5.怪しい店の入り口にて


 久しぶりに触れた外の空気は妙に温かく、そして生臭い。しばらく目的もなく歩いたが、やはり特に行きたいところもなく、することもなかった。ポケットに手を突っ込んだライカは、何となく瑠衣が勤める店を探してみようかな、と思い立つ。

 繁華街に出ると、交番が視界の隅に映り込んだ。補導されやしないかと彼は少し不安になる。だが、すぐに思い直した。いつの間にか声も変わったし、制服さえ着ていなければ問題ない顔なんだっけ、と精一杯の素知らぬ顔を決め込んだ。


 駅前の一番大きな横断歩道を渡ろうと歩みを進めていたが、すんでのところで、信号が赤に変わってしまった。仕方なく立ち止まると、真向から無理やりに横断して来たスーツ姿の男に押しのけられる。

 視線を上げると、目の前の大きな街頭モニターから、誰にアピールしたいのか分からないような的外れな宣伝が、最大ボリュームとも思える音量で流れていく。次々切り替わるそれは、ライカにとって、どこか遠くの世界の出来事のように感じられた。とても近くてとても遠い――そんな感覚だった。


 ふわっと風を感じた彼が振り返ると、周りの大人たちがぞろぞろと歩き始めている。いつの間にか信号は青になっていた。ライカは人間酔いしたのか少し気分が悪くなる。それは彼にとってはさほど珍しいことではなかった。登校の道すがらや朝礼の最中など、それはよく起こったのだ。倒れることはなくても、軽い吐き気のようなものに襲われることが度々あった。

 そうなった場合、ライカはとにかく、人気ひとけを避けるようにしていた。突然に横断するのを止めた彼は、迷惑そうに顔をしかめる人波を掻き分けて逆行する。


 おろしたてのスニーカーはまだ足に馴染まず、あちこちが痛む。それでも裸足よりはずいぶん具合がよかった。そんなことより、どこへ向かおうとしているか、だった。彼は立ち止まって息をつく。瑠衣の店を探していたはずなのに、帰り道すら分からなくなってしまった。


「どっちから来たんだっけ……」


 呟いたところで、誰も答えてはくれない。人混みを避けたせいで、周りには人っ子ひとりいないのだ。たとえ誰かいたとしても「僕はどこから来たんでしょうか?」などと聞くわけにもいかない。


 せめて、あらかじめ店の名前くらい聞いておくんだった、と後悔し始めたライカの視線の先に、飲食店らしきものが複数並んでいた。紫色の何ともいえない看板が光り出したのが気になって、ふらふらと歩み寄る。眉間にしわを寄せて店名であろう文字を目で追う。

 そこには  "Cheshire'sチェシャーズ Madマッド Tea partyティーパーティ"  と書かれていた。


「ちぇ、しゃー……ま、っど……てぃ──」


 書体が変わっていて読み辛い、と彼が首を傾げて声に出していると、不意に後ろから「ねぇ」と声をかけられた。


「邪魔なんだけど」


 振り返るとそこには、どこか幼さの残る顔つきの少女が立っていた。邪魔、と言われた──ライカの脳がワンテンポ遅れて理解すると「あぁ」と呟いて彼は道を空ける。道を通れる程度には端にいたつもりだったライカだが、邪魔だと言うなら、と目一杯シャッターに貼り付いた。そんなライカを面倒くさそうに見たまま、彼女は動かない。


 すぐにいなくなる、と思っていた少女がなかなか立ち去らないので思わずライカが視線を上げると、高圧的な態度で彼女は口を開いた。


「ねぇ、入るの? 入らないの?」


「……え?」


「そこ、入り口なんだよね。その階段、降りたいの」


 そう言われて、左側を見ると、確かにそこは地下へ降りる階段になっている。意図せず通せんぼうをしていたようだった。


「あぁ……ここを……。すみません」


「別にいいけど。どいてくれれば」


「あの……ここ、なんの店なの?」


「クラブ」


「クラブ……? クラブ……」


 念のため聞いてみたライカだったが、瑠衣の店とは違うようだった。そう思いながら反芻はんすうしていると、彼女は眉をひそめる


「どうすんの? ずっとそこに突っ立ってんの?」


「あぁ、ごめんなさい……」


 そそくさと立ち去ろうとしたライカの腕を突然に彼女が掴んだ。びっくりして顔を上げると、少女は怒ったような表情のまま、ライカを見下ろしている。


「ヒマ?」


 彼女は微かに首を傾げている。少女はとてもかわいらしい。気の強そうな眉と少し切れ長の大きな目は、そのキツめの口調とぴったりだった。つるりとした肌の質感も相まって、何だか箱から出てきた人形のようだった。

