4話:仁(①)
4・仁
僕たちが世界について語るとき、世界には二つの種類がある。
一つは「
僕たちがそれを「この世界」と言って語るとき、僕たちは必ず、自分の「外側」を意識する。この「世界」は、僕たちが認識していようがしていまいが、僕たちの外側に、確かに存在するとされている。
そのような世界に対して存在するのが、もう一つの「世界」――僕たちの「内側」に存在する、「
僕たちは等しく、常に、ある角度からしか物を見ることができない。例えば僕がある一つのサイコロを見るとき、僕は、1と2と3の面を同時に見ることはできる。しかし、その裏側の4と5と6の面を同時に見ることは不可能だ。その「視点」を動かさない限り。その「視点」を変える、つまり、僕がサイコロを持って角度を変えたり、僕自身が移動してそれを見たりすれば、僕は4と5と6の面を見ることができるようになる。が、それが見えているときには、先ほどまで見ていた1と2と3の面を見ることはできない。
では、僕がこのサイコロのことを「理解する」としよう。僕はこのサイコロには「1と2と3の面がある」ことを知っている。また、「4と5と6の面がある」ことも知っている。しかし君は、「1と2と3の面」と「4と5と6の面」が「同時に存在する」ことを、果たして証明できるかい?
もし君が、4と5と6の面を見ながら、「先ほどまで見ていた1と2と3の面は、今は見えていないが、おそらく確かに存在している」と信じるのであれば、それは少なくとも、君にとっては
僕はそれを愚かだと言うつもりは毛頭なく、むしろ、それは物質的限界を持つ僕たちの数少ない知恵だと思う。ちっぽけな体に、さらにちっぽけな眼球が二つしかついていない僕たちは、どうやったって世界のすべてを見渡すことはできない。だから、僕たちは瞬間的に「見た」物の断片を脳に送り、それらを自分の主観と経験に基づいて紐づけ、一つの、「それらしい」像を創り上げる。その像こそが「View」の世界そのものであり、僕たちが唯一絶対的に信用できる領域だ。「World」の世界の存在を僕たちは証明することはできないが、「View」の世界は僕たちが信じればその限りにおいて、絶対的に存在する。
しかし、ここで君はこんなことを言うかもしれない。例えば僕の言う、狭くちっぽけで、独断と偏見に塗れた「View」の世界に固執し、それだけを信じなくとも、「World」の世界の証明をすることができると。
先ほどのサイコロを使用して証明するとするならば、例えば僕がそのサイコロを持ち上げて1と2と3の面を見ているとき、君はその反対側に回り込んで裏側から同時に4と5と6の面を見ることができる――つまり、僕と君という二つの視点によって観測された二つの事実を組み合わせることによって、サイコロという物体は1から6までの面を持つ物体として、この世界において確かに存在することを証明することができる、と君は言うかもしれない。
一つの
何度でも繰り返そう。いくら他人から見て狭くて小さくて間違いだらけで歪んだ世界だったとしても、僕は僕の世界に客観的な正しさなんて欲しくない。僕には僕の創り上げた主観の世界があればよくて、その世界が守られればそれでいいんだ。逆に、それを否定されるようなことがあれば、僕はそいつに対して容赦はしない。
「そういえば、ここには制限時間とかないの?」
春風の吹く庭。僕らはだんだん薄まっていくカモミールの匂いを嗅ぎながら、いつまでも他愛もない話をしていた。もう何度目だろうか、自分のカップ――底の浅い、白の茶碗を口に運ぶと、ひょうはその中に金色のハーブティーを流し込む。ポットの中身は、ほぼなくなっていた。
