サマーデイズ・リグレット[改稿版]

小野木 もと果

ー 1 ー

1.持って行かれるゴミ、持って行かれないゴミ

 夜明けの街が、ようやく眠ろうとしている。ひとで溢れる通勤時間帯まで、束の間の休息だ。

 吹き抜けた風が、雨上がりのアスファルトから、むんとした匂いをまき上げる。瑠衣るいは立ち止まると、鈍く痛む足の甲をさすった。


「やっぱスニーカーじゃないとダメだな……」


 勤め先用にサンダルを新調したのだが、手荷物を減らすために履いて行ったのがよくなかった。背が低いのを誤魔化すために高いヒールにしたのも手伝って、靴擦れならぬサンダル擦れが酷い。それをかばっていたら、足の筋まで傷めてしまったようだ。


 しかめっ面を上げると、ビルの合間から、はっとするほど美しい朝焼けが顔を覗かせている。夜行バスの扉が開き、初めてこの街に降り立ったときも、こんな光景に瑠衣は出迎えられたのだ。

 あれから、四年の月日が経つ。


「はぁ……」


 家まであと少し、そう思った瑠衣はため息のあと気合いを入れ直す。華奢きゃしゃな作りのつま先部分に、皮が剥けてしまった辺りが当たらないよう、上手いこと足を引きずりながら、やっとのことで自宅であるアパートが見える辺りまで歩いて来た──そのときだった。


 出かけるときには必ず通るそこには、見慣れた山積みのゴミ袋がある。普段と同じように通り過ぎようとした彼女は何か違和感を覚え、一歩後ろへ戻る。袋の陰に、人影が見えた気がしたのだ。目を細めた瑠衣は、さらに頭をそらせて袋の向こうをそうっと見下ろした。


 確かに、そこに誰かがいる。

 面倒臭いとは感じつつ、そのおかしな体勢を解いて、向きを変えた瑠衣がその人影を覗き込むと、少年らしき人物が膝を抱えて眠っていた。体型から考えて、恐らくそうであろうと、瑠衣は考えたのだ。

 そして、死んでいるのかもしれないとも思う。誰かがどこで息絶えていても、誰も気にしない。ここはそういう街だ。恐怖を感じながらも、瑠衣はゴミ捨て場に転がっていたほうきの柄で、その肩をつんつんとつつく。


「……生きてます?」


 思い切ってもう一歩近づくと、少年の足が傷だらけなことに気が付く。


「え……。なんで靴、履いてないの……?」


 ほうきを抱えて屈み込むと、瑠衣は恐怖も忘れて彼の顔をまじまじと見つめた。

 長めの明るい髪に、妙に白い肌。頬に微かに赤みが差していて、少年が生きていることが伝わってくる。夜遊びで帰り損ねた高校生のように見えた。その、裸足の足元以外は。


「こら! こんなとこで寝てると死ぬよ! 起きて!」


 瑠衣の大声にびくっと肩を震わせた少年は、彼女の想像以上の速度で立ち上がり、駆け出した。だが、乱雑に捨ててあったモニターに蹴躓けつまずいて、頭からゴミの山に突っ込んでしまった。

 その顛末てんまつを呆然と見ていた瑠衣だったが、はまってしまって動けない様子の彼が何だかおかしくて、笑いながら声をかける。


「大丈夫? これ、捕まって。もっと右!」


 じたばたと、もがく少年の手元にほうきの柄を近付けると、彼はゆっくりと、だが、しっかりと木の棒を掴んだ。瑠衣が力を込めて引っ張ると、ガサガサと崩れる袋と共に小柄な少年が転がり出てきた。

 ぺたりとあぐらをかいたまま、動かない彼の顔は長い前髪で隠れてよく見えない。明らかにオーバーサイズのTシャツに、細身のデニムが酷くアンバランスだ。見たところ、荷物は持っていないようだった。


「あー、あのね」


 口を開きかけて、瑠衣は黙った。一体、何を言おうというのだろうか、と我に返ったのだ。


「動けるみたいだし……私、行くねぇ。今日も暑くなるらしいから、気を付けて! じゃあ」


 思わず助けてしまった瑠衣だが、これ以上関わると、何が起こるか分からない、と思い直した。だから、彼に向かって早口にまくし立てその場から立ち去ったのだった。

 彼がどんな表情をしているか確かめもせずに。


「はー。……めんどくさい、めんどくさい」


 そんな風に呟いてみると、何だか急にどっと疲れを感じた。自宅の前まで来ると、ひとりため息をつく。築三十年超えの古いアパートの階段は鉄製で、昇るたびに、カンカン、と大きな音がした。


 瑠衣が上京して学んだこと。それは感情だけで人助けをしてはいけない、ということだ。

 いつだったか、道でしゃがみ込んでいたおじいさんを心配し声をかけたところ、お礼の代わりだ、とも言わん勢いで突き飛ばされ、財布を盗まれたことがあった。

 ここは、たとえ誰かが電車に飛び込んだとしても、それに舌打ちをするような人間が集まる場所なのだと肝に銘じたはずだった。


 告げる相手もいないのに「ただいまぁ」と言いながら、玄関のドアを開ける。サンダルを脱ぎ捨て、あらかじめ準備しておいた部屋着を確認してから彼女はシャワーを浴びる。傷にしみるが、熱めのお湯は心地よかった。

