1話:iPod(③)

 ◇


 僕には痛みがわからない。正確に言えば、他人の痛みがわからない。

 なぜなら他人の痛みは感じようがないから。いくら目の前で他人が怪我をして、その腕から赤い血が流れ、涙をボロボロこぼして泣いていても、僕にわかるのは、その人が怪我をして血を流していること、そして、その怪我は涙が出るほどの痛みを伴っているということだけである。

 嬉しさや悲しさ、怒りや快さもそうだけど、自分ではない人の「痛み」は、何か数値のようなもので計測することも、それを変換して自分の痛みとして体感することも不可能だ。他人の痛みは、そのものを計測するのではなく、それに関係するあらゆる情報を統合することでしか、推し量ることができない。

 「人にされて嫌だと思うことをするな」という言葉があり、これは小学校や中学校の道徳の時間で何度も言われたことがあると思うけど、僕からすれば、「自分の『人にされて嫌なこと』イコール他人の『人にされて嫌なこと』」という図式が成り立っている――という仮定自体が、そもそもとんでもない勘違いであるように思える。そしてその図式を適用することにより世界が平和になる、と信じて疑わないやつは、それこそよほど脳味噌が平和なやつか、自信過剰で自己中心的で、傲慢な人間なんじゃないかと思う。

 誰もが気づいていることだと思うけど、この世には、「まったく同じ」人はいない。「まったく同じ」ということは「イコール」ということで、その等式の右辺から左辺を引いてゼロになった時に初めて、それは「等しい」と言うに値する。が、二人の人間を横に並べて片方から片方の要素を引いたとき、必ずそこには何かが残り、「ゼロ」となることは決してない。肉体的特徴にしろ、ものの考え方にしろ、そこには必ず他人との差異があり、その差異がある限り、逆に僕たちはこれから関わっていくであろうどんなやつらとも、ものの見え方も、感じ方も、考え方も、同じになることはないのである。

 と、いうことはつまり、僕たちが見たり、感じたり、考えることによって形成される、「今目の前に広がっていると思っているもの」――「世界」というものは、それを形成する人間が異なる限り、異なっている。ものの見方や触れ方、その組み合わせ方や、そこから受ける印象が異なる限り、同じものを見ていたとしても、きっと「別のもののように見えている」。僕たちは、自分自身の眼球でしかものを見ることができないし、自分自身の脳でしかそれを処理することはできない。僕たちは他人のものの見え方を見ることはできないから自分のものの見え方と比較・検討をすることはできないが、「自分と他人はまったく違う存在だ」という前提条件が成り立つ限り、そのことは真だと決めつけてしまってもいいだろう。

 そう考えると、こうは言えないか。「自分」という人間は、自分が見ている「世界」を形成する創造主、ある種の「神」なんだと。そしてもし、人生は一つの小説であると仮定するのであれば、その世界を形成し、ストーリーを構築していくための主導者である「僕」こそが、この物語の「主人公」なのだ。

 僕たちには、生まれながらにして様々な権利が保障されているが、その中には、自分が自分らしく生きていく権利もある。つまり、僕たちには、自分が自分らしく、自分のものさしで、自分の勝手で自分だけの「世界」を形成する権利――自分の領域において「神」になる権利、「主人公」となる権利を認められていると解釈するのも妥当だろう。だって、他人からすればそれは止めようがない。「止めろ」と言ったところで、僕らは僕らの眼球で、僕ら自身の脳で「世界」を形成することを止められない。他人にどうこう言われる筋合いはない。僕らが「まったく異なる」存在である限り、僕らは他人の考えを完全に理解することすらできないし、理解する必要も、「理解できない」と気に病む必要もない。

 僕は、僕だけの「世界」を作り、その中で生きていけばそれでいい。下手に他人に干渉する必要はないし、他人が干渉してきたらそいつを追い出す権利がある。僕は、自分の「世界」に干渉されたくないし、けちをつけられたくないし、自分の「世界」をめちゃくちゃにされたくない。余計な物に混じられたら困る。嫌だ。そういうことをする人間が、僕は「世界」で一番大嫌いだ。

 自分の「世界」は自分で作るものだ。僕はその権利を最大限に行使したい。その権利を振りかざし、僕が作りたいのは「僕だけの世界」だ。余計な存在も、余計な感情も、僕以外の存在の何もかもが排斥された「他者を必要としない」世界で生きるために、僕はもっと強く、賢くならなくてはいけない。他人の意見や考えなんて必要としないくらいに、僕自身が強く、賢くなりたい。僕はとにかく賢くなりたいんだ。もっともっと、今よりずっと、賢くなってしまいたい――。

 ふと、気がつけば、僕は真っ暗な闇の中を漂っていた。

 周囲には、床や壁や、その他の物体の存在をまったく感じない。重力すらも感じないせいで、僕の体はまるで、宇宙遊泳をしているかのように自由だった。

 何というか――、楽だ。とてつもなく楽だ。

 「僕」という感覚がしっかりとありつつ、それ以外の感覚がまったくない。何もないから、周りのことについて考える必要が何もない。自分という存在だけに焦点を当てればそれでいい世界。楽だ。なんて楽なんだろうか。