「制限時間、と言いますと?」
「僕が『ここ』――Lの世界にいられる時間の話。例えば、ある一定の時間を過ぎたら、タイムアップで強制的に現実世界――Rの世界に戻される……みたいな、そういうのはないのかなって」
「それでしたら、心配いりませんよ」
ひょうはそう言って微笑む。相変わらず完璧過ぎる笑顔のひょうは、僕のことを「巴様」だなんて仰々しく呼ぶようになった。
「巴様が『帰りたい』と願わない限り、『世界の交差』は起こりません。ただ、月単位や年単位でここにい続けると、何かしらエラーが出るようですが」
「やっぱりか。聞いていたとおりだ」
「ええ」
ひょうは僕の「聞いていたとおり」という言葉にはつっこまずに答える。「なんだ、知っていたんじゃないですか」みたいなことを言われると期待していた僕は肩透かしをくらった。僕はひょうのことを試すことに必死だけれど、ひょうは僕を試したり陥れたりしようと思わないんだろうか。いや、考えても無駄か。他人の心なんて想像したところで正解に辿り着けるわけないし。っていうかそもそも、こいつは人じゃなくて道具だし。
ふう、と一息ついて、僕は別のこと――「世界の交差」の仕組みについて考える。これでも僕はLの世界に、その仕組みを暴くためにやって来ているわけだから。
尚人先輩が部室でマスターに会った時、マスターは彼に、「世界の交差」の仕組みに関する重要事項を話している。
――こいつは「あっち」に長くい過ぎた。今、あいつは「あっち」で過ごし始めてちょうど一年が経ったところだ。さすがに長過ぎて、「こっち」と「あっち」の時間の調節をしている俺としても、その時差を調整することはできない。そうするわけにはいかない。
この場合、「こっち」というのはRの世界、「あっち」というのはLの世界だ。マスターは初めて尚人先輩の前に現れた時、彼に、Lの世界に行ってから「ちょうど一年間経った」男の処理を頼んだ。その理由は、男がLの世界に長く滞在し過ぎたから。そして、そのためにマスターがその時差を調節することが、何らかの事情でできないからである。おそらく、その「一年間」というのが、Rの世界の住人である僕たちがLの世界に滞在することのできる目安の時間なのだろう。
そこまで考えたところで、僕はふと、一つの言葉を思い出す。
――また、ここに来ることができるように「願って」ください。貴方のその「願う力」を、「想像力」を、マスターは必要としているのです――
最初に「世界の交差」を起こした時に、ゼロが言っていた言葉。マスターは、「想像力」を欲している? どういうことだろう。普通、想像には物理的な力は伴わないはずだ。しかしマスターはそれを使って、特定の人間を別の世界へ移動させたり、その過程で容姿を変えたり、あるいは、世界そのものの構造を変えたりする。それは、僕の生きるRの世界においてもそうで――例えば僕の家の隣を、まったく別の家に置き換えてしまったりする……同じように、人だって。
そんな大がかりなことが、果たして「想像する力」だけでできるものだろうか。ここ――Lの世界はともかく、Rの世界まで。Rの世界はクソつまらない
「ところで、巴様」
ひょうは、その落ち着いた声で、唐突に僕の思考を遮る。僕は顔を上げた。思考が混線しそうだったのでちょうどいい。
「何、どうかしたの」
目が合ったひょうは、薄い唇を「ひとつ」と動かす。
「たった今、『思いついた』ことがあるのですが」
「え、もしかして」
ヒント? と訊くと、ひょうはあまり表情の変わらないやつだが、少し困ったような顔をする。
