2話:掃除係(①)
2・掃除係
「――何描いてんの」
芸術棟の横には、大きな広葉樹が植えられている。その下、大きなキャンバスに隠れるようにして一人の女子生徒が座っているのを見つけた。その姿に見覚えがあった僕は、通りがかりに声をかける。が、返事はない。聞こえなかったのだろうか。いや、おそらく聞こえなかったふりをされたのだ。
「ねえ」
ジャリジャリと小石を踏み締めて彼女に近づくと、キャンバスからはみ出した彼女の頭がびくりと動いた。彼女の一番のコンプレックスである、傷んだ黒髪。艶がなく、ボサボサと暴れる特徴的な頭髪を、僕が見間違えるわけがない。
同じ木陰に入り、キャンバスの後ろに回り込む。そこにはやはり、見慣れた彼女の姿があった。さらに数歩近づき、無言でその隣を陣取る。すると、彼女もとうとう観念したらしい。
おそるおそる顔を上げた彼女は、少し乾いた赤い唇で、何かを言いかける。が、それが音声となって発される前に、僕の方から声をかけることにした。
「や。チカ、久しぶり」
「……うん」
上ずった声で答えるチカ。彼女は僕に笑い返そうとしたのか、口の端を引きつらせるように強張らせる。
「ねえ、何描いてんの」
僕は同じ質問を繰り返し、チカの隣に立ってキャンバスを覗き込む。
校庭だ。ちょうど、椅子に座っているチカの目線から見える風景。
「……夏休みの宿題。早めに終わらせようと思って」
「へえ、感心だね」
「鏡味だって同じのが出てるでしょ」
「そっか、同じ教室にいたっけ」
「……、そうよ」
僕はチカの描いた絵を見ていた。太陽の光を浴びて、風にそよぐ緑色の木々。その奥に見える黄色い校庭。空は抜けるように青く爽やかで、まるで水面を覗き込んだかのようだ。部活動中の生徒たちや僕が歩いてきた灰色の砂利道さえ、陽の光に照らされ、キラキラと眩しく輝いている。
「上手いね」
僕がそう言うと、キャンバスに戻りつつあったチカの右手が、一瞬動きを止めた。
「……そんなことない。お世辞はやめて」
「僕がお世辞なんか言う人間だって思ってる?」
「言うじゃない。いつも……」
チカはそう言葉を途切れさせると、パレットから水色の絵の具を掬う。
「言わないよ。思ってもないことを言えるほど、僕も暇じゃない」
「……でも得意でしょ」
「まあ、そうかもね」
風が吹く。絵筆を持ったチカの右手が、キャンバスに近づく。
「でもほんとに上手いよ」
また、風が吹く。一瞬、水色の絵の具が空中で静止する。だがすぐに、それは、ぺたり、とキャンバスに張りつけられた。
僕らの上で、木の枝が揺れている。短くなったチカのボサボサの髪も、風に吹かれ、穏やかにそよいでいる。いつの間にかチカは背筋を伸ばしていた。その後ろ頭に自分の顔を近づけると、制汗剤の匂いに混じって、汗の匂いがした。チカのだろうか、僕のだろうか。さっぱりわからない。
僕が少し距離を縮めたことに気づいたチカは、居心地が悪そうに、一度座り直す。しかし作業は黙々と進めていた。そして、僕はそんなチカの様子を窺っている。何にも気づいていないふりをして。あくまで、自然な振る舞いで。
ほら、僕らはやっぱり変わらないんだ。
そんで、チカは相変わらず、僕のことが好きなんだ。
チカの肩に腕を回すようにして、僕は彼女の持つパレットの、赤い絵の具の固まりに触れる。もう乾いているだろうと思っていたが、触った瞬間、指先にはぶにょ、と、中途半端な感触が広がった。
それを少し掬ったところで、チカはようやく僕の動きに気づいたらしい。勢いのままにチカは振り向く。と僕たちは、あ、と思う間もなく、顔がぶつかりそうなほどの距離で互いの瞳を覗き込んでいた。
痛んだ前髪から覗く、大きな栗色の瞳と長い睫毛。驚きに見開かれたその瞳は震えており、その中心には――僕だけが映っていた。
それを認識した瞬間、僕はなぜか、ぶるりと体を震わせてしまう。
どうして。
