2.あなたのお名前、なんでしょう

 それは、とても綺麗な顔立ちの猫だった。


 小学四年生のとき、瑠衣が見つけた猫のことだ。公園と呼ぶにはあまりに簡素かんそなその空間で、瑠衣は彼と友達になった。

 いつも汚れていた彼は、瑠衣を見つけては遠慮がちにすり寄ってきた。エサも何も持っていなかったのに、だ。


 そんな日々を過ごし一週間が経った頃、怒られるのを覚悟して猫をそっと抱き上げ、家に連れて帰った。

 意外なことに両親は文句を言うこともなく、彼を受け入れた。


『瑠衣が連れて来たんだから、名前を付けなさい』


 そう言われて悩んだ末、父親が趣味で収集していたカメラのレンズのように輝く瞳から、ライカと名付けた。


 いつまでも一緒にいられると安易に信じていた。――かわいいライカ、大好きライカ――瑠衣はそんな風に即興で歌を作っては、彼を撫で回した。そして、暇な時間はいつもライカと一緒に床に転がっていた。それまでよく遊んでいた弟を放ったらかすようになって、焼きもちからか、よく泣かれた。


 しかし、ライカとの生活はそんなに長くは続かなかった。瑠衣が中学二年生になった年に、ライカは突然いなくなってしまった。

 決して家の中から出ようとしなかったのに、買い物から帰ってきた母親の足元を擦り抜けて、逃げてしまったという。


 瑠衣は色々なところを探した。何度も何度も名前を呼んだ。

 でもライカは見つからなかった。もうすっかり行かなくなっていた公園のブランコで瑠衣は少し泣いた。

 寂しかった。もう一度会いたいと思った。


 二度と会えないと分かっていても。


◇◇◇


  だるような暑さの中、瑠衣はふっと我に返る。いつの間にかテーブルに突っ伏して、眠ってしまったようだった。

 仕事明けはいつも泥のように眠る。そんな彼女にとって、活動時間のリミットはとっくに切れていたのだ。


 ――あれは夢だったのだろうか、ゴミ捨て場でなにか大きなものを――


 瑠衣は髪をかき上げながら身体を起こした。そしてそれは夢ではなかったらしい、と改めて認識した。視線の先に、包帯替わりのタオルでぐるぐる巻きになった足先を投げ出している少年の姿があったからだ。