「そうなのかもしれませんね。また、『降ってきた』って感じで……ただ、」
ひょうはそこで言葉を区切る。いや、何かを言おうとしているが、言い淀んでいる雰囲気だ。なんだろう。他人を焦らすのは好きだが焦らされるのは嫌いな僕は、その続きを急がせる。
「『ただ』、何?」
「あんまりヒントっぽくないと申しますか……」
ひょうはそう言うと、手でそっと口を隠す。その所作は美しく、少し気を抜けば見とれてしまいそうな優雅さだったが――僕はそう簡単に騙されるつもりはなかった。
「何、君、僕に隠し事をする気?」
不機嫌な声を作ると、ひょうはこちらを向く。僕は上目遣いにそいつを睨んだ。
僕は、こいつをまだ完全に信用したわけじゃない。確かにこいつは僕の願いを叶えるためにここにいると言い、僕に忠誠を誓うようなそぶりは見せたが――あくまでこいつは、「マスターに用意された存在」だ。いくら忠実そうでも、あるいは逆にちゃらんぽらんで、僕に対してある種の親近感を抱かせるような雰囲気であっても、本人の意思とは関係なく、マスターの「道具」として僕を裏切るかもしれない。そんなの、絶対に困るし、許せない。本来ならそんなやつを隣に侍らせたくなんかないのだが、そこは僕がこいつを「僕の道具」として割り切ることで解決しようとしているのだ。それなのに、こいつに「心」があって、僕のことを欺こうとしているというなら――僕はこいつを捨てなくてはいけない。
「君の勝手な判断で、事実を隠したり歪曲したりしないで。君は僕に対していつも真実だけを語れ」
僕は言う。一度口を開くとカッと頭に血が上り、余計なことまで言いそうになる。僕は理性でそれを抑え込むと、一言だけ吐き捨てる。
「僕に噓をつくな。絶対に」
乾燥した口を湿らせるべく、茶碗を手に取りハーブティーを啜る。少しぬるくなったそれで火照りを冷ましていると、視界の端でひょうが向きを変え、僕を真正面から見据えたのがわかった。
「巴様」
庭先へと視線を移していた僕は、再びひょうへと向き直る。ひょうは白く華奢な指先を揃え、その薄い胸に片手を置いて、きっぱりと言った。
「わかりました。これから巴様には思っていることを、ありのままお伝えするようにします」
――その、まっすぐな視線と淀みのない言葉に、僕は逆に気圧されてしまう。
「う……うん。ちゃんと守ってよね」
「はい。お任せください」
ニコ! とポップな効果音の出そうな、ひょうの笑顔に、僕は頭がくらっとする。
今後ずっと、ひょうは僕に、噓をつかないって。そんなこと、簡単に了承しちゃっていいわけ?
僕は思わず前髪ごと額を押さえる。だって、「今後一切噓はつかない」んだぞ。そんなこと、可能か? 少なくとも、僕には不可能だ。というか、みんなそうだろう――「人間」ならば。
その言葉を追及しようとした僕は、口を開く。が、「すべてをありのまま話す」と言ったひょうにコンマ数秒遅れた。そして、口を開いたまま――次に発話されたひょうの言葉に、完全に意識を奪われてしまった。
「巴様、『学校』に行かないのですか?」
「…………『学校』?」
僕が絞り出すと、目の前のこいつは、あっけらかんとした顔で――まるで、最初から知っていたかのように、ぺらぺらと喋り始める。
「ええ、始業時刻はもう過ぎているみたいですが、どうしますか? 今から行ったら二時間目には間に合います。が、時間としてはは中途半端ですし、昼休みから行っても問題はないかと――」
「あるでしょ! 問題あるでしょ!」
思わず椅子から立ち上がった僕はひょうに食ってかかる。聞いてない! この世界にも「学校」があるなんて!