その時、理由のわからない震えをごまかすようにもがいた腕が、赤い絵の具のついた指先が、チカの描いた空を勢いよく引っ掻いた。
「あっ」
チカが短く声を上げる。僕は、指先の感覚、ざらざらとしたキャンバスの感覚と半固体の絵の具の感触に、頭が真っ白になった。僕はチカから飛び退く。口からは「あは」と笑い声が漏れた。そして、少し距離を取ったところで、僕は僕の指が触れた先を盗み見た。
青く透きとおるようだった空には、一筋の、赤い線が浮かんでいる。
それは、夏の昼の空にはふさわしくない、真っ赤な流星だった。
呆けるように座ったままのチカは、そこにあるはずのなかった流星に釘付けになっている。その隙に僕は、赤と水色の混じった指を後ろに隠して笑った。
「あは、ごめんて、ちょっと僕もびっくりしてさ。それで」
「…………」
「いいね、青空に赤ってのも。奇抜でいいよ。空が青色なんて当たり前じゃんね。別に赤色があってもいいじゃん。どうせ、自分の見てる世界なんて、他人からは違った色に見えてんだからさ」
言ってることがめちゃくちゃなのは、この際どうでもいい。僕は少しずつ距離を取ると、チカがキャンバスを見つめたままなのをいいことに、小走りでその場を離れる。念のため去り際に振り向いて、その様子を窺った。が、チカはまるで放心しているかのように、その場に固まって動かなかった。
何か言ってくれたら、僕だって、もっと言い訳できるのに。しかし、そんなことはできないのがチカだった。
僕は息を整えながら歩き、芸術棟の入り口まで来る。アスファルトの段差に上り、薄汚れてきたローファーを脱ぐと、空いている靴箱に入れる。
今日も僕は上靴を忘れた。昨日の夜までは覚えていたのに、朝、家を出る時には忘れてるんだから、本当に自分で自分に腹が立つ。補習の間も僕だけが裸足だった。もちろん靴下は履いているけれど、みっともないったらありゃしない。それに単純に、学校の廊下なんて汚いし。
僕はつま先立ちで、美術室の扉に手をかける。すると後ろから、
「おーい、巴くん!」
と、聞き覚えのある声に呼ばれた。振り返ると、そこには、例の二人組が並んで、僕の方へと歩いてくるところだった。
「創作部」の部室、多目的教室は、芸術棟別棟の三階にある。前回、僕は芸術棟本館の中を通るルートで行ったが、二人曰く、多目的教室に行くためには本館の中に入る必要はないらしい。
美術室の前で突っ立っていた僕を見つけた牧田先輩は、僕にもう一度ローファーを履くように言うと、芸術棟の後ろに回り、別館の裏の非常階段へと案内してくれた。その金属製の非常階段は多目的教室の後ろに直接繋がっており、こちらから部屋に入ることもできるらしい。
僕らは順番に教室に入った。最後に僕が入ろうとすると、「これ使う?」と、尚人先輩が備品の深緑のスリッパを差し出してくれたので、ありがたく拝借することにした。彼のこういうところ、先に入って真っ先に自分の荷物を置いた牧田先輩に比べると、気が利いていい人なんだなと思う。
「質問があるならどうぞ?」
最初は蒸し暑かった室内も、クーラーをつけて数分もすれば涼しくなってくる。荷物を教室の後ろの机に置いた僕らは、尚人先輩が出してくれた冷たい麦茶を飲みながら、向かい合って座っていた。今日は、僕の前に牧田先輩が座り、その隣に尚人先輩が座るというコンパクトな布陣。まるでくだらない班活動をしているようだ、と思った僕は、無条件に嫌気が差す。あえてわざとらしくため息をつき、目の前で胡散臭い笑みを浮かべる彼女に視線を投げる。いい加減、この人とも会話をしておいてやるか。
「……やっぱり夢じゃなかったんですね」
そう言うと、彼女は「そうね」と言って笑う。
「そう、非現実ではない。『あの世界』は、『夢』と非常によく似ているけれど、限りなく『現実』に近い世界だよ」
この人は、僕がほのめかしたものが何なのかを知っている。そして彼女はそれを「あの世界」と言った。
