと、ココアをゆっくりと飲み干す。ソーサーに置くと、カチャン、と無機質な音が教室に反響した。


「……『掃除係』は、臨時的に置かれた役職なんだ。創作部でちゃんと『意味を持つ』役職は、すべての取りまとめの『部長』、部員を増やすために勧誘活動をする『広報』、活動記録をまとめる『書記』の三つ。これだけあれば回るそうなんだ」


「あれ、『書記』がいるんですか?」


 僕の質問に彼は頷く。


「いるよ。今は教えられないけれど……。いつか会えると思う」


 いや、別に会いたいわけじゃないんですけど、という言葉は飲み込む。牧田先輩と違ってこの人には、そういう余計な一言をサラッと処理する能力はない。


「『サインイン』を済ませた人たちに、牧田さんはそれぞれ役職を与えた。そうでない僕は、唯一、『肩書き』の無い部員だった。そこで、牧田さんは特別に、『掃除係』って『肩書き』を用意してくれたんだ。『尚人くんは部室の清掃をしてくれる? してくれたら、とっても助かるんだけどな』……って」


 そう語る彼の声には、どことなく、さっきまでよりも実感がこもっているような気がする。でも、考えてみたら当たり前だろう。彼にとって、人から聞いただけで理解もしていない世界の仕組みなんかよりも、自分が今与えられて、全うしている役職の方が、より彼にとって重要で、身近なものであることは間違いない。


 そして、「世界の交差」を理解することができなかった彼を「掃除係」という本質的には不必要な「肩書き」で繋ぎ止めたのは、牧田先輩の「君にこれをしてほしい」という、「名指し」での依頼だった。牧田先輩が故意に行ったのか、はたまた無意識にかはわからないが、おおよその人間は「名指し」に弱い。「あなただからこそお願いしたい」、「ここは君に任せたいんだ」という言葉は、名指しされた人にとって特別大きな意味を持つ。ちょうど、僕が彼に、「君に聞いてもらいたい」と言われて心を動かしたように。それらの言葉には、話者からの聞き手への信頼と期待とが込められており、こうやって懇願されて嫌な気持ちになる人間はそうそういないだろう。


 そして、彼もそうだった。だから、彼は引き受けた。先ほどは故意か無意識かわからないと思っていたが、あの彼女のことだ、それも計算尽くだったに違いない。何より、彼は彼女のことを無条件に信用しているみたいだし、思考することが苦手な彼を自分の思い通りに誘導することは容易いことだろう。


 でも、あの彼女が彼を、仮初めの肩書を与えてまでこの部に引きとめる理由はなんなのだろう。サインインもしていない彼をこの部に三年間もとどめている理由――と考えて、僕は、ふと気になったことを口にした。


「そういえば、牧田先輩に『サインインして』とか言われたことないんですか」


 僕の疑問に、尚人先輩は、何故か力なく笑った。


「ううん。僕は、牧田さんに『サインイン』することを止められてるんだ」


「え?……なんでですか」


「なんでなんだろう」


 彼はそう言うと、緩んだ表情を引き締める。その顔には、不安のようなものも滲んでいた、が、全てを読み解くことは出来ない。少し、思い詰めているようにも見える。


「牧田さんは、『たぶん、できないから』って言ってた。よくわからないけど、僕には資格がないんだと思う。サインインに必要な『強い願い』っていうのが、僕にはないんだとと思う」


 牧田さんも、きっとそれをわかってる。そう言うと、彼は中身の入っていないマグカップに口をつけた。


 サインインもできない彼を、どうして彼女はこの部に置いている? 何か、彼は「特別」だったりするんだろうか。「特別」だからサインインできないのか? ぐるぐると考えを巡らせてみるが、それらしい答えはちっとも思い浮かばない。この彼が、「特別」?「願い」がないから? そんなこと言ったら、僕だって「願い」なんか持ってないんだから、サインインをする資格がないことになるはずだ。でも、僕はサインインできた。僕と彼の違いは、なんだっていうのだろう。