「大問題だよ! っていうかそういうことは早く言って! っていうか、『二時間目に間に合う』ってことは一時間目がもう終わってるってことでしょ! そんなのサボリじゃん! 信じられない、ホントに!」
「巴様、学校がお好きなのですか?」
何もわかっていない様子のひょうは、頭の上に「?」マークを浮かべて首を傾げた。
「ぜんっぜん! 大嫌いだよ、あんな集団監獄施設。あんなのは、いるだけでいらつく最悪の施設、クソみたいなシステムだよ!」
「ならばどうして、巴様はそんなに怒っているのですか? どうして学校に行きたいのですか?」
「行きたいわけじゃない!」
ひょうに向かって指を突き立てる。
「『行きたい』んじゃなくて、『行かなくちゃいけない』んだよ。僕が学校のことをボロクソに言うためには、『正しく』そのシステムの恩恵を受け、その全貌を知り尽くしてからじゃないといけない。君は、『権利』が保障されるためには『義務』を果たさなければいけないことを知っているはずだ、それとまったく一緒のことなんだよ、わかる?」
黙って僕の話に耳を傾けているひょうは何も答えない。僕も別に気にしない。それならそれでいいと、僕は言葉を続ける。僕は今、世界で一番自分が正当な気がした。
「相手のことをよく知らずに言う悪口が論理的根拠を持たないように、何かを批判しようと思ったら、まずはそれがどういうものであるかを見極めなくちゃいけない。それが僕においては『毎日時間通りに登校し、決められた授業を受け、出された課題をこなしながら学生生活を送らなければならない』という『果たすべき義務』であるならば、僕はその義務を全うし、相手の要求を吞むことで初めてその欠陥や矛盾について述べることができる。その方が圧倒的に論理的で、説得力があるでしょ? だから僕は、毎日サボらず遅刻もせず、学校に行くんだ。嫌だけどね! ほんっとーに嫌だけどね! それなのに今日、君が学校のことを言ってくれなかったせいで、僕の不名誉な無遅刻無欠席の称号に泥がついたんだよ!」
「それは申し訳なかったですが……。少なくとも、今から行けば『無欠席』は回避できると思いますよ」
「あのねえ、途中から学校に行くなんて絶対に嫌! 開始三分――いや一分、一秒でも最初のシーンを見逃したドラマを君は視聴できる? 僕は無理! 見るならきちんと最初から最後まで、一話から最終話まで見たいんだよ!」
「はあ……そうなんですか」
僕も話しながらわかるくらいには取っ散らかった話題と論と感情に、あまり表情を崩さないひょうも、どことなく少し呆れたような顔をしているように見える。いや、僕はそっちの好きに呆れてもらって大変に結構。趣味嗜好の類は論理云々じゃないから。僕は僕の「正当」をぶつけて気持ちよくなりたいだけなんだから、あんたが僕の嗜好を受け入れようがそうでなかろうが、そんなのまったくどうでもいいの!
「そーいうわけで、僕は授業の途中から行くとか絶対ないから。もし行くんだったら明日から行くし、曜日によっては来週から行くし。中途半端とか絶対嫌だから」
僕が言い放つとひょうは、んーと少し考えると、両手を合わせて気楽に笑った。
「わかりました。それなら今日は休んで、明日から行きましょう。欠席の連絡は入れますか? 入れなくても、割と問題はないんですけど」
「じゃーいーよ」
まあ、こっちの学校だって、「Lの世界の僕が在籍している」っていうだけで僕が在籍しているわけじゃないし。登校したこともない学校の無遅刻無欠席なんて狙ってもどうしようもないか……などと考えながら、ふと、気になったことを尋ねる。
「っていうか、こっちの世界でもいちいち学校に『欠席です』なんて連絡しなきゃいけないの? どうしてそんな微妙なところがこっちとあっちで一緒なの」
「それはわかりませんが……」
ひょうはそこで言葉を切ると、ポットを手に取り、残りのハーブティーを僕の器に注いだ。もう湯気は出ない。が、カモミールの匂いが控えめに香った気がした。
「巴様の『意識』下にあったんじゃないですか」
「……どういうこと?」