「あの」という指示語を使ったということから、彼女は少なくとも、暗くて何もないあの空間が、「僕からも遠ければ彼女からも遠い、しかし僕と彼女が共通して認識することができる場所にある」と把握していることがわかる。したがって、僕は彼女の今の言葉から、この人が「あの場所」についてすでに何かを知っていること、しかし、知っているからと言って、この人にとって身近な場所ではない、ということを推察することができた。
僕はあの後、家に帰ってから寝るまでずっと、あの奇妙で不可思議な体験が何だったのかを考えていた。
ただの夢にしてははっきりとした意識に、はっきりとした体の感覚。自分のことを「マスター」と名乗る、人の形の器の中に激しい怒りを湛えた、真っ黒の青年。同じく真っ黒の箱のような空間、彼が管理しているという「世界」。メイドのような格好をした、白い瞳を持つ聡明な少女、「ゼロ」――。目の前の彼女はすでに、それらの答えのいくらかを知っているのだろう。
しかし、すべての答えを一気に教えてもらうなんてのは退屈だ。
わからないこともわかることも、何でも人に訊いていたら馬鹿になる。これが僕の持論だ。思考することは僕の数少ない楽しみであり、そもそも、それこそ人間の本分だろ。
あんな「非凡」な体験まで済ませてしまったわけだし、ここまで来たら、もう僕は遠慮なく、彼女たちの世界に足を突っ込んでもいいかと思っていた。だから今日、僕はまた、「創作部」を訪ねたんだ。だってもう、僕は「創作部」に、あそこまで「巻き込まれた」んだ。そろそろいい加減、僕の行為の責任は、僕を「巻き込んだ」彼女たち持ちになってもいいんじゃない? いいよね。いいよ。いいと言えよ。
「あの日、あなたは僕に何をしたんですか? あの黒板に名前を書かせたのには、本当はどんな意味があったんですか? あれはきっと、ただの『入部テスト』じゃない。っていうか、あれのどこが『テスト』なんですか? 教えてください」
彼女は、僕の言葉を聞き届けると、ゆっくりと目を閉じる。そして静かに、穏やかに咀嚼すると、鈴のように心地よく響く声で言葉を紡いだ。
「きみが『あの世界』に行けるかどうかのテストだよ」
彼女は両手を膝の上に置き、背筋を伸ばす。その瞳はまっすぐ僕を見据えており、僕は、今まで見た彼女の表情の中で一番真面目な顔だ、と思った。
「自己紹介が不十分だったね。私は三年E組の牧田美樹。この創作部の部長であり、広報をしています。私の仕事は、創作部の活動に適した人材を見つけること。そして、その対象者と実際に接触してみて、少しでも適性があると判断した場合には、『サインイン』の手伝いをすること」
「『サインイン』って……」
あの男も言っていた言葉。彼女は教室の前に掲げられた黒板へとその体を向ける。
「きみもした『入部テスト』のこと。そこの黒板に、自分の名前を書くことだよ。きみがこの間したみたいに、あそこに名前を書いて、黒板消しで名前を消して、それでも名前が消えなかった人は『あの世界』に行く資格を持った人ってことなんだ」
「『あの世界』、ですか」
「そう。どういう仕組みかわからないけれどね、確かに『そういう世界』が『ある』んだって。私たちは、私たちが生きている世界とは別の世界に行くことができる。夢みたいな話でしょ? でも、夢じゃない。ねえ、きみはこの話を信じられる?」
――僕たちが「世界」という言葉を聞いた時に思い浮かべるのは、僕たちが生きている「この世界」のことだ。
もしかしたら、その時に「他の世界」を想像する人がいるかもしれない。しかし、もしそういう人がいるとして、その人は、そんな世界の存在がただの仮説に過ぎないということを、事前に自分で了承しているはずだ。だって、そんな世界の存在を、僕たちは証明することができないから。それに、そんな夢みたいなこと、それこそ子ども向けの漫画やアニメの世界にしか起きるはずがない。そのことを理解し、弁えて、僕たちはこのつまらない世界で生きている。