「……創作部の活動は、部活動として、普通に楽しかった。放課後になったらこの部屋に集まって、みんなでわいわい喋って、サインインを済ませた人は『向こう』に行って調査して、下校時間のチャイムを聞いたらみんなで帰る。ああやって大人数で話したりすることってなかったから、新鮮で、好きだった」


 昔のことを思いながら話す彼の瞳は遠く、そしてその奥で、小さな星が瞬いているように静かに揺れている。


「僕はみんなが『向こう』に行っている間、基本『向こう』には行かない牧田さんと話したり、課題をしたりした。そして、牧田さんが他の部員の勧誘に行っている間は部室の掃除をしながら、誰かが来ないか見張りもしていた。それが僕の『役割』だったから。……だいたい、部活中に人は来ないんだけどね」


 そう言い切った彼は、長い瞬きをすると、大きく息を吐く。再び開いたその瞳に、もう、星の影はなかった。




「――でも、一回、来たことがあるんだ。『マスター』が」




「えっ⁉」


 予想もしていなかった言葉に、彼の口から出てきた人物の名に、僕は心臓を掴まれる心地がする。


「『マスター』ってあの、『世界の交差』の管理人……?」


 彼は表情を強張らせながら頷く。血色が戻りつつあった彼の顔からは再び血の気が引いていき、強い恐怖に支配されていく。


「最初、『それ』が誰だかわからなかった。牧田さんはちょうど、用事があったからいなくて、起きている部員は僕しかいなくて。それは結構いつものことだったんだけど、その日は、前のドアからノックが聞こえたんだ。『おーい、○○(まるまる)』って、ちょうどその日、『世界の交差』で『向こう』に行ってる人の名前を呼ぶ声がして、知らない人の声だったけど、元気な若い人の声だったから、その人の友達かなって思った。何か用事があって、探してたのかなって思った」


 その時彼は、そのノックの主が、なぜ多目的教室の中に「その人」がいるということを知ってるのか――ということを、ちっとも考えなかったらしい。「創作部」は学校公認の部活でもなければ、公に口外してもいけない、秘密機関であるというのに。「部外者」が、その人間が「創作部部室」としての多目的教室にいるということなど、決して「自然」には想起することができないことのはずなのに。


「……牧田さんには『いつ誰が来ても、部室の鍵は絶対に開けたらいけない』って言われてたんだけど、教室にはたまたま僕とその人しかいなかったから、中でお茶でも飲んでもらおうと思ったんだ。ぱっと見た感じ、ただ仮眠をとってるだけに見えるし、『眠ってるから、起こさないように』って言えば、大丈夫かなと思って。冬だったから、外で待ってる人も中の方があったかいだろうって。そう考えて、自分の判断で――僕は、扉を開けてしまったんだ」






 彼が扉を開けた先には、彼の予想に全く反して、黒いセーターにジーパンを履いた、ボサボサの髪の青年が立っていた。


 てっきり制服の男子がいると思い込んでいた彼は、あまりの驚きにその場に硬直してしまう。と、その隙を突いてドアから侵入した男は、音もなく扉の反対側、つまり多目的準備室の方まで行くと、ポケットから取り出した鍵を迷わずその鍵穴に差した。


 ガチャリ、と彼の聞いたことのない音で扉は開錠する。慌てて男に追いついた彼は、当時、開かずの間だった準備室の扉がいともたやすく開いたことに彼は驚いた。そして、その真っ黒な背中に、思わず声をかけていた。――本来なら、最初にするべき問いかけを。




「どちら様、でしょうか……」




 彼の言葉を聞いた男は、闇のように深くて暗い瞳で彼を一瞥すると、感情の抜け落ちた低い顔で、


「俺は『マスター』だ」


 と短く答えた。


「マスター」! 彼の心臓は激しく波打った。これが牧田さんやほかのみんなが言っていた、あの! でも、どうして僕の目の前に? これは何かの夢なのか?


