チャイム
児玉キリ
1話:iPod(①)
1・iPod
君は「夏」という言葉に対してどんなイメージを持っている?
暑い? 眩しい? にぎやかで楽しい? それともだるい? もしかしたら、虚しいとか。まあ、「感じ方は人それぞれなんだろうけど」なんて、無責任に締めくくればそれまでなんだけどさ。
「夏」という語にはいろんなイメージがつきまとう。それは他の季節についても言えるんだろうけど、特に夏というのは、バカみたいな空の青、濃過ぎる木々の緑、うだるような暑さ、蝉の声、アスファルトの黒にコンクリートの灰色、照りつける太陽……、などとそれらすべてが強烈で、まるで強い「匂い」のようだ。
夏は、まるで僕らを痛めつけて殺すような勢いで、狂ったように全身で体当たりをしてくる。例えばそこで、咄嗟に緊急回避を決めることができるやつらや、むしろその体当たりに気づかないようなやつらは、だいたい、それなりに日々を楽しく生きている。だが、攻撃に対して受身を取る間もなく、背中から倒れ込んで、無様に地面に頭を打ちつける僕のような人間は、弱いから、「夏」という言葉を聞くだけで何とも言えないかなしみに浸ったり、あるときはそれにうっかり酔ったりしてしまうのだ。
「夏が好きだ」と言って、遠い目をするやつを好きになっちゃいけない。「夏が嫌いだ」と言って、眉間にしわを寄せるやつの話を全部聞いたらいけないよ。そいつらみんな、かなしい気分に浸るのが大好きなナルシストなんだ。みんな揃ってなぜか被害者面をしているけど、あれは大きなものに打ちのめされる自分という存在に、ただ酔っているだけなんだ。
だから、そういうときは放っておいてほしい。じゃないと、理由を述べるふりをして、つまらない自分のことをべらべらと喋りたくなっちゃうから。
ああ、そう、そうなのだ。別に僕らも、自分のことを面白いと思ってるから話をするわけじゃない。本当だよ。むしろ自分のことはつまらないって思う。まあ、そういう自分を可愛がることができるのは結局自分だけだ、って思いもあるけどね。だから傷つく自分のことが好きだったりして。なんて、とりあえずそれは置いといていいんだ。
なんで、それでもこうやって、僕は君に語りかけているのだろう。不思議だね。自分のことばかり喋ってごめんね。君とはずっと話をしていたいのだけど、君のことを笑わせることができるような話題が見つからないんだ。
つまらない人間でごめんね。
◇
湿度の高い体育館で行われた終業式では、不幸なことにと言うべきか、案の定と言うべきか、生徒が一人熱中症で倒れた。その時は、まだ名前も覚えられていない数学のナントカ先生の叫ぶ声が、体育館の反対側にいた僕の方にも聞こえた。
「救急車!」
大声を上げる先生の声には、教壇の上でぶつぶつと途中式を読み上げるときにはない悲痛な響きがあって、僕は大げさだなと思いながら突っ立っていた。小さなパニックの波は先生から生徒たちにもじわじわと広まっていき、大きなざわめきとなっていく。
こういう不慮の事態に、人は性格が出る。倒れてるやつを特定しようとするやつや、ざわめきに乗じて隣の人と関係ない話を始めるやつ、また、さすが県内有数の進学校とでも言うべきか、自分には全然関係ないという顔をして、単語帳を開くやつもいる。どさくさに紛れてその場に座り込むやつもいるし、誰とも話さずにじっとその場に立っている感心な生徒もいる。きっと、傍から見れば、僕もそう見えるのだろう。
何気なく後ろを振り返ると、僕はその感心な生徒の中に知り合いを見つける。やっぱりか、相変わらずだな、と少し笑いそうになりながら、まだ話は始まらないのに体を前に向けた。
