3.乙女とパンツ
──なぜ、ライカなのか──
そう、少年に問いかけられて数日が経った。いつかと同じような体勢で、暇つぶしにと買い与えた古本を、無表情に読みふけるライカに目をやり、瑠衣はそっと首を傾げた。
彼のあの怒りは一体、何だったのだろうか。ライカは瑠衣の前に現れてからというもの、ほとんど感情を露わにしたことがなかった。というよりは、あえて感情を隠しているように見えた。ときどき滲み出る子供らしい表情や言動を、淡々と消し去っているかのような。
しかし、ライカという名前の理由を聞いてきたとき、彼は明らかにそれを忘れていた。
「ねぇ、ライカ」
呼びかけると、彼はすっと顔を上げた。見慣れたつもりでいたが、まじまじと見るとその顔立ちには、かすかに異国の気配がある。それは瞳や肌や髪の色の話だけではなく、はっきりとした人種の差は感じないものの、どこか違うことは分かった。
瑠衣にとっては、ただ "血筋が違うんだな" 程度のことだった。
しかし、彼を助けた日、瞳の色の話になったときに、ライカはそれまでとは打って変わって、不快の色をにじませた。そのことで、何か嫌なことがあったんだろう、と思いを巡らせる。
瑠衣だって、学生時代を過ごしたことはある。周りと違う、ということは、それだけで気遣うことが何倍にも増えるんだろうな、と何となく思った。瑠衣ですら、それなりに大変なこともあったし、何の苦労もなく生活していたわけではなかった。
「……なに?」
いつまでも話の続きを始めない瑠衣に痺れを切らしたのか、彼が口を開いた。
「あぁ、ごめんごめん。ちょっと考えごとしてた。話の続きなんだけど」
彼から視線を外した瑠衣は、それを鏡へと移す。化粧の最中だったことをすっかり忘れていて、どこまでやったか分からなくなっていた。
鏡の中をまじまじ見ると、次第に何を終わらせたのか思い出した。彼女は、次はアイライナー、とポーチの中をまさぐった。
「あのねー。あとで出かけない? 私、今日休みだから」
「…………は?」
「は? って……。嫌なの?」
「嫌──ってこともないけど……」
そう言う彼はどこからどう見ても、嫌そうに見えた。別にライカが一緒でなければならないわけでもない。「どっちでもいいのよ?」と言いながら片目を閉じて、アイラインを引く。
仕事用ではない瑠衣の化粧は基本的に薄めだった。だが、アイメイクだけはきちんとすることにしていた。そうしないと、大人に見えないような顔をしていることを瑠衣は充分すぎるほど自覚している。
「ところで、なんだけど。ライカ、まだあそこ行ってるでしょ。……偉さが違う猫のところ」
「……えらさがちがうねこ……って?」
「あれ? そんなセリフなかった?」
「……なんのセリフだよ」
「有名じゃない、あのアニメのアリス……。あれ観たことない?」
「あぁ……。テレビってあんまちゃんとは観ないんだ」
「見なさそうねー。……って話変わってるじゃないの! まだあそこに行ってるの? あの店」
ライカはとぼけた顔をして本を閉じると、大きく伸びをした。首を左右に振って、腕を回している。
そのまましばらく見つめるが、彼は一向に返事をしようとしない。
「当たり前に無視しないでくれます?」
「……なんて言おうか、考えてんだけど」
「考えなくていいじゃない。事実をそのまま言いなさいって」
口を尖らせた瑠衣に向かって「はあ」とため息をつくと共に、彼は吐き捨てるように呟く。
「行ってるよ、しつけぇんだもん」
「しつけぇ……って、なにがしつこいの?」
彼の動きの傾向として、返事はすぐに来ない、ということを瑠衣は学習していた。
故に問いかけてからも、リップメイクの仕上げとして、ティッシュペーパーをくわえてぼんやりしていた。
そのうち話し始めるだろうと油断していたら、いつの間にかすぐ側にライカが座っていた。
思わず瑠衣の口から「んぉう!」と声が漏れる。この少年は本当に、音もなく近付いてくる。「びっくりしたなあ……」と口の中で呟いた瑠衣を無視して、ティッシュペーパーを引っ張る。
「なんでこれ、食ってんの?」
「食べてないわよ、絵本のヤギじゃあるまいし。あのね。びっくりするから、なにか音出しながら来てよね」
「音なんか出ないよ。……手拍子でもしながら移動したらいいの?」
真顔でそう言うライカに、瑠衣はふっと笑ってしまう。そうかもしれない。別に彼としては忍び寄ったつもりはないのだろう。
「このティッシュはね、余分な口紅を落とすためにこうやって……押さえるっていうのかな。ほら、絵の具で塗ったあととかにやらない? あれと同じことだと思うけど」
彼は真面目な顔付きのまま視線を上に投げて「なるほど」と小さく頷く。
「それで、なにがしつこいって?」
「……瑠衣もだけどさ、女ってしつこいんだね」
微かに笑ったライカの口調は、何だか小馬鹿にしているようだった。ここのところ、ずっと彼に
しかし、そこまで考えて、ふっと思う。これがしつこいということなのかもしれない、と。とはいえ、一時的な保護者としては気になるのが普通だ、とやはり瑠衣はむっとする。