 僕は寝返りのようなものを打つと、瞼を閉じた。音もない。風もない。匂いも、人の気配もない。

 怖くはなかった。それにそもそも、生きるのも死ぬのも、僕にとってはどうだっていいことだ。だって僕は、いつかは、最終的には、死ぬ運命にある人間なんだもの。

 ……どうして唐突に生きるか死ぬかという話になったかというと。

 端的に言えば、僕は今、自分の死を予感していた。

 先ほどまで、僕は夢を見ており、自分の精神は無意識の世界を浮遊しているのだと思っていたのだが、なぜだろう、それにしては妙に、まるで起きているかのように、意識がはっきりとしている気がする。何かを触ることで自分の感覚の状態を確かめることができたらいいのだが、いくら闇の中を漂っても、小さく腕を伸ばしても、突き当たる物は何もない。

 ――死が、迫っているのかもしれない。

 もしこれが本当に死であるとすれば、僕は今、僕の生きていた「現世」から「あの世」に繋がる道を通っている途中なのかもしれない。生きているときはあの世なんてないと思っていたけれど、こう死んでみると、あの世もありそうな気がしてくるから不思議だ。

 いや、ここはまだ現世で、あの世とやらに着いた瞬間に、僕の意識なんてものはなかったことにされるのかもしれないが。そうなるのだとしたら、あの世なんてないも同じだ。だって、僕に知覚されない限り、それは、僕の「世界」に存在することはできないのだから。

 僕は深呼吸をして、この世の物かどうかもわからない空気を吸う。脳はなんとなくぼやけたままで、吸ったのは酸素じゃなかったのかもしれないと思った。僕は頭の中で遺書を書く。誰にも読まれることのない遺書を書くのは無意味な気がしたが、他にすることがない。


  僕は今から死ぬみたいです。

  父さん、そして母さんへ。

  これからは、自分の好きなように生きてください。


 言いたいことはそれしか出てこない。存在しないペンを存在しない机に置くと、僕は無の世界を漂いながら、僕自身のことを考える。

 ――死ぬ直前になったら、もっといろんな欲が湧いてくるかと思ったのに、がっかりだ。

 両手を組んで腹の上に置くと、実際に見たことはないが、棺桶の中に入った遺体のような気分だった。

 ――死ねるのか。とうとう。

 暗闇の中に意識を溶かしていくと、意識だけじゃなく、体さえも、足のつま先からとろけていくような感じがする。「僕」と「僕以外」の境目がなくなっていく感覚に、僕はぴたりと瞼を閉じる。

 息を大きく吸って、少し止める。そして、倍の時間をかけて吐く。リラックスする手段として、体育の時間に教えてもらった腹式呼吸。僕の意識はもう、あるようなないような――よくわからなかった。

 その時、完全に閉じていた瞼の向こう側で、何かが強く光った。

 反射で目を開けると、暗闇に慣れた目にその光は眩しく、眼球の奥が焼けつくように痛む。薄く開いた瞼からその光を見ると、暗闇の奥から伸びてくる光が、何か、動きを持っているのが見えた。


 ――それはまるで、いつか見た海岸線のような。


 いくつもの光の線が波打つように揺れながら、向こうから漂ってくる。それらは絡まることなく、さらさらと僕の方に流れてきて、手を伸ばせば届く距離まで接近した。

 よく見ると、光の一本一本は、さらに細い光の線が寄り集まってできているらしい。糸と同じだ、と思った。これは線というより、糸なのだ。

 糸といえば、僕は、ここに来る前に何かを聞いていたような気がする。

 糸、糸。運命の、赤くないけど、「糸」。


 ――そうだ、「彼女」が言っていた。


 キラキラと光りながら僕の方に漂ってくる糸は、僕の体に触れることなく、ゆっくりと僕の周りを囲う。

 僕は手を伸ばそうか迷った。が、僕は伸ばしかけた手でそのまま膝を抱えると、顔をうずめた。そうすると、僕の目にその光は届かなかった。僕は、それを拒むことを「選択」したのだ。

 それが、僕が今考え得る中で一番の、最適な「選択」――僕の「運命」だった。


 その時、僕の左腕が、突然ひっぱり上げられる。

 顔を上げると、左手には無数の糸が絡まっている。

 いつの間に。慌てて糸を払おうとしても、糸は何重にも巻きついていて取り払うことができない。

 どこから伸びてきてるんだ。光の糸が伸びてきている元を目で追いながら、空いている右手で僕は、ゆらめく光の束を鷲掴みにした。


 次の瞬間、掴んだ糸の束が弾けて、無数の光が辺りに飛び散った!