しかし彼女は「そんな世界」が、夢物語ではなく、実際に存在すると言う。
「この教室は、『この世界』と『あの世界』を繋ぐ、特殊な空間になっているの。この場所では、例の『サインイン』を済ませた人ならば、誰でも『あの世界』に行くことができる。そしてきみも『サインイン』を済ませることによって、その権利を得た。きみはあの時、確かに、『あの世界』に行ったんだよ」
彼女は楽しそうな顔で小首を傾げる。何と言えばいいかわからない僕が次の言葉に詰まっていると、笑顔を浮かべたままで彼女は続けた。
「そしてね、『あの世界』に行っている間、『この世界』にいる体は意識を失って、眠っているような状態になってしまうんだ。『サインイン』の後に巴くんが眠くなっちゃったのも、そのせいだね。あれは意識が『あの世界』に移行している途中だったんだよ。私たちはあらゆる世界に行くことができるけど、持っていくことができる意識は、一つだけだから」
「……そこ、気になってるんですけど。僕、『サインイン』? を、した後眠くなって寝て、次に目を覚ました時は二時間半が経っていて……。僕は、それだけ『あの世界』にいたんですか? 僕の体感的には、もっと短かったように思うんですけど……」
彼女は首を振る。
「いいえ。体感時間と実際の時間経過が一致することは、ほぼないの。というのもね、『この世界』に戻ってくる時間は、『あの世界』で過ごした時間とは全然関係なくて、一律、下校時刻のチャイムが鳴る時間なんだ。正確にはその予鈴だけどね。『あっち』で過ごしたのが五分だろうが一週間だろうが一年だろうが、帰ってくるのは決まってその日の下校時刻。不思議だよね。まあ、『あっち』で一年も過ごしたって人は、そうそういないけど」
僕は彼女の話を聞きながら、自分の麦茶に口をつけた。
一応僕も僕なりに、家に帰った後、あの時急に襲ってきた眠気の原因を考えていたのだけれど、その仮説のうちの一つ、「睡眠剤を盛られた」ではなかったようだ。まあ、「普通」の高校生が睡眠剤を所持したり、見ず知らずの生徒に盛ったりするわけないか。それこそ教育上よろしくないテレビや漫画の見過ぎとか何とかで、脳足りんの大人たちに筋の通ってない非難でもされそうだな。子どもは大人に何を言われたところでそういうものを見るし、漫画以上に汚い大人の所業なんて現実にはいくらでも蔓延っているっていうのにね。
「すぐには信じられない話だと思うけど、きみが見たものが真実だよ」
思考が脱線しかけていた僕は、彼女の言葉で我に返る。彼女は今なお僕を真剣な眼差しで見つめていた。僕は少しだけ姿勢を正す。
「私たちはこの現象を、『世界の交差』と呼んでいる。そして私たち『創作部』はここで、『世界の交差』の現象自体やその仕組みについて調査する、ちょっとした秘密機関なんだ」
きっぱりとした口調で言い放たれた彼女の言葉に、僕は思わずため息を漏らしてしまう。呆れたわけではない。ただ、少し頭がいっぱいになって。
「別の世界」の存在を信じるかどうかはとりあえず置いておいて、僕は、数日前に自分が立ち会った、非現実的で「非凡」な現象のことや、彼女が言っていること、「あの男」が言っていたことの大まかな内容を、理解することができたように思う。だが、理解が深まったからこそ、僕の頭の中にはたくさんの疑問が、まるで水泡のように浮かんでくる。
止めどなくあふれてくるその中の一つを僕が彼女に伝えようとしたその時、彼女は唐突に椅子を引いて、その場に立った。
まったく予想外のことに僕が驚いていると、立ち上がった彼女は僕を見下ろし、片手で手招きをする。
「ついておいで。気晴らしに散歩でもしましょ」
え、このタイミングで? こんな暑いっていうのに、外を?