 仕事中はエアコンの効いた部屋で過ごすため、暑さ寒さに不自由したことはない。だが、帰りの十五分でこれだけ汗だくになる。ヒートアイランド現象という言葉の意味を、身を持って知らされる季節がやってきた。

 扇風機の前で涼もうと、タオルで髪を拭いながら、玄関横を通り過ぎようとした瑠衣の足がふっと止まる。いつかの男が忘れていったビーチサンダルに目が入ったのだ。

 あの裸足の少年の、痩せた頬がふっと瑠衣の脳裏によぎる。


「……」


 ──人助けなんて、二度としないと決めたはずなのに──


「もう……。なんだっていうのよ、まったく!」


 ビーチサンダルを掴んで外に出ると、焼けるような陽射しに襲われる。せっかくシャワーを浴びたというのに、自分は何をやっているのだろう、瑠衣はそう思いながらも、足早にゴミ捨て場へと急いだ。

 手のひらをかざして前方を確認すると、すっかりゴミの袋はなくなっていた。しかし、向かいの花壇の縁に放心したように座っている少年の姿があった。


「まだいる……」


 ほっとしたような、そこにいて欲しくなかったような、複雑な気持ちで瑠衣は彼の前に立った。


「ねぇ、本当になにやってるの?」


 腰に手を当て、声をかけるとふたつの瞳がこちらを向いた。こうしてよく見るまでは気付かなかったが、彼の瞳の色は胡桃くるみ色とでも言えばいいのか、一般的な日本人のそれとは違っていた。陽に透かされた髪はより一層、色素が薄く見え、金の糸のようだった。

 彼は硬直したように瑠衣を見上げたまま、動かない。言葉が通じていないのではないかと、瑠衣は一瞬不安になった。


「履くものないなら、これ履いていいよ。あげる!」


 少年はぐいっと差し出されたサンダルと、瑠衣の顔とを交互に見ると、困惑したように目を伏せる。彼に無理やりにサンダルを押しつけると、その足元にしゃがみ込む。


「ねぇ、ちょっと見せてごらんよ、足。どれどれ……」


「……え、いや。やめてください」


 無理やりに足首を掴んで持ち上げると、抵抗の言葉を漏らす。その声は、思っていたよりもキーが低く、聞き取りにくい。


「喋れるんじゃない。うわー、腫れてるよ? 消毒しないと……」


 親指の付け根に、何か踏んだらしい深い傷がある。これでは歩けないに違いない、と瑠衣には分かった。


「あの……大丈夫です」


「大丈夫? ウソだー」


 瑠衣が唐突に手を離すと、彼の足は当たり前のように地面に落下し、少年は微かに顔を歪める。


「痛くって歩けないんじゃないの? だからずっとここにいるんでしょう?」


「……ぅ」


「え?」


「違う……。や、ちがくない……けど……」


 そこまで言うと彼は黙ってしまう。洗い晒しの髪が彼女の肩を濡らし、少年のこめかみから汗が流れてぽたりと落ちた。しばらく待っていた瑠衣だが、待ちきれずに口を開く。


「けど? けど、どうしたの?」


「……回収……してもらえるかなって」


「回収……??」


「ゴミだし、おれ」


「…………ん??」


「でも……どいてって、言われて」


「……そんなの当たり前じゃない」


「燃えるゴミの日みたいだったから……おれ燃えるし、多分……」


「あの……さ。確かにね? 私も燃やせばなんでも燃えるとは思うのよ。でも、なんていうか……そんなこと言うの、おかしいよ。で? 本当は歩けるの? 歩けないの?」


 瑠衣の問いかけに、彼は「わかんない」と小さな声で答える。

 そんなことより陽射しが暑い、暑すぎる! 瑠衣はそう叫びたくなる。待つことに疲れてきた彼女は、くるりと向きを変えると少年に背中を向けた。


「はいどうぞ! おんぶするから」


「は……」


「暑いからね? きみ、話すの遅いし、このままここにいたら、私が溶けちゃうの」


 戸惑っているらしい少年を振り返ると、断る隙を与えないように、瑠衣は声を大きくする。


「早くして! ほら!」


 先ほど強引に渡したサンダルを引っ掛けた手が、怖々と瑠衣の首の前で交差される。それを確認すると、少年の太ももに手を回し「うんしょ!」と立ち上がった。彼は骨太なのか、見た目よりも重かった。よろけかけて「おっと」と、瑠衣は呟く。

 しかし、ハイヒールさえ履いていなければ、転ぶこともない瑠衣には、これくらいの重さは大したことではない。問題なのは、少年を背負えるかどうかではないのだ。


 成り行きとはいえ、そして少年とはいえ、見ず知らずの男を家に上げようとしている。結局、おじいさんに突き飛ばされた頃と、何も変わっていないのかもしれない。

 人とは学習しない生き物じゃのう、と自らをあざけりながら、瑠衣はゆっくりと階段を昇った。


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