 周りの闇が光に塗り替えられていく。思わず腕で顔を隠し、両目をぎゅっとつぶった。

 飛び散る光の粒が腕に、顔に、体にぶつかる。ピシピシッ! と、粒が腕や頬にぶつかっては弾ける感覚に耐える。光にも質量があるのか。あたたかくも冷たくもない、ただ「何か」がぶつかるその感覚を受け入れていると、ある時急に、ふっと、その衝撃がやんだ。

 ゆっくり、おそるおそる両目を開くと、驚いたことに、そこには真っ黒な、大きい部屋が広がっていた。

 部屋というよりは、巨大な箱の内部といった感じ。真っ黒に塗られた広く大きな壁が側面、天井、そしていつの間にか足元にも床として現れ、無限だと思われた空間に境界を作っている。

 試しにその上を歩いてみると、コツ、コツ、と足音がする。重力もきちんとあるようだ。そういえば、先ほどまで僕は素足だったはずだが、いつの間にか僕は登下校用のローファーを履いていた。

 なぜ光に包まれた視界が、再び真っ黒に戻ったのだろう。まあ「戻った」といっても、闇の色と物体の色だから、二つの黒色の質は違うのだが……、などと考えていると、突然、僕の目の前に、一筋の光が降りてきた。

 最初細かった一筋の光は、だんだんと焦点をこちらに向けてくる。そして、それが足先に触れた瞬間、急にスポットライトのように強い光となって僕の体全体を照らし出した。さながら、映画やアニメでよく見る、路地裏に追い詰められた犯人のようだ。


「ようこそ、『世界の交差点』へ」


 どこからか響いてきたのは、男の声だった。顔を上げると、少し離れた上空に、男が一人、椅子のような物に腰かけている。あんなに高い所に椅子があるはずがない、と目を凝らしてみるが、それは確かに椅子の形をしている。いや、どちらかというと、一人がけのソファだろうか。男は肘かけに片肘を乗せていた。

 男は宙に浮いているように見えるが、まだ目が慣れていないのと、少し距離が離れているのとで、その様子はよく見えない。ここからじゃ男がどんな顔なのかは見えないが、ただ、男がこちらを向いているのはなんとなくわかった。

 僕が様子を窺っていると、

「お前の願いを言ってみろ」

 男は唐突に、僕に言葉を投げかけた。

「は?」

 思わず出た声が、周りの壁に反響する。男は低い声で続けた。

「言え。ここではそれが許されている」

「ちょっと、何言ってんの」

 僕がそう言うと、よく見えなくても男が不思議そうにしているのがわかった。

「……『サインイン』したのだろう」

「『サインイン』?」

「黒板に名前を書いただろう。それと、お前には願いがある。その二つさえあれば、お前は『ここ』を通過する権利を与えられる」

「何を言ってるかさっぱりなんだけど」

 僕は苛立ちながら言った。どうも、こいつは知能指数が低そうだ。なぜなら、こいつはこちらの理解度をまったく無視して話を進めてくる。自分ではわかっていることを「他人もわかっている」と仮定して話を進めるのは、馬鹿のすることだ。本当に頭のいいやつはその辺を瞬時に汲み取り、自分がどこから説明すればいいかを判断することができるもんなんだよ。

「少なくともお前よりかは、知能指数は上だけどな」

 頭の中で繰り広げられていたいつもの他人批判が、停止する。思わず頭上で静止する男の姿を目で捉え、ぽつりと言葉を漏らしていた。

「……あんた、なんて言った?」

「お前よりかは、頭はいいと言ったんだ」

 男は長い脚を組み替え、黒の椅子にふんぞり返る。僕はそのはるか下で男を見上げながら、呆然としてしまう。どうして、僕の考えていることが、わかったんだ?

 徐々に明るさに目が慣れてきた僕は、改めて男の輪郭を捉えようとする。着ているのは、黒いタートルネックに黒のジーパン。洋服と同じく真っ黒な髪は櫛が通っていないようなボサボサで、その長い前髪に覆われた目元はやはりよく見えない。ただ、男の口が小さく動き、耳障りな言葉を紡ぐ様子は、なぜかよく見えた。

「俺はお前の考えていることが手に取るようにわかる。なぜなら、ここの管理人は俺だからな。今、お前は俺の世界の中にいて、お前は俺に管理されている立場なんだ」

「わけのわからないことを一気に喋らないでくれる」

 いらいらしてきた僕は、その場で両足を肩幅に開いた。そして一回こぶしをきつく握ると、ゆっくりと開く。相手に気づかれないように小さく深呼吸をし、男を見上げる。なんだ、こいつ。何、馬鹿なこと言ってるんだ?