 青年の大きな背中越しに準備室を覗き込むと、中の様子がよく見えた。その中は埃まみれで、机だとかイスだとか、美術関係の何かが無造作に置かれてごたごたとしていた。マスターと名乗る青年はその中に、持っていたかばんの中から青い布を取り出して投げ入れる。その瞬間、煙のように真っ白く舞い上がった埃を吸い込み、彼は思わず咳き込んだ。




「『尚人』……だな」




 突然、彼の名前を呼んだ青年は、激しく咳き込む彼の目の前に立ちはだかる。


「おそらく、『そのまま』で二週間、『細かく砕いて』五日間だ。絶対に、『誰にも見られないように』処理しろ。部長にもだ。お前が今日俺に会って、話したことをあいつに喋ったら、ただじゃ済まない。他の奴にも、言わない方がいい」


 男は彼に向かって一息に言うと、その場から立ち去ろうとする。それを、彼が慌てて引き止める。


「あ、あの、『処理』って……」


「そこの『体』の処理だ」


 そう言って彼は、机に突っ伏して眠っている部員の姿を、視線で指す。彼は、男が何を言っているのかさっぱりわからなかった。男は続ける。


「あの体は、『二度と目覚めることがない』。信じられないというのなら、その瞳を見てみるがいい――真っ白になっているはずだからな。そうなったら『何をしてもいい』。『この世』にいる者に見つかる前に、さっさと『処分』してしまえ」


「ちょっ……、待ってください!」


 彼は後ずさり、青年と距離をとる。そして、踵を返すと、眠っている部員の肩を掴んで叫んだ。


「彼は、ちゃんと起きます! 下校時刻のチャイムが鳴ったら! チャイムが鳴っても起きなかった人なんて、今まで一人もいなかった!」


「でも、そいつの心は完全に『あっち』に行った」


 もう帰ってこない、と彼は言う。彼の手は震えた。寒くもないのにどんどん冷たくなっていって――強く掴んでいるはずの、寝息を立てて眠っている部員の、その体温がわからなくなってしまった。


「どうして、そう言い切れるんですか」


「俺が『処理』をしたからな」


 無気力な青年は、机に伏せている体を眺めながら言う。


「こいつは『あっち』に長く居すぎた。今、あいつは『あっち』で過ごし始めてちょうど一年が経ったところだ。流石に長すぎて、『こっち』と『あっち』の時間の調節をしている俺としても、その時差を調整することはできない。そうするわけにはいかない。だから、こいつに直接聞いたんだ。『お前は自分の住んでいた世界に戻るつもりはないのか』と。すると、そいつは『はい、俺にはこちらの世界だけで充分です』と答えた。だから、その望みを叶えてやった。そいつはもう、お前らの言うところの『あっち』の人間になったんだ。そして、その『器』が、『そこ』に残ることになったというわけだ」


 青年の低い声が彼の鼓膜を震わせているのを感じながら、彼は、眠っている彼とほんの一時間ほど前に交わした会話を、そして、彼の言葉を、その時の表情を、思い出していた。


 冬の夕刻。眩しい、橙の光に満ちた教室の中でぴかぴか光るシャーペンを器用に回していた彼は――とても楽しそうに、笑っていた。






 俺、「あっち」の世界が好きだ。楽しいし、なんか、「生きてる」って感じがする。






「…………ッ‼」


 その肩を掴み直した彼は、その体を激しく揺り動かす。彼女に「眠っている間は触ってはいけない」と言われていたのも忘れて。


 亡霊のような青年が見つめる中、彼は我も忘れてその体を揺さぶる。揺さぶる。彼の名前を呼ぶ。叫ぶ。起きて。起きてよ。目を覚まして! お願いだから――。






 キーン、コーン、カーン、コーン……。


 キーン、コーン、カーン、コーン……。






 電子音のチャイムが、無情にも、だだっ広い教室に響き渡る。もう、外は真っ暗だった。冷たい蛍光灯に照らされた彼は、腕の中の男の体を揺さぶることも、その名前を呼ぶことも止める。


 彼の瞼は、チャイムの余韻が消えた後にも開くことはない。肩から手を滑らせるようにその首筋へと当てると、不思議なほど静かだった。少ししっとりとした皮膚越しに伝わるのは、そこにはもう、「彼」はいないということだけ。目を閉じ、その口元に微かに笑みを浮かべる彼は、ただ幸せな夢を見ているだけにしか見えないのに、その体はひどく冷たく、鉛のように重たかった。










