1話:iPod(②)

 ◇


 三階まで階段を上り、長い廊下の突き当たり。そこにはベージュ色に塗装されてつるつるとした、鉄製の扉があった。

「多目的教室なんだ」

 彼女が銀色のドアノブを回すと、普通の教室よりも広くて、少し殺風景な白い教室が現れる。

 彼女は、ためらいなくその中に侵入する。僕も後ろに続くと、その部屋もやはりクーラーが効いていた。入ってすぐ右手には、教室の壁を横断するかのように大胆に取りつけられた黒板が目を引く。どうやら僕らが入って来た側が、教室の前側なんだろう。

 黒板の手前には教壇があり、そして木製の白い長机が三列分、黒板と垂直になるように並べられている。長机の両側には、プラスチックでできた丸椅子が、列にもよるが、六、七個置いてあり、ざっと計算したところ、教室と同じで、約四十人が座れるようになっていた。

 座ることができる人数の割に部屋が大きいのは、普通の教室に置いていない物が置いてあるからだろう。例えば、下の美術室で見たような作品棚がいくつも置いてあったりとか、絵筆を洗う用だろうか、何人かで並んで使えそうな、しっかりした手洗い場があったりとか。

「トルソーもあるの」

 彼女は大きくて透明なガラス窓の近くまで歩いて行くと、そこに並んだ、首から上のない石膏像の前に立ち止まる。美術室などでよく見る、その白い裸像に「トルソー」という名前があることを知らなかったが、僕は「本当ですね」と知ったかぶりをした。

「ここは『多目的教室』って言うより、さっきの美術室の物置なんだ。授業にも使われてないし、美術室は物が多いから、それならここに運び込んじゃおうって。あの教室、あれでもまだ片付いている方なんだよ」

「本当に使わないんですね。こんなに広いのに」

「今のところはね。昔はここも美術の授業で使っていたみたいなんだけど、新校舎になってからは校舎の位置が変わったからとかで使うことがなくなったみたい。そもそも美術の授業数も少なくなってるから、あっちの棟で事足りるんだって」

 彼女は立ったまま、この教室が空き教室になっている背景をぺらぺらと喋る。階段を上がって少し息が上がっていた僕は、呼吸を整えながら、彼女の言葉を聞いていた。一体どうして、彼女が僕に「来てほしい」と思ったのかを、聞かなくちゃいけないから。だが、彼女は吞気に世間話を続けている。

 どうやら僕が今いるこの教室は、僕が普段授業を受けている本校舎から少し離れた所にある芸術棟の、さらに別棟になっているらしい。校舎側から見るとわかりづらいが、確かに自転車置き場から見ると、芸術棟の奥にもう一つ建物があった気がする。今、あの中にいるのだろうか。

「この下もね、やっぱり芸術棟と同じで、音楽室の物置と書道室の物置になってるのね。ほんと大変だったんだよ。この教室を使わせてもらうために美術の先生に言ったらさ、『それなら美術室から荷物を運び出すのを手伝ってくれ』って言われちゃって。しょうがないからって私たちも手伝ったけど、何より階段の上り下りがキツいよね。エレベーターがあればいいのにって何度思ったことか――」

「『私たち』?」

 僕がオウム返しをすると、視界ににゅっと白い腕が映り込んだ。

「麦茶、いる?」

 予想外の方向から伸びてきた腕と聞き慣れない男性の声に、僕は思わずぎょっとしてしまう。後ろにのけ反ると、抑揚のない「あ、ごめん」という声が聞こえる。

「そうだった。座っていいよ、立ち話もなんだし」

 そう言って、彼女自身も近くにあった丸椅子に腰かける。僕は少し迷ったが、まず「彼」の方を見た。本当に、いつからここにいたんだろう。

 片手にマグカップを二つ、もう片手に麦茶の入ったプラスチックのポットを持った彼は、すらっと背の高く、清潔そうな印象を与える男子生徒だ。こちらも彼女と同じく、制服の着方から真面目な生徒であることを窺わせる。癖のついていないさらさらの髪と穏やかで静かな瞳が特徴の彼は、小さな声で「どうぞ」と言い、まず彼女の向かいの席にマグカップを置いた。どうやら僕の席はそこになるらしい。そして、彼女の目の前にもマグカップを置く。