「あのさあ、僕の考えてることが手に取るようにわかるってんなら、僕が今、あんたに何を言おうとしてるのかもわかるんだろ。でもあえて言わせてもらうけど、あんた、本当に馬鹿だねえ。何でもかんでもわかったような顔して、この世界は自分中心に動いていますって態度でふんぞり返っちゃってさあ……可哀そうに見えるんだよね、そういうの。あと、僕が今、あんたに管理されているって? だから僕が今考えていることがわかるって言うの? どういうことだよ、そんなわけないじゃん! 僕の視界は僕だけのもので僕の思考も世界も僕だけのものだから! あんたが何者なのか知らないけれどさ、他人のあんたが『僕』の世界を読み取ることなんてできるわけないじゃん!」

 そこまで言い切って、自分がだいぶ興奮していたことに気がつく。柄にもなく、出会ったばかりの人間に対して冷静さを欠いてしまったことを後悔していると、頭上の男は、先ほどと変わらないトーンで、最初にしたのと同じ質問をする。


「お前の望みを言ってみろ」


 男はちっとも動揺していないようだ。よく見ると、男には感情というものが欠落しているような、そんなふうにも見える。

 僕はだんだんと、この男に対する嫌悪感で頭がいっぱいになってくる。こいつのものの言い方も態度も、何もかも気に食わない。目には目を、嫌悪感には嫌悪感を。どうでもいいやつなら復讐するだけエネルギーの無駄なのだが、こいつはここで一度言い負かしておかなければならないと思った。僕は思考を切り替え、どのような手口で、あのムカつく男のミスを引き出すことができるか考えることにした。

 相手の弱点を突くためには、まず相手を知るところから。少し冷静さを取り戻した僕は、彼の言葉の中で気になったことを、順に訊いていくことにする。

「ねえ、あんたの言う『俺の世界』って何?」

「今問いかけているのは俺の方だ」

「さっきからあんたは僕の質問に答えてないね。質問に答えないあんたの方が不誠実だ。いい加減そっちの誠意を見せてもらわないと困るよ」

「質問の答えなら、『ここ』を通過すればわかる」

「『ここ』って一体どこなの?」

「『ここ』は『世界の交差点』だ」

「それは何?『世界』と『世界』が交わる所で合ってるの? だとしたら、その『世界』って誰の世界? もしかして、僕とあんたのってこと?」

「違う。さあ、願いを言うんだ」

「あんたは説明が下手なの? それとも説明したくないとか?」

 男の体がわずかに動いたのを察知して、僕は言葉を続けた。

「もしそうだったら言うわけにはいかないね。あんたのこと信用できないし、納得もできないから。っていうか、あんた、僕の考えてることわかるんでしょ? なら僕が言う必要ないじゃん」

「『声に出す』必要があるんだ」

 男は静かにそう言った。

「『思う』ことは簡単だ。誰にだってできる……。だが、それを『実行する』ことは難しい。何かを『実行する』には、『思う』ことよりも大きなエネルギーを必要とするからだ」

 言い終わった男は頬杖を突き、僕のことをじっと見つめる。もう男の輪郭ははっきりとわかる。でも、ボサボサの髪に覆われた瞳はよく見えない。もう少し近づいたら見えそうだと思ったが、下手に動くのはやめた。今、とてもいいところだから。

「さあ、言え」

 男の声は今までよりも強い響きを持っていた。頬杖をついた手の指でこめかみをトントンと叩き、見るからに苛立ってきた。

 なんなのだろう。先ほどまではまるでロボットのように無感情だったのに、急にいらいらしちゃって。思い通りに行かないことがそんなに悔しいのか? それとも、時間制限でもあるんだろうか。

 どちらにしてもこの様子だと、会話を引き延ばした方がいいな。こちらが優勢になるのだったら徹底的に焦らしてやろう。あいつが僕の言葉を待っているのであれば、僕は何も言わないだけでいい。

「言えと言っているんだ。お前にも願いがあるだろう」

「さあ、どうだろうね。言ったらあんたに叶えてもらえる?」

「ものによっては叶えられない。俺ができるのは、お前を『願いを叶えることができるお前に変える』ことだけだからな」

「何それ」

「俺はお前を『変える』が、『変わろうとする』のはお前だってことだ」

 男は頬杖をやめて、背もたれに体を預ける。その様は、弱い動物が自分の体を大きく見せ、威嚇するときのそれと同じだ。男の前髪の下から殺気立った視線を感じるが、僕はちっとも動揺しない。むしろ、これからだと思うとワクワクした。あの不健康そうな、めずらしく心から気に入らないと思える男を、この手でいじめ抜いてやることができるのだと思うとさ。

 僕は右足を重心にして立つ。そして後ろで手を組む。首を傾けて、意識して上目遣いを作り、男の姿を斜めに捉える。

「『あんたが僕を変える』って? 笑わせるね。自分を変えるのは自分。自分の世界を変えるためには、自分自身が動かないといけないのと同じようにね」

「俺はお前の望みを通じて、お前を変える力を持っている。だから早く言うんだ。自分がどう変わりたいか、変わって何を叶えたいのか」

「言わないよ。だって自分の望みなんてプライベート中のプライベートでしょ。あんたに言う義理はないし、あんたはそのプライベートを透かして見てるって言うじゃないか。さらにそれを口に出させたがってるなんて、もしかしてそういう変態趣味?」