「――それから、僕はマスターに『処理』の仕方を教えてもらった。ほんとは、絶対にやりたくなかった……。でも、『抜け殻』が誰かに見つかったら僕も、創作部のみんなも危ない……って思ったんだ。だから僕は、やるしかなかった……」


 そこまで話し切った彼は、ひどく疲れてぐったりとしていた。僕は、しばらく口をつけていなかったココアをちびりと飲む。ココアはすでに冷たくなっていた。もういいやと思いつつ、もう一口だけ飲んでおく。


「……それが、さっきの音ですか?」


「そう。……『こっち』に残ってしまった体は、まず、準備室に運ぶんだ。そして、後のことは僕がやる。僕が『処理』をすることの許可は、マスターが帰った後に、牧田さんに取ったんだ。マスターのことと、『処理』の具体的な方法は言わないようにして、『この人はチャイムが鳴っても起きなかった。どうなっているのかわからない。ただ、このままにしておくのはいけないから、僕が隣の準備室に運んでもいいかな』って」


「でも……開かずの間だった準備室の扉が開くことに、牧田先輩は驚いてなかったんですか」


 彼はかぶりを振る。


「驚いていたけど、『掃除の途中で偶然鍵を見つけた』って言ったら、わかってくれた。その言葉も、マスターに前もって指示されてたものなんだけど……」


 そこまで言うと、彼は、残り少なった僕のココアを見つける。


「注いでこようか」


「いや、大丈夫です」


 僕が断ると、立ち上がるタイミングを失った彼は、居心地が悪そうにもぞもぞとした。僕たちの間には重たい沈黙が流れる。秒針の音と、クーラーの音と――無機質なそれらの音に耳を傾けていると、感情を押し殺した彼の声が沈黙を打ち破った。




「…………見る?」




 彼は、横目でちらりと準備室の扉を見る。さっきまで開け放しだったその扉は、もう、固く閉ざされている。


「いいです」


 そこで一旦言葉を切り、少し迷ったが、僕はあまり口にしたくない言葉を続けた。


「……あの袋の中、人が入ってるんでしょう」


 ビクリ、と彼は、体を震わせる。腕を抱き、震えながらどんどん青ざめていく彼の姿を眺めながら、僕もまた、先ほどの光景を思い出していた。


 無造作に転がった、青い袋。大きくて、さなぎのような歪で不規則な形。重いものを引きずる音、チーッ……とジッパーが閉まる音。何度も繰り返される、固いものも柔らかいものもまとめて叩きつけるような、打撲音。荒い息遣い、真っ暗な、埃っぽい部屋。その中心に立っていたのは――。


「尚人先輩、大丈夫ですか」


 僕が声をかけると、目の前の彼はハッとした。小刻みに震えていた彼は、ゆっくりと息を整えると、「ごめん」と短く言った。


「もうだいぶ慣れたつもりだった。けど、駄目なままだ。どうしようもない」


「当たり前ですよ。人を殺してるんですよ。立派な犯罪じゃないですか。……っていうか、こんなことしてて、捕まらないんですか。普通、人がいなくなったら親とか友人とかが気付くもんでしょ」


 僕の言葉に、彼は気分が悪そうに口元を手で押さえる。そして、また焦点の定まらない瞳で、ぶつぶつと呟くように続ける。


「大丈夫。本当に、『誰も気付かない』んだ……。心が『あっち』に行ってしまったら、『こっち』とは完全に縁が切れる。みんな、その人が『こっち』にいたことを忘れてしまう。残った体を見ていた人以外は、一人残らず、すべて……。」


 うわごとのように呟かれる彼の言葉の内容を、僕は理解することができない。いまいちピンとこないので、僕は黙ってその言葉の続きを待つ。


「親でも、友達でも、それ以外の人でも……、今までその人と関わったことがある人は、『元々その人がいなかった世界』を生きることになる。記憶の書き換えが起きるんだ。だから、『いなくなっても、大丈夫』なんだ。その人は、『元からいなかった』んだから」