 彼は開け放った窓から見える空をぼんやりと見つめながら、なに食わぬ顔で扇風機を占領している。


「ごめん、寝てた」


「……見りゃわかるよ。目ぇついてんだから」


 声をかけると、少年はちらりと彼女を見て目を逸らし、静かな声で言った。


「あぁ、そう……」


「振り返ったら寝てたし。……朝なのに」


「私にとっては今が寝る時間なのよ。そんな時間にきみにシャワー浴びさせたり、服を貸したり、傷の手当てしたから限界だった」


「そんなの知らねぇし、聞いてない」


 部屋に入ってからの瑠衣の指示に対して『はい』か『うん』しか答えなかった彼だが、自分の言葉で話し始めた少年は、想像していたよりもずっと口が悪かった。


「……態度悪いわね、きみは」


 その瑠衣の言葉が意外だったのか、少年は再び彼女を見て、卑屈に笑った。なぜそんな顔で見られるのか分からず、瑠衣は憤慨する。


「なによ、その笑いは」


「……おかしいなと思ったから」


「そりゃそうでしょうけど。じゃなくて、なにがおかしいのよ」


「おれに態度の良さを求めてたんだなあ……って」


「別にそういうわけじゃないけどね、それにしたって……」


 そこまで言いかけた瑠衣は、感謝される前提でいたことに気が付いて黙り込む。しかし、やはりお礼の言葉くらいもらっても当然だと思い直す。


「やっぱりおかしいわ。ウソでもありがとうくらい――」


「ウソで言われたありがとうって嬉しいの?」


「え……」


 言葉のあやで言ったつもりだった。真っ直ぐ問い返されて、瑠衣は再び口を閉じる。確かにそうだなあ、などと思わず納得しかけて、頭を振った。


「あのね? 話を変えないでよ! こんな真夏に、放っておいたら倒れちゃってたでしょう?」


「あんたに関係ないでしょ、おれがどうなろうが」


「あぁそう? じゃあ放っとけばよかったわね? この暑い中、いつまでもあそこに座らせておくんだった!」


「……それがよかったと思うよ」


 淡々とした語り口の彼は、肩をすくめると、また空を見上げた。しばらくそれを見つめていた瑠衣だったが、彼が口を開く気がないことが分かると、息を吸い込む。


「他人事みたいに言うけどねぇ、最近の外気温、なめてたら死んじゃうんだからね?」


 少年は、頬杖をついて諭した瑠衣をちらりと見ると、ふぅと息をついた。一応、真面目に言ったつもりだった。彼にとっては余計なお世話であろうということは察しがついたが、その態度が食わない。


「なによ、ため息って……。で、名前は?」


 ため息をつきたいのは瑠衣の方だった。ムッとした彼女を尻目に、少し考えたらしい彼は、視線も向けずに口を開く。


「……そちらのお名前は?」


「私? 私は蜂谷はちや瑠衣るいですけど」


「はちや……るい……。爬虫類はちゅうるいみたい」


「やめてちょっと! なんなの? 男子ってそういうことしか考えてないわけ?」


 一気に幼い頃に戻ったような気がして、瑠衣は眉をしかめた。小学生の頃、そういうことを言ってくる同級生がいたのだった。


「……」


「まただんまりすんの?? 名前教えてくれなきゃ、なんて呼んだらいいか、わからないじゃない」


「……名前なんかないよ」


「やっと答えたと思ったら、それ?!  "吾輩は猫である" じゃないんだからそういうのやめなさいよ」


「あー……。あれって面白いの? 出だししか知らないんだけど」


 どうしてこうも器用に話題を変えていくのだろうか。名前を知りたいだけなのに。

 そのひとつの問いだけで、こんなにも時間を割いていることに瑠衣は腹を立てていた。


「あぁ、もう! 暑いからイライラする! どきたまえよ」


 瑠衣は立ち上がると少年を背中で押しのけ、グルグル回る扇風機の羽根が起こす風に当たる。瑠衣のその体温が暑かったのか、少年はすっと壁際かべぎわによけた。


「あー! 生き返るぅ!」


「……なんでエアコンないの? そんなに暑がりなのに」


「放っといてよ。私は貧乏なの!」


「……あんなのがあるのに?」


 彼がすっと指差した先には、電子ピアノがある。

 本当は、せめてアップライトピアノが欲しかったが、防音設備のある部屋を借りる余裕などなかったのだ。悩んだ末、ヘッドフォンが使える電子ピアノに決めた。これなら近所への配慮も、調律も必要ない。


「しょうがないじゃない、商売道具なんだから」


「……ピアノが?」


「そう。私にはそれしかないのよ。ピアノ弾けなきゃ、あんな店で働けない」


「……あんな店?」


「バーよ。ピアノバー」


 そう言うと、瑠衣は肩をすくめた。バーと一言でいっても色々あるのだろうが、瑠衣が働く店は、接客を売るタイプのお店だった。皆が惚れ込むような愛嬌も美貌もなく、かといって酒の知識もない瑠衣が持っているのは、ピアノを弾く技術だけだ。不思議そうにこちらを見ている少年に、そんなことを説明したくない。「接客、苦手なの」とだけ付け足して目を反らす。


「……向いてそうなのに」


「どこがよ……」


「……顔?」


「なんで疑問形なの? なんか、腹立つわね」


 首を傾げながら言った少年の表情に、瑠衣は口を尖らす。不思議そうな物言いが、またもや腹立たしかった。返事を待ってみるが、何も返ってこない。


「黙られても困るから!!」


 思わず叫ぶが、相変わらず窓の外を眺めている少年は無反応だった。彼の視線の先を瑠衣も追ってみる。静かな部屋に色んな種類のセミの声が重なり合って響く。それは何もない、ただの空である。