僕が視線で返すと、彼女はさらりとそれを横に流し、隣に座っている尚人先輩に声をかけた。
「いいよね、尚人くん」
「うん、いってらっしゃい」
先ほどまでは、置物のように静かにしていた彼が、短く返事をする。と、彼女も頷き、何も言わずにそのまま前方のドアへと歩き始める。ええと、これはどうするべき? 僕は彼女の後を追うべきだろうか。何か、場所を変える必要があるのだろうか。
「……いってらっしゃい」
斜め前から聞こえた声に振り向くと、やはり置物のように座っている彼が、無表情に僕を見つめている。
「……はい」
上手くは言えないが、僕はなぜか、この場を出ていかなくてはいけない気持ちになった。音を立てて席を立ち、どんどん歩いていく牧田先輩に追いつくべく、早足で教室を出る。荷物は置いたままでもいいか。たぶん、散歩が終わったらここに戻ってくるだろう。
教室を出る前に、もう一度だけ後ろを振り返ると、席に座った彼が小さく会釈をしたのが見えた。僕も軽く会釈を返し、熱気のこもる廊下へと出る。すると、僕の後ろで、重たい鉄の扉が閉まる音がした。
僕たちは芸術棟の本館の方から、理科棟を通り、本校舎まで歩いていくことにした。芸術棟と本校舎の間にあるのが理科棟であり、普通の生徒が移動教室などで芸術棟に行くときは、必ずここを経由する。
吹きさらしの屋外通路を歩きながら、僕の前に立つ彼女は気まぐれに、通りかかった教室の特徴を紹介してくれる。金属製のドアに一つずつ触れ、ここは何年生になるとよく使うだとか、文系を選んだらそんなに縁のない教室だとか、他愛もないことをはきはきと喋る。ガラス越しに見た教室の中には、何人か生徒がいるのも見えた。たぶん、部活に来ている生徒だろう。化学部とか物理部とか、そういう系統の部活が何個かあった気がする。
しばらくはそうやって、先輩らしく僕に特別教室の説明をしていた彼女だったが、理科棟が終わり、本校舎に繋がる通路に差しかかったその時、彼女は唐突に「ねえ」と言った。見ると、彼女はそのブラウンの瞳を輝かせ、好奇心に満ちた目で僕の様子を窺っていた。
「どう? 話を聞いてみて」
ああ、やっぱりそういう仕掛けか。そう思った僕は、周りに人がいないのを確認し、しょうがなしに口を開いた。
「どうもこうも……。言ってることはなんとなくわかりましたけど、まだ実感湧かないっていうか。やっぱり、あまりに『非現実』過ぎて」
「そうだね。そうだろうねぇ。でも、『現実』なんだよね。不思議でしょ」
目をキラキラとさせたままの彼女は歩くのを止めると、渡り廊下の屋根を支える柱に、ふわりともたれかかった。
ここの廊下からは、運動場の様子がよく見える。運動場には手足の日焼けした生徒たちがたくさんいて、各々走ったり、ストレッチをしたり、試合のようなものをしたりしている。汗でぐっしょりと濡れ、重たそうなユニフォームを風にはためかせながら走る彼らを見ていると、夏、汗、青春……だなんて月並みで安っぽい言葉が次々と浮かび、ごくろうさんですという感想とともに消えていく。僕が彼らに対して抱く印象はその程度であり、自分で言うのもなんだが、僕は本当につまらない人間だなと思う。
「面白いね。すごくびっくりな話のはずなんだけど、きみは全然驚いていないように見える」
そう言った彼女も、僕と同じように運動場を遠く見やった。「面白いね」と言った割に、たいして面白くなさそうな顔をしている彼女の瞳はグラウンドの奥の方を見つめており、僕らの間には、しばし言いようのない無言が訪れる。
だが、何か考え事をしているように見えた彼女は小さく一つ息を吸うと、僕の方へと向き直る。彼女は僕を見ていたが、今度は、屋根の影になっているからだろうか、その意図を読み取ることができなかった。
「私たちの活動、手伝う?」
「……え?」
彼女から無表情に発された言葉に、僕は驚いてしまう。なんで? だって、もう。
「もう、僕は入部してたんじゃないんですか?」
すっとんきょうな声で訊いた僕に対し、彼女はその首を縦にも横にも振らない。
「うん、入部資格があることはわかったけど、まだ入部が確定したわけじゃない。入部するかどうかを決めるのは、きみだからね」
慎重な彼女の言葉に、僕はまるで裏切られたような、意地悪をされたかのような気持ちになった。
まだ僕は、この人たちの仲間になったわけじゃないのか。しかも、その選択の責任はまだ僕にあって、この人はそれを完全に、僕自身に負わせようとしているというのか。
くらっとしかけた頭を無理やり奮い立たせる。そして、僕も彼女に気づかれないように深呼吸をすると、口を開く。僕は一周回って、とても意地悪な気持ちになっていた。
「一応、わかってると思いますけど。もしここで僕が『手伝いません』と言って、あなたたちと無関係になったとして、……僕があなたたちのことや『創作部』のこと、『世界の交差』のことを、勝手に言いふらす可能性だってあるんですよ」
そんなことも考えずに、ここまで巻き込んだわけじゃないだろう。僕は試すような視線を彼女へ送る。屋根の影に隠れ、湿った風にその長い髪をゆらゆらとさせている彼女は、しばらく黙って僕の顔を見ていたが、唐突に「そうだね」と言った。――あっけらかんとして。
「大丈夫、巴くんはそんなことしないもの。きみ、友達いないでしょ?」
いとも容易くそんなことを言い、彼女は首を傾ける。
――それは、どういう意味だ。僕に、同意を求めているのか?