 彼は、口下手ながら、必死に説明しようとする。彼の話は正直理解しづらいが、そんな彼が必死になって言おうとしていることは、相当重要なことなんだろう。


 僕も、なんとかして理解しようと努めた。「こっち」と「あっち」のこと。「掃除係」やマスターが係わっている、「処理」。気弱な彼が、恐ろしいと思いながらも三年間止めることができないでいる理由――それは、その「抜け殻」が残ってしまうのが、困ることだからだ。逆に言えば、それ以外は困らない。……そうだ、あと少し。ちゃんと僕は、僕の言葉で言うんだ。それが、「理解する」ということだ。


「……つまり、『あっち』に行ってしまうというのは、『死ぬ』んじゃなくて、『存在自体が抹消される』こと。……『この世』に『その人が生きていた痕跡が残らない』、と、いうこと?」


 おそるおそる確かめた僕に、彼はコクコクと、何度も頷く。彼の顔は正に「すごい」と言いたげで、その視線はキラキラと輝いていて――幼い子どもみたいだな、なんて少しずれた感想が浮かんだ。と、要点を掴むことができたんだろう、という安堵感に脱力してしまう。よかった、合ってたんならそれでいい。


 ……それにしても。彼の言うことが本当のことだっていうなら、それこそ、かなりすごい。「世界の交差」によって「あっち」の世界の住人になることで、「こっち」の世界からその人の存在が完全に消えてしまう――なんて、本当にそんなことがあるのだろうか? そんな壮大な手続きに携わっているのが「マスター」? そして、「こっち」に残った体の処理を、一人行い続けているのが、彼――「掃除係」なのか。可哀そうなことに、彼は、「選ばれてしまった」、のか。


「――君は、『サインイン』を済ませている」


 唐突に彼は、話の照準を僕へと合わせる。いつの間にか下を向いていた僕は顔を上げる。ぼんやりとした顔つきの彼は、とっくの昔に空にしてしまったマグカップを眺めながら、その骨張った指を絡ませていた。


「今まで、僕がこうやって『処理』しているところを見てきた人は、全員『サインイン』を済ませた人たちだった。だから、できたんだ。『見られなかったことにする』ことが……」


「そのために、ハンマーで……?」


「そう」


 無表情に返事をする彼。彼の横顔は、どこも見ていなかった。冷たい彫刻のようだった。


「殴る前に、だいたいみんなは『死にたくない』って思うんだ。その願いが、『あっち』の世界に行くための『強い願い』になる……。僕は『あっち』の世界に行ったことがないからわからないけれど、一回気絶させたあとに改めて『処理』しても、同じように、全然『こっち』には影響がないんだ。一応と思って、『処理』した後は毎回、彼らが『ちゃんといなくなったのか』確認してるんだ。でも、いつも、『問題ない』。その人が使っていた靴箱には別の靴が入っている。その人のいた席には別の人が座っていて、その人たちは楽しそうにおしゃべりしている。それが『当たり前』だって顔して、先生も、周りの人も、みんな、忘れている」


「…………」


「君は、僕に『殺してくれ』って言った」


 僕の心臓が一瞬止まる。その時の音。彼は、言葉を紡ぎ続ける。


「もし僕がそこで殺してしまったら、『僕』が、君の願いを叶えてしまうことになる……のは、駄目なんだ。君の願いをを叶えるのは、『マスター』じゃなければいけないんだって、マスター自身が言っていた。じゃないと、『世界の交差』を起こせない。君が『この世』からいなくなったことに、皆が気付いてしまうから……僕は、君を殺せない」