「どう、私たちの部室は」

 窓を背にして座った彼女は、両腕を机の上で組んで、こちらの様子を窺っている。僕はその視線を無視しながら、マグカップの置かれた席に座った。ちょうど彼女の斜め前の席だ。距離感としては可もなく不可もなくと言ったところだろうか。

「部活……、なんですね」

 僕が言うと、彼女は「あっ」と短く声を上げる。

「部活じゃないんだった」

「……同好会みたいなもの、かな」

 麦茶を注ぎ終わった彼はそれだけ言うと、自分も少し離れた席に座る。

「私たちは部活って言ってるけどね。顧問みたいな先生もちゃんといるんだよ」

「部員は?」

「私と尚人なおとくんだけ。あっ。彼、尚人くんって言うの」

 突然彼女に紹介された彼は、特に動揺するそぶりも見せずに、軽く会釈をした。僕もそれに合わせる。

「尚人くんはここの掃除係なの。この空き教室がこんなに綺麗になったのは、尚人くんのおかげなんだよ」

「はあ」

「そうなの! 懐かしいな、ここで活動できることになった時はもっと埃っぽくってさ。先生は忙しいからって手伝ってくれないし、部員も少ないしで大変だったんだよ。そうだね、まるっと一週間はかかったかなあ……。その時から尚人くんには頼りっぱなしなんだ。ね、尚人くん――」

「あの」

 僕は、たまらず彼女の言葉を遮っていた。

 入学して三か月そこらの下級生が、上級生の話を遮った。申し訳ない、という気持ちは湧かない。僕の頭の中を占めていたのは、もっと違う感覚だった。

「何?」

 自分の話を遮られたことに顔をしかめるでもなく、彼女はなんてことない声で言う。その、変に、奇妙にあっけらかんとした表情を見た僕は、口の中に溜まっていく唾をゴクリと飲み下した。一気に、口の中が乾いたような気がした。


 ――最初に彼女と話した時から、なんとなく、「予感」があった。


 この人たち、どうも他の生徒たちとは違う。というか、「変」なんだ。

 誰もいない美術室で勝手に他人のiPodを盗み聞きしたり、ちょっと音楽の趣味が似ていただけで「来てほしい場所がある」なんて言って、あまり生徒が立ち入らない校舎の片隅に連れて来たり。挙句の果てには麦茶にマグカップ。こんなのは一種の「隠れ家」、「秘密基地」みたいじゃないか。

 もし、ここが何かの「拠点」だったとして。彼女たちは何者で、僕に「何を見せようとしている」んだ? 僕に、「何をさせようとしている」んだ?

 僕は、「変」な人間を排斥したり毛嫌いしたりするタイプではない。むしろ、そうやって「変」を排除し「普遍」への画一化を図るタイプの方が嫌いだ。そういうやつは「普通」で、「平凡」で、まったくつまらないやつ。僕自身も、どうせなるならつまらなくない人間になりたい。つまりそうだね、僕は「変」な人間に、「特殊」というステータスそのものに、惹かれてしまうんだ。

 だから今、「変」な彼女たちのペースに吞まれ、何か「普通」ではないことに導かれている、というこの感覚が、僕にとっては非常に心地いい。そう、言ってしまえば――僕は今、まるで、「非日常」をモチーフにした物語の渦中にいる、「主人公」になったような気分なんだ。

 世の中には「日常」と「非日常」を題材とした物語なんてごまんとある。そしてその物語の数だけ「主人公」はいる。

 かつての主人公たちは、今僕が感じているような感覚を感じていただろうか。感じていたとして、彼らはこの感覚についてちゃんと自覚的だっただろうか? まあ、彼らがどうだったかだなんて今は関係ないけど。目下、大事なのは「自分がどうか」、それだけなんだ。

 「僕」は、少なくとも、冷静過ぎるくらい冷静で、自覚的過ぎるくらい自覚的だった(小説や漫画やアニメの主人公が鈍感過ぎるんだよ)。だからこそ、僕はやはり冷静に、自分の次の行動を、彼女にかける言葉を選択する必要がある。

 僕は、この選択を誤りたくない。つまり、後悔したくないし、失敗もしたくない。さらに欲を言えば、これはいつも思っていることなのだけど、どんな選択をしても、その選択の結果を自分の責任にしたくない。