僕が聞き返すと、ひょうは穏やかな声で話し始める。
「ここは巴様の『願った』世界ですが、もしかすると、巴様があえて願わずとも、『意識』の中にあった物は形を取るのかもしれませんね。例えば『学校』や、その『仕組み』等がRの世界と同様に存在しているのは、それが巴様の『意識』の中に、無意識的に了承されていたからなのでしょう」
ひょうの考察に、僕は思わず「うん」と唸ってしまう。そうだな、僕の「意識」の下の層に了承されているものが「Lの世界」に現れているのだとしたら、納得できるかもしれない。
対して、「学校」や「欠席」のような、僕が意識せずとも存在していると信じている物やことについては、「願い」よりもはるかに少ないエネルギーで、想像――意識――Lの世界に、存在することができるのだろう。
僕は改めて自分の身の回りを見渡す。学校や、無断欠席がここに「当たり前」にあるように、テーブルや椅子、ハーブティーのポットに、春の陽気、青空、霞んだような白い雲も、確かにここに、存在する。
その多様で、多彩な光景を見ながら――僕は自分が思っているよりずっと、多くの物を「意識」の中に入れているんだなと思った。光も白もカモミールの甘い香りも、ここにある物はすべて、僕が願わずとも、僕の意識に「当たり前」として了承されて存在しているんだ――と思った。
「……ねえ、聞いてもいい?」
僕が言うと、ひょうは「はい」と答える。
「さっき君は、どうして僕に、『学校に行かないのか』なんて訊いたの」
ふと思い出し、僕はひょうに問う。改めて向き直ると、ひょうは一つ、深く頷く。
「巴様が私に『真実を語れ』と言ったからです」
長い睫毛をぱさりと鳴らし、美しい人は美しい声で語る。
「『学校に行かないのですか』――という言葉が、私の中に『降りてきた』のです。それは、私にとって、何か意味のあるものに感じられました。だから、その『降りてきた』という事実と言葉を、そのまま巴様にお伝えしました。あなたは私に、『事実を隠すな』、と言いましたから」
その言葉を聞いた僕は、こいつを。
僕の「意識」の中に突然現れた、この存在を――どこまで信じていいのだろう。
「……ねえ」
ひょうは短く「はい」と答え、僕の言葉を待つ。その時直感した。僕が――人間嫌いのこの僕が理想の他者を願うとしたら、きっとこういう存在に違いないって。
「君のこと、本当に信じてもいいの」
ひょうはその言葉を穏やかに受け止め、しばらくの間、真面目な顔で僕を見つめていた。いや、実際はそんなに長い時間じゃなかったかもしれない。でも、ここだけ時が止まっているかのようだった。
「はい。私を信じてください」
爽やかなローズマリーの風が吹き、それ以上僕たちは喋らなかった。きっともう、違和も疑念も何もかも、僕たちの前には意味をなさない。
……僕は、こいつを信じる。疑いながら、でも、信じる。信じてどこまで行けるかわからないけれど――でも、きっと「どこか」に行けるというのなら。
「――行くよ。学校に」
僕が言うと、ひょうは「はい」と返事をした。空になったティーポットの底では、くたくたになったカモミールの花たちがしずかに眠っていた。
「すぐ行きますか?」
「うん」
「わかりました。では、」
ひょうはそう言うと、黄色のスカートをひるがえして、白い家のガラス戸の方へと消えていく。そして、程なくして、再び姿を現した。二冊の本を携えて。
「お待たせしました」
ひょうは座っている僕の目の前にそれらを置く。表紙も背表紙も真っ白な無機質な本に、僕は確かに見覚えがあった。
「もしかして、部屋に散らばってた本?」
「そのとおりです」
失礼します、と僕の隣から手を伸ばし、ひょうは表紙を一枚めくる。一枚、また一枚めくって――手を止める。そして、もう一冊の方もおもむろにめくり始める。僕はその様子を眺めていたが、どれも白紙のページだった。
何をするのだろうと思っているうちに、二冊目のページをめくる手が止まる。そして、ひょうはどこからか銀色のシャーペンを取り出した。それは、僕がいつも使っているシャーペンだった。