 入道雲が立ち上がり、日が陰る頃には夕立を運んできそうな気配が漂っている。そんなただの空でさえ、都心では貴重な存在になっている。繁華街まで徒歩で十五分ちょっとかかるこの辺りは背の高い建物は少な目だ。


 上京当時、物件を見てまわったときのことだが、窓から見える景色が隣のビルの側面だったのにはさすがの瑠衣も絶句した。田舎生まれの彼女にとって、毎日コンクリートの壁面を見て過ごすのは発狂する予感しかしなかったのだ。

 だからこの部屋を選んだ。資金が貯まっても引っ越すのが面倒なため、瑠衣はここにずっと住みっぱなしなのである。


「考えてたんだけど。色々ごめんなさい。……服とか寝る時間とか」


 沈黙を破ったのは、意外にも少年の方だった。先ほどのやりとりから、まるで予想していなかった謝罪に、返事をするのに少し時間がかかってしまう。


「……まぁ……いいのよ。あんな汚れたので部屋をウロウロされても困るもの。静かだったのは、考えてたからってこと?」


「考えないで喋るの、得意じゃない」


「……そうなの」


 思った瞬間、すぐに口をついて出てしまう自分とは真逆だな、と瑠衣は思う。考えてから話せばよかったと思うことは日常茶飯事だった。


「あれ、早く乾かないかな……」


 ベランダで風に揺れる服を見上げて、少年は大袈裟なくらい肩を落とした。


「……もうちょっとかかるんじゃないかしら。でも夏だし、今日は風もあるし、すぐ乾くと思うよ」


「うん」


「乾いたら、どうするの? どこか行く当てあるの?」


「……ない」


「ないのに、どこ行く気なの?」


「……さあ」


「学校どこ?」


「……言うわけないでしょ」


「名前は?」


「……我が輩は猫である」


 微かに笑いながら言う少年に、瑠衣は顔を覆った。話し方から察するに、そこまで頭が悪いわけでも、育ちが悪いわけでもなさそうだった。むしろきちんと教育を受けている印象だ。


「……我が輩か。おれ、我が輩って名前にしようかな……」


「呼びづらいってば」


「呼ばなきゃいいよ。すぐに出て行く。あんたとおれは無関係な人間だし、問題ないでしょ?」


「まあ、問題ないといえばないけどね。でもなぁ、このまま放っておくのもな。警察、届けようかなぁ」


「……え」


 その発言を聞いた少年の表情に、瑠衣の想像よりもはっきりと動揺の色が浮かんでいく。何だか意外だった。偉そうにしている割にこんな些細ささいなことで顔色が変わるとは、やはり彼は子供らしい。


「そうしよー、ケーサツに電話しよー」


「待っ……」


 電話に向かって歩き出した瑠衣がくるっと振り返ると、彼は四つん這いで動き出した体勢のまま瑠衣を見つめている。まるで、だるまさんが転んだみたいだな、と彼女はふっと思う。