 一番いいのは、「自分の意志で選択した」のではなく、「他人の都合のために、『それ』を選ばざるを得なかった」と被害者面で言えること。そうすれば、僕は被害者だから、それから起こるすべての出来事の責任を他人に押しつけられるからね。絶対、自分にとって都合の悪いことが起きた時に「あの時あんな選択をしなければ」よりも、「あの時あいつにあんなことさえ言われなければ」って言える方がいいに決まっている。

 ただ、そのためには、今回僕を「非日常」へと誘う役割の彼女の方から、「彼女の都合のために」身勝手な説明を無理やりしてもらい、勝手に事件の当事者にしてもらう必要がある。が、この様子だと、彼女は僕に対して「勝手」をしてくれないようだ。この人がもっと単純なバカだったら、自分の領域について気持ちよさそうに話しては「勝手に」羽目を外して語るに落ちて、情報の一つや二つ漏らしてくれそうなのに。彼女は世間話をする以外は意味深に笑っているだけで、そちらの領域を提示してくれないどころかこちらに踏み込んでも来ない。

 どうやら僕も、面白そうなことにはすぐに頭を突っ込むバカであることを期待されているらしい。まあ、そういうタイプの「主人公」も多い。ただ、僕はそんなに愚鈍ではない。きっと相手も同じなんだろう。

 そしてこれは完全に予測だけど、おそらく、相手も僕に何らかの予感を抱いている。だけど、決定打(けっていだ)がない。だから僕の選択を待っている。そして、その予感が正しいかどうかを、証明したい――。


 しょうがないな。


 やはり、彼女たちの「世界」に関与するためには、僕の一言が必要らしい。

 これから起こる出来事の責任が自分持ちになってしまうのは面倒だけど、それ以上に、ここで麦茶だけ飲んで帰ってしまったら、もう二度とこの人たちに関わることはないような気がする。それはもったいない。

 背筋を伸ばして座る彼女は、なお僕を見据えている。尚人くん、と呼ばれた彼も僕を見ているような気がする。逆光のせいで、彼女たちの顔は少しだけ見えづらい。

 僕は少しだけ息を吸う。大丈夫。できるだけ平常心で、相手のペースに吞まれないように、でも、少しだけ吞まれながら。

「まだ聞いてなかったと思うんですけど。ここって、何をする部活なんですか?」

 僕が言うと、シン……、とその場が静まり返る。

 ……言ってしまってから僕は、急に不安のようなものに襲われて、胸の辺りが苦しくなる。が、次の瞬間、彼女が声を上げて笑ったために一気に意識が引き戻される。

「怖い顔しないでいいよ」

 あはは! と意味不明に笑い続ける彼女の真意を図りかねていると、彼女はじきに呼吸を整え、「そうだね」と再度姿勢を正した。

「たいしたことはしてないよ。ただ話す前に、まずはこの部に入ってもらわないとなーって」

「何か、言えないようなことなんですか?」

 僕が訊くと、彼女は笑みを浮かべたままで「ううん」と首を振る。

「内容の説明がちょっとややこしいんだ。きみは頭がよさそうだから、ちゃんと理解できるかとかは心配してないの。でも、きみだって、興味のない話を永遠に聞かされるのは苦痛でしょ?」

 それはまったくそのとおりだ。そういうことがちゃんとわかっていて、初対面の僕に配慮ができる彼女は、その辺のやつらよりずっと賢い。だからこそ少し怪しい。今まで生きてきた中では、出会ったことがないタイプだ。

「教えてくれますか」

 ……故に、彼女ともっと、関わりたいと思ってしまう。他人に興味が湧くことなんてほとんどない僕なのに、僕は自然と、次の言葉を紡ぎ出していた。

「そんなにもったいぶるってことは、何か『普通』じゃないんでしょ。僕、そういうの嫌いじゃないんで。入部したところで幽霊部員になるかもしれないけど、それでいいなら」

「話が早いね」

 彼女は満足そうに微笑むと、椅子から立ち上がる。すると、彼もつられて立ち上がった。

「じゃ、決まり」

 そう彼女が言った瞬間、一瞬、なぜか彼の表情が曇ったように見えた。どうして? 確認しようともう一度彼の顔を見るが、彼がすぐに後ろを向いてしまったためにわからなくなってしまった。