僕らの終業式は成り行きで終わって、残りの話はクーラーの効いた教室で、水筒のお茶を飲みながら聞かされた。確証はないが、おそらく全校生徒が「最初からそうしろよ」と思っていたに違いない。
熱中症対策の話の分、当初の予定より長くなったホームルームが、無機質なチャイムの音に遮られる。
「じゃあ、そういうことで」
「起立」
一斉に椅子を後ろに引く音が、耳をつんざく。
「礼」
頭を下げるのも、上げるのもばらばらなクラスメートたちは、それぞれの速さで一学期に区切りをつけた。
夏休みが来たのだ。
僕は机の上のバッグを肩にかける。クーラーのよく効いた教室は、温度は低いが湿度が高い。じめじめとした室内は、夏の教室に特有の、汗やら防臭スプレーやらの混ざった臭いが充満して、息苦しい。
早く帰ろう。
小さな深呼吸を一つすると、僕は向きを変える。目指すは後方ドア。くだらない話で盛り上がるクラスメートと規則正しく並べられた机の間を縫っていくと、気分はまるで海藻の合間を泳ぐ魚のよう。すいすいと小魚の群れやサンゴ礁を掻き分けて泳ぐと気持ちがいい。誰の目にも留まらないように静かに、気配を消して、いかにも自然に教室から出ていこうとする。
と、ドアに手をかけた瞬間に、男の声に呼び止められる。
「
首だけ振り返って、一瞬そいつの顔を見る。反射で少し立ち止まると、そいつは、ひょいと気軽に片手を上げた。
「夏休み明けの学園祭の話をするんだけど、ちょっと残ってくんない」
ひらひらと揺れる手の周りには、五、六人ほど他のクラスメートがいる。僕はそれらの顔もいっぺんに見る。
彼らはいろんな向きで、いろんな顔をしていたが、少なからずどいつも僕を見ていた。一番ありがたいのは、僕に興味を示してくれないやつなんだけど、あいにく、そういう雰囲気のやつはいないようだ。
わかるけどね。だって、どいつもこいつも、「初対面」なんだから。
「普通」の人間は、自分の知らないものに対して、それが後々自分の人生に関わっていくかそうでないかもよく考えることなく、それについて知ろうとするものだ。
そんな人間の本性(ほんせい)について、僕はとやかく言うつもりはさらさらない。ただ、今回に関しては、その無意味な好奇心(こうきしん)に突き動かされて僕に興味を持ってくれてるところ悪いんだけど、「僕」は、この先あんたたちの「世界」に関与していく予定も、その意志もないんだ。
「ごめん」
そう言ってドアを開ける。背後から「えっ」、と小さな声が聞こえたような気がしたが、後ろ手でドアを閉めると、それは完全に遮られた。
◇
昼過ぎから軽く寝て、起きたら十五時過ぎだった。ベッドから這い出し、簡単に髪を整えると、いつもの倍の時間をかけてシャツを着る。
両親は朝には家を出ており、当たり前だがまだ仕事中。家には誰の気配も感じない。僕は昼食代わりにその辺にあった食パンを牛乳で流し込むと、しばらく使う予定のなかった通学用バッグを担ぎ、玄関のドアを開けた。
授業のない日に、自分から学校に行くのは初めてだった。
行きたくないさ、学校なんて。用事が無ければ行くわけがない。しかも、せっかくの夏休み初日に。
ただ、それでも行かなくちゃいけないのは、僕が学校に忘れ物をしてきたからである。
iPodを忘れた。たぶん美術室に。
おそらく、一学期最後の授業の時だろう。夏の課題についての長い説明を聞きながら、机の中でこっそりと操作していた記憶が、うっすらとある。そして、説明の途中で先生が突然歩き出して、片耳につけていたイヤホンを、気づかれないように机の中にしまった記憶もある。
本当はもっと前から回収しに行く予定だったのだが、テスト期間やらなんやらですっかり忘れていた。というのもあるが、正直美術室まで行くのがめんどくさかった。