「二時間目からと言いましたが、ちょうどいいのは二時間目の終わりですから、終了五分前を狙ってみてください。ちなみに二時間目は数学の授業です。因数分解の授業みたいですね」
因数分解。そうか、ここは春だから、授業の進度がRの世界よりも遅いのか。
なんてことを考えていると、ふっと、傍にいたひょうの気配が消えて僕は我に返った。
「ひょう!」
「大丈夫です、そんなに離れていませんから」
よく通る声に振り返ると、ひょうは、いつの間にか少し離れた場所に立っていた。せいぜい二、三メートルといったところだろうが、さっきまでずっと隣にいたからか、僕は何となく落ち着かない感じがして、体を後ろにひねる。
「ねえ、何、今から学校に行くんじゃないの」
「行きますよ。一番簡単な方法で」
後ろに立ったひょうは、腕を組んだままでにこりと笑う。
「さあ、前を向いて、目を閉じて。そして、『想像』してくださいませ」
「あ……そっか!」
僕は瞬間的に、今からひょうがしようとしていること――僕自身が起こすことを理解した。ここはLの世界、意識と想像の世界だ! 僕は目を閉じ、組んだ腕をテーブルにつけてしっかり体を固定する。僕が今から起こすのは、「世界の交差」だ。Lの世界からLの世界へと移動することも果たして「世界の交差」と言うのかはわからないけれど、呼称なんか今は置いておいて、それを起こすことに集中する。
僕が今から行くのは学校。席に着いて、シャーペンを握って――だとしたら、僕の目の前に開かれた本はきっと、「教科書」と「ノート」だ。
「想像してください。あなたは今、二時間目の数学の授業を受けています。あなたは先生の話を聞きながらノートを取っていますね。先生の説明は長引いて、最後の問題演習の時間が取れません。おそらくこれは次の授業までの課題になるでしょうね。残りの授業を聞く気がない生徒たちは、先生の話を聞くふりをして次回の課題をこっそり進め、終了のチャイムが鳴るのを待っているでしょう」
「ひょう、あのね、うちのクラスのやつらは別にこっそりとなんかしてないよ。っていうか、予習と復習は堂々としても怒られないんだ。別の教科だったり塾の課題だったりすると、先生も一応注意するけどね」
僕は目を閉じたままで言う。ひょうの言葉を聞きながら、僕は真っ暗な瞼の裏に、いつものクソつまらない、教室の授業風景を描いている。
「では、そのように想像してください。あなたが通っている学校、教室、先生にクラスメート……。想像することは、どこまでも自由です」
脳内に直接響くようなひょうの言葉。「想像することはどこまでも自由」。僕は少しだけ、口元が綻ぶのを感じた。思うのも考えるのも想像するのもすべて、非力な僕の、数少ない得意分野なんだ。
「あとは、『行きたい』と声に出すだけです」
「わかったよ。えっと――」
そう答えながら、僕は、次に自分が言うべき言葉を思い浮かべ、少しだけもやりとした。
これを口に出すのは、なんだか負けたような気がする。でもほら、これはただそこに行くための、一つの呪文のようなものだから。
「――『学校に、行きたい』」
そう言い切ると、腕にぐっと力を入れる。言った瞬間、あのわけのわからぬ眠気が訪れるはずと思っていた僕は、しばらくじっとして、待って――そして、自分の体には何も起こらないことを悟った。
一体、どうしたのだろう。僕は目を閉じ、腕を抱いたままで考える。もしかして、僕が本心から「学校に行きたい」と思っていなかったから、「世界の交差」が失敗したとか? それはありえるかもしれない。でも、そうしたら、僕は今からどうすればいいんだろう。
「巴様、目を開けていいですよ」
と、耳元で囁かれる声。
突然耳をくすぐったその声と息の感触に、首の辺りがぞわわとする。
え、もういいの? と思った僕は、おそるおそる瞼を開く。ついでに、もし近くにひょうがいたら、今度から耳元で話すのを禁止しよう――そう思い、僕は、辺りを見渡して。
「そこ」は、ひどく殺風景な教室だった。