「別にいいよ、幽霊部員でも。部員は部員で、同じルールを守ってもらうから」

 まるで表彰状を受け取りに行くかのような姿勢と足取りで、彼女は教壇に上った。彼女は慣れた手つきで真白のチョークを手に取ると、大きめのくずれた丸文字で、黒板に『牧田美樹』と書いた。

「『まきた みき』。私の名前だよ。もしきみがこの部に入ることになったら、私のことは『牧田先輩』か『ミキ先輩』って呼んでね」

 彼女――「牧田先輩」は、チョークを手に持ったまま、席に座っている僕の方を向いた。まるで授業のようだ。

「部活の名前は『創作部そうさくぶ』。詳しい活動内容は、今は割愛」

「いや、それを教えてくれるんじゃないんですか」

「『習うより慣れよ』って感じなんだ。まずはとりあえず、ここがどういう部活なのか想像してみて。正解を導き出すのに必要な要素は限られていると思うけどね」

 そうは言われましても。

 ため息をつきそうになりながら、僕は全然関係ないことを考える。この人、友達いないんじゃないだろうか。だって、話し方がかなり回りくどいんだもの。部活名から部活の活動内容を当てろってどういうこと? 聞いたことないんだけど……。そしてこの人はクラスでもこんな感じなんだろうか。もしそうだったら相当痛い人だな。いや、本当に僕には別に関係のないことなんだけど。

「『美術部』……ではないんですよね」

「そうだね。美術部は別にあるよ」

「じゃあ『文芸部』?」

「残念、それも別にある。尚人くんの友達がそうじゃなかったっけ」

 「うん」、と教室の後ろから彼の声が聞こえる。どうやら麦茶を片付けに行ったらしい。「尚人くん」の方には友達がいるのか。

「何か、『作る』部活なんですよね?」

 しかしその割には、この教室には何もない。何かを「作る」のには道具が必要なはずだけど、ここが美術部でないとなると、それらしい物はまったく見当たらない。文芸部だったら紙と鉛筆があれば、何かしら書けたりするのかとも思ったけれど。

「そういえば、きみの名前は?」

 思考の途中で唐突に新たな質問を投げかけられたため、肩が跳ねる。

 タイムアップだろうか、それとも飽きたのか。教壇に立った彼女は、指の背でコツンと黒板を叩くと、もう片方の手で手招きをした。どうやら僕が答えを当てる前に自己紹介をご所望らしい。

 しょうがないな。僕は重い腰を上げ、牧田先輩の隣までとろとろと歩く。

「はい」

 彼女の声に手を開くと、手の上にころんとチョークが転がる。長い白チョーク。先端が少しだけ、他の人に使われて丸くなっている。

 僕はそれを握り直すと、彼女の名前が書かれた場所から距離をとって、書き慣れた漢字三文字を書く。

「何て読むの?」

「『鏡味かがみともえ』です」

「そう……」

 彼女は僕の書いた文字をじっと見つめる。彼女が見ているのは黒板なのに、なぜだか僕が見られている気がして居心地が悪くなった。それへの小さな反抗として、僕も黒板に書かれた彼女の名前を凝視し返してやろうとしたところで、僕は自分が黒板に書いた文字が小さ過ぎたことに気がついた。