 僕は、何かを言いたいのに何も言えない。あ、とか、う、とか、変な声が出そうで嫌で、逆に口を引き結ぶ。でも、言いたかった。叫びたかった。




 そんなこと、どうでもいい。僕がいなくなったことがこの世界にバレようと、そうでなかろうと。僕は、別に――。




「……でも、僕はあなたに――」


「何より、」


 彼は、強い語気で僕の言葉を遮る。思わずハッとした僕が見たのは、いつの間にかこちらを見据えていた彼の、静かで強い瞳だった。


「――『世界の交差』システムは、『人を生かすために』つくられたシステムだって言っていた。……だから、やっぱり僕は、君を殺すことはできない」













「……聞いてくれてありがとう。ちょっとすっきりした」


「はあ、そりゃどーも」


 いつの間にか空は暮れかけていた。随分と長く話をしていたらしい。僕は席を立つと、バッグの紐に肩を通す。




「巴くんは、聞き上手だね」




 予想もしなかった言葉に思わず振り返ると、彼もその場に立ち上がるところだった。彼は慣れた手つきで二人分のカップを集め、トレーの上に乗せる。さっきの言葉がどういう意図で発せられたのか分からない僕は、流しへと歩いていく彼の背に、思わず声をかけていた。


「聞いたこと、誰かに話したらどうするんですか」


 僕がそう言うと、彼はぴたりと立ち止まる。


「あ……、考えてなかった。うーん……」


 トレーを手に持ったまま、彼はぼんやりとした顔で、宙を見上げる。すべてを話し尽くしたであろう彼は起き抜けのように意識をぽやぽやとさせていて、ちっとも毒っ気がない。むしろ、それこそ、幼い子どものように頼りない。


 本当にこの人が「掃除係」でいいんだろうか……などと考えていると、彼は思い出したかのように「あ、」と言う。なんですか、と言うと、彼は僕に向き直り、小さく微笑んだ。




「でも、巴くんなら言わないと思う。そんな気がする」




 それだけ言った彼は、くるりと振り返ると、教室の後ろへと歩いていく。


 取り残された僕は、しばらくその場に突っ立っていたが、同じように教室の後ろ扉の方へと歩みを進める。ローファーは後ろ扉の出口のところに置きっぱなしにしているはずだから。と、ペタ、というスリッパの間抜けな音が響いた。そういえば、これも返さなくちゃいけないな。きっと、しばらくはここには来ないだろうから。


「尚人先輩」


 流しの方へと消えていこうとする彼の背中に声をかけると、彼は振り返る。窓から差し込む光が綺麗だと思った。蛇口から出る水で一人、マグカップを洗う彼の姿はどこか非現実的で、でも、だからこそ、似合ってるなと思った。……いいな、と思った。




「僕、かなり自分勝手ですよ」




 僕の言葉に、彼はきょとんとした顔で僕を見つめる。そうして、しばらく見つめ合っていた。


そういえば、ここから出るときは、いつも彼と目を合わせている気がする。


「……そっか」


「はい」


 僕が短く返事をすると、心なしか、彼が笑った気がした。それも、ただの気のせいだったかもしれない。




 重い鉄製の扉を開けると、熱風が僕を包んだ。突然夏へと投げ出された僕は、その空気をめいっぱい吸い込むと、非常階段を駆け下りてみる。ローファーと金属がカンカンカン、と音を鳴らすのを他人事のように聞きながら、一体どれほどの他人が、この音を聞いてるんだろうと思った。


 この世界で。この街で。この、学校の中で。


 学校には、見渡す限り誰もいなかった。自転車置き場に自転車はあるのに、人間は誰もいない。僕はポケットから鍵を取り出すと、ガシャンと音を立てて開錠する。少し高めのサドルに跨って、地面を蹴って、ペダルを踏みこむ。


 砂利道を踏みつけるタイヤの音に、タイヤが回るチキチキという音。風の音、木々のざわめきに混じって聞こえる、僕の息をする音。




 ああ、たしかに、「ここにいる」音がする。




 僕はいつもは使わないベルをチリンと鳴らす。すると、空の向こうから、「カア」とカラスが鳴く声が聞こえた。


 それが、わけもなくたまらなくて、僕は力いっぱいペダルを漕いだ。校門から出た世界には並んで歩く子どもたちや、制服を着て信号の前でたむろする中学生、上着を脱いだサラリーマンがたくさんいる。古くさい車がたくさん行き交う。僕もその世界にその身を溶かしながら、また、泣きたくなった。今頃一人でマグカップを洗う彼の姿は、さぞ綺麗なんだろうなと思った。










   ――2話「掃除係」〈終〉

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