3.ぼくが猫なのか、猫がぼくなのか
目の前に彼女――瑠衣がいる。
まさか同じ日のうちに同じ人間に二度も助けられるとは、少年自身も想像もしていなかった。介抱してくれたらしい彼女の話によると、熱中症になりかけていたらしい。『ありったけの氷を乗せたら、熱下がったから。多分ね』といって瑠衣は笑っていた。
急に目の前が暗くなったことは間違いないが、あまりに格好が悪すぎだったと彼は眉をしかめる。あんなに偉そうに
「どうした? お腹空いてるんでしょ? 食べて?」
無邪気な表情でそう言う彼女を、ちらりと見る。彼の手には、瑠衣お手製の焼きそばの皿が乗っている。『作りすぎちゃった』と、照れ笑いを浮かべた彼女が、少年は怖かった。人間の行動には必ず裏があるはずだ。いったい、この女の裏側には何があるのだろうか、とうつむいた視線の先にある焼きそばを見つめる。
「やっと動き出したと思ったら、なんでまた止まっちゃうのよ。ほら、お茶もあるからさー」
「なんで?」
「え、焼きそば嫌い? 割と誰でも好きだと思っ――」
「そうじゃない、なんで助けるの? あんたにどんな得があるの?」
「得? ……得ねぇ。えーっと……」
瑠衣は困ったように頬をさする。そして眉根にシワをよせ、しばらく考えていたようだったが、切り替えるようににこりと笑う。
「わかんないけど、得はないわね」
「……は? わかんないってことはないでしょ」
「わかんないの! じゃあ、きみって全部わかった上で行動してるの?」
「まぁ……だいたいは」
「だいたいはわかるのかもしれないけど、たまにわかんないときだってあるでしょ? それだってば。……というか、難しいことはいいから、とにかく食べて。出て行くにしたって、そんなんじゃまた玄関出る前に倒れるわよ。アホみたいじゃない? 何度も何度も。素直にお腹空いてるって言いなさいよ」
「ほんっとに、困った子だわ」と言いながら、やれやれと首を振る瑠衣に、若干のいら立ちを感じつつ、少年は思う。確かに、彼女の言う通りだった。
彼は家を出て以来、何も食べていない。口にしたものといえば、駅の構内にあった水飲み場の水だけだった。素直に言うまでもなく、フラフラなのだ。
「なにに意地張ってるのか知らないけど、人間生きてればお腹は空くのよ。それとも人間やめたいの?」
そうだ、と少年は言いそうになって、口を閉じる。何だかこのグラグラする頭のままでいては、余計なことを言ってしまいそうだった。もしも自分のことを喋ってしまったなら、どこの誰なのか分かってしまう。
そもそも計画性など全くないこの家出は、始めから失敗していたのだろう。
「ほら、冷めちゃうってば」
「……食います」
「お、いいねいいね。食べて?」
人情家らしい瑠衣の言葉は、少年の調子を狂わせる。ときどきこういう人間が現れるたび、自分は恵まれているのか不幸なのか、彼は分からなくなるのだ。どっちなのか、はっきりして欲しい。そう叫びたい気持ちを抑え、麺を口に突っ込んだ。
今が何時なのか、家を飛び出した日から数えて何日目なのかよく分からなくなっている少年だが、久しぶりの食事なことは間違いない。口が渇いていて麺が上手く飲み込めず、涙がにじんだ。
いや、この涙の理由は麺がつっかえているからなのだろうか? と彼は思う。この世界から消えようと決めて家を出た。いなくなろう、というような簡単な気持ちではないはずだった。
それなのに、結局はこうして食べ物を口に運ぶのだ。身体がいうことをきいてくれない。泣きたいなどとは思っていないが、食べるという行為そのものに嫌悪感があった。そのせいなのかもしれない、と頭のどこかが考えた。
「お茶も飲んで、これ!」
「ん……」
「しかし……いい食べっぷりね。やっぱりお腹空いてたんじゃない。無理しちゃって」
「んぁ」
「え? あ、待って。いいから黙って食べなさい」
つくづく、瑠衣という女が、少年には分からなかった。何を考えているのか、何を狙っているのか。
「きみって……捨て犬みたいねぇ」
少年は顔を上げる。口の中は焼きそばでいっぱいで言い返せそうもなかった。何を言い返そうとしたのかといえば、どうせ犬みたいなもんだ、と彼は思ったのだ。自分は所有されているだけ。ただ、飼われているのと大差はないと。
「あ!」
少年が飲み干した麦茶のコップを手に歩いていた瑠衣が、興奮したように振り返るが、彼はもう、顔を上げなかった。