「言っている意味がわからない。お前にも望みがあるんだろう? さっさと言ったらどうだ。叶えてやると言ってるんだ」

「その上から目線、本当に鬱陶しい! 『変えてやる』って、どこからそんな自信が湧いてくるのか知らないけどさ、そういう態度って絶対後で痛い目をみるよね。理由も語らず命令ばっかりして、それで他人が動くと思ってるの? そんなことばっかしてたらどんどん人が離れていって、それで最後には独りぼっちになるんだ。可哀そうだよ、ほんとにね」

 そう言い、上空からでもよく見えるように慈悲深く微笑んでやると、男の口が歪んでいくのが見えた。肩はだんだんと強張っていき、肘かけに置いた手が小刻みに震えている。

 怒ってるのかな。

 そう思うと僕は背筋がゾクゾクして、男のために作ってやった笑顔が本物になるのを感じた。心臓が高鳴り、僕はやっとのことで口に溜まった唾を飲み込んだ。

「『お前にも』ってことは、あんたにも願いがあるんだね。それは何? 僕、あんたと違って知能指数が低いらしいからわからないなあ。ねえ、教えてよ。口に出して言ってみて。あんたは、まずあんた自身が変わらなきゃいけないんじゃない?」

「うるさい‼」

 突然、四角い空間の中に男の大声が響いた。僕はその剣幕に押されて、思わず一歩後ずさる。

「早く言えと言ってるんだ! 願いがあるのだろう、それを叶えてやると言っている! 早くしたらどうなんだ‼」

 男はソファから立ち上がり、床のない空間に仁王立ちをして、こちらを見下ろしている。立ち上がった彼は、長身の若い男だった。両手を固く握り締め、そのボサボサの髪ごと小刻みに震わせている。

 先ほどは少し驚いたが、僕はもう男のことは怖くなかった。怒っている人間は怖くない。

 なぜって、それは相手が自分のペースを失っているということだから。つまり今、圧倒的に、勝機は僕にあるってわけだ。

 わなわなと震える男は完全に冷静さを欠いている。その様子を見ていると僕は、歪んだ満足感と高揚感を覚えてしまう。僕は、今だったらこの男に、何だってできそうな気がした。

 どうやったらこの男を完全に降伏させられるか。じっくりと、頭の中で作戦を練ろうとした時、怒りに震える男が、その口を開いた。


「お前の顔は本当に、あいつに――」


 ――あいつ? 僕が聞き返そうとした瞬間のことだった。

 ピシ、と、僕の体は氷漬けにされたように、動かなくなる。金縛りだ、と思った。腕も足も、まったく動かない。動かすことができない、のか?


「失礼いたします」


 静かな声が部屋に響くと同時に、僕の心臓がギュッと縮んだ。なんだ……この感じ。金縛りのせいか、息をするのが急に苦しくなったような。

「……ゼロ」

 男は小さな声で呟く。その声には、先ほどまでの怒りは込められていなかった。見ると、男も仁王立ちのままでその場に固まっている。

 男の視線の先にいたのは、丈の長いメイド服に身を包んだ、不思議な少女だった。少女はスポットライトに当たっていないのに、自然に発光しているかのごとく、ぼんやりとその小柄な体躯を、僕と男の間の空間に浮かび上がらせる。

 長くてさらさらとした黒髪は、髪で大きな蝶結びをしているかのようにくるんと二つに縛ってある。こめかみの辺りには大きな真珠のような髪飾りが揺れていて、彼女自身もその髪飾りと同じような真白の瞳を備えていた。フリルのついた半袖ブラウスからはほっそりとした白い腕が伸びており、長めのスカートから覗く黒のローファーは、やはり、この空間のどこにも着地していなかった。

 空中にふわりと佇んでいる小柄な少女は男の隣まで歩いて行くと、男に、そして僕に一礼をした後、川のせせらぎのように澄んだ声で話し始めた。

「初めまして。私はゼロと申します。そしてこちらの御方が私の、そしてこの『世界の交差点』のマスターです」

 「ゼロ」と名乗る少女は、その静かな丸い瞳で僕を見つめた。僕は、真珠のような真白の瞳を生まれて初めて見たが、恐ろしいという感情は湧き起こらない。むしろその瞳に見つめられると、さっきまであんなに昂っていた感情も途端に凪いでしまう。

 彼女は自身の名乗りを終えると、その隣で無様に硬直している男に、やはり穏やかな声色で語りかける。

「マスター、私から説明をしましょうか。『世界の交差点』のこと、ここに立ち会った人間が次に行く世界のこと――」

「その必要はない!」

 男がゼロを怒鳴りつけると、聡明そうな少女は深々と頭を下げ、礼儀正しく謝罪の言葉を述べた。

「申し訳ありませんでした、マスター」

「あいつには何も教えなくていい、必要がない!」

「……あれ、そんなこと言っちゃっていいのかな」

 気がつくと、僕は二人の会話に口を挟んでいた。

 男と少女の視線が僕に集まる。体は不自由だったが、かろうじて口を動かすことはできるみたいだ。乾燥した唇を舌でゆっくりと舐ると、あの男を再び不快な気分にさせるための言葉が、口を衝いて出てくるのを感じた。