だが、昨日はさすがに回収する予定だった。授業が終わったら他の生徒たちと会わないように、早めに美術室に行くつもりだった。
が、しかし、終業式やホームルームでつまらない話を聞いている時には覚えていたのに、帰る間際になってすっかり忘れてしまっていたのだ。
古びてボロボロな芸術棟の前に自転車を止めると、隣に並んだ木々が、風に吹かれてざわめいた。生徒の気配のない、昼下がりの芸術棟はいつもとは違った様相を呈していて、それこそ、絵画の中の建物のように、静かで落ち着いていた。
この学校には、本校舎とは別に、芸術棟という建物がある。
芸術棟は三階まであるが、この内、用事があるのは一階の美術室だけだ。芸術棟は学校の敷地の北東の隅にあり、本校舎からは少し離れた場所にある。
改修工事が数年前に行われた(らしい)本校舎に比べ、芸術棟は年季が入っている。二階の書道室や三階の音楽室には入ったことがないからわからないが、美術室はかなりボロくて、正直汚い。美術室という教室の特性なのか、油絵の具やニスなどの匂いが、静物画用のカーテンやテーブルクロスに何重にも沁み込んで、ツンとする匂いを放っている。木でできた机や作品棚も、濡れているわけでもないのに常にしっとりとしている。
隣の教員研究室には明かりが点いていた。たぶん先生はいるのだろう。
鍵が開いていなかったら貸してもらいに行かなくちゃいけないのか、めんどくさいな、と思いながら、芸術棟専用の下駄箱の前で靴を脱ぐ。
美術室は一応土足禁止なのだが、そもそも芸術棟が屋外にぽつんとあるので、下足と上履きの区別が曖昧だ。特に美術室は一階にあり、その入口と本校舎から延びる上履き通行可能な廊下が直接繋がっているのもあって、地面からコンクリの高さだけ高くはなっているが、いつも砂っぽい。
僕は上履きを持ってこなかった自分を恨みながら、つま先立ちで、アルミの引き戸の前まで歩いていく。
取っ手に右手をかけて確認すると、するりと滑る感触があり、どうやら鍵はかかっていないようだ。だが、僕はすぐには戸を開けない。なぜなら、開いた扉の隙間から、冷気が漏れてきたのだ。僕はすぐに、「誰かがこの中にいる」と気づいた。
誰だ。美術部のやつらか?
僕はまたも、めんどくさ、と思った。銀色の引き戸の上部にはめられたすりガラスの向こうはよく見えず、今のところ、様子を窺うことはできなさそうだ。
そりゃそうか。鍵が開いてるんだから、人がいたっておかしくないよな。僕は耳をそばだててみたが、中から人の話すような声はまったく聞こえず、クーラーのごうごうという音が聞こえるか聞こえないかくらい。どちらかというと、外の風の音の方がうるさいくらいだ。
一人いるか、誰もいないか。どっちかだな、と見当をつける。誰もいなくて、ただのクーラーの消し忘れだったらラッキー、一人いたらアン・ラッキー。
どっちでもいいや。どうせ「この場限り」なんだし、さっさとiPodだけ回収して帰ろう。僕はぬるい取っ手に手をかけて、引き戸を横へ引いた。
ドアを開けると、さっきまでは漏れるようだった冷気が、大波となって僕を包むように、一斉にあふれてくる。
「あ」
中にいた女子生徒と視線がぶつかり、思わず声が出た。
女子生徒が一人、木の机に腰かけて、音楽を聴いていた。清潔な印象を与える半袖ブラウスに、学校指定の赤いスカート。その長めの丈から察するに、真面目な生徒だ。開け放した引き戸から差し込む陽光に照らされて、背中までありそうなストレートの髪が淡い茶色にきらめいている。両耳からは茶色のイヤホンコードが垂れていた。眩しそうにこちらを見ている瞳には、少しだけ驚きの色が見て取れる。それでもしゃんと伸びた背筋からは彼女の意志の強さを感じた。
