2.偶然の呪い(2)

 ライカという単語にどういう意味があるのか。それは分かるわけがないライカだったが、瑠衣がわざわざ、その名を選んで付けたとは思わなかった。しかし、何の因果かと鬱々とした気持ちになる。まさかカメラの名前で呼ばれていただなんて思いも寄らなかったのだ。


 蘇った断片的な記憶は、間違っていないと彼は思う。浮かんだものの全ての、つじつまが合いすぎていた。

 いつの間にかいなくなった彼の父親は、カメラマンだった。だから部屋に溢れるカメラ関連の本たちを、絵本代わりに眺めていたというのも自然に繋がった。そして、その雑誌の中に "ライカ" というカメラがあったのだ。古めかしく、時代遅れに見えたそれに、ライカは惹かれた。


 無邪気に『これが欲しい!』とねだると、父親は困った顔をして雑誌を覗き込み『これは難しいなぁ』と呟いた。四、五歳だった彼は、物の価値もよく分からなかった。その代わりにと父親が持ってきたのが、オートフォーカスの一眼レフカメラだった。


 細かい使い方はいいから自由に撮ってみろと言われて、どこに行くにも持ち歩いた。

 現像されるまでどう写っているか分からないカメラという存在は、他にたとえようもないくらいライカをワクワクさせ、そして彼はそれに引き込まれていった。


 ──あれはどこにいってしまったんだろう。あんなに大事にしていたのに──


「呪いかよ」


「……なにがよ?」


「……きつい」


「だから、なんの話……?」


 その問いに答えたくないライカは、ぺたんと床に座り込んだ瑠衣から視線を外して、抱えた膝にあごを乗せる。視界の隅の瑠衣はしばらくライカを見ていたが、やがて諦めたのか、再び髪を拭き始める。

 扇風機の前に移動して、風を強くした彼女は、「ふぁあー」と気の抜けるような声を出した。


「涼しー」


 その後ろ姿をこっそり眺めたあと、ライカはそっと目を伏せた。

 自分があの "ライカ" と同じ名で呼ばれていたことより、抜け落ちていた記憶が、ふわっと戻ってきたことに驚き、そして恐怖を感じた。

 そして気付いた。自分の中で酷い矛盾が発生していることに。


 ライカが、成長した顔が嫌いな理由。それは記憶の中の父親に、どこか似ているからだった。鏡を見たときに浮かぶ不快な気持ちの理由は、自分と関わろうとしない父への憎しみだと思っていた。だから "あいつはひどい人間だ " と、激しく嫌うことで、何とかバランスを保ってきた。


 それなのに、ライカは思い出してしまった。優しくて物知りな父親を、幼い彼は大好きだったのだ。

 その感情を押し込めて、一体どれくらい経ったのだろう。嫌いなのに好き。その事実は、ライカを混乱させた。自分が考えていることなのに、意味が分からなかった。そして、不意に疑問が湧く。


 なぜ、父親はいなくなってしまったのだろう。

 なぜ、居場所の分かる息子を訪ねて来ないのだろう。

 なぜだ? なぜ?


 ずっと頭の中にあった疑問だった。本当は、保護者に聞こうと思えばいつでも聞くことが出来たのに、それをしなかったのは、捨てられたことを再確認したくなかったからだった。

 もういらないと、はっきり言われたくなかった。言われなくたってもう、分かっているのだから。


 いつからか、辛いと感じる心など、死ねばいいのに、と思うようになっていった。心がなければ、こんな思いに挟まれて苦しむこともない。死なないのなら殺すしかない。そうやって、自分がどんどん無くなっていったような、そんな気がした。


 幼い頃に戻れたら、どんなに楽しいだろうか。自然に笑うことも出来るだろう。他人を見下すことも、無理に無関心でいる必要もない。


「……ねぇちょっと……大丈夫?」


 あんなに不満そうだったのが嘘のように、瑠衣は心配そうにライカを見つめていた。強風が振り返った彼女の後ろから吹いて、髪を暴れさせている。


「……メデューサみたい」


「え?」


「その……。髪が、ぶわーって……」


「……また関係ないことを……」


 瑠衣は呆れたように肩をすくめると、扇風機の前で髪を掻き回し始める。それは彼女のいつものスタイルだ。それは先日聞いたところによると夏限定の髪の乾かし方のようだった。


「ドライヤーとか……使えばいいのに」


「そうね。今日は湿気すごいわ。……って今、そういう話してないのー。大丈夫かって聞いてるのー」


「……大丈夫だよ」


 瑠衣は「そうは見えないんだけど」と言いながら、バスケットの中からドライヤーを取りだし、プラグを差し込んだ。古いからポンコツ、と彼女が言うそれは、轟音ごうおんと思えるモーター音を出して唸る。


「影が服着て座ってるみたいなのよね。暗いわよ?」


「……ついに影になったんだ、おれ」


「んー? 聞こえないー」


「……母親なんか、いないから」


 瑠衣に聞こえないのをいいことに、ライカは呟いてみた。それは今まで口にしないようにしていた言葉だった。


「だから聞こえないんだってば。ちょっと待って、乾かしちゃうから」


 瑠衣が代わりになる必要があるような母親は、ライカにはもういなかった。でも、保護者は今頃、心配しているのかもしれない。でも、ライカはそれを素直に認めることが出来なかった。


 彼女――保護者の名前は深雪といって、ライカの父親以外の唯一の身内だった。深雪が迎えに来るまでその存在すら知らなかったが、彼女はライカのことをよく知っている様子だった。


 ライカには、小さい頃の記憶があまりなかった。何だか遠いところに置いてきたように、色々なことに覚えがなかった。

 しかし、それはライカにとっては当然のことで、特に気にしたことはなかった。今までは。


「それで? なぁに?」


 髪を乾かすのが一段落したらしい瑠衣が改めてライカを覗き込む。彼女が何を言っているのかは分かっていたが、ライカはわざと素っ気なく言い返す。


「……なにが?」


「なにか言ってたじゃないの」


「別に、なにも」


「あらそう。じゃあ、なんで怒ってたの?」


「……怒ってない」


「もう。……困るなあ。いっつもそうやって、なかったことにするんだから」


「話してどうするの。話したら、おれんちのこと、瑠衣がなんとかしてくれんの?」


「……そんなの、聞いてみなきゃわからないじゃないの」


「へぇ、聞くの?」


 そうは言ってみたライカだったが、瑠衣に具体的に話すつもりはなかった。自分だって知らないことをどうやって話せというのだろうか。


「だって……聞くしかないじゃない。どうにか言おうにも、ライカの話からじゃ、なにもわからないのよ……」


「おれ、なんも話してないしね」


「だからよ。話しなさいって。ずっとそんな感じなら、もう勝手に話、考えちゃうからね?」


 肩を小突いてきた瑠衣の声色につられて、ライカも微かに笑う。

 彼女の脳天気さは天性のものに思えた。誘いテンションとでもいえばいいのか、とにかく、なぜだかつられてしまうのだ。


「話せることなんかないし。それに……聞いてみたいな、その話」


「……ん??」


「瑠衣の作り話、聞いてみたい」


「え……。うーん。なんだろうな、どうしようかな……。ええと。全然、ご飯出てこないとか……。働かされまくるとか……。あ、食費が酒代にされる??」


 試しに言ってみただけなのに、真剣に考え始めた瑠衣の顔が何だかおかしくて、ライカは吹き出す。何がおかしいのか彼にも分からないのに、やはり、なぜだか笑ってしまうのだった。