「僕はいいんだけどさあ、『マスター』だっけ? あんた、このままじゃその子にも嫌われちゃうね。さっきも言ったけどさ、あんた、その子にもそんな態度とってたらさ、いつか愛想尽かされちゃうよ。マスターだかご主人だか何だか知らないけどさ、あんたにはもうついてこなくなるよ――」

「黙れ‼」

 ビリビリッ! と、空気が音を立てて震える。男が叫んだのだ。その声は、キレたというより発狂したと形容するべき、狂気じみた声だった。

 男の体も金縛りにあっているのか動きを封じられているようだが、身にまとったオーラと殺意はまるで獣のようだ。手足はぶるぶると震え、息は肉食獣のように荒く、体の制約さえなければ、いつ襲いかかられてもおかしくない。

 隣の少女から発される光に照らされ、僕は初めて男の顔を直視する。その眉間にはいくつもの皺が深く刻まれており、深く濁った漆黒の瞳は、ギラギラと燃えるように光っている。そして、その狂気に満ちた瞳がぎょろりと僕を、僕だけを捉えた時、僕は初めてこの男に対して、背筋の凍るような恐怖を覚えてしまう。

 それでも、ここまで来たんだから、後に引くわけにはいかない。僕が口を開こうとすると、またしても少女の「失礼いたします」の声に阻まれた。見ると、少女は無駄のない動きで僕に体を向けるところだった。その佇まいは堂々としていて、美しい。

「貴方の名前は『鏡味巴』様ですね」

「っ、そうだけど」

 どうして知っているんだ、と言おうとした瞬間、僕の金縛りの範囲は一気に口にまで及ぶ。「どうして」の「ど」の形に開きかけた口はそのまま、ぴくりとも動かすことができなってしまった。

「貴方にはサインインを済ませていただきました。よって、もう、『始まっている』のです。貴方が『あの場所』で、強い願いを抱きながら貴方の名前を書いた時から、もう――。貴方が『ここ』に来ることも、マスターに会い、その願いを言うことも、すべては『決まってしまいました』」

 ゼロの声は、聞いていると、自然と心が落ち着く。しかし、無理やり全身の自由を奪われている僕は、男に対する不信感や、彼らに対して沸き起こってくる疑問を押さえつけることはできない。

「私も、そしてマスターも、貴方が何を考えているのかわかります。貴方の願いだって」

 噓だろう。誰に、人の考えを完全に読むことなんてできない。

「いいえ、できます」

 ――ちょうど今、まるで、僕の思考と彼女が会話しているみたいになっているのだって、絶対に偶然だ。そのくらいの受け答えなら、頭を使えば僕にだってできる。ハッタリだ。

「いいえ、ハッタリではありません」

 開きっぱなしの口の端から、飲み込むことができない唾液がこぼれていく感触がする。それが不快で、いつそちらに意識が集中してもおかしくはないのに、どうしても、どうしてもゼロから視線を外すことができなかった。ゼロは顔色一つ変えずに僕を見つめ、静かな口調でこう言った。

「貴方には願いがあります」

 ゼロの、まるで冬の夜の空気のように澄んだ声は、この空虚な空間によく響く。

「ここに来るために必要だった願いが。――しかし、今は違う。貴方は、新しい願いを持っていますね」

 心臓がバクッと、音を立てて跳ねる。

 その瞬間、僕は上半身が自由に動くようになったことを直感した。自由に動かせるようになった手で口元を拭うと、上体だけゼロに向け、そのまま大声で語りかけた。

「そうさ。だから何だって言う? 二人して僕の考えていることがわかるからって何なんだよ、そもそも気持ち悪いね! 僕は人からわかったようなことを言われるのが大嫌いなんだ! 僕のことを支配しているつもりかもしれないけど、そうはいかないよ!」

「『自分の嫌いな人から』支配されるのが嫌、なんですよね」

「そうさ。当たり前でしょ!」

 手を広げ、でも余裕があることを示す笑みは絶やさずに、僕は声を響かせた。

「だから、僕はその男が大嫌いなんだ! とんでもなく言葉足らずなくせに傲慢で知能指数の低いバカ、怒鳴れば何でも解決すると思っている幼稚さが気持ち悪いし、そんなやつに支配されているとか思考を読まれていると思うと虫唾が走るよ! いいよ、言ってあげる。僕の『今の』願いは、欲求は、その鬱陶しい男を完全に降伏させること、僕を支配しているなんて言わせないこと!」