僕は後ろ手で音が出ないようにドアを閉めると、「すいません」と言う。対して彼女は、一瞬言葉が出てこないようだったが、「あ、こっちこそ」と短く言うと、視線で入室を促した。
初対面の人と少し気まずくなって、何を話せばいいのかわからないときには、とりあえず、先に「すいません」と言う。この「すいません」に特別な意味はない。強いて言うなら、これは「先手を打つ」ための「すいません」だ。これを先に言うと、後の会話が自分のペースで進みやすくなるというのが、僕の持論。
「忘れ物を取りに来たんですけど、邪魔でしたか」
一応、言葉で断る。女子生徒はまだ入口に立っている僕を見て、茶色のイヤホンを片方外すと、
「そうなの。いや、邪魔じゃないよ」
と答える。
適当に、「そうですか」みたいなことを言って侵入すると、彼女はすぐに耳にイヤホンをつけ直す。おそらく先ほどまで聞いていた曲を再開させたのだろう。僕はそんな彼女を横目に、いつも座っている自分の席へと向かった。
必要以上の会話がなくてよかった。向こうも割と干渉してこなくて安心した。
僕は早くここから出ようと思い、脳内で自分のiPodの形状を思い起こす。
銀色で小さい、白いイヤホンつきのiPod。これと言って、特別な思い出はない。少し昔に両親に買ってもらった記憶はあるが、それがどうしてだかは覚えていない。普通に考えたら誕生日プレゼントとかだったのかもしれないが、記憶に残っていないということはたいしたストーリーはなかったということだろう。
そうこう考えながら、教室の一番奥にある机の前までやって来る。
あるならここだ。なかったら……どうしよう。
僕たちのクラスの後に授業のあったクラスはないそうだし、美術部のやつらも、テスト期間だったから来ているはずがない。だから理論上は、ここにあるはずだ。
それでも、なんとなく嫌な予感がしていた。僕はおそるおそる机の中に手を突っ込むと、指の先で銀の小箱を探す。
手前、奥、隅、でっぱり、溝……。
可能性のありそうなところを触り終わった僕は体をかがめ、薄暗い机の中を覗き込む。が、そこには、僕が思い描いていた物はない。念のため、僕はもう一度手を突っ込む。
盗まれた? まさか。
思考が停止しそうになる。別に、聞かれて困るような曲が入っているわけではないのだけど、それでも、僕は内心非常に焦た。
どうして。あんな物、盗むやつがいるか?
僕が失くしたのはiPodだ。いくらスマホが市場に出回り始め、様々な音楽アプリやサイトが手軽に利用可能になったからと言って、いや、だからと言って、iPodの需要がなくなったとはまだ言えないのか。iPodだって電子機器だ。文明の利器だ。僕だって、置き忘れたのがこれじゃなければここまで執心しないだろう。とは言いつつも、一週間ほど放置していて問題がなかったのも事実なのだけれど。
もしかしたら職員室に届けられているかもしれないと思い、とりあえず立ち上がる。ドアの方に体を向けると、さっきの女子生徒がこちらを見ているのがわかった。僕は反射で目を逸らしたが、彼女が、
「見つかった?」
と訊いてきたので、再度見ざるを得なかった。
僕に声をかけた彼女は、小さくにこりとすると、また、片耳のイヤホンを外した。この人は、人と話をするときはイヤホンを外すのか。偉い人だな、と思った。僕だったら外さないんだ。
「いや、見つかりませんでした。職員室に行ってみます」
僕は簡潔にそう言い、すぐに出て行こうとした。すると、予想外なことに、彼女は「待って」と僕を呼び止めた。
何?