「あら。笑ってる」


「瑠衣の顔が……変だから」


「失礼ね! こっちは真面目なのよ」


「……そっか。だからおかしいんだな」


「なにがよ! ひとの気も知らないで!」


 また怒り始める瑠衣を見ていたライカの脳裏に、一瞬、深雪の顔が浮かんで来た。そのまま意識が過去に引っ張られる気配がして、ライカはぎゅっと目を伏せた。


◇◇◇


 ──『あぁ、きみが例の?』──


 ある日、自宅に若い男が訪ねて来てそう言った。嫌な予感はした。その目が笑っていなかったからだ。

 年齢を聞かれ、不審に思いながらも答えると、彼はあからさまに面倒臭そうな顔をした。そして続けて言い放った。


『ちょっと結婚を待つには長いな』


 何を言われているのか分からなかったライカが聞き返すと、彼は『なんでもないよ、お邪魔しました』と言い、去って行った。


 同じ日の夜に、帰宅した深雪の泣き腫らした目を見て、ライカは全てを察した。

 彼女は父親の妹だったが、歳がずいぶん離れているのか、二十代だった。そういった事情をよく知らないライカでも、その年頃というものが、結婚話が持ち上がってもおかしくない年齢だと言うことくらいは分かった。


 分かりたくなくても、分かってしまったのだ。自分の存在が、彼女の幸せを妨害していることに。

 深雪は『大丈夫』と言い張っていたが、次も誰かと似たような話になるのではないか? 同じことになったら、どうなるのだろうか?


 やっと見つけた居場所は、するりと腕を擦り抜けてまた自分の前からなくなろうとしている。別の知らない誰かのところに行っても、これの繰り返しになる。永遠に思えた。こんなことが死ぬまで続くように。


 そう思った瞬間、玄関を開け放って走り出していた。どうせならこっちから消えてやる、そんな思いにライカは支配されていた。

 息が切れて立ち止まって初めて、靴を履き忘れたことに気付いたが、そのときのライカにとっては、足などどうなってもよかった。自分は消えるのだから。そう決めたのだから。


◇◇◇


「もしもーし? だから怖いんだってば、その顔!」


 すぐ近くで瑠衣の声がして、我に返る。また要らぬことを思い出してしまった、と思いながらライカは静かに目を開ける。すると、瑠衣の手のひらが目の前にあった。

 反射的に仰け反ろうとしたライカだが、背中は既に壁につくほどの距離でどこにも逃げ場がなかった。


 次の瞬間、額に軽く衝撃を感じて、思わず手を当てる。指の隙間から瑠衣を見ると、どうやら人差し指の爪で額を弾かれたようだった。


「隙ありーの、デコピン!」


「……子供かよ」


「子供相手なんだから当然でしょ。突然に真顔になるのやめてよ、怖いから」

 

 そう言った瑠衣は諦めたようにライカを一瞥いちべつしてからキッチンに向かい茶碗を洗い始める。しばらく黙っていた彼女だったが、思い出したように「あ!」と声を上げる。


「そうだ。あとでまた、なんか弾いてあげようか? こないだ面白そうに見てたじゃない」


「……うん」


 確かに、瑠衣がピアノを弾く姿を見るのは楽しかった。ライカは今まで、これほどの至近距離でピアノの演奏を見たことがなかったのだ。

 素早く動く指を眺めているだけで面白かった。それこそ猫になったように夢中でそれを目で追った。


「……この間の、あれがいい」


「え? バッハ先生? 気に入ったのねぇ」


「……瑠衣の先生が作ったの?」


「違う違う、なに言ってんの。有名な作曲家でしょ? 学校でも習うじゃないの」


 瑠衣はおかしそうに笑って手を拭くと「よぉし」と呟きながらピアノの蓋を開ける。その後ろ姿を見ていたライカは、瑠衣と自分は不思議な距離感を保っている、と思う。

 それはきっと、お互いが何も知らない他人だからなのだろう。これまで感じたことのない、気楽さだった。


 ――こういうのが、いつまでも続けば――


 そう思いかけたライカは、慌ててそれを打ち消すように瑠衣の手元に集中した。

 いくら彼女の指を見つめたところで、ざわついた気持ちは収まらない。だが、心地よい音が鳴っているだけまだいいや、彼はそう思う。


 得体の知れないものに飲み込まれてしまいそうな、そんな恐怖はいつでも側にあった。

 それをこの部屋では感じないのは、瑠衣がいるからかもしれないな、とライカは思った。

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