 そして、胸元まであるロングヘアは黒々していて、真っ直ぐ下へと伸びている。すげぇ長い髪だな、とぼんやり眺める。


 ライカが通う学校は女子の頭髪の長さは決まっていて、あまり長くなると規定の髪型に結わえなくてはならなかった。同級生たちはそれが嫌らしく、肩より下まで髪を伸ばさない。瑠衣もここまで長さはないし、こんなに長い髪をライカは久し振りに見たのだった。そんなことを考えながら、ただ目をぱちくりさせ続けるライカに向かって、彼女は口を開いた。


「聞いてんの?」


「えぇと……?」


「だから! ヒマなの?」


「……あぁ。……まぁ、ヒマっちゃ、ひま──」


 言い終わらないうちに、今度は掴まれた腕をグッと引かれた。

 彼女の行動は、何から何まで唐突でライカは身の危険を感じる。どこに行かなくてはならない、といった予定もないし、だいたい同じ歳頃の少女に力で勝てないとも思わなかったが、とにかく動きが急で心臓に悪い。


「いやあの……ちょ……っと!」


 無言の背中の向こう側をちらりと見ると、先が見えないほどの長い階段だった。

 暗闇が、口を開けてこちらを覗いているように、ライカには見えた。


「ちょっと付き合ってくんない? あたしもヒマなんだ」


「うぇ?!」


 その予想もしない言葉に驚きすぎて、ライカの口からおかしな声が出た。『付き合ってくんない?』と疑問形だったのにもかかわらず、拒否権があるようには思えない勢いだ。力を使って抵抗することも出来そうだったが、階段の途中でやる勇気が出なかった。彼女を突き落とす格好になるからだ。ライカは殺人なんてごめんだった。


「あの……あの! おれ、金ないんだけど!」


 やっと思い付いた言い訳を口にすると、彼女が立ち止まり、腕が自由になる。ライカはほっとして、体勢を立て直した。雑誌か何かで見たことがある。こうやって引き込んで高い金を払わされるのだろう、と。

 そんなものは払えるわけがなかった。ライカは瑠衣にもらった二千円しか持っていないのだから。


「全然、金がない! こういうとこって高いんでしょ? おれ持ってない! 金、ないから!」


「大丈夫だって。必要なら貸したげる」


「困る、そんなの。返せない」


「じゃ、あげるよ」


 再びの予想外のセリフに混乱して、言いかけた言葉を飲み込んだライカを、彼女はじっと見つめている。仕方がないから、ライカも彼女の顔を見つめ返す。

 しかし、"いや、見ている場合じゃない" と思い直したライカは 、ブンブンと頭を振って口を開いた。


「いや、とにかく断るから! どうせ、ぼったくりかなんかなんだろ?」


「違うし!! え……? わかんないの?」


 真顔で告げられて、ライカは小さく「なにが?」と言い返す。"わかんないの? とは……?? わからない、というのは……" と、同じ単語がぐるぐると彼の頭を回る。


「……アンタ、鈍いね?」


 言われていることが全く理解出来ないライカは、さらに頭をフル回転して考える。一体、今までの会話の中で何を理解しろというのか。言われたことといえば、『邪魔』 『暇か?』 『付き合え』。これだけなのである。ライカが額をさすってウンウン唸っていると、また腕を引かれる。


「いいから行くよ」


「いや……嫌だってば!」


「ユイさまがヒマだって言ってんのよ、付き合いなさいよ」


「はぁ?!」


 彼女はライカの腕を掴んだまま、ずんずん進む。

 そのうちにライカはあらがうことをやめにした。従わなければ足がもつれて、階段から落ちそうだった。そして、頭をよぎるのはやはり "この子に怪我をさせてしまうかもしれない" という、どうにも間抜けな発想だった。


 相手はこちらのことなど欠片も考えてはいないというのに。この少女への気遣いなど間違いなく無駄だ。ライカはめぐらせ始めた思考を、無理やりにやめようとする。


 しかし、考えることをやめる、ということは彼にとってはとても難しく、どれだけ頭を白くしようとしても、次から次へと疑問が浮かぶ。

 なんだってこう、出会う人間すべてが強引なんだろうか。それに気付くと彼は何だか笑えてきた。逆らえないのは、なぜなのだろうか。腕を引っ張られたまま階段を降りきった辺りで、ひとつの結論に至った。


 距離感だろう、とライカは思う。それが決定的に違うのだ。これまで彼がかけられてきた言葉はいつも、どこかよそよそしく、誰も彼もが腫れ物に触るように、自分とはある一定の距離を保っていた。


 瑠衣にせよ、この少女──ユイにしても、そういう遠慮は一切ない。ライカにはそれがなんだか懐かしく思えた。幼い頃に戻ったような気楽な感覚が、判断を鈍らせているのだろう。

 はっと我に返った頃にはそのクラブとやらの扉はもう目の前だった。彼は観念すると、こわばった身体の力を少しだけ抜いた。

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