「……あなただって、友達いなさそうじゃないですか」
やっとのことで振り絞った言葉に、彼女は依然としてあっけらかんとした態度で応じた。
「そういえばそうだった! うん、いないよ。だから口を滑らせて『誰か』に言うこともないわけじゃない。『創作部の活動に適した人材』って、秘密を守れる人じゃなきゃ務まらないからさ、つまり、そもそも友達が少ない人だったらちょうどいいよねって話。そういう意味で、きみも『適した』人材かもって思ったの」
……会った時から思っていたけれど、この人、本当に性格が悪い。普通、そういうこと言うか? いや、別に自分に友達がいないことを恥じているわけでも、友達がいないという事実を指摘されたことに対して腹を立てているわけでもない。ただ、そんなことをあっさりと言ってのける彼女の図太さが癇に障るというか。「友達がいなさそう」って、僕がずっとあんたに対して思ってたことだっつの! 僕だってあんたのために言うのを控えてやっていたのに、あんたはそんなに簡単に、その一線を踏み越えてしまうのかよ。
頭の中の憤りをできるだけ殺しながら彼女の顔を見たつもりだったが、彼女は僕の顔を見るなり、うふふと楽しそうに笑った。ああ、駄目だ。僕はやっぱり、自分の感情のままに、目の前の彼女を睨みつけることにした。
「何、笑ってんですか」
「あ、ごめんね。別に、友達がいないことを馬鹿にしてるんじゃないんだよ。……ただ、私たち、似てるかもと思ってね」
「どこがですか?」
僕は思わず食ってかかる。すると彼女は、
「きみならわかってくれると思うけどなあ」
なんて言って、また笑う。その声の調子はやはり楽しそうで、僕は歯ぎしりをした。
「そういうの」は、「僕」のやることだろ。そうやって余裕をぶっこいて笑ってるのはいつも、「僕」の方なんだから。
……はいはいわかりました。薄々感づいていたけれど、これは同族嫌悪だ。そんで、いつも人を自分のペースに乗せるはずの僕が、同じような手口でこの人にやり込められているのが気に入らなくて、こんなにもムカついているんだ。
「私はね、誰でも彼でも声をかけるのは性に合わないんだ。ほら、せっかく友達になるんだったら、できればこの先ずっと仲良くしてくれる人と友達になりたいでしょ?」
その意見には賛成だが、僕はあなたと「この先ずっと」仲良くやっていける気はしない。
「どうする? 入部する?」
「あなたが『入部してほしい』って言うんだったら考えますけど。もともと、高校でも部活には入らないつもりだったので」
「あらそう。ならいいよ。別に、無理に私たちも無理に人を増やしたいわけじゃないからさ。……ただ、くれぐれもあの教室のことだけは外部に漏らさないように。きっと、『世界の交差』のことは誰に話したところで信じてもらえないと思うけど、あの部屋に興味を持った人が、うっかり『サインイン』を試したりしてしまうと危険だからね」
「危険?」
ピーッ! という鋭い音が、僕と彼女の間の静寂をつんざく。びくりと体を震わせた僕らが音の鳴った方を見ると、同時にグラウンドから歓声が上がった。ゴールネットもあることだし、たぶん、サッカーだろう。今のは試合終了か何かの合図だろうか。
――さっき牧田先輩は、僕の言葉に「しまった」という顔をした、ような気がした。
が、彼女の顔はもう、元の胡散臭い笑みに戻り切っていた。さっきの表情は、僕の見間違いだったんじゃないかと思うほどに。
「『世界の交差』で『あっちの世界』に行っている間、こちら側の肉体は眠ったままで、下校時刻になるまで目覚めないって言ったでしょ。眠ってる間ってかなり無防備だから、誰もいない教室に誰かが侵入して、勝手に『世界の交差』を起こして、何かがあったとしても誰も助けられないからね」
「『何か』って、何ですか」
「いろんな可能性が考えられる。突然大地震が起きて逃げなくちゃいけなくなるかもしれないし、それこそ、部員じゃない生徒が迷い込むかもしれないし。近くで遊んでいる子どものボールが入ってきて、窓ガラスを割るかもしれないじゃない。『世界の交差』を起こす時には絶対、眠っている体を傷つけないように、ちゃんと見張っている人が必要なの」