僕はできるだけ迷惑そうな目をして彼女を見たが、彼女の表情に特に変化はない。
「何ですか?」
「何を探してるの? 私、よくここにいるから何か知ってるかも」
この人は、美術部……ではなさそうだな。
と、考えていると、彼女がじっとこちらを見つめていることに気づく。
――まっすぐに見据えられるのは、何となく気後れするから苦手だ。
居心地の悪さを、相手に対する文句として雰囲気で醸し出しつつ、さっきと変わらない視線で、iPodです、と言おうとした。
が、唇を開こうとするその瞬間に、僕は彼女の左手に握られている、
「それ」
に目を奪われた。
「え?」
彼女はぽかんとした。だが、視線の先に気がつくと、しばらくフリーズした後、「あ!」と声を上げた。
「これ、きみの?」
彼女は右手で「それ」を持ち直すと、僕の方に向けた。冷たい銀色のiPod。「再生中」と表示されていたのは、僕が最近よく聴いているアーティストのバラード。
僕は、静かに「僕のです」と言うと彼女に近づき、やんわりとiPodを奪う。本体から茶色のイヤホンを抜いて彼女のからっぽの手に握らせると、目を見開いたまま固まっていた彼女は、急に気がついたように、勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい! 勝手に聴いたりなんかして……。本当にごめんなさい!」
「あ、いいです別に」
ざっとiPodの再生リストを確認したところ、曲順が入れ替わったり、曲がなくなっていたりはしていなかった。僕は小さくため息をつくと、ちらりと彼女の方を見やる。
正直、非常識でしょ。いくら誰の物かわからないからといって、……いや逆に、誰の物かわからない物を勝手に使うなんてありえない。
このiPodの中の曲たちは、僕の趣味や嗜好そのものだ。と、いうことは、このiPodを使えばきっと、個人を特定することさえできる。それほどこれは重要な個人情報が詰まった、僕のプライバシーそのものだ、と少なくとも僕は思う。
他人に見せることを考慮せず、自分の好きなように選んだ曲たちが見知らぬ人間に見られるということは、自分の部屋に不法侵入されることと同義だろう。そして、そいつがそれを勝手に再生するということは、道端で拾った財布のお金の数を数え、カードを一枚一枚広げていくことに等しいくらい、無礼で卑しい行為と言えないか。高校生なんだから、ていうか一人の人間なんだから、そのくらいは考えればわかるはずだ。まだイヤホンを使われていないだけマシかもしれないが……。
「あれ、イヤホンは?」
「ここに」
彼女は自分のスカートのポケットから白色のイヤホンコードを取り出すと、僕に「ごめんなさい」、と言いながら寄越した。彼女の体温で多少ぬるくなったそれはあまり綺麗に結ばれているとは言えず、むしろ粗雑に巻かれていて腹が立った。
僕がいったんコードを伸ばし、そして元通りに巻き直している間、彼女は決まりが悪そうに下を向いていた。僕はさっさと出て行ってもよかったのだが、なんとなく彼女を責めたい気持ちになって、その場から動かなかった。
だけどすぐに、まぁ、でも、とめんどくさがりな僕が現れて、意地の悪い自分を制してくる。
「不作法だ」とか「失礼だ」とか、それを直接本人に言ったところで、結局は言った自分の方が満足するだけで、相手には伝わってなかったりする。例えば、自分では、「相手のために」と善意で言ったとしても、結局そいつは他者である僕に、自分の弱点を指摘されてしまったという事実のみに気を取られることが多い。もっと言えば、人によっては自分を否定されたことばかりに目が行き、まるで僕に一方的に傷つけられたみたいに落ち込み、反省することをすっかり忘れてぐちぐち嘆くだけで終わる。そういう場合は互いにいい思いをしない。相手も僕に対してまったく理解不能な負の感情を持つだけだし、僕は学習能力のないやつとつまらない時間を過ごしてしまったことに腹立たしさを覚えるだけだ。つまりは、