「ひどい言い草だこと。ライカだってたまには、なにかをしつこく言いたいときあるでしょ?」
「ないよ」
「もぉ……。本当になにも教えてくれないのね」
「……別に教えるとか教えないってほどの話でもないっていうか……。まあ、そんなに知りたいんなら言うけど……」
そこで一度言葉を切ったライカはしゃがみ込んだまま、瑠衣の化粧ポーチを覗き込む。メイク道具を不思議そうに手にしては元に戻すのを、繰り返しながら、彼は投げやりに吐き捨てる。
「しつこい、というよりは、凶暴っていうか。そういうやつがいる。行かないと、すげー怒るから。別にあそこで怖いひとには会ってない。大丈夫」
「その…… ”そういうやつ” が怖いひとなんじゃなくて?」
「……いや、そいつは怖くはない」
そう言いながらベランダに出たライカは、洗濯物を取り込み始める。相変わらずの妙に慣れた手付きだ。瑠衣がそれを何となしに見ていたら、彼はちらりとこちらに視線を投げる。
「手伝ってよ。その……化粧が終わったんなら」
「……え?」
いつもだったら彼はそんなことは言わない。やり始めた家事は、ひとりで黙々と片付けていく、ライカはそういう動き方しかしない。
意外に思った瑠衣はぼんやりとただ彼の顔を見つめ続ける。
「なんだよ? だって、出かけるんだろ? その前にこれやっとかないと湿っちゃうよ」
「あぁ……。まあ、そうか……そうね」
ライカから洗濯物を受け取りながら、狐につままれた様な気持ちになった。確かに、母親にそんなことを教えられたことがあったような気がする。しかし瑠衣はズボラなもので、服が
そんなことを考えながら、適当に返事をしようとして、瑠衣は口をいったん閉じる。
さきほどの口ぶりだと、ライカは出かけようとしているようだった。留守番しているものと思っていたのに。
「……え、行く? 出かけるの嫌なんじゃないの??」
「嫌ってことはないって言ったでしょ。……嬉しいとも言ってないけど」
「……それって嫌なんじゃ……」
「いいから自分のパンツくらい自分でたためよ。……いつもおれがやってんの、おかしいから」
「……やっ! ちょっと! ……そんなじっくり見ないでよ」
ばっと彼の手から下着を奪った瑠衣を、ライカは心の底から呆れた、という風な顔つきで瑠衣を見る。
彼はやれやれと言わんばかりに首を振りつつ、ハンガーから外した洋服たちを布団の上に投げる。
「……いっつもおれがやってるって言ってんじゃん。今さら恥ずかしいとか、どうかしちゃってんじゃないの?」
「ま、まあね。まあ……そうなんだけどね。なんて言えばいいのかしら……。ほら、面と向かって渡されるとね」
「……乙女かよ」
「うるさいよ、少年」
苦笑いを浮かべるライカの手から、ハンガーごとその塊を奪った瑠衣は言葉をたたみかける。
「やっとくから! ライカは支度して」
「おれの支度なんて、別になんもねぇんだけど……」
「自分のパンツくらい、たためるからね!!」
「……
「イグアナ?」
「
「あぁ……それね」
そんな風に呼ばれるのは、ずいぶんと久しぶりだ。小学校の三、四年生くらいの頃だろうか。クラスの男子によくからかわれた。トカゲやカエルなど訳の分からないあだ名も付いた。
『ほなけん、カエルはリョウセイ瑠衣じゃって言よんでーだ?!』などと叫びながら、お調子者の男子を男子トイレまで追いかけたものだ。
両親はなんだって "瑠衣" なんて名前にしたんだろうか。名字と名前は必ずセットで呼ばれるものだ。耳馴染みのある単語で呼ばれるなんてこと、想像しなくても分かりそうなものなのに。瑠衣は十数年ぶりにそんなことを思った。
「変な名前よね」
「いい名前じゃん」
予想と違うことを言われ、瑠衣の洗濯物をたたむ手が止まる。彼を見上げると、いつものように冷めた視線は、瑠衣の方を向いていた。思わず「ウソつきなさいよ」と告げると、彼は少し笑って続けた。
「親は? なんて名前?」
「
「……やっぱり、いい名前じゃん」
「なんでそうなるの?」
ライカは答えない。彼にとって、名前とは何なのだろう、瑠衣は考える。
頑なに名乗ることを拒否するこの少年は自分を現わす名に異様にこだわっているように見えた。
「ライカもなんか嫌なの? 自分の名前」
「……どうでもいいじゃん、そんな話」
そう言うと、彼は突然、着ていたTシャツを脱ぎ捨てる。面食らった瑠衣のことなど気にもせず、別のTシャツを手に取って頭からかぶる。
「いきなり脱がないでって!」
「……別に、隠すことこないし。支度しろって言ったの瑠衣でしょ」
「そうだけど!」
素早く続きの洗濯物をたたみながら、何だか耳が熱くなってくるのを感じた。確かに暇そうな彼に『その洗濯物! やっといて!』と丸投げしてきた。しかし、よくよく考えれば、洗濯物には下着類も含まれていた。
どうして今まで気付かなかったのだろう。確実に、自分よりも若い男の子にパンツだのブラジャーだのを触らせていたのだ。
次からはそういうものは別にしておいて、自分で洗うことを強く胸に誓った瑠衣だった。
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