……この人は、その、「世界の交差」とやらのことをどれほど知っているのだろう。どれほど関わってきたのだろう。
とうとうと、言葉を並べて語る彼女の瞳には力がこもっている。僕に正しく伝えるように、そして、自分に言い聞かせるように話す彼女の姿は、見る人から見ればきっと立派なんだろうけれど、僕には、その必死な様子が少し、なぜだか、滑稽に見えたのだ。
「……『管理人』」
ぼそりと呟くと、意表を突かれた彼女は、「え?」と声を発した。
「『こっちの世界』の『マスター』ってことか、あなたは」
「世界の交差」の細かいルールなんて知ったこっちゃない。僕は彼女に向かってにやりと笑いかける。だって、そうじゃないか。「この世界」では彼女だけが「世界」のルールを知っている。つまりそれって「管理人」じゃないか。まあ、結構なご身分であることで。
僕は口元に笑みを浮かべ、彼女の様子を窺う。と、僕は気づいた。彼女の様子が先ほどと違っていることに。
彼女は変わらず静かだった。が、さっきまでそこにあった、笑顔の仮面が剝がれ落ちていた。
その下にあったのは、冷たい瞳。そしてこの表情は――憤慨、だろうか。
「そんな大層なものじゃない。あいつなんかと一緒にしないでもらえる」
そう言った彼女の声は、いつになく厳しく、こちらがぞくりとするほど冷え切っていた。
僕は、思わず一歩後ずさる。すると、それに気づいたのか彼女は、再び仮面をつけて笑った。先ほどまでと寸分違わず、それなりに明るくて、どこか胡散臭い笑顔。それがぴったりと貼りついて、垣間見えた彼女のどろどろとした感情の姿を覆い隠す。それはもう、この上なく完璧に。
「本当に、そんなたいしたものじゃないよ。私はただ、『こっちの世界』と『あっちの世界』を繋ぐ空間、あの教室と『創作部』の管理責任者――『創作部部長』っていうだけ。だから、私にはマスターみたいに、『世界の交差』自体をどうこうする力はない。それを持ってるのはマスター、彼だけだよ」
とっくの昔に、彼女にはいつもの笑顔が戻っていた。しかし、彼女が「マスター」と呼ぶときだけ、まだそこには、変に力がこめられている気がした。
先ほど見せた、怒りにも似た表情。あの表情と彼女の言葉から推察するに、きっと、彼女はマスターのことを知っている。そして、何らかの、嫌悪に近い感情を抱いているに違いない、と僕は見当づけた。
「とにかく、入部するなら私に言ってね。私はだいたい部室か教室にいるから……。そういえば、巴くんって何組? まだ一年生だよね?」
牧田先輩はそこから、本当にとりとめのない世間話を始めた。美術の授業があるってことは一年生だよねとか、E組なら縦割りが一緒だから、体育祭のときはよろしくとか。世間話というものをほとんどしたことがない僕は、ただただ彼女から振られる質問に答えるだけ。歩いたり話したりしている間に、僕らはすっかりと喉が渇いてしまったが、彼女はそれをごまかすように喋り続けたし、そのため僕は、少なかった口数がさらに減っていった。
「普通」の会話というものが下手な僕らは本校舎の一階まで来たが、その上には行かず、芸術棟の方へと戻ることにした。校舎の中に入る前に折り返し、僕らは来た道を戻る。頭の中に今来たルートを思い浮かべながら進んで行くと、ふと思いついたことがあったので、僕はそのまま口にした。
「尚人先輩、今頃何してるんでしょうか」
僕の前を歩いていた彼女が振り向く。すると、彼女は「掃除じゃないかな、掃除係だもん」と言い、また前へと向き直った。
そういえば、彼も「創作部」とやらの部員だそうだが、彼はきちんと活動内容を理解しているのだろうか。
僕が彼女から説明を受けている間、彼はずっと、置物のようにじっとしていた。それがあまりに静か過ぎたから、僕は話の最後の方、彼がそこにいたことすら忘れていたくらいである。
彼と彼女の姿は本当に対照的で、だからこそ、あの彼が果たして、「世界の交差」という「非現実」に巻き込まれているという自覚を持っているのかが気になった。いや、僕も僕で、「あの世界」だか「世界の交差」だかの話には、まだ実感がないけどさ。
そんなことを考えていると、前を歩いていた牧田先輩が突然立ち止まる。彼女はくるりと振り向くと、相変わらず読めない表情でこう言った。