さらに、今「善意で言ったとしても」と僕は言ったが、今の僕に善意などというものはまったくない。本当に、ただ自分のいらいらを鎮(しず)めたいだけ。相手にも不快な思いになってもらうことで、自分だけ気持ちよくなって、Win《ウィン》になりたいのだ。しかし、だからこそ、ここで彼女を責め立てて勝ち逃げを図(はか)るというのは、大人げないってもんだろう。
だから僕は適当に、「いや、すいません」と言って謝った。これも、メッセージ性のない「すいません」。
僕はイヤホンをきっちり巻き終えると、さっさとその場から立ち去ろうとする。しかしどうにも苛立ちが収まらなくて、もう一度、頭を垂れている彼女の方を見た。
僕は、ペンを握っている彼女の右手と、彼女の後ろの机の上にある手帳に、何かが書いてあるのを見た。何だろう、と思った。
「それに、僕の聞いてた曲を書いたりとかしてませんよね」
そう訊くと、彼女は体をびくりとさせたが、すぐにまっすぐこちらを見据える。
「いえ、書いたわ。ごめんなさい、勝手に……」
僕は、意外とあっさり謝ったなと思いつつ、「それ、どうするんですか」と訊いた。
この辺りで、僕は、自分が冷静じゃなくなっていることに気づくべきだったのだ。
冷房の音が、遠くなる。彼女は左手で横髪を耳にかけると、静かにペンを置いた。しなやかに手帳を手に取った彼女は、一度自分で軽く目を通すと、うん、と一度頷き、その場に突っ立っている僕の目の前に広げた。
「わ、」
そこにはたくさんの曲のタイトルと、正の字が書いてあった。有名な曲もあれば、知らない曲もある。邦楽がメインだったが、ちらちらと洋楽のタイトルもあって、ぱっとそれらのアーティスト名を見ただけで、書いてある曲のジャンルの幅広さを窺わせる。
こんなにも広いのなら、と、思わず僕の知っている曲の名前を探したら、それはリストの一番下に、まだ新しい青いインクで書いてあった。正の字の一画目の「一」が、タイトルの右に添えられている。なんとなく目が離せなくて、その青い一本の線をまじまじと見つめていると、彼女が突然「私ね」と切り出した。
「私、放送委員なの。お昼の放送担当のね。いつも流れてるでしょ? あれ、私たちが選んだ曲なんだ」
確かに昼休憩の時間には、いつも何かしら曲が流れていた気がする。僕はよく知らないけど、テレビを眺めていると聞こえてくる、人気アイドルグループの曲とか、懐かしいポップスとか。コンビニとかでよく流れてくる、ありきたりで親しみやすいメロディ。
「勝手に中身を見てしまってごめんなさい。ついつい見ちゃうんだ、私。他の人がどんな曲を聞くのかって、すごく興味があって。失礼なのはわかっているの」
そう言ってもう一度頭を下げると、彼女は「あのね、」と続ける。
「もしきみの再生リストにお昼に流しているような曲ばかりが入っていたら、こんなに長く聴いていなかったと思う。本当は中身をちらっと覗いて、すぐに返そうと思っていたの。だけど、選曲が面白くて、なかなかやめられなくて。あと、この曲が入ってるって思わなかったから」
彼女は手帳の一番下を指差した。よく見ると、僕の知っている曲のタイトルには、正の字の一画目とは別に小さな丸印が書いてある。
「きみ、素敵な曲を知ってるね。私も好きなの、この曲」
そう言うと、彼女は僕にゆっくりと笑いかけた。
僕は驚いた。この曲はマイナーな曲だ。同世代じゃ僕以外に誰も知らない曲だと思っていた。邦楽は邦楽だけど最近のアーティストじゃないし、このアーティストの中でも人気のある方の曲じゃない。
いつもならそこで「なんだ、他人と同じかよ」と、機嫌が悪くなるはずの僕だったが、この時なぜか、僕の心は静かだった。そして、僕の口からは自然と言葉がこぼれ出ていた。
「……ラジオで、紹介されてたんです、その曲」
僕がまだ小学生だった頃に放送されていたラジオの、とあるコーナーを思い出す。僕はiPodをもらう前に、父から自分用のラジオをもらっていた。幼い頃の僕は、そのめずらしい黒い小箱で遊ぶのが好きで、学校から帰った後、特にすることもない夕方にはいつも電源を入れていた。当時は変に壊したらいけないとあまりチャンネルをいじらなかったから、いつも同じ番組を聞いていた。僕はその中の短い音楽コーナーが好きだった。彼女が好きだと言ったその曲も、そこで知った曲だった。
音楽を聴くのが趣味になったのは、たぶんあれの影響だろう。番組自体は今もやっているのだろうが、僕が好きだったそのコーナーは、確か、僕が中一の時に終わったはずだ。地元の話題が中心の、超ローカルな番組の中の本当に小さなコーナーだったそれは、声の優しい男の人と一緒に、僕と同じくらいの年齢の女の子が
「そうなの! 私も同じ。きみも聞いてたんだね」
彼女は手帳を自分の顔に近づけると、やわらかくほろりと笑い、ぱらぱらと懐かしそうにページをめくった。
人間っていうのは単純な生き物で、自分の好きなものを肯定されると自分を肯定されたような気になるし、誰かが笑っているのを見ると、自然と緊張がほぐれる。僕もそういう意味ではやっぱり普通の人間で、さっきまではあんなにいらいらしていたのに、いつの間にか不思議と平静が戻りつつあった。
でもあれだけ失礼なことをする人だし、何よりまだ名前も知らない他人にすぐ心を許すほど、僕は簡単な人間じゃない。僕はゆるんでいた気持ちを少し引き締めると、彼女に声をかけようとした。と、その瞬間、彼女がふっと見上げてきて視線がぶつかる。
あ、と思った時にはもう遅く、先手を打たれる、と思った。
「きみ、今、時間あるかな?」
「え?」
彼女は僕にそう訊くと、まっすぐ僕の目を見つめる。ダークブラウンの瞳に捉えられ、一瞬で頭の中が真っ白になった僕は、気がつけば空っぽの頭で、
「ありますけど」
と答えていた。
噓をついたら帰ることができたのかもしれないと思ったが、もう、遅かった。彼女は「そう」と言って、にこりと微笑む。
「じゃ、ちょっと来てくれない? きみに来てほしい場所があるの」
彼女は手帳をぱたむ、と閉じて、僕についてくるように言う。髪の毛をさらりとなびかせ、僕の正面に立った彼女を見た僕は、意外と背が高いなと思った。自分の身長が一六〇ないからかもしれない。それにしても、腕も体も細い割には、この人には不思議な存在感があった。
クーラーの電源を切り、彼女は作品棚の奥へと向かうと、遅れ気味についていく僕に手招きをする。
まったく知らなかったのだが、美術室の奥にはもう一つ扉があった。入口の引き戸とは異なり、木にアルミのドアノブがついた昔ながらの扉。
彼女は迷うことなくドアノブに手をかけ、ゆっくりと押す。すると、扉の向こうには長い廊下が続いていた。壁に取りつけられた窓からは太陽の光がたっぷりと差し込み、白くてつるつるの床が、まるで反射板のように眩しく輝いている。
前を向いた彼女はためらうことなくその奥へと進んでいき、僕も半歩後ろをついていく。歩くたびに彼女の長い髪の毛が目の前で揺れ、彼女の上履きの乾いた音が、狭い廊下に鳴り響いた。
靴下で歩みを進める僕は、その音を聞きながら、ただひたすらに非現実的だ、と思う。
ポケットの中に入れたiPodに触れるとひんやりと冷たく、そこだけまだ、美術室に充満していた「現実」をまとっているような感じがする。僕は、その冷たさを奪ってしまわないように手を離すと、どのくらいの速さで歩けばいいのか迷いながら、長い長い廊下を進んで行った。
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