「……あんたが寝てるうちに出て行けばよかった。バカだな、おれ」


「そうね。まだまだ甘いんじゃない?」


 そこで瑠衣は初めて気が付いた。彼はなぜ逃げ出さなかったのだろうか。不思議に思い、問いかけてみる。


「ねぇ、なんで私が起きるの、待ってたの?」


「……」


「ちょっと。だからね、黙らないでって」


 彼は気まずそうに目をそらすと静かに座り直し、ついには目を伏せた。「あらやだ、寝ないでよ」と茶化すと、彼は真顔で振り返る。


「寝てねぇよ」


「わかってるわよ、アホ」


「……ムカつくな」


「お互い様でしょ。で? なんで?」


「まだ……ちゃんと言ってなかったから」


 呟いた無表情な少年の頬が、微かに赤くなる。何かに照れているようだが、一体何がそうさせているのか瑠衣にはさっぱり分からない。


「なにを言ってないの? それよりなんで赤くなってんの……」


「もういいよ!! さよなら!!」


 足を引きずりながら横を通り過ぎようとした少年の腕を、瑠衣は黙って掴む。彼の鋭い視線が、瑠衣に刺さる。


「その手、放してくんない?」


「うーん。ちょっと出来ないわよねぇ」


「……なんなんだよ、あんたは」


「だって、家に帰らない気でしょ?」


「……それってあんたに関係ある?」


「ないわよ。でも帰る気がない子をこのまま出て行かせるわけにはいかないの」


 きっぱり言うと、少年は心底呆れたように瑠衣を見る。そんな目で見られても、彼の腕を放せなかった。このまま出て行かれるのは困るのだ。


「何日か後に『行方不明だった少年が死にました、あなたのところにいましたよね?』って警察に言われるの、私だから。迷惑よ」


「言われねぇよ、わかんねぇだろ。いや……その前にさ、勝手に助けといてなんだよ、それ。おかしいだろ」


「勝手、じゃないわよ。おんぶされたのはきみ! それに、あんな心細そうな顔して」


「は?! しつこく話しかけてきたの、そっちだろ??」


「私だって話しかけたくなかったわよ。しょうがないじゃない、放っておけなかったんだから」


「意味わかんない。というより、なに言ってんの? なんか……話が色々崩壊してるんですけど」


 そう言われて、無言になってしまう。確かに崩壊している。だからといって、瑠衣はグダグダと理由を語るつもりはなかった。しかし、このまま黙っているわけにもいかない瑠衣は、何と言おうか、と目を泳がせた。


「……ちゃんと家に帰りなさい」


 瑠衣の口からするり、とそんな言葉が出てくる。自分はそう願っている、それだけは伝えたいと思う。


「やだよ」


「だめ、帰りなさい。ここはきみみたいな子供がいるところじゃない」


「じゃあ、あんたは大人なの? この街に似合う大人なわけ?」


 年相応の少年らしい瞳でそう問われる。そんな真っ当な質問に、瑠衣は口ごもった。それなりに大人として生きてきたつもりだった。だが、この街が似合うのかと言われると、違うような気がするのだった。


「わ、私だって……好きでいるわけじゃないよ」


「……じゃあなんで?」


「それは──」


 歯切れの悪い言葉を漏らして口を結ぶ。瑠衣自身、そんなものは忘れかけていた。ここにこだわる理由――それは。


「……なんだっていいや、そんなの。あんたにおれを止める権利はねぇよ」


 瑠衣は、何も言い返せなかった。掴んでいた腕はそっと振り払われてしまった。確かに、瑠衣はその権利とやら持ち合わせてはない。勝手に助けただろうと言われれば、その通りだった。そう思うと、口を開くことが出来なかったのだ。

 どうしようと、彼の自由だ。それを否定する理由を瑠衣は見つけられなかった。

 今の世の中、家族ですら完全に分かり合うことなんて出来ないのだから。


 彼女がそう、自分に言い聞かせようとしたとき、玄関でガァンと大きな音がした。

 驚いて振り返ると、少年がドアに手をついて、へなへなと座り込むところだった。


「ちょっ……大丈夫??」


 しかし返事はない。彼は意識を失っていた。額に触れると酷く熱かった。救急車を呼ぼうとし、しかし躊躇ためらった。とはいえ、このまま黙って介抱してしまったら、この少年の家出であろうものに荷担かたんしてしまうことになる。

 大人として取るべき行動は、瑠衣も充分理解している。だが、この子の気持ちはどうなるのだろうか、と瑠衣は手を出したり引っ込めたりを繰り返す。


 ――この頑なな態度にはきっと、なにかわけがある。勝手に決めていいのか。無理やりに家に帰したとして、この子はそのまま、そこにとどまることが出来るのだろうか?――


 何往復したか分からない手のひらを、バンと床に叩き付け、覚悟を決めた瑠衣は少年の脇に腕を回した。

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