「私、思いついちゃったんだけど! ……ねぇ、聞いてる? 」
差し出された満杯に麦茶が入ったコップを受け取りつつ、目玉だけ動かして頷く。これ以上、何を言っても彼女の様子が変わらないことは分かったからだ。
「名前、つけちゃえばいいんじゃないかって」
「つける? ……名前を?」
やっと麺を飲み込んだ彼が、ぼそりと呟くと、何だか楽しそうに「そうそうー」と瑠衣は笑う。
その笑顔と、屈託のない様子の彼女の顔を、初めて観察する意味でじっと見た。彼女が大人なのは間違いなかったが、子供のような顔つきで、一体いくつなのか分からない。
そして、先ほどから部屋をうろうろしている瑠衣はずいぶん小柄だった。自分の身長と大差がなさそうなほどだ。よく『おんぶする』などと言ってきたなと思うし、自分もよくおんぶされようと思ったな、と考えてしまうほど、彼女は大人なのに子供のように見えた。眉より上で揃えられた前髪がその幼さを助長していて、余計に彼を混乱させる。
「そう。名前をつけちゃう。きみ、どうせ教えてくれないんでしょう? 我が輩くんとか話しかけづらい」
「別に……話しかけてくれなくても……」
「えぇ……。じゃあ話もせずに居座るつもり?」
「……なんで居座ることになってんの……」
「じゃあ、お家に帰る??」
「……」
「なににしようかなあ。もう太郎とかでいいか」
「たろう……って」
「あ、桃太郎!?……いや、もっとこう……オリジナリティのあるやつがいいかな」
こいつはふざけてるんだろうな、と彼は思う。もう何と呼ばれようとどうでもいい。桃太郎でも、雪男でも構わないのだ、彼からしてみれば。
「どれでもいいし……。いったい、なにを目指してんの?」
「え? だから、オリジナリティを……」
「太郎でいいじゃん! 最初ので」
少年の発言をまるで無視して、瑠衣は立ち上がり「うーん、なんか違う」と唸りながらピアノのイスに腰かけた。それ薄目で眺め、もう一口麦茶を流し込む。
「あれよね……。捨て犬っていうよりは、野良猫みたい。……あー、わかった! うちの猫に似てるのよ、多分」
「……猫に……似てる」
「なんか、目がね。確かあの子の目、そんな色してた。あ……どうだったかな……そうでもなかったかな……。いやね? さっきの居眠りしたときにね、その猫の夢をみたのよ」
「……いいね、黒い目のひとは」
「ん?」
突然の少年の発言に、きょとんとした顔で首を傾げた瑠衣は、少しだけ間を置いて、「あぁ……」と小さく声をもらす。
そして、パチパチと目を
「その目の色、嫌なの? ……でも、生まれつきなんでしょ?」
「……目玉だけ取り替えたとでも?」
「そういうことじゃなくて。だって仕方ないじゃない? それこそ、目玉を取り替えるわけにはいかないでしょ?」
なるほど、と納得しつつ、とはいえそれ以上は答えたくなかった彼は、焼きそばに視線を落とし、食事を続きを始める。自分でも意外だったが、皿はほとんど空になっていて、あと一口で終わってしまいそうだった。罪悪感はどこにいったんだよ、と彼は、もはや笑いたいような気持ちになる。
そんなことに気付きもしない様子の瑠衣は、イスから降りて布団の足元にしゃがみ込むと、少年に向かって笑顔を見せた。
「じゃあ、ライカね。……うん、ライカにしよう」
「は……? らい……か?」
「あぁ。うちの猫の名前に文句あるなら、本名を教えてくれても構わないよ? お家に帰ってくれてもいいし」
「あぁ……いや。……らいか、でいいです」
「ライカ "で" いいのね。あらぁ? ご不満なんじゃないの?」
彼女はいたずらっ子のように、彼の顔を覗き込む。どうやら彼女は、少年とはまるで違う性格のようだった。彼が何を思っていようが気にしない、とでもいうのか。
「だからね? 名前、教えてくれてもいいんだよ??」
「……らいか "が" いい!」
自棄になった少年の手から空になった皿を取り上げて、瑠衣は歩き出す。にやりと去り際に笑われて、彼は何だかムッとする。
改まって「……らいか」と口に出してみると、心のどこかがむず痒くなる。だが、別の人間に生まれ変わったような、胸のつかえが取れたような、そんな不思議な感覚に、彼は襲われていた。
「──変な名前」
少年は、この日から "ライカ" と呼ばれることになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます