6.イカレたお茶会(1)
ユイが開いた扉の向こうに、こぢんまりとしたカウンターがあった。ライカが逃げようとしないことを察したのか、いつの間にか掴まれていた腕は放されている。
彼女がカウンターから身を乗り出すと、若い男が『ユイ』と名前を呼び捨てて会話をしているのが聞こえる。どうやら彼女は本当に、ここの人間と知り合いのようだった。
タイトな黄色のTシャツにショートパンツ、という出で立ちのユイのあとに続いて、ライカは二枚目の扉を開く。ずいぶんと重い扉だ。中に入った途端にズーンと重たい音が臓物に響いた。爆音が鳴る薄暗い室内は、体育館の様な汗くさい臭いと、酒と煙草の煙と何だか得体の知れない甘い香りがした。
「なに飲むぅ? ワンドリンク付いてんの」
「なにって言われても。……金も払ってないのに」
「えぇ? 腹から声出してよ!!」
ユイは声を張り上げて、耳の後ろに手を当てている。確かにこの音量で音楽がかかっていたら普通に話したのでは聞こえない。
ライカは必死に、慣れない大声を出そうとする。
「なにがあんの?!」
「あー、これ見て決めて」
彼女に押しつけられたメニュー表を見るが、そこにはよく知らない言葉が並んでいた。恐らく酒の名前なのであろうが、読んでも読んでも、ライカにはよく分からない。知らないものは分かりようがなかった。
「なんか……。もう、水でいいよ! おれ」
我ながら大声になったり小声になったり、おかしいなと思いながら、ライカはユイに向ける言葉だけ意識して大きくする。
彼のそんな苦労を知りもしないであろうユイは、大袈裟なくらい目を丸くした。
「水?! そんなの美味しくないよ。なんでもいいの?」
「まぁ……」
「じゃ、適当に決めるよ? お酒、強い?」
「……さけ?」
「酒! なんなの? 頭悪いの?」
「あぁ、酒か。……酒ね」
「えぇ?」
「ちょっとは待てよ! 今、考えてんだよ!!」
ライカにとって飲酒は未知の世界だったが、一応、口にしたことくらいはあった。その記憶をひねり出してみる。今まで周りの大人の酒を飲んだとき、何ともならなかったことを思い出し、ライカは目を細めながら呟く。
「強くはないけど、弱くもない。……はず」
「……はず?」
「けど、ホントに大丈夫かは……ちょっと」
もごもごと呟くライカを無視した彼女は、あっという間に注文を終えている。カウンターから受け取ったカップをふたつ手にしたユイが、あごをしゃくって指示を出した。
「あっち行こ!」
どうしたらいいか分からないままのライカは仕方がなく、彼女に連れられてカフェテーブルのようなものに肘を着いた。
フロアを見ると男も女もみんな、頭が悪そうでなんだか
「ねぇ、名前はなんていうの?」
「……名前? ……おれの?」
ライカが聞き返すと、ユイが
口をへの字に曲げて、彼女はふうと息を吐いた。
「他に誰がいんのよ、変なやつー」
確かにそうだ。彼女は自分に向かって話している。そんなことすら分からないとは、ここ一週間で本当に頭が悪くなってしまった、ライカは一瞬だけ、そんな風に考えた。
「ライカ…………っていうらしい」
「らいかぁ? 名前も変ね。どんな字書くの?」
「字? 字……字は。……字か」
ぶつぶつと繰り返すライカに、ユイは頬に手を当てたまま彼を見ている。不満げではあるが、どうやらさっき大声を出したかいもあったのか、彼女は黙って待っているようだった。
「らい……行ったり来たりとかの来に、か……は、夏」
「ふぅん、夏生まれなの?」
「あぁ……。うん、そう」
奇遇だが、ライカの誕生日は確かに夏だった。適当に考えた当て字は、彼も知らない間に、当たらずとも遠からず、といった具合になっていた。不思議だな、と思いながら、ライカは濡れたカップの縁をなぞる。
「さっきからさぁ、いちいち変な間が空くのはなんでなわけ?」
「……知ってるでしょ。おれ、すごい頭
「は? なによ……いちいち根に持ってるわけ? めんどくさ」
考えていても時間の無駄だ、彼はそう思うと、思い切ってごくりと飲む。暑さのせいで喉も渇いていた。
「にっが! ……なにこれ??」
「ジンライム。嫌い?」
嫌いも何も、飲んだことのない味だった。ビール以外の物はすっぱいか甘いかだ、と聞いていたのに、思っていたよりもずっと痺れるような味で面食らってしまったのだ。
「なんか……木とか草……食ってるみたい」
「あはは! そんなの初めて聞いた! 来夏って面白いね」
なぜだか楽しそうなユイの言葉に、ライカは置いて行かれているような気分になる。
面白いことを言おうとしている意識は彼には全くなく、どちらかというと混乱しているだけだった。そんなことはどうでもいいとばかりに、流れる音楽にノッているユイに、ライカは疑問に思ったことを問いかけてみることにした。
「なぁ。なんでこんなとこ、来んの?」
「……え? なんで? 楽しいじゃん。家とか退屈でしょ」
「……はぁ、楽しいんだ」
「来夏だって、こんな時間にウロウロしてたじゃん。家、嫌なんでしょ?」
「いや……っつうか……なんていうか……」
説明する気もないのに、説明すると長くなるし、などと考えている最中のライカは、突然バシッと背中を叩かれ「いっ……!!」と声を上げる。急所を狙ったのかそうでないのか、それは分からなかったが、驚きも相まって一瞬、息が詰まる。
「なんだかさぁ、はっきりしろよ!男でしょー?」
「男だけどさ、殴られる意味がちょっ――」
「あのさ、この曲知ってる?」
「……はぁ? 知らないけど……ってか話は最後まで聞けよ」
「大したこと言わないじゃん、さっきから。酒も飲めないくせに。聞く価値もないわ」
既に酔っているのか、ユイはけらけらと笑いながら暴言を吐く。ライカはむっとして、彼女の肩を押しやった。それは、想像よりずっと細い腕だった。
「飲めるわ、こんな……こんなのくらい。バカにすんな!」
そう言ったライカがカップを掴むと、勢いをつけすぎて少しこぼれてしまった。だが、そんなことはどうでもいいのだ。
一瞬で大したことを言えるようにはならないし、このよく喋るユイに、口で勝てるとも思えないライカが出来ることといったら、目の前の酒を飲み干すことくらいだった。
喉の渇きに身を任せて、ぐいとカップを傾ける。あまりの不味さに途中で止めたかったが、後半は意地で飲みきった。
「不味い…………」
「そう? 美味しいじゃん」
ユイのその感想にライカは唖然とする。こんなものが美味しいなんて、こいつは頭おかしい、などと思いながら回るライトを眺めていた。
そのうちに身体のどこかは分からないが、どくどくと脈打っている感覚に捕らわれ、足下がふわふわし始める。
これが酔うということか、と察し始めた頃には、ライトが回っているのではなく、自分の目が回っているのだ、とライカは気が付いた。
「……
「なまら……? え?? なに??」
「すっげー酔ってんだよ!」
「そりゃそうでしょ。あんな一気に飲むバカ、アンタくらいじゃない?」
「……はぁ? ふざけんな、
「煽りに乗る方が悪いんじゃん。ホント、バカだね」
顔の前で手をひらひらされて、ライカは腹が立った。気が付いたときには、ユイの手首を強く握っていた。
それは彼にとっても意外だった。こんなに腹が立つこと自体、久しぶりだったのだ。
「やめれ、ムカつく!!」
叫んでから、彼は "あぁ” と思う。どうやら、忘れかけているはずの方言が無意識に戻って来ているようだった。酒とは恐ろしいものなんだなぁ、と他人事のように思う。
「やめて欲しい……んですけど」
通じていないかもしれない、と言い直したライカは、ぱっと手を離す。笑みが消えたユイの顔からふっと目をそらした。
「なによ……悪かったってば。そんなに怒らないでよ」
ユイは、いたずらっ子ように笑って肩をすくめると「あーぁ」と声を上げる。よく聞こえなかったが、彼女は何かを呟いていたのかもしれない。
しかし、ライカもいちいち付き合っていられないという思いが強くなっていて、特に聞き返したりしなかった。
「あたしも飲み過ぎたかなー。あっつい!」