「『巴くん』」

「え?」

「名前の由来は?」

 知り合ったばかりの人間に下の名前で呼ばれて動揺する僕に構わず、彼女は新たな質問を寄越す。

「さあ……。両親とも、『雰囲気でつけた』って言ってましたよ。特に理由もないって――」

「何かあったはずだよ」

 その言い方はあまりにきっぱりとしていた。僕は思わず彼女を見る。

 ぴたりと窓の閉まった教室に、風が吹き込んだかのような錯覚。見えない風に吹かれた彼女の長い髪の毛が、カーテンのように丸く、ふんわりと膨らんで――。


 彼女は微笑んでいたが、真面目な顔をしていた。


 その真剣な眼差しに撃ち抜かれてしまった僕に気づくと、彼女は少し緊張をゆるめ、ふっと僕に笑いかけた。

「きみは、『運命』を信じる?」

「『運命』?」

「すべてのことが、何か一本の糸で、繋がってるってイメージを持つことができる?」

 そう言う彼女の顔は、やはり真剣だった。それを見た僕は、どうしたかと言うと――少しだけ息を吐いた。

 彼女が真剣ならば、僕も真剣に応じよう。

 先ほどの彼女の言葉に疑問点を持った僕は、きちんと、生徒らしく質問をする。

「『運命』って、糸の形をしているんですか?」

 僕の言葉を聞いた彼女は、こくりと一つ頷いた。

「私はそう思う。運命は、細いけど、しなやかな糸の形をしてるんじゃないかなって……。ねえ、『偶然』は、『奇跡』と『運命』の、どちらに分類されると思う? 私たちに起こる一つ一つの出来事は、独立に存在していると思う? それとも何かのシナリオに沿って、予定通りに進んでいると思う?」

 彼女はそう言いながら、まるで車のワイパーのように腕を動かして、チョークで書かれた文字を消していく。

「どう思う?」

 僕は彼女から、黒板消しという名の発言権を手渡される。目の前に広がる黒板に向き合い、与えられた命題を咀嚼し頭の中で自分の論を組み立てながら、僕はいよいよ、この人には友達がいないんじゃないかと思った。だって、こういう話題について自分の考えを述べたがる僕には、面白いくらい友達がいないから。

「僕は、自分の『運命』を、『自分の行為の結果に生まれた、選択肢の一つ』だと思ってます。運命っていうのは、生まれた時から死ぬ時まで繋がっている既成の一本なんじゃなくて、何か行為の選択をしたときに広がる『可能性』の一つ一つがなんじゃないかって。何かを選択すると、それに対して新たな結果が生まれる。すると今度は、また新しい選択肢が出てくる。それの繰り返しで、『今』がある――っていうふうに考えると、僕という存在は最初から最後まで運命に運命づけられているわけじゃない。複数ある可能性から僕が何かを選ぶことこそが、僕自身を運命づけているんですよ。自分の運命や未来というのは、選び取ることで形作られるものなんです――」

 常日頃から考えていたことを一息に述べると、自分が喋り過ぎたことに気づく。黙って僕の言葉を聞いていた彼女の様子をおそるおそる窺うと、彼女は――呆れるでもなく馬鹿にするでもなく――先ほどまでと変わらない真剣な顔に少々の笑みを浮かべていた。僕はその表情に、不覚にもドキリとしてしまう。と、彼女の唇がゆっくりと開いた。

「じゃあその『行為の選択』は、どのように行われてるの? 自分の意志?」

「え? 当たり前でしょ」

 反射的に返事をすると、彼女は愉快そうに笑った。それはもう楽しそうに。

「『自分の意志』って、本当に『自分の』ものなの?」

「え?」

 僕の反応を見てか、彼女は次第に笑うのをやめて腕を組む。彼女の真剣な瞳は、目の前に立つ僕を、そしてその向こうを見通すような、そんな瞳だった。

「『自分の意志』だって思い込んでいるだけで、実はその意志までもが、誰かに作られ、決められたものだったらどうする? 何かある出来事に遭遇することも、そこで選択肢を与えられることも、そこでどんな選択をして、どんな結果になるかってことも、全部決められてたら、どう思う?」

「それは『神によって』ってことですか?」

 僕がそう訊くと、彼女は少し迷った後、小さく頷いた。

 その時、僕は自分の喉がひくつくのを感じた。それが笑いだと気づくのにそう時間はかからなかった。僕はそれを必死に嚙み殺す。

「『神』なんて存在しない。すべてを創造して、統括して知っている神なんているはずないじゃないですか。たとえいてもわからないし、ましてや『いる』なんて証明できないでしょ。もし運命が神の作った糸だってんなら、そもそも創造主の神がいないんだから、運命の糸も存在しないに決まってるじゃないですか」

「きみは運命を信じないのね」

 彼女は垂れてきた黒髪を耳にかける。僕も自分の腕をさすった。信じないと言うか、互いの思い描いている像が違うだけだ。

「私も神は信じていない。だけど、運命は信じてる」

 彼女の言葉が、わけもわからず僕の脳内にこだまする。僕は黒板消しを握り直すと、彼女に問うた。

「どうして?」

「消してみて」

 チョークで書かれた僕の名前を指差し、彼女は僕の顔を覗き込む。ダークブラウンの、飴玉みたいにつやつやと輝く瞳。彼女の長くて細い髪が目の前で揺れたが、僕はすべてを無視して黒板に一歩近づいた。