 僕は、こちらを睨み続けてくる男に、人差し指を突きつける。これは、僕からの宣戦布告だ。心の底から不快感を禁じ得ない、お前なんかにするのはもったいないかもだけどさ。


「そのために、お前の言ってるわけのわからないもの、お前が『管理』していると言うもの、その仕組みをすべて暴いて、お前の見ている『世界』をぶっ壊してやる!」


 外壁となっていた黒い壁が、パァンという破裂音とともに、崩壊した。

 鉱石のような黒い破片が、辺り一面に飛散する。粉々に砕け、細かい粒子のようになったそれが、湧き立ち、吹き荒れながら、僕たちの間に降り注いできた。

「貴方の望みを叶えましょう」

 その声に顔を上げると、ゼロが、いつの間にか倒れ込んでいた男に寄り添いこちらを見下ろしていた。男はいつ気を失ってしまったのだろうか、少女の細い腕の中で力なく目を閉じている。その表情からは先ほどまでのような殺気を感じない。むしろ、あどけない子どもの寝顔のようにも見える。

「……ですが、今日はここまでです。また、日を改めてお越しください」

「っ、ちょっと待って!」

 僕と彼らの間の空間を、真っ黒な塵が信じられない速さで埋めていく。まだ下半身が動かない僕は、視界を塞ごうとする無数の黒い砂を、両手で掻き分けていくことしかできない。まだ、まだ聞きたいことがある。ここでゲームオーバーになるわけにはいかないと、僕は上空にいるゼロに向かって声を張り上げた。

「僕は、またここに来るの? またここで、こいつと話をすることがあるの?」

「――貴方がそれを望むなら」

 払っても払っても積もっていく砂は、いつの間にか僕の胸の辺りまで来ていた。僕は、再び自分の「死」を直感していた。それらしい理由は特に見当たらないのに、ただ、漠然と「時間が足りない」ことを、体が、脳が、予感していた。

「貴方はサインインを済ませておられます。故に、貴方にはいつでも『ここ』を通る権利があります」

 ゼロの声がだんだん遠のいていく。

「ですが、次に来たとき、直接『ここ』に来ることはないでしょう。そして、マスターに会うこともしばらくはないでしょう。もし、それでもマスターに会いたくなったときは、強く、『願う』ことです――貴方が『ここ』に来る時、確かに貴方が『願った』ように。『願う』ことこそが、『この空間』における、すべての原動力なのです――」

「ま……って! もう一つ、聞きたいことがあるんだ!」

 すでに肩まで完全に埋まってしまった僕は、残しておいた右手で、口元に積もる砂を払いながら声を張り上げた。

「さっきはあんなこと言ったけどさ、僕はもともと願い事なんかしていない! 何も『願って』ないんだよ! 何かを強く願いながら自分の名前を書くことが『サインイン』だと君は言ったけど、僕は全然違うんだ!」

 僕は説明を試みようとした。全部思い出して、口に出すんだ。「ここ」に来るまでの経緯。誰に連れられ、どんな会話をし、どのような場所に連れてこられたか。また、僕が「サインイン」と呼ばれる行為をしている時に、何を考えていたか。その時果たして、僕が「何か」を願っていたのか、それとも――?

 と、突然、頭が割れそうに痛んだ。黒板に名前を書いた、あの時の状況を整理しようとした瞬間に、一気に。どうしてこのタイミングで。

 ぐわんぐわんと、視界が揺れる。思い通りに動かせていた右手が、脳が、一気に鈍くなった感覚。この感覚、どこかで――そう、多目的教室――「創作部」で、僕は眠りについたんだ。

「貴方の中には、強い願いがあります」

 遠のいていく意識の中、ゼロの声が聞こえる。その姿を確認するべく瞼を開こうとしたが、それすらもできなかった。もう、体には一切の力が入らない。強烈な眠気に脳を支配され、僕の意識は砂の中へと埋もれていく――文字通り。


「私は『それ』が何であるのかを知っています。それは確かに貴方の強い願いであり、マスターならそれを叶えることができます。――しかし今、『世界の交差点』に訪れた貴方には、別の、強い願いが生まれました。マスターがどちらの願いを、どれほどまで叶えられるかはわかりません。ですが、貴方にも、等しく願いを叶える権利があります。ですから、また、ここに来ることができるように『願って』ください。貴方のその『願う力』を、『想像力』を、マスターは必要としているのです――……」



 ◇


 ――どこか遠くで、電子音が鳴っている。キーン、コーン、カーン、コーン……というその音は、間違いない、学校のチャイムだ。

 と、僕は自分の体が、何者かに揺り動かされていることに気づく。僕はその感覚に、ゆっくりと意識を覚醒させていく。

「巴くん」

 聞き覚えのある声に、僕は顔を上げる。無条件に出てきたあくびを嚙み殺しながら辺りを見渡すと、視界には、見慣れたとは言えないが、どこか懐かしい感じのする教室が広がっていた。声の主は件の女子高生だったらしい。彼女は僕と目が合うと、「おはよう」と言って微笑んだ。

「起きて、下校時刻だよ」

 そう告げると、彼女は僕の傍からすっと離れる。その姿をぼんやりと目で追うと、彼女が迷わずに長机の一角まで歩いていき、机の上に広げた教科書とノートを片付け始めるのがわかった。

 どうやら僕は、机に突っ伏すような体勢で眠っていたらしい。凝り固まった上半身を伸ばそうとすると、肩に何かがかかっていることに気がついた。手に取ってみると、それは薄い生地の黄色のタオルケット。誰の物だろう、と思って辺りを見渡すと、バッグに荷物を詰めている彼女が手を止め、「私の」とでも言うように、にっと笑った。

 僕はタオルを畳みながら、彼女たちにならって帰り支度をすることに決めた。そろそろ帰ろう。なんだかんだで長居をしてしまって、今はもう下校時刻だなんて。

 ん、下校時刻?