彼女はそう言ってTシャツを脱ぎ始める。キャミソールがまくれ上がって、白い腹部がちらりと見えた。あまりに気にされていないらしい胸元は、黒い下着が丸見えになっている。
目のやり場に困ったライカは、慌てて天井を見る。ライトの光がまともに目に入ってしまい、一瞬、くらっとする。
「来夏、踊ろ!」
突然に呼び捨てられ、答える間もなく手を引かれる。振り払おうとするライカだが、酔いは回る一方で、踏ん張る足に力が入らない。
「やだ! 頭ぐるぐるするから、やだ!」
何とか口に出したライカの向かって、ユイは大人びた笑みを浮かべると、「じゃあ、こうしよ?」と言いながら髪を後ろに払う。ライカはぼんやりそれを見ながら、シャンプーのCMみたいだな、と思う。そんな風にぼうっとするライカのことなど気にもとめない様子で、ユイは片方ずつサンダルを脱いだ。すると今までライカよりも背が高かったユイだったのに、視線がほぼ同じ位置まで下がった。忍法みたいだな、などと思いながら、ただそれを見ていたライカの肩に腕を回す。
「ね。よろけたら、どこでも掴んでいいから」
「……どこでもって……言われても」
「おっぱい以外で」
「……掴まるほどの厚み、ねぇじゃん」
「……んー?? なにぃい?」
聞こえないように呟いたつもりだったが、密着しているせいか、その呟きはユイの耳に届いたらしい。彼女は突如として、鬼のような形相になった。
「いででで!!」
力一杯、耳を引っ張られて、ライカは思わず悲鳴を上げる。身をよじって離れようとするが、絡んだ腕がそれを許してくれそうにもなかった。困ったライカは、泣きたいような気持ちになった。何だってこんな目に遭ってるんだ、と眉が下げる。
「……あのさ」
嫌々に揺れながら、しばらく黙っていたライカだったが、どうしても我慢出来ないことが発生していて、声をかけるしかなかった。その程度で声が届く距離に、彼女の顔がある。
ライカの呼びかけに、目を閉じてリズムに身体を任せていたユイが、無言で視線だけを上げる。
「サンダルの……その、とんがってるとこがさ。刺さってんだよ……おれの背中に」
「ふぅん?」
「ふぅん……って。それで終わりかよ。痛いんだけど」
「……ねぇ、来夏ってどっから来たの?」
「おれの背中が痛いのとそれ、どんな関係があんの?」
「ないよ。ないけど教えて」
「……やだね。教える義理なんてねぇし」
「まあ、なんでもいいや。キス好き?」
ずっとこの調子ではあるが、このあまりに唐突な問いかけに、頬がピクリとなったのがライカ自身にも分かった。何を言いたいのか、何を聞きたいのか検討もつかなくて、ただ黙ってしまう。
「教えてくれないなら、教えてあげる」
ぐいと引き寄せられそうになって、反射的に迫ってくる彼女の口元にライカは手をかざす。ユイがしようとしていることに、彼はやっと気付いたのだ。ライカは夢中になって、ユイを押し退ける。
「待って! おかしいそれ! 言ってること変! 酔っ払いだから! おかしい、おまえ、おかしい!!」
驚きすぎて、日本語が不自由になってしまったライカだが、一瞬の隙を突いて、彼女の腕を振り払う。二の腕の辺りにさらにヒールが刺さって、踏んだり蹴ったりだ。
ライカに顔ごと押しやられて不服顔の彼女は「あっそ!」と言いながら、あっさりサンダルを履き始める。
「酔ってるからだと思う? あたしが。このあたしが?」
「あのな! このあたしもそのあたしも、知らねぇから」
「酔ってる、ねぇ。……ま、そう思いたいならご自由に! さよなら!」
「……なんだよ。だいたい、おまえが勝手――」
「来夏って意気地ないね」
当たり前のように最後まで聞かないユイは、意地悪く微笑んだ。彼女が発した言葉に、開いた口がふさがらないライカの唇から「はぁ?」と声がこぼれ出る。
額をさすってそのまま考えてみたところで、彼は
「……ちょっ……と、もう一回言ってく――」
「怖いんでしょ」
そう言ったユイが、ライカの肩を小突く。
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