別に物が少ないわけじゃない。普通の、いたって「普通」の、よくある教室。黒板があって、教卓があって。そこには先生が立っていて、黒板の半分ほどを数字と文字とで埋めながら、なお黒板にチョークを走らせている。それを聞いている「僕たち」生徒は六人×七列の四十人。そう、五人の席もあるんだ。シンメトリーになるように、窓側と廊下側の列の人数が一人ずつ少なくて――僕はそれを、「見渡すことができる」。
「鏡味、」
きょろきょろと辺りを見渡す僕に気がついて、先生が僕の名前を呼ぶ。その声に、ザ……ッと、一斉に生徒たちが振り返る。瞬間、僕は悲鳴を上げそうになった。
「どうした、気分でも悪いのか」
「っ、いえ……」
震えそうになる声を押さえつけながら、僕は先生の顔を見ている。――目が、離せないでいる。
その時、先生は僕を通り越した、その奥に向かって声をかけた。
「結花、鏡味は大丈夫なのか」
僕は勢いのままに振り返る。そこには――先ほどまでと同じように両腕を組み、教室の壁にもたれて立っているエプロンの人物――結花ひょうが、完璧な微笑みを湛えていた。
「はい、主人なら大丈夫です。ご心配おかけして申し訳ありません」
「そうか。何かあったらすぐ言うように」
「はい。お気遣いありがとうございます」
「あの‼」
耐えられなくなった僕は大声を出した。また、先生と生徒は僕の方に、「顔を向ける」。おそらく、僕の顔を「見ている」のだろう。きっとそうだ。きっとそうなんだ――と思うが。
僕はもう一度、「窓際の」、「一番後ろの」席から彼らを見渡して。
彼らの顔には、どれも、「目だけがない」ことを目の当たりにした。
「……あの、この人不審者です」
僕はひょうを指差す。ひょうは表情を変えず、目のない先生に訴える僕の様子を見ている。
「女ものの制服にエプロンつけて、変な格好ですよ。それで、教室の後ろで授業も受けていない。こいつ、相当怪しくないですか」
「何を言ってるんだ、鏡味」
僕の言葉に、先生は「不思議そうな顔をした」のだろう。表情もわからないのに、僕は心臓の表面をざらりと舐め取られたような心地がした。
「結花はお前の従者だろう。入学の時に申請しに来たじゃないか」
「そう……でしたっけ……」
「お前、夢でも見てたんじゃないのか」
先生の言葉に、教室のあちこちからクスクス、クスクスという声が聞こえる。もう誰が笑っているのかもわからない。誰が誰かもわからないんだから。
「顔でも洗って来い、と言いたいところだが……。今日はここまで。日直、」
「起立」
ガタガタガタッと椅子を鳴らし、一斉に生徒が立ち上がる。
「礼」
「ありがとうございました」
次々と下げられる、灰色の生徒たちの頭。それらは木琴のばちみたいに沈むと持ち上がり、しばらくすると、まだチャイムの鳴らない教室に、彼らの喧騒が広がった。
ワイワイ、ガヤガヤと聞こえるその声は、どう耳を凝らしても、何を話しているのかわからない。いや、それらしい音がただ出ているだけで、彼らは「何についても喋っていない」。ただ、その音の震えが、まるで教室の喧騒のような何かを創り出し――「教室」という概念を表現している。
僕は、乾いた唇を舐める。そして、理解した。「ここ」は、普遍的で、画一的で、そう――。
「『普通』の学校だ……」
これが、「僕の
そんな、記号化された世界。だから殺風景なんだ。ここでは、先生も生徒たちでさえも記号化され、画一化されている。彼らは「人間」ではなく、「記号」だ。僕によって個性を消された、ただ「学校」というステージを作るために用意された、半透明のモブたち。
「ひょう!」
再度振り返ると、そこにはもうひょうはいない。ただ、ひょうの立っていた辺りの棚の上に何かが置かれている。おそるおそる近づいてみると、そこには生物と世界史の教科書にノート、そして小さな紙切れが置いてある。僕がそれを手に取ると、ちょうど電子音のチャイムが教室にこだました。
『昼休み、屋上に来てください。お昼を用意してお待ちしています。 ひょう』
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