「巴くん、先に部室に戻っててくれない?」
「え?」
急な提案に、僕の脳は処理が遅れる。僕たちはもう理科棟の前まで来ていた。彼女は言葉を続ける。
「本校舎で見たかった掲示を見忘れちゃったの。部室への入り方はわかるよね? 靴は部室にあると思うし、美術室を通って行くといいよ。それじゃ」
そう言い残すと、彼女は本校舎の方にさっさと歩き始める。
何の脈絡もなくコンクリの廊下に取り残された僕は、しばらく呆けるように、彼女の後ろ姿を見送っていた。が、ふと我に返り、再度歩き始める。胸の中に生まれるモヤモヤを膨らませながら。
掲示? 本校舎一階には確かに掲示板がある。学校の行事予定と、あと各部活への生徒会からのお知らせが書いてあるやつだ。僕たちはその前を通ったはずだが、確かに彼女はそこを通る時には僕の方を向いていて、掲示を見ていなかった気がする。
だが、行事予定掲示板には、夏休みだし、特に目立ったことは書かれていないはずだ。それに部活動掲示板にも。僕もちらっと見たが、創作部のことは書かれていなかった気がする。っていうかそもそも創作部って同好会扱いだから、あの掲示板に情報が載ることはないんじゃないのか?
何か違和感のようなものを感じながら、しかしそれを無視することに決める。おそらく、彼女も僕と喋るのに疲れたのだ。長時間他人と一対一でいると、疲れてくる。彼女と僕が似ているのであれば、それは彼女も同じはずだ。
第一化学室の前を通りながら、僕は今までの情報を頭の中でまとめる。
この世には、「この世界」と「あの世界」が存在する。彼女たちが所属する「創作部」は、「サインイン」をすることによって、本来不可能であるはずの「あの世界」へ精神を移行することができる。「あの世界」に行っている間は「この世界」の肉体は眠っているような状態になり、精神が帰ってくるのは、向こうで過ごした時間に関係なく、下校時刻のチャイムが鳴る時間。
ルールはよくわかった。が、その仕組みや、それがどうしてうちの学校なんかで起きているのかということについてはさっぱりわからない。
その解明を活動内容にするだけあって、尚人先輩も、そして部長の牧田先輩も、詳しいことはわかっていないのだろう。と、すれば、やっぱり管理人であるマスターだけが知っているのだろうか。いや、ゼロもか? または、彼らとは別の存在がいて、そいつがすべてを知っている? 知っているとして何を? ……いや、考え過ぎだろうか。ゲームのし過ぎだろうか。
関わってしまったのだか、そうでないのだかわからない、「創作部」。彼女曰く、僕はまだこの部活に所属していないということだけど、でも、僕は彼女に言われるがままに「サイン」自体は済ませてしまっている。
これが、どういった意味となるのか。もし「世界の交差」が一つの契約だとして、僕はどんな内容の契約に「サイン」してしまったのだろうか。誰もその内容を理解していない契約に、サインしてしまってよかったのだろうか。この契約には何が書かれていた? 僕は何に同意をした? 契約の内容に欠陥はなかったか。僕は、何かまずいことに関わってしまってないか?
美術室の中には、相変わらず人がいない。ここの美術部はそんなに活動してないのだろうか。僕は素早く教室内を通り抜け、例の白い廊下を早足で進む。サイズの合っていないスリッパの間抜けな音が狭い通路に反響し、僕は耳障りだと思った。耳を塞ぎたくなるほどに。
胸の奥に渦巻く言いようもない不安感を抑え込むように、僕は自分に言い聞かせる。
大丈夫。部室はすぐそこで、あとは荷物を回収したら、家に帰って考え直そう。そうしたら、自分のペースになれるから。
そう、大事なのは、僕がいつも通りであること。
僕がいつも通りでいれば、僕の見ている世界だって、やっぱりいつも通りなんだから。
駆け出したくなる気持ちを抑え、できるだけ時間をかけて階段を上っていく。最上階の突き当たり、一番遠い場所にあるのが多目的教室だった。
僕はその扉の前に立つと、ぬるくなったドアノブをゆっくりと回した。部屋の鍵は開いたままだった。
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