 あまりにも広い多目的教室の黒板に残されているのは、僕の名前だけだった。どうして今書いた文字をすぐ消すように言われたのか。その意図はわからなかったが、僕はそれを彼女と同じように黒板消しで消した。そうして、黒板は元のまっさらに戻った。


 ……はずだった。


「あれ?」

 ――確かに、黒板消しが黒板の表面を擦る感触はあった。それなのに、白いチョークで書かれた文字は消えもかすれもせず、先ほどと同じ状態を保ち、確かに、「そこに在った」。

 僕はもう一度、黒板をよく見たまま、強めに黒板消しを動かす。それでも文字は消えない。もう一度消してみる。もう一度。もう一度。

 もう一度。

 もう、一度。


 ――消えるはずなんだ、「普通」は。


 僕は手を動かすのをやめた。代わりに文字を凝視する。

 鉛筆で紙に文字を書くときと同じように、チョークで黒板に文字を書くときも、チョークの粉が黒板の表面の凹凸に引っかかることで線となる。だから、文字を「消す」という行為はその粉を繊維によって拭い取るということなのだと、僕は知っている。念のため、確かめるように黒板消しを裏返すと、白く薄汚れた面が現れた。これはさっき、彼女が自分の名前を消した時の物だろう。

 どうして、彼女の名前は消すことができて、僕の名前は消えない?

「ああ、ほんとにそうだった」

 感心したような声に振り向くと、彼女はキラキラと瞳を輝かせ、僕を見ていた。蜜を塗っていた木にカブトムシが群がっているのを見つけた小学生の目だ――と思う。


 なぜだろう。これがどういうことなのかと説明を要求する前に、「帰らなくちゃ」と本能的に思った。


 と、突然体が動かなくなる。脚、胴体、肩、腕と下から感覚がなくなり、ズシンと重たくなっていく。

 まさか金縛り? そんなの、生きてきて一度もなったことがないのに。

 体が動かない代わりにぐるぐると思考が巡り、巡れば巡るほど呼吸が苦しくなる。酸素が足りていないのか、と思った次の瞬間に、今度は強い眠気に襲われた。

 視界がぼやける。そしてぼやけた彼女のシルエットが目の前で揺れる。声を出したいが、やっぱり金縛りなのだろうか、呻き声のようなものしか出ない。体も、脳も不自由だ。おかげで、ただ立っているだけなのに、車酔いしたみたいに気分が悪い。

 次第にめまいがしてきて、しかし体を動かせないがために倒れ込むこともできずにいると、ふわっと、後ろからあたたかいものに抱きかかえられるような感触があった。

「大丈夫」

 耳元で囁かれたのは、彼――あの男の先輩の声。その優しい響きに、僕の体を支配していた強張りがほどけていく。

 つま先から脳の芯までとろけていくような感覚に、僕は自力で立ち続けることを諦めてしまう。体重を彼に預け、とうとう床に座り込んでしまう時にはすでに、視界の半分以上は闇に覆われていた。と、前触れなく、僕の火照った額に冷たい物が触れる。心臓がキュッと縮む心地がした。

「『入部テスト』は、合格ってところかな」

 凛とした、聞き慣れた声。入部テスト? と思った矢先、曇った視界に黒い物が映り込み、額から瞼へと下りてくる。彼女の手だ、と思った時にはもう、それは僕の目を塞ぐシャッターとなってしまった。

「あ、の……っ」

「おやすみ、巴くん」

 彼女の優しくてどこか懐かしい声の響きが、背中から伝わってくる彼の体温が、僕からすべての緊張を奪い上げる。

 ここで眠ったらいけないと、本能が告げている。だが、視界が完全に真っ暗になり、判断能力はおろか思考する力さえ奪われてしまった僕は、何もかもを投げ出してしまうしかない。

 すべてを放棄する寸前、僕は彼女の声に感じた謎の懐かしさの正体を探ろうとした。が、それを考えるには、あまりに時間がなさ過ぎた。



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