 黒板の上に掲げられた時計を何気なく見やる、その二本の針の向きと角度を見た僕は――ざあっと血の気が引いた。そして全身の毛がぞわぞわと逆立つ心地がした。

「六時半、?」

「さっき予鈴が鳴ったところだから、さっさと帰る準備しちゃってね。非公認の部活でも、さすがに下校時刻は守らないと……」

「二時間半!」

 僕は椅子から立ち上がると、帰り支度を済ませた彼女の前に立ちはだかった。

「僕、そんなに寝てたんですか」

「たいしたことじゃないよ。その間ずっと私たちが見てたから、荷物とかの心配はしないで」

「そうじゃなくて! 僕、途中で起きたりしなかったんですか? 昼寝って苦手なんです、こんな落ち着かない所で長いこと、覚醒せずに眠れるわけがない!」

 勢いよくまくしたてると、彼女は、こちらの混乱がまったく理解できないと言った様子で、きょとんとする。が、すぐに「ふふ」と含み笑いをした。違う、この人、「ちゃんと理解している」。

「巴くん、よく喋るようになったね。『向こう』で何があったのかな」

 ばちん、とさっきの男子生徒が窓の鍵を閉める音がする。夕日の差し込む教室に立つ、二人の高校生の姿はどこか「異質」で、僕はごくりと生唾を飲み込んだ。

「……やっぱりあなたたち、『普通』じゃないんですね」

「『あなたたち』じゃなくて、私は牧田美樹、彼は尚人くんよ。先輩って呼んでほしいな」

 牧田先輩、は楽しそうにからから笑って後ろで手を組むと、入ってきたドアの方へと歩いていく。

「話の続きは明日以降、ゆっくり聞かせてもらうことにして。今日は帰ろ、本鈴が鳴っちゃう」

「……明日もここに来なくちゃいけないんですか? 夏休みなのに?」

「一年生も夏期補習があるでしょ? 学校には来るんじゃないの?」

 僕たちの夏休みは学年暦上、今日から八月の終わりまで続くことになっている。だが実際は、「夏期補習」という名前の短縮授業が、お盆を除いたほとんどの平日で行われている。

 夏期補習は出席には入らないので僕は行かないつもりだった。夏休みに授業なんてありえない、全然休みじゃないじゃん――というのは僕だけの主張ではなく、クラスの他のやつらも、先生がいない時に口々に言っていた。たぶん彼らはああ言いながらも、すべての授業に出るんだろうな、と思っていたけれど。

「ま、でも補習は月曜からだしね。明後日に来てくれたらいいよ。日曜はここが閉まっちゃうんだ。だから、ね」

 よろしくね、と言いたげに、彼女は軽やかに片目を閉じる。わ、本当にいるんだ、ウインクなんてする人。こんな気障ったらしい人が、この世界に実在するなんて。

 尚人くん、と呼ばれた彼は自分のリュックを背負うと、控えめな声で「そろそろ」と言い、僕ら二人に下校を促す。

「そうだね。じゃあ、行こっか」

 彼女はくるりと向きを変え、彼の前に立った。僕に背を向けた制服の二人は、後ろから見ると「ありふれた」、「普通」の男女のようで、僕は一瞬、この人たちが誰なのかわからなくなった。

「行こう」

 牧田先輩がドアの向こうに消えてしまってから、彼の方が、傍に突っ立ったままの僕に声をかけた。七月の夕暮れが、僕と彼の間に満ちている。


「今日はもうおしまい。下校時刻のチャイムが鳴るから」

 そして、チャイムの音が教室中に鳴り響いた。キーン、コーン、カーン、コーン……。という単調な電子音。僕たちは時を止められたように静止して、しばらく見つめ合っていた。

 ――大丈夫。

 彼がそう言ったのか、それとも僕がそう思ったのか。どちらが正しいのかわからないが、頭の中に、そんな言葉が反響しているのを、僕はただただ聞いていた。彼がくるりと向き直り、ドアの向こうに消えていくと、僕も歩き始める。


 僕は、彼女たちにただ導かれるわけじゃない。「彼女たちに導かれる」ということを「選択」した。そうやって、僕は僕自身を「運命」づけたのだ。

 一体この「選択」が、僕のどんな可能性を広げ、どんな未来へと導いてくれるかはわからないが、僕は、僕の目の前に現れた思いもよらない選択肢を、掴んで離さないようにしよう。

 少なくともこの歩みは、僕が僕の大嫌いな「平凡」を捨て、他の誰もが到達したことのない「非凡」へと足を踏み入れるための、第一歩になることは